山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

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 ローマの信徒への手紙16章1~23節
1)ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。
2)どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です。
3)キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。
4)命がけでわたしの命を守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。
5)また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。わたしの愛するエパイネトによろしく。彼はアジア州でキリストに献げられた初穂です。
6)あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく。
7)わたしの同胞で、一緒に捕らわれの身となったことのある、アンドロニコとユニアスによろしく。この二人は使徒たちの中で目立っており、わたしより前にキリストを信じる者になりました。
8)主に結ばれている愛するアンプリアトによろしく。
9)わたしたちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ、および、わたしの愛するスタキスによろしく。
10)真のキリスト信者アペレによろしく。アリストブロ家の人々によろしく。
11)わたしの同胞ヘロディオンによろしく。ナルキソ家の中で主を信じている人々によろしく。
12)主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した愛するペルシスによろしく。
13)主に結ばれている選ばれた者ルフォス、およびその母によろしく。彼女はわたしにとっても母なのです。
14)アシンクリト、フレゴン、ヘルメス、パトロバ、ヘルマス、および彼らと一緒にいる兄弟たちによろしく。
15)フィロロゴとユリアに、ネレウスとその姉妹、またオリンパ、そして彼らと一緒にいる聖なる者たち一同によろしく。
16)あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。
17)兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。
18)こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。
19)あなたがたの従順は皆に知られています。だから、わたしはあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく、悪には疎くあることを望みます。
20)平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。わたしたちの主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
21)わたしの協力者テモテ、また同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなたがたによろしくと言っています。
22)この手紙を筆記したわたしテルティオが、キリストに結ばれている者として、あなたがたに挨拶いたします。
23)わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオが、よろしくとのことです。市の経理係エラストと兄弟のクアルトが、よろしくと言っています。†


 パウロはローマの信徒への手紙の終わりに多くの兄弟姉妹の名前を列挙しています。

 これは当然、パウロが生きていた当時、ローマの教会とその関わりにあったキリスト者の名前です。


 この事からわかるのは、こうした教会につながる人たちが、いわゆる当時の常識であった社会的な地位、男女の性差など、色々な社会的制約を超えて、「キリストにある兄弟姉妹の関係」という、すなわち「教会」を形成していたという事実です。

 教会が教会であるための重要な要素が、まさにパウロがこの手紙で列挙している人たちに表れているように、「イエス・キリストの兄弟姉妹である」という点にあると思います。

 そこでは社会的地位や、金持ちと貧しい人、あるいは自由人と奴隷、夫と妻というように、人間を隔てる壁のようなものがありました。しかし、パウロはそうした当時の社会的、この世的な差別・区別を超えて、「わたしたちはどこの誰であろうとも、信仰によって、同じ主イエス・キリストにつながる兄弟姉妹として同じである」と信じ、まさにそのように行動していたのです。


 その意味で、「牧師」は教会の「リーダー」として、誰よりも御言葉に忠実に仕えることを通じて、すべての人に仕えることを通じて、他の兄弟姉妹によって「牧師」とされるのであって、「牧師」は、神からリーダーとしての権威を受けているから牧師なのではありません。

 そこには注意が必要です。

 パウロは17~18節のところで教会の人たちに忠告をしています。

 パウロは「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。」と、かなり厳しい言い方で批判していますが、「こういう人々」とは、まさに「教会を私物化する牧師」であって、「教会において権力・権威の頂点に立とうとする牧師」であると言うことができるかと思います。


 このところのパウロの言葉に見るのは、そうした「上からの言葉」ではなく、「自分自身もまた、あなたがたと何も変わるところのない同じ兄弟姉妹だ」という理解です。

 だからこそ、教会において、そうした何かしらの「権威」「上下関係」「能力・才能(カリスマ)」が言われるようになったら、注意しなければなりません。教会の中で、色々な要素をもって「信徒と信徒の差」(たとえば霊的に優れている、賜物がある、など)が言われるようになると、それは権威主義の始まりにすぎません。


 教会の悔い改めは火事と一緒で、初期消火の段階であれば自分たちでなんとかできますが、それが大きくなればなるほど人間にはどうすることもできなくなります。最終的には、「不祥事」という形で幕引きするわけでしょうが、それによって誰もが悲しみ傷つくことになります。

 特に、牧師がそうした方向性を見誤った場合、牧師は自分の向かっている方向性が正しいと信じ込んでいますので、大きな問題となります。


 それはどこの誰かがという事ではなく、わたし自身、常にそうした弱さがあるという自覚を持っていても、中々気づかないこともありますから、よほど周りの人たちが注意して見ていないと、ひとりの注意力にも限界があります。

 その意味で、牧師ほど罪の誘惑に陥りやすいクリスチャンはいません。それはわたし自身を含めて、そう思いますし、常に、気を付けていたいと願うところです。 

 ローマの信徒への手紙15章1~2節
1)わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
2)おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。

 ローマの信徒への手紙15章14~16節
14)兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。
15)記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、
16)異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。

 
 ローマの信徒への手紙15章は、全体としてはパウロの使命やローマにあるキリストの教会の人たちに、いずれ自分がそちらの教会に行くことを考えていることを伝えています。しかし、それは献金を携えてこれからエルサレムに行くという、その出来事の後に、パウロの逮捕という全く思いもしない形でローマに行くことが実現するのです。

 さて、このローマの信徒への手紙15章において、これは先の14章における内容の続きとなりますが、「キリストの教会」は、まさに「キリストのものである」という点が重要です。

 すなわち、教会は牧師の私物ではないのです。

 たしかに、単立教会や開拓伝道の場合に、牧師の住まいを礼拝堂として使うような場合、なかなかそうした境界線がはっきりしないこともあります。

 教会が法人格を取得するまでは、教会として、つまり「法人」として銀行口座を作ったり、動産・不動産の売買を行うことはできません。

 そのため、主に開拓伝道の場合において、牧師が個人名義でマンションの部屋の賃貸契約を結び、当然、その支払いも牧師の個人名義で行われるわけです。

 その関係で、ゼロから教会を運営していくためには、どうしても「牧師の家計」と「教会の会計」との境界線が曖昧にならざるを得ないのです。たとえば、そうしたマンションの一室を借りて、そこで礼拝を考えるとわかりますが、たとえば水道代や電気代など、単純にどこからどこまでが教会で、どこからどこまで牧師の家計か判断できないことが起こるのです。

 ですから、そうした開拓伝道の時代というのは、そうした会計が曖昧な状況で進むことがどうしても避けられないのです。

 しかし、次第に教会が大きくなり、規模が大きくなってくると、やはりそうしたところをキチンとして考えていかなければなりません。その時に、教会が本当の意味で公的な存在として、まさに「キリストの教会」となることができるかが問われてくるのです。


 パウロはこの15章1~2節のところで、教会は「強い者」、すなわち「能力のある人」たちが自分たちのやりたいようにやっていいところではないと言います。

 たとえば、これはどこの教会でも当てはまるかと思いますが、教会では「奏楽者」なる奉仕者がいます。

 もちろん、奏楽に限らず、他の様々な奉仕についても同じですが、「奏楽の奉仕」とは、すなわち皆さんが礼拝で賛美歌を歌う、その伴奏を行う役割を指しています。

 教会の中で音楽を演奏することは、毎週の礼拝においても行われるようにごく自然なこととして行われます。

 時に、そうした奏楽者で音楽的な才能のある方がそうした奉仕をされるようになると、自然と、礼拝賛美に音楽的に力が入るようになり、自然と、そうした音楽の才能の高い人たちが集まってくるようになります。

 教会によっては、そうした音楽に打ち込む力が非常に強くなり、それこそ礼拝賛美に音楽的にプロ級の人たちが加わるようになります。そして、そのうち、そうした音楽的な熱意が高まり、それこそ「教会の宣教の業だ」と思い込むようになり演奏会をはじめ、色々な形で活躍することになります。

 
 わたしたちは、多くの場合そうした教会を見て、若く、音楽の才能の豊かな人たちが教会に多く集まり、素晴らしい演奏や礼拝音楽を奏でてくれる教会として、それを「素晴らしい教会である」と感じるのではないかと思います。

 しかし、パウロはそうした事について、決してそうしたことを全面的に否定するわけではありませんが、しかし、言い方を変えれば、パウロは「才能のある人は、そうした才能のない人を助けなさい」と勧めているのです。

 それは、音楽をひとつ例に挙げれば、教会には音楽的に才能のある人もいれば、音痴な人もいます。パウロは、そうした状況において、音楽的才能のある人が音痴な人を指導して、教会の全体としての音楽的なレベルを上げることを目的としてはならないということを言っているのです。

 むしろ、音楽的に才能のある人は、音痴な人に合わせて、みんなで一緒に神さまを礼拝し賛美できるようにすることを大切にしなさいと言っているのです。


 わたしたちの生活する社会は弱肉強食の世界です。そこにおいては強い者が生き残るのです。

 しかし、キリストの教会はそうではありません。強い者の強さ、才能のある人の才能は、むしろ、そうした強さや才能のない人たちを支えるため強さであり、才能であるというわけです。

 ですから、教会において、必要以上に音楽的なレベルを上げることは、教会の本分ではありません。

 そうした奉仕に限らず、信仰的に強い人は、信仰的に弱い人を支えるための強さなのです。自分たちだけ信仰的に強くなることを目指すのは、それはまさに荒れ野におけるサタンの誘惑と同じなのです。


 そして、そのためには互いに愛し合う事と同時に、もし、教会で間違いが起こった場合には、互いにそのことを正していく、そうした公平さ、中立さ、正しさが求められるのです。

 このことは口で言うのは簡単ですが、実際は非常に難しいことです。


 特にプロテスタント教会では「罪をゆるすこと」が奨励されます。

 何かしら問題が起こったとしても、「無条件にゆるしなさい」という信仰的な心のストッパーが働くのです。


 しかし、それは一見して正しいようで正しくありません。

 わたしたちは不正を知った上で、不正を行うことをゆるす、すなわち「不正を許可する」ことをしてはいけないのです。

 その意味で、教会の中で「罪をゆるす」とは、個人のプライバシーに注意しながら、いったい何が原因でどういう結果になったのか、そうしたことが明らかにされた上で、互いにそのことの責任を負いながら、お互いの罪をゆるすということが為されることが求められているのです。

 それはイエスさまが「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(マタイ18:15)というふうに言われている言葉にもあらわれています。

 しかし、現実問題として、こうしたことが教会の中で自然とできるためには、牧師をはじめとして、普段からの罪の悔い改めが非常に大事になってきます。

 なぜなら、わたしたちは「小さな罪」であれば、それを告白することも容易く、悔い改めることも容易ですが、それが段々と大きくなるにつれて、告白することも、悔い改めることも難しくなっていくからです。


 キリスト教会で起こる様々な問題がありますが、なぜ、そこまで事態が深刻になるかといえば、まだ事態が深刻でない状況で、そうした罪の告白と悔い改めがなされなかったからです。

 

 犯した罪が「小さいから」と言って、それを放置すると、その罪はだんだんと大きくなって、ある時を境にして、その人にとって、もうどうすることもできなくなるのです。

 それは、昨今よく聞く、「危険薬物への依存」と同じです。

 「ちょっとだけなら」という誘惑が、甘い考えが最も危険なのです。

 教会における人間の罪も同じです。その罪が小さいうちは、互いに罪を告白して、悔い改めることが可能ですが、そうした罪を放置し、「なあなあ」で済ますことを続けると、結局のところ事態はますます深刻化し、最終的には教会の滅びへと進んでいくのです。


 キリスト者が教会を滅ぼすとは、普通は考えられないことです。

 ところが、そうした考えられないようなことが、実際の教会の中では起こっているのです。


 それはなぜでしょうか?

 理由はただひとつ、「神さまの言葉を聞いていない」、つまり、「イエスさまの言葉やパウロの言葉を聞いているようで聞いていない」 ということです。

 しかも、それは決してそうした問題を起こした教会やそうした人たちだけの問題ではありません。わたし自身、常に、そうした危険性と背中合わせで、一日一日を過ごしているのです。

 神さまがカインに対して言われた言葉が、まさにそうしたわたしたちの真実を示しています。


 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記4:6~7節)
 

 ローマの信徒への手紙14章7~10節
7)わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
8)わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
9)キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
10)それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。

 教会は一つの信仰共同体です。

 ところが、そもそも教会は、各個の人が、共通の信仰・信条によって、それに同意をして集まったものではありません。

 たとえば、わたしの属する「ナザレン教会」は「ナザレン教会の信仰告白」があって、当然、教会に集う人たちは、すべての人が「ナザレン教会の信仰告白」に同意し、そうした決断をもって教会に集まっているかといえば、必ずしもそうした人たちだけによって教会が形成されているわけではありません。

 その意味で、いわゆる「組織」は、当然その組織のルールがあり、その組織のルールに則って、参加している者たちは、その思考を制限されるわけですが、「教会」はかならずしもそうではありません。

 なぜなら、教会の礼拝にはすべての人が招かれているからです。


 そもそも、教会が教会員だけのものだとすれば、説教で語られるイエス・キリストの福音は、そうした教会員だけが享受すればよいものなのでしょうか?

 もちろんそうではありません。イエス・キリストの福音はすべての人に向けて語られる言葉であって、だからこそ神の言葉であるわけです。

 
 ある牧師が礼拝に来ている人に対して、「あなたは教会にふさわしくない」とは言えず、また、「あなたこそ教会にふさわしい」とも言えないのです。

 その意味で、毎週の礼拝においては、牧師もまた、そうした神さまによって招かれている者の一人でしかなく、何かしらの権限を持っているわけではないのです。

 神さまの御前においては、ひとりひとりは、一個の人間に過ぎず、牧師や奏楽者など、役割の違いこそありますが、すべての人が神さまによって礼拝に招かれ、そして、共に神さまを礼拝するその恵みに招かれているわけです。


 その意味で、「すべての人が礼拝に招かれている」以上、それは信仰の差異によって、「あなたは礼拝にふさわしい」「あなたは礼拝にふさわしくない」とは、人間は言うことはできないのです。


 つまり、そのことの理解に立つのであれば、教会も礼拝も、すべてが神さまのもの(この世的には当然、土地建物に対する所有者というのはありますが)である限りは、そこにおいて重要なのは教会に集うすべての人が神さまの御前において平等であり、公平である必要があるのです。

 教会には信仰歴の長い人もいれば、まだ神さまを信じていない人もいます。

 もちろん、洗礼を受けている・受けていないということで、たとえば信徒とそうでない者とで、教会総会における選挙権・被選挙権があるないといったものの差異はありますが、そうしたことが「差別」に相当するかというとそういうことではありません。

 教会もこの世にある一つの組織である限りは、そうしたこの世に属する以上、組織としてのルールが必要です。

 教会が教会であるための大事な点は、信徒でない者も信徒も、また牧師も、教会の中でそうした組織のルールに則っているか、何かしら公的なもの・私的なものが混在していないかという点が重要なのです。

 キリスト教会は、その意味で、常に公平であること、公的であることが求められます。

 そこに私情をはさむことは、なるべく避けなければならないのです。


 いくらその人が能力があるからと言って、あまりその人ばかり優遇することは良くなく、また、だからと言って、苦手な人に苦手なことを強要することも良くありません。

 こうしたことは教会においては実に難しいところです。


 ローマの信徒への手紙14章17~19節
17)神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
18)このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
19)だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

  パウロの生きていた時代において、ローマの都市に生活する人たちは、皇帝礼拝を義務付けられていました。そこにおいては、たとえば神の像(皇帝の像)に肉と御神酒を捧げて、それを食べることが求められました。

 当時のキリスト者たちは、信仰においてそうした偶像に備えられた肉を食べることを避けることのできる人もいましたが、ある程度の役職に就くような人は、上役たちの監視の目があって、ちゃんと皇帝礼拝をおこなったかどうかチェックをされていたのです。

 そうしたこともあって、パウロは、偶像に備えられた肉を食べることについて、ローマの教会人たちにどうしたらよいか手紙で答えているのですが、そうした肉を食べることによって罪を犯し、救いからもれてしまうようなことはなく、しかし、だからといってそうした偶像礼拝をどんどん行うことは求めないことをパウロはこのところで説明しているのです。

 そして、ここに示されている大切なことは、神の国、すなわち地上におけるキリスト教会は、まさにこの世的な飲み食いによって培われるものではなく、聖霊によって与えられる義(正義)と平和と喜びによるものであることをパウロは示しているのです。

 そして、そうした正義と平和と喜びに満ちた教会の姿は、この世において神に喜ばれるように、この地上においても他の人々から信頼されるものとなることをパウロは言っています。

 つまり、教会がこの世において教会である限り、まわりの人々は教会のことを信頼することになるというのです。


 その意味で、キリスト教会が教会として、近隣の信頼を得ることは、その教会がどのような教会であるのかを知る、ひとつのバロメーターになるというところでしょう。

 「火のないところに煙は立たない」わけであり、当然、人々から信頼される教会は、神と人の前にあって、正しい教会であるといえるでしょう。

 しかし、それは、必ずしも「教会員の多寡・献金の多寡」とは相いれないということを付け加えておきます。
 


 ローマの信徒への手紙13章1節
1)人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。


 パウロによる信仰義認という福音は、一方においてそれを極端に解釈し、まさにイエス・キリストを信じ告白した者は、まさにイエス・キリストの救いによって「あらゆることから自由である」と信じる人々を起こしました。

 パウロはそうした誤解を解くために、 ローマの信徒への手紙12章以下のところで、キリスト者というのは、イエス・キリストの救いによって罪から自由とされたのであるが、しかし、だからと言って、「罪を犯すことまで容認されるわけではない」ということを説明しました。

 そして、そうしたキリスト者としての生活は、たとえばフィレモンへの手紙に登場する逃亡奴隷のオネシモについて、彼はフィレモンの所有する奴隷であったところ、主人であるフィレモンに対して損害を与え、それが原因となってオネシモはフィレモンの家から逃亡します。当時の常識では、逃亡奴隷は下手をすれば処刑されます。

 このオネシモという逃亡奴隷は、経緯は不明ですが、パウロのところに身を寄せ、信仰告白をしてキリスト者となり、パウロの身の回りの世話をするようになるのです。

 ところが、パウロはこのオネシモが実は、自分の弟子であるフィレモンの奴隷であり、そこから逃亡してきたことを知り、パウロはフィレモンに対して、オネシモの犯した罪を許し、しかもオネシモを奴隷としてではなく、同じ信仰の兄弟として受け入れて欲しいということを手紙で書き記したのです。

 すなわち、このオネシモのケースを考えると分かりますが、オネシモは信仰を持ったとして、当時の社会としてはあくまでも奴隷に過ぎないのです。

 今日の教会においては、社会的な地位に関係なく、また性別に関係なく、信仰者は互いに兄弟姉妹です。ところが、当時の社会状況においては、だからと言って奴隷が信仰を持ったから、自分の主人であるフィレモンと肩を並べることができるかというと、そう簡単ではないのです。

 しかし、パウロは究極的には、まさに社会的な身分や性別の違いなく、すべての信仰者が互いに等しく兄弟姉妹であるということを信じていますが、しかし、その理想の実現のために、今はこの世の権威に対しては従順であることを求めるのです。

 それは見方を変えれば、キリスト教の信仰は、決して反体制的なものではなく、むしろ、社会において秩序を維持する上で非常に有益であることを示そうとするのです。

 しかし、それはそうしたこの世的なものが永遠に続くことを意味しません。

 むしろ、ローマの信徒への手紙13章11節以下において、イエス・キリストの再臨が近づいているから、その再臨が実現するその時まで、 イエス・キリストの信仰によって、この世で神に端を発する権威に従順に生きることが大切であることをパウロは言うのです。

 ローマの信徒への手紙13章11節
11)更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。



 そして、キリスト者としてもう一つ大切なのが、互いに愛し合うという、隣人愛の実践です。

  ローマの信徒への手紙13章8~10節
8)互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。
9)「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
10)愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。 

 パウロは、キリスト者の信仰生活において重要なものが、まさにイエス・キリストの愛によって救われた者は、イエス・キリストの愛に従って生活するべきであり、当然、そうしたイエス・キリストの示された隣人愛に生きることであるというのは至極当然のことです。

 それはキリスト教会の中においても重要です。

 キリスト教会は、単なる「信仰」という嗜好が共通する人たちの集団ということではありません。

 キリスト教会は、まさにイエス・キリストがその中心に立ち給う信仰共同体であって、そこにおいては互いに愛し合うということが行われているはずであるのです。

 その意味で、キリスト教会は同好会ではありません。また、私的なものでもありません。

 人によっては、そうした教会はどことなく味気ないものと映るかもしれません。

 しかし、教会が公的な性質を持ち、しかも隣人愛によって形成される限りにおいて、そこには一定のルールがあり、また個人の欲望を満足させる場ではないのです。


 ところが、「そうした教会はつまらない」と、まさにキリスト愛好会・同好会のような教会を目指す教会があります。一見すると、そうした教会は人間的に面白く楽しいものでありますが、しかし、本質的なところにおいては肝心のものが欠如してしまっていることになります。それは、教会の中心は、人間個人ではなく、イエス・キリストであるからです。

 このことは非常に分かりにくいことですが、それは教会暦が長くなれば長くなるだけ、そのことが理解できるようになるであろうと言っておきます。

 
 


  
 

 ローマの信徒への手紙12章1~8節
1)こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
2)あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。
3)わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。
4)というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、
5)わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。
6)わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、
7)奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、
8)勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

 パウロは、キリスト教徒としての基本的あり方を12章1節において、「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。」として勧めます。

 すなわち、古い言い方ですと、すべてを神にささげる「全(まった)き献身」であって、それこそがキリスト者がなすべき「(神)礼拝」であるというわけです。

 それは具体的にはどういうことかと言えば、何かを目的として神を礼拝するのではなく、また何かを目的としてキリスト教徒であるのではなく、それこそ朝起きてから夜、寝ている間もキリストに倣う生き方をしなさいということであるのです。

 わたしたちの礼拝は神を拝することが目的であって、それ以外の目的はありません。

 ところが、ともするとキリスト教会において、信徒は教会を大きくする目的のために、あるいは教会の収入を増やす目的のために礼拝や各種の集会に出席することを要求される場合があるのです。

 もちろん、世にあるキリスト教会で、そこまで馬鹿正直にこの世的な目標を謳う教会もありません。

 だからこそ、そこにはキリスト教会独自の、実に福音的な覆いをまとった、悪魔的用語が用いられるのです。

 それは、具体的には以下のようなものです。

 「(福音)宣教のため」「神のため」「イエスさまの栄光のため」「まだ救われていない人のため」・・・。


 これらの言葉は、よく聞けば多くのキリスト教会で聞かれる言葉ではないかと思います。

・「神のために、あなたがたは礼拝を守らなければならない。」
・「イエスさまの栄光のために、皆さんががんばってイエスさまの福音を伝えないといけない。」
・「まだ救われていない人のために、みなさんが、知っている人を教会に招きましょう。」・・・等など。

 そもそも礼拝を主催するのは誰かといえば、牧師ではありません。
 
  牧師も、また信徒と同様に神さまによって礼拝に招かれ、御言葉を取り次ぐ奉仕を担っているだけなのです。

 礼拝を主催するのは神さまであって、神さまが礼拝を取り仕切っておられるのです。

 当然、礼拝に参加するのは、礼拝を主催される神さまの呼びかけに対する応答としての礼拝参加であって、それ以上も、それ以下も意味はないのです。

 それは、パウロが「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」と言っているとおりです。ところが、むしろ、キリスト教会は、下手をすると、「今の流行を理解しないと」「この世を理解しないと」「若い人たちに合わせないと」等々、「この世に倣う教会」の方が多いのかも知れません。


 加えて先の発言について、「神のために、わたしたちは礼拝を守る」というのであれば、礼拝における主従の関係が逆転していることになります。要は「わたしたちは神さまのために礼拝に来てやっているのだ。」という主張と同じになるのです。

 わたしたち人間の奉仕も確かに尊いものではありますが、問題は、人間の働きを強調するところには、そうした信仰的傲慢の罪に陥っていることが多いのです。そして、そうした発言は一見すると信仰深いように感じるかもしれませんが、およそよく考えてみれば、「神は無力である」ということを証明しているのと同じなのです。

 

 その意味で、パウロは、真の礼拝を、ただ礼拝に出席すること(人によってはそれも大変なのですが)ではなく、わたしたちが日々神の言葉によって生きることをもって、わたしたちがなすべき真の礼拝であるとするのです。

 ただし、それは決して「礼拝式そのものが不要だ」ということを言っているのではありません。

  パウロが直面してきた教会の問題は、まさにキリスト者が口だけ、見せ掛けだけのキリスト者であって、その発言と行動とがまったく乖離している事が多かったことに由来しているのだと思います。

 たとえば、パウロはそうした問題をコリントの信徒への手紙1 12章12節以下において同様のことを言っています。

 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(1コリント12章27節)


 
 ローマの信徒への手紙12章19~21節
19)愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
20)「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
21)悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
 
 パウロは、12章1節以下のところで、キリスト者は神のみ前にキリスト者として真実と愛をもって、偽りなく生きることを勧めます。

 ところが、そのようにキリスト者として真実に生きる人々に対して、必ずしも、全ての人がそうしたキリスト者を受け入れてくれるかというとそうではありませんでした。

 パウロの生きていた時代において、キリスト教は当時の常識からすればカルト的宗教と理解され、ユダヤ教から、またローマ帝国からも迫害を受けると共に、また教会内部においても、さまざまな問題をかかえていたのです。

 当然、そうしたキリスト者として真実に生きた人々の全員が地上においてその生涯が報われるのであれば良いですが、中には迫害のさなか、無残な死を遂げる者も存在したのです。


 では、そうした信仰者であるにも関わらず不幸にして無残な死を遂げたキリスト者を弔うためには、その他のキリスト者たちは、そうしたキリスト者を殺した者たちに対して、神の名によって報復することが、神の御前において良いことなのだろうか?


 これは、旧約聖書からの伝統によるものですが、キリスト教においても「報復は絶対禁止」なのです。

 なぜかと言えば、「人を呪わば穴二つ」という言葉があるように、報復は罪なのです。


 そもそも、旧約聖書の信仰において、すべての人は神さまによって創造された、神の似姿としての人間です。

 その神の似姿としての人間を手にかけて殺めるというのであれば、それは当然、神に対する反逆行為になります。

 そこで、旧約聖書いおいては、信仰者が報復によって罪を犯せば、当然、報復を果たしたとしてもその信仰者もまた神によって罪を裁かれることになるので、そうした報復も含めて、信仰者はあくまでも信仰者として生きることに努め、もし自分たちに対して悪を行う人たちが居たとしても、あくまでも神さまがその悪を行う人たちを処罰してくださるのを待つというふうに信じることを勧めたのです。

 そして、パウロはさらにそうした旧約聖書に言われていることを、更により信仰的に理解して、むしろ悪を行う人たちに対して善を行うことを勧めるのです。

 おそらくこれは、イエスさまの山上の説教における「愛敵の勧め」に、同様の信仰を見ることができるものと思います。

 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。(マタイ5:39)


 
 パウロはキリスト者が神のみ前において善であることが大切だと説きます。それは、「キリスト者であるから善」なのではなく、むしろ、「神の御前において罪を告白し、罪を悔い改める生き方をする」からこそ、神の御前においてそうした生き方が結果的に善とされるのです。

 その意味で、教会に行き、礼拝を守り、洗礼を受けたからキリスト者であるのではないことをパウロは言っています。 むしろ、その人の生き方の本質が、キリストと向き合う人生であるか否かにかかっていることをパウロはここで言っているのです。

 

パウロが活動していたであろう紀元50年ごろのユダヤ教


  ローマの信徒への手紙においてパウロが対峙している信仰とは、いわゆるユダヤ教(議論としてはユダヤ教も含みますが)ではなく、初代教会の信仰であって、自分の確信するところと初代教会の信仰において、何が自分たちの信仰において正しいものであるかという議論となっています。

 そして、それを図にして示したものが上記のものです。

 しかし、パウロはこれを初代教会の人たちに対して、「自分たちの信仰こそが正しいのだ」と主張しているのではなく、このローマの手紙は、ローマの教会の人たちに対して書かれていることからも、パウロの自分自身の信仰がまさにローマの教会の人たちと違いがないことを説明しようとしているものであることを頭においておかなければなりません。


 ローマの信徒への手紙 11章11~15節
11)では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
12)彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
13)では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
14)何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
15)もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。 

 パウロは「異邦人の救い」という事について、今や、神の憐れみによって、恵みによって、ユダヤ人が躓き、異邦人に救いが告げ知らされたということは、異邦人こそが神によって選ばれた「優れた民」であり、ユダヤ人は「滅ぶべき民」として選ばれたことであろうかと、異邦人が何かユダヤ人に対して聖なる、尊い存在なのだろうかと問います。

 当然、その答えは「ノー」であって、神の救いが「憐れみ」であり、「選び」である限りにおいて、それは神さまが神さまの権威をもって救いをあらわしてくださったのであって、それは血縁やその他のいかなる人間的な努力・才能、そういったものと無関係であることを、異邦人に対して戒めるのです。

 パウロは、それはユダヤ人に対して異邦人にねたみを起こさせ、最終的にはユダヤ人も神さまと和解し、その救いを受け入れ、異邦人どころかユダヤ人をも救うことを神さまは計画しているのだと、このところで説明するのです。

 
 そして、そのことは、当然、異邦人、すなわちキリスト教徒に対する、重要な信仰的戒めとなっています。

 すなわち、それは何かと言えば、神の救いが、まさに神の御心により、神さまの選びにより、憐れみによって異邦人に救いがあらわされたのであって、そのすべての功績は神さまにあるということです。

 つまり、キリスト者として、信仰者として救われた者は、自分自身の内に当然ながら、「自分が神によって救われる必然性を持っていない」ということであるのです。

 もし、仮に、キリスト教徒が「自分はまさに神によって選ばれる資質を持っていたのだ」と神と人の前で自負するようなことがあれば、それは神の救いをまったく無駄にするような行為であることをパウロは、キリスト者に忠告しているのです。

 その意味で、異邦人がユダヤ人よりも優れていたということではなく、ある意味で、それはまさに「神さまの御心」であり、言い方をかえれば「神さまの気まぐれ」というほど、それは「わたしたちには一片の救いの根拠も何もない」ことを言おうとしているのです。



 ローマの信徒への手紙11章30~36節
30)あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
31)それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
32)神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
33)ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
34)「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
35)だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」
36)すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
 
 パウロはそのことをまさに大きな驚きをもって、神の救いの御業が、まさに人類すべてを救済することを目的とする救いであって、それはまさに人間には理解しえず、究め尽くすことのできないものであることを賛美するのです。



 その意味で、キリスト教会は常に、自分たちが他の人たちよりも優れていると自認することは注意が必要ということです。

 キリスト教信仰は、救われた人が英雄になるものでなく、むしろ、イエスが弟子たちに言っているように、『イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」』(マルコ9:35)ということであり、それはわたしたちキリスト者は、まさに教会の外にいるすべての人に仕えるようにならないといけないことを示しているのです。

 その意味で、教会の中では、いかなる人間的な栄光をもあらわされることは好ましくないということになります。


 ところが、実際には、キリスト教会の中でこそ「この世的・人間的権威」をもって、信徒が信仰的教育を受けることが少なくありません。

 それはまさに初代教会の中で行われていた行為であり、パウロが対峙していた初代教会では、まさに「生前のイエス」との直接・間接的な関わりをもって、それこそが「イエスを証しする権威」「自分たちの信仰の正統性の保証」となっていたのです。


 みなさんの教会ではどうでしょうか?

 もちろん、中にはそのように権威をもって紹介される講師であっても、聴衆に対しては非常に謙遜な先生も多くおります。

 いったい何が教会的に正しく、間違っているか、そうした目を養うことは重要です。そうしなければ、わたしたちはいつの間にか人間的な、この世的な権威によってイエスを信じるようになってしまうからです。仮にそうなってしまっては、わたしたちが信じているところのイエスは本当の意味でのイエスではなく、イエスという名称をもった単なる偶像と同じということになります。

 わたしたちはそういう意味で、常に自分自身の信仰を省みなければなりません。日々、常に神のみ前に罪を悔い改めるとは、まさにそうした信仰の目を養うのに大切であるのです。そして、そうした罪の悔い改めをもってはじめてわたしたちは、自分自身を信仰的に謙遜であることが可能となるのです。

 自戒しつつ。

 

 ローマの信徒への手紙10章6~13節、17節
6)しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
7)また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。

8)では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
9)口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10)実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

11)聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
12)ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
13)「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 
 
17)実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。


 パウロはユダヤ教の信仰が「神の御前に正しいことを行うことによって、自分が神の御前に義とされる」ものであり、それは結果として「神の義」を求めるものではなく、「自分の義(正しさ)」を求めるものであることを指摘します。

 それに対して、パウロは本当の意味で正しい信仰とは、そうした「人間の義」ではなく、まさに「神の義」によって実現するものであることを指摘します。そして、キリスト教会とは、まさにこの「神の義」によって成立する信仰共同体であることをパウロはこのところで言うのです。


 パウロはそうした正しい信仰を持つ者は「誰が天に上るか」「誰が底なしの淵に下るか」と、心の中で思ってはいけないと注意をしています。これはいったいどういう事でしょうか?

 ユダヤ教において神のみ前に義しくあるためには、常に律法の示す基準によって物事を考え、行動する必要がありました。そのため、自分自身の物事の考え方の基準は常に律法であったのです。

 ところが、そうした物事を基準として考え行動することは、当然、そうした自分の内なる律法の基準によって、自分自身を省みると同時に、他の人についてもそうした判断基準をもって接するようになります。

 すなわち、それは福音書に登場する律法学者のように、誰かの発言や行動を見て、それが罪であるのか、それとも神の御前において義しいのか、そうしたことを常に考えるような信仰となっていたのです。


 つまり、パウロが言おうとしている「誰が天に上るか」「誰が底なしの淵に下るか」とは、「誰が神の前に正しい」「誰が神の前に罪人であるか」ということを心の中に思ってはいけないということであり、それは、たとえばキリスト者がある人を見て、「彼はクリスチャンだから救われている」とか、「あの人はクリスチャンではないから、救われない」というような事を心に思ってはいけないということであるのです。

 たとえば、ユダヤ教において罪とは、「律法に違反する」ということをもって「罪」と定められます。それは言い方を変えれば、そうした「具体的な行動」が伴ってはじめて「罪」と定められるのです。つまり、「姦淫の罪」は、まさに「姦淫」という具体的な行動があってはじめて、「姦淫の罪」と定められるのであって、直接そうした行動がなく、ただ心の中で妄想することは、ユダヤ教においては罪とはされないのです。

 ところが、イエスさまのそうした信仰的な倫理基準はそうしたユダヤ教の律法がそうした具体的な出来事がなければ罪に該当しないのに対して、「心の中で思ってもだめ」という非常に厳しいものでもあったのです。

 マタイ5:28
 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 つまり、パウロは、神の救いがまさに「信仰によって人を救う」ものである限り、信仰の力は、わたしたちキリスト者が他の人を裁くこと(つまり、人を裁ける存在は神しかないので)において、まさに自分自身に神の裁きを招くものとなることの注意喚起をしているのです。

 そして、そうした人間を罪から救い出す神の力は、いったいどこからくるのかと言えば、それはユダヤ人が信じるように、律法を人間が行うことによって実現するのではなく、あくまでもイエス・キリストを信じ・告白することをもって、すなわち信仰によって、神の力によって人は救われるのです。

 そして、キリスト者の救いがまさにそうした神の力である限りにおいて、その力の源はどこにあるかといえば、イエス・キリストを信じ告白することであり、それは具体的には、自分自身の罪の告白によって、イエス・キリストの御名によって実現するのです。



 すなわち、それは言い方を変えればキリスト教会のもっとも中心事項が何であるかをこの聖書箇所は示しています。

 それは、まさにイエス・キリストの救いが神の力であるからこそ、神の言葉を聞くことにその源泉があるのです。


 キリスト教会の礼拝とは、まさにわたしたちキリスト者もそうでない者も、礼拝を通じてわたしたちは神の言葉を聞き、そこにおいてイエス・キリストの御名によって自分自身の罪を告白し、悔い改めるのです。

 それが礼拝における中心的な事柄であり、まさにこの罪を告白することを通じてイエス・キリストを通じて与えられる罪の赦しの経験こそが、礼拝における喜びの源泉であるのです。


 わたしたちは、ただ感情的に、感覚的に、感動をすることが礼拝における喜びの源泉なのではありません。

 そうした、いわば一緒に歌い踊り、共通の高揚感を経験するのは、一種のシャーマニズムにおけるエクスタシー経験と同じです。

 そうしたものは、まさに聖書では出エジプト記32章に記される偶像崇拝と本質的には一緒です。

 出エジプト記32章17~19節
17)ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、
18)モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも/敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」
19)宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。
 
 礼拝は、それがまさに神の御前に出て神を拝する行為であるゆえに、わたしたちは自分自身が不完全な人間として神のみ前に出ることを意味します。それは、本質的には不可能な出来事であるのです。
 
 たとえば、強烈な太陽光線の前に黒い紙をおけばその熱によって紙は焼けてしまいます。

 罪人がなぜ神の御前に出ることができないのかといえば、まさにそういうイメージであるのです。当然、その紙が白く、強烈な太陽光線を反射するほどに綺麗なものであれば、紙は光を受けてなお焼けることはありません。

 それと同じで、本来、罪人が神の御前に出れば、その神の義しさのゆえに罪が焼かれてしまうわけです。しかし、イエス・キリストの御名によって罪を告白した者は、その罪を赦され、神のみ前に出ることのできる状態に変えられるのです。

 そして、そうしたイエス・キリストの執り成しがなければ、人間は神の御前に出ることは不可能であるのです。



 だからこそ、礼拝とは、まさにそれ自体が人間に対する神の救いを意味しており、そこにおいて神を礼拝するとは、自分自身の罪の告白をもってはじめて、正しく礼拝にあずかることができるのです。

 しかし、教会によっては、その「喜び」というのが、実に、人間的な、参加者の欲望を満たすためのものである時に、キリスト教会は間違った方向へと進んでいくわけです。


 それは、人間の栄光を求める礼拝であり、神を口実にして、実は自分たちが快いことが重要視されていたりするのです。


 多くキリスト教会を訪れる人は、何かしら自分の居場所を見出せない人であることがあります。

 そして、キリスト教会は、まさにそうしたこの世において居場所を見出せない人に対して、居場所を用意し与えることが、キリスト教会の宣教であるとする、そうした教会も少なくありません。

 礼拝や教会の奉仕を通じて、自分にやりがいを見出すことは、それ自体が間違っているわけではありませんが、それは実に注意が必要であるのです。わたしたちが、そうした注意を怠る時、わたしたちはまさに、自分の心地よさのゆえに、すなわち自分の腹(欲求)を神として、イエス・キリストの内にまさに自分が満たされていることを喜びとする、そうした方向に誘惑されてしまうことがあるのです。


 だからこそ、パウロは心の中で、誰が救われ、誰が滅びるのかというような事を考えてはいけないと注意を呼びかけているのです。

 わたしたちキリスト者は神を求める点において、何が神の御前に正しく、何が神の御前に間違っているかということを普通のこととして考えるようになります。それは決してすべてが間違っているわけではありませんが、そこには常に注意が必要なのです。


 クリスチャンが正しく、ノンクリスチャンが間違っている。教会でより献金をし、奉仕をしている人の方が偉い。教会の中に救いがあり、教会の外に救いはない、など。この世において、クリスチャンがまさに罪から救われたにも関わらず、隣人に対してそのように信仰的に裁き(心の中でそのように相手を見る)をすることによって、実は、自分自身をわたしたちは罪人に仕立て上げてしまうのです。

 その意味で、キリスト教会の中において、「正義」が叫ばれる時、そこには注意が必要です。

 
 キリスト者は「神の裁き」をもたらすために救われるのではなく、まさにイエス・キリストの福音を証しするために、キリスト者とされるのです。

 その意味で、わたしたちは、常に、まず心をイエス・キリストに向ける必要があるのです。

 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)


 あなたの行っている教会は、イエス・キリストを信じていますか? それとも、イエス・キリストのような何か別のものを信じていませんか?
 


 ローマの信徒への手紙9章19~33節
19)ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。

20)人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
21)焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

22)神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
23)それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

24)神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。

 
 パウロによれば、「神の救い」は、まずユダヤ人に対して律法を通じて明らかにされたが、結局のところ、ユダヤ人はそれを歓迎せず、今や、イエス・キリストの登場によって、「神の救い」は異邦人に対して示されたことをこれまでのところで説明します。

 そして、イエス・キリストによって救いが明らかにされたことは、同時に、二つの疑問を生み出しました。すなわち、1)イエス・キリスト以前の救いは無効となり、ユダヤ人は再び罪に定められることになったのか? すなわちイエス・キリストの救いによって異邦人に救いが開かれたことにより、ユダヤ人は再び神にその罪を責められるのか? 2)人の救いを決定付けるのが神であるなら、神の決定にいったい誰が逆らうことができるのだろうか? というものでした。

 神の御前におけるユダヤ人と異邦人とはいったい何者であるのか? 先にユダヤ人に対して救いが示されたのが神の御心であるのであれば、今やイエス・キリストによって異邦人に救いが示されたこともやはり神の御心である。

 すなわち、こうした神の救いの計画は、ユダヤ人と異邦人を比較してどちらが尊く、どちらが劣っているというようなことの目的のためではなく、神の御心はまさに人類全体を救済しようとする目的から、その救いは先にユダヤ人に示され、今や、異邦人に対しても示されたのであり、そのようにして救われる者が起こされるということは、まさに神が人類を憐れんでくださっていることの証拠であり、キリスト者とは、まさにそうした神の憐れみを人々に証明する器として立てられていることをパウロは言うのです。



 ローマの信徒への手紙9章30~33節
30)では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
31)しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
32)なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
33)「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

 しかし、そうなるとそこに疑問が起こります。
 すなわち、そもそも異邦人は「神の義」を求めていません。ところが、神の憐れみにより、イエス・キリストを通じて、信仰による「神の義」を得るようになったのです。ところが、ユダヤ人は神から与えられた律法を遵守することによって神の義をひたすら追い求めたのですが、結局のところ、本当の意味で神の義を得ることができませんでした。 そこで、なぜユダヤ人は神の義を得ることができなかったのでしょうか?

 その問いに対してパウロは、ユダヤ人は「信仰による救い」ではなく、あたかも「自分たちの行いによって、自分たちを救うことができる」と考えたからであり、それはまさにユダヤ人にとってはつまずきの石であり、妨げの岩であるが、しかし、それは信じる者は失望することがない。つまり、行いによって律法を全うしようとする者はイエス・キリストに躓き、しかし、イエス・キリストを信じる者は、その信仰によって救いに与ることができるのだというわけです。



 さて、このように見てきて、これがキリスト教会とどうかかわってくるかですが、パウロはキリスト教の救いがまさに信仰によるものであり、決して行いによるものでないことを力説します。

 そして、その信仰による救いですが、そこにおいてもうひとつ大切なのは、それがあくまでもわたしたち人間の素行や素質といったものではなく、あくまでも「神の憐れみ」によるものであることを力説します。

 それはすなわち、わたしたちの信仰とは、まさに神の憐れみという大きな力によって、そして、それはあくまでもイエス・キリストを信じる信仰によって実現するものであるということであるのです。


 ところが、キリスト教会では、「神が主導」と言いながら、わたしたち人間の努力として、人為的にキリスト者を増やそうとしていないでしょうか? あるいは、人為的にキリスト者を増やすために、さまざまな手段を用いていないでしょうか?

 そして、そうした人為的にキリスト者を増やすために、さまざまな手段を用いることを肯定するために、そこに何かしらの「キリスト教的思想」を展開・構築していないでしょうか?



 わたしたちがキリスト教を信じるのは、誰かをキリスト教徒にするためでしょうか?


 わたしたちは、神の憐れみによって、神に招かれ、イエス・キリストを通じた信仰告白をもって、キリスト者になるのです。

 そこにあって大切なのは、神の憐れみと神の招きであって、それは人為的にどうにかなるものではありません。

 宣教・伝道はキリスト教会において大変重要な事柄ですが、それがあまりにも突出する時に、あたかもユダヤ人が律法によって神の義を得ようとしたように、キリスト教会もそうした宗教的勧誘によって神の栄光を手にしようとする、そうした過ちを犯すようになるのです。

 宣教・伝道は、イエス・キリストの救いにあずかり、キリスト者に変えられた者が、まさに古いそれまでの生き方から、新しいイエス・キリストの命に生きるようになるそうした出来事であって、それ以上に何かを要求されるものではありません。



 ところが、キリスト教会がまさに自己目的化、あるいは牧師の野望?といった、教会員の欲望?など、さまざまな人間的な罪の誘惑によって、まさに「礼拝しているだけではダメだ。」というようなことが、キリスト教会の中において叫ばれるようになるのです。

 その教会の礼拝出席が増え、教会が大きくなるか、あるいは教会員が減って消滅するか、教会のその行く末を左右するのは、わたしは個人的には「神の御心である」と信じます。

 その意味で、わたしたちが求められているのは、まさにわたしたちがキリスト者として、神を礼拝することを人生の中心に置き、それぞれが置かれたところで信仰の生涯をきちんと歩むことであって、教会が大きくなる・小さくなるということは、信仰的にはまったく関係のない話ではないかと思うのです。

 世にあるキリスト教会は、多かれ少なかれ、自分たちの教会の規模を見て一喜一憂することが多いのではないかと思います。特に、ある程度の規模がある教会であれば、そんなに心配をしなくても良いとは思いますが、小さい教会は「大きくならねば」と思いわずらい、大きな教会は「さらに大きくなるためには」と思いわずらうことが多いように感じます。

 牧師の「牧師としての評価」を、一年間での受洗者数やその牧師の教会の規模によって評価し、評価されることが一般的になされる上で、そうしたこの世的な評価と無関係に、意識せずに牧会を行うことは、牧師にとってはなかなか大変なことでないかと思います。

 しかし、キリスト者はそのようなこの世的な評価を得るためにキリスト者になるわけではなく、そのためにキリスト者が起こされるわけでもありません。

 その意味で、教会が大きくなるのも、小さくなるのも「すべては神の御心である」として、牧師も信徒もあわてず騒がず、自分に与えられた信仰の生涯を全うすることこそ、わたしたちのキリスト者としての本分でないかと思うところです。

 最後に、イエスさまの語られた言葉を紹介します。

 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16:24)

 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:22)


 

 
 


 

 ローマの信徒への手紙8章1~10節
1)従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
2)キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
3)肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
4)それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
5)肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
6)肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
7)なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
9)神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10)キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。

 さて、パウロが教えるところのイエス・キリストの救いは、イエスを主と信じ、告白すること、すなわち、まさにわたしたちが、イエスの御前において自分自身の罪を告白する時に、わたしたちは主イエス・キリストがその告白されたわたしの罪を赦してくださるというその「罪の赦し」の関係において、すなわち、主イエス・キリストを信じる信仰によってわたしたちとイエス・キリストとが結ばれていると宣言します。

 それゆえ、当然、主イエス・キリストによって救われた者は、イエス・キリストとの関係性によって、その繋がりによって、その繋がりを拒否しない限りは決して罪に定められることがないと宣言します。


 本来、ユダヤ教において人が救われるためには、律法の完全な遵守が必要でありました。しかも、人間はそもそも神の御前において不完全であり、神の御前に全く罪を犯さないということは不可能でありました。それゆえ、そうしたわたしたちの不完全さ、すなわちパウロが言うところの「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」のゆえに、律法が実現できなかった人間の救いを、まさにイエスさまがその十字架とその十字架での死によって、すなわち「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」という事によって、わたしたちの罪は、イエス・キリストを信じる信仰によって赦されたのです。

 ところが、パウロの説明によれば人はイエス・キリストの救いの前後において、「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」とに分かれることを言っています。

 
 おそらく、わたしが個人的に感じているキリスト教会における問題の温床はひとつにはこうした点に由来するかと考えます。

 すなわち、パウロが言っていることからすれば、「イエス・キリストを信じて罪を赦された者は、以後、罪を犯すはずがない」というような理解です。

 その観点から言えば、まだ洗礼を受けていないクリスチャンでない人は「肉に従って歩む者」であって、当然、イエスさまを信じない、信仰告白をしないわけですから、そうした理屈から言えば「神に敵対する者」であって、罪人であるという事になります。

 ところが、ではキリスト教会を組織している教会員はすべてがキリスト者であり、当然イエス・キリストを信じているわけだから、キリスト教会の中では問題が一切起こらないのかというとそうではありません。

 事実、キリスト教会という組織の中で、しかも牧師や信徒によって様々な問題が起こっていることに対して、どのようにこのことを説明すれば良いのでしょうか?


 わたしたちは多くの教会において、「信仰」あるいは「イエス・キリストの救い」という事柄によって、人を「救われた人」と「救われていない人」という風に二分して考えます。

 たとえば牧師が、「伝道」(あるいは布教)を信徒に呼びかける事によって、当然、それは自動的に、人を「救われた人」と「救われていない人」とに区別することを、まさにキリスト教会が行っていることになります。

 キリスト教会は宗教団体であり、布教活動がその中心的な役割なので当然といえば当然なのですが、しかし、問題は、そのキリスト教会において認識されている「救われた」ということが何を意味しているかにあるのです。

 キリスト教における宣教、伝道は、客観的にいえば「教会員を増やそう」という活動です。

 これはよく言われる話ですが、「礼拝だけやっているだけではだめで、キリスト者は教会から出て行って宣教しなければならない。」ということがあります。


 すなわち、キリスト教会の中には、常に、「教会員を増やそう」というこの世的な教会の繁栄を目指す「肉の思い」と、「イエス・キリストの救いの喜びを多くの人に伝えたい」という「霊の思い」とが、実に渾然一体にまじりあった状況におかれる事が多々あるのです。

 当然、そうした教会においては、すべての人は「救われるべき人」であって、教会の中にいる信仰者である自分たちは「救われた人」であって、そこにはまさに「信仰」という基準によって人を理解する価値観に支配されてしまうのです。

 
 ところが、そうしたイエス・キリストの救いにあずかった人たちが形成するキリスト教会において、まさにニュースで紙面を賑わせるような事件が起こったりします。

 では、そうした今日のキリスト教会の中における問題を説明しきれないパウロの信仰は間違っているということなのでしょうか?

 
 先ほど、パウロの説明によれば人はイエス・キリストの救いの前後において、「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」との分けられるとしていました。

 問題は、今日のキリスト教会でいうところの「キリスト者になること」「洗礼を受けること」、あるいは「信仰者となって教会員になること」が、まさに「霊に従って歩む」という事と同じかといえば、そうではない点にあるのです。


 パウロの記述を見ればわかりますが、パウロは「クリスチャンになったら大丈夫だ」というようなことは言っていません。ところが、キリスト教会の中ではまさに「クリスチャンになったら大丈夫だ」というような事が言われるのです。

 すなわち、パウロの言う「肉に従って歩む人」「霊に従って歩む人」とは、共にキリスト者のことを言っているのです。

 つまり、人はたとえキリスト者になったとしても、そのイエス・キリストを信じる信仰により、すなわちその人とイエスさまとの関係性によって、キリスト者は「肉に従って歩む人」と「霊に従って歩む人」に分けられるということをパウロは言おうとしているのです。

 当然、そのような偽キリスト者はパウロが言っているように「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」と言っているように、その先にあるのは「肉の思いは死」という現実です。

 しかし、そうではなく、イエス・キリストの御前に自分の罪を告白するというイエスさまとの関係性の中に生きるのであれば、それは「神の霊があなたがたの内に宿っている」ということでありそのかぎりにおいて「あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」と、たとえ肉の思いを完全に取り去ることのできない弱いキリスト者であったとしても、まさにイエス・キリストの霊によって、わたしたちは生きることができ、それによって「命と平和」に至ることができるのです。
 


 キリスト教会が本当の意味においてキリスト教会となるためには、だからこそ、そこに集うキリスト者ひとりひとりのそうしたイエスさまとの密接な関係性が大切であることがわかります。それゆえに、そうした問題が起きるキリスト教会においては、まさにそうした信仰の面における欠如が、まさにそうした問題を引き起こすことの温床となるのです。


 ローマの信徒への手紙8章15~19節
15)あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
16)この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
17)もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。 
18)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
19)被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

 さて、パウロは、そうしたイエス・キリストとの正しい関係性により、それはまさにキリスト者の内にやどるイエス・キリストの霊により、わたしたちは、天の父を「アッバ、父よ」と呼ぶことが可能となるのです。

 それは、わたしたちがただ神を「父なる神」として信じることを意味するのではなく、むしろ、わたしたちキリスト者はわたしたちの内にその霊の働きにより、まさに父なる神の子どもとされていることをこのところで宣言するのです。
 それは、キリスト者にとって大いなる喜びであり、栄誉であるのです。


 ところがパウロの生きた時代はまさにキリスト者の受難の時代でありました。特に、使徒言行録を見るとわかりますが、使徒言行録8章1節に「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」とあり、サウロ、すなわち若き日のパウロはまさにステファノのキリスト者としての殉教を知っていたのでした。

 パウロはそうした時代にキリスト者として生き、そして、そうしたキリスト教徒に対する迫害の中を生きました。

 そして、まさにまだ自分がサウロと名乗っていた時に、自分自身がキリスト者を迫害したように、今や、パウロは自分自身が迫害される側に立ち、そうしたキリスト教徒が蒙る悩みや苦しみについて、希望を与えようとするわけです。

 パウロはわたしたちキリスト者がこの世で受ける悩みや苦しみについて、それは来たるべき、わたしたちが神の真正な子どもとして受ける恵みや祝福について、それらはこの世的な悩み苦しみに比べるほどのできないほどの大きな喜びであることを言っています。



 ローマの信徒への手紙8章31~34節
31)では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
32)わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
33)だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
34)だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 

 ローマの信徒への手紙8章38~39節
38)わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
39)高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 


 そして、まさに、わたしたちがイエス・キリストの霊の助けにより、まさにわたしたちが「神の子ども」とされている事が、この世において意味する大切な希望をここで語ろうとしています。

 それは、すなわち、この世界が、まさに神によって創造されたものであるなら、当然、その神の独り子であるイエス・キリストのとりなしによって、わたしたちが「神の子」とされているのであれば、いったい誰がわたしたちに敵対することができるだろうかというのです。

 それはわたしたちがこの地上において、正しくイエス・キリストとの関係に生きる限り、まさにイエス・キリストこそが、神がわたしたちの味方であることを約束し、そうした神の力強い守りの中にあって、わたしたちを神から引き離し、滅ぼすことができる存在は何もないと宣言するのです。

 それはこの世に生きるキリスト者にとっての大きな慰めです。


 わたしたちはキリスト者として、この世において決して安楽な生活をするとは限りません。むしろ、キリスト教の信仰に入ったがゆえに、それまであまり気が付かなかったようなことに悩まされることも多いのです。

 その意味で、キリスト教信仰における救いとは、いわゆる「ご利益」のような、自分にとって都合の良いものではなく、むしろ、イエス・キリストと共にある生涯としての祝福である限り、この世においてわたしたちは様々な出来事を経験させられ、しかし、喜ぶべきは、それらの出来事はひとつとして無駄になることなく、「主と共に歩む人生」として、大いなる恵みと慰めに満ちた生涯となるのです。

  

 ローマの信徒への手紙7章5~6節
5)わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
6)しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。 


 ローマの信徒への手紙7章18~25節
18)わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
19)わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
20)もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
21)それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
22)「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
23)わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
24)わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
25)わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 


 キリスト教会において、「救い」とはすなわち「イエス・キリストによる罪の赦し」として理解されています。

 当然それは教会の中において、「救われた者」「まだ救われていない者」という価値観を与え、たとえばナザレン教会のような「聖霊のバプテスマ」といったようなことを信じている教会においては、さらに「救われた者」はさらに「聖霊のバプテスマを受けた人」「聖霊のバプテスマをまだ受けていない人」というような区別をもたらし、場合によっては、さらにその先に「聖霊のバプテスマを受けた証拠」として、異言・癒し・預言といった一種の聖霊体験を強調するキリスト教会もあります。

 これらの「聖霊のバプテスマ」「異言」「癒し」「預言」といった事柄については、聖書に書かれている事柄でもあるので、「そうした事はあり得ない」ということはしませんが、教会において問題となるのは、こうした事柄が、その教会の中において信徒間、あるいは求道者と信徒との間における支配・被支配の仕組みとして用いられることが、教会が注意しなければならないことです。

 いわゆる奇跡によってその人の生き方が変わることはあるでしょうが、問題は、こうした「異言」「癒し」「預言」などの事を「行う事ができた」という事が、信仰においてどれほどの意味があるのかというところです。

 ある教会では、まさにそうした奇跡を行うことができることを信仰のバロメーターのようにして捉え、たとえば「ある信徒が祈りによって病気を癒すことができる」というような場合に、その信徒は教会の中において、求道者よりも偉いのでしょうか? あるいは「癒しを行うことのできない他の信徒よりも信仰的に勝っている」という事になるのでしょうか?


 こうした「異言」「癒し」「預言」といったような聖霊の働きによる一種の霊的な能力を指して「(霊的)賜物」というふうにキリスト教会では言ったりします。

 しかし、キリスト教会でいうところのこうした「賜物」は、「その人の能力」ではなく、その人に対する神さまの憐みによる一種の贈り物と同じで、そうした現象の源は神さまであって、その人の能力としては理解しないのです。

 すなわち、くだけた言い方をすれば、それは「超能力」とは異なるのです。

 
  つまり、キリスト教の教会において、求道者も信徒も、そうしたことが可能である信徒も含めて、基本的にはみな同じ「罪人」なのです。


 先に書きましたが、「キリスト教の救いはイエス・キリストによる罪の赦し」であって、それは何か人間を本質的に造りかえるものかというとそうではありません。

 イエス・キリストの救いによって変化するのは人間ではなく、神さまとその人との関係性が変化するのです。

 その意味で、まだ信仰告白していない人であろうが、既に信仰を持つようになった人であろうが、キリスト教会の中において、そうした信仰による上下の区別のようなものはないのです。

 当然、それはプロテスタント教会がそうですが、牧師の信徒との関係も、ただ役割が異なるだけであって基本的には皆が一緒という理解に立つのです(「万人祭司」と言います)。



 ところが、中にはそうした事柄をもって教会の頂点に牧師が立ち、その中において信徒の階級制のようなものを形成し、信徒を自由にコントロールしようという教会も中にはあるのです。

 もちろん、それはキリスト教会の中における組織化であって、決してこうした組織化がすなわち悪なのではありません。 問題は、そうした組織化が教会全体のためではなく、何か別の目的のために利用されたりする場合に、それは問題となってくるのです。

 その意味で、信徒数が多い教会ほどこうした組織的な課題が大きくなることは想像に難くありません。

 教会が大きくなることは悪いことではありませんが、しかし、そこにはサタンの誘惑も強力になってくることを覚えておく必要があるのです。



 さて、パウロはそうしたキリスト者とは、ここで言っているように、その救いの前と後とにおいて、何か人間が新たに造りかえられるのかというと、たとえイエス・キリストを信じ、その罪の赦しに与ったとしても、決して人間が「聖なる存在に変わるわけではない」ということを明らかにしようとしています。

 その意味で、キリスト者とは「救われた罪人」であって、本質において、わたしたちが人間である限り、「罪人」であることから完全に自由になることはできないのです(もし、そうであれば聖霊もイエス・キリストも不要になるので)。

 だからこそ、求道者も信仰者も本質においては共に「罪人」であり、その違いは、イエス・キリストによって罪の赦しを得ているか、得ていないかというような、神さまとの関係性の違いしかないということなのです。


 そうなると、キリスト教会とは、そうした人たちが互いに集い、共に神を礼拝するところであり、キリスト教会における組織化は、まさにそうした「共に神を礼拝する」という目的を実現するための組織化であって、あるいは、そうした相互の交わりのための組織化であるべきであるという事が見えてくるかと思います。


 つまり、キリスト教会における組織化は「仕える」ための組織化であり、「誰かを仕えさせる」ための組織化ではないということです。

 当然、牧師は「信徒に仕えてもらう」ために存在するのではなく、「信徒に仕える」ために存在するのであって、それは基本的な事でありますが、案外にも、「牧師のワンマンのための信徒」というような理解でいる教会もあるんじゃないかなというところです。


 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(マタイ23:11)

 別に牧師は偉いわけではないですが、牧師の本分は教会員に仕える事であり、教会員に仕えてもらうことではないということです。


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