フィレモンへの手紙は、本文中の「福音のゆえに監禁されている間」(13節)とあるように、パウロがその伝道旅行の途中において、監禁(軟禁)されている間に、フィレモンという、家の教会を主催するパウロの弟子に対して送った手紙として知られています。

 さて、このフィレモンの手紙の話の流れを整理すると以下のとおりです。


・パウロの弟子でキリスト者であり、また家の教会を主催するフィレモンのところに、奴隷の身分であるオネシモという人物がいた。

・ある日、奴隷のオネシモは主人であるフィレモンに対して、具体的なことはわからないが、何かしらの損害を与え、オネシモは軟禁状態であったパウロのところに逃亡(当時としては逃亡奴隷は死刑になってもおかしくない)してきた(オネシモは主人フィレモンがパウロの信仰の弟子であることを知っていた)。

・パウロはそうしたことがあることを知らずに、パウロはオネシモを自分の弟子として迎え入れる。

・その後、パウロはオネシモがフィレモンのもとから逃亡した奴隷(オネシモの所有権はフィレモンにある)であることを知る。

・もし、パウロがオネシモをフィレモンにもどせば、オネシモが引き起こした損害と逃亡罪で殺されるかもしれない。

・パウロは一計を案じて、フィレモンもオネシモも、この世的には主人と奴隷という関係であるが、共に等しくパウロの弟子であることから、フィレモンはオネシモの犯した罪をゆるすと同時に、またオネシモも自分が犯した罪を悔い改め、同じ信仰をもって愛する兄弟として和解し、この世におけるキリストの愛に基づく隣人愛の実践として、家の教会を主催するフィレモンに対するひとつの信仰的な挑戦として、このことを提示する。

 と、だいたい文字で説明すると上記のような内容になります。


 補足説明のために上記のことの概略を以下の図に示します。


フィレモンへの手紙・図解



  さて、パウロがフィレモンに対してこの手紙を通じて伝えようとしたことは、当時のローマ社会における「奴隷制度」というものに対して、オネシモというひとりの逃亡奴隷の救いを通じて、フィレモンが主催する家の教会が信仰的挑戦をパウロから受けるというそうした内容になっています。

 当然、この「信仰的挑戦」に対して、フィレモンは①パウロの言うとおりにオネシモを奴隷から解放し、信仰を同じにする兄弟として、家の教会に迎え入れるという選択肢と、まさに、②当時のローマ社会における奴隷法に基づき、オネシモを逃亡奴隷として処分するという選択肢を突きつけられるのです。

 しかし、パウロからこうした手紙を受け取って、フィレモンが②の選択肢を取るであろうということは想定されておらず、パウロは、フィレモンが当然キリスト者であり、家の教会を主催する者として、必ずや①の選択肢を選択することを見越して手紙を記しているのです。

 しかも、このフィレモンへの手紙は、いわゆる私信として、「フィレモン個人」に書かれた手紙ではなく、2節において「姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」ということで、「公開書簡」として送られているわけです。

 つまり、パウロはこの手紙をオネシモに持たせ、オネシモがフィレモンの家の教会の人たちの前で、この手紙を朗読することが意図されています。

 仮に、この手紙がフィレモンへの私信として、他の誰もがこの内容を知らないというのであれば、この話はフィレモンの個人的なものとして握りつぶすことが可能ですが、パウロはそうした事にならないようにという、かなりフィレモンの出方を考えたものとなっているのです。



 さて、フィレモンへの手紙について、内容としては上記のとおりですが、では、それが今日のキリスト教会においてどのような意味を持つのでしょうか。


フィレモンへの手紙1章3節
「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」


 意味としてみれば、単なる社交辞令のような言葉ですが、こうした紋切り型の言葉である点において、キリスト教会においてはこれは当然のことであり、基本中の基本であることがこの言葉からわかります。

 すなわち、キリスト教会とは、まさにイエス・キリストからの恵みと平和が、この世において実現している場所であるということであるのです。


 このことは非常に重要で、こうした基本的なところが見落とされ、むしろ、「牧師やあるいは奉仕者の暴走」によってキリスト教会が成り立っているというような場合もあるからです。

 キリスト教会において「宣教」は、キリスト教会がキリスト教会である「第一使命」として、どこの教会でも同じように大切なこととされています。それは、わたしたちが所属する日本ナザレン教団においても同じです。

 しかし、問題は、その「第一使命」実現のために、すなわち「宣教」を行うために、「祈り」が求められることもありますが、それ以上に「奉仕」が叫ばれることがあるのです。そして、教会によっては、そうした「奉仕」がむしろ主目的化されてしまい、「教会」と「奉仕」との関係が逆転するというような事が起こるのです。


 本来、「奉仕」とは「礼拝奉仕」という言葉にみるように、それはあくまでも主である「礼拝」を行うための、補助的なものが「奉仕」であり、「奉仕」とは神と人とに仕え、「礼拝」(あるいは教会)を円滑に運営するための縁の下の力持ちであるはずなのです。

 ところが、そうした「奉仕者」が、あたかも「教会員の模範的あり方である」とされて目的化し、「奉仕(者)」のために「教会」が存在するというような現象に至るのです。より、具体的に言えば、「奉仕者の活躍の舞台として礼拝や教会が存在している」というような状況です。

 教会において、奉仕は礼拝を守るための補助的なサポーターではなく、むしろ、例えば「賛美リーダー」という言葉に見ることができるように、それはまさに「奉仕者」ではなく「牽引者」なのです。



 わたしが神学生時代、実践神学の先生から「牧会には馬の牧会と牛の牧会とがある」と教わりました。

 「馬の牧会」とは、まさに牧師が馬の騎手として、馬に鞭を入れて、あたかも信徒を急かし立てるかのように牧会を行うあり方を言います。

 それに対して「牛の牧会」というのは、通常は牛の歩む歩みに任せ、しかし、肝心なところにおいては少しだけ進行方向を調整するというあり方を言います。

 どちらがどうというわけではありませんが、わたしは教会奉仕はまさに縁の下の力持ちであり、それは決して表に出ることはないけれども、しかし、教会の運営を円滑に行う上では大切な役割であると認識しています。


 わたし自身の牧会においては、「教会の運営は最も歩みの遅い人に合せる。」ということを基本としています。

 すなわち、教会は一種の「電車ごっこ」のようなもので、当然、教会の歩みはそこに加わる方々によって決まりますが、「教会のレベル向上」「より宣教的な教会を目指す」ということを教会の目標として掲げることを「電車ごっこ」になぞらえるのであれば、それは「教会の最低スピードを上げよう」というものであるのです。

 ところが、教会に集う人は高齢者もいれば小さい子もおり、また男性もいれば女性もおり、また健常者もいれば身体的・精神的にハンディキャップを持った人たちがいるのが教会であるわけです。

 当然、そうしたメンバーによる「電車ごっこ」で、みんなの走るスピードを上げれば、そうしたスピードについていけずに脱落する人が出て当然であるわけです。

 しかし、スピードを上げることによって、そこに新たにそうした「速く走ることのできる人」が加わってくることもまた真実ですので、結果、どうなるかと言えば、「電車ごっこ」のスピードは限界まで上がっていき、どんどん脱落者を出しながら、結局のところ最終的にはスピードも頭打ちということになるのです。

 たとえスピードを競うレーシングカーであっても、「減速の必要はないのでブレーキはいらない」ということにはなりません。

 安全装置のない自動車は凶器と一緒で、だれもブレーキの壊れた自動車に乗りたいという人はいません。

 ところが、こと教会のことになると、案外にもスピードを上げることには熱心だけれども、ブレーキのことにはまったく無関心ということが少なくないのです。

 「ブレーキがない自動車」と聞けば、誰もその自動車に乗ろうという人はいません。しかし、「ブレーキがない教会」と聞いても、それがどのように危険なのか、それが正しいのか間違っているのか、誰も判断すらしないわけです。

 逆に、かえって「この教会にブレーキは不要だ」と、そうしたブレーキ役の教会員を切り捨ててしまうような事まで起こります。そうなってしまっては、もうその教会は自分たちの意思で減速することも止まることもできません。結果、教会運営において出くわす様々な問題に対して教会ごと体当たりを繰り返し、結局、その度に牧師も教会員も傷つきながら、教会運営が減速するということになるわけです。

 そこにあって牧師は「神さまの与えられた信仰の試練だ」と言って、自分たちの犯した罪、過ちを認めることなく、そうしたことには目をつむっておいて、結局のところ自分たちの罪をひた隠しにするのが関の山なのです。



 教会員の中にいろいろな賜物を持つ人がいることは別に悪いことではありません。しかし、パウロが次の聖書箇所で語っているように、そうした教会がスピードを上げようとする行為に対して、それに対して冷静にそのことを見極め判断する、すなわちブレーキをかける役割を持つ貧しい人や病気の人も、本当の意味で安んずることのできる場であることの方が信仰的に極めて重要なのです。その意味では「弱さ」もまた神さまからの賜物なのです。

コリントの信徒への手紙1 12章21~22節
 「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」

 教会は、キリスト教宣教ということを他の教会、あるいは宗教団体と競うために活動しているのではありません。

 キリスト教会は、この世において、イエス・キリストの愛に基づく信仰共同体として、正しく神を礼拝するところとして、この世において宣教を行うのです。

 当然、そうしたキリスト教会は、常に「信仰的に正しくあること」が求められます。それは「キリスト教を信じているから正しい」のではなく、「イエス・キリストを主として、神の言葉に従うからこそ正しい」のです。

 キリスト教会が、神の言葉であるイエス・キリストに従うとは、もちろん、キリストの愛に基づく隣人愛の実践が行われていることが前提とされています。そのような教会には「要らない」人はひとりもなく、「強い人」はその強さをもって「弱い人」に寄り添うはずであるのです。当然、そうした教会の歩みは速いはずがありません。

 それはキリスト教会において大切でありながら、今日、案外にも忘れられているのではないかと思うのです。


フィレモンへの手紙1章6~7節
6)わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。
7)兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。

 フィレモンが主催する家の教会の働きは、ここに具体的な事柄としては紹介されていませんが、しかし、それは7節において「聖なる者たちの心があなた(フィレモン)のお陰で元気づけられた」とあるように、それはまず「信仰」に基づくものであり、「聖なる者たち」で言われている、すなわちフィレモンの家の教会につながる兄弟姉妹を大きく慰め、元気づけるものであったことがわかるのです。

 ここでフィレモンを、まさに教会の牧師として考えるのであれば、フィレモンが主催するこの家の教会は、まさにフィレモンの信仰、すなわち牧師が信徒ひとりひとりに対してまさに祈りをささげ、また信仰による交わりによって、互いに慰め励まし合う、非常に模範的な教会であることがうかがえます。

 もちろん、パウロにしてみれば、フィレモンに対して、かなり無理なお願い(逃亡奴隷であるオネシモを赦し、しかも奴隷の身分から解放してやり、信仰を同じにする兄弟として迎え入れなさいというもの)をする上で、こうした一種のお世辞とも取れることも確かです。

 しかし、それがたとえお世辞であったにせよ、パウロが言っていることは全く嘘ということではありません。

 キリスト教会がキリスト教会である為に、まさに牧師は「信徒からたてまつられる存在」ではなく、むしろ、信仰を同じにする兄弟として、当時の社会的身分を越えて誰とでも等しく、むしろ、愛する兄弟姉妹のために、「牧師はすべての教会員に仕える者」として、その働きに準じなければならないのです。

 教会においては牧師も奉仕者も、すべての教会員に仕えることが職務であり、牧師や奉仕者に教会員が仕えるのではないのです。そして、牧師や奉仕者の仕えに対して、教会員は感謝をもって、喜びながら神を礼拝することを行うのです。

 キリスト教会はこの関係を間違ってはなりません。


フィレモンへの手紙1章16~17節
16)その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
17)だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

 オネシモはフィレモンにとってみれば、自分に対して損害を与えたばかりか、自分の下から逃亡した憎むべき奴隷でありました。しかし、今や、その出来事は、オネシモの改心という出来事によって、新たな展開、すなわち信仰の挑戦となったのです。

 フィレモンの信仰的な正しさは、パウロによって、これでもかというほどに強調されていますが、しかし、それほどの信仰をもったフィレモンであっても、パウロがこのようにして重ねて表現しているように、その事は容易ではないのです。

 昔の時代劇で、「罪を憎んで、人を憎まず」というようなセリフを聞いたことがありますが、教会の中で大事なのは、そうしたことが本当に実践されているかという点が実に大切なのです。

 そして、そこにおいて大切な視点が、牧師も、奉仕者も、すべての人がそうした共通の理解に立って実践されているということです。



 時に、教会の中では「罪」ということばが、「未信者」や「他宗教の人」に対して結び付けられて理解されているような場合に、こうしたことが教会の信仰を捻じ曲げてしまいます。

 それはどういう事かと言えば、キリスト者は、すなわち牧師や信徒は「イエス・キリストを信じている」という事によって、「自分たちは既に罪人ではない」という理解になってしまっている場合に、結果的に「わたしたちは信仰者であるから正しい」といういような理解になる場合です。

 たとえば、「キリスト者が信仰によって罪から自由になっている」とは、決して、「キリスト者は罪を犯さない」ということではありません。

 これはキリスト教信仰において誤解を受けやすい点ですが、「罪から自由」というのは、「罪を犯さない」ということではなく、「キリスト者は罪を犯した場合にも、罪の誘惑に打ち勝って、自由に、イエス・キリストの前に罪を告白することが可能である」という意味なのです。

 その意味で、たとえ信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになったとしても、罪を犯す可能性を有する罪人であることに変わりはないのです。

 ただ、決定的に違うのは、キリスト者は、そうした罪を犯したとしても、イエス・キリストを信じる信仰において自身の罪を告白し、罪を悔い改め、神の御前に正しくあることができるというだけなのです。


 ところが、そうではなく、むしろ「教会の中」というのが、「神の御前に正しい者たちの集まり」という、一種の治外法権的な場と理解され、罪として理解されるはずの事柄が、「教会の中で起こるのは正しいこと」「世の中のことは間違っている」というような、教会の中において、神の正義が行われず、むしろ、「自分たちが正義」ということがまかり通りことが起こるのです。

 「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(コリントの信徒への手紙1 14章33節)

 神の御前において教会が正しい教会、イエス・キリストの体なる教会であるなら、当然、それは教会の中において秩序が保たれているはずです。しかし、その「秩序」というのは、決して、牧師を頂点とする、あたかも軍隊のような秩序ではありません。

 教会の中の秩序が何によって保たれるのかといえば、上記の御言葉にあるように、「神の平和」であり、それは教会員一人一人がイエス・キリストの罪の赦しによって、互いの間に隣人愛が行われているというような秩序であり、そして、そうした信仰的な交わりを通して、互いに相手を尊重し合い、何が神の御前に正しく、何が神の御前に間違っているのか、そうした成熟した教会へと、神の祝福によって変えられていくことが大切であるのです。

 当然、それは、牧師のための教会でもなく、信徒リーダーのための教会でもありません。

 なぜ、教会の中で「リーダー(指導者)」という言葉が使われるようになったのか、わたしはその経緯を知りませんが、むしろ「賛美をリードする」というのは、「(みんなを)引っ張る」ではなく、「(みんなの声を)支える」ということだとわたしは理解しています。

 わたしが教会で奏楽をする時に注意しているのは、「演奏すること」よりもむしろ「みんながどのように歌っているか」を聞くことです。

 そして、奏楽者はみんなの歌うスピード、またみんなの歌う声の大きさに合わせて、音量を調節したり、曲のスピードを調節するのです。それは、自分が奏楽できる、上手に演奏できることを聞かせることに主眼があるのではなく、礼拝奏楽が奏楽であるためには、「みんなが歌いやすいように伴奏をする」ということが最も大切なポイントなのです。でも、奏楽者がみんなそうできるわけでもなく、またそうしなければならないということでもありません。

 牧師が声を大きく、みんなのペースで歌えば、その声を奏楽者が聞いて、そのリズムに合わせることも可能なので、指揮棒を振るわけではないですが、礼拝式の中では、歌うことによって奏楽者のリズムを調整するということもできるのです。

 だからこそ奏楽者は、別に、音楽家である必要もないし、指一本でもいいわけです。場合によっては、讃美歌の出だしの音を出すだけでも、それは伴奏になるわけです。賛美は、奏楽者だけが、賛美リーダーがするものではなく、会衆全員がひとつになっておこなう共同作業なのです。

 それは心をひとつにして神の尊さを褒め称える、感謝することが目的であって、上手に歌うことに主眼があるわけではないのです。

 
「ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。」(フィレモンへの手紙1章22節)

 パウロはフィレモンに対して、自分がそちらに伺うことを約束します。

 「信仰」とは「信頼」であるといった神学者がいますが、まさに教会が教会であるために必要なのが、この互いに信頼するということであると思います。

 キリスト者は、まさに神を信じるものである信仰者である限りにおいて、まさに「相手を信頼する者」であり、また「相手の信頼に応える者」であることが求められるのです。なぜなら、それは神に対する信仰において、真実をもって、隣人愛の実践を行う者であるからです。

 ところが人間は救われてなおも罪人である限りにおいて、「信頼する」ということは、「わたしは絶対に間違いを犯さないから、わたしを信じなさい」ということではないのです。

 牧師が教会の中で間違ったことを行い、信徒に対して「わたしを信頼しなさい」と言っても何の説得力もありません。

 そうではなく、ここでいうところの「信頼する」とは、「その人の人間性」を「信頼する」のではなく、むしろ「その人が神の御前において罪を告白し、罪を悔い改める者である」ということを「信頼する」のです。

 当然、教会の中で牧師が間違ったことを行った場合には、そのことの告白と悔い改めがなされなければなりません。間違った時に直ぐに謝るということは、習慣づけていないとなかなか簡単ではありません。特に、牧師のように集団の代表というような状況に置かれればなおさらです。

 パウロはフィレモンが、オネシモの逃亡行為(損害を与えたことも含めて)に対して尋常ならざる怒りを心の内に秘めているかもしれないことを十分承知しています。 そして、だからこそ、パウロはそうしたフィレモンが、怒りによって自分を見失い、オネシモを処刑するかもしれないことを危惧しながら(当時の常識ではオネシモは殺されても普通であったから)も、しかしなら、同じイエス・キリストを信じる信仰者として、「信仰によってオネシモの罪を赦し、信仰によってオネシモを愛する兄弟として迎え入れてくれるであろう」ということに「信頼」しているのです。

 当然、フィレモンはこの手紙を受け取って、そうしたパウロの「信頼」に対して「信仰的決断と行動をもって応える」義務があるわけです。

 キリスト教会とは、まさにそうした相互の信頼と信頼に対する誠実な応答が求められているのです。

 そして、来るべき、パウロがフィレモンの家の教会に訪れた時に、フィレモンとオネシモと共に、同じ、主イエス・キリストによって救われた者同士が共に同じ食卓について、喜びを分かち合えるであろう、その時を願っているのです。
 


 フィレモンの手紙のこの後、実際にフィレモンがオネシモをどのように扱い、パウロがどうしたか、その後のことが書かれていません。

 みなさんは、この結末がどうなったか分かるでしょうか?


 
 この文章は手紙であるからこそ、結末が記されていないということは当然なのですが、そうした意味において、この手紙を、ひとつの物語としてとらえるときに、この手紙は、まさに今日の教会に対して語られている神の言葉なのです。

 パウロがわたしたちの教会を訪れた時に、パウロはわたしたちの教会のことを喜んでくれるだろうか?

 その視点は非常に重要です。

 聖書の言葉を理想論として、わたしたちの教会とは無関係だと結論することは非常に簡単です。

 しかし、キリストの教会は、聖書の言葉を通じて、今も、そのように信仰を問われ続けているのです。

 その意味で、教会の宣教が目指すものは、「キリスト教の拡大」ではなく、「信徒獲得」でも「献金倍増」でもなく、ただ、礼拝を通じて自分たちが神の御前において正しくあろうとすること、神の御前における人間としての成熟であって、それ以外ではないのです。

 そうした、わたしたちが人間としてまさに本当の意味において人間になろうとすることが、神の御心としてわたしが聖書から読み取っている神の言葉なのです。