山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

カテゴリ: パウロの直筆の手紙

 パウロの最晩年に書かれたであろう「ローマの信徒への手紙」において、パウロは以下のように記述しています。

ローマの信徒への手紙3章9~18節
9)では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
10)次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
11)悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
12)皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
13)彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
14)口は、呪いと苦味で満ち、
15)足は血を流すのに速く、
16)その道には破壊と悲惨がある。
17)彼らは平和の道を知らない。
18)彼らの目には神への畏れがない。

 パウロはキリスト者がキリスト者でない者、たとえば不信仰者、異教徒などに対して何かキリスト教信仰において優位であるかという事について、「全くありません。」と簡潔に述べています。

 その意味で、たとえば「キリスト者」と「そうでない者」という区別はありますが、「罪深い人間である」という点においては「キリスト者」も「そうでない者」も同じだというのです。

 だからこそ、パウロは「キリスト者」を「天国に行けることが確定した者」とはみなさず、あくまでも「イエス・キリストの救いによって、神との関係において和解を得た罪人である」として、なお「救われた罪人」に過ぎないという認識において「善を行うことはできない」というふうに考えるのです。

 そのようにして、イエス・キリストと無関係に、ただ哲学的に人間が「神」「正義」といった神に属する事柄を選択できるかと言えば、それは不可能であることを示すのです。なぜなら、「神」や「正義」を知るための「平和の道」とは、それは「わたしたちの罪の認識、告白、罪の悔い改め」ということをもって、ただしく神を畏れ敬うという信仰がなければ不可能であるからなのです。


 ところがそうすると、たとえ信仰者が「善い行い(慈善)」をする場合、いったいどのようにしてそれが「偽善」ではなく「善」であり、わたしたちは「善(行)」を選択することができるのでしょうか?




コリントの信徒への手紙2 8章1~7節、9~11節
1)兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。
2)彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。
3)わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、
4)聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。
5)また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、
6)わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。
7)あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。


9)あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
10)この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。
11)だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。

 パウロはそうした、わたしたち人間が本質において「正しくあり得ない」という理解に基づいて、そのような罪深い人間が一体どのようにしたら、人間のそうした罪深い本質と無関係に「正しいこと・善行」を行うことができるのか、マケドニア州にある教会(おそらくフィリピかテサロニケの教会)を例に挙げてそのことを説明します。

 パウロの言葉によれば、このマケドニア州にある教会は時流に乗っている教会でもなく、勢いがあるわけでもなく、その現実は非常に厳しいものでありました。教会は様々な迫害の下にあり、問題があり、また金銭面においても極度に貧しく、まさに「信仰においては迫害にある教会」であり、「金銭面においては極貧にある教会」であったのです。

 しかし、そうしたこの世的には貧しさの中にありながらも、マケドニア州の教会の人々は、信仰においても物質的な面においてもパウロの働きを大いに助けたのでした。

 それは当然、この世的に富んでいる人たちではなく、貧しい人たちが物質的な援助をするわけですから、その援助自体はパウロにしてみれば「有り余るほどの豊かさ」ではなく、恐らくは「何も持っていない人たちが、それでも何も持たない中から、苦労してパウロのために少しずつ集めてパウロのために送ったもの」であって、それは「物質的な豊かさ」とはまったく関係のないものであったことでしょう。しかし、パウロにとってみれば、信仰において、それは充分であったのです。

 教会が貧しいということは決して欠点でも何でもなく、むしろ何もないところに、イエス・キリストの救いによって、また神さまの深い憐みによって満たされる。そして、そうした中から、さらに神さまによって与えられたものを更に分かち合う。

 イエス・キリストはまさに貧しさの中に生まれ、苦しみの中に生きられましたが、それは、まさにキリスト者がイエス・キリストの貧しさによって、わたしたちが豊かになるためであったとパウロは説明するのです。

 ですから、当然、そうした豊かさは、いわゆる物質的な豊かさとは異なると思います。決して多くを求めることなく、神さまの祝福によって与えられているところに満足し、その満たされたところのわずかのものを、さらに兄弟姉妹で分かち合うのです。


 そして、それは神の御前において「正しくあり得ない」わたしたち信仰者が、いかに「善」を選択するかということのヒントにもなっているのです。


 そもそもわたしたちは信仰者であれ、不信仰者であれ、すべての人間が神の御前において罪深いのです。信仰者はその罪深さの中に絶望の淵から、イエス・キリストによって神との間に和解を得た存在であると言えます。

 しかし、それはイエス・キリストの救いがわたしたちの「罪の赦し」であるという一点において、わたしたちが神の御前において「罪人である」という自己認識において、すなわち「わたしたちは善を選択する能力を持たない哀れな人間に過ぎない。」という神さまに対する告白において、神さまはそれを「正しいこと」として認めてくださり、そのような哀れな罪人に過ぎないわたしたちに対して深い憐みをもって顧みてくださるのです。

 そして、わたしたちはそこにおいて神さまの憐みを受け、その与えられた憐み、祝福によって、自分自身の体をまさに何も持たないわたしたちが神さまに唯一献げうるものとしての「献身」へと導かれるのです。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)

 わたしたちはそのようにして神さまの憐みによって礼拝へと招かれ、そして、そこから隣人愛へと導かれます。それはあくまでも、「神の言葉による導き」であって、「牧師による命令(脅迫)」ではありません。その意味で、「献身」とは「導かれ、招かれるもの」(自発的)であって、「人(牧師)に言われたからやるもの」(受動的)ではありません。

 そして、そうした「自発的」の土台となるのは当然、イエス・キリストによって「罪を赦されたという喜び」であることを忘れてはなりません。

 その意味で、キリスト者が「善を行う」とは、まさに「自分が受けた愛に報いる」ということで、それは自分の罪とその赦し・救いとの関わりにおいてはじめて実現可能(神さまによって導かれる出来事として)なすことが可能なのです。



コリントの信徒への手紙2 9章8~9節
8)神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
9)「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。 


 パウロがここで言っているように教会の発展はまさに、神の祝福によります。しかも、それはあくまでも結果として与えられる豊かさであり、わたしたちはそれを目標とする事はできません。

 そして、教会が注意しなければならないのは、ここで言われている「惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。」とは、いわゆる「教会で献金を募って、献金を困っている人たちに施す」という意味ではないという事です。

 イエス・キリストの示された慈善、すなわち「隣人愛の実践」は、「物品や金銭をめぐんでやる」ということではなく、「困難にある隣人と分かち合う」ということであるのです。

 キリスト教の信仰において「困った人を助ける」ということは通常「正義/善い事」として理解されます。


 しかし、「困った人を助ける」とは実に信仰者が気を付けなければならない誘惑であって、わたしたちは時に、そうした行動をとってしまいやすいのです。

 たとえば、教会が立っている地域とは、まったく縁もゆかりもない別の地域において災害が起こったとします。わたしたちはその時、「ああ、あの人たちはかわいそうだ。大変そうだ。さぞ困っているだろう。」と良心的に考え、「あの人たちを助けるために、何かをしなくては!」と考えて、まさにそうした行動に移るのです。

 もちろん、そうした困った人たちに同情することは決して悪でも罪でもありません。しかし、そうしたことを受けて、わたしたちがその人たちに対して「良い事をしてやろう(善を行う)。」と考える時に注意が必要なのです。


 教会は決してボランティアセンターではありません。ところが、まさにそうした災害が起こった時に、我先にと教会がボランティアセンターに早変わりし、そうした人たちに支援を行い、人材を派遣し一定の成果を上げるのです。

 同じ地域や近い地域にある教会がそうした支援を行うことはあまり問題にはなりません。ところが、むしろ、遠く離れた教会がそうした地域の支援に加わってきます。そうした「同一地域の教会」「遠隔地にある教会」と何が異なるのかと言えば、それは「責任」の問題です。

 それは県をまたいでという場合もありますし、それこそ国内外での場合もあります。

 確かに、そうしたひとつひとつの働きは尊いものですが、問題は教会がそうした責任を持たないまま、自分たちの好き勝手を行い、まさに「自分たちは良い事をしてやった。」と、「正義を行った」と勝手に思うのです。

 中には、実に勝手に、無責任にそうした奉仕を行い、自分たちの都合で勝手に奉仕を引き上げたりします。それによって、被災された方々が混乱するということが実際問題として起こっています。



 その意味で、「責任が取れないのであれば不用意に関わらない。」という判断は、教会においては大変難しい決断となります。

 むしろ、「困っている人を見たら、助ける」という方が簡単なのです。しかし、問題は、わたしたちはそうした責任を果たす力が無いにも関わらず、ただ信仰によって「神さまが助けてくれるだろう」という安直な考えによって、無責任な行動を繰り返すことがあるのです。

 それはまさにイエスさまが言われた「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 」(ルカによる福音書6章39節)と同じです。


 神さまの憐みによって信仰へと導かれたわたしたちは、自分たちが「救われた罪人に過ぎない」という自覚が欠如する時に、あたかも「自分たちは神さまによって後ろ盾を得た。」と、自分の能力・実力以上の事を為そうとするのです。

 わたしたちはイエス・キリストによって罪を赦され、救われたキリスト者であって、それ以上の者でもそれ以下の者でもありません。

 キリスト者は医者にとって代われる者でもなく、特殊な能力を持ち合わせている者でもありません。


 ところがわたしたちは信仰によって罪を赦され、それによってあたかも「他の人よりも信仰において抜きん出た、秀でた、優秀な人間である」と自分自身を理解したい欲求に駆られるのです。それは実に、恐ろしい罪の誘惑であって、特に、若い人たちにとって大きな誘惑であるのです。

 神さまはわたしたち人間の持っている可能性のゆえに、わたしたちを救ってくださるのではありません。むしろ、その逆で、わたしたち人間は大人も子どもも同じように、神の御前においては滅ぶべき哀れな人間に過ぎないのです。

 ところが教会がそうした「人間の無限の可能性」をうたうときに、教会は偶像崇拝へと進んでいきます。そうした教会は当然、若い人たちが多く集まり、活気に満ちています。しかし、それが本当に正しい教会であるかどうかは別の問題であるのです。

 そうしたことを常に、心に覚えつつ、信仰生活を歩んでいきたいと願っています。
 
 

 

 




 

コリントの信徒への手紙2 10章1節、7~13節
1)さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。


7)あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。
8)あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。
9)わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
10)わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
11)そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。
12)わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。
13)わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。 

 
  さて、パウロは、1節、10節で赤く示したところで言っているように、先の第一コリントの手紙の後において、コリント教会の信徒の一部から、かなり酷評されたことが分かります。

 その理由は、これまでのところでも説明しましたが、イエスさまの直接の弟子である十二使徒のようなイエス・キリストの弟子であるという権威、あるいはアレキサンドリア出身の雄弁家アポロのように、パウロはいわゆるカリスマ的な要素を まったく持ち合わせていませんでした。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙で記しているように、あるいは使徒言行録において説明されているように、彼の信仰の土台は「復活の主イエス・キリストによる召命に 全てを負っていた」からです。すなわち、それは「自称使徒」といことであって、最初はパウロを受け入れていたコリントの教会の人たちも、そうした十二使徒たちの教会から派遣されてきた教師、あるいはアポロといった雄弁家の語るメッセージに、パウロには無い福音の力強さのようなものを感じていたのではないかと思います。

 パウロは、そうした信仰者として、福音宣教者として、アポロやその他の教師たちと自分とを比較される事について、そうした教会指導者としての比較が実に愚かなことであることを7節、12節において主張します。

 それは具体的には、「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。」「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」という言葉によって示されていますが、すなわち十二使徒の教会からやってきた教師たちが誇示するのは、まさに自分たちが十二使徒たちの教会に所属し、そこから派遣されてきたのだというまさに自己推薦であり、また雄弁家アポロとの比較によって示される、人間的な能力・才能の比較であり、パウロはそうしたものは福音宣教者としての「うわべのこと」にしか過ぎないというのです。

 しかも、そうしたアポロや他の教師たちは、自分たちを、あくまでも仲間同士で評価し合い、比較し合っていると、その評価は福音宣教者として、実に偏った評価の仕方であるとパウロは主張するのです。


 こうしたパウロの指摘する点は、まさに今日において、いろいろとパワハラやセクハラ問題が取りざたされる牧師や教会に、案外にも共通することです。

 すなわちそれはどういう事かと言えば、本当の意味で信仰的な交わりがなされるのではなく、ただ「(信仰の方向性において、あるいは目指す目的において)お仲間」という非常にこの世的な、あるいはごく世俗的な「なあなあ」の関係のように、そこにあるのは「キリスト教界において主流派になろう」とするために、お互いに相手を良い評価でもって褒めちぎり、そうした「仲間同士の評価」によって、さも「自分たちは正統である」ということをアピールするのと同じであるのです。

 パウロはそうした、偽りの相互評価によって福音宣教者を評価するのではなく、パウロは、むしろ福音宣教者として、何度も命を落としそうになったにも関わらず、いまだ病がいやされていないにも関わらず、今なお生きて福音宣教者として活動できていることこそが、まさにパウロがイエス・キリストの使徒であるということを証明する唯一のものであると主張するのです。

 教会も牧師も、何か時流にのっているからこそ正統であるということではなく、十二使徒の権威をひけらかすのではなく、また雄弁家のような能力や才能によってやっているから正統なのでなく、むしろ、牧師も教会もこの世において困難の中にあって福音宣教の御業を行い続けることができている事において、それはまさに神の憐みによってはじめて実現する事柄である限り、牧師も教会も、自分たちの歩みが神の御前において正しいと判断することができるのです。

 そのためには、むしろ「信徒獲得/勧誘行為」というような教会の業はむしろ否定されなければなりません。そうではなく、パウロはわたしたちキリスト者は、まさにイエス・キリストの救いによってこの世において「信仰によって生きる」という「キリスト者としての証し」によって主による福音宣教の御業に参与するのです。



 しかし、そうではなく、むしろこの世にある教会は、そのような不確定要素の強い神の祝福、神の導きではなく、むしろこの世的なエコノミストとして、あるいは実業家として、また活動家として、すなわちまさにアポロが雄弁家として、福音宣教ではなく、むしろ弁論術によって相手を言い負かしたように、福音の本質とは全く異なる手法によって教会を大きくしようとしやすいのです。

 いわゆる「今、流行っている教会」「今、成長している教会」というのは、いったいどういう事でしょうか? それは本当に神の祝福によるものでしょうか? それが本当に神の祝福によるものだということを一体何によって証明するのでしょうか?

 わたしたちは案外にも、「数が増えている」「メディアなどの露出が多い」というような実に、この世的な、本質とは異なる価値基準によって、さもそれが「神の祝福によるもの」と理解するのです。そして、それに対して、正面から「そうではない」ということを言う人も多くありません。


 パウロは、牧師もまたキリスト者も、そうした教会の状況について深く考えることをせずに、「なんとな~く良しとする」ということをしてはいけないことをここで勧めています。

 そうではなく、まさにパウロは以下のように結論付けるのです。

コリントの信徒への手紙2 10章17~18節
17)「誇る者は主を誇れ。」
18)自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
 
 「うちの教会は今すごく聖霊が働いています!」ということではなく、まさに「主から推薦される人」こそ、すなわち、それは地道な福音宣教の御業において、決して自分のことを他人に誇ることなく、ただ主によって福音宣教者として命が守られることによって、それは神さまが明らかにしてくださるのだというのです。 




コリントの信徒への手紙2 11章12~15節
12)わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。
13)こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。
14)だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
15)だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう


 パウロの指摘する「偽使徒」は、まさに使徒の教会からやってきた教師でありましたが、彼らの語る内容は「(自分自身の罪の告白)証し」ではなく、「自分が使徒の教会に所属する人間である」という自慢話がその特徴であるのです。

  その意味で、その牧師が本当の意味でイエス・キリストの弟子であると言えるかどうか、それを見抜くためには、その人が語る証しを聞けば良いのです。

 マタイによる福音書4章8~9節
8)更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9)「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 

 その牧師の語る言葉が目指すものが何か、それは「この世的な繁栄」でしょうか? もし、そうであるなら、その牧師はまさにイエスさまの言われる「悪魔」であるのです。 

 あるいは、その語るとこが自慢話ではないでしょうか? もし、そうであるなら、その牧師は「サタンに仕える者」ということになるでしょう。


 理由は簡単です。なぜなら、イエス・キリストの救いがまさに「わたしたちの罪の赦し」である限り、わたしたちの証しは常に、「わたしと神さまとの関係性」が証しの内容になってくるからです。

 キリスト教における「罪」とは、わたしと神さまとの関係における「関係の破たん」をいうのです。その意味で、キリスト教における「救い」とは、まさに「罪の赦し」であり、それはわたしと神さまとの関係における「破たんした関係の和解」であるのです。

 だからこそ、それは「できる・できない」や「治らない・治った」ではなく、むしろ、「神さまによって生かされている事に対する感謝の応答」であるのです。


 しかも、パウロは案外にもそうした偽使徒(今日的には「偽牧師」?)が多いこと、また加えて、「模範的な牧師/模範的な信仰者」を装うことが良くあることであると説明するのです。

 
 パウロは、そうしたこの世において偽使徒(偽牧師)が多い事をあまり問題にする必要はないことをコリントの教会の人たちに対して勧めます。なぜなら、神の御前において悪を行って、その罪の報いを受けないことはないと確信しているからです。

 言い方を変えれば、牧師が悪を行って、その犯した悪の報いを受けないはずがなく、当然、神によってその牧師は自分の行った悪に応じた最後を迎えることになるとコリントの教会の人たちに勧めるのです。



 そしてパウロは有名な12章9~10節の御言葉を語ります。

コリントの信徒への手紙2 12章9~10節
9)すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10)それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 牧師や信徒がこの世において誇るべきことがあるのだとすれば、それは第一に「誇る者は主を誇れ。」(コリントの信徒への手紙2 10章17節)であり、第二に誇ることがあるとすれば、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙2 11章30節)ということでしょう。

 では、教会が誇るべきことは一体何でしょうか?

 パウロはこの聖書箇所において神の力がわたしたち人間の弱さの中でこそ十分に発揮されることを明らかにしています。

 すなわち、教会がそこに集う兄弟姉妹の人間的力で頑張っている間は、神の力は十分に働くことはないのです。むしろ、それは自分たちの力を誇ることとなり、表向きは「神さまの栄光」でありながら、実は、自分たちの自慢になっている場合があるのです。

 そうではなく、主がパウロに対して神の力が人間の弱さの中でこそ十分に発揮されるのであれば、それは当然、教会(あるいは牧師・信徒)として、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態において働く神の力によってはじめて、それがわたしたちが本当の意味で誇るべき神の力であることを示しているのです。


 若い人がいない。高齢者ばかりだ。そもそも人数が少ない。自分たちだけでは何もできない。などなど。

 そうした教会はこの世的には「魅力のない教会」ということになるでしょう。しかし、パウロに言わせればそうではないのです。むしろ、そうした困難の中にある教会こそが、まさに神さまの力が大いに働く教会であることを言っているのです。


 その意味で、わたしたちはそうしたこの世的にはマイナス要因しかない教会の状況を決して悲観する必要も、絶望することもないのです。むしろ、そうした教会において、主の憐みを求めるところに主の大いなる御業がなされるのです。


 教会が人間的な繁栄を求めるときに、それはまさにサタンに付け入る隙を与えるのと同じです。そして、牧師も信徒も気づかない内に、そうした教会は牧師も信徒も、信仰において「サタンの使い」に成り下がってしまうのです。それは非常に恐ろしいことであり、わたしたちはそうなりやすいのです。

 そして、一度、そうした方向に牧師や信徒、教会が流れてしまったら、自分たちの努力で元の状態に軌道修正することはほぼ不可能です。そうした教会はわたしたちの身の回りに多くあります。



 常に主の御言葉に耳を傾け、自分自身の罪を告白し、悔い改める。それは信仰の基本であって、もっとも大切なことです。そして、その事にどれだけ忠実であることができるか。それが常にわたしたちに問われているのです。

 

コリントの信徒への手紙2 13章1~13節
1)わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。
2)以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。
3)なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。
4)キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。
5)信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
6)わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。
7)わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。
8)わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。
9)わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。
10)遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。
11)終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
12)聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
13)主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。


 パウロはコリントの信徒への手紙2の13章において、「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。」(1節)と記しています。すなわち、先にも説明したように、パウロは先の第一の手紙を記した前後において、教会の中で不祥事が起こったことを記しています。

 すなわち、このコリントの信徒への手紙2が書かれた背景においては、これまでパウロが語ってきたこともありますが、加えて、先に起こったコリント教会内の不祥事について、そこで罪を犯した加害者と、その罪によって被害を受けた被害者との間において和解が成立していないことを問題にしています。


 このコリント教会の中における不祥事についてパウロは具体的なことを記していませんが、それはコリントの教会の人たちにとってみれば周知の事実であって、問題は、パウロが1節で「すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。」と言っているように、不祥事がなお不祥事のまま、コリント教会の中で決着が着けられずに、誰も何もしないままの状態が続いていることを問題だとして、2節において「今度そちらに行ったら、容赦しません。」と、かなり厳しい言い方をもってコリントの教会の人たちに対して、不祥事についての和解を為すようにと、なかば厳しく命令しているのです。

 こうした教会の中における不祥事について、パウロはローマの信徒への手紙において「・・・、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマの信徒への手紙7:7)と言っているように、すなわち「罪とは律法によって定義されるものである」という点において、理屈のうえでは律法のないところに罪は起こらないのです。

 実は、これがキリスト教会に限らず、色々な組織において不祥事が起こっても、なかなかその事が表に出てこないのは、まさに罪のこうした性質によるものであって、それを罪を犯す人間がその事を良くも悪くもよく心得ている点にあるのです。

 すなわち、「Aは問題だ!」と誰かが叫べばまさにAは問題となりますが、誰もAについて「問題だ!」と言わなければ、Aは問題にならないというわけです。

 表現を変えて、たとえば教会の中において「Aさんはセクハラをした」と被害者が声を上げれば、まさにその教会の中において問題が発生するのです。すなわち、被害者が声を上げない限り、教会の中でいくらAさんによってセクハラが行われていたとしても問題にはならないのです。

 もちろん、そうしたことが神の御前において間違っていることは明白です。それはパウロがまさに1節で「二人ないし三人の証人の口によって確定されるべき」と言っているとおりなのです。


 ところが、キリスト教会を例にあげれば、牧師・信徒に限らず、教会の中でそうした不祥事が起こった場合に、牧師も信徒も自分たちの平常の信仰生活、礼拝を守りたいという「自分たちの平安」のために、不祥事の加害者に対して注意をするよりも、むしろ、「問題だ!」と声を上げようとする不祥事の被害者に対して圧力をかけ、「教会の看板に傷がつく」「キリスト教会で不祥事が起こったことがうわさになれば、地域に対して良い証しにならない」というような感じで、むしろ「問題だ!」と声を上げようとする、すなわち真実を明らかにしようとする被害者に対して「罪の赦しがキリスト者のあり方だ」とか、「『問題だ』という被害者にこそ問題があるのだ」とでも言わんばかりに不祥事を黙殺し、最終的には時の流れと共に「その内にほとぼりもさめるであろう」と、「何も問題は起きなかった」ということにすることを要求してくるのです。

 パウロはここであまり詳しいことを記していませんが、おそらく、言外に、まさにコリントの教会において上記のような、被害者に対してはそれを問題として取り上げず、また加害者に対しても、不祥事に対する責任についての話をするでもなく、ただいたずらに時間が過ぎるに任せていたのです。

 そのため、コリントの信徒への手紙1において「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。」(コリントの信徒への手紙1 6章6節)とパウロが言っているように、主だった教会の人たちがその問題を問題として取り上げなかったために、被害者はそれを、教会外の一般の裁判の席に訴え出ざるをえなかったのです。

 既に、先の記事で説明したとおり、パウロはそもそも教会は神の御前において自分たちの罪を告白し、悔い改めることがキリスト教会の信仰の基本であることを認めている点において、そうした教会内で起こったそうした不祥事についても、教会内でそれを信仰的に判断してきちんとなされるはずであることを、既にパウロはコリントの教会の人たちに伝えていました。

 そこでパウロは、そうしたコリント教会内における不祥事について、まさに一体誰が誰に対して何を行ったのか、その真実を明らかにすると共に、弁償すべきは弁償し、謝罪するべきは謝罪し、まさに 3節において「キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。」と、すなわちイエス・キリストを信じ、主と告白する教会内において、そうした不祥事が未解決のままに放置されれば、当然、神の裁きによってその罪が裁かれるであろうことをパウロは強調するのです。

 イエス・キリストを信じる信仰者が罪の中を歩むことは不可能です。その意味で、信仰者が自分の内に罪を未解決のまま放置することはありえない事であり、まさにそうしたあり得ない状態のまま神の裁きによって滅びる「失格者」になることがないようにと、パウロはそういう意味で、一連の不祥事における加害者も被害者も共に罪の告白と罪の悔い改めを通じて神の御前に互いが和解し、加害者も被害者も、双方が共に失格者にならないようにという切なる願いを込めて、深い愛情をもってこの事の重大さを説明するのです。

  パウロは、コリントの教会の人たちのために、自分自身がたとえ信仰者として神の御前に罪を犯して失格者のように見えたとしても、しかし、それによってコリントの教会の人々が神の御前に罪を悔い改め、善を行いうる適格者になることができるようにと切に祈っているのです。

 その意味で、これまでのコリント教会の人々に対するパウロの厳しい言葉のひとつひとつは、コリント教会の中に起こった不祥事を明らかにし、コリントの教会を破壊するため、コリント教会の信徒をバラバラにするためではなく、すべては 「壊すためではなく造り上げるため」(10節)であることを重ねて説明するのです。


 
 だからこそ、ここから見えてくるパウロのが言わんとする、教会の中における罪の赦しとは、今日的な教会で間違って捉えられているように、「無かったことにする。」「すべてを水にながす。」という事とは決定的に異なるということです。

 イエス・キリストによる和解とは、すなわち「加害者も被害者も共に神の御前においてお互いが罪を告白し、真実を明らかにする」ことを通じて実現する「神による和解の出来事」なのです。その意味で単純に「加害者を悪者にする」ことも目的としていません。 もちろん、ただ口で「ごめんなさい」で終わりということでもありません。

 たとえば被害者が加害者から受けた損害に対する賠償を含め、「和解」のための丁寧な取り扱いが求められるのです。その意味で「表面的な和解」でなく、まさに「真実の和解」を目指すことが求められるのです。 
 
 当然、そこには多くの祈りが奉げられる必要があるでしょうし、ただ加害者・被害者というだけではなく、教会が全体としてこの不祥事について公平に、信仰をもって関わることが求められることでしょう。その意味で、「真実の和解」とは、まさに教会全体の取組みとして、教会全体がこの不祥事について、まさに自分たちの痛みとして理解し、教会全体として神の御前に罪を悔い改めるという、神に対する教会全体の姿勢が問われるのです。

 
 そして、まさにパウロはコリントの教会がまさにそうした教会であるようにと、祝福と一致の祈りをもってコリント教会の人たちの上に祝福を祈るのです。この最後の聖句は、牧師が礼拝の最後の方で行う祝祷の文言として良く使われます。

 
 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
 聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
 

 世のキリスト教会がまさにこうしたパウロの祈りに応える教会であるように願いつつ。

 ローマの信徒への手紙は、ガラテヤの信徒への手紙(「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」ガラテヤ6:11)と同様、パウロの晩年の手紙で、タイトルのとおりパウロがローマにあるキリストの教会に対して送った手紙となっています。

 また、極めてまとまった形で、しかも自分で問題を提起していき、それに対して信仰的な答えをもって回答をするという哲学的な話の進め方をする関係で、古来より「キリスト教の神学書」的なものとして理解され、そしてそのように註解をしている人も多くいます。

 それだけ、キリスト教信仰についてまとまった形で記されているものですので、当然、一気にこれだけのものが書かれたというものであるか細かい事はわかりませんが、ここではそうした「神学論文」という視点をひとまずおいておいて、「ある特定状況下において、パウロがローマにあるキリスト教会の信徒に対して宛てて記した手紙」という理解において、説明していきたいと思います。

 

 ローマの信徒への手紙1章1~15節
1)キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
2)この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
3)御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
4)聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
5)わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました
6)この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――
7)神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
 
8)まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
9)わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、
10)何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています
11)あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。
12)あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
13)兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。
14)わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。
15)それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。


 さて、この手紙でパウロが書いているように、パウロがローマにあるキリスト教会にこの手紙を記したのは、神が「すべての異邦人を信仰による従順へと導くため」に、その福音宣教というパウロの使命によって、「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があ」るために、ローマの教会に行く必要があり、そのためにも、自分がローマに到着した時にはよろしく迎え入れてほしいという願いと、もうひとつは、自分がこれから行く時に、ローマにあるキリスト教会の人々の信仰が「パウロと同じである」ということのために、パウロを受け入れる準備として、先に手紙で自分の信仰について、なるべく正確にそのことを伝えようとしたということがうかがえるのです。

 そして、パウロが語るべき、多くの言葉を重ねて説明すべき事柄は、まさに御子イエス・キリストについての事であり、もうひとつは、それが既に旧約聖書の言葉に約束されていたものであり、その約束は、ユダヤ人という特定民族だけでなく、「すべての異邦人を信仰による従順へ」と導くためのものであり、まさにそれが神の御心であるというわけです。

 なぜ、パウロがここまで丁寧に、自分の信仰のことを含めて説明しなければならないのか?

 それは、おそらく、パウロにとってローマにあるキリストの教会に行くのは、まさに「初めてのこと」であるからです。

 また、ローマにあるキリスト教会と関係が深いのは、使徒言行録の記述によればアキラとプリスキラという夫婦です。パウロはアキラとプリスキラが、まさに自分と同じ信仰であるということに気づき、そこで意気投合して一緒になりコリント教会を立ち上げ、その後、三人はアジア州のエフェソの教会を組織し、アキラとプリスキラはそこに留まり、パウロは宣教旅行を続けることになります。

 すなわち、パウロはローマにキリスト教会が存在することをアキラとプリスキラから聞かされており、自分もまた、アキラとプリスキラという信仰の兄弟姉妹の関係を使って、ローマにあるキリストの教会へ、自分自身がまさにアキラとプリスキラ同様の信仰を持っていることを伝え、自分のことをアキラとプリスキラと同様に受け入れてほしいという願いの下に、この手紙を記したのであろうと思うのです。

 当然、パウロは第二回目の宣教旅行においてアキラとプリスキラと一緒になっていますので、この手紙はそれ以降に出されており、おそらく第三回目の宣教旅行の最後においてローマに護送されますが、その時に記されたのではないかというところです。



 ローマの信徒への手紙1章16~17節
16)わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
17)福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 


 クリスチャンが、イエス・キリストを信じているのは当たり前です。牧師もイエス・キリストを信じていますし、信徒もイエス・キリストを信じています。それはごく当たり前のことです。

 ところがその基本中の基本である「イエス・キリストを信じる」ということ、すなわち「福音を恥としない」ということがどれだけその人の人生において実質的であるかは、かなり疑問があるところです。

 牧師ほど、あるいはクリスチャンほど、その実質を求められることはありません。

 そこが、まさに「キリスト教会である」か、それとも「キリスト教風のコミュニティーセンターである」かは、外見上同じでありますが本質的には全く異なります。


 クリスチャンがイエス・キリストを信じているというのは、まさに当たり前であって、そのとおりです。

 ところが、そのクリスチャンが世にあって、自分が直面する出来事に対して、「キリスト教信仰に基づいて」決断し行動するか、それとも「この世的な価値観に基づいて」決断し行動するかは、本質的には関わりがないのです。

 たとえば、ある行為が「罪である」場合に、「それは罪であり、自分の信仰に反する」と行わないのであれば問題はありません。

 ところが、場合によっては、わたしたちは「それは罪であるれども、自分は完全な人間ではない」と、すなわち「罪だと認めつつ、罪を犯す」場合、あるいは「信仰はあくまでも信仰であって、この世のことはこの世的に判断しないと生きていけない」として罪を犯す場合という具合に、あれこれと理由をつけて罪を犯す事が多々あるのです。

 その意味でキリスト教の信仰は極めてシンプルであるにも関わらず、キリスト者は自分たちに都合の良いようにいろいろと理由をつけてはその信仰を複雑にすることが多いのです。

 イエスさまがわたしたちに提示するものはまさにシロかクロかであって、しかも「クロ」という選択肢はあり得ないので実質的に一択問題であるのです。ところが、牧師も信徒もそうした単純な一択問題であるはずのところを「ハイイロ」の選択をするわけです。

 その意味で、「福音を恥としない」とはキリスト者であれば誰もが知っていることであり、当然の事として理解しているわけですが、しかし、その人が、実際に自分の生活において、まさにそのように生きているかといとそうでないケースが多いのです。

 だからこそ、礼拝出席の多い、あるいは献金の多い教会ほど、「福音を恥としない」という決断から遠ざかっていくことが多いのです。

 以前にも紹介しましたが、アメリカではメガチャーチと呼ばれる教会がまさに破産をしました。日本国内の教会においても、週報などで教会会計が紹介される事はあります(教会会計の透明性を確保するためにも必要)が、だからといって毎週のように金融機関からの借金返済のために献金が呼び掛けられるような状況はいかがなものかと個人的には考えます。

 立派な会堂、充実した音響設備は礼拝において必須かと言えばそうではありません。ドラムセットもバンドも必要ありません。

 礼拝はまさに主イエス・キリストのみ名によってキリスト者が集まるところはどこであっても、まさにそこが礼拝の場であって、キリストの教会であるのです。福音書においてイエスさまがあえて神殿ではなく、会堂でもなく、山や平地で人々に教えられたのは、すなわちそういう意味もあるかと思います。
 
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)

 その意味で、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるためには、「豊かさ」はあってもいいですが、しかし、その場合はこの世的な誘惑が多いということを肝に銘じておかなければならないということでしょう。この世的に流されれば、キリスト者はキリスト者でなくなります。

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(マタイによる福音書5章13節)

 イエスさまの言われるように、キリスト者はまさに「地の塩」でありますが、この世においては、そうしたこの世的な判断を通じて「塩気のない塩」、すなわち「形だけのキリスト者」に成り下がることが多いのです。 

 パウロは「福音を恥としない」と宣言しました。それはまさにキリスト者として自分の信仰に決してそうしたブレがないことを言ったのであり、また、それこそがキリスト者がキリスト者として、すなわち、まさに地の塩であるために必要なことであるのです。

 当然、「信仰者が生きる」と言う場合、まさにそうした「福音を恥としない」という決断と行動によってはじめてそれが実現できるのであって、それはキリスト者として至極当然の事でありながらも、しかし、この世的には非常に難しいことでもあるのです。

 そうしたこの世にあって、自分の弱さと向き合いつつ、常に主の御言葉の前において自身の罪を悔い改めることができれば、それは実に幸せな生き方であると言えるでしょう。

 わたしが青年の頃、「わたしは二重人格者です。教会では信仰者の顔をしておきながら、実際の生活においてはこの世的に考えて行動しています。」という証しを聞きました。まさにキリスト者はそういう状況に立たされているのです。常に信仰的に選択をできれば良いですが、なかなか人間的には難しいところであるかと思います。しかし、だからといってこの世的に流されてしまっては信仰することの意味さえ失ってしまいます。

 だからこそ、わたしたちはこの世において信仰者として悩むのでしょう。
 しかし、それは絶望ではなく、そうした悩みに神さまが共に寄り添ってくださり、わたしの苦しみを顧みてくださる、そういう大切な時でもあるのです。

 主と共にある人生とは、まさにそうした悩み・苦しみと向き合うことの多い人生であると思います。しかし、だからこそ、主が悩み・苦しむわたしと共にいてくださり、それを無為な悩み・苦しみ、無意味な時間ではなく、主と共にある充実した人生へと変えてくださるのだと思います。
 


 

 パウロの直面している信仰の問題は、すなわちユダヤ主義・キリスト教(イエス・キリストをメシアであると信じるけれどもモーセの十戒にはじまる律法の遵守、エルサレム神殿などの聖所に関わる事柄なども同様に重要と考える。自分たちはあくまでもイエス・キリストを信じるユダヤ教徒であるという認識。)とキリスト教信仰とがどのように共通しどのように決定的に異なっているのかという点にあります。

 そして、その信仰的な差異を知ることがまさにイエス・キリストの福音を正しく知ることであるとパウロは確信しているのです。そして、そうしたパウロの確信に基づき、パウロはそうした異邦人教会に訪れてきては、異邦人教会をユダヤ主義・キリスト教(厳密にはユダヤ教)に回心させようとするユダヤ主義・キリスト教の教師たちの教えについて、パウロはいったい彼ら、ユダヤ主義・キリスト教の教えの何が間違っているのかということを、このローマの信徒への手紙で明らかにしていくのです。

 そして、そうした論述を通して、パウロはもう一つの目的、すなわち、この手紙における自分の確信について、それがすなわちローマにある異邦人教会の人々の確信するところと同じであることを理解してもらおうとするのです。


 

 ローマの信徒への手紙 2章1節
1)だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

 パウロはエルサレムからやってくるユダヤ主義・キリスト教の教師たちに対して、あるいはそうしたユダヤ教の教師に対して、「人を裁く者よ」と呼びかけます。すなわち、それが彼らの本質であるというわけです。

 言い方を変えれば、「人を裁く者」とは、すなわち「人を裁くための基準を自分の内に持つ者」という事です。

 しかしそれは、そうしたユダヤ主義・キリスト教の教師たちだけがそうだということではなく、キリスト教の信仰においては、「わたしたち人間すべてがそうした存在である」という解釈に立ちます。

 たとえばわたしたちは神を信じる信じないに関わらず、自分の内に何かしらの価値基準を持っています。それが信仰に基づくものであるか基づかないかは大きな問題ではありません。

 ところが、わたしたちはすべての人が天地を創造した神の御前において、自分以外の何者かを裁くときに、実は、その「わたしたちが誰かを裁く」という行為によって、わたしたちは神に対して罪を犯しているのです。

 どういうことかといえば、この世界において神さましか「正義」を持つ存在はいません。すなわち、人間は、その人が頭の良し悪しに関わらず、社会的に地位が高い低いに関わらず、当然、男女の違いにも関わらず、誰もが自分の内に「正義」を持たないのです。

 つまり、自分の内に正義を持たない人間が、他の人の正義を問えるかといえば、当然それは不可能なのです。

 ところがわたしたちは普段の生活の中で、自分を含めて他の人の事についても、そうした善悪を判断します。

 つまり、わたしたちが自分の中に持つそうした善悪の基準とは、すなわちそうした本来は自分の中に「正義」を持たない人間が、自分の内なる正義のようなものを基準として、他の人の善悪を判断しているということになるのです。

 ですから、そうしたわたしたちの内にある善悪の基準とは、すなわち神の「正義」などではなく、あくまでも自分自身の主観に基づく「相対的正義」であって、それは神さまの正義のようであって、そうではないのです。マタイによる福音書などに見る律法学者やファリサイ派の人々の正義は、まさに、イエスさまによって「偽善」であることが示されるとおりです(たとえばマタイ6:2以下、23:1以下参照)。


 特に、信仰者にとって自分の内にそうした信仰的価値観を持つ人にとって見れば、まさに「自分が信じているところのものが正義である」という考えに陥りやすいのです。こうした事は福音書では律法学者やファリサイ派の人たちが例として挙げられていますが、キリスト教会もキリスト者もそうした罪の誘惑に流されやすいのです。

 なぜなら、キリスト者が信じているところの「神」は「正義」です。ところが、だからと言ってその神を信じている信仰者が正義であるとはならないのです。それどころか、パウロはむしろ、キリスト者はそうした神を正しく信じる信仰によって、正しい信仰のキリスト者とは、自分自身が罪人であるという自覚をもって、神を神とする者であると信じているのです。

 ところが、エルサレムからやってきた教師なる人物たちは、まさに自分たちこそが神によってキリスト者とされた者であり、まさにそのゆえに自分たちの信仰をも正しいとする人たちであったのです。

 彼らは、イエス・キリストがメシアであると信じていますが、しかし、その一方において、ユダヤ教徒としての律法の遵守、すなわちエルサレム神殿を大切にし、男性であれば割礼を受け、日々の生活の中において日に3度の祈りと、食物規定に基づく聖なる生活をすることを要求したのです。


 また、今日的な例を上げれば、たとえば牧師が信徒に対して語る言葉が、常に、そうした「自分たちこそが正しいのだ」という、一種のマインドコントロールに陥りやすいのです。しかし、それは案外、そうした御言葉による力を得ていない、すなわち自分の罪が何であるかを認識しないように、自分自身に対して「わたしは神によって立てられた。神によって肯定されている。」と自己暗示をかけているような場合もあるのです。

 牧師が御言葉を使って、牧師自身の自己肯定を行う、そうした言葉を聞いた時にはだからこそ注意が必要なのです。あるいは、それは信徒リーダーに対する言葉として語られるような場合もそうです。

 牧師が自分自身の願望・欲望を、あたかも「神の御心である」と自発的に勘違いし、そのように自己暗示をかけ、リーダーをそのように洗脳し、教会員ひとりひとりに対して、その言葉に忠実であるように命令をする。そして、まさにそうした事によって教会が、ひとつの集合体として組織を大きくしていくわけです。

 当然、そこでは、そうした成長、拡大は「神の御心」「神の祝福」だと語られるだろうし、そうした成長や拡大がない、あるいは組織の弱体化が起これば、牧師は「信徒の献身が不十分である」「神のめぐみに対する感謝が足りない」というようなことを言うかもしれません。

 いつしか、教会は、そうした「願望・欲望」が牧師の人格から遊離して、教会の中の指導的な立場にある人たちを拘束し、洗脳するようになるでしょう。

 そうなると、それは「欲望・願望」が、教会という組織の中で肥大化していき、最終的には、「欲望・願望」によって、その教会全体が喰われてしまうことになるわけです。

 その場合、すべてがご破算になった時の牧師の答えはこうです。「信徒が勝手にやった。」
 信徒の答えはこうです。「牧師が命令したからそれに従っただけだ。」



 わたしたちは教会組織が罪に飲み込まれてしまう恐ろしさをあまりにも過小評価していないでしょうか。

 だからこそ、イエスさまは当時のエルサレム神殿を中心としたユダヤ教組織の持つ根源的な罪の問題について、エルサレム神殿とそうしたものが実現する間違った信仰について、福音書のなかでかなり厳しく批判しているのです。

 その意味で、教会は確かにこの世においてイエス・キリストのからだなる教会としてその役割を担っていますが、しかし、本質においては、常に教会がエルサレム神殿化してしまうことのないようにという、教会の自己絶対化という大きな誘惑に直面するのです。

 その意味で、規模が小さい教会はそうした誘惑に対して強いですが、教会の規模が大きくなればなるほど、そうしたこの世的なものとの戦いが激しく、そして大変になっていきます。

 特に、牧師も信徒も、自分たちの教会がどんどん大きくなることを願っているようですと、そうした誘惑に陥りやすく、そのようにして教会が実際に大きくなるのですが、世代を越えて教会としてやっていけるかどうかは、かなり不透明なところが多いようです。


 ローマの信徒への手紙2章2節-15節
2)神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
3)このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
4)あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
5)あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
6)神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
7)すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
8)反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
9)すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
10)すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
神は人を分け隔てなさいません。
11)律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
12)律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
13)たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
14)こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
15)そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。


 では、たとえば牧師が自分の欲望・願望をあたかも「神の御心である」と思い込んで、教会全体を巻き込みながらキリスト教の伝道を行うことは、その結果として、いくらかの人たちは教会で傷つき、信仰を捨て、教会から去って行ったとしても、その数に比べれば、その教会で洗礼を受けて信仰者になった人の数がはるかに上回るのであれば、人間は誰しも過ちは犯す存在なので、そうした牧師も教会も、神の御前に正しいとされるのでしょうか?

 決してそうではありません。

 パウロの言葉を借りれば、「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」(ローマの信徒への手紙2:5~6節)ということです。


 ごく単純なことですが、この世でお金を儲ければ、お金持ちになれます。逆に、お金儲けをしなければ、お金持ちにはなりません。それは当然です。

 では、教会がこの世において行うことは、お金儲けでしょうか? 福音宣教でしょうか?

 それとも、「福音宣教=お金儲け」でしょうか?

 福音を宣教するとお金が儲かるのでしょうか?


 なぜ、教会は福音宣教を行うのでしょうか?
 あるいは、なぜ教会は信徒を増やさなければならないのでしょうか?


 おそらく、クリスチャンであればだれでも一度は考えるのではないかと思いますが、この世におけるキリスト教会は自己矛盾を内に秘めています。それは言い方を変えれば、「教会(あるいは教団)」という組織が本質的に持っている罪の部分です。

 これは加藤 隆氏がその著書で指摘していますが、キリスト教会は「福音」という「救い」によって、すべての人間を「救われる人」と「救いの必要な人(救われない人)」とに区別していると。たしかに、そうであるのです。



 では、パウロはこのところでどういっているのでしょうか?

 パウロはイエス・キリストの救いは完全であるけれども、しかし、それがわたしたちを自動的に天国まで連れて行ってくれるものではないことを、このところで説明しています。

 イエス・キリストの救いが実現してくれたものは、ユダヤ教の信仰における人と神との関係性の回復であって、それが回復してはじめて、わたしたち人間は神の御前に罪を自由に悔い改めるということが可能となったと理解しているのです。

 そして、問題は、その救いを受け入れた後に、それぞれの人間が、その生涯において犯すであろう罪について、あるいは発言や行動について、最終的に、「神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ローマ2:15)と言っているように、まさに「イエス・キリストによってすべての人が裁かれる日」に、そこではじめてすべてが明らかになるであろうというわけです。

 その意味で、イエス・キリストの救いは、そうしたイエス・キリストによる新しい人生の始まりを意味しており、当然、そうした新しい人生においてわたしたちがイエス・キリストによって与えられた命という恵みに対してどのように生きるか、人生をもって神に応答するかが問われているのです。

 つまり、その意味で、信仰は常に、神と個人との関係性が問題であって、教会という組織はそうした意味では本質的な問題とはならないのです。

 しかし、では、信仰が神と個人との関係性だというのであれば、教会はどうでもいいのかというと決してそうだとも言い切れません。なぜなら、わたしたちの信仰の原点として、そうしたキリスト教信仰を今日に伝える役割を教会が担ってきたからです。

 すなわち、キリスト教会が担っている大きな役割とは、すなわち教会が福音宣教の母体であると共に、それはまさに神を礼拝する礼拝をもって、わたしたちが礼拝を通じて、信仰生活をすることを通じて、世に証しすることによって福音宣教が実現するのです。

 その意味で福音宣教をけん引するのは、すなわち神さまであって、当然、教会は神さまに仕える、神さまの御言葉に聞き従うという具体的な行動、礼拝を通じてはじめて行われる神の御業であるのです。



 パウロは自分がこれから訪れようとするローマの教会の人たちに対して、「自分が行けばあなた方の教会は信徒も倍増し、献金も増えるであろう」とは決して言いません。むしろ、神の御前において、正しい信仰を保つことこそが大切であることを説明します。

 この世的な見せかけだけの発展・成長ではなく、信仰により、神の憐みと恵みによる真実の成長こそが、大事であることをパウロはここで示すのです。 
  

 

 ローマの信徒への手紙を読み進めていくためには、ある程度、パウロが示す世界・神・人間(ユダヤ人と異邦人)・罪・救いということがどういうものであるかを把握しておく必要があるので、まず、簡単に1・2章の内容のおさらいをしておきます。


 パウロはまず、1章から説明しているように、イエス・キリストによる救い、すなわち福音が特定民族のためのものではなく、ユダヤ人もギリシャ人も関係なく、すべての人に対する神の救いであることを宣言します。

 そして、この世界における大前提として、神は世界において御心(正義)を行われることが言われます。そして、そうした神の御心、言い換えれば「真理の働き」を妨げるものである人間の(信仰心や行いに関わる)罪に対して、神は怒りを現し、当然、そうした人間の行為に対して報いをもってかえりみられることを説明します(ローマ1:18)。

  たとえばパウロは、ローマ1:20において「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」と説明するとおりです。

  すなわち、パウロの示すキリスト教信仰の大前提は、世界とはそうした神によって創造されたこの世界において、神とはご自分の正義に基づく真理の働きを行われる方であり、その神の御前において人類はユダヤ人もギリシャ人もその他の異邦人もなく、すべての人間が等しく、神の大きな真理の働きの中に置かれていることを説明します。 

 つまり、わたしたちが生きているこの世界はそうした神によって創造され、神が支配する世界であり、その世界においてイエス・キリストの救いとは、ユダヤ人に対して限定的に示された神の救いではなく、人類すべてに対して開かれた神の救いの業であることを提示するのです。そして、その最初に神のそうした啓示、すなわちモーセの十戒をはじめとする律法を受けたのはユダヤ人であると説明するのです。


 では、そうした神から律法を与えられたユダヤ人は、神とのそうした契約を結んだ事により、当然、律法を遵守する責任を負うことになるのですが、その他の異邦人、すなわち神から律法を与えられていないギリシャ人は、当然、律法を知らない、神と契約を交わしていないわけですから、律法に「罪として規定されていること」をギリシャ人が行ったとしても、それは神と契約を結んでいないのだから罪を犯したことにならないのかというと、パウロはそれに対して「違う」と答えるのです。


 ローマの信徒への手紙2章6~14節
6)神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
7)すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
8)反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
9)すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
10)すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
11)
神は人を分け隔てなさいません。
12)律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
13)律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
14)たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。


 モーセの十戒をはじめとする律法はユダヤ人に対してしか示されておらず、その意味で、神の正義(あるいは、裁き)の働きはユダヤ人に限定されているように思えますが、そうなのではなく、この世界が神さまによって創造され、神さまがこの世界における唯一の正義なる方である限り、人類はその神さまによる支配下にあり、正義の執行を免れることはできないと説明するのです。

 すなわち、人類は神さまによって創造された被造物である限り、被造物として神さまの正義の前に立たされており、誰一人、神の裁きから逃れることのできる存在はないのです。そのことはたとえ律法を一度も聞いたことがない人間であっても、その行いにおいて神の御前に義を行うのであれば当然、神さまによって正しいこととされ、神の御前に悪を行うのであれば当然、その犯した悪に対する報いを受けなければならないということであるのです。

 それはすべての人間の中にいわば「良心」ともよべる善を行う要素を持つというような性善説を取るのではなく、ユダヤ人以外の異邦人にとってみれば、まさにそうした(善かれ悪しかれ)自分自身の生き方こそが、ユダヤ人にとっての律法と同じように、すべての人類が神の支配下におかれ、決断・行動といった事に対する報いを受けるというわけです。


 ローマの信徒への手紙3章1~4節
1)では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
2)それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3)それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
4)決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

 そうした主張を受けて、3章においてパウロはそうしたユダヤ人と異邦人において、まずユダヤ人が神によって選ばれ、律法を与えられたことについて、どういう優れた点がユダヤ人にあるのかについてこのところで以下のように説明します。

 神はユダヤ人を選ばれ、彼らに対して律法を与え、神と民という契約関係に入りました。その点で、他の民族に対してユダヤ人は、まず「神の言葉をゆだねられた」事が彼らにとって、他の民族に勝る大きな優れた点であるということが言えます。

 ところが、イスラエルの歴史においてユダヤ人たちは神の言葉に忠実であるどころか、むしろ不忠実であったのです。

 そうすると、神がそうした信仰的に不忠実なユダヤ人を選んだのは「神の過失」であって、「そのような先見の明を持たない神の裁きが世界において正しい」などと主張することはできないのではないか。すなわち、神の御言葉に不忠実なユダヤ人によって、その神までもが「世界において正しくない存在である」とされる事は正しいだろうか、そのような神に世界を正しく裁くことが可能だろうかと問うわけです。当然、パウロは「世界において正しくない神が、ご自分の正義に基づいて世を裁くことは不可能」とみるのです。

 つまり、「神の裁き」がまさに「正義」であるか、それとも「不義」であるのかを考える上で、人間が善悪の判断基準となり、神の善悪を裁くことができるかと言えば、「それはない」というのがパウロの主張です。

 なぜなら、神が創造されたこの世界において、人間はすべて被造物であるという事から、人間の内なる判断基準は当然、神の創造の後のものであって、それが神の創造を超えて正しいということはありえず、逆に、どれだけ人間が「正義」なる基準をもって神を裁こうとしても、この世界が神によって創造されたものである限りにおいて、「神の正義」の前には、人間の正義というものは存在しえないのです。

 それはイザヤ書にかたちを変えて言われていますが、基本的には共通した神理解・人間理解に立っています。

 『「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに/自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか/「何をしているのか/あなたの作ったものに取っ手がない」などと。』(イザヤ書45章9節)

 そして、パウロはそうした信仰的な神理解・人間理解に立つのです。

 

 パウロは、神を信じているユダヤ人もそうでない異邦人も、すべての人が神によって創造された被造物に過ぎず、いくらその人が神の御前において、自分が正しいと信じることを行ったところで、それは神の御前においては決して正しくあり得ないと理解しました。それはたとえば、ユダヤ人が律法に従って生活したとしても、それはその人が「自分は律法に従って生活をした」というだけであって、その人が神の御前において正しいか、正しくないかはどこまで追及しても分からないからです。

 つまり、神を信じている人も、神を信じていない人も、そのままで、あるいは自分が神の御前に正しいと思っていても、そうではなく、神が唯一の正しい方である限り、わたしたち人類はユダヤ人であろうが、異邦人であろうが罪人に過ぎないのだということをパウロは説明したのです。

 しかし、ユダヤ人はモーセの律法を通して、他の民族に先駆けて神の御心を知る、すなわち神を知ることの特権を受けました。ところが律法を行うことを通して、たとえそのように神さまから特別に律法を与えられ、また律法を守ったとしても人間は本質的には罪から救われえないということが、イスラエルの過去の歴史における一つの結論であったのです。

 人間の側からなる神に対する如何なる行為も神の御前において正義を主張することができないのであれば、ユダヤ人をはじめ異邦人にも人間をその罪から救いうる可能性はないことになります。

 ところが、まさに人間の可能性が全く潰えたところに、イエス・キリストの救いが明らかにされたのです。


 ローマの信徒への手紙3章21~24節
21)ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22)すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23)人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24)ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
 

 今や、ユダヤ人をはじめ、全人類に対して律法を守ることとはまったく関係なく、しかし律法と預言者によって「この方こそが救い主である」と立証されて、神の義がわたしたちに示されます。

 すなわち、この神の義、これまで論じられてきた「神の正義」が、まさにイエス・キリストという人物を通じて明らかにされた「神の御心」であったわけです。

 それまでユダヤ人に対しては、律法を完全に守ることを通じて、神の救い、祝福に与ることができると信じられていたところに、そうした事とはまったく無関係に、このイエス・キリストを信じる信仰によって全てが神の御前に正しいとされる神の救いが示されたのです。

 当然、それは全人類に対して示されたものであって、ユダヤ人やギリシャ人といった民族的なこと、あるいは社会的地位や年齢・性別といったあらゆる人間を差別することなく、神の側から一方的に、等しくすべての人に対して示されたのです。

 すなわち、イエス・キリストの救いによって示された人間を罪から救う神の救いの業は、それまでのモーセの律法を遵守することにとは無関係に、しかし、旧約聖書が預言したイエス・キリストを信ずる信仰によって、はじめて実現する神の救いであるのです。


 さて、ここまできて、3章の本論に入っていきます。

 イエス・キリストの登場以前の世界において、「神の救い」とはユダヤ人に限定されておりました。しかも、ただ「ユダヤ人である」ということではダメで、「ユダヤ人」という前提条件を満たしてなお、「律法の遵守」という律法の実践を通じてはじめて、神との関係が正常になり、その状態を維持することを通じて神の祝福を豊かに受けることができるものと信じられていたのです。

 それは、言い方を変えれば今日のキリスト教会の状況にもかなり近いところがあるわけです。

 今日のキリスト教会では、「キリスト教」がまさに当時のユダヤ教に相当し、「キリスト教徒である」ということが神の救いの前提条件として理解されることが多いのです。

 たしかに、神の救いは「信仰により」、わたしたちの(宗教的修行のような)行いによらずイエス・キリストを信じる信仰によって神の御前においてわたしたちは義(神の前に正しい者)とされるのですが、パウロが当時の人々に伝えようとしたことと同じように、「神の救い」は「キリスト教会の内側に限定された神の救い」ではないということです。

 案外にも、キリスト教会においてよく感じるのは、「自分たちこそが神によって救われた者である」という信仰理解です。その意味で、当時のユダヤ人の信仰としては、自分たちがユダヤ人であるからこそ、「神から見捨てられることはない」という楽観的な信仰観がありました。

 しかし、イエス・キリストの福音は、イエス・キリストを信じる者が信仰によって救われることを伝えますが、問題は、そのようにして「クリスチャンになったことが救いを確約するものでない」ということです。

 たとえば、わたしたちは洗礼を受ける時に「自分の罪の告白(「救いの証し」と言ったりもします)」ということを行い(ひょっとすると、こういうことをしない教会もあるかもしれませんが・・・)ますが、この「罪の告白」は洗礼を受ける時に、その人の生涯において「一回だけやればOK」ということかというとそうではありません。

 わたしたちはその生涯において一回だけ水による洗礼を受ければ良いのですが、それはキリスト教信仰における始まりであって、わたしたちはその生涯にわたってイエスさまの御前において、自分自身の罪の告白をすることの自由を与えられるのです。

 すなわち、洗礼を受ける時の罪の告白は、わたしたちの信仰の生涯における第一歩であって、それはわたしたちが生涯にわたって続けることであり、まさにわたしたちの罪の告白をもって、わたしたちはわたしたちの罪をすべて赦してくださる「イエスさまを信じる」ということが可能となるのです。

 ヨハネによる福音書13章8節
 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

 上記の御言葉は少し抽象的な感じをうけますが、「足を洗う」という行為が、「(あなたの)罪を赦す」という意味であると解釈するなら、イエスさまの弟子の中でも年長のペトロさえ、イエスさまの罪の赦し(ここでは「足を洗う」という行為)をいただかなければ、イエスさまと無関係になってしまうという、まさにそういうことであると理解できるわけです。

 すなわち、わたしたちは何をもってイエスさまを信じていると言うことができるかと言えば、それは「罪の告白」を通してはじめてであるのです。



 ところが、旧約の時代いおいて、またイエスさまの時代において多くの人が誤解した信仰的理解は「祝福(豊かさ)とはその人の信仰的な正しさによる」というものでした。

 それは神さまのみ前に正しく生きる人は、神さまの御前においてその人が正しいことから、その人は神さまから多くの祝福を受け、その結果として当然、豊かに祝福されるであろう、というものです。

 旧約聖書のひとつの表現方法として、神の祝福の多寡を、この世的な財産、すなわち金銀や子ども・子孫の数、あるいは年齢の多さによって表現されました。

 つまり、この世的に出世する人は、当然、神の御前において正しく生きているからこそ、神さまの祝福によってそのように出世するのだと昔の人々は理解したのです。それは案外、今日の教会においてもそれと同じように考え、判断されることが多々あるのではないでしょうか。


 ひとつ例をあげますと、教会で様々な集会を催し、その度ごとに献金を募り、牧師が会員に友人を連れてくるように勧める(命令)とします。その結果として、教会に多くの人が訪れ、献金も多くささげられることであるかと思います。

 すると、牧師はその結果に対してどのように教会員に言うかといえば、「みなさん、神さまに感謝しましょう! みなさんの熱い奉仕によって、わたしたちの祈りが神さまによって聞かれました。神さまが大いにわたしたちを祝福して下さいました!」というようなことです。

 では、それは本当でしょうか? 

 まあ、牧師はそう感じるでしょうし、信徒もそのように感じているでしょうし、すべての人が「何となくそうかな。」と思って終わりだと思います。

 では、キリスト教に限らず、他の宗教においても同じような事が起こるのであれば、そうした他の宗教においても、イエス・キリストの神が祝福してくださっているということなのでしょうか?

 あるいは、その逆を考え、いろいろやったけれども少しも人数が増えず、献金もささげられないというのであれば、それは「サタンの仕業」でしょうか? それとも「神に呪われている」のでしょうか?


 キリスト教会は、一種、この世の中にあって、この世とは隔絶した環境と言えます。そして、そこで起こる「良い事」は「神の祝福」と理解され、「悪い事」は「サタンの攻撃」というふうに理解されます。

 少し冷静になって考えればわかりますが、この世はそんなに単純ではありません。

 先の質問に戻って、教会員が熱心に奉仕をし、その結果、教会員が増え、献金が増えたというのであれば、それに対してわたしたち人間が言えることは、「わたしたち人間の努力という原因に対する結果がそうであった」ということであって、それ以上のこと、すなわち「これが神の祝福によるかどうか?」という問については、正直に「わからない。」としか言えないのです。

 旧約の時代、あるいはイエスさまの生きていた時代において、社会的に成功した人、出世した人、金持ち、権力者たちというのは、まさにその人の日ごろの行いが神によって正しいとされ、神さまからこの世的に多くの祝福を受けたからこそのものであると理解されていたのです。

 そして、そうした「理解」を根拠づけ、保証したのが、当時のイスラエルにおける宗教組織であったのです。

 確かに、中には神さまの御前において、清く正しく働き、まっとうな働きをなしてそうした地位に就いた人もいたことでしょう。しかし、福音書においてイエスさまによって告発されている「金持ち/サドカイ派」の人々の例を見ればわかるように、中には他人の不幸の上に自分たちの富を築いた人も少なくなかったのです。

 しかし、当時、そうした信仰的理解があったために、そうした金持ちが、自分の手を汚して得た金によって金持ちになったとしても、「自分がやった悪事は、神に罰せられるほどの悪事ではなかった」、あるいは「神はわたしの悪を罰することはない」と、むしろ自分の悪を肯定するようになっていたのです。

 しかも、そうして得た金を例えばエルサレム神殿に持って行き、そこで献金とするのであれば、祭司によって、その人は、他の人たちの前で、さらに多くの祝福をいただくことであろうと、一種のマネーロンダリングの状況に陥っていたわけです。

 そして、今日のキリスト教会における病理のひとつが、まさにそうした「(この世的)成功=神の祝福=その人の信仰的正しさ」というような理解にあるわけですが、それは、まさにイエスさまの時代のエルサレム神殿を中心としたイスラエルの社会全体がそうした病理に染まっていたことにさかのぼるのです。

 しかし、イエスさまはそうした信仰理解ではなく、神の祝福はいまやすべての人に対して明らかにされたのだと。そして、パウロもそうしたイエスさまの信仰を受け、神の救いは、そうした当時の信仰的と全く無関係に、すべての人に対して開かれたことを宣言したのです。

 そうだとするなら、「教会に人が増えた」「教会に人が減った」という事とは無関係に、神の祝福は世界に注がれているということになります。その意味で、「神の祝福」とは数量的に自明のものではなく、むしろもっと大きな規模で、例えば、天から雨が降るように、毎日、太陽が昇るように、神さまの祝福はそのようにわたしたちの「祝福」の概念を大きく超えたものとして理解する必要があるのです。

 マタイによる福音書5章45節b
 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 

 そうしてみると、神の祝福とは「神が生きて今も働き、わたしたちと共にいてくださる」という事であるというふうに理解するのが妥当というふうに見えてくるわけです。その意味で福音書におけるイエスさまの発言は、エルサレム神殿を破壊することばであり、当時のそうした宗教組織の悪を破壊することばであるという事ができるかと思います。

 そして、イエスさまによって「キリスト教会/エルサレム神殿」という容れ物はもはや問題ではなく、神さまの救いはすべての人に開かれ、そして、すべての人が神の言葉を聞く権利をいただき、それに対する信仰の応答することの自由が各自に与えられたのです。

 その意味で、イエスさまはこの世においでになり、わたしたち一人ひとりと出会う、その機会をわたしたちに与えてくださったのです。

 わたしたちに求められているのは、与えられたその生涯において、イエスさまと真に出会う事(自分の罪の認識と罪の告白)であり、そこで出会って、イエスさまに感謝の応答をする自由を与えられているのです。そして、その自由は当然、わたしたちの側で拒否することもできる自由であるのです。

 それは、まさにイエスさまを信じる、その信仰を通じて実現することであり、教会とはそうしたイエス・キリストを信じる人々が共に神を礼拝する場であり、それは決して、「キリスト教会」という場所ではなく、むしろ、イエス・キリストを信じる人々が共に集まり、神を礼拝する場がまさに「キリスト教会になる」のです。

 キリスト教会がまさにキリスト教会であるために必要なことはすなわち、「イエス・キリストを主として告白する兄弟姉妹が、神を礼拝するために集まる」ということであって、当然、そこでなされるのは「一人ひとりが神さまの御前において自分自身の罪深さを覚え、罪の悔い改めへと変えられること」です。

 そうしたイエス・キリストを「信じる」という、その中身がなく、ただ一種のサロンとして、キリスト教風の歌声喫茶のようなものとして、「キリスト教会」という看板の建物に集まって、自分たちが楽しんでいるだけでは、それはまさに「キリスト教風の建物・集会」というだけであって、「キリスト教会」とは決定的に異なるのです。

 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(ルカによる福音書19章46節)

 イエスさまが言われたこの言葉は、まさに今日のキリスト教会に対して語られている真実の言葉です。


 キリスト教会は信仰者・金持ち・健常者・若者といったような人々に限定的に開かれたものではありません。

 イエスさまが探し求められた人は、むしろそうした人ではなく、この世において神に見捨てられたと感じている人であり、貧しい人であり、病気の人であり、また子ども・女性といった当時の社会における社会的弱者をイエスさまは訪ね歩いたのです。

 当然、そうした人たちによる教会が巨大な礼拝堂を建てることは難しいでしょう。だからこそ、イエスさまの昇天後、使徒たちが建てた教会はほとんどが「家の教会」であったのです。それは今日的には「家庭集会」と呼ぶものだったのです。

 今日のキリスト教会に求められているのは、立派な礼拝堂という容れ物ではなく、場所がどこであれ、イエス・キリストのみ名によって集まり、神の御前に真実の礼拝がささげられるところが真にキリスト教会となることができるのです。

 


 ローマの信徒への手紙4章9~17節
9)では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
10)どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
11)アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
12)更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。 
13) 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
14)律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
15)実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。
16)従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
17)「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。


 ローマの信徒への手紙4章23~25節
23)しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
24)わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
25)イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。


 先の3章において、パウロは人間はすべての人が罪によって神の御前に滅びる定めにあることを明らかにしました。そして、そこから救われる可能性として、信仰によって人は罪から救われることが明らかになりました。

 イエス・キリストとは、まさにそのわたしたち全ての人間を罪の滅びから救済する唯一の存在として、パウロは信じ告白するのです。

 ところが、イエスとは、そもそもがユダヤ人として、ユダヤ人の中においてお生まれになった事からも分かるように、また旧約聖書の預言がいわゆる「全人類」を対象とするのではなく、あくまでも世界の中において、イスラエルの歴史を通じて、そしてユダヤ人の中のイエスという人物を通じて世に明らかにされた事から、当然、イエス・キリストの救いがまさに「全世界に対して、全人類に対して」ではなく、「イスラエルの民に対して」という形を取っていることから、それが「なぜ一度に全世界に対して、全人類に対してではないのか?」「なぜ、全世界・全人類の救いがユダヤ人という特定民族の中のイエスという形で示されたのか?」という疑問が起こります。

 パウロはそのことを、先にイスラエルの歴史において明らかにされたユダヤ教の律法との関わりにおいて、4章でそうした問いに対する回答を与えようとします。

 パウロはイスラエルにおける信仰の祖であるアブラハムの信仰に注目します。

 もともとアブラハムは旧約聖書を読むとわかりますが、アブラムと名乗っていた時に神さまから声をかけられ、神さまの約束される地へと家族を連れて旅だった人物であり、また、神さまによって息子イサクを生贄として捧げることを命じられたり、いろいろと旧約聖書においてはイスラエル民族の祖として知られている人物です。

 さて、ではアブラハムは何人かといえば、旧約聖書の記述に従えば「カルデア(バビロニア)人」になります。しかし、アブラムは神さまからの召しを受け生まれ故郷であるカルデアの地から旅立ち、また神さまから「アブラハム」という名前を与えられ、イスラエルの祖となるわけです。

 パウロはこうしたアブラハムの人生をまさに神の御前における正しい信仰の生涯と理解し、特に、モーセは神さまから律法を与えられますが、アブラハムはまだそうした律法とはほぼ無縁であることから、アブラハム物語のそうした特徴を元にして、「信仰による義」ということについて説明していきます。



 アブラハム物語は、アブラハムの生涯において、ある日突然、神さまからの一方的な介入にはじまります。
すなわち、アブラハムは信仰生活をしており、そうした信仰生活におけるアブラハムの神の御前における正しさが認められて神によって召されたのではなく、あくまでもアブラハムの信仰は、神さまからの介入によってはじまるのです。

 そこにおいて重要な事は、アブラハムはまったく「どこの誰でもなかった」という点であり、その「どこの誰でもない」アブラハムに対して神さまが声をかけ、それに対して、アブラハムはただ神さまの言葉を信じたということによって信仰の関係に入ったという点にあるわけです。つまり、他民族に対するイスラエル民族の優位性のようなものはまったくないというわけです。

 つまり、そういう意味において、ユダヤ人・イスラエル人に対して、まず神の救いが示されたということは、アブラハムの例でいけば、当然、「どこの誰でも良かった」という話になるのです。たまたま神さまが声をかけたのがアブラハムであり、神さまの呼びかけに対して直ぐに従ったということが、アブラハムの義(神の前における正しさ)であるのです。

 そして、当然、アブラハムはまだ割礼を受けていませんし(神さまに導かれるようになってから割礼をうけます)、そして神さまがアブラハムと結んだ信仰とは、それは「(神さまから与えられた神さまとの)約束」というものであり、それは当然、モーセの十戒にはじまる律法を守ることとは直接は無関係ということになるのです。

 ところで、神さまの人間の信仰による義が、まさに信仰によって人間が義とされるのであれば、アブラハム以後のモーセに対して示された十戒と律法とは一体何になるのでしょうか? アブラハムにおいて信仰が完成しているというのであれば、モーセの十戒・律法はまったく無意味ということになります。(そのことについてパウロは次の5章で、十戒・律法の必要性とは、それは人間が罪を認識するために必要であることを説明するので、この点については次の5章の説明にゆずります。)


 パウロは、そうした「信仰による義」が神さまのアブラハムに対する「約束」であって、そして、その意味は、アブラハムがただイスラエルの先祖として、信仰により神の御前に義とされたというだけに留まらず、いまやイエス・キリストの登場によって、その「約束」がすべての人類に対して明らかにされたのだと説明するのです。

 すなわち、パウロはアブラハムを信仰の模範として、その解釈は正しいのですが、イエス・キリスト以前におけるイスラエルの旧来の信仰(律法遵守によって人は神から正しい者とされ、神の祝福を豊かに受けることができる)を飛び越して、イエス・キリストの救いの旧約聖書における信仰の「ひな型」としたわけです。

 そういう意味で、福音書に報告されている歴史的なイエスさまの信仰と、パウロの解釈を通じて教えられるイエスさまの信仰とを比較すると、そういう意味では食い違うところもあり、研究者によっては「キリスト教=パウロ教」だという意見もあるくらいです。



 さて、まあここではそうした細かい事には踏み込まず、パウロのそうした信仰から見えてくる教会のあり方についてどういう事が言えるかというと以下のような感じになるかと思います。


1)神の救いはイエス・キリストの登場によって、全ての民族に対しての救いであることが明らかになった。

 教会の中では、よく世界をキリスト教会の「中」と「外」とに分けて考えられ、人を「キリスト者」「教会に来ている人」と「求道者」「未信者」という二分化して考え、前者は「救いが約束されている」けれども、後者の人は「救われないと滅びる」というような感じで教えることがあります。

 パウロの主張では、そもそもイエス・キリストの救いは、すべての人間に対して開かれたものとして説明されており、その意味において「救われないと滅びる」というような説明はあまり的確とはいえず、むしろ「すべての人が神の救いという約束を神さまからいただいているのだ」ということになるかと思います。

 また、上記のことと関係がありますが「キリスト者=救いが約束されている」ということではなく、厳密には「キリスト者=救いの約束を自分のものとした人」というような位置づけになるかというところです。

 クリスチャンでない人にとってみれば上記の違いはあまり分からないかも知れませんが、表現を変えれば「キリスト者=罪の告白が免除された」という意味ではないということです。

 別の言い方をすれば、「イエス・キリストを信じた人は、必ずしも天国に行くことが約束されているわけではない。」ということです。

 なぜなら、「キリスト者=救いが約束されている」ということであれば、「信仰者はたとえ罪を犯しても、イエス・キリストの救いは完全なので、それによってその罪が赦される」という事になるからです。


 ちょっと考えてみればわかりますが、「イエス・キリストの罪の赦し」というのは「キリスト者が罪を犯すための免罪符」ではないからです。つまり、一度、キリスト教の信仰を得て、その罪が赦されたのであれば、あとはどんなに罪を犯したとしても必ず天国に行けるとはイエスさまは言っていないからです。

 たとえば以下の聖書箇所がそうです。

 「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(ヨハネによる福音書5章14節)

 『女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕』(ヨハネによる福音書8章11節)


 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイによる福音書7章21節)



 また、非常に微妙なところですが、イエスさま本人がわたしたちの罪を赦すのではなく、イエスさまに言わせればそれは当然、神さまであって、その罪の赦しにおける最も大切なものが「あなたの信仰」であるという事であるのです。

 「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。」(マタイによる福音書9章22節)

 「イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」」(マルコによる福音書5章34節)

 「イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」(ルカによる福音書7章50節)他


 こうしてみると分かりますが、イエスさまはキリスト教を信じてキリスト者になった人物に対して、「もうこれで罪を犯しても、以後は罪にならない。」とは言わないのです。むしろ、「罪を犯してはならない」と言われるわけです。

 当然、イエスさまの教えに忠実であれば、キリスト者が(意図的に)罪を犯すことをも禁じています。 

 もちろん、「罪を犯す」とはわたしたちの「意図しない罪(過失)」の場合もありますので、犯してしまった罪については「罪を悔い改める」ことが、たとえキリスト者であっても当然、求められるのです。そして、それを実現するものがまさに「あなたの信仰」と言われる「わたしたちの信仰」であって、当然、牧師が罪を赦してくれるわけではありません。

 逆に、牧師、あるいは信徒リーダーのような人物が「あなたの罪は赦されない」とか、「あなたは罪(滅び)に定められている」とか、一種の信仰的な脅迫も当然、その人物の神の御前における大きな罪であって、「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(マタイによる福音書18章6節)とあるように、そうした人物が神の国に入れる可能性はもちろんわたしが言うことはできませんが、限りなく難しいと言わざるをえないでしょう。



 また、そういう意味で、すべての人がイエス・キリストの救いという約束によって教会に招かれているのであって、教会とは「キリスト者(牧師や特定信徒)の専有物・私有物ではない」という事です。案外、この事が実際問題として事件に発展することがよくあります。



2)キリスト教会・キリスト教徒の使命は「すべての人をキリスト者にすることが目的ではない」という

 こういうことを言えば、「ではキリスト者は何もしなくてもいいのか?」という質問を受けることが多いですが、わたし個人の見解からすればキリスト者の使命は「イエス・キリストを受け入れ信仰に生きる者とされたゆえに、神を礼拝し賛美すること」が目的であると理解します。

 なぜなら、わたし自身の経験がそうですが、「人をキリスト教会に招くのは神さまの導きによる」ものであるからです。それは以下の聖書箇所にも明らかです。

 「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒言行録2章46~47節)

 すなわち、キリスト者がキリスト者としての信仰生活をきちんと行うことが、まさに神の宣教の業であるのです。
  



3)神の救いである人間の罪の赦しは、神を信じる信仰によって実現するものである。

 神を信じる信仰が形として外に表れる時、たとえばそれが「礼拝出席」「献金の額」「禁酒・禁煙」といったものに反映されるとという話を聞いたことがあります。

 古い時代には確かにそのように教えていた事もあったので、今もそうした一種のキリスト教会の伝統のようなものとして教会に残っている場合もあるかと思います。

 しかし、「罪の赦し」は「罪の告白」によらなければ実現しないわけですから、当然、それは信仰によって実現するものであって、「礼拝出席」「献金の額」「禁酒・禁煙」というような実際的行動を行ったから「罪の告白をしなくても罪を赦してもらえる」とはなりません。

 逆に、神の御前において「罪の告白」を行い、洗礼を受けてキリスト者になった人物は、以後、「罪の告白」が免除されているのかというとそうではありません。


 イエス・キリストによる罪の赦しとは、言い換えるなら、「イエスさまが神さまとわたしたちとの間を取り持ってくださることによって、わたしたちは何時でもどこでもイエス・キリストの名によって罪を告白する時に、その罪を赦していただくことができる」という性格のものであるのです。

 つまり、「洗礼を受ける」とは「罪の告白を伴う信仰生活の始まり」であって、「一度だけ罪を告白したら、あとはどんなに罪を犯してもそのすべての罪が自動的に赦される」ということではないのです。

 むしろ、聖霊の助けによって、「わたしたちは常にイエス・キリストと共に居る状態に置かれているので、努めて、罪を告白し、罪を悔い改めることが求められている」というほうが正しいのです。

 だからこそ、イエスさまは救われた人に「罪を犯してはいけない」と言われるのです。



4)イエス・キリストこそがキリスト者において主である。

 先ほどの話と少し重複しますが、イエス・キリストこそがキリスト者にとっての唯一の主であり、それは言い方を変えれば、牧師はイエス・キリストに次ぐ、次の位ということではないという事です。

 その意味で、キリスト教会の中で牧師や特定信徒が礼拝等の式中において奉られるようなことがあってはなりません。

 キリスト教会におけるすべての権威はイエス・キリストに属し、イエス・キリストの下においては牧師も信徒も関係なく、信仰を共にする愛する兄弟姉妹であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもないのです。

 『このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。』(フィリピの信徒への手紙2章9~11節)


 しかし、キリスト教会の規模が大きくなるにつれて、組織が大きくなるにつれて、そうしたやり方では全体的な動きが取れないために、一種の上下関係のような仕組みが形成されることがあります。

 そうした「仕組み」自体が悪なのではないですが、問題は、それを利用して牧師(あるいはその他の特定信徒)が本来ないはずの権威を教会の中で振るったりする事が起こるわけです。

 その意味で、そうした罪から離れるためにも、キリスト教会は「あまり大きな教会にならない」というのが得策ということになります。


 イスラエルの過去の失敗から学ぶのであれば、教会組織が大きくなれば、人間は罪人に過ぎないので、当然、その組織の中が人間の罪によって汚染されてきます。そして、まさにそうした人間の罪をほったらかしにした結果、信仰共同体の中で搾取が起こり、不正が蔓延し、結局は神の裁きによって滅びるという結末を迎えたのです。

 しかし、案外、そうしたことを学んでいない教会があるということと、よほど気をつけていないと、そうでない教会もいつかはそうなってしまう危険性を常に秘めているということです。
 
 

 ローマの信徒への手紙5章1~11節
1)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
2)このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
3)そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
4)忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5)希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

6)実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
7)正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
8)しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
9)それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10)敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
11)それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

 キリスト教会における誇りであり、キリスト教会がキリスト教会であることの大切な点は、パウロがまさに1節で言っているように「神との間における平和」です。

  そして、キリスト教会はこの地上において、そうした「神との間における平和」、すなわち「神と人との和解」の上に成立する「人と人との和解」が、キリスト教会における大切な点となるわけです。

 それはキリスト教会とは、まさにイエス・キリストの救いに与る人が、互いに平等に、身分や性別、大人も子どもも等しく神を礼拝し賛美できるという自由が保障される信仰共同体であることを言っています。


 しかし、この世におけるキリスト教会は、ただそれだけの存在ではないことをパウロはその次において言っています。

  それは、3節の冒頭で言われているように「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」という、キリスト教会がこの世において「迫害・困難」に遭遇するものであることをパウロは肯定するのです。

 キリスト教国でない日本において、キリスト者が信仰的な少数者であることは、それだけ多くの人にとってキリスト教が信仰的に見て理解されにくい面があります。

 たとえば、多くの人のようにキリスト者は、神道や仏教などの慣習的な行事に対しては関わりを持たなかったり、教会によってはかなり強くそれを拒否することを信徒に教育するようなところもあるかと思うからです。そうした点を見て多くの人は「キリスト教は変わった宗教」というふうに思われることもあるのだろうと個人的にも感じます。


 ただし、わたしたちがこの世においてキリスト者であると証しすること、すなわち「日曜日の礼拝を(可能であれば)守る」というような、ごくキリスト者にとって当たり前の事柄を大切にすることは、それはキリスト者がキリスト者であることを自分自身に対して、またそうでない人たちに対するキリスト者としての生き方の提示であって、それはキリスト者にとって大切なことではありますが、しかし、あくまでもそれはわたしたちの信仰の一面に過ぎないということであるかと個人的に理解しています。

 むしろ、わたしたちがキリスト者として最も大切にしなければならないのは何かと言えば、わたしたちがイエス・キリストの罪の赦しによって、罪を赦された罪人としての自覚に立って、自分が置かれている場において隣人愛に生きるという点でないかと思います。

 個人的には、それがわたしたちキリスト者の信仰の一番の核であって、「日曜日に礼拝を守る」「お祈りをする」等々の信仰的行為は、その核の外側に位置する部分的な行為であるかと思うのです。

 そして、そうしたわたしたちキリスト者の信仰の核である「わたしはイエス・キリストによって救われた者である」という核心部分は、例えば、歴史的な「キリシタン弾圧」のような事でもない限り、現状の日本においてはそこまでの強烈な信仰的迫害は起こっていないのではないかと思います。


 むしろ、現状のキリスト教会においては、パウロのいう「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」という「苦難」が別の意味において理解され、牧師あるいは教会の指導者たちによって悪用されることが問題であると思います。

  すなわち、たとえば牧師が今よりももっと教会を大きくしたいという願望を持ち(その事をみんなの前に言うこともありますし、そうでない場合もあるでしょう。)、そのために教会員を自分の手足として使うために、そのための苦しみや困難が、まさにパウロの説明する「苦難」であると説明するのです。

 そして、そうしたやり方が定着してくると、今度は、そうした「苦しみ」や「困難」キリスト者の信仰の成長・信仰の成長に大切であるという風に教会の中が変質化してくることでしょう。

 そこでは自分から率先してそうした困難を引き受けるキリスト者が他の会員から賞賛を浴びるようになり、牧師もそうした人物を大事にするようになるわけです。


 個人的な感想を言えば、カルト化する教会は上記のような仕組みが教会の中に出来上がっている場合が多いのではないかと思います。より教会の中で奉仕する人が賞賛を受け、奉仕の少ない人は当然、その教会に居づらくなり教会を去っていくわけです。

 しかし、そうした教会を自由に去ることが選択できればまだいいですが、まさにそうした教会で信仰を持って救われた人は、なかなか自分が救われた教会に対して反旗を翻ることが困難であることが多いかと思います。

 これは旧約聖書の見方ですが、人間の罪、人間の悪意はそうした雪だるま式に悪くなっていくことが多々あります。そうした人間の罪や悪意の連鎖は一度それがシステムの中に組み込まれてしまうと、途中でそれを止めたりすることはできません。また、そうしたシステムの中に居る人が、そうした事に気づいたとしても、教会がそうした手法によって成長するようになると、「手遅れ」としか言いようがありません。

 まだ、教団教派に所属し、牧師の交代が起こる環境であれば、場合によっては牧師の交代によってその事にブレーキがかかる場合もありますが、およそそうした形で(急)成長する教会は単立教会であることがほとんどで、結局のところその牧師が辞めるか、あるいは牧師の代替わりによって指導力が弱くなったりして、教会も小さくなるのが関の山かと思います。


 ごく基本的なことですが、キリスト教会はあくまでもキリスト教会であることがその本質であり、それ以外ではありません。

 キリスト教会はその信仰において悪を選択することは多くありませんが、偽善を選択することは多々あります。
そして、そうした偽善がまさに「神の御心であり正義である」と勘違いした先に、先のようなキリスト教会の破滅が待っています。

 教会の破滅は、いわゆる人口減少のように徐々に起こってくるものではありません。そうではなく、むしろ絶頂の時に起こるのです。それは、牧師や指導者の悪が目に見える形で教会の中にあらわれるようになり、そうなるともう後に引き返すことは不可能です。

 当然、そうなる以前から、そうした教会には神さまからの罪の悔い改めの言葉が注がれていたと思いますが、牧師や教会の指導者たちがそうした神の言葉に耳をふさぎ、神の言葉に反逆するようになった時点で、教会の将来はほぼ確定する形になります。

 その意味で、特に牧師が、教会において誰よりもまず自分の罪を悔い改める者であることが大切です。イエス・キリストの救いが罪の告白にある限りにおいて、牧師が自分の罪の告白や悔い改めを疎かにすれば、その代償はその教会の破滅と同等であることを覚えておかないといけないのだと、そのことを自分自身もいつも忘れることのないようにしています。
 

 ローマの信徒への手紙6章1~2節
1)では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
2)決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 

  ローマの信徒への手紙6章8~13節
8)わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
9)そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
10)キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
11)このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
12)従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
13)また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。 

 この世においてキリスト者として生きるとは一体どういう事であるか? また、この世におけるキリスト教会とはどのようなものであるのか?

 パウロは、イエス・キリストの救いによって罪を赦され、救われた人は、救われた者として神の御前に生きるようになるはずだという風に説明します。

 それはそれまでの生き方とは決定的に異なる生き方であり、イエス・キリストを信じ、その救いを受け入れることは、「罪に対する決別」と「神の御言葉に従って生きる」という、この二つのことがキリスト者において実現されていることが大切であると説明します。

 その意味で、「罪の赦し」とは一切の過去における罪であって、問題は、それが「自分が将来、犯すであろう罪までを含んでいない」という点にあります。

 すなわち、イエス・キリストによって罪を赦され、救われた人は、「将来にわたって罪を犯すことがない」のではなく、常にわたしたちと共にある神の言葉によって、自分の罪を示されることから、自分の罪を自由に告白し、悔い改めることが可能となり、結果として、罪から離れて生きることが可能となるということであるのです。

 そして、キリスト教会は、まさにそうした生き方を志す兄弟姉妹が共に集い、神を礼拝する場所であるわけです。



  ローマの信徒への手紙6章15~16節
15)では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
16)知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。 

 ローマの信徒への手紙6章22~23節
22)あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
23)罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
 
 その意味で、キリスト者とは「イエス・キリストを選択する者」ではなく、本質において「イエス・キリストによって選ばれた者」であるわけです。

 そして、そのことは当然、先の1~13節までのところからも分かるように、「選ばれた」とは言いますが、しかし、そこにおいて、自発的に信仰的な決断をすることが大切であり、「そのように神さまから期待されている」ということであるのです。

 ところが、キリスト教会は信仰者の集まりであると共に、同時に、それは罪に弱い人間の集まりでもあります。

 わたしたちが罪の支配から神の支配に移されているように、まさに罪から自由にされていることを十分に生かし切らない限り、わたしたちは1節にもあるように「罪にとどまろうとする」内なる力が働くのです。

 そうしたわたしたちを滅びへと導く罪の力がごく個人的なところで適正に処理されていれば良いですが、わたしたちの社会を見回すと分かるように、個人的な罪は個人に留まらずに、だんだんと共同体、すなわち教会を汚染するようになります。

 仮に、教会がそうした人間の罪によって支配されるようになってしまった場合、その行き着く先は破滅です。

 パウロは、罪が支払う報酬が死であり、しかし、罪から離れ、神の導きに生きる時に、その行きつく先は永遠の命であると説明するのです。

 すなわち、パウロに言わせれば、まさに人間も教会も、その信仰(生活)によって行きつく先は決まっているということを明言するわけです。


 わたしたちは本当の意味で、そうしたことを大事にしているかどうか? 案外にもサタンの誘惑するこの世的な繁栄を求めることが多いのではないか、そのように思うところです。
 

 ローマの信徒への手紙7章5~6節
5)わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
6)しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。 


 ローマの信徒への手紙7章18~25節
18)わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
19)わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
20)もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
21)それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
22)「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
23)わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
24)わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
25)わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 


 キリスト教会において、「救い」とはすなわち「イエス・キリストによる罪の赦し」として理解されています。

 当然それは教会の中において、「救われた者」「まだ救われていない者」という価値観を与え、たとえばナザレン教会のような「聖霊のバプテスマ」といったようなことを信じている教会においては、さらに「救われた者」はさらに「聖霊のバプテスマを受けた人」「聖霊のバプテスマをまだ受けていない人」というような区別をもたらし、場合によっては、さらにその先に「聖霊のバプテスマを受けた証拠」として、異言・癒し・預言といった一種の聖霊体験を強調するキリスト教会もあります。

 これらの「聖霊のバプテスマ」「異言」「癒し」「預言」といった事柄については、聖書に書かれている事柄でもあるので、「そうした事はあり得ない」ということはしませんが、教会において問題となるのは、こうした事柄が、その教会の中において信徒間、あるいは求道者と信徒との間における支配・被支配の仕組みとして用いられることが、教会が注意しなければならないことです。

 いわゆる奇跡によってその人の生き方が変わることはあるでしょうが、問題は、こうした「異言」「癒し」「預言」などの事を「行う事ができた」という事が、信仰においてどれほどの意味があるのかというところです。

 ある教会では、まさにそうした奇跡を行うことができることを信仰のバロメーターのようにして捉え、たとえば「ある信徒が祈りによって病気を癒すことができる」というような場合に、その信徒は教会の中において、求道者よりも偉いのでしょうか? あるいは「癒しを行うことのできない他の信徒よりも信仰的に勝っている」という事になるのでしょうか?


 こうした「異言」「癒し」「預言」といったような聖霊の働きによる一種の霊的な能力を指して「(霊的)賜物」というふうにキリスト教会では言ったりします。

 しかし、キリスト教会でいうところのこうした「賜物」は、「その人の能力」ではなく、その人に対する神さまの憐みによる一種の贈り物と同じで、そうした現象の源は神さまであって、その人の能力としては理解しないのです。

 すなわち、くだけた言い方をすれば、それは「超能力」とは異なるのです。

 
  つまり、キリスト教の教会において、求道者も信徒も、そうしたことが可能である信徒も含めて、基本的にはみな同じ「罪人」なのです。


 先に書きましたが、「キリスト教の救いはイエス・キリストによる罪の赦し」であって、それは何か人間を本質的に造りかえるものかというとそうではありません。

 イエス・キリストの救いによって変化するのは人間ではなく、神さまとその人との関係性が変化するのです。

 その意味で、まだ信仰告白していない人であろうが、既に信仰を持つようになった人であろうが、キリスト教会の中において、そうした信仰による上下の区別のようなものはないのです。

 当然、それはプロテスタント教会がそうですが、牧師の信徒との関係も、ただ役割が異なるだけであって基本的には皆が一緒という理解に立つのです(「万人祭司」と言います)。



 ところが、中にはそうした事柄をもって教会の頂点に牧師が立ち、その中において信徒の階級制のようなものを形成し、信徒を自由にコントロールしようという教会も中にはあるのです。

 もちろん、それはキリスト教会の中における組織化であって、決してこうした組織化がすなわち悪なのではありません。 問題は、そうした組織化が教会全体のためではなく、何か別の目的のために利用されたりする場合に、それは問題となってくるのです。

 その意味で、信徒数が多い教会ほどこうした組織的な課題が大きくなることは想像に難くありません。

 教会が大きくなることは悪いことではありませんが、しかし、そこにはサタンの誘惑も強力になってくることを覚えておく必要があるのです。



 さて、パウロはそうしたキリスト者とは、ここで言っているように、その救いの前と後とにおいて、何か人間が新たに造りかえられるのかというと、たとえイエス・キリストを信じ、その罪の赦しに与ったとしても、決して人間が「聖なる存在に変わるわけではない」ということを明らかにしようとしています。

 その意味で、キリスト者とは「救われた罪人」であって、本質において、わたしたちが人間である限り、「罪人」であることから完全に自由になることはできないのです(もし、そうであれば聖霊もイエス・キリストも不要になるので)。

 だからこそ、求道者も信仰者も本質においては共に「罪人」であり、その違いは、イエス・キリストによって罪の赦しを得ているか、得ていないかというような、神さまとの関係性の違いしかないということなのです。


 そうなると、キリスト教会とは、そうした人たちが互いに集い、共に神を礼拝するところであり、キリスト教会における組織化は、まさにそうした「共に神を礼拝する」という目的を実現するための組織化であって、あるいは、そうした相互の交わりのための組織化であるべきであるという事が見えてくるかと思います。


 つまり、キリスト教会における組織化は「仕える」ための組織化であり、「誰かを仕えさせる」ための組織化ではないということです。

 当然、牧師は「信徒に仕えてもらう」ために存在するのではなく、「信徒に仕える」ために存在するのであって、それは基本的な事でありますが、案外にも、「牧師のワンマンのための信徒」というような理解でいる教会もあるんじゃないかなというところです。


 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(マタイ23:11)

 別に牧師は偉いわけではないですが、牧師の本分は教会員に仕える事であり、教会員に仕えてもらうことではないということです。


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