コリントの信徒への手紙1 7章1~2、17~19節
1)そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
2)しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。
17)おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
18)割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。
19)割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 コリントの信徒への手紙1 7章は全体的にはキリスト者が結婚する事に対して、それが信仰的に問題があるのかどうかという事について、コリントの教会の人たちが質問を送って、その質問に対する応答という形で記されています。
まず、7章における全体的な説明をするのであれば、こうしたやり取りが始まる前において、パウロがコリントの教会の人たちに教えた事は、それこそ今日的にいえば修道者生活のように生涯独身を貫くような、禁欲的な生活であったのです。
当時のギリシャ・ローマといった世界における性に関するモラルは、どちらかといえば非常にルーズであり、下手をすると「なんでもあり」の世界であり、当然のことのように妻以外にも愛人を持つことは社会人の嗜みのようなものとして理解されていたのです。
そして、まさにそうしたことが一般常識である人たちに対して、「正しい信仰は生涯独身のような禁欲的な生活によって実現される」というような事を教えた事によって、当時のコリントの教会の人たちは大いに衝撃を受けたのです。
パウロは1節において、そうした経緯があったことを「そちらから書いてよこしたことによれば」と、そうしたやり取りがあったことをほのめかしながら、以下に、キリスト教信仰に基づく人生観、および結婚観を提示するのです。
あれこれと書かれていますが、それはすなわち今日的「一夫一婦制」であって、そのことは特に問題ではありません。
結論から言えば、信仰者の信仰生活において大切なことは、「結婚」という信仰生活の具体的一面についてではなく、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、大切なのは神の掟を守ることです。」というところに集約されます。
つまり、キリスト教会というものは、そうした信仰的な自覚をもった信仰者ひとりひとりによって形作られるところであり、そのように神の言葉であるイエス・キリストに従う一人一人の信仰者によって成り立つものであるということが重要なのです。
そして、そうした教会を形成する信仰者ひとりひとりに求められているものがまず、上記の「おのおの主から分け与えられた分に応じ」ということで、それは救いにあずかる以前と以後とにおいて、その生活を劇的に変化させる必要はないということです。
イエス・キリストの十字架と復活によって実現されたわたしたちの罪の赦しは、「罪を赦す」ということがその本質的な出来事であって、パウロはそこで具体的に「割礼を既に受けた者が割礼の痕を無くそうとしてはならない」と、自分自身の身体に刻まれている傷跡について、そうした痕をまた人為的に無くす必要はないことをここで教えています。
すなわち今日のわたしたちで言えば、神の救いは、まさにわたしたちが今生かされている、わたしたち一人一人の日常生活の中において実現する神の救いであって、キリスト者になるということは、そうした日常生活から離れて禁欲的な集団生活を行うようなものではなく、むしろ、救われて後も、それまで普段の生活と同じように生活することを勧めているのです。
しかし、大切なのはそうした普段の生活であっても、そこにおいてイエス・キリストの教えに反する、すなわち「意図的に罪を犯す」ことはダメであり、普段の生活においても、そうしたイエス・キリストの教えの実践が求められるのだ、それが具体的に示されているのが「神の掟を守ること」ということであるのです。
では、ここで言われている「神の掟」とは何かと言えば、それは個人の生活においては信仰生活のことであり、また社会生活においては「イエス・キリストに従うこと」であり、たとえば具体的に例を上げれば「隣人愛の実践」ということになるのです。
その意味で、コリントの教会の人たちにとってみれば、自分の周りはみんなが性的に放縦な生活をしている中にあって、自分だけはそうした他の人たちと同じ生き方をするのではなく、節度とモラルをもって生活することをパウロは教えたのです。
しかし、パウロの本音としては、「キリスト者は生涯独身」ということが頭にあったのでしょう。
パウロの同労者であるアキラとプリスキラはパウロと同様の信仰をもっていましたが二人は結婚していました。パウロが「生涯独身」を声高らかに言えば、アキラとプリスキラは別れなければならなくなります。その意味で、コリントの教会の信徒ですでに結婚した人たちが結婚を解消してまで「生涯独身」に拘ることは、信仰の本質的な問題ではないとパウロは見ているのです。
コリントの信徒への手紙1 8章8~13節
8)わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
9)ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。
10)知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。
11)そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
12)このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
13)それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。
パウロの生きていた時代、まだキリスト教はユダヤ教と完全に決別ができていたわけではなく、紀元70年ごろにエルサレムとエルサレム神殿がユダヤ戦争によって破壊されるまでは、エルサレム神殿に対する信仰とまた、そうしたユダヤ教律法の拘束力・信頼性というのは非常に高かったのです。
そういう意味では、地方に暮らしていた離散のユダヤ人もそうした影響を受けており、まったくギリシャ・ローマ社会に生まれた者とによって形成されていたコリントの教会においては、いろいろとそういった面において信仰の上で大きな問題となていたのです。
具体的には、異教祭儀に供えられた肉を食べることはキリスト教信仰においては罪を犯すことになるのではないかという事と、あるいは普段の社会生活の中において、そうした異教祭儀の肉をキリスト者として食べざるを得ない状況になった時に、キリスト者は信仰を理由にしてそれを断るのが正しいのか、というようなことがパウロに対して質問されていたのです。
パウロは、この事柄について、偶像に供えられた肉を食べる事によって、わたしたちの信仰が何かしらの影響を受けることはないのだと説明し、そうしたキリスト者でありながら異教祭儀に加わることは信仰において禁止こそされないけれども、しかし、それがもし、キリスト者として他の信仰者をつまづかせるような事になるのであれば、わたしの個人的な判断としては、わたしは今後、そうした偶像に供えられた肉を食べることはしない(つまり、現在までその肉を食べているけれども、今後はそうしない)ことを伝えたのです。
さて、今日、キリスト教会において、特別に、何か「信仰的に禁止される食物」があるかというとそれはありません。となると、この聖書箇所は、わたしたちには意味のない言葉のように思うかもしれませんが、そうではありません。
わたしたちがキリスト者としてこの世において生活する限り、たとえば神社など、他宗教の祭儀との関わりが避けられない場合があります。たとえば、仏式のお葬式に出席するような場合がまさにそうした具体的な例となりますが、そうした他宗教の祭儀との関わりをキリスト者はどう理解し、行動すれば良いのか。
パウロのこの8章の記述をみると、結論から言えば、「そうした他宗教の祭儀に参加する」という出来事がわたしたちの信仰に与える影響はない、という事です。
ただし、パウロはそれに続けて、「しかし、キリスト者としてそうした宗教祭儀に参加する事によって、それが他の教会員に対して悪影響を及ぼすような場合は、そうした宗教祭儀に参加することは控えた方が良い。」ということになるかと思います。
そうした信仰の考え方は、パウロはすでに5章10節「その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。」と言っているとおりです。
すなわち、わたしたちはこの世において、キリストの救いの証人としてこの世の中に生きることが求められているのであって、この世から隔絶したところで隠遁生活をするわけではないからです。
しかし、キリスト者が注意しなければならないのは、そうした特殊な隠遁生活ではなく、キリスト者はそうしたこの世の罪の満ちた世界において、イエス・キリストの信仰によって、その福音の指し示す指針に基づいて発言・行動しなければならないという点です。
キリスト教会はそういう意味では、他宗教との関わりこそ大きな問題とはなりませんが、キリスト教会が「この世的繁栄」に対して、そうした「人間的欲望を良しとしない」という決断をとることが大切なのです。
教会もこの世の中において存在する限り、この世の経済から独立して存在することはできません。
キリスト教会もやはり電気・ガス・水道といったライフラインを受けている関係において、教会の運営にはお金の問題が常に付きまといます。
しかし、そこにおいて信仰とこの世的価値基準と二重の価値観を教会は混同しないようにしないといけません。
なぜなら、教会運営においてこの二種の価値観が混同される時に教会は大きく過つからです。
『イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。』(マルコによる福音書12章7節)
イエスさまの言葉に上記のものがありますが、「皇帝のもの」、すなわちこの世に属するお金の類の話については、きちんとこの世に属する価値観において判断し、それを信仰的に考えて判断しない、というようなことです。
たとえば、教会は献金収入がありますが、それをまさに「皆が神さまにささげたものだ」として、牧師が勝手に使っていいということにはなりません。
「皇帝のものは皇帝に」とは、たとえば金銭管理についてはこの世の金銭管理のルールに従って、正しく会計を調べ報告し、教会でその使途について話し合われ、決断され、正しく運用されるということが守られなければならないということです。
もちろん、イエスさまがそうした教会運営を念頭に話をすることはありませんから、それはわたし永野の個人的な解釈なのですが、特に小さい教会においては、牧師の財布と教会の会計とが一つであることもあるために、最初の内は予定外の出費などに牧師が自腹を切ったりすることもあるのです。
ところが、教会の規模が大きくなってくるとそれではどこからどこまで教会の会計でどこからどこまでが牧師の家計なのか分からなくなってきます。そういう意味では、ある程度、額の小さいうちからでもそこらへんをきちんとしておくという習慣が教会には必要なのだと思います。
しかし、教会がこの世において教会活動を続ける上で、やはりそうした教勢(教会の会員数の動態、教会の収入支出の動態)について、それが教会の中で議論されることもあり、「教会(礼拝人数)をもっと大きなものに!」「献金がもっと与えられるように!」というような声が上がってくるのです。
しかし、教会に信徒が与えられることも、また教会に献金がささげられるのも「神さまもの」であるなら、それはまさに礼拝においてわたしたちの感謝として「神さまにお返しするもの」であって、教会がそうした「信徒獲得」「献金倍増」というようなことを目標とすべきではありません。
それは、教会をあげて神さまに対して「あなたが下さっている恵みは少なく、もっと恵みを多くください」と要求しているのと同じであって、それがはたして信仰的に正しいかどうかと言えば、それは大きな疑問です。
むしろ、パウロがコリントの信徒への手紙2で、『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』(コリントの信徒への手紙2 12章9節)と言っているように、教会はむしろ、今与えられている恵みに感謝しつつ、それを大事にしながらこの世において教会運営を行うべきではないかというのが、わたしの個人的な感想です。
上をみればきりがなく、欲望を抱けばきりがありません。そうした人間の欲望に対して、キリスト者は、決して流されてしまうことのないように、だからこそ、日ごろから自分自身の罪の告白によって、そうした人間の欲望に対して心を奪われてしまわないようにしなければならないのです。