山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

カテゴリ: パウロの直筆の手紙


 コリントの信徒への手紙1 7章1~2、17~19節
1)そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
2)しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。

17)おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
18)割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。
19)割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 

 コリントの信徒への手紙1 7章は全体的にはキリスト者が結婚する事に対して、それが信仰的に問題があるのかどうかという事について、コリントの教会の人たちが質問を送って、その質問に対する応答という形で記されています。

 まず、7章における全体的な説明をするのであれば、こうしたやり取りが始まる前において、パウロがコリントの教会の人たちに教えた事は、それこそ今日的にいえば修道者生活のように生涯独身を貫くような、禁欲的な生活であったのです。

 当時のギリシャ・ローマといった世界における性に関するモラルは、どちらかといえば非常にルーズであり、下手をすると「なんでもあり」の世界であり、当然のことのように妻以外にも愛人を持つことは社会人の嗜みのようなものとして理解されていたのです。

 そして、まさにそうしたことが一般常識である人たちに対して、「正しい信仰は生涯独身のような禁欲的な生活によって実現される」というような事を教えた事によって、当時のコリントの教会の人たちは大いに衝撃を受けたのです。

 パウロは1節において、そうした経緯があったことを「そちらから書いてよこしたことによれば」と、そうしたやり取りがあったことをほのめかしながら、以下に、キリスト教信仰に基づく人生観、および結婚観を提示するのです。

 あれこれと書かれていますが、それはすなわち今日的「一夫一婦制」であって、そのことは特に問題ではありません。

 結論から言えば、信仰者の信仰生活において大切なことは、「結婚」という信仰生活の具体的一面についてではなく、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、大切なのは神の掟を守ることです。」というところに集約されます。

 つまり、キリスト教会というものは、そうした信仰的な自覚をもった信仰者ひとりひとりによって形作られるところであり、そのように神の言葉であるイエス・キリストに従う一人一人の信仰者によって成り立つものであるということが重要なのです。

 そして、そうした教会を形成する信仰者ひとりひとりに求められているものがまず、上記の「おのおの主から分け与えられた分に応じ」ということで、それは救いにあずかる以前と以後とにおいて、その生活を劇的に変化させる必要はないということです。

 イエス・キリストの十字架と復活によって実現されたわたしたちの罪の赦しは、「罪を赦す」ということがその本質的な出来事であって、パウロはそこで具体的に「割礼を既に受けた者が割礼の痕を無くそうとしてはならない」と、自分自身の身体に刻まれている傷跡について、そうした痕をまた人為的に無くす必要はないことをここで教えています。

 すなわち今日のわたしたちで言えば、神の救いは、まさにわたしたちが今生かされている、わたしたち一人一人の日常生活の中において実現する神の救いであって、キリスト者になるということは、そうした日常生活から離れて禁欲的な集団生活を行うようなものではなく、むしろ、救われて後も、それまで普段の生活と同じように生活することを勧めているのです。

 しかし、大切なのはそうした普段の生活であっても、そこにおいてイエス・キリストの教えに反する、すなわち「意図的に罪を犯す」ことはダメであり、普段の生活においても、そうしたイエス・キリストの教えの実践が求められるのだ、それが具体的に示されているのが「神の掟を守ること」ということであるのです。

 では、ここで言われている「神の掟」とは何かと言えば、それは個人の生活においては信仰生活のことであり、また社会生活においては「イエス・キリストに従うこと」であり、たとえば具体的に例を上げれば「隣人愛の実践」ということになるのです。

 その意味で、コリントの教会の人たちにとってみれば、自分の周りはみんなが性的に放縦な生活をしている中にあって、自分だけはそうした他の人たちと同じ生き方をするのではなく、節度とモラルをもって生活することをパウロは教えたのです。

 しかし、パウロの本音としては、「キリスト者は生涯独身」ということが頭にあったのでしょう。

 パウロの同労者であるアキラとプリスキラはパウロと同様の信仰をもっていましたが二人は結婚していました。パウロが「生涯独身」を声高らかに言えば、アキラとプリスキラは別れなければならなくなります。その意味で、コリントの教会の信徒ですでに結婚した人たちが結婚を解消してまで「生涯独身」に拘ることは、信仰の本質的な問題ではないとパウロは見ているのです。



 コリントの信徒への手紙1 8章8~13節
8)わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
9)ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。

10)知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。
11)そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
12)このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
13)それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 パウロの生きていた時代、まだキリスト教はユダヤ教と完全に決別ができていたわけではなく、紀元70年ごろにエルサレムとエルサレム神殿がユダヤ戦争によって破壊されるまでは、エルサレム神殿に対する信仰とまた、そうしたユダヤ教律法の拘束力・信頼性というのは非常に高かったのです。

 そういう意味では、地方に暮らしていた離散のユダヤ人もそうした影響を受けており、まったくギリシャ・ローマ社会に生まれた者とによって形成されていたコリントの教会においては、いろいろとそういった面において信仰の上で大きな問題となていたのです。

 具体的には、異教祭儀に供えられた肉を食べることはキリスト教信仰においては罪を犯すことになるのではないかという事と、あるいは普段の社会生活の中において、そうした異教祭儀の肉をキリスト者として食べざるを得ない状況になった時に、キリスト者は信仰を理由にしてそれを断るのが正しいのか、というようなことがパウロに対して質問されていたのです。

 パウロは、この事柄について、偶像に供えられた肉を食べる事によって、わたしたちの信仰が何かしらの影響を受けることはないのだと説明し、そうしたキリスト者でありながら異教祭儀に加わることは信仰において禁止こそされないけれども、しかし、それがもし、キリスト者として他の信仰者をつまづかせるような事になるのであれば、わたしの個人的な判断としては、わたしは今後、そうした偶像に供えられた肉を食べることはしない(つまり、現在までその肉を食べているけれども、今後はそうしない)ことを伝えたのです。



 さて、今日、キリスト教会において、特別に、何か「信仰的に禁止される食物」があるかというとそれはありません。となると、この聖書箇所は、わたしたちには意味のない言葉のように思うかもしれませんが、そうではありません。

 わたしたちがキリスト者としてこの世において生活する限り、たとえば神社など、他宗教の祭儀との関わりが避けられない場合があります。たとえば、仏式のお葬式に出席するような場合がまさにそうした具体的な例となりますが、そうした他宗教の祭儀との関わりをキリスト者はどう理解し、行動すれば良いのか。

 パウロのこの8章の記述をみると、結論から言えば、「そうした他宗教の祭儀に参加する」という出来事がわたしたちの信仰に与える影響はない、という事です。

 ただし、パウロはそれに続けて、「しかし、キリスト者としてそうした宗教祭儀に参加する事によって、それが他の教会員に対して悪影響を及ぼすような場合は、そうした宗教祭儀に参加することは控えた方が良い。」ということになるかと思います。

 そうした信仰の考え方は、パウロはすでに5章10節「その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。と言っているとおりです。

 すなわち、わたしたちはこの世において、キリストの救いの証人としてこの世の中に生きることが求められているのであって、この世から隔絶したところで隠遁生活をするわけではないからです。


 しかし、キリスト者が注意しなければならないのは、そうした特殊な隠遁生活ではなく、キリスト者はそうしたこの世の罪の満ちた世界において、イエス・キリストの信仰によって、その福音の指し示す指針に基づいて発言・行動しなければならないという点です。

 キリスト教会はそういう意味では、他宗教との関わりこそ大きな問題とはなりませんが、キリスト教会が「この世的繁栄」に対して、そうした「人間的欲望を良しとしない」という決断をとることが大切なのです。

 教会もこの世の中において存在する限り、この世の経済から独立して存在することはできません。

 キリスト教会もやはり電気・ガス・水道といったライフラインを受けている関係において、教会の運営にはお金の問題が常に付きまといます。

 しかし、そこにおいて信仰とこの世的価値基準と二重の価値観を教会は混同しないようにしないといけません。

 なぜなら、教会運営においてこの二種の価値観が混同される時に教会は大きく過つからです。

 『イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。』(マルコによる福音書12章7節)

 イエスさまの言葉に上記のものがありますが、「皇帝のもの」、すなわちこの世に属するお金の類の話については、きちんとこの世に属する価値観において判断し、それを信仰的に考えて判断しない、というようなことです。

 たとえば、教会は献金収入がありますが、それをまさに「皆が神さまにささげたものだ」として、牧師が勝手に使っていいということにはなりません。

 「皇帝のものは皇帝に」とは、たとえば金銭管理についてはこの世の金銭管理のルールに従って、正しく会計を調べ報告し、教会でその使途について話し合われ、決断され、正しく運用されるということが守られなければならないということです。

 もちろん、イエスさまがそうした教会運営を念頭に話をすることはありませんから、それはわたし永野の個人的な解釈なのですが、特に小さい教会においては、牧師の財布と教会の会計とが一つであることもあるために、最初の内は予定外の出費などに牧師が自腹を切ったりすることもあるのです。

 ところが、教会の規模が大きくなってくるとそれではどこからどこまで教会の会計でどこからどこまでが牧師の家計なのか分からなくなってきます。そういう意味では、ある程度、額の小さいうちからでもそこらへんをきちんとしておくという習慣が教会には必要なのだと思います。


 しかし、教会がこの世において教会活動を続ける上で、やはりそうした教勢(教会の会員数の動態、教会の収入支出の動態)について、それが教会の中で議論されることもあり、「教会(礼拝人数)をもっと大きなものに!」「献金がもっと与えられるように!」というような声が上がってくるのです。

 しかし、教会に信徒が与えられることも、また教会に献金がささげられるのも「神さまもの」であるなら、それはまさに礼拝においてわたしたちの感謝として「神さまにお返しするもの」であって、教会がそうした「信徒獲得」「献金倍増」というようなことを目標とすべきではありません。

 それは、教会をあげて神さまに対して「あなたが下さっている恵みは少なく、もっと恵みを多くください」と要求しているのと同じであって、それがはたして信仰的に正しいかどうかと言えば、それは大きな疑問です。

 むしろ、パウロがコリントの信徒への手紙2で、『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』(コリントの信徒への手紙2 12章9節)と言っているように、教会はむしろ、今与えられている恵みに感謝しつつ、それを大事にしながらこの世において教会運営を行うべきではないかというのが、わたしの個人的な感想です。


 上をみればきりがなく、欲望を抱けばきりがありません。そうした人間の欲望に対して、キリスト者は、決して流されてしまうことのないように、だからこそ、日ごろから自分自身の罪の告白によって、そうした人間の欲望に対して心を奪われてしまわないようにしなければならないのです。

コリントの信徒への手紙1 9章3~7節、23~27節
3)わたしを批判する人たちには、こう弁明します。
4)わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。
5)わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
6)あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。
7)そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。 

23)福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
24)あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
25)競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
26)だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
27)むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 


パウロは、自分自身の確信するところの信仰生活は、当時の初代エルサレム教会の人たちの信仰生活とは幾分かの違いがありました。

それは具体的には、他の十二使徒たちや主の兄弟ヤコブ(イエスさまの血縁上の兄弟)やケファ(シモン・ペトロ)たちが妻帯しているのに対してパウロは独身を貫こうとしていることや、独身生活を勧めていたこと。あるいは十二使徒たちは、他の信徒からの献金によって生活をしていたのに対して、パウロやバルナバ(パウロを指導した人物)たちは、むしろ自分たちで生活費を稼いでいたことがありました。

パウロはここで、十二使徒たちが妻帯しているような権利、あるいは、自分たちが信徒の献金によって生活を立てるという権利(実際、パウロたちは自分で生活費を稼いでいた)において、十二使徒たちとパウロとの間に、何か決定的な違いがあるだろうか、ということをコリントの教会の人たちに対して弁明しています。

そして、そうした権利については、十二使徒たちと同様、自分たちにも結婚する権利や信徒の献金によって生活する権利をパウロたちも当然の事として持っているのだということを言うのです。

しかし、ここで、復活のイエスさまによって使徒とされたパウロにとって、そうした権利を自分も持っているが、しかし、あえてわたしは「結婚すること」や「信徒の献金で生活を立てること」を、信仰的な決断によって「自分は行使しないのだ」ということをこのところで主張するのです。

パウロはこの24節において、「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」と語っています。

すなわち、イエス・キリストの御前において罪を告白し、洗礼を受けてキリスト者になったら、天国行が確定するのかと言えばそうではないことをパウロは言っているのです。


キリスト者は、一度、救いにあずかったのであれば、そこからが信仰生活のはじまりであって、それはまさに「賞を受けるまで」、すなわちわたしたちが地上での生涯を終えて天に凱旋するその時に、まさに天国の門を通過するまでは、キリスト者は決して罪の告白・罪の悔い改めを怠ってはならないというわけです。

その意味で、洗礼を受けてクリスチャンになることがわたしたちの目標ではないのです。


わたしたち人間の目標は、まさにわたしたちが地上における生涯を終えて天に凱旋する、その天国の門を通過するための地上の人生であり、そのための教会生活であるのです。

その意味で、教会生活も普段の信仰生活においても、弛まぬ罪の告白と罪の悔い改めが求められており、まさにパウロはそうした信仰生活をもってはじめて、天国の門を凱旋する可能性を手にすることができるのだということを言っているのです。

その意味で、わたしたちが礼拝を守るということは、まさに罪の告白と罪の悔い改めを行うということであり、罪の告白と罪の悔い改めが、礼拝において一人一人の内で行われるからこそ、その罪の赦しの喜びによって、わたしたちは主なる神を心から褒め称えることが可能になるのです。そして、そのように心から主を賛美することができるのです。

その意味で、礼拝の賛美は、まさに救われた喜びがその根源であって、音楽の発表会ではありません。また、宗教的カラオケでもありません。


そして、パウロは、まさに自分がそうしたことをコリントの教会の人たちに語る上で、自分自身がそうした信仰的な節制を行っていることを告白するのです。

なぜなら、パウロができないことをコリントの教会の人たちに命令しても、何の説得力もないからです。


それは、教会において牧師は、信徒の誰よりもそういう意味では、神の御前にへりくだり、神の御前において教会員の誰よりも聖書の御言葉に耳を傾け、イエス・キリストの言葉に聞き従い、そして自分自身の罪の告白をし、罪を悔い改める者でなければならないということであるのです。


口で言うだけで全く実践が伴わない牧師、すなわち神の御前において罪の告白と罪の悔い改めができない牧師は牧師失格ということです。

パウロは自分自身のことも含めて厳しく、「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 」と告白している通りです。

そういう意味では、まさに教会が教会であるためには、牧師が牧師として、神と人との前において正しく罪の告白と罪の悔い改めができているかが重要だということです。



コリントの信徒への手紙1 10章12節、14節、15節、31~33節
12)だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

14)わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
15)わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

31)だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
32)ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
33)わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。


パウロは「サタンの誘惑」というものは教会の外にもあるけれども、むしろ「教会の中」、また「クリスチャン同士の間」にも「サタンの誘惑」があるのだということを教えています。

それは「立っていると思う者」とあるように、すなわち、「自分は信仰によって救われている」というふうに考える信仰者の心の油断が、まさに危険であることを言っているのです。

信仰者でない者が信仰でつまづくことはなく、むしろ信仰者こそが信仰でつまづくのです。


そして、そうした教会の中において、あるいは教会員同士の間にあって注意すべきつまづきが、ここで言われている「偶像礼拝」なのです。

ここでいう「偶像」とは、いわゆる「木彫りの像」などではなく、むしろ教会においては「教会成長」や「献金倍増」、「信徒獲得」といったような、「この世的な繁栄を教会にもたらすもの」であったり、あるいはパウロがその次の節において指摘しているように、「クリスチャン一人一人の思考力を奪うもの」であったりするのです。

パウロは信仰とは、まさに聖書の御言葉に基づき、その御言葉を通じて示されるイエス・キリストの言葉に聞き従うことによって、わたしたちに与えられる「何が罪であるか」を見抜く思考力であることを言っています。

ところが、昨今のいろいろな教会の不祥事などを見ると共通して見えてくるのが、信徒に対する一種のマインドコントロールであって、それは第一義は「牧師の指導者としての罪を隠すため」であり、第二義は「教会の不祥事が問題となって、教会の不評をまねくことを隠すため」であるのです。

本来、キリスト教の救いが罪の告白と悔い改めであることから考えれば、そうした大きな不祥事になる前に、罪の告白と罪の悔い改めが教会の中で行われるので、たとえ間違いが起こったとしても大きな不祥事まで発展することは少ないのです。

むしろ、牧師も人間であり、教会員一人一人も皆等しく人間であるなら、教会の中にそうした間違いが常に起こることを想定して、いざそうした間違いが起こった場合には、教会の中で、速やかに罪の告白と罪の悔い改めがなされるなら、教会はまさにイエス・キリストの体なる教会として、常に神の御前に正しくあることができるのです。

ところが、多くの教会では、そうした罪の告白や罪の悔い改めが軽視され、むしろ人間的な、この世的な繁栄が求められることから、まさに「常勝思考」が教会の拠って立つ基本になってしまうのです。

そして、いったんそうした常勝思考の教会になってしまったら、教会の中での「失敗/敗北」は一切許されないことになるので、たとえそうした失敗が起こったとしても、「そうした事実はありませんでした」というような形に流れてしまうのです。

たとえ牧師の個人的な失敗であったとしても、しかし、そうしたことは牧師個人に留まりません。牧師が常に教会の看板である限りにおいて、牧師の失敗を教会(役員会など)が隠そうとする例は枚挙にいとまがありません。


そういう意味で、パウロはコリントの教会の人たちに対して、自分たちの喜びのためではなく、全ての人に対して、人を惑わすことのないように、すなわち、教会は常に、神とそうした多くの人たちの前において、自分たちの過ちを認め、過ちを悔い改めるという、神の御前における真実をもって歩むことが大切であることをパウロは言うのです。

教会がその地域に対してそうした責任ある態度を取り続けることが、教会がその地域に対して教会であるための必要条件であるのです。そして、一旦間違いが起こった場合には、社会的責任を取るという決断をも教会は覚悟しなければならないのです。

だからこそ、日々における例えどんなに小さな、軽微な罪であったとしても、その罪が告白され、罪の悔い改めがなされることが大切なのです。

そうした小さな罪に対して誠実に対応でない牧師や教会、あるいは信徒が、それよりも大きな罪に対して誠実な態度を取ることは不可能です。罪の告白と罪の悔い改めとは、まさに毎日の信仰生活によって養われる信仰の力なのです。私自身自戒しつつ。

 コリントの信徒への手紙1 11章2~16節
2)あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。
3)ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
4)男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
5)女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
6)女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
7)男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。
8)というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
9)男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
10)だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。
11)いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。
12)それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。
13)自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。
14)男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。
16)この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。 

 この箇所は、礼拝における女性のかぶりものについて弁明です。

 まず、パウロが生きていた時代において、まだキリスト教はユダヤ教の中のひとつの派、すなわち、「ナザレのイエスこそメシアである」という「ナザレのイエス派」という位置づけでした。パウロの自筆によるであろうとされる新約聖書の文書について、たとえばローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙1に登場する人物をリストアップし、それが異邦人であるかユダヤ人であるかということを見ていくと、新約聖書においてパウロの指導した「異邦人教会」とされる教会において、実は本当に「異邦人である」キリスト者というのは非常に少ないことがわかります。

 その事については、ここで説明すると長くなるので、わたしの別の記事のリンクを以下に紹介しておきます。

 ・本当の意味で異邦人であったテトス

 ・使徒言行録にみる初期のキリスト教信仰のかたち

 ・ユダヤ教、エルサレム教会とアンティオキア教会(異邦人教会)の信仰的差異について


 まず、簡潔にパウロが問題としていることについて何が言われようとしているかといえば、まず基本的なこととしてユダヤ教においては礼拝の時には礼拝をまもるための装いが定められていました。

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 上記は現代の写真ですが通常の礼拝ではなく、ヴァル・ミツヴァ(バル・ミツバ)と呼ばれる男の子の成人式の写真です。
 これを見るとわかるように、男性が頭に小さい帽子(「キッパ」という)のようなものと、ショールのようなもの(祈祷衣で「タリート」という)、そして額と左手に黒い何か(「テフィリン」という聖句箱(小さい聖書が入った箱))を体に結びつけることが必要なのです(そのほかに「シドゥール」という祈祷書が必要)。

 こうした写真を見ると当時のユダヤ教の習慣がわかりますが、パウロが生きていた時代、ユダヤ教での宗教的祭儀には男性しか加わることができません。また、女性は写真がないので紹介できないのですが、イスラム教の女性を想像していただけるといいのですが、あそこまで全身を覆い隠すことはしませんが、基本的に頭はスカーフでスッポリと覆う(顔は隠さない)ことが当時のユダヤ教における常識であったのです。

 また、当時はエルサレム神殿が健在だったので、当然、エルサレム神殿に行って、そこでそうした習慣に則って礼拝を行っていたのです。


 ところが、そうした「当時の礼拝」というのは、そういう意味では、そうしたユダヤ教の習慣(衣服)と「エルサレム神殿」ということが大きな宗教的な権威となっており、ペトロたち十二使徒たちの信仰は限りなく、そうしたエルサレム神殿の権威を排除できずに、そうしたユダヤ教の祭儀規定を遵守しながらも、「ナザレのイエスこそはメシアである」と信じていたのです。

 ところが、パウロが問題にしているコリントの教会は当然の事としてエルサレムから遠く離れており、週毎の礼拝をエルサレム神殿で守るなどということは不可能でした。そこで、当時としては、エルサレム以外に住む、離散(ディアスポラ)のユダヤ人たちによって、毎週、集会所(シナゴーク)礼拝というものが行われていたのです。これがいわゆる今日のわたしたちキリスト教礼拝の初期の形であり、多くのユダヤ人を中心として、そこに改宗した異邦人などを含めた「異邦人教会」という新しい信仰共同体の形が形成されていたのです。


 さて、パウロがそうした「異邦人教会」を指導するにおいて問題となるのが、「自分たちは、どこまでエルサレム神殿やユダヤ教の戒律に従うのか?」ということでした。

 使徒言行録15章において、世界で最初の教会会議の事が記されていますが、そこにおいて問題となっているのは「割礼」と「食物規定」でした。

 しかし、あともうひとつそこには問題となっていることがあり、「礼拝に対する女性の参加とその場合の服装について」であったのです。

 ここでのパウロの議論は読むとわかりますがパウロの主張は以下の二点です。

 ・男は礼拝においてかぶりものをすべきではない(実際は、男性はユダヤ教のかぶりもの(正装)をしている)。
 ・女は礼拝においてはかぶりものをすべきである(実際は、女性はかぶりものをしていない)。


 つまり、ここでパウロが言おうとしているのは「ユダヤ教の習慣」についての議論であって、いろいろとパウロはアダム(男)やエバ(女)や男が先で女が後だという創世記の記述による論述をしていますが、そうしたことが問題ではないのです。

 結論からすれば、「キリスト教の礼拝を守る上で、男女に【正装】はありません」(そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。)ということなのです。パウロはそうした【正装】はキリスト教信仰においては全く問題にならない(なぜなら、キリスト教信仰においてもっとも重要な問題は「自分自身の罪の告白とイエス・キリストによる罪の赦し」にあるから)ということを言おうとしているのです。
 



 コリントの信徒への手紙11章17~22節
17)次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
18)まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
19)あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
20)それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
21)なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
22)あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。

 コリントの信徒への手紙11章17節以下は、いわゆる今日の礼拝における「聖餐式」についての規定についてです。

 当時は、まだいわゆる教会における共同の食事(一種の「愛餐会」)と「聖餐式」とが明確に分かれていませんでした。

 パウロはここで教会の中に、お互いの中で「仲間割れ」が起こるであろうことを前提としています。それはなぜなら、教会の信徒ひとりひとりは、自分の罪について、それを神のみ前において告白し、悔い改めることを信仰の一大事としますが、わたしたち人間は、案外、「自分の罪」というものが見えにくい。むしろ「他の人の罪」が目に見えることの方が多いのです。

 そうした、状況において、当時のコリントの教会の中で起こっていたのは、すなわち、自身の罪の告白と悔い改めもさることながら、「他の人に対して、その人の罪を指摘する」ということが日常的に行われていたのです。なお、そうしたことについてはコリントの信徒への手紙1の6章のところでも触れられている通りです。

 しかし、問題は、そうしたもともとは自分自身の罪の告白と悔い改めという信仰的事柄が、「信徒同士の裁きあい」という事態を招き、それによって「教会分裂」という状況に陥っているということなのです。

 そうした、状況において、イエス・キリストを中心とした(「神と人」、「人と人」との)和解の食卓である「主の聖餐」に共にあずかるということは不可能です。

 だからこそ、「主の聖餐」にあずかる者の必須条件として、自分自身の罪の告白もさることながら、お互いが指摘された罪の告発を受け入れ、お互いに神の御前において罪の赦しを受け、教会全体として神のみ前において罪を悔い改めることを勧めたのです。


 ただし、ここで注意しなければならないのは、昨今のキリスト教会の中で起こるさまざまな問題についてそうですが、「教会の中で誰が正義であり、誰が罪びとであるか?」というような事になってはなってはならないということです。

 ひとたび教会の中で問題が起こった場合、そうした問題を起こした教会の選択する態度は大きく二つです。

 ひとつは、「問題をなかったことにしようとする」ことであり、もうひとつが「問題解決のために、誰かを犠牲にする」ということです。


 そうした態度をとる背景にあるのは教会全体としての共同体的自己保身、あるいはその他教会員が「自分の信仰生活における平穏を守りたい」という個人的な自己保身があるからです。

 その意味で、パウロの目指すのはそうした人間的欲求である(共同体・個人的)自己保身ではなく、あくまで神のみ言葉に基づいて、その問題を「わたしたち全体の罪の帰結である」と認識し、そして神と人との前において、自分たちの罪を告白するという事にあります。

 そして、そのようにして教会の中における利害関係の解消、すなわち教会の中における加害者と被害者との和解の実現を目指すことがパウロの求めているところであるのです。


 そして、コリントの教会の中で、そうした教会の中における利害関係に対して、教会が全体として、その問題を自己保身的に考え、問題としてきちんと対処しなかったために、既に見た6章における「信仰者が信仰のない人に訴え出る」という問題が起こったのです。


 そうした教会の中に起こる問題は、そもそもある日突然、天から降って湧いたかのように問題が発生するわけではありません。大問題の前には当然、そうした大問題の前兆であり、個人的罪の段階が存在するからです。

 ところが、そうした大問題といえども、元は小さな個人的罪からはじまるのです。



 キリスト教会において大切なのはそういう意味では、大問題を起こすことは論外ですが、そうした「元々は小さな個人的罪」に対して、牧師も信徒もひとりひとりが常に気をつけて、例えそうした小さな罪が発生したとしても、まだまだ和解のしやすい「小さな罪」の段階で、神のみ前において和解することが可能であれば、教会は決して、そうした大問題を起こすことはないはずであるのです。

 ところが、今日の現状として、山陰に限らずあちこちでキリスト教会の不祥事や問題が起こっています。

 それは何故かと言えば、「小さな個人的罪」について、あまりにも教会が、あるいは牧師も信徒もひとりひとりが無頓着であるからです。

 たとえば、それは「福音宣教」が大目的になり、「福音宣教」を実現するためには「多少の罪には目をつむる」ということがそうした教会において習慣となってしまうからです。中には、「福音宣教」のためには「自分たちが罪を犯すことも良しとする」というような状況も起こっています。

 あらためて書きますが、「福音宣教はキリスト教会の使命か?」と問われるのであれば、パウロの回答は「そうではない」という事になります。

 「福音宣教」とは、「キリスト教会がこの世にあって正しい信仰生活を全うすることによって実現する神の御業」であるというのがパウロの視点であるのです。

 しかし、今日の教会は、むしろ「正しい信仰生活」ということよりも、「福音宣教」という(神が実現し与えてくださる)結果を自分たち人間の手で獲得しようとするのです。



 そういう意味では、そうした自分たちがこれまで「正義」だと考えてきたものに対して、今一度、聖書の御言葉に立ち返り、神の御前において教会全体として罪の告白と罪の悔い改めが求められているのかも知れません。

 パウロの筆ではありませんが、使徒言行録に以下のように記されています。

 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。(使徒言行録5章29節)

 キリスト者にとって実に基本的・根本的なことですが、今日の教会においては、むしろ「神に従うよりも、人間(の欲望)に従わなくてはなりません。」というような状況に陥っているのです。

 そして、そうした教会においては当然のことながら、そうした「自分たちの罪を指摘する聖書箇所」は開かれることもなく、たとえ開いたとしても、自分たちに都合の良いように解釈がされて話されるのです。そして、そこで問題となるのは、そうした事柄について信徒が疑問を持ったとしても、「自分の信仰生活を守りたい」という欲求から、牧師も信徒も見て見ぬふりをするのです。

 罪の誘惑は恐ろしいもので、わたしたち人間は殆どその自覚を持ちません。

 イエスさまは確かにわたしたちの罪を赦してくださいますが、しかし、「(意図的に)罪を犯すことを許してくださっている」わけではありません。 

 教会において、そこらへんを適当にするのであれば、そうした教会には信仰的自浄作用はありません。

 あとは罪の誘惑の導くままに破滅的な状況にまで陥るのが関の山です。


 そういう意味で、教会のひとりひとりが自分自身の小さい罪に対して忠実に、それを真摯に受け止め、イエス・キリストの御前において罪を告白し、罪の悔い改めがなされないのであれば、それがどんなに多くの人が集まるキリスト教会であっても「キリストの教会」ではあり得ないのです。

 アメリカにあったメガ・チャーチとして有名なクリスタル・カテドラル(信徒数7000人)が2010年に破産しました。

 「人が集まるから成功」というのは、キリスト教会においてはまったく本質的ではありません。そうしたこの世的な栄光を求めるのであれば、そうした教会は「サタン」を礼拝すればよいのです。あるいは、むしろサタンを崇拝するからこそ、そうしたこの世的な繁栄を得ることができるのです。

 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。(マタイによる福音書4章8~9節)

 キリスト教会が常に意識して注意しなければならない事柄がまさにここに示されているわけです。




 コリントの信徒への手紙12章3節
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 コリントの信徒への手紙12章26~27節
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
 

 キリスト教会がキリスト教会であるために必要なことは、まさに、パウロがこのところで語っている通りのものであると思います。

 キリスト者・キリスト教会の働きはまさに「聖霊」によるものであって、それは「イエスを主である」と、わたしたちの救い主とすし、罪を告白し、罪を赦された事に、神さまに対して感謝し、その御名を褒め称える礼拝にあるのです。

 そして、もうひとつ、ここで大切なのは、「キリスト者の敵はノンクリスチャン」ではなく、「(牧師も信徒も関係なく)キリスト者の敵は自分自身の罪である」ということです。

 キリスト者やキリスト教会はそうしたわたしたちの罪から離れるために、共にすべての人が、そうした罪を担いあうことによってキリストの体であるキリストの教会を形成することにあります。そのためには、ひとりひとりが自分の罪について自覚をもって告白と悔い改めが行われることが必要であるのと、あともうひとつは、そうした教会の中で起こる小さな罪をひとつひとつ丁寧に告白し、悔い改められていくことであるのです。

 それは、決して、「罪を犯した人を犯人に仕立て上げ、教会から排除する」ことではなく、常に、教会の中においてお互いの和解がなされるように、何が神のみ前において真実であるかがハッキリとされる事にあるのです。

 仮に、ある教会で、誰かが罪人にされて教会から排除されるのであれば、その教会はまさに罪に敗北したのです。

 そうではなく、なぜそうした問題が起こったのか、どうして今まで、誰もその事に気がつかなかったのか? あるいは気がついていたのか?

 その教会の中にまさに聖霊が働き、神の御言葉が語られており、語られた神の御言葉にひとりひとりが聞き従っているのであれば、キリスト教会はイエス・キリストの救いが実現する自浄作用によって、「神と人との前における和解」を、神の言葉が支配する「神の国」を実現していると言えるのです。

 そうした教会こそがパウロの目指したキリストの教会と言う事ができるでしょうか。


 コリントの信徒への手紙1 13章1~3節、13節
1)たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
2)たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3)全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 

13)それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。



 この聖書箇所は、よく結婚式の時に式文として使われる有名な聖書箇所です。

 しかし、当然、パウロは結婚式を前提としてこのことを書いているのではありません。


 はやい時期の教会においては、一種の霊的なカリスマである異言、預言、いやしといった事が行われていました。当然、それはイエスさまの生きていた時代にさかのぼるものでありますが、福音書において、弟子たちが町や村を巡って悪霊を追い出し、いやしを行い、様々な奇跡をおこなった伝統は、エルサレムから遠く離れたこのコリントの地にある教会においても、同様に、一種の権威であったのです。

 そして、まさにそうした賜物、すなわちたとえばアポロのような雄弁家としてのカリスマをもった人物や、その他のカリスマをもった人々がコリントの教会をけん引するようになり、しかし、コリントの教会はそうしたことも原因のひとつになって、まさに教会分裂の危機を迎えていたのです。

 パウロは、そうしたコリントの人たちに対して、それは「コリントの信徒への手紙2 12章」において、パウロは知人のこととして、自分の経験を語っていますが、パウロ自身、教会において、そうした霊的カリスマについて、完全に否定するのかというとそうした現象があることは否定しません。

 しかし、問題は、そうした霊的カリスマが「真に教会を成長させることはない」ということを、パウロはこのところで言おうとしているのです。

 それは、霊的なカリスマだけに留まらず、3節において「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」と、すなわち自分の全財産を教会にささげることや、あるいは、教会のために殉教をしようが、「そうした事柄はいっさい教会の成長のためにはならない」ということをパウロは言っているのです。


 なぜなら、教会はまさに信徒ひとりひとりによって支えられるのが教会であり、その信徒ひとりひとりを支えるのは、まさに神の助けであるからです。そのようにして、全体として教会が教会として活動できることが、まさにその教会が神の教会であることの証拠であるわけです。

 ところが、コリントの教会は、そうした「みんなで支えあう教会」ではなく、「特定の有力信徒」によって教会の形成がなされたのです。

 それは、一見すると「正しいこと」のように見えますが、しかし、本質においては、それが特定の有力信徒によるものである点において、いくら人間的に見て正しい行いのように見えても、神の御前においては「偽善」であり、「罪」にすぎないのです。


 たとえば、教会がその地域に根差し、その地域に仕えるということを目標にして、たとえばチャーチスクールや介護施設など、そういった公共的な役割を担うことをします。

 イエス・キリストの命令により、「隣人を愛しなさい」という御言葉に従って、そうした地域に密着した働きを教会が行う。

 当然、だれもそのことが神の御前において「罪」であるとは考えません。


 キリスト教会が置かれた場所において社会福祉のため、あるいは産業を興すといった、そういった事を行うことは決して「犯罪」ではありません。

 しかし、パウロに言わせれば、それは「偽善」に過ぎないのです。

 ではなぜ、そうしたことが「偽善」と言えるのでしょうか?


 理由は簡単で、「教会はそうしたチャーチスクールや介護施設の維持・運営といった社会事業の運営を、その地域に対してどこまで責任をとることができるのか?」ということです。

 つまり、「教会が可能である間はそうした事業を行うけれども、できなくなったやめる」では、その地域に対して非常に無責任になってしまうからです。

 歴史的に見て、カトリック教会の例をあげれば、カトリック教会はそうした社会的な事業を必要に応じて行いますが、それは教会本体として事業を行うのではなく、教会はあくまでもミサ、すなわち礼拝をおこなう場所であるとして、そうした事業は別団体の仕事として、教会とは全く分離して行うのです。

 「困っている人がいるから、教会が何かをしてあげましょう。」ということは、そういう意味では教会にとっては大きな誘惑です。


 困っている人をかわいそうに感じるのは、わたしたち人間にとって決して悪いことではありません。しかし、問題は、そうした人を「一時的に」助けるだけで済めば良いのですが、場合によってはそれがその人の生涯に関わるものである場合に、わたしたちはどこまでその人に対して責任を全うできるのか。

 もし、その責任が負えないというのであれば教会は手を出してはならないのです。


 しかし、わたしたちキリスト者の内には、信仰による「正義感」があり、困った人を見捨てるわけではありませんが、見て見ぬふりをすることは、やはり「手を貸す」以上に困難を覚えるのです。

 パウロは、キリスト者が自分の持つ全財産を使い果たしてまで、貧しい人たちのために善行を行うことを良しとはしません。なぜなら、それは貧しい人たちにとって、何の根本的な問題解決にならないからです。そこに残るのは、「全財産を貧しい人たちのために使った」という自己満足だけです。

 あるいは、まさにイエス・キリストがわたしたちの救いのために、自分自身の命を十字架上で捨てられたことに倣って、わたしたちも教会のため、イエスさまのために命を捨てることが良しとされるかというとそれもありません。

 結局、こうした人間の思惑に基づく慈善、人間の思惑に基づく殉教も決して教会のためにはならないのだということをパウロはこのところで、コリントの教会の人たちに教えるのです。

 そして、パウロは、「では教会の中で何がいちばん大切か」ということについて、信仰と希望、そしてもっとも大切なものが、イエス・キリストから頂いた「キリストの愛」であることを、このところで主張するのです。

 

 キリストの愛とは、そういう意味では「隣人愛」として、それが表現されるように、それは「この世にあってわたしたちキリスト者がそうした貧しい人たちと共に歩む」ことを意味し、「貧しい人たちに対して施しをする」ことを意味しません。

 キリスト教会は社会実業家の集まりでも、政治家の集まりでもありません。

 教会は信仰共同体であって、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。

 わたしたちがなすべきは「神を礼拝する」ことであって、神を信じる信仰において、わたしたちはそうした貧しい人たち、困っている人たちと共に、この世にあって生きることが大切であるのです。

 それは「分かち合う」ということであって、「施す」「恵み与える」ということではありません。

 神を信じるというのであれば、人間の業ではなく、神のみ業によって、そうした人たちがキリストによって同じ人間として立ち上がることが尊重されるべきことであるのです。


 「かわいそう」という言葉は、その言葉の裏に「わたしはそうでないから良かった」という人間の傲慢があります。本当の意味で、そうした貧しい人たちに寄り添うのであれば、「かわいそう」と思うのではなく、まさにそうした人たちに寄り添い、この世に生きる友人として、共に神を礼拝すればよいのです。

 仮に、そこで友人として「何をして欲しい」ということがあれば、それに対して友人として応える。そうした、神の御前において、同じ人間として共に生きるということが、パウロの目指す信仰生活であり、教会のあり方なのです。



 コリントの信徒への手紙2 13章5~8節
5)信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
6)わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。
7)わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。
8)わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。

 パウロはコリントの信徒への手紙1の最後において、コリント教会の人たちに対して、自分自身の信仰を吟味しなさいということを伝えます。

 それはキリスト教信仰が、常に、自己吟味を必要とするからです。

 ナザレン教団は「きよめ派」に属する、「聖化」を尊重するキリスト教会です。


 この「きよめ」「聖化」が意味するのは、日々の信仰生活において毎日聖書の御言葉に親しみ、聖霊の助けによって示される自分の罪を日々悔い改める、そうした信仰をいいます。

 しかし、わたし自身、毎日自分の罪に気づいているかどうか、実際問題としては、なかなか見えていないことの方が多いのではないかと感じるところです。

 「きよめ」「聖化」とは言いますが、それは必ずしも「自分が神の御前においてきよくなった」という実感を持つものではありません。むしろ、わたしたちは聖書の御言葉に聞けば聞くほど、自分の罪深さを認識せざるを得ないのです。

 その意味で、「きよめ」「聖化」も、それは具体的には「自分自身の罪深さの認識」であって、決して、「神の前に清くなった」と感じることのできるものではありません。

 むしろ、そのようにして示された罪をイエス・キリストが赦してくださることに対して、わたしたちは深く感謝を覚えるという、「神さまの憐みに対する深い感謝の念を覚える」というのが、その実際のところであるのです。

 わたしたちはともすると、信仰者として、人間として、「神に近づいた」と感じることが、「きよめ」「聖化」を体験することだと考えてしまいます。しかし、言い方を変えれば、「人間が神に近づく」ということほど神の御前において罪深いことはないかと思います。

 人間は神に近づくことはできず、むしろ、わたしたちキリスト者は自分自身の罪深さを深く悔いるときに、わたしたちの背後からイエス・キリストがその憐みをもって近づいてくださるのです。

 わたしたちが神の御前において礼拝し、神を賛美し、祈る、その喜びの源泉は、まさにその事柄にあります。そして、それこそがわたしたちをキリスト者にする神の力であり、教会を教会とする真に神の力であるのです。

  

コリントの信徒への手紙14章1~4節、14~20節、23~25節
1)愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
2)異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
3)しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 
4)異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。

14) わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。
15)では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
16)さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。
17)あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。
18)わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。
19)しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
20)兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。

23)教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。
24)反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、
25)心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。


 教会における異言による祈りは、パウロの時代から存在し、今日の教会にもやはり見ることのある現象です。

 パウロは自分自身で、「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」(18節)と言って、自分自身が当時のコリントの教会の誰よりも多くの異言を語ることのできる者であることを、神の御前において告白しています。

 すなわち、パウロは当時のコリントの教会において誰よりも異言を語ることができる、そうした賜物を備えた人物であったのです。


 しかし、パウロにとってそうした「異言を語れる」ということが教会において何か意味を持つのかというと、そうではないことをパウロは言っています。

 なぜなら、2節においてパウロが言っているように「異言」とは、いわばキリスト教信仰に基づく霊的現象であって、それは神に向かって発せられる言葉であって、人間にはわからない言葉であるからです。

 だからこそ、パウロは先の13章の冒頭で言っているように、それは教会や礼拝といった秩序の求められる場には不適合であり、むしろ、それよりも預言が語れることの方が大事であることを力説するのです。


 当時のコリントの教会において、そうした異言による祈りが礼拝において行われていたことをパウロは前提としています。しかし、そうした礼拝における異言はむしろ人々が神に向かうためには不要であり、それよりも大切なのは、人間を自分自身の罪の自覚と罪の悔い改めへと導く預言こそが大事であることをパウロはここでいうのです。

 それは、19~20節において、「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」(コリントの信徒への手紙1 14章19~20節)とあるとおりです。

 
 今日のキリスト教会においても同様ですが、当時のコリントの教会においても、やはり理性ではなく、むしろ感覚的に神を理解しようとする事が多く行われていたのです。なぜなら、そうした不思議な業、他の人が真似のできないような特殊な現象を起こせることは、いつの時代においても「自分たちの信仰が本物であることの証拠」として利用されやすいからです。

 しかし、わたしたちは「異言」を語れるからといって、それが教会のためにはならないことをパウロは「物の判断については大人になってください」と忠告するのです。

 むしろ、それよりも「悪事については幼子となり」とあるように、幼子のような純粋な心で悪事(人間的計略・謀略)から離れると共に、そうした教会の中における物事の判断については、まさに大人として、何が信仰的に良く、何が悪いのか、そうした自分たちの罪に対する極めて深い洞察力を身に着けることによって、そして、そうした神の御前において正しい教会を築きあげることが大切であるというのです。


 そうした、自分たちの罪について非常に深い洞察力、パウロのいうところの理性を培った教会に、ひとたび外から神の救いを求める人が加われば、『反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。』(24・25節)とあるように、その人は、教会の人々が語るその預言の言葉、すなわち、自分自身の罪を諭す言葉、罪の告白の言葉を耳にすれば、 その人も自分自身の罪を自覚し、心の内に隠していた罪をすべて明らかにされることによって、ただ、それは決して、その人を断罪し、罪人として告発するのではなく、あくまでも自分自身の内なる罪の告白として、たちまち神の御前に信仰をあらわすことへと導かれるであろうというわけです。


 すなわち教会における理性の言葉、預言の言葉とは、すべてが信仰者による自分たちの罪の告発の言葉であり、人間の言葉を告発する言葉である限りにおいて、それはさまにイエス・キリストの言葉として、わたしたちの罪を明らかに、その罪を赦してくださるというその救いを実現してくれる言葉となるのです。

 教会はその意味で、神の御前に常に自分たち信仰者としての罪がどのようなものであるのか、そうした事柄に敏感であることが求められるのです。


 ところが、異言は、そうした教会の中における自分たちの罪の告白とは、直接的に関係のないものであって(意味が分からない言葉なので)、異言がそうした教会においてキリスト者の信仰を深める事にはならないのです。

 むしろ、それはキリスト者の信仰を、自分の罪の認識から、目を逸らせる意味においてむしろ教会においては害となるのです。だからこそ、パウロは自分は誰よりも異言が語れるけれども、そうした異言において1万の言葉を語るよりも、理性において5つの言葉を語ろうと言うのです。



コリントの信徒への手紙1 14章26~40節
26)兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
27)異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。
28)解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。
29)預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。
30)座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。
31)皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。
32)預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。
33)神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、
34)婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。
35)何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。
36)それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
37)自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。
38)それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。
39)わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。
40)しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。 

 さて、このところはいろいろと今日的には解釈の上でパウロによる女性蔑視の奨励というような感じで、実に問題がある箇所です。

 しかし、パウロは一般論として「女性は教会の中では発言権がない」ということを言おうとしているのかといえば、そうではなく、あくまでも、この発言は、コリントの教会の抱える一つの具体的な問題として、この事を言っていると理解するのが無難であると思います。

 すなわち、この箇所を丁寧に読むのであれ、コリントの教会における一つの具体的な問題として、教会の中で秩序を乱し、異言を語る女性のキリスト者が居たということです。しかも、一人ではなく、そうした女性が数人居たことがうかがえるのです。

 以下はわたしの個人的な推測ですが、おそらく、コリントの教会において、いわば女性霊能者のようなグループが起こっていたのだと思います。そして、そうした女性集団の特徴が異言による祈りであったのです。しかも、そうしたグループが特定のメンバーだけに縛られることなく、むしろ、コリントの教会の中でひとつの運動として広がりを見せていたのです。

 そして、いつしか、コリントの教会で異言を語れる女性こそが、教会において預言を行う資格があるような風潮が起こったのだと思います。それは一種の女性霊能者による教会形成のようなものであるかと思います。そして、それ以外の預言が信仰においてはむしろ無意味なように言われていたのだと思います。

 「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。」(36節)

 この御言葉は、すなわちそうした女性霊能者のような人々が、「自分たちこそ神の言葉を語っているのだ」というふうにしていたことを示していると思います。

 そして、当然、コリントの教会における奉仕者の中でそうした女性霊能者集団の位置づけが問題となり、パウロはそのことを13章から14章にかけて、そうした霊的な現象を求めるのではなく、むしろキリスト教会はイエス・キリストの愛を実現するものであり、それは理性と秩序が大切であることを説いたのです。

 そして、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。」(34節)と言っている言葉は、まさに今日的には教会において女性の発言が認められていないことを言っているわけですが、この言葉も、やはり、そうした背景を元に読むのであれば、当然、「婦人たち」というのも、おそらくはそうした女性霊能者集団のメンバーを指して言っているものであることがうかがえるのです。

 そして、「許されていません」とは、その度合いが厳しい意味において、よほど彼女たち女性霊能者集団の行いが問題となっていたことが理解できるのです。

 しかし、パウロがここで問題としているのはあくまでも「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、」(33節)で言っているように、 教会において大切なのは、一にも二にもそうした秩序であって、それは当然、イエス・キリストの言葉、神の言葉の支配にもとづくものであり、大切なのはそうした信仰に基づく秩序、すなわちイエス・キリストの平和が実現されていることが大切なのです。

 それは、教会の中における異言の現象を禁じることにあるのではなく、そうした異言が行われるのであれば、それはきちんと秩序立てて、キリストの平和を実現するように用いられなければならないのです。

 その意味で、パウロが異言について言おうとするのは、異言について、それを禁止するとは言わないけれども、特にキリスト教信仰を持たない人がいる場においては異言は行うべきではない、ということなのです。

 

コリントの信徒への手紙1 15章3~8節、11~12節
3)最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4)葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5)ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6)次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
7)次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
8)そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 

11) とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
12)キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。


 パウロがコリントの教会の人たちに伝えたイエス・キリストの福音というのは、まさにこのパウロが 3)~5)節のところで語っている内容です。

 そして、まだパウロがこうしてコリントの教会やその他の地域にある教会に宣教を行っていた当時、まだ、大部分の人々は生きていたのです。

 ところが、そうしたイエス・キリストを信じる信仰において、今日のわたしたちよりもずっと時代の近かったコリントの教会の人たちにとって、既に、「イエス・キリストの復活は無かった」と信じる人たちが、コリントの教会の中で起こっていたというのです。

 コリントの教会がなぜ、そのような「イエス・キリストの復活は無かった」というふうに信じる人たちが増えたのか? その理由について、パウロはこのところで詳しく説明しません。

 しかし、わたしたちがこれまでのコリントの信徒への手紙を読んできて、その理由が当然、「これまでのところで書かれているからだ」とするのであれば、それは、コリント教会の信仰が正しいキリスト教信仰から離れて、全く別の偶像崇拝になってしまったからだと見るのが自然であると思うのです。

 では、その偶像崇拝とはいったいどういうものでしょうか?


 上記の引用聖句で分かりますが、正しいキリスト教信仰は何かと言えば、まさにパウロが3)~5)節で語っている内容です。

 すなわち、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるための必要条件が、「イエス・キリストを信じる」とわたしたちが言った場合の、その信仰の具体的な内容です。

 これはきわめて基本的な事柄ですが、この世にあって、キリスト教会がキリスト教会であるための絶対条件ともいえるものであると思います。

 それは何かと言えば、この世において、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるために必要なことは、すなわち、「その教会において、正しくイエス・キリストが信じ告白されている。」ということです。

 それを、更に詳しく言えば、パウロが3)節で言っているように、わたしたちが手にしている『聖書』は、まさにイエス・キリストを証しする書物であり、『聖書』はあくまでも、「イエスがわたしたちの救い主である」ということを指し示すものであるということです。

 そして、では、「イエスがわたしたちの救い主である」ということは、更に具体的に言えば何かというと、それは、「イエスさまは、わたしの罪をその十字架と復活によって赦してくださり、新しい命に生きることができるようにしてくださった」という、罪の告白と罪の赦し、そして、罪を赦された者の新しい命への招き(悔い改め)が、キリスト教信仰においてもっとも大切なものであるというわけなのです。

 すなわち、礼拝も聖餐式も、そこで重要なのは、聖書の言葉を通して、聖霊の助けによってわたしたちに語られる神の言葉(わたしたちの罪・弱さを教え諭してくださる言葉)が、常にきちんと、正しく語られ、そこにおいて、そうした礼拝や聖餐式においてわたしたちの「罪の告白と悔い改め」(信仰の応答)が正しく行われているということが大切なことなのです。


 ところが、おそらく、コリントの信徒への手紙1を読んでいて分かるのは、たとえばアレキサンドリア出身の雄弁家であるアポロ(要はカリスマ的な指導者)や、教会の中で異言を語る女性たち(要は神秘体験)の出現。それ以外にも、信徒の間における確執や分派といった様々な問題が教会の中で起こったということなのです。

 それは、個別具体的に説明すれば長くなりますが、ごく簡単に結論だけを言えば、すなわちキリスト教会という名の偶像崇拝にコリントの教会が陥ってしまったということなのです。


  キリスト教の礼拝とは、その本質において「罪の告白」と「罪の悔い改め」が、その最大の関心事です。

 その意味で、キリスト教礼拝は人間にとっての「娯楽」ではありません。


 旧約聖書においては偶像崇拝の代名詞として「バアル(神)崇拝」があげられます。バアル神というのは、いわゆる日本で言うところの「五穀豊穣の神」であって、その象徴としてふくよかな男女の裸であるとか、性器をシンボル化したものがつかわれます。

 旧約聖書の申命記に以下の記述があります。

 「イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない。」(申命記23章18節)

  この事が意味するのは、旧約聖書の時代において、実際問題として、イスラエルの神殿においてそうした宗教的・売春行為が行われていたことがあったということなのです。

 では、なぜ聖なる場所であるはずの神殿が売春行為の場所となったのか?

 その理由がバアル神であるのです。バアル神は主に男神の像と女神の像と大きさの異なる二種類の像がつかわれます。バアル神崇拝では、この男神と女神とが性的に交わることによって大地の作物が豊かに実るものとして考えられていました。

 だからこそ、男神と女神が性的に興奮するように、そうした男神像と女神像の前で人間の男女が性行為を行うのです。 すると、より興奮した男神と女神はそれによってより強く結ばれ、その年は豊作になるだろうというわけです。 こうした男神・女神の交わり、男女の性に関わる祭儀は、バアル神に限らず、日本国内にもいたるところにあります。


  では、なぜそうしたバアル神崇拝がイスラエルの信仰に入ってきたのでしょうか?

 おそらく理由はごく単純で、「イスラエルの信仰は人間的につまらないから」です。


 今日のキリスト教信仰もそうですが、「自分自身の罪を深く悔い改める」とは、決して面白くも楽しいものでもありません。むしろ、わたしたちはそうしたことには目をつむって、何か楽しい別の事をと考えるのです。

 旧約聖書に登場する神殿での正しい祭儀も同様で、それは人間的には魅力に欠けるものでした。


 だからこそ、昔の人たちも、「より多くの人が神殿に集まるように。」「より祭儀を充実させたい。」というような、人間的な発想から、近隣諸国の宗教祭儀で、取り入れられそうなものを少しずつ取り入れ始めたのです。

 そして、いつの間にか、イスラエルの神殿には多くの人が集まるようになり、また多くの献金やささげものが奉げられるようになったのです。

 ところが、それは信仰とは名ばかりで、信仰を口実にして、同時の宗教的指導者たちがやりたい放題をやったのです。

 当然、神殿には多くの人が訪れるようになり、それまで魅力のなかったイスラエルの神殿祭儀は、目を見張るほどのものになったのです。そこでは神殿娼婦や神殿男娼が、イスラエルの神を崇拝する目的でにぎわっていたのです。

 

 さて、 上記の例は当然、旧約聖書においてイザヤやエレミヤといった時代の話です。ところが、まさにその形を変えたものが、パウロの生きていた時代、コリントの教会において起こっていたのです。当然、そこには神殿娼婦や神殿男娼という存在はいなかったかもしれませんが、しかし、性的関係の堕落、アポロや女性霊能者のようなカリスマやあるいは心霊現象などをキリスト教信仰に持ち込んで、それがコリントの教会の問題となったのです。

 当然、それはコリントの教会だけの問題でなく、今日のわたしたちの教会においても同じです。


 今日、「福音は喜びであるから礼拝・教会は楽しくなければならない。」、あるいは「教会に魅力がないから人が集まらないのだ。」という声を聞きます。

 しかも、まさにそうした声に沿う教会こそが信仰的に正しい教会であるかのように聞きます。 しかし、それは本当にそうでしょうか?


 おそらく、パウロに言わせれば、「そうしたものはすべて偶像崇拝だ」ということになるかと思います。

 キリスト教、あるいは教会の魅力とは何でしょうか? それは決して「面白い・楽しいこと」ではありません。


 キリスト教、キリスト教会の魅力とは、イエス・キリストの救いであって、その他はありません。

 また、「福音が喜びである」というのはその通りですが、その「福音の喜び」は常に、わたしたち具体的な人間の罪の赦しによるものであって、それ以外の何かに由来するものではありません。



 キリスト教信仰において、わたしたち人間は等しく誰もが罪人であり、神の御前において不完全な存在です。

 そのような罪深い、弱い存在であるわたしたちが神さまの御前に出ることは、本来は不可能なのです。

 しかし、神さまはイエス・キリストをこの世にお遣わしになり、その十字架と復活の出来事をとおして、わたしたちの罪を赦し、わたしたちが神さまを礼拝することを可能にしてくださったのです。

 その意味で、礼拝の本質的意味は、それは確かにわたしたち参加者が神さまに対して共同で行う宗教行為ですが、本質的には、神さまが自分自身を救うことのできない罪深い、弱いわたしたちを深く憐れんでくださり、神さまの方から、神さまに近づく資格を持たないわたしたちに近づいてくださり、今日においては聖霊の助けによって、わたしたちは常にイエスさまと神さまと近く居ることを可能にしてくださったということなのです。

 その意味で、礼拝とは、わたしたちの感覚からすれば、「そこに出席するもの」ですが、信仰においては、そうではなく、「礼拝を通じて、神さまがわたしたちを招き、わたしたちに近づいてくださる出来事」なのです。

  そして、イエスさまはわたしたちを犯した罪によってその場で裁くことをしませんが、しかし、だからといってわたしたちが罪に留まることを良しとしてくださっているのではなく、むしろ、信仰者として生きるその人生において、自分の意志によって神の御前に罪を告白し、悔い改め、神の御言葉に聞き従う人生を歩むようにとわたしたちに願い、わたしたちの不忠実さにも関わらず、わたしたちと共に居て、罪の告白のとりなしをしてくださっているのです。

  そういう意味で、わたしたちはひとりひとりがイエスさまから深い憐みと信頼をいただいているのです。

 だからこそ、わたしたちは礼拝で、まさに神さまに罪赦された者として、御前に出ることが許されたことの喜び、感謝しつつ、主の御名を礼拝し賛美するのです。

 当然、それが真剣にそのとおり行われているのであれば、礼拝は誰にとっても素晴らしいものであり、喜びに満ちたものであるのです。



 しかし、そうした喜びが、またそうした本当の救いが礼拝にないという時に、教会は別の魅力である「偶像」へと走るのです。その時、牧師はあの手・この手で教会に人を招こうとするでしょう。

 「教会に、あるいは礼拝に魅力がないから、もっと教会や礼拝を魅力のあるものにしよう!」

 「偶像」とは、いわゆる別の神の像ということではなく、むしろ、人間の内なる欲望を信仰的な対象化したものであって、何かの実体があるわけではありません。例えば、「100人礼拝」「1000人教会」というような、教会の中で呼び掛けられる、信仰の本質とは無関係な一種のイデオロギーのようなものかもしれません。あるいは、牧師の個人的な欲望かもしれません。


 一見、信仰的に正しいように聞こえますが、まったくのナンセンスです。「この教会には、キリストの救いがありません」、あるいは「この教会はキリスト教会ではありません。」ということを神の御前に告白しているのと同じです。

 信仰の喜びは人間が作り出すものではなく、神さまの憐みによって、ひとりひとりに与えられるものです。

 当然、罪を悔いない、あるいは悔い改めないところに救いの喜びはありません。


 その意味で、そうした「信仰の本質とは無関係な何かしらの魅力を打ち出している教会」というのは要注意です。




 「キリスト教会はキリスト教会である」というのは、当たり前というか、まさにその通りなのですが、案外にも、わたしたちの身の回りには「偶像を崇拝するキリスト教会のようなキリスト教会」が多いのではないかと思う今日この頃です。

【エフェソとコリントの地図上での位置関係】
 

47214088


コリントの信徒への手紙16章8~12節
8)しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。
9)わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。
10)テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。
11)だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。
12)兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。


 パウロはこの箇所で、この手紙がアジア州のエフェソという町におり、そこからコリントにある教会の人々に手紙を出していることを説明しています。そして、先にコリントにアポロが宣教しに行った後、パウロがこの手紙を記している段階において、アポロがエフェソにコリントから既に帰ってきており、しかもパウロはコリントの教会で問題を起こしたアポロに対してコリントの教会に再度赴くように勧めているのですが、アポロはコリントの教会に再度行く気持ちがないことをパウロはこのところで明らかにしています。

 パウロはこれまでのところで、アポロが信仰的指導者として、コリントの教会を分裂の危機に追いやった(その他の理由もあるが)ことの責任について、おそらく、コリントの教会に再度赴いてパウロや他のコリントの教会員の前で謝罪するべきであることを考えていると思います。

 そのため、パウロはアポロに対して「信仰の敵」ということではなく、あくまでも「兄弟アポロ」と、すなわち教会指導者として、教会を混乱に陥れたその責任をきちんと果たすことを勧めるのです。ところが、当のアポロは、まだその意志が見受けられません。その意味で、パウロはアポロに対して、時間がかかってもいいから自分が起こした問題についての責任を果たすことを望んでいるものと思います。

 
 さて、ではこの事が今日的にわたしたちに教えるのはどういうことでしょうか?

 まずは、牧師であれそれ以外の指導者であれ、キリスト者として人間として神のみ前において「正しい者は一人もいない」という、わたしたち人間の現実に即して物事を考えるべきであるということです。

 当然、それは「牧師であるから間違いはない」というような一種の思い込みを禁じると共に、牧師も何かしらのリーダー的な存在も、また一信徒として、共に教会の重荷を担い、またそのために教会に仕える者であるという所から外れないということです。

 パウロがアポロに求めているのは、口だけで指導するのではなく、その業についても働きについても、特に信仰において罪の告白や罪の悔い改めという事柄についても、牧師も指導者もまた自分からそうしたことを率先して行い、まず、自分自身がキリストの言葉に聞き従う者であることに徹することが求められるということです。

 その意味で教会における福音宣教の業において、牧師、あるいは指導的立場にある人に求められるのは、まず自分自身がイエス・キリストのみ前に罪を告白し、罪を悔い改める者であり、まさにそうした信仰者としての生き方をもって教会の人々を指導するということです。


 ところが、そうではなく牧師や指導者が人間的努力、すなわちこの世的な成功といった事において、牧師として、あるいは指導者となりますと、そこには当然、「この世的な成功=失敗を犯さない=清い人=正しい人」といったイメージが構築されます。

 「常に神の助けによって勝利を収める」とは、聞こえは良いのですが、それが信仰的謙遜によって実現されるものである限りにおいては良いですが、都合よく信仰者だけが勝利を収めることはありません。そのため、「勝利=神の祝福」を実現するために、牧師、あるいは指導者は「勝利のためには悪を行うこともいとわない」というような事にもなっていくのです。

 こうした事は新約聖書においてはあまり見かけることはありませんが、旧約聖書においてイザヤ書などの預言書において告発されるイスラエルの罪について見ていると、そうした、信仰共同体において「まずありえないことが起こる現実問題として起こるのだ」ということが見えてくるかと思います。

 わたしたちがこの世において受ける祝福(繁栄)とは、その本質において神の祝福による祝福(繁栄)と、人間の悪による祝福(繁栄)とがあります。両者はその結果において共に共通しますが、しかし、その本質は決定的に違うのです。

 教会が結果だけを見て、その本質を見誤る時に、教会はイエス・キリストを信じているようでサタンを信じ、サタンの誘惑に従って繁栄を手にするという事があるのです。それは信仰共同体においては致命的な間違いであって、常日ごろから、自分たちの行っていることが神のみ前に正しいかどうかを悔い改めながらでなければ、教会はあっという間にサタンの誘惑に落ちてしまうのです。

 また、わたしたち人間はサタンに対して「誘惑」の罪の責任を追及することはできません。サタンとは、すなわち便宜上、わたしたちがわたしたちの信仰を神から遠ざける架空の存在であって、本質において実体はありません。

 なぜなら、わたしたちがサタンと呼ぶものは本質は、自分の内にある「欲望」に過ぎないからです。その「欲望」をわたしたちが、現実の世界において投射する対象がすなわちサタンであり、サタンの実体はなく、ただ自分の内にある欲望に過ぎないのです。
 
 当然、わたしたちがその罪の責任をサタンに追及することはできず、その罪の責任を担うのは当の本人ということになるのです。その意味で、神にサタンがその罪を追及されることはなく、あくまでも罪を犯した人間がその罪の責任を取らざるを得ないのです。
 

 教会で何か特別な行事を行い、それによって新来会者が与えられた時、それはむしろわたしたちは注意しなければならないのです。わたしたちは、そのようにして自分たちの努力によって、新しい人が教会に来てくれた。それは神の導きだ、神の祝福だと理解するでしょうが、むしろ、パウロに言わせれば、そうした事は神の祝福でもなんでもなく、ただ自分たちの欲望の望むままに事態が進展したことを、「まさに神の御心」であると認識しただけであって、まさにそれがここでいうところのサタンの誘惑であるのです。



コリントの信徒への手紙16章13~24節
13)目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。
14)何事も愛をもって行いなさい。
15)兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。
16)どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。
17)ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。
18)わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。
19)アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。
20)すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
21)わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。
22)主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。
23)主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
24)わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。

 その意味で、本当の「神の導きによる新来会者」とは、そうした集会ということに関係なく、普段の礼拝において教会に訪れる人において、まさにそうであるということが言えるのです。もちろん、そうした特集に来た人がまったく「神の導きに拠らない」とは、人間は言い切ることができません。

 しかし、わたしたちが教会として特別なことではなく、パウロがこの13節で言っているように、わたしたちが信じ、また守っている「礼拝」はまさにこれこそが教会においてもっとも大切なものであって、わたしたちはそれに誇りと自信を持ち、堂々と、「教会の外の人々が何を考えているのか」というようなことを気にせず、自分たちの大切にしていることを大切にしていけばそれでいいのです。

 仮に、何か教会が特別なことをしたことによって、新来会者が与えらえるのだというのであれば、教会は常にそうした新来会者が与えられるためにすべての情熱をつぎ込まなければなりません。

 テレビ局が視聴率を獲得するために、一定の放送倫理の枠の中で、あの手この手で視聴者を飽きさせないようにするのと似ています。

 キリスト教会はそのようなエンターテイメントを提供する場所ではありません。

 キリスト教会は神を礼拝する所である。それ以上のものでもそれ以下のものでもなく、定められた時に、定められた場所で礼拝を必ず行っている。その欠かすことのない週毎の礼拝を100年、1000年と続けるのがキリスト教会なのです。

 その意味で、教会が、この世的な流行を取り入れることがどれほど神のみ前に愚かしい事か。しかし、キリスト教会はそれが「愚かしい」と思いながらも、しかし、それをまったく切り捨てる信仰的勇気を持たないところが、すなわち今日におけるキリスト教会の信仰的な弱さであるのです。

 神は無から有を生み出す方です。

 わたしたちが信じるのは、まさにこの世的な流行に左右されることなく、天地のはじまりからその終わりまでわたしたちと共にいて、御言葉を与え、わたしたちの罪深さを深く憐れんでくださる方であるのです。

 教会が最近の流行を取り入れることが神のみ前における大いなる反逆であると自覚するキリスト者は、今では少ないかもしれません。

 
 「今の若い者は・・・」という事ではなく、パウロがまさにコリントの信徒への手紙1 15章で 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 」(Ⅰコリント15:3~5)と語っているように、それはパウロの生きていた時代においても、また100年前の時代においても、今日においても、またわたしたちの後の時代の人たちにとっても、この言葉が変わることはないのです。

 それは、確かに、今のような自由な時代においては、それは表面的にはただ「言葉による情報」であって、取り立てて何かしら秘密めいたものでもなく、面白くも楽しくもありません。

 しかし、パウロがそうしたように、過去のキリスト者はこの事柄を大事にし、まさにその事を自分の生涯においてもっとも大切なこととして生きる人生を通じて、この信仰をその世代から次の世代へと継承していったのです。

 その意味で、教会はキリスト教の斡旋所でも、布教所でもありません。

 まさに教会は「神を礼拝するところ」ということを本質にするところであって、キリスト者はキリスト教の斡旋をすることなく、ただわたしたちは神の憐みと導きによって「キリスト者と成る」のです。




 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(マタイ7:13)

 イエスさまがこう言われる言葉はまさに真実です。

 しかし、もう一言付け加えることを主が許してくださるなら、わたしは次のように書きます。


 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる教会の門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」


 それはまさに「あそこの教会」がということではなく、わたしたち自身の直面する問題であり、教会は常に、この事を意識しつつ歩んでいく必要があるのです。

 当然、それは常に神のみ前に罪を悔い改めようとする信仰生活において実現される神の導きであり、ナザレン教会が言うところの清め・聖化とは、まさにそうした教会のあり方であるのです。

 パウロは先に記したコリント教会の教会員に宛てた手紙において、コリント教会の内部における信仰的な違いによる不一致について、そうした教会員ひとりひとりの思惑を捨てて、イエス・キリストが示してくださった愛に基づいて、一致して教会を建て上げていく(もちろん、人間の業ではなく神の恵みによって)ことを勧めました。

 そして、そのあとコリントの教会を再訪することになるのですが、問題はパウロが、アポロや他の十二使徒の教会からの宣教者たちと比較される時に、パウロは、アポロのような雄弁家の賜物(カリスマ)もなく、また十二使徒の教会からの宣教者たちのような、直接、イエス・キリストと結びつく何かしらの印のようなものを一切持ち合わせていませんでした。

 ましてや、パウロは持病をもっており、そういう意味では、他の使徒たちが「いやし」といった奇跡を行ったり、あるいは異言を行ったりするのに対して、むしろいわゆる他の使徒や宣教者たちが身に着けている賜物、すなわちカリスマを一切持ち合わせていなかったのです(あるいは、そういったことを自身の宣教においては一切行わなかった)。

 そうした事から、コリント教会の信徒の間でパウロの使徒としての資質に対する疑義が起こったのです。

 そうした背景から、パウロは再度、コリント教会の人たちに対して手紙を送り、そうしたコリント教会の信徒たちに対して自分が正しく「神の御前においてきちんとした使徒である」ということを弁明すると共に、それによってコリントの教会の人々との和解を願って綴った文書というかたちをとっています。



 パウロがなぜ、コリントの教会において「使徒」として存在できるのか? 

 それはパウロがガラテヤの信徒への手紙の冒頭で記しているように、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ1:1)、すなわち、パウロはコリントの教会において、教会の創立者であると共に、自身の信仰告白として、すなわちあくまでも「自称使徒」であったのです。

 アポロや他の十二使徒の教会からの福音宣教者(キリスト教をユダヤ教の中に位置づけようとする教会指導者)たちの言葉によって、コリント教会の教会員たちはパウロに対する疑心暗鬼に陥り、中にはパウロに対して侮辱の言葉を浴びせる人々(たとえばコリントⅡ 10:10『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。』)が起こり、パウロはコリントの教会にあって使徒としての立場を立証する必要に迫られました。


 そこでパウロは、自分自身が「正真正銘の使徒である」という根拠を、「実際的な神の助け」、すなわち福音宣教者としての苦難において、神がそれを助けて下さった事の証をもって、自分自身がまさに神さまによって使徒とされていることの根拠においたのです。

 すなわち、パウロが「偽物の使徒」であれば、パウロは神と人に対して嘘を言っている事になるので、当然、使徒としての活動が続けられることもなく、神を冒涜している行為になるので神さまによって助けられることはなく、死んでしまうであろう。

 ところが、パウロはこれまでの福音宣教者としての人生において、数多くの困難(コリントの信徒への手紙Ⅱ 11:11~33)において、神さまの導き、助けによって命を守られてきた。すなわち、こうしたパウロの福音宣教者としての数多くの苦労が、パウロが真にイエス・キリストによって使徒とされたことの根拠になっている、という事なのです。

 そこで、パウロはそうした事がらを踏まえて、コリントの教会がまさにイエス・キリストの教会として、今、直面している問題に対して、信仰によってこの困難を乗り越え、パウロ自身がまさに神さまの助けによって使徒と証明されたように、パウロとコリント教会とのギクシャクした関係を修復し、すなわち、イエス・キリストがその救いによって神と人との関係を和解させてくださったように、パウロとコリント教会の間を「イエス・キリストが与えてくださった聖霊の助けによって、愛によって、和解に至ろう」とコリントの教会の教会員に勧めるのです。



 さて、大枠は上記のとおりとして、以下に個別的に聖書箇所を見ていきたいと思います。

コリントの信徒への手紙2 2章5~11節
5)悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
6)その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
7)むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
8)そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
9)わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。
10)あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
11)わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
 
 
 教会がまさにキリストの教会であるために大切なことは、まさにイエス・キリストがわたしたちの罪を赦してくださったその出来事に倣い、わたしたち自身もそのことを覚えつつ、自分たちもまた神の御前において同じ罪人であるとの自覚の上に、互いにゆるし合うということが大事です。

 それはキリスト教信仰における基本的な事柄ですが、キリスト教会の中では案外にも難しい事柄です。

 なぜなら、キリスト教信仰は、常に神の御心を求める点において、それは言い方を変えれば、信仰における「正義・正しさ」を求めるからです。

 つまり「何が神の御前に正しいのか?」という信仰の視点は常に「正しさ」を求め、それは例えるなら「誰が正義で誰が悪か?」という考え方に陥るからです。


 本来、キリスト教の信仰において、あるいは聖書において、正義・正しさは常に「神さまに属するもの」であって、当然、人間がそれを保有することはできません。

 ところが、キリスト教会においては多くの場合、「キリスト教を信じる=正義」という構図で説教がなされ、それは同時に、「自分たち・教会(牧師?)=正義」というような価値観を信徒に押し付けるのです。


 たとえば、旧約聖書のダニエル書9章に以下のような記述があります。

『わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。』(ダニエル書9章4~5節)

 ダニエルは当然、神を信じている点において「信仰者」なのですが、そのダニエルは神さまに対して、イスラエルの過去における罪の歴史を振り返りながら、自分自身をそうした罪深いイスラエルの人々と同じ場所におき、すなわち、自分自身もまた神の御前に罪人のひとりであるという信仰的な自己理解に立つのです。

 言葉で説明すると分かりにくくなるので以下に図で示します。


旧約聖書に見る信仰者の自己理解と教会におけるキリスト者の自己理解


 旧約聖書において、特に預言書に見る信仰者の自己理解は、自分がいくら信仰者であったとしても、神の御前に正しい者であったとしても、人間が自分で神の御前において「自分は神の側に存在する」などとは信仰的には絶対に言わないのです。

  なぜなら、創世記においても示されているように、神は創造主であって、人間は被造物に過ぎません。その意味で、神と人間との間には大きな隔たりがあって、その隔たりがまさに罪(図では示してありませんが、左右の四角の間の空間です)であり、そうした隔たりを考慮すれば、人間は神の御前に信仰者であろうとなかろうと本質は同じなのです。

 だからこそ、旧約聖書においては、自分たちが神の側に立つような表現はまず出てきません。なぜなら、人間が神の側に立つということを神の御前において主張することほど神の御前に恐れ多いことはないからです。その点で、新約聖書においてイエスさまがご自分を神の子とした点についてユダヤ人たちが「神を冒涜している」と発言するのは、「イエスさまが神の独り子である」ということを抜きにして考えれば、それは至極当然のことなのです。

 ですから、預言者イザヤが神さまから召命を受けるときに言った言葉は、まさに上の図と共通するのです。

イザヤ書6章5~7節
5)わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6)するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7)彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
 
 イザヤは神さまから召命を受けた時、祭司をしていました。すなわちイスラエルの信仰においては神の御前に罪を清められている存在であるにも関わらず、イザヤは自分自身が罪にけがれており、しかも、自分は罪にけがれた人々の中に生活しているような人間であることを、神の御前に告白するのです。



 ところが、キリスト教会においては、イエス・キリストの救いによって、人間に対するイエスさまの「近接さ」が、あたかもそれが事実、本当に自分自身と神とが同じ立場に存在するかのような誤解を招いているのです。

 つまり、信仰者が、まさに「自分は神と同じ側にあり、神によって正義をいただいている」というような感じに自己理解をするようになる。ところが、神の御前に、こうした信仰ほど傲慢な信仰はないわけです。


 むしろ、それはイエス・キリストの救いが「わたしたち罪人に対する憐み」である限りにおいて、例えば、「神の子とされた」とは、それは「事実そうされたのだ」ということ以上に、「信仰者に対する憐みと慰めの言葉である」という理解が大切なのです。

 だからこそ、キリスト者は、あくまでも「イエス・キリストの救いによって罪を赦された罪人である」という自己理解が非常に大切なのです。わたしたちキリスト者はイエス・キリストの救いに与って神の子とされるわけですが、神の子とされるとは、すなわち「わたしは神の側に立つ人間だ」ということではなく、「神との関係において罪を赦された者として、日々罪を告白し、罪を悔い改めつつ歩むことが求められている」ということなのです。

 『イミタチオ・クリスティ』(邦題:「キリストに倣いて」)という本がありますが、ホーリネスやナザレン教会の信仰である「聖化」とは、すなわちそうした神の御前において常に信仰的に謙遜であり続けようとする、神の御前に真実に生きようとする者の生き方であるのです。

 

新約聖書が提示する神・キリスト・聖霊・人間の関係


 だからこそ、わたしたちは「神の子とする」という神さまの言葉に対して、むしろ、「キリスト者として当然です」とそれを受け取るのではなく、むしろ、「いえ、決してそのような事はありません。わたしはイエスさまに対して多くの罪を犯した者です。ただ、罪深いわたしを憐れんでくださり、ありがとうございます。」と告白することが、キリスト者としての大切な自己理解でないかと個人的には思います。

 その意味で、カトリック教会にあるキリエ(・エレイソン)の祈り、「主よ、(罪深いわたしを)憐れんでください。」という祈りは大事です。

 神さまに対して「わたしを救いなさい」と命令することなく、神さまに対して、わたしを憐れんでくださる事を願うことを通じて、神さまの判断・決断として、憐れんでくださり、救いを与えてくださることに信頼するという祈りであるからです。

 「救ってください。」「助けてください。」という祈りは、一見すると信仰的に何の問題もないように思えますが、しかし、それは神さまに対して下手に出た人間の、神さまに対するわたしを「救え」「助けろ」という命令以外の何物でもないのです。



 話がだいぶそれましたが、パウロはそうしたコリント教会の中にあって、起こった人間関係の破たん、すなわち教会の中で加害者・被害者・審判者という対立関係が起こった事について、深い憂慮を覚えると共に、教会員の人たちに対して既にそうした教会員が加害者・被害者・審判者になることによって発生した関係性の破たんを、イエス・キリストの御前において罪を告白し、誰が正しく・誰が間違っているということを明らかにすることよりも、むしろ、神の御前において一人ひとりが自分たちの加害者としての罪、また被害者としての罪、そして審判者としての罪を告白し合い、すべてを神の御前に真実を明らかにすることによって、真の和解へと、神さまの導きによって導かれることを勧めるのです。



コリントの信徒への手紙2 2章14~17節
14)神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
15)救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
16)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
17)わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。


 パウロはコリント教会がまさにイエス・キリストを礎とする教会であるために、 先の教会の中における内部分裂という出来事をまさにイエス・キリストの救いに基づいて、この出来事を神さまの導きによって実現することを通じて、キリスト教会は、常に「キリストの勝利の行進」、すなわちまさにイエス・キリストの御名が褒め称えられることを通じて、「キリストを知るという知識の香り」を、コリントの教会の人々が、あたかも自分たちの信仰生活を通じて、その生き方、神の御前における真実な生き方を通じて、自分自身の罪を知るという「キリストを知る知識」の香りを放つようであれと、勧めるのです。

 その意味で、キリスト教会とは、まさに正義を主張するところではなく、人間の罪、すなわち人間の弱さが告白されるところであり、その人間の弱さに対して神さまの憐み、助け、祝福が注がれる場所である限りにおいて、神の御前においてそれは正しい事であり、この「自分たちは神の御前において罪深く、間違っている」という正しく神を知ることによって、キリスト教会はこの世において正しくあることができるのです。

 そうした、「キリスト教的な正しさ」、すなわち、「罪の告白(わたしたちは神の御前において、語られる神の御言葉によって間違っている)」は、 当然、罪によって滅んでいく者にとっては愚かなもの、すなわち「滅びる者には死から死に至らせる香り」であり、しかし、同時にキリスト者にとっては、「キリスト教的な正しさ」「罪の告白」とは、「命から命に至らせる」、まさに「キリストの香り」なのです。

 パウロは、キリスト者は、キリスト教会は、まさにそうした「神の御前に自分たちの罪を悔い改める者」たちによって、「自分たちの罪の悔い改め」がなされるところであり、キリスト教会がキリスト教会であるためには、多くの人々が「キリストの言葉」をまさに商品(神の言葉を売り物にせず)として、この世的な利益を追求する「キリスト教」販売所のような教会になってはならず、神の御前において常に誠実に、まさに(本来わたしたち人間は神に属するような資格は一切持たないが、イエス・キリストの救いによって)神に属する者とされたという大いなる憐みに感謝しつつ、真実をもって神の御前に共に生きることを主張するのです。


コリントの信徒への手紙2 3章17~18節
17)ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
18)わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 パウロは、この世においてキリスト者をキリスト者とするもの、そしてキリスト教会をキリスト教会とするものをまさに「霊」、すなわち「聖霊なる主」の働きによるものであると説明しています。

 しかし、問題は、そうした「聖霊の働き」を、わたしたちは「救い」と切り離し、「罪の告白」から切り離し、あたかもそれを「キリスト者の所有物」かのように扱うことが教会の中で広まったということでした。

 具体的に言えばコリントの信徒への手紙1(12章1~11節)で預言や異言といった聖霊の働きによる事柄が、コリントの教会の中で行われるのですが、しかし、それは教会を建て上げるための、教会を秩序付けるためのものでもなく、むしろ、「その人が霊的な体験をした」という、一種の「信仰者の自慢(自画自賛)」に陥っていたということです。

 パウロはそうした聖霊による預言や異言といったことを否定するのではなく、聖霊はまさにイエスをわたしたちの救い主と告白させてくださる方(『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』コリントの信徒への手紙1 12:3)である点において、むしろそれはわたしたち人間を罪の束縛から自由にしてくださる方であり、そのように、キリスト者は自分自身の罪から自由にされて、神の御前に罪を告白することを通じ、イエス・キリストの救いの力によって罪から自由にされ、そのように罪の束縛、誘惑から自由にされた者は、自由に自分の罪を神の御前に告白することを通じて、その信仰がきよめられる。

 すなわち、そのようにして聖霊の働きによって、キリスト者は日々罪を悔い改めることを通じて、わたしたちは皆、罪による顔の覆いを除かれて、罪から自由にされて、まさに鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによるものであって、キリスト教会とは、まさにそうしたキリスト者によって形作られるものであることをパウロは主張するのです。

コリントの信徒への手紙2 4章1~5節
1)こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
2)かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
3)わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
4)この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
5)わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。 


  教会もキリスト者も、共にイエス・キリストの十字架と復活によって示された「神の救い」、すなわち、この「神の救い」をこの世において「証しする」ことが、キリスト者にとって、またキリスト教会にとっての存在意義です。

  パウロはそうした、「神の救いを証しする」ことが、実に多くの苦難に満ちていることを、その経験(Ⅱコリント11:16以下)から確信していました。

 すなわち、パウロはコリントの教会の信徒数や献金の額が多いことが、この世におけるコリントの教会が「真に教会である」ことの指標とすることなく、むしろ、この世において、コリントの教会が、この世の様々な悩みや苦しみに直面しつつ、しかし、そのような中にあって、神の祝福と導きによって、教会が形成されることこそ、コリントの教会がまさにこの世においてイエス・キリストを土台とする教会であることの指標であるとしました。

 だからこそ、パウロはここで、そうしたこの世の中にあってキリスト教会が困難に直面しているという事について、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(1節)と告白しているのです。


 しかし現実はコリントの教会においては切実なものであり、コリントの教会から雄弁家であったアポロが去り、また巡回する十二使徒たちの教会からの伝道者たちが去り、そうしたなか、コリントの教会員だけの状況になり、そこにおいて教会の人々は、やはりこの世的な伝道方策や、あるいは当時において大勢であったユダヤ教に吸収合併されることも良しとする考え方に傾倒したのです。


 わたしたちの教会もそうですが、いわゆる伝道をして、すぐに人が増えるわけでもなく、教会としての年月が過ぎていくと、当然、教会の中もマンネリ化し、そうしたマンネリ化を打破するために、牧師も信徒も、「あれをやって信徒を増やそう」「これをやったら教会に人が来るようになる」と、そうしたこの世的なものの考えにて、教会をあたかも一種の商売として、この世に対してキリスト教の売り込みをしようという事に陥るのです。

  パウロはそうした、いわゆる「信仰的な下心」による教会の行動に対して、「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだね」(2節)ようと、むしろ、そうした「信徒を増やそう」「献金を増やそう」というような神の御前における「卑劣な隠れた行い」を捨てて、また「悪賢く歩まず」、イエス・キリストが真実をもって十字架の死に至るまで忠実に歩まれたように、自分たちもイエス・キリストの真実さに倣って、「神の言葉を曲げず」「真理を明らかにする」ことによって、むしろ、自分たちはこの世において、ただ礼拝を守り、神の言葉に忠実であることを通じて、神と人との前に、すなわち、この世に対して、自分たちが真にキリスト者であり、キリスト教会であることをもって歩むことを勧めるのです。

 それは、自分たちがあの手この手で、すなわち「信仰的な下心」をもって信徒を獲得しようとするのではなく、むしろ、自分たちがこの世においてキリスト者として真実に生きるという姿勢をもって、「教会に行く・行かない」の判断を、「すべての人の良心にゆだねる」ことを言うのです。

 当然、その裏には、コリントの教会において、まさに「悪賢く」「神の言葉を曲げ」という事が起こっていたことを意味します。

 神の知恵ではなく人間的な「悪賢さ」。真実な神の言葉ではなく、そうした人間的な「悪賢さ」によって捻じ曲げられた神の言葉が語られている。


 礼拝説教を良く聞いてみてください。

 本当に「神の言葉」が語られているでしょうか?

 それは、人間的な悪賢さによって捻じ曲げられた神の言葉ではないでしょうか?

 教会の礼拝において語られる説教は、まさにこのいずれかです。「神の言葉」かそれとも「偽りの神の言葉」か。それは見かけ上、同じように見えますが本質的においては決定的に異なるのです。
 
 それはまさに「善と偽善」の違いであって、善は神から出ますが偽善は人間の罪から出てきます。 


 そして、現実問題として、まさにコリントの教会が経験したように、そうした「信仰者の偽善」が、キリスト教会いおいては大きな問題となるのです。

 中には、教会が全体として、そうした「偽善」に走っているケースも珍しくはありません。



 たとえば、なぜ、「教会にリーダーが必要なのでしょうか?」

 教会には「リーダー」なるものが存在しなければ、教会を組織し、運営することができないのでしょうか?

 むしろ、プロテスタント教会が「万人祭司」の信仰に立つのであれば、そうした「リーダー」なるものは一体どういう存在なのでしょうか?


 「ここの教会には青年が多いです」ということを言うキリスト教会の特徴は、すなわち、教会という組織において、その青年たちに、教会組織におけるポスト、すなわち「居場所」を提供しているのです。当然、そうした「自分の居場所」を求める青年は多く居ますから、「自分の可能性」を信じる青年は、そうした「自分の居場所」を提供してくれる教会に集い、そうした教会が青年で溢れかえるということは、別に神の祝福でもなんでもなく、ただ「青年のニーズと教会の提供するサービスが一致した」というだけであるわけです。

 教会が青年に対してそうした居場所を提供する。

 そのこと自体は間違ってはいません。わたし自身が、まさにそうした形で教会に導かれ、わたし自身の経験で申し上げれば、わたしは音楽が好きだったから教会に行き、そうしたわたし自身の趣味と教会の提供するものとが一致したために、今日に至ったということも言えるからです。

 しかし、それは信仰的と言えるかと言えばそうではありません。
 わたし自身の経験を言うのであれば、わたしはそうした自分が音楽が好きでみんなの前で音楽を披露できるという自分自身の欲求をただ満たそうとして、キリスト教会を利用していたという自分にある時、気が付いたのです。

 わたしは、他の人よりも熱心に教会の礼拝に出席し、まさに他の人たちが都合で奏楽の奉仕ができず、ピンチヒッターのような形で奏楽をすることが大好きでした。

 他の奏楽者の機会を奪ってでも自分が奏楽の奉仕ができることに、当時、わたしはその罪深さにまったく無頓着でした。


 音楽が好きで教会に行くようになる。そのこと自体が否定されるわけではありません。しかし、本質は、教会はわたしたち信仰者ひとりひとりが自分勝手を行ってよい場所ではなく、あくまでも「公の場である」ということです。教会は牧師のものでも、また信徒のものでもなく、ただ神さまのものであるのです。

 当然、それは牧師であってもまた信徒であっても自分勝手にして良いものではありません。問題は、教会において「奉仕」と「自分のやりたいこと」とは決定的に違うということです。

 パウロは、教会がまさにそうした「イエス・キリストを宣べ伝える」場所であり、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」(5節)と。

 すなわち、教会は「リーダー」たちの自画自賛の場ではなく、またストレス発散の場でもなく、牧師においては、牧師はまさにそうした教会に仕える者であって、アポロがまさに雄弁家として、まさにコリント教会の宣教リーダーとしてコリントの教会をグイグイと引っ張ったように引っ張ることが求められているのではないということなのです。

 教会はまさにイエス・キリストをこの世において、礼拝を守ることを通じて、福音を証しするところであり、キリスト者はまさにその礼拝において、自分の罪を悔い改めることをもって、福音を証しするのです。


 では、教会は若い人たちに対して、そうした居場所を提供してはならないのでしょうか?

 そうではありません。

 仮に居場所を提供するのであれば、それは神さまであって、わたしたちではなく、また教会でもないということです。それは「自分の居場所」は別に「若い人」に限定されるものでもありません。むしろ、すべての人に対して教会はまさに礼拝という居場所を提供しているのです。

 それはイエスさまの次の御言葉にも明らかです。
 
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

 教会は礼拝を守る場所であって、それ以外のものではありません。

 そして、イエス・キリストはまさに、わたしたちすべての者を、まさに礼拝に招いておられるのです。

 それはイエスさまが招かれる招きによるものであって、わたしたち人間の信仰的な下心による宗教勧誘によるものではありません。

 そうなると、教会は礼拝や祈祷会などの他には、ほとんど行わないということになります。


 むしろ、それが良いのです。

 なぜなら、自分たちが伝道をしないのであれば、その教会に招かれる人すべてが神さまの導きによるものであることが分かるからです。


 少しでも自分たちの努力によって教会に人を招いたとしたら、その教会は、以後、自分たちが人を教会に招かないといけなくなります。そして、そうした教会に人が増えたとすると、牧師も信徒もなおさらそうした「宗教勧誘」の手法に熱心になり、そうした伝道活動はより加速します。

 しかし、教会の難しいところは、そうした人間的努力によって急成長した教会が、そのまま成長し続けることはなく、ある程度のところで礼拝出席も献金額も頭打ちになってくるのです。そして、その教会は、そこでいろいろと悩むのです。 

 そうした状況に陥った教会において、もはや「神の導き」なる不確定要素の強い選択肢は選択できません。
 今までみんなで頑張ってきた事によって現在の繁栄があるわけですが、そうした教会の牧師も信徒も、「礼拝や祈祷会以外の特別なことを一切やめる」というような選択は、あまりにも「無策」と同じであって、「そこに神の祝福があるはずがない」と考えるのです。



 以前、牧師の口から「羊飼いが羊を増やすことはできず、羊が羊を増やすのだ」という話を聞いたことがあります。

 当時は、そうした話を聞きながら、何となくそういうものだと納得していましたが、そうではありません。


 信仰においては「神が羊を増やす」のです。

 それはまさに信仰的な「賭け」であり、「礼拝(祈祷会など)以外の何もしない」というのは特にプロテスタント教会においてはナンセンスと受け取られることがほとんどです。

 しかし、パウロが戦った信仰の戦いとはまさに、神にすべてをお委ねするという戦いではないでしょうか?


 今日の教会における大きな誘惑は、そうした意味では、「羊が羊をどのように増やすのか?」ということが教会のあるいはキリスト者の至上命題になっているということです。

 そして、そうした「羊が羊を増やす」ことに熱心な教会は、当然、「羊がより羊を増やせるように」と願い、そうした人間的な手法により、そして、そうした数量的成功をまさに神の祝福として、どんどん神から離れ去ってしまうわけです。


 パウロはそうした人間的な思いで教会を形成することは不可能であり、まさに教会は礼拝において、神の言葉に忠実であることをもって、この世の悩み・苦しみの中で、神の憐みによって成長することを証言しています。

 うちの教会のある信徒の方から、「うちの教会は病人ばかりだ」と少し自虐的に言われました。

 確かに、わたしどもの教会は若い人は少なく、高齢者がほとんどで、どこかしら病気を持っている方がほとんどです。表面的には健康そうに見えても、そうでない人ばかりです。

 しかし、むしろわたしはこの教会が、そのような人たちによって神さまによって教会とされていることに深く感謝するのです。

 「わたしたちの教会以上に、神さまに憐れんでいただいている教会があるだろうか?」と。

 若い人が多い教会は、まさに若い人たちの熱意と力によって教会が維持されます。

 ところが、わたしどもの教会はそうした力も何もありません。しかし、そうした何もないところにおいてこそ、神さまはわたしたちを深く憐れんでくださり、この教会に人を招いてくださるのです。それは、わたしたちが特別何か努力をしているわけでない点において、まさに私ども教会において神さまが助け守ってくださっているということが「真実である」と言うことができるのです。

 もし、わたしたちが何かしら頑張っていたとしたら、そうした理解に至ることも可能だとは思いますが、しかし、「実感として」、どれほど神の助けを体験し、認識できるかと言えば、かなりの違いがそこにはあるのではないかと思います。

 中には、無理矢理?に「感謝」「ハレルヤ」と、自分(たち)自身に言い聞かせているような教会もありますが、「実感のない」にも関わらず、「感謝」ということを本気で言うことはできません。

 その意味で、キリスト教信仰は自虐的ではありません。表面的に見ればそのように見えるかもしれませんが、神の憐みを経験する人にとって、「感謝」という言葉はまさに「神さまの憐みを受け、深く慰められた」からこそ「感謝」の言葉が出るのであって、「苦しくても、『感謝』と言っていれば、神さまが祝福してくれる」というようなものではありません。

 確かに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)という事も言われていますが、その背後には、「真実をもって神の言葉に従う」という信仰生活、そうした教会において「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という事が言われているのであって、牧師や信徒の自己中心的な思惑を実現するために、そうしたことが勧められているのではありません。

 そして、だからこそ「真実の神の言葉」が大切にされる教会であることは、教会が教会であるための生命線であり、まさにそうした教会であり続けることができるようにと、常に神の御前に願っております。

コリントの信徒への手紙2 4章16節~5章10節

16)だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
17)わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
18)わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 

1)わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
2)わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
3)それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。
4)この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
5)わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
6)それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
7)目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
8)わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
9)だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。


 キリスト教会においてよくありがちな信仰的誤りは、「キリスト教は万人救済説である」という理解です。

 確かに、この世を支配される神によって、最終的には、すべての被造物が救済される、すなわち万物が神によってまさに終わりを迎える時において、そうであるかも知れません。

 しかし、「万人を救済するか・しないか」は神さまの主権において決定されることであり、わたしたち人間は、たとえ信仰者であっても「すべての人はイエス・キリストの救いによって救われます」と言うことはできません。

 確かに、神さまは御心においてすべての人を救おうとされるのは事実でしょうが、問題は、だからと言って神さまはわたしたちの意志と無関係に、わたしたちの人格を無視して救済を行うことはないのです。それは福音書においてイエスさまが言われている通りであり、イエスさまが言われていること以上のことを牧師が言うことはできませんし、もし、それを言うのであれば、牧師は神と人の前において嘘をついているのと同じであるのです。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイによる福音書7章21節)

 その意味で、牧師が「真実を語らない」「誤った福音を語る」ということの罪深さを理解しないと、教会はあっという間に偶像崇拝の巣窟になってしまうのです。


 
 さて、パウロは、この箇所において「キリスト者として生きるとはどういうことか?」という事について、コリントの教会の人々に語っています。

 パウロはまず、5章16節において、イエス・キリストを信じることが、いわゆるアンチエイジングのような、人間としての寿命をただ伸ばすものではないことを説明します。おそらく、これはたとえば「永遠の命を信ず」という信仰告白とのかかわりがあるのではないかと個人的には考えるのですが、「イエス・キリストを信じる者は病になることもなく、歳を取ることもない。」というような考え方に対する、信仰的な修正をパウロは行っているのです。

 すなわち、他のユダヤ主義に基づくキリスト教会からの使徒たちは、いやしの賜物を持っており、実際に病の人をいやしたりしていました。

 ところが、パウロはと言えば、コリントの信徒への手紙2 12章7・8節で「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」とパウロ自身が語っているように、パウロは使徒である割には病を持っており、パウロはその病を取り除いてくださるよう神さまに祈るのですが、結局、パウロの病はいやされることがなかったのです。

 パウロは、そういう意味で、他の使徒たちのようにいやしといった賜物を持つこともなく、アポロのような福音を雄弁に語る弁も持たず、しかも、神によっていやされることのない持病を持っているという、実に、使徒らしからぬ人物であったのです。

 しかし、パウロはそうした人間としての様々な弱さを持った自分自身の姿が、まさに、これこそが神の助けによって生きている証拠であると、そうした信仰的な理解の上で、キリスト者として生きるとは、まさに自分の生まれ持った能力・才能、あるいは癒しや異言といったような霊的な賜物といったようなものに依らず、まさに神の祝福によって生きることこそが大切であることをこのところで人々に語るのです。

 そして、その最初の問題が、人間の肉体的な老いについてであるのです。

 キリスト者は信仰によって、肉体的に・精神的に老いるのことがないのか?
 

 そうした問いに対して、パウロは例えイエス・キリストを信じる信仰があったとしても、人間は老いるし、病気もすれば、最終的には死ぬことを、このところで説明するのです。

 当時、まだパウロが生きていた時代においては、イエス・キリストの再臨が近いと、かなり強烈な終末信仰に立って、この世の生活から離れ、ただ神によって生きて天に上げられるのを待ち望む信仰者たちのグループがありました。

 しかし、パウロはそうした終末信仰・再臨信仰を退け、しかし、決してそれを否定するのではなく、わたしたちは日々神によってそうした終末、すなわち「日々神の裁きの前に生きているのだ」ということを説明するのです。

 それゆえ、わたしたちの地上における信仰の生涯は、当然、来たるべき終末、来たるべき再臨に対して常にその準備をしておく必要があり、その時が来るまではわたしたちは人間として地上での信仰生活を正しく歩む必要があることをパウロは示すのです。

 当然、そうした地上における信仰生活において、わたしたち人間はだんだんと加齢とともに肉体は徐々に衰えていきます。

 しかし、信仰者は他の、神を信じていない人たちとどのように違うのかということを、多くの人にとっては加齢による肉体の衰えであるけれども、わたしたち信仰者は、他の人たちと同じように肉体は衰えたとしても、わたしたちの内なる人、すなわち「霊による体」は、信仰によってだんだんと成長するのだと言うのです。

 わたしたち信仰者の地上における信仰の生涯の目的は、「信仰者としての生涯を全うする」ことを最終目的とするのではなく、4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」とパウロが言っているように、「見えないもの」、すなわちいわゆる「天国への凱旋」こそが、地上における信仰者の最終目的であることをパウロは説明するのです。


 だからこそ、わたしたちの信仰者としての地上における悩みや苦しみは、「天国への凱旋」をもって、すべてが報われるのです(たとえば「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(ヨハネによる福音書14:2))。

 しかし、わたしたちは地上においては、この朽ちるべき肉体に住んでいるかぎり、すなわち地上において命のある限り、たとえ信仰者であっても「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。」(コリントの信徒への手紙2 5章6節)と、常に、自分たちは神を信じてはいるけれども、主から離れており、罪を犯しやすく、常に神の御前において罪を告白し、罪を悔い改める必要があることをパウロは説明するのです。

 
 そして、この世において信仰者として、たとえば「いやしができない」「異言が語れない」「病がいやされない」といったようなこの世におけるそうした事柄は信仰生活においては本質的な問題ではなく、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(コリントの信徒への手紙2 5章10節)とパウロが結論的に語っているように、キリスト者はそうした信仰者としての目に見える形の現象や出来事はまったく問題にならず、むしろ、地上において、わたしたちはキリスト者として、肉体を持つことによる罪からできる限り離れ、信仰においては天国に凱旋するための確かな霊の体を作り上げることに専念することをコリントの教会の人々に勧めるのです。




 コリントの信徒への手紙2 6章16~18節
16)神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
17)だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18)父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」

 そして、だからこそパウロは、キリスト者は、あるいはキリストの教会は、まさに自分たちがイエス・キリストを信じる信仰において、わたしたち一人一人がまさに生ける神の神殿である自覚に立ち、すなわち、イエス・キリストにあって常に罪を告白し、罪を悔い改めるという責任を担うことを強調するのです。

 その反対にあるのは、まさに偶像崇拝と化してしまった信仰者の姿であり、またキリスト教会の姿です。


 ある教会では牧師が「福音を宣べ伝えなさい。」というイエス・キリストの御言葉を引用して、信徒に対して、キリスト教への、あるいは教会への勧誘を、かなり無理矢理に命じます。

 その言葉がイエス・キリストが語られた言葉であり、牧師は、まさにイエスさまのその命令に則って、自分がまさにイエス・キリストの位置から、信徒に対して、「伝道しろ。伝道しろ。」と命じるわけです。そして、そうした「伝道熱心であること」をもって、「正しいキリスト教の信仰」とするのです。



 確かに、イエス・キリストが、例えば「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:16)と言われたということは聖書に記されています。では、ここでイエスさまが言われている「福音を宣べ伝えなさい。」とは、いわゆる「キリスト教の勧誘」なのでしょうか? もちろん、そうした教会では、「まさにそのとおりだ」と信じて疑わないわけです。


 しかし、パウロはその手紙の中で、一度も、「信徒は、あるいは牧師や教会は信仰者を増やさなければならない」、あるいは「人数を増やせ。献金をどんどんしろ。」というようなことを言うことはありません。

 パウロがキリスト教徒として、信仰者として、あるいは教会として命じているのは、あくまで「ひとりひとりがキリスト教徒として正しく生きる」ということであって、信仰生活の目標は伝道や宣教ではなく、むしろ、「内なる人を強め、最終的に天国に凱旋すること」が目標なのです。



 すなわち、そうしたパウロの信仰に立つのであれば、宣教・伝道とはどういうことかと言えば、それはキリスト者が神の御前においてこの世の中で信仰的に正しく生きることこそがまさにキリスト者の宣教・伝道であって、そのような人たちが集まり共に神を礼拝することこそがまさに宣教・伝道であるのです。

 

 コリントの信徒への手紙2 7章1節
1)愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

 
 パウロは教会が、そうした人間的な罪の誘惑に負けることのないように、常に信仰において、神の御前に正しくあることができるようにと、「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め」と、信仰者は常に、神の御前に自分を置いて、イエス・キリストの御名によって罪を告白し、罪を悔い改める生活を続けることを勧めます。

 そして、それは決して、個人的な罪の悔い改めだけに留まらず、キリスト教会にも、神の御前に教会として罪を悔い改めることの大切さをパウロは指摘します。


 コリントの信徒への手紙2 7章2節、9節
2)わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。

9)今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。



 パウロは、これまでコリントの教会に書き送った手紙において、かなり真摯に信仰における問題についてコリントの教会の抱えている罪を告発しました。

 それは、コリントの教会の人々を一旦は深い悲しみに沈めるものでありましたが、しかし、それはまさに神の御前において真実な内容であるからこそ、コリントの教会の人々は、パウロの指摘する罪を認め、自分たちがまさに神と人との前において罪深いものであったことを告白し、コリントの教会をあげて罪を悔い改めるに至ったのです。

 そして、パウロは今回もまた、悲しむべき出来事が起こったにも関わらず、今回の手紙においても同様に、コリント教会の人々が神の御前に罪を悔い改めてくれることを信じてやまないのです。


 わたしたちは、時に教会の中で問題を隠そうとします。それは教会の汚点として、教会の外の人たちに対して「良い証しにならない」という視点からそのように考えるのです。

 しかし、パウロはそれが決して教会にとって、またコリント教会の人たちの信仰において決して益とならないことを確信していました。

 むしろ、キリスト者も教会も、神と人との前に常に真実をもって、裏表なく、神の御前に正しく生きようとするところに神さまの憐みは大きく働くのです。

 そうではなく、むしろ、そうした汚点を不祥事として、教会が秘匿しようとする時、それはまさに神さまの定められた時に、公に暴かれる時がくるのです。そして、その時にいくら弁解したところで、ひとたび失われた信用を取り戻すことはできません。

 わたしたちはそうした「失われた信用を取り戻すことは人間には不可能である」ということを常に心にとめ、間違いを犯したのであれば速やかに神と人との前において、罪を告白し、罪を悔い改める生き方を選択する必要があるのです。

 神と人との前において罪を告白し、悔い改めることは決してキリスト教においては汚点でもなんでもありません。

 わたしたちが人間である限り、だれもが神の御前において「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)のです。それを偽って「教会には間違いはありません。」「信仰者・牧師は嘘を言いません。まちがいを犯しません。」と言い張るところに、信仰者の傲慢の罪があるのです。

 むしろ、わたしたちはこの世において、自分たちが神の御前において罪深い者であり、しかしながら、そのような弱い者であるにも関わらず、イエス・キリストの罪の赦しのゆえに神を礼拝し、この世において希望を抱いて信仰生活を生きることができるのです。

 それは神の憐みによるもの、神の祝福によるものであって、決して人間のやせ我慢や努力によって打ち立てるものではありません。

 人間のウソ、虚構、努力、欲望、願望。そうしたものによって建て上げられた教会というのは、まさに創世記におけるバベルの塔と同じであり、結局のところ、神さまによって破壊されるのです。それは神の御前において明らかなことであり、真実であり、それは今日のわたしたちにおいても、また真実であるとわたしは思います。

 
 

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