山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

カテゴリ: パウロの直筆の手紙

【キリスト教会としての要件1】

 教会が教会であるために、一体何が大切であるのか?

 いろいろと議論はありますが、ここではまず、聖書における「教会」がどのようなものであり、またそこにおいて、どのような教会の姿が求められているのか、聖書の記述をもとにこれから数回に分けて考えていきたいと思います。 

 まず、聖書の中で「教会」と訳されている言葉は、新約聖書に登場するギリシャ語の「ekklesia(エクレシア)」と言い「(神によって)呼び集められた者たち」というような意味があります。つまり、この語が意味するのは、当然、キリスト教信仰をもつ者が、ただ人間の思惑によって集合した集合体ではなく、まさに神によって、神の言葉によって、そして、神の言葉に基づき、そこで形成される信仰共同体のことを「教会」と呼ぶことがわかると思います。
 その意味で、「教会」は「公」の性格を持ち、そこでは牧師や信徒といった役割の違いこそあれ、それはあくまでも階級や順位ではなく、ひとしくイエス・キリストを頭とする公平な共同体であるのです。



 さて、では新約聖書において「教会」という言葉がどこに出てくるかといえば、たとえばマタイによる福音書から順番に見ていきますと以下の聖書箇所に「教会」という言葉が登場します。

 「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:18)

 「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」(マタイ18:17)


 もちろん、それ以外にも使徒言行録やローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙といったところ(その他もあり)で、「教会」という言葉が登場します。

 しかし、少し考えてみると分かりますが、「教会」とは生前のイエスさまが指導し立ち上げた組織ではなく、当然、使徒言行録2章におけるペンテコステの出来事以後に成立した信仰共同体であるとみるのであれば、このマタイによる福音書の記述は、生前のイエスさまが発した言葉というよりも、その後、すなわち紀元80年から90年にかけてマタイによる福音書を記した人たちがイエスさまの口によって語られた言葉として、自分たちの信仰を告白した言葉として見ることが普通であると思います。

 すなわち、紀元80~90年ごろには当然、「キリストの教会」というものが存在していたのです。



 では、新約聖書に含まれる文書の成立年代を考慮するのであれば、マタイによる福音書は紀元80~90年代ということになるので、それよりも以前に成立したものといえばテサロニケの信徒への手紙1(紀元50年の前後と推測される。なお、イエスさまの十字架は紀元30年ごろ。)など、パウロの自筆による手紙が最も時代的には古く、そこで用いられている「教会」に着目することによって、初期の頃の「教会」の様子をうかがい知ることができると思います。

~~~2014.8.14.追記~~~

 以下、テサロニケの信徒への手紙1からはじまって、パウロの直筆による手紙から話を進めていきますが、ここで紹介する文書の紹介、順番については、『新約聖書』(ゲルト・タイセン著、大貫 隆訳、教文館)に準拠します。

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 そこで、新約聖書におけるパウロの著作で最も古いものがテサロニケの信徒への手紙1ですのでこれをみていきたいと思います。なお、全文を引用すると長くなるので部分的に抜粋しながら話をしますが、パウロは以下の本文でも語っているように、福音宣教は決して楽しいものでも、安全なものでもありませんでした。

 パウロもそうした危険と困難の中、福音宣教を行ったのですが、それと同じようにテサロニケの教会の人々も苦労し、そうした宗教的な迫害の中においてテサロニケの教会の人たちを勇気づけるために、パウロはこの手紙を記したのでした。聖書の本文に対して少しわたしなりの注釈をつけながら説明します。


 テサロニケの信徒への手紙1 1章5~7、9~10節
~~~現状の報告~~~
5)わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
6)そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
7)マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。

~~~信仰の核心について~~~
9)彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
10)更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。


 パウロの福音宣教においてここで言われている大切な点は、テサロニケの教会が、まず主イエス・キリストを信じる信仰において非常に模範的であったということです。

 それは、テサロニケの教会の人たちの信仰が単なる口先だけのものではなく、有言実行であり、常に神の御前における真実を追及していた点にあるのです。当然、そのことは人間的な、あるいはこの世的な能力によるものではなく、真実を伴った行動と、聖霊の助け、イエス・キリストを主とする強い確信、すなわちイエス・キリストの御前において自分自身の罪を告白し、日々罪を悔い改めるという、その基本的な信仰の姿勢を貫いていたことが、テサロニケの教会が、まさにマケドニア州とアカイア州においてすべての信仰者の模範となったと説明するのです。

 では、そうした信仰の中身は一体何でしょうか?

 パウロはそれに続けて、すなわち「わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか」、つまりテサロニケの教会の人たちはパウロの語る神の言葉を素直に、忠実に聞き従い、パウロとパウロの言葉を受け入れ、自分たちのそれまでの生活のあり方を改め、主イエス・キリストの御前における罪の告白と罪の悔い改めを通じて、偶像にすぎない自分たちの欲望を捨て、何よりもまず神の言葉に聞き従うことを求め、聖霊を通して働かれる生けるまことの神であるイエス・キリストの言葉に聞き従う信仰を得て、来たるべき裁きの時に、決して、信仰者でありながら天からの火によって滅ぼされることのないように、イエスを主として、すなわち日々、主イエスのみ名によって罪の赦しを求める悔い改めの生涯へと導かれたことを説明するのです。

 パウロはそうした教会の福音宣教の業が、いわゆる「勧誘活動」ではなく、「主に倣う者となること」によるものだということを強調します。
 
 パウロにおける「宣教/伝道」とは、「人間による勧誘」ではなく、それが「神の導き」である点にあります。その意味で、わたしたちキリスト者が為すべき宣教の業・伝道の業とは、まさに「主に倣う者になること」であり、それは他の人たちに対して「(神を信じる者としての)模範」となることであり、決して、「キリスト教の価値観を絶対のものだとして、他人に押し付けること」ではありません。

 そのことは使徒言行録の以下の記述からも明らかです。


 使徒言行録2章46~47節
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 キリスト者が為すべき業、すなわち、それは他の人々から好意を寄せられるものであり、しかもそうした教会に人を招き導くのは牧師でも信徒でもなく「神である」ということなのです。

 その意味で、礼拝出席や献金の金額など、そういったこの世的なものを目標として教会活動を行うというのでは、それでは本末転倒ということになるのです。確かに、営利を目的とする会社などではそれでも良いかもしれません。しかし、教会がそれを行うのであれば、結局のところ教会もこの世的な会社も同じということになり、たとえどんなに人が多く集まったとしても、それは教会としては失格ということになります。

 パウロはそうした窮乏の中にあって、自分は説教だけに専念し、教会員に「もっと献金をささげなさい」と呼びかけたかというとそうではなく、パウロは自ら働いて生計を立てながらみんなと同じように苦しみを分かち合いながら、その上でテサロニケの教会に仕えたのでした。その意味で、そうした副業を持たずに牧師ができるということは、実に恵まれたことなのです。



 テサロニケの信徒への手紙1 2章1~10節
~~~あいさつ~~~
1)兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。
2)無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。

~~~パウロの宣教の目的~~~
3)わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。
4)わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。

~~~パウロの信仰の姿勢1~~~
5)あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。

 ここでパウロは自分たちの宣教の目的が、決して「自分が偉くなりたい」とか、「教会を大きくしたい」とか、「人数を増やしたい」とか、「献金を多くしたい」といったような、迷いや不純な動機に基づくものでなく、また、そうした自分の本音を隠して、表面的に他人をごまかして、あたかも良い信仰者のようなふりをして宣教を行ったのではありません。

 パウロがなぜ福音宣教を行うのか、その根本的な動機は、まさにパウロの福音宣教という業が、神によって認められ、許可されたものであり、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるということをゆだねられているという確信に基づくからこそ、バカ正直に罪の告白と罪の悔い改めを生活の中で実践しているのです。

 その意味で、パウロはまさに常に、自分を神さまの御前に置き、その裁きの座に明らかにし、自身の罪を告白し、罪を悔い改めるということを生活の中で実践したのです。

 それは当然、誰か金持ちを信仰者に導きいれ、そのお金を口実を設けてかすめ取ったりするためでないことは、まさに神が証してくださいますと正直に語っているとおりです。



~~~パウロの信仰の姿勢2~~~
6)また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。

~~~パウロの信仰の姿勢3~~~
7)わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、
8)わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。

 また、パウロは決して、テサロニケの教会の人たちから名誉職としてあがめられたり、あるいは教会の外の人たちに対しても、決して、社会的に高い評価を受けることを求めませんでした。むしろ、そうしたこととは無縁であることに徹したのです。

 なぜなら、パウロたちは、まさに復活のイエス・キリストの使徒として、自分たちの権威を教会の中にも外にも、それを主張し、知らしめ、誇ることができたのです。しかし、パウロたちは、テサロニケの教会に訪れたときに、むしろ、そうした自分の使徒としての権威を教会員に誇示することなく、むしろ、自分をテサロニケの教会の中においてはもっとも小さい幼子のようなものとして、決して、威圧的に権威を振りかざすようなことをせず、むしろ、母親がその子どもを大事に育てるように、パウロはテサロニケの教会のひとりひとりを大切に思っていたので、ただ、礼拝において神の福音を言葉で伝えるだけでなく、むしろ、信徒が危険な状態にある時は、パウロは自分の命さえ喜んで与えたいと願うほどに、教会員ひとりひとりのことを大切に扱ったのです。なぜなら、パウロにとってテサロニケ教会の教会員ひとりひとりは、まさにパウロにとって信仰によって愛する兄弟姉妹となったからなのです。


~~~パウロの信仰の姿勢4~~~
9)兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。
10)あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。
 
  しかも、パウロはそうした他の地域にまで模範的な教会として知られるようになった教会が、実は経済的に非常に大変であり、そこにおいて教会員のだれにも負担をかけないように夜も昼も働き、自力で生活をしながら、その上で神の福音をテサロニケの教会の人たちに対して語ったのでした。

 つまり、パウロは自分の生活のために教会を興したのではなく、あくまでも、福音宣教こそが彼の信仰によって与えられた人生の最大の目的であり、その目的の実現のために、彼は教会員に対して献金を呼びかけたり、さらには教会員からお金をだまし取ったりすることなく、自分で牧師以外の仕事をしつつ福音宣教を行ったということなのです。

 そうしたパウロの苦労は、信者のだれもが知っていることだし、しかも、テサロニケの教会の中で、自分たちがどれほど神の言葉に照らして信仰的に正しく、信徒の人たちから非難されることのないように努めたか。そのことはテサロニケの教会の皆さんも陰ながら知っているし、実に、そのように神の言葉に忠実に聞き従ってきたことを神が証してくださることでしょう。

 


 さて、ここまでくると、なんとなく教会において大切なことが何かということがわかってきます。

 教会には牧師や信徒、役員会、執事、その他いろいろな役割があります。そうした組織については教会ごとに異なりますし、ナザレン教会の中だけでもいろいろと違いがありますので、そうした話が複雑になることは置いておきます。そうした上で、先ほどのテサロニケの信徒への手紙1におけるパウロの記述によるのであれば教会が教会であるために大切なことは以下のとおりです。

 ・礼拝が礼拝としてきちんとされていること。
 ・牧師も信徒も信仰の基本がキチンとなされていること。
 ・牧師は聖書の御言葉を通じて神の言葉に聞き従っていること。
 ・信徒ひとりひとりに対する牧師による配慮がなされていること。
 ・牧師も信徒も真実をもって互いに相手を尊重し合っていること。


 こうしてみると パウロが言っていることは別に何も特別なことはありません。それらはキリストによって救われた者として、またキリストによって救われた者たちが形成する教会としては、実に平凡なものです。ところが、この「平凡であること」が実にキリスト教会においては難しいと言わざるをえないのが、今日のわたしたちを取り巻く状況であると言えるのです。

 次回は、テサロニケの信徒への手紙2を見ていきたいと思います。

 

キリスト教会としての要件2】

 教会が教会であるために、今回はテサロニケの信徒への手紙2を見ます。

 「テサロニケの信徒への手紙2」は、パウロの名を冠した手紙ではありますが、その成立年代(80~90年代。つまりパウロの死後)を考慮すると、パウロが先にテサロニケの教会に対して宛てた第一の手紙に対して、こちらは後の人たち(パウロの弟子か?)が自分たちの教会の信仰として、この手紙をパウロの権威において書いたものと推測されます。
 ただ、ここでは文献としての問題は置いておき、そこに書かれている当時の教会における問題と、それに対する教えについてみていきたいとおもいます。


 テサロニケの信徒への手紙2 1章6~9節
6)神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、
7)また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
8)主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
9)彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。

 キリスト教の信仰において、今日あまり言われなくなったのが「終末/再臨」の信仰です。

 キリスト教の教義を勉強すると分かりますが、基本的に、今日のわたしたちも礼拝において「終末/再臨」を信じ、告白します。しかし、終末も再臨も共に、それは信仰的には神が行われる出来事である限りにおいて、「それが何時起こる」だとか、あるいは「起こらない」ということを、わたしたち人間は議論することもできません。
 そのため、新約聖書の時代に生きた人たちでさえ、「再臨は近い」、あるいは「再臨は起こらない」というような様々な教えがあり、当時のクリスチャンたちも「一体どうなのか?」と疑問に思ったのです。

 さて、では当時の信仰として、あるいはパウロの信仰として「終末/再臨」ということは起こるのか・起こらないかと言えば、答えは「起こる」であり、また、それは何時起こるのかということについては「神のみがご存じである」ということが了解されたのです。

 たとえば、それはイエスさまが弟子たちに言われた言葉、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 」(使徒言行録1:7)にある御言葉と同じであると思います。


 つまり、そうすると「終末/再臨」は、それが具体的にどういうものであるかということを人間が議論することは、ある意味で無意味であるということなのです。

 では、なぜ、そうした人間が議論することが無意味な「終末/再臨」を聖書は問題にするのでしょうか?

 上記のテサロニケの信徒への手紙2章の本文を読んでわかることは、すなわち、「終末/再臨」とは、それ自体が信仰の対象として問題なのではなく、それはむしろ、クリスチャンが自分たちの信仰の備えをしなければならない、その「最終期限」として説明されているのです。

 つまり、それはどういうことかと言えば、たとえばこの世においてクリスチャンであろうがなかろうが、この世においてすべての事柄には「終わりがある」ということなのです。そして、それは神さまが定めるものである限り、人間がその事象に対して何か遅くしたり、早くしたりできるかと言えば、それは不可能ということなのです。

 そして、ではそうした問いが無意味ということであれば、この「終末/再臨」の教えが意味するものは一体何なのでしょうか?

 それは、「終末/再臨」が神の権威に基づく、待ったなしの、取り返しのつかない「最終期限」としてこの世に設定される限りにおいて、つまり「わたしたちの信仰の生涯は、現在、執行猶予期間に過ぎない」ということなのです。

 この神によって定められた「最終期限」は、神による一つの真実の出来事であるわけですが、それは見方によっては大きく二通りの意味があるのです。それは、まさに「最後の審判」を意味する「終末」であり、そして、もうひとつは「イエス・キリストの再臨」であり、それは別の意味において最終的な慰めでもあるのです。

 たとえば、この世において苦しみを負う人にとって、この「終末/再臨」は、まさにそれが苦しみを負う人の上に実現する時に、彼は慰めを受けると共に苦しみから解放される時となるのです。 ところがそれは、逆に、そうした苦しみを負う人を虐げる人においては、まさに自分の犯している悪行の責任を追及される最後の審判の時となるわけです。
 つまり、傷害事件を例にあげれば、「終末・再臨」が指し示す第一義は、「加害者の自分の犯した罪に対する贖罪と被害者が受けた損害に対する補償」であり、第二義は、すなわち「今はまさに執行猶予期間である」ということであるのです。

 では、こうしたことは教会においてどういう意味があるのでしょうか?

 先ほどのテサロニケの信徒への手紙2の引用において「
そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。」とあります。

 おそらく、今日の教会でこの言葉が語られる時、「神を認めない者」「主イエスの福音に聞き従わない者」は、すなわち「教会の外の人」であり、「クリスチャンでない人」と教会の中では理解されるのではないかと思います。

 しかし、それは決して正しい読み方ではありません。

 先の引用の次の節において「
彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。」とあります。

 上記の下線で示した部分が示しているのは、すなわち、「神を認めない者」「主イエスの福音に聞き従わない者」とは、そもそも彼らは教会の中で、「主の面前」に存在し、その「栄光に輝く力」に繋がっている人物であるのです。
 そして、まさにそれはキリスト者であり、自ら「主イエス・キリストを信じる」と教会の中において告白する人物が、実は教会の中でその行いにおいて、生き方において「神を認めず」「主イエスの福音に聞き従わず」、しかも教会の中において同じ兄弟姉妹に対して悪を行っているということが意図されているのです。

 その意味で、「終末/再臨」を信じる信仰とは、「いつか神の裁きによって、あるいはイエスさまの再臨によって、この世が終わります。」ということを意味するだけでなく、むしろ、そうした意味よりも、イエス・キリストによって罪を赦されたキリスト者が、なお罪の中に留まり続けていることを憂慮し、「まだ時間があるうちに、猶予のあるうちに、自分の罪を悔い改め、兄弟姉妹と和解し、来たるべきその時において共に神の御許において永遠の平安に与ることができるようにしようではないか!」という信仰的な励ましのメッセージであるのです。

 旧約聖書のエゼキエル書33章11節に以下のような御言葉があります。

 「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル書33章11節)

 神さまは、未信者や他の信仰を持つ人たちのことを問題にしません。むしろ、信仰者が救いに与ってなお、滅びてしまうことを憂えておられるのです。その意味で、「神の裁きの言葉」はまさに言葉のとおり「神が人間の滅びを願う」ということではなく、「滅んでほしくないから、このように強く言うのだ」ということであり、「神の御言葉を聞く」とは、まさに神の御心の内面を読み取るそうした作業でもあるのです。当然、それは聖霊の導きによるものであり、信仰者が自身の罪の悔い改めを積み重ねる事によって実現する神の導きであるのです。

 教会は、まさにそうした信仰者が共同体を組織することによって成立する「神の出来事」であり、ただ「建物」を指して、あるいは「集団」を指して「これが教会だ」とは言えないのです。

 ただ人間が集まり、礼拝のようなことをしているだけではそれは教会ではありません。

 仮に教会がそのようなものであれば、上記の御言葉にあるように、それは「お前たちの悪しき道」なのです。神の示される方向性は、当然、「立ち帰れ、立ち帰れ」ということであり、常にこの神(の言葉)に立ち帰る信仰こそが、教会を教会たらしめるものであるのです。

 そして、ここで肝心なことは決して「神の言葉=牧師の言葉」ではないということです。

 牧師が聖書を通じて語られる神の言葉に聞き従わなければ、その牧師が語る言葉は、ただ牧師の腹から出てくる欲望の言葉であり、罪の言葉なのです。たとえ、それが礼拝で説教として語られたとしても、それは決して「神の言葉」にはなり得ません。

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。」(イザヤ書55章8節)

 これはわたしが常に意識するようにしていることですが、信徒にとって牧師の語る言葉は、たとえそれがどんなにつまらない言葉であったとしても、それが礼拝における説教で語られる時、場合によっては信徒によってそれは神の言葉として聞かれてしまうのです。

 それは牧師にとって実に恐ろしいことです。牧師の語る言葉は常に神の言葉と聞き間違えられる可能性を持つのです。

 だからこそ、牧師は聖書の御言葉に、神の言葉が一体何であるかを聞くということに努めなければならないのです。

 牧師が自分の言葉をまさにそれが神の言葉であるとするのであれば、上記のイザヤ書の言葉のとおり、それは牧師として神に逆らうことになります。

 まだ、教会も信仰もまったく知らない人がその発言や行いにおいて神に逆らうのであれば、それは神さまにとって大きな問題にはならないでしょう。なぜなら、旧約聖書いおいて「知らない」ということは罪にはならないからです。

 ところが、すでに信仰を持ち、神の言葉に聞き従うという決意をもって神に献身した牧師が、神の言葉に聞き従わず、自分の言葉を神の言葉にするのであれば、それはどれほど重い罪になるかということです。

 その意味で、牧師は教会の中で誰よりも罪に対して敏感であることが求められます。しかも、それは教会員に対してではなく自分自身に対してです。

 牧師が率先して罪の告白をせず、また罪の悔い改めをしないのに、「自分は献身者だから」と、信徒に対してだけ罪の告白や悔い改めを求めるのであれば、それは子どもでも牧師のやっていることはおかしいと言うでしょう。

 牧師は牧師として偉くなるために牧師をするのではありません。福音宣教こそが牧師の存在意義であり、それは自分の考えを捨てて、神の言葉に聞き従うことによってはじめて実現するのです。

 わたしは藤沢で最初に牧師になった時に、「何か問題があったら、すぐにあやまろう。」ということを心掛けてきました。年齢が高くなれば、いろいろと社会的に、あるいは教会において責任が重くなると人間は謝ることが難しくなる。だからこそ、まだ牧師として初心者である内に、まだ年齢が若い内に、「何かあれば教会員に対して謝る」ということを心掛けたのです。

 しかし、それでもやはり教会の中では問題が起こります。わたしは出雲教会で6年目を迎えますが、しかし、その間において、ある方との関係が壊れてその方が教会を去ったことを経験しました。現在、まだその方との和解はできておりません。 自分ではそれだけ気を付けていても、やはり人間は完全ではありませんから問題が起こるのです。

  その意味で牧師は誰よりも自分の罪に対して敏感でなければ、決して、天国にいけるなどとは言えないのです。「信徒として天国に行くこと」と「牧師として天国に行くこと」とは、難しさの観点からみれば牧師の方が桁違いに困難なのです。

 既に牧師としてある今において、わたしの前にあるのは非常に困難な道です。しかし、まさに神がそれをわたしに望んでおられるのだと確信することにおいて、わたしは牧師として、自分の使命として誰よりも自分の罪に対して敏感であるよう、これからも務めていきたいと願うのです。



~~~追記~~~


 テサロニケの信徒への手紙2 3章8~15節
8)また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
9)援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
10)実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
11)ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12)そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
13)そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
14)もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。
15しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。 

 当時のテサロニケの教会は、先にパウロが指導した後、「終末/再臨」の信仰について、誤解があったことをこのところで訂正しています。

 それはどういうことかと言えば、先にパウロが指導した時に、人々は「終末/再臨」が「近い」ということをパウロの言葉から感じ取り、そして、そのように理解した人々は、「終末/再臨」が近いので、この世における社会生活を放棄して、教会の中に閉じこもり、ただ終末を祈り求めるという特異な信仰形態を持つグループが教会の中に起こったのです。

 当然、教会の中の人たちはそうしたグループとそうではない健全(パウロの指導に忠実な)な信仰を持つグループに分かれたのですが、問題は教会としての運営がそうした前者の存在によって脅かされる事態に陥っていたのです。

 そこでパウロは、自分自身がまだテサロニケの教会に滞在していた時に、決して、誰からも何もせず食べさせてもらったことがないように、すなわちその教会の働きをするために、パウロ自身も昼夜仕事をして教会の会計を支えたことを思い出しなさいと、また、その時に、「働きたくないものは、食べてはならない」と勧めたことを思い出すように教えたのです。

 しかし、それは決して、そうした「怠惰な生活を行う者を教会から排除せよ」ということではなく、あくまでも信仰を同じにする兄弟として、正しい信仰に復帰することができるようにと願ってのことであったのです。


 すなわち、教会の目標は「福音宣教」でありますが、それは実に危ういものであり、「福音宣教」のためなら「何をしてもよい」というふうに誤解される危険性が教会の中には常にあることを教えているのです。

 世にある教会で多くみかけるのは「宣教」を教会の主目的に持ってくるものです。

 それ自体、問題があるのではありませんが、教会を運営する上で、会計上どうしても礼拝出席や席上献金(礼拝の中で行われる自由献金)、月定献金(信徒が自主的に月ごとに教会に対して行う献金で、信徒としての献身の意味を持つ)の額が話に上ることがあります。

 そして、そこにあって教会の規模が小さいことが問題とされ、また教会が「大きくなること」が目標となることがしばしばなのです。

 わたしたちのナザレン教会も文部省管轄下にあり、毎年、活動報告・会計報告をしなければなりません。

 ところが、そうした一種の「この世的な縛り」が、教会に対して悪影響を及ぼす危険性を持つのです。 

 教会会計を透明化する意味において教会会計をきちんとすることは大切です。

 ところが、そうした社会的な公平性のためではなく、こうした働きが教会規模の拡大のために、いわば自社営利を目的とする会社などと同じように、 教会が教会組織の繁栄を自己目的化するときに間違った方向に向かいやすいのです。

 その意味で、「福音宣教」と「教会拡大」ということは同一目的のように思えますが、そこには注意が必要なのです。特に、これは指導的立場に立たされる牧師にとって常に気を付けなければと常々感じていることですが、「福音宣教」は教会の主目的・存在意義でありますが、「教会拡大」というのは結果的に、神の祝福により、神さまによって後から恵みとして与えられるものであるということなのです。

 たとえば、旧約聖書に次のようなくだりがあります。

 『主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。』(サムエル記下24章1節)

  サムエル記の最後において、神さまの誘惑によってダビデ王は(北)イスラエルと(南ユダ)の人口を調査することを計画し、実行します。

 長くなるのでごく簡単に説明しますと、神さまは王となったダビデに対して誘惑によって、その神を信じる信仰が正常かどうかを試みられました。その時にダビデは神の祝福に頼ることを止めて、この世的なものの考え方によって国力(人頭税による収入と兵士の男子の数)を調査するように部下に命令を出したのです。当然、このダビデの判断は神さまに対する反逆行為とされて、7万人の住民が命を落とす結果となったのです。

 すなわち、これを今日の教会になぞらえて言えば、「教会会計の透明化をはかる」ということはこの世において、キリスト教会が公平・正義をもって神と人との前に正しく歩んでいることの証になりますが、それを別の目的に用いることは神に対する反逆行為であり、非常に重い罪になるのです。

 特に、「福音宣教」が、「教会組織の拡大」ということを主目的にすることは神の御前における大きな罪であり、神さまは教会を指導する牧師に対して、そうした「誘惑」をもって、その信仰が常に正しいものであるように注意することを促しているのです。

 わたしたちは「福音宣教の拡大」ということを宣言し、そこに牧師も信徒も動員するということをもって「神の力を否定する」のです。

 「神を信じているはずの教会が、実は最も神を信じていない」という結末ほど教会にとって恐ろしい結末はありません。「神を信じる」とは、まさに「すべてを神におゆだねする」ということであって、それ以外の何ものでもありません。

 人間がなすべき業はまさにそれぞれが置かれた場所において、礼拝を通じて神をわたしたちの神と証することであって、神に教会を拡大する力がないから人間が努力し、頑張って福音を宣教することではありません。

 わたしたちクリスチャンは誰もが、「わたしは神さまによって教会に導かれた」ということを経験して知っています。つまり、それは人間の努力の結果ではないのです。

 まさに、こうした点が教会が本当の意味で教会であるための基本的事柄であって、神さまは常にそのところにおいて教会を、また牧師を信仰によって立つことができるかどうかを試みられるのです。

 それは教会が本当の意味で神の恵みと祝福に立ち続ける教会であるための神の憐みであって、また恵みであることを忘れてはならないのです。そして、そのことを見失った時に、教会はダビデが経験したように、神の裁きの御前において自分たちの犯したその過ちに対する責任をとることになるのです。

 パウロの直筆による手紙としてテサロニケの信徒への手紙を見ました。厳密には、テサロニケの信徒への手紙2はパウロの偽名書簡として知られており、そういう意味ではテサロニケの信徒への手紙1の次はガラテヤの信徒への手紙となります。

 ガラテヤの信徒への手紙はパウロの個人的な救いの体験が記されていたりする、同じパウロについて記されている使徒言行録とはまた違った意味で興味深い手紙です。

 さて、この手紙において、パウロは自身の救いについて、特にそれが神によるものであることを最初に告白します。


 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 」(ガラテヤ1:1~2)

 「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」(ガラテヤ1:11~12)

 パウロにとって復活の主イエス・キリストとの出会いは、まさに「人々からでもなく、人を通してでも」ないものでありました。しかし、パウロはだからといって独学でキリストの信仰を得たのかというとそうではありません。

 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。(使徒言行録9:10~11)

 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。(使徒言行録9:27)


 使徒言行録の記述によればパウロをその信仰のはじめから導いたのはアナニアという弟子とバルナバという弟子でありました。

 しかし、パウロ自身の信仰告白としては、すなわちキリスト者アナニアとキリスト者バルナバがパウロにとって信仰的な指導者だったのですが、パウロの自己理解としては、アナニアとバルナバの導きによるのではなくそれはすなわち「神の導きであった」ということなのです。


 多くの教会では「福音宣教」という旗印を掲げ、まさにそれこそがこの世に生きるキリスト者に課せられた使命だとして、そのために教会を上げて取り組むということが少なくありません。

 「今は、聖霊の時代であり、まさに聖霊の助けによって、キリスト者は出て行ってすべての民に福音を宣教する時代である」と。

 教会の牧師をまさに一種の軍隊の長として、以下、個別の小隊を率いるリーダーを立て、あるいは様々な働きを割り当て、そうしたリーダーを長とする小隊を組織して、まさに教会全体がそうした「福音宣教」という使命を完遂するためのある種「軍隊」として教会を考えるやり方があるわけです。

 「福音宣教」を第一にして、まさに「福音宣教」のために存在する教会が、いわゆる最近よく話題にのぼる教会の形であるのです。

 それは一人一人の個性を活かし、まさに適材適所という言葉が似合うように、教会を一種の軍隊化するわけです。そこに求められるのは「上からの命令に対する絶対服従」であり、まさに教会員は「道具」であるわけです。

 能力主義・成果主義・絶対服従・滅私奉教会(あるいは滅私奉牧師?)・熱狂・騒乱・愉快・跳躍・感動・・・


 さて、こうしたものが求めているものは本当に「福音宣教」なのでしょうか?


 そうしなければ実現できない「福音」とは一体どういう福音なのでしょうか?


 イエス・キリストの福音がわたしたちにとって喜びであるというのは確かです。しかし、その「喜び」と、上記のものがもたらす「喜び」とは同一なのでしょうか?


 それは、たとえば以下のような御言葉を見ればわかるでしょう。

 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:7)

 キリスト者が喜ぶ喜びとは、まさにそれは人間の肉の欲望による喜びでなく、それは「一人の罪人が神の御前に罪を悔い改める」ということによって引き起こされる喜びであるのです。

 すなわち、教会における喜びの根底にあるのは「主イエス・キリストによる罪の赦しの出来事」であって、常に、そこに基準があるのです。

 では、はじめに戻って、パウロの信仰のひとつの特徴は、確かに、直接的にはアナニアやバルナバといった、先に異邦人に対する福音宣教を行ったキリスト者たちによってはじめられたものですが、しかし、パウロ自身の信仰告白として「救いは神の導きによるもの」という確信がまずあったということなのです。

 だからこそ、パウロは「人々からでもなく、人を通してでもなく」と語るのです。それは言い方を変えれば、決して、アナニアやバルナバによって与えられた信仰ではないということなのです。

 つまり、福音宣教とは人間が努めてそれを行うものではなく、その本質において神の救いの御業であるのです。


 だとすると、先ほどのように牧師を頂点として、組織だって福音宣教を行うという、いわゆる教会の伝道の業、クリスチャンによる伝道の業というのは神の御前において一体どういうものなのでしょうか?

 それは教会の中では善として認識され、それを行う人は、「自分は神の御前に正しいことをした。神によろこばれる良いことをした。」という認識を得ることでしょう。


 しかし、それは神の御前においては、イザヤ書59章の以下の御言葉がよく示していると思います。

 イザヤ書59章1~4節
1)主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
2)むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
3)お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。
4)正しい訴えをする者はなく/真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り/労苦をはらみ、災いを産む。

 人間による伝道の業はそれがまさに神の御心に沿うものでない限り、それは行動において、「神には人間を救う力がない。」ということを証していることと同じです。それは、神を信じているようで、実は、神を否定する行為になっているのです。

 「日本ではクリスチャン人口が1%にも満たない。」「山陰は日本でもキリスト教の伝道困難地域だ。」というようなことを聞きます。

 もし、そう言う人が「自分は神を信じている」と自覚するのであれば、それは「自分は神を信じているが、神の力は信用していない。」と言っているのと同じです。

 むしろ、イザヤ書の言葉に聞き従うのであれば、山陰がキリスト教の伝道困難地域だというのは、山陰にあるキリスト教会が、本当の意味でイエス・キリストの福音に立脚していないということが問題なのかもしれません。

 それは教会の外の問題ではなく、むしろ教会の中の問題なのです。ノンクリスチャンが問題なのではなく、クリスチャンにこそ問題があるのです。

 先ほどの軍隊式のような教会をあげて福音宣教を使命とするやり方というのは、下手をすると、すなわち教会の中の人たちが正しく(あるいは、救われた人)、教会の外の人たちが間違っている(あるいは、救われていない人)という二元論的な価値観に支配されます。

 パウロは、ある人物が神によって信仰を持つのは、あるいは信仰に導かれるのは、まさに神の導きであると説明します。つまり、クリスチャンが教会に勧誘すること自体には極端なことを言えば意味がないのです。

 確かに、人間による宗教的勧誘によって、教会に来たことのない人が教会に来るきっかけを作ることはできます。しかし、その事と、その人が神との出会いを経験し、自分の罪を告白して救いに至るかどうかは神の導きによるものであって、そこには関係はないというのがパウロが告白するところなのです。

 むしろ、本当の意味でキリスト教会に求められるのは、次の御言葉にあるように神にすべてをおゆだねする信仰であるのです。

 主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」(民数記11:23)

 わたしたちキリスト者は下手をすると福音宣教という事柄を通じて、まさに神に対して「あなたにはその能力がない。」ということを証していることになるのです。当然、それでは神の栄光があらわれるはずもありません。


 それどころか、「福音」という言葉を用いて、まったく宣教とは逆のことを行っているのです。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(ガラテヤ1:6~7)

  パウロが生きていた当時、ガラテヤの地域、すなわち今日のトルコ共和国の東部地方において、ユダヤ主義に基づくキリスト教を伝える巡回教師のような人たちがいました。彼らの主張は、イエス・キリストをメシアと信じるけれども、しかし、ユダヤ教に基づく食物規定などの事柄もキリスト教の信仰に盛り込む必要があることを説いて回っていたのでした。

 キリスト教会は「福音宣教」という目的のために、あるいはプロテスタントという性質から「保守的」であることを罪として、「新しいこと」「改革」を美徳とする傾向があります。

 当然、変わるべきところは変えなければならないのですが、問題は「何を基準として、その変えること、変えないことを判断するのか」ということです。


 ちまたで良く聞くのは「~だから、教会に人が来ないのだ。」「~だから、教会に魅力がないのだ。」という言葉です。

 そして、当然のことのように、「~すれば、教会に人が来るようになる。」「~すれば、教会がもっと魅力的になる。」という議論が行われるのです。

 まあ、キリスト教会が「人間相手のサービス業だ」ということであれば、そうした議論も成立するでしょう。


 しかし、教会が神の教会であり、礼拝は神が主催されるものである限りにおいて、そうした人間を基準にして考えることは基本的に間違っています。

 教会はすべての人が招かれる礼拝の場でありますが、その目的は神を礼拝することです。

 それは、むしろ人間にとって時間を拘束され、行動を制約される、本能的には不快な出来事なのです。

 しかし、それを上回る喜びが、すなわち本来は神にまみえる資格を持たない、礼拝することを許されない罪深い人間が、イエス・キリストによって神を礼拝することを許されたという喜びの出来事(神との間に和解を得た出来事)であるのです。

 当然、礼拝は人間が「神を礼拝する」という口実で、自分たちが楽しむためのレクリエーションではありません。そして、当然、礼拝には「神を礼拝する喜び」以外の魅力はありません。

 つまりはそうした「参加者にとって魅力的な礼拝」というのは、神を礼拝するようでつまるところは偶像崇拝なのです。
  
 そして、神を神としない、偶像を神とする行為であり、極めて神の御前における重大な過ちであるということになるのです。
 
 
 たしかに、議論として「教会にもっと人が来るようになるためには?」「もっと魅力のある教会にするには?」といったことは議論としては可能です。しかし、パウロに言わせれば、そうしたイエス・キリストの福音と関係のないもの、あるいは指向する方向が異なるものは、まさに福音を覆すものにほかならないのです。

 「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(ガラテヤ1:10)

 キリスト者が聞き従うべきなのは、まさにイエス・キリストの言葉であって、それ以外の誰かの言葉ではありません。パウロはそうした、キリスト者がイエス・キリスト以外の言葉に聞き従う(特に牧師はそのことに注意しなければなりません)のであれば、それはもはや「キリストの僕ではない」と言うわけです。

 そして、そうした信仰へと導くのはまさに神であり、人間ではありません。ガラテヤ書においてパウロが主張する救いとは「キリスト者の伝道による/キリスト者の宣教による」救いではなく、まさに「信仰により、神の導きによる」救いであるのです。

 それはキリスト教会においては基本中の基本でありますが、教会がまさに自己目的化するときに、むしろ、神の導きはどうでもよく、ただ教会が大きくなること、礼拝出席人数が増えること、礼拝献金が増えることが目的化されるのです。

 もちろん、牧師も信徒も「献金が増えることが目的です」「人数が増えることが目的です」ということを表向きに主張することには抵抗があるので、その別の言い回しとして、「福音宣教」という言葉が、教会の自己目的化の隠れ蓑になるのです。

 もし、信仰熱心であることを求めるのであれば、むしろ、日々の生活に努め、聖書を読むことと、神さまに対して祈りをささげることに熱心になればよいのです。

 週毎の礼拝こそがわたしたちの為すべきキリスト者としての証であり、神は礼拝に人を招き、礼拝において神の言葉が語られ、礼拝において救いを経験し、礼拝においてイエス・キリストの今もなお生きて働かれることを信じ、礼拝をもって、この世に対してイエス・キリストの福音を宣教するのです。

 それがキリスト者の生涯における中心的出来事であり、まさにパウロが目指した「信仰によって人は義とされる」ということを証明する唯一の方法であるわけです。 

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)


 ガラテヤの信徒への手紙におけるパウロの最も大事な信仰告白は上記の御言葉にあるように「キリストの救いによって実現する自由(神との間における和解)」です。

 ところが、これは「自由」といっても「何もかもが許される自由」とは決定的に違います。パウロが指摘する「自由」とは、「罪の支配からの自由」であって、人間は生まれながら「罪の支配のもとに奴隷状態にある」という信仰的理解を前提とするのです。

 そして、イエス・キリストの救いが人間にもたらす「キリスト者の自由」とは、パウロのローマの信徒への手紙の言葉を借りれば、「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマの信徒への手紙6章16節)とあるとおりなのです。

 すなわち、言い方をかえれば、神は正しい方でありそれゆえ永遠の存在ですが、人間は不完全であり、その不完全のゆえに、すなわちキリスト教の信仰でいえば「罪」があるために永遠に生きることはできないのです。

 ところが、では人間から「罪」の部分だけを抽出して分離できるかというとそれは不可能なのです。

 なぜなら、たとえばわたしたち人間が生きるためには他の動植物を食べる行為を通じて、すなわち他の命の犠牲の上にあってはじめて生きることができるわけです。つまり、人間が生きるためには、そうした他の命を犠牲にする罪の行為が必然的に発生するのです。そのため、人間の命は常にそうした他の命の犠牲という罪と一緒であり、この関係を分離することはできないのです。
 そして、キリスト教では、人間の命と罪とが、あたかもコインの表と裏の関係にあるように、人間がこの世において人間として生きる限りにおいて、人間から罪の部分だけを取り除くことは不可能なのです。

 では、イエス・キリストの救いというのは、そうした罪の奴隷状態、言い換えれば呼吸や食事といった、人間の生理機能から自由にするとはどういう意味なのでしょうか?

 仮に、まさにこの「自由」がそうした生理的欲求からの解放であれば、まさに人間はイエス・キリストの救いによって飲み食いする必要はなく、また睡眠やあらゆる人間の活動を必要とせずに人間であることができるようになります。

  しかし、洗礼を受けてクリスチャンになったからと言って、その後、水や空気や一切の生理的欲求を必要とせずに生きることができるかといえば、それが可能なのはミイラか死体でしかありません。

 すなわち、イエス・キリストの救いとは、人間が何か不完全な状態から神に近い完全な状態になることを意味するのではなく(もし、そうであれば神は必要なくなります)、むしろ、それは「イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださることによって実現する神との関係の回復 」として理解されているのです。そして、そうした地上においては復活の主イエス・キリストと共に歩む信仰の生涯、すなわち、わたしたちが主体的に救いの応答として、神の奴隷として生きることをもって、来たるべき天においては義、すなわち神さまの御前において主の永遠の平安に至ることができるとするわけです。

 ですから、パウロは信仰によって救われた人間は、神によって罪から救われたことに対する信仰的応答、すなわち信仰生活を以下のように生きるべきだと勧めています。

 ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節
2)ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
3)割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
4)律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5)わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
6)キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 

 当時のガラテヤ地方にあった異邦人教会に、エルサレムからユダヤ主義に基づくキリスト教の指導者がやってきて異邦人教会の人たちに対して、「イエスはメシアであるが、しかし、モーセによる十戒の遵守も必要である」と教えていました。そうしたエルサレムからの指導者たちが語る福音というのは、イエス・キリストをただ信じるだけではだめで、モーセの十戒も必要だと、具体的には「割礼を受けることも救いには必要だ」と教えたのでした。

 当然、パウロにとって、そうした「信仰において割礼の必要性がある」ということになると、「イエス・キリストの救いは不完全だ」ということになります。だからこそ、パウロはこのところで、イエス・キリストの救いの核心、すなわち福音とはまさに「人間は(割礼などの行いによらず)信仰によってのみ、(イエス・キリストの救いによって)神の御前に義(正しいもの)とされるのだ」ということを主張したのです。

 しかし、だからと言って、パウロはそのようにしてイエス・キリストを信じる信仰によって救われた人間が、自分の本能的欲求に従って生きればいいのだとは言わないのです。

 パウロは5節で、イエス・キリストの救いによって救われた者は、「義とされた者の希望が実現すること」を、「”霊”により」、「信仰に基づいて」、「切に待ち望んでいる」と説明するのです。

 じつに抽象的な表現なので分かりにくいですが、これは何を言っているのかといえば、次の6節に出てくる「愛の実践を伴う信仰」について、すなわち、イエス・キリストの救いによって救われた者、すなわちそのようにして義とされた者は、その心の内に「愛の実践」、すなわち「隣人に対して自分がイエス・キリストから受けた愛をもって接する生き方」(隣人愛の実践)へとその心が向かうようになり、その実現のために、キリスト者は聖霊の助けを求め、信仰に基づいて物事を判断し、神の助けによってそれが実現されるように祈りの内に待ち望むのだというわけです。

 長くなるのでまとめると、要はクリスチャンになった人は、その救われた喜びから、隣人愛の実践に生きるようになるのです。しかし、それは決して、人間的努力として行うのではなく、あくまでも祈りの内に、聖霊の助けによって、信仰によって実現するのだというのです。


 ガラテヤの信徒への手紙5章18~23節
18)しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19)肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
20)偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
21)ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
22)これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
23)柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
 
 ここも結構、有名な聖書箇所ですが、パウロはガラテヤ教会の人たちに対して、キリスト者には二種類いることを説明します。ひとつは「聖霊の導きに従っているキリスト者」であり、もうひとつは「それ以外のキリスト者」です。

 当然、パウロがキリスト者として求めるのは前者であり、それはイエス・キリストの霊である聖霊の導きに従っているキリスト者です。そして、そのようにして信仰生活を全うするキリスト者、あるいは教会こそが、まさにキリストの教会であって、そうでないものはキリストの教会ではないと、かなりキツイ言葉で「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」と言っているとおりです。

 その意味で、わたしたちは自分の信仰について、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、主演、その他これに類するもの」がないかどうかを吟味する必要があるのです。そして、信仰生活における「聖霊の助け」とは、まさにこういったものを総称して「罪」を、聖書の御言葉を通じて教え諭してくれるのです。

 そして、キリスト者はひとりひとりがそうしたものに常に注意すると共に、次のことが実現するように神さまに祈り求めなければならないのです。それは「(キリストの)愛であり、(罪の赦しによる)喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といったものです。

 パウロは、信仰により、イエス・キリストの救いに与ったキリスト者は、そうした信仰生活へと導かれ、まさにそうした信仰者による信仰共同体としての教会を目指すことを教えたのです。


 そして、そうした背後にあるのは、当時のガラテヤ地方の教会が、信仰者の集まりであるにも関わらず、そうした間違った方向へと突き進んでいったということの反省にあるのです。

 ガラテヤの信徒への手紙6章1~2節
1)兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
2)互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 キリスト者は決して清い存在ではなく、イエス・キリストの救いによって救われてなお罪人であるという本質からは逃れることができないのです。むしろ、キリスト者の聖性というものがあるのであれば、それはキリスト者自身の内から出てくるものではなく、その人と共に居ますイエス・キリストの聖性によるものなのです。

 だからこそ、わたしたちは常にイエス・キリストと共にあり、そこにおいて常に罪の告白・罪の悔い改めが必要であるのです。そして、そうした弱さを持つキリスト者が集まっている教会も、また、神の御前において完全ではないわけです。

 パウロは信仰者ひとりひとりが自分の罪に気を付けることは言うまでもなく、互いの罪についても気を配ることを言っています。そこにおいては同じ罪人として、まさに隣人の罪をも自分の罪と同じように考えて、罪の誘惑に陥ってしまうことのないようにしなさいと勧めるのです。そして、まさに教会は、そうした互いの罪を担い合うことを通じて、すなわち互いに重荷を担うことを通じて、「キリストの律法を全う」することになるというわけです。

 キリストの律法とはすなわち『律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。』(ガラテヤ5:14)とあるとおりです。


 ガラテヤの信徒への手紙6章7~9節
7)思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
8)自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
9)たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

 イエス・キリストによって救われた人物が、信仰者となって、その後に犯す罪はイエス・キリストを信じる信仰によって自動的に赦されるのかというとそうではないことをパウロはここで言っています。

 「自分の蒔いたものを、また刈り取る」とは、すなわちたとえ信仰者であっても、罪を犯せば、その罪の責任を取らなければならないということです。

 すなわち「キリスト者になった」ということは、本当の意味での「救いの確約」ではないのです。

 イエス・キリストの救いはそれ自体で完璧なものですが、しかし、それは「永遠の命」に至るための「最初の一歩」なのです。イエス・キリストの救いが、まさにその人をその人の意志とは無関係に強制的に「永遠の命」を約束するものであれば、そこに「人間の意志」は必要ありません。

 一見すると、「神が人間を強制的に救う」ということは人間にとって非常に嬉しいことのように感じますが、実は、それは「人間を人間としない」ことでもあるのです。むしろ、それは「人間としての、人格を持った個としての存在の否定」であって、それは「完璧な救い」に見えますがそうではないのです。

 神さまは、人間をあくまでも一個の人間として、その存在を大切にされるからこそ「勝手に救わない」のです。

 それは一見すると「不親切」に感じますが、そうではありません。

 神さまはわたしたち人間に対して、わたしたちと同じ高さに下ってくださり、そして、わたしたちと対等の立場においてその救いを与えてくださったのです。

 それはわたしたちを一個の人間として大切にされる愛に基づくものであり、当然、信仰として、応答として、神さまの救いに応えることが期待されているのです。



 人に対して、なんでもかんでもやさしくすることが親切かというとそうではありません。わたしたちは悪を行おうと考えて悪を行うことは少ないですが、案外にも、善を行おうとして悪を行うことが多いのです。
 わたしが牧師になって経験した罪というのは、ほとんどがそうした「自分としては親切のつもり」が、結果として「相手の人格を否定している」というケースです。これはよほど注意していないと、うっかりするとよくやってしまう罪です。

 そういう意味で案外にも教会は、パウロが指摘するように、そうした罪の誘惑に多く曝されている場所でもあるのです。表向きは「親切」なので、本人はそれが悪であると気が付きません。しかも、それを無意識で行っていたりすることが多々あります。

 そうしたことが個人レベルで起こり、また教会レベルで起こるのです。

 キリスト者が立ち向かうべき相手は、まさにそうしたわたしたちの罪であり、当然、それは信仰により、聖霊の助けによらなければ決して立ち向かうことはできないのです。



 今日のキリスト教会において表向き「偶像礼拝」は存在しません。しかし、パウロが言う「偶像礼拝」は決して他の宗教の神像を礼拝することを意味しません。むしろ「伝道」「宣教」「福音」「救済」という言葉によって、個人の自己満足や組織の拡大など、それに類するさまざまなものが偶像としてキリスト教会の中で礼拝の対象となっているのです。

 ガラテヤ書において「律法」は「割礼」を意味していました。では、今日における「律法」とは何でしょうか?

 もちろん、教科書的には「律法主義」というような答えになるのでしょうが、わたしがこのガラテヤ書から読み取ることができるのは今日的「律法」とは「伝道」ということです。

 それは「伝道」そのものが否定されるのではありません。「伝道」が目的化され、教会員に対して伝道がノルマ化されることが、今日的な「偶像礼拝」なのです。それは表向き「悪でない」ことから、「正しいことだ」と無条件に考えてしまいやすいのです。

 キリスト者もまた教会も、常に、そうした何が罪であり、偶像礼拝であるのか、そのことに注意を払い、イエス・キリストに従い続けなければ、その先にあるのは身の破滅でしかないのです。
 

 今回は、パウロの直筆であると言われるフィリピの信徒への手紙において、そこにみる教会のあるべき姿をみていきます。

 まず今回は1~2章をみます。

 さて、パウロは都合3回の伝道旅行を行いますが、その中でフィリピの教会について、パウロは他の教会と比較して非常に良い教会であることをその手紙の冒頭において伝えています。

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 パウロの宣教旅行について、上記の地図を参照していただければと思います。そしてパウロはこうした宣教旅行において牢獄に繋がれることを経験します。それはエフェソ、カイサリア、ローマであるのですが、今日的にはおよそ上記の地図でいういアジア州の「エフェソ」で投獄されており、そこからエーゲ海を隔てた場所にあるフィリピの教会の人たちに対して書き送った手紙であるのです。

 さて、上記の地図においてエフェソは「ヨハネの黙示録」に「アジア州の7つの教会」として登場するように、エフェソを含むこのアジア州はまさにパウロの宣教活動も虚しく、結果としてイエス・キリストの福音を受け入れた教会が、ユダヤ主義に基づく教会へと、福音を捨ててしまったのです。

 そうした背景には当時ローマ帝国が実施した、「1民族1宗教」という政策において、「キリスト教はどの民族の宗教でもない」ということが問題(ユダヤ人にはユダヤ教があるので)となり、そうした「1民族1宗教」に該当しない宗教は排斥を受けるようになったのです。
 そこで、当時のキリスト教会の指導者たちが考えたのは「危険を冒してキリスト教を信じ、ユダヤ教から独立するのではなく、ユダヤ教の中のイエス派としてユダヤ教の宗教祭儀を取り入れ(それまでそうしていたように)、キリスト教会ではなく、ユダヤ教の中のひとつの教会として、この世の権力に対して妥協していこう」ということであったのです。

 そこで、初代教会の指導的地位にあった人々、あるいはその直接的な弟子たちが、各地の異邦人教会を訪れては、「自分たちの信仰はイエス・キリストの福音も大切だが、それを大事にするあまり迫害を受けるよりは、自分たちはユダヤ主義に基づくキリスト教教会として、ローマ帝国の支配下において教会を維持していこう」ということを伝えたのです。

 当然、それは結果として、「イエス・キリストの救いが不完全である」という事を食物規定や割礼の施術といった行為を通じて証しているのと同じであり、それに対して、パウロは「 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」(ローマ12:2)と勧めているとおりなのです。


 その意味で、昔も今も教会が、あるいはキリスト者が常に問われているのは「この世との妥協するのか?否か?」であります。そして、それは言い方を変えれば「イエス・キリストの福音を大切にするのか? それともこの世的な繁栄を大切にするのか?」ということになります。


 このことは教会にとって実に大切なことでり、パウロが口うるさく言うのはそれなりの理由があるからなのです。

 なぜ、教会は宣教を行うのでしょうか? 牧師はなぜ、信徒に対して伝道を命じるのでしょうか? あるいは教会における奉仕を命じるのでしょうか?

 わたしたちの教会は、この世において、その存在理由は非常にはっきりしています。

 それはわたしの理解で説明すれば「礼拝を通じて神の言葉を宣教すること」です。


 教会において牧師の語る言葉に注意して聞いてください。わたしも他人のことは言えませんが、教会において牧師が語る言葉には、当然ながら、その動機があります。その根拠がまさにイエス・キリストの福音に根ざすものであれば、それはまさにイエス・キリストの言葉として、神の言葉としてそれは尊重されるべきでしょう。

 ところが、そうではなく、むしろもっと人間的な牧師の個人的、あるいは教会という組織運営のため、いわゆる会社が業績を上げるためのもの。すなわち教会員をまさに教会というキリスト教販売所の従業員としてとらえ、従業員に対してそのノルマを課すという類のものになってはないでしょうか?

 フィリピの信徒への手紙ではありませんが、マタイによる福音書に以下の御言葉があります。

 マタイによる福音書4章8~11節
8)更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9)「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
10)すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
11)そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
 
 「偶像崇拝」「悪魔崇拝」とは、よほどオカルト風のおどろおどろしい、世間から隠れたところでひそかに行われているものだと多くの人は思うかもしれません。


 ところがこの世において、「偶像崇拝」「悪魔崇拝」に最も近いところに立たされているのが、キリスト教会なのです。

 多くの人は「キリスト教会」に対して、まさか教会が「偶像崇拝を行う教会である」とか、「悪魔を崇拝する教会である」とは思いません。 そうではなく、まさに「信仰的に清い人たちが通うところ」という認識をもって教会を遠巻きに、「自分には縁遠いところ」と思う方が多いのではないかと思います。

 ところが、そうした「信仰的に清いはず」の教会にひとたび入ってみれば、そこでは「信徒獲得」を目的とする「伝道」「宣教」が行われ、そうした「勧誘活動」のための「献金」と「奉仕」という名の「強制労働」が呼びかけられているわけです。しかも、そうした教会では、そうしたものが「正しい信仰である」と、むしろ、そうした事を行わないことを「信仰的に不真面目/不信仰である」「信仰熱心でない」「福音的でない」というような言葉をもって否定するわけです。

 そして、牧師はさらにそうした信徒が自分の考えていることに対して疑義をはさむことの無いように、「考えるな」ということを暗黙のうちに強要します。それは直接的間接的にいろいろな形を通じて、言葉で言われる場合もあれば、そうした「信仰熱心であること」を通じて、信徒の思考力を奪うわけです。そうしたやり方はいわゆるアメリカ海兵隊のブートキャンプのようなものかもしれません。思考力を奪い、飴と鞭を使い分けることによって、教官の意のままになる部下を作り上げるわけです。

 そして、そうしたことによって実現する教会とは一体どういう教会かと言えば、それはすなわち、キリスト教会に対してこの世的な繁栄をもたらす悪魔を崇拝する教会であるのです。しかも、教会の外部の人から見て、その外見は「キリスト教会」であるぶん悪質です。そこを正直に「わたしたちはこの世的な繁栄を追求する、悪魔崇拝の教会です」と、教会の看板に書いてくれれば良いですが、残念ながら教会が「悪魔教会」と看板に表示することはありません。

 しかし、福音書のイエスさまの言葉によって立つのであれば、当然、教会は貧しくて当たり前なのです。なぜなら、教会が求めるのは神の祝福であって、この世的な金銭や人間の力ではありません。ところが、キリスト教会において、牧師において、そうした悪魔のささやきに屈した牧師、あるいは悪魔のささやきに屈していることに気付かない牧師、自分が信じているものがイエス・キリストのかたちをした悪魔であることに気付かない牧師が存在するわけです。それは決して「わたしは大丈夫だ」ということではありません。

 牧師は常に、そうしたイエス・キリストの言葉に対して真摯に向き合うことが求められているのであって、わたしも何時、どういうきっかけでそうした悪魔崇拝牧師になるかもしれないと、常に注意していなければならないというわたしの牧師としての自覚なのです。

 自分が信じているものが本当にイエス・キリストであるのか? それともイエス・キリストの殻をかぶった悪魔であるのか、それを見分ける信仰の目が牧師には必要なのです。そして、そうした間違いを犯す牧師に対して、そうした間違いを遠慮なく指摘する信徒にも同様にそのことが求められるのです(プロテスタントでは万人祭司の信仰に立つので「聖職(者)」という概念がなく、牧師も信徒も役割の違いはあっても基本的には同じと理解します)。


 さて、だいぶフィリピの信徒への手紙から離れてしまいましたので話をもとにもどします。

 フィリピの信徒への手紙1章1~11節
1)キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。

5)それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

7)わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

9)わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
10)本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
11)イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

 パウロがフィリピの教会の信徒に対して記しているように、フィリピの教会にはすでに教会という組織が成立しており、そこにおいて監督者・奉仕者・聖徒(信徒)といったような教会の中における役割の違いがあることがわかります。

 そして、パウロはフィリピの教会がまさに教会であることのそのもっとも大切な事柄として、「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」ということを上げて説明するのです。

 教会が教会であるために大切なことは何かと言えばそれはまさに週ごとに行われる「礼拝」において牧師を通じて「福音」が「語られ」、そして、「信徒」が「福音にあずかっている」ということなのです。


 パウロの生きていた時代において「信徒獲得」は主目的ではありませんでした。むしろ、それは神が祝福として教会に対して与えてくれるものであり、人間(牧師、あるいは信徒)が努力して獲得するものではないのです。

 教会が教会である、その第一条件は「福音の宣教と信徒が福音にあずかる」ということであって、当然、それは「礼拝」を通じて行われるものであるのです。

 ところが、ともすると教会は「礼拝をやっているだけではダメだ」ということを言うようになるわけです。


 聖書の中では神の祝福のひとつの表現方法として数量的に大きくなる表現をもって、神の祝福が大きいことを表現します。

 たとえば、以下の聖書箇所。

 使徒言行録2章40~41節
40)ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
41)ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
 
 ここにおいて、初代教会は1日で3,000人の信徒を獲得したことが書かれています。

 それは、今日的に言えば、「神の祝福があれば3,000人の信徒を獲得することができる」ということなのでしょうか? それとも「3,000人教会を達成すれば、その教会は信仰的に正しい教会である」ということなのでしょうか?

 もちろん、当時の初代教会において実数として3,000人の信徒が加わったとして理解することもかのうですが、むしろ、それは数の大きさをもって「神の祝福の大きさ」を示したものと理解するのが無難なのです。


 ところが、教会によっては、まさにこの「3,000人」ということを非常に重大なこととして、まさにそれが神の祝福を象徴する数字として、また、牧師に対して、神からの啓示としての「3,000人」という、そういう意味では実に誘惑であるのです。 


 パウロはそうした目先の事柄ではなく、週毎の礼拝において神の言葉が何であるかを正しく聞くことによって、信徒が物事を信仰的に正しく見抜くための物事を測る力を持つことを勧めているのです。

 そして、それは具体的には、この世的な悪魔の誘惑から自分の信仰を引き離すものであり、イエス・キリストの言葉に忠実にとどまる信仰の力であり、それは信徒に対して、知る力・見抜く力を養うものであり、それによって、何が信仰において大切なものであるのかをわきまえ、イエス・キリストの愛に根ざして信仰生活を送るようになるものであるのです。

 ところが、そうしたイエス・キリストの愛に根ざして生きるということは、必ずしも、良いことばかりが起こるという生活ではありません。むしろ、フィリピの教会の人たちが経験しているのは、パウロの逮捕やあるいはキリスト教徒に対する迫害、そして、教会に対してやってくるユダヤ教に改宗を求める動きであったのです。


 パウロは1章12節以下において、自分の人生がまさにイエス・キリストのものであることを証します。

 それはキリスト者にとって大変重要なことであり、また牧師にとって、実に基本的な事柄であります。

 パウロはそれを「わたしにとって、生きるとはキリストであり」と言っています。

 牧師はキリストに倣うものであって、当然、悪魔に倣うものではありません。しかし、そのごく当たり前のことが牧師には実に難しいものであるのです。それはわたし自身も常々感じるところですが、この世的な誘惑が常に付きまとうのです。

 そして、そうしたことの結論として、パウロは1章27節以下において次のように結論付けるのです。

 フィリピの信徒への手紙1章27~30節
27)ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
28)どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
29)つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
30)あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
 
 当時の人たちもそうですが、イエス・キリストを信じる信仰において大いに困難を経験する場合あるのです。しかし、それは決して、この世的な繁栄を求めることにおける困難ではなく、むしろ、イエス・キリストを信じる信仰において当時の社会において正しく生きようとした人たちが経験した困難であるのです。

 わたしたちは神の御言葉に絶対的な価値観を置いて、その上に立った上で、この世の物事を知り、見て、そしてそこにおいてキリスト者として生きるわけです。

 当然、そこにおいては困難がつきものなのですが、むしろそうではなく、教会が悪魔崇拝に走るそのことによって、すなわち牧師から達成するべきノルマとして信徒に対して重荷が負わされるというそうした困難が起こるのです。

 それは本来、信徒が負う必要のない全く無意味な困難であるにも関わらず、牧師がそれを「まさに神のための苦しみである」と、「それは神からの恵みである」と、無茶な要求を突き付けることがあるのです。

 マタイによる福音書においてイエスさまが祭司長や律法学者たちに対して言われたことばがあります。

 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(マタイ23:4)

 わたしたちキリスト者にとって、この世における労苦が、まさに「神の栄光のため」であるなら、それを喜びとすることもできます。ところが、そうした労苦が「悪魔の栄光のため」であるならそれは耐え難い屈辱です。

 そして、まさにそうした耐え難い屈辱に耐えかねて自らの命を絶つ方が実際に存在するのです。わたしはそうした方を、自分のこれまでの人生において知っております。

 そういう意味で、わたしは常に自らがそうした悪魔になることの無いように、常に、自分の弱さと向き合いつつ、神の助けを求めているのです。しかし、そのように気をつけていても、あるいは自分の無意識やあるいは自分の知らないところで、そうしたものに巻き込まれ、また自分が気づかないうちにそうした存在になっているかもしれないという可能性は常にあるのです。

 わたしたちがこの世において生きている限りにおいて、そうした罪やあるいは悪魔の誘惑から自由になることはありません。むしろ、わたしの場合でいえば、「牧師である」という事において、他の方々よりもはるかに危険性が高いのです。そして、そのうえで教会において「成功」「勝利」といったことは常に注意が必要ということです。特にそれが人間の努力によって導かれるものである場合、それは「達成感」「充実感」というおまけつきであることが多いのです。そして、その誘惑する力は非常に強力なのです。



 フィリピの信徒への手紙2章3~4節
3)何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4)めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 パウロがそうしたフィリピの教会の信徒に求めるのは信仰における「謙遜」です。牧師も信徒も神と人との前に謙遜であることが大切であるのです。

 フィリピの信徒への手紙2章15~16節
15)そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
16)命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 

 キリスト者にとって「清い者となる」ことは非常に基本的であり、重要です。パウロはそのようにしてい「神の子となる」ことをフィリピの教会の人たちに対して求めます。

 それは、具体的には日々聖書の御言葉に聞き、日ごとにイエス・キリストの御前に罪を告白し、悔い改めを行うという、そうした信仰生活であるのです。そして、キリスト者はそのようにして、この世において信仰者として、それぞれの生活を全うするのです。

 そして、牧師はそれを信徒に語る以前において、まず自身の生活において実践することが求められるのです。しかし、恥ずかしながら、わたしもそれが徹底できているかといえば、決して、徹底できておりません。

 その意味で、日々、神さまにそのことの助けを祈り求める、弱い者であるのです。

 牧師を「献身者」と言えば聞こえが良いですが、本当のところは社会不適格者であったわたしを神さまが信仰において牧師として救って下さったというだけなのです。その意味で、牧師として立てられていること以上の喜びは、わたしにはありません。

 話は変わりますが、わたしの好きなマタイ受難曲の中の一曲が65曲目の「Mache dich, mein Herze, rein,(わが心、清くあれ)」です(リンク先に歌詞も合わせて紹介されています)。
 
 http://pacem.web.fc2.com/youtube_bach/matthaus_2/64_dieskau.htm

 キリスト者の喜びは、まさにイエス・キリストによって罪から救われ、その命を与えられた事にあります。その喜びが本物であることがキリスト者にとって大切です。この喜びこそが、教会の喜びであり、わたしたちはそれによって、教会が本当の教会であるのか、それとも悪魔を崇拝しているような教会であるか、それを見分けることができるのです。


 


フィリピの信徒への手紙3章1~5節
1)では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
2)あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3)彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
4)とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 


 フィリピの教会にパウロがこうした手紙を送った背景にあるのは、2節でパウロが「あの犬ども」と表現する、直接的にはユダヤ教における神の救いにあずかるための要件であった「割礼」(その他には食物規定)をキリスト教徒に対して要求する、エルサレム教会からの、あるいはユダヤ主義的なキリスト教会からの伝道者が各地にあった異邦人教会の人々に対してパウロの伝える信仰から離れるようにという要請でありました。

 それは、今日的にはもちろん、日本におけるキリスト教会の中で「割礼」を要求することはありません。だから、こうした「割礼」の問題は、今のわたしたちにとってみれば全く無関係のことだというのかというとそうではありません。

 ここでパウロが指摘する「割礼」が具体的に、直接的に今のキリスト教会において要求されることはありません。しかし、わたしたちの教会においては、パウロがそれに続けて説明しているように、「割礼」とは当時行われていたひとつの具体例であって、信仰的にこの「割礼」が意味するものが何かといえば、それは「肉に頼ろうとする」ことであり、パウロが「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」ということが、すなわち「真の割礼を受けた者」を指すのであれば、当然、「偽りの割礼」、すなわち、「肉体への割礼を要求する信仰」とは、すなわち「神の霊によって礼拝することなく、キリスト・イエスを誇りとすることなく、肉体への割礼を要求する」ものであることがわかるのです。

 それは、言い方を変えれば、「礼拝をするけれども、それは神を礼拝するのではなく、イエス・キリストを救い主だとは言うけれども、この世的な人間の業によって救われようとうする信仰」というふうに表現できるのです。


 信仰者は神を信じ、神の救いによって生きます。

 誰もが、クリスチャン、キリスト教徒はそのようにして生きていると考えています。

 ところが、パウロの生きた時代のキリスト教会もそうですが、過去のキリスト教会の歴史においてもそうであり、そしてまた今日のキリスト教会においても、実は、教会はまさに肉の思いによって、すなわち信仰と人間の欲望とのせめぎ合いの中におかれているのです。



 なぜ、パウロの意に反して、当時の異邦人教会の人々は、ユダヤ主義的なキリスト教へと改宗してしまったのでしょうか? 彼らは、「割礼」を「イエス・キリストの十字架と復活」よりも信仰的に大事だと信じたのでしょうか?

 ここらへんの信仰者の考え方が見えてこないと、すなわち信仰の戦いにおいて最も重要な信仰の敵である罪が何であるのかが見えないと、キリスト教会は、まさに「カネのなるキリスト」を崇拝する教会へと、まさにこの世的繁栄を約束するサタンを礼拝する教会になってしまい、そうなってしまったことに気付かない、あるいは気付いていても、もう引き返すことができないという事になってしまうのです。

 繰り返しますが、それは「わたし永野や出雲教会が信仰的に安全だ」ということを言っているのではなく、わたしたちは常に、そうした信仰の戦いに直面して、この世で信仰者として生かされ、信仰者として生きているということなのです。それは誰もがそうであって、何時、どんなきっかけで信仰的にイエス・キリストから離れ去ってしまうか、わたしたちは常に、そのことを自問しながら、「神の御言葉に従う」という選択をし続けていかなければならないのです。



 さて、では、なぜ当時の異邦人教会において、ユダヤ主義的なキリスト教への改宗が進んだのでしょうか?
 
 それは決して、異邦人キリスト教会の人々が「パウロの教えが間違っている」と単純に信じたからではありません。


 それは当時の世界において、いうなればキリスト教会がキリスト教会として、ローマ帝国内において生き残りを賭けた決断を求められた時に、ひとつの踏み絵が提示された。それが「1民族1宗教」というローマ帝国の宗教政策であり、そこにおいて当時のキリスト教会は自分たちの信仰において決断をしなければならなかったという歴史的事実に基づいているのです。

 つまり、「キリスト教はキリスト教である」として、当時のローマ帝国内において、当時としては異端的宗教として生きるか、それとも、「キリスト教はユダヤ教という大きな枠の中のナザレのイエス派である」というこの世の権力者に対して妥協して生きるかという二者択一を迫られていたのです。

 そして、ペトロたち初代教会の弟子たちは、パウロたちのように、そうした時の権力者たちに逆らい、摘発され、その結果としてキリスト教会がなくなってしまうよりも、もともと自分たちはユダヤ人であるのだから、ユダヤ教の一派として、ローマ帝国の支配下においてユダヤ主義キリスト教の組織として、ローマ帝国の保護下に生き残るという選択肢の方が確実であり、もっとも現実的な選択肢であると判断したのです。

 すなわち、それは今日的に見ても、パウロの選択肢よりも、初代教会の弟子たちがとった選択肢の方が極めて妥当的な、現実的な選択肢であったと思われるのです。

 しかし、パウロはまさにキリスト教会はユダヤ教の教会ではなく、まさにキリスト教会であることによって、はじめて本当の意味でキリスト教会でありうると、そのことを強調するのです。


 つまり、こうしたことを見ると、パウロがフィリピの教会の人たちに対して手紙を送って訴えた「割礼」という信仰の問題は、ただそうした肉体に傷を付ける儀式だけが限定的に問題だとされているのではなく、むしろ、信仰共同体であるはずのキリスト教会が、いわば「教会の存続」という、本来は信仰において、聖霊の助けによって導かれるべき問題が、人間的、すなわち霊的な解決方法ではなく肉的方法を、神の栄光ではなく、まさに人間的打算によって自分たちの歩むべき道を歩んだという事が問題となっているのです。

 だからこそ、それは常に、「常識的判断」ではなく「信仰的判断」によって、すなわちキリスト教会は、教会の存続について、決してそれを常識的・打算的に判断するのではなく、礼拝において語られる神の言葉に聞き従うことによって、信仰によって判断することが必要であることを説明するのです。


 そして、パウロはそうしたキリスト者の歩みが、この世における教会が、地上において既に完成されたものではなく、 常にイエス・キリストの姿に倣いつつ、神の御国へと向かって歩むのもであるというわけです。

フィリピの信徒への手紙3章13~14節
13)兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
14)神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです
 
 キリスト者が、あるいは教会がこの世において目標として目指すべきものはいったい何でしょうか?

 パウロがこの言葉で示そうとするものは、たとえば、マタイによる福音書25章21節「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」というような、信仰者が地上での生涯を終えて、信仰の戦いを立派に戦い抜いたその結果、神さまからいただくことができる「慰めの言葉」と表現できるでしょうか。

 わたしたちの地上の喜びも、悲しみも、苦しみも、すべてはこの神さまがわたしに対して与えてくださるその「慰めの言葉」で十分なのです。神さまのこの「慰めの言葉」によって、わたしたちの命はまさにこれ以上ないほどの価値を与えられることになるからです。

 だからこそ、わたしたちキリスト者にとって教会にとって、目指すべきものは、まさにこの神さまから与えられる「慰めの言葉」であって、まさにこのためにキリスト者は、あるいは教会は地上においてイエス・キリストと共にある喜びを喜び、またイエス・キリストと共にある苦しみを苦しみ、この世に対してイエス・キリストの証人としての、あるいはイエス・キリストの教会としての歩みを全うするのです。


 
フィリピの信徒への手紙3章17~21節
17)兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
18)何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
19)彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
20)しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
21)キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

  世にあるキリスト教会が、まさにキリスト教会であるかどうか。その事はパウロの生きていた時代においても、大きな問題でした。パウロがまさにここで繰り返し訴えているように、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」のです。

 それは、「ノンクリスチャンが多い」「未信者が多い」ということではありません。これまでの話が「教会の中」を問題としているように、当然、ここで言われている「キリストに敵対して歩んでいる者」とは、当時のキリスト者のことであり、当時の教会であるのです。 
 
  しかし、では、それは当時のキリスト者がそのように問題であって、現在のわたしたちはそうではないということが言えるかといえば、それは違います。


 まさに、今日において、キリスト教会でこの御言葉が読まれる時に、それは今日のわたしたちの問題なのです。

 今日のキリスト者にも、あるいは教会にも、そのようにしてキリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。


 それは、決して、「あそこの教会」ということではなく、まさに「わたしたちの教会はそうでないだろうか?」と、自問することが求められているということなのです。

 わたしたちの信仰は、イエス・キリストの救いを受け入れたからといってそれで完成したわけではありません。それは、これまでのところでパウロが言ってるとおりです。

 すなわち、わたしたちキリスト者の信仰は、地上において命ある限りにおいて未完成なのです。その信仰が完成するのは、まさに地上での信仰生活を全うして、神さまから「よくやった」との「慰めの言葉」をいただいてはじめて「完成」と呼べるのです。


フィリピの信徒への手紙4章4~7節
4)主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
5)あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
6)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7)そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

 「主において喜ぶ」とは、決して、「うれしいことで喜ぶ」と同じではありません。

 パウロがこの手紙を語っているその背景において、キリスト者は迫害を受けているからです。しかも、人々の前で自分の信仰を表明すれば、それはすなわち死刑を意味するやもしれません。

 彼ら、キリスト者の周りには迫害と困難が溢れているのです。つまり、彼らの目に映るのは決して喜びではないのです。むしろ、それよりも苦難・困難が多いことでしょう。

 しかし、パウロはそうした苦難・困難の中にあるキリスト者に対して、「主において常に喜びなさい」と勧めます。

 それは決して、やせ我慢や苦行のようなことを言っているのではありません。

 むしろ、パウロが勧めるのは、普段の生活における信仰生活の励行です。

 何か特別なことをしなさいというのではありません。


 キリスト者のこの世における戦いは、すなわち神の戦いなのです。

 そこで戦われるのは神ご自身であって、わたしたち人間は、その戦いの目撃者であり、また、勝利者である神さまを賛美し、褒め称えることです。

 出エジプト記14章14節
 「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

  
 これはわたしが個人的に好きな御言葉でもありますが、キリスト教の伝道を例えるなら、すなわち「神が戦われる神の戦い」であるのです。

 神さまは福音宣教のためにわたしたち人間の力を借りようとしているのかといえばそうではありません。わたしの理解では、この世における福音宣教の御業は、あくまでも神の御業であって、わたしたちはそこで神さまの働きを助けるということはできないのです。

 むしろ、わたしたち人間が何かをすれば、いったい何が神の業であるのか、その判別ができなくなります。

 人間が何もしないのであれば、当然、そこで起こる出来事は、すべてが神さまの導きであるということが言えます。

 その意味で、キリスト者に求められるのはただ礼拝を守ることであって、そこにおいて一週間の信仰生活において行われた神の御業をおぼえ、神の御名を褒め称えるということだけであるのです。



 教会はなぜ大きくならなければならないのでしょうか?

 マタイによる福音書18章20節
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 新約聖書に見るこうした記述は当時のキリスト教会が小さい集団で構成されていたことを物語っていると、G・タイセンは説明しています。また、パウロがローマの信徒への手紙の最後で個人名を上げていますが、ひとつひとつ数えても30人程度です。


 「教会を大きくしたい」とは、いったい何のためでしょうか?

 おそらく、そこにどのような理由がきたとしても、それは「キリストに敵対する」ことになると思います。

 なぜなら、むしろ教会は「神の祝福によって、結果として大きくなるはず」であるからです。


 その意味で、「伝道・宣教の成功、あるいは失敗」は、礼拝出席数や献金額ではかれるものではありません。


 その昔、先輩牧師から、「教会は礼拝出席が80人を越えたら、株分けを考えるもの」と聞きました。

 すなわち、1教会の人数の限界は礼拝出席が80人であり、またそれは信徒数でいえば1教会150~60人程度であるのです。それは一人の牧師がすべての信徒を牧会できる限界だということでしょう。

 もちろん、それを越えて人数の多い教会もいくつもあります。

 教会が大きくなればなるほど、牧師と信徒との人間的つながりは希薄になってきます。それは大会社の社長と平社員とが、顔すら合わせることがないというのと同じです。むしろ、それよりも中小企業のように社長も平社員も一緒に仕事を頑張る方が人間関係としては良い関係が築けるのではないでしょうか?


 現在、出雲教会では家庭集会を一か所で行っていますが、そこに集まるのはわたしを含めて3人です。

 わたし以外のお二人は共に高齢のため、いつまでこうした個人宅での礼拝が続けられるかわかりません。

 しかし、それはわずか三人の集まりではありますが、決して大教会の礼拝に負けることのない、とても祝福された礼拝であるのです。

 なぜなら、そこには人間的に誇れるようなものは何もありません。集う人数にしても、そこでささげられる献金にしても、それはごくわずかです。

 ところが、そこにおいて互いに、礼拝において神の御言葉を聞き、真の信仰を互いに確かめ合うことができることは、他の何ものにも代えることができません。こうしたことは大教会では、まずできない経験です。なぜなら、そこには人為的なものが何もないからこそ、そこで経験するすべてのことが神の恵みとして理解できるのです。

 もちろん、大教会の礼拝でいただく喜びを、わたしたちは経験することはできませんが、しかし、だからと言ってそうした「大教会の礼拝に対して何か憧れるか?」と問われれば、「憧れるようなものは何もない」というところです。

 わたしたちキリスト者が求めるのは「教会」という器ではなく、「礼拝の中で語られる神の言葉」です。そして、その中で行われる聖餐の経験と、その後のちょっとしたお茶の時間という、例えるなら聖徒の交わりです。

 礼拝においてわたしたちが聞くのは「神の言葉」であって、礼拝の演出でも、会堂の広さでもありません。歌手や音楽家も、あるいは楽器すら必要ありません。そうした人為的な「感動」は、一時的な清涼剤としての効果はありますが、所詮アトラクションに過ぎない点において、信仰の本質においてはまったく無意味です。

 つまり、共に聖書を読み、共に祈り、共にさんびを神に対してささげ、共にパンを裂き、共に交わるという礼拝行為の本質は、教会の大小には関係がないのです。むしろ、大教会になることによって失われるものの方が多いかもしれません。

 わたしたちはそうして礼拝が終われば、三人でお茶を飲み、世間話をしますが、それはほんのささやかなものであって、大人数のパーティーではありません。しかし、そうした濃密なともいえる神の言葉と聖徒の交わりの時間は、いくら予算を計上したところで、お金で買うことはできません。後になって、悔やんだところでわたしたちは時間を巻き戻すことはできません。大教会でいくら献金が多いとは言っても、お金で時間は買えません。

 そして、三人だけの小さな礼拝、聖餐、そして聖徒の交わりに、わたしたちは礼拝を持つことのできる喜びと慰めを深く経験するのです。これこそが、まさに神さまを中心とした聖徒のまじわりであって、この経験こそが地上におけるわたしたちキリスト者の唯一の慰めではないでしょうか。

 わたしたちは、地上においては、まさに聖徒のまじわりによる慰めを、そして来る御国においては神の慈しみ深い慰めの言葉によって、キリスト者の命はまさに最高の栄誉を受けることになるのです。

 

 フィレモンへの手紙は、本文中の「福音のゆえに監禁されている間」(13節)とあるように、パウロがその伝道旅行の途中において、監禁(軟禁)されている間に、フィレモンという、家の教会を主催するパウロの弟子に対して送った手紙として知られています。

 さて、このフィレモンの手紙の話の流れを整理すると以下のとおりです。


・パウロの弟子でキリスト者であり、また家の教会を主催するフィレモンのところに、奴隷の身分であるオネシモという人物がいた。

・ある日、奴隷のオネシモは主人であるフィレモンに対して、具体的なことはわからないが、何かしらの損害を与え、オネシモは軟禁状態であったパウロのところに逃亡(当時としては逃亡奴隷は死刑になってもおかしくない)してきた(オネシモは主人フィレモンがパウロの信仰の弟子であることを知っていた)。

・パウロはそうしたことがあることを知らずに、パウロはオネシモを自分の弟子として迎え入れる。

・その後、パウロはオネシモがフィレモンのもとから逃亡した奴隷(オネシモの所有権はフィレモンにある)であることを知る。

・もし、パウロがオネシモをフィレモンにもどせば、オネシモが引き起こした損害と逃亡罪で殺されるかもしれない。

・パウロは一計を案じて、フィレモンもオネシモも、この世的には主人と奴隷という関係であるが、共に等しくパウロの弟子であることから、フィレモンはオネシモの犯した罪をゆるすと同時に、またオネシモも自分が犯した罪を悔い改め、同じ信仰をもって愛する兄弟として和解し、この世におけるキリストの愛に基づく隣人愛の実践として、家の教会を主催するフィレモンに対するひとつの信仰的な挑戦として、このことを提示する。

 と、だいたい文字で説明すると上記のような内容になります。


 補足説明のために上記のことの概略を以下の図に示します。


フィレモンへの手紙・図解



  さて、パウロがフィレモンに対してこの手紙を通じて伝えようとしたことは、当時のローマ社会における「奴隷制度」というものに対して、オネシモというひとりの逃亡奴隷の救いを通じて、フィレモンが主催する家の教会が信仰的挑戦をパウロから受けるというそうした内容になっています。

 当然、この「信仰的挑戦」に対して、フィレモンは①パウロの言うとおりにオネシモを奴隷から解放し、信仰を同じにする兄弟として、家の教会に迎え入れるという選択肢と、まさに、②当時のローマ社会における奴隷法に基づき、オネシモを逃亡奴隷として処分するという選択肢を突きつけられるのです。

 しかし、パウロからこうした手紙を受け取って、フィレモンが②の選択肢を取るであろうということは想定されておらず、パウロは、フィレモンが当然キリスト者であり、家の教会を主催する者として、必ずや①の選択肢を選択することを見越して手紙を記しているのです。

 しかも、このフィレモンへの手紙は、いわゆる私信として、「フィレモン個人」に書かれた手紙ではなく、2節において「姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」ということで、「公開書簡」として送られているわけです。

 つまり、パウロはこの手紙をオネシモに持たせ、オネシモがフィレモンの家の教会の人たちの前で、この手紙を朗読することが意図されています。

 仮に、この手紙がフィレモンへの私信として、他の誰もがこの内容を知らないというのであれば、この話はフィレモンの個人的なものとして握りつぶすことが可能ですが、パウロはそうした事にならないようにという、かなりフィレモンの出方を考えたものとなっているのです。



 さて、フィレモンへの手紙について、内容としては上記のとおりですが、では、それが今日のキリスト教会においてどのような意味を持つのでしょうか。


フィレモンへの手紙1章3節
「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」


 意味としてみれば、単なる社交辞令のような言葉ですが、こうした紋切り型の言葉である点において、キリスト教会においてはこれは当然のことであり、基本中の基本であることがこの言葉からわかります。

 すなわち、キリスト教会とは、まさにイエス・キリストからの恵みと平和が、この世において実現している場所であるということであるのです。


 このことは非常に重要で、こうした基本的なところが見落とされ、むしろ、「牧師やあるいは奉仕者の暴走」によってキリスト教会が成り立っているというような場合もあるからです。

 キリスト教会において「宣教」は、キリスト教会がキリスト教会である「第一使命」として、どこの教会でも同じように大切なこととされています。それは、わたしたちが所属する日本ナザレン教団においても同じです。

 しかし、問題は、その「第一使命」実現のために、すなわち「宣教」を行うために、「祈り」が求められることもありますが、それ以上に「奉仕」が叫ばれることがあるのです。そして、教会によっては、そうした「奉仕」がむしろ主目的化されてしまい、「教会」と「奉仕」との関係が逆転するというような事が起こるのです。


 本来、「奉仕」とは「礼拝奉仕」という言葉にみるように、それはあくまでも主である「礼拝」を行うための、補助的なものが「奉仕」であり、「奉仕」とは神と人とに仕え、「礼拝」(あるいは教会)を円滑に運営するための縁の下の力持ちであるはずなのです。

 ところが、そうした「奉仕者」が、あたかも「教会員の模範的あり方である」とされて目的化し、「奉仕(者)」のために「教会」が存在するというような現象に至るのです。より、具体的に言えば、「奉仕者の活躍の舞台として礼拝や教会が存在している」というような状況です。

 教会において、奉仕は礼拝を守るための補助的なサポーターではなく、むしろ、例えば「賛美リーダー」という言葉に見ることができるように、それはまさに「奉仕者」ではなく「牽引者」なのです。



 わたしが神学生時代、実践神学の先生から「牧会には馬の牧会と牛の牧会とがある」と教わりました。

 「馬の牧会」とは、まさに牧師が馬の騎手として、馬に鞭を入れて、あたかも信徒を急かし立てるかのように牧会を行うあり方を言います。

 それに対して「牛の牧会」というのは、通常は牛の歩む歩みに任せ、しかし、肝心なところにおいては少しだけ進行方向を調整するというあり方を言います。

 どちらがどうというわけではありませんが、わたしは教会奉仕はまさに縁の下の力持ちであり、それは決して表に出ることはないけれども、しかし、教会の運営を円滑に行う上では大切な役割であると認識しています。


 わたし自身の牧会においては、「教会の運営は最も歩みの遅い人に合せる。」ということを基本としています。

 すなわち、教会は一種の「電車ごっこ」のようなもので、当然、教会の歩みはそこに加わる方々によって決まりますが、「教会のレベル向上」「より宣教的な教会を目指す」ということを教会の目標として掲げることを「電車ごっこ」になぞらえるのであれば、それは「教会の最低スピードを上げよう」というものであるのです。

 ところが、教会に集う人は高齢者もいれば小さい子もおり、また男性もいれば女性もおり、また健常者もいれば身体的・精神的にハンディキャップを持った人たちがいるのが教会であるわけです。

 当然、そうしたメンバーによる「電車ごっこ」で、みんなの走るスピードを上げれば、そうしたスピードについていけずに脱落する人が出て当然であるわけです。

 しかし、スピードを上げることによって、そこに新たにそうした「速く走ることのできる人」が加わってくることもまた真実ですので、結果、どうなるかと言えば、「電車ごっこ」のスピードは限界まで上がっていき、どんどん脱落者を出しながら、結局のところ最終的にはスピードも頭打ちということになるのです。

 たとえスピードを競うレーシングカーであっても、「減速の必要はないのでブレーキはいらない」ということにはなりません。

 安全装置のない自動車は凶器と一緒で、だれもブレーキの壊れた自動車に乗りたいという人はいません。

 ところが、こと教会のことになると、案外にもスピードを上げることには熱心だけれども、ブレーキのことにはまったく無関心ということが少なくないのです。

 「ブレーキがない自動車」と聞けば、誰もその自動車に乗ろうという人はいません。しかし、「ブレーキがない教会」と聞いても、それがどのように危険なのか、それが正しいのか間違っているのか、誰も判断すらしないわけです。

 逆に、かえって「この教会にブレーキは不要だ」と、そうしたブレーキ役の教会員を切り捨ててしまうような事まで起こります。そうなってしまっては、もうその教会は自分たちの意思で減速することも止まることもできません。結果、教会運営において出くわす様々な問題に対して教会ごと体当たりを繰り返し、結局、その度に牧師も教会員も傷つきながら、教会運営が減速するということになるわけです。

 そこにあって牧師は「神さまの与えられた信仰の試練だ」と言って、自分たちの犯した罪、過ちを認めることなく、そうしたことには目をつむっておいて、結局のところ自分たちの罪をひた隠しにするのが関の山なのです。



 教会員の中にいろいろな賜物を持つ人がいることは別に悪いことではありません。しかし、パウロが次の聖書箇所で語っているように、そうした教会がスピードを上げようとする行為に対して、それに対して冷静にそのことを見極め判断する、すなわちブレーキをかける役割を持つ貧しい人や病気の人も、本当の意味で安んずることのできる場であることの方が信仰的に極めて重要なのです。その意味では「弱さ」もまた神さまからの賜物なのです。

コリントの信徒への手紙1 12章21~22節
 「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」

 教会は、キリスト教宣教ということを他の教会、あるいは宗教団体と競うために活動しているのではありません。

 キリスト教会は、この世において、イエス・キリストの愛に基づく信仰共同体として、正しく神を礼拝するところとして、この世において宣教を行うのです。

 当然、そうしたキリスト教会は、常に「信仰的に正しくあること」が求められます。それは「キリスト教を信じているから正しい」のではなく、「イエス・キリストを主として、神の言葉に従うからこそ正しい」のです。

 キリスト教会が、神の言葉であるイエス・キリストに従うとは、もちろん、キリストの愛に基づく隣人愛の実践が行われていることが前提とされています。そのような教会には「要らない」人はひとりもなく、「強い人」はその強さをもって「弱い人」に寄り添うはずであるのです。当然、そうした教会の歩みは速いはずがありません。

 それはキリスト教会において大切でありながら、今日、案外にも忘れられているのではないかと思うのです。


フィレモンへの手紙1章6~7節
6)わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。
7)兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。

 フィレモンが主催する家の教会の働きは、ここに具体的な事柄としては紹介されていませんが、しかし、それは7節において「聖なる者たちの心があなた(フィレモン)のお陰で元気づけられた」とあるように、それはまず「信仰」に基づくものであり、「聖なる者たち」で言われている、すなわちフィレモンの家の教会につながる兄弟姉妹を大きく慰め、元気づけるものであったことがわかるのです。

 ここでフィレモンを、まさに教会の牧師として考えるのであれば、フィレモンが主催するこの家の教会は、まさにフィレモンの信仰、すなわち牧師が信徒ひとりひとりに対してまさに祈りをささげ、また信仰による交わりによって、互いに慰め励まし合う、非常に模範的な教会であることがうかがえます。

 もちろん、パウロにしてみれば、フィレモンに対して、かなり無理なお願い(逃亡奴隷であるオネシモを赦し、しかも奴隷の身分から解放してやり、信仰を同じにする兄弟として迎え入れなさいというもの)をする上で、こうした一種のお世辞とも取れることも確かです。

 しかし、それがたとえお世辞であったにせよ、パウロが言っていることは全く嘘ということではありません。

 キリスト教会がキリスト教会である為に、まさに牧師は「信徒からたてまつられる存在」ではなく、むしろ、信仰を同じにする兄弟として、当時の社会的身分を越えて誰とでも等しく、むしろ、愛する兄弟姉妹のために、「牧師はすべての教会員に仕える者」として、その働きに準じなければならないのです。

 教会においては牧師も奉仕者も、すべての教会員に仕えることが職務であり、牧師や奉仕者に教会員が仕えるのではないのです。そして、牧師や奉仕者の仕えに対して、教会員は感謝をもって、喜びながら神を礼拝することを行うのです。

 キリスト教会はこの関係を間違ってはなりません。


フィレモンへの手紙1章16~17節
16)その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
17)だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

 オネシモはフィレモンにとってみれば、自分に対して損害を与えたばかりか、自分の下から逃亡した憎むべき奴隷でありました。しかし、今や、その出来事は、オネシモの改心という出来事によって、新たな展開、すなわち信仰の挑戦となったのです。

 フィレモンの信仰的な正しさは、パウロによって、これでもかというほどに強調されていますが、しかし、それほどの信仰をもったフィレモンであっても、パウロがこのようにして重ねて表現しているように、その事は容易ではないのです。

 昔の時代劇で、「罪を憎んで、人を憎まず」というようなセリフを聞いたことがありますが、教会の中で大事なのは、そうしたことが本当に実践されているかという点が実に大切なのです。

 そして、そこにおいて大切な視点が、牧師も、奉仕者も、すべての人がそうした共通の理解に立って実践されているということです。



 時に、教会の中では「罪」ということばが、「未信者」や「他宗教の人」に対して結び付けられて理解されているような場合に、こうしたことが教会の信仰を捻じ曲げてしまいます。

 それはどういう事かと言えば、キリスト者は、すなわち牧師や信徒は「イエス・キリストを信じている」という事によって、「自分たちは既に罪人ではない」という理解になってしまっている場合に、結果的に「わたしたちは信仰者であるから正しい」といういような理解になる場合です。

 たとえば、「キリスト者が信仰によって罪から自由になっている」とは、決して、「キリスト者は罪を犯さない」ということではありません。

 これはキリスト教信仰において誤解を受けやすい点ですが、「罪から自由」というのは、「罪を犯さない」ということではなく、「キリスト者は罪を犯した場合にも、罪の誘惑に打ち勝って、自由に、イエス・キリストの前に罪を告白することが可能である」という意味なのです。

 その意味で、たとえ信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになったとしても、罪を犯す可能性を有する罪人であることに変わりはないのです。

 ただ、決定的に違うのは、キリスト者は、そうした罪を犯したとしても、イエス・キリストを信じる信仰において自身の罪を告白し、罪を悔い改め、神の御前に正しくあることができるというだけなのです。


 ところが、そうではなく、むしろ「教会の中」というのが、「神の御前に正しい者たちの集まり」という、一種の治外法権的な場と理解され、罪として理解されるはずの事柄が、「教会の中で起こるのは正しいこと」「世の中のことは間違っている」というような、教会の中において、神の正義が行われず、むしろ、「自分たちが正義」ということがまかり通りことが起こるのです。

 「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(コリントの信徒への手紙1 14章33節)

 神の御前において教会が正しい教会、イエス・キリストの体なる教会であるなら、当然、それは教会の中において秩序が保たれているはずです。しかし、その「秩序」というのは、決して、牧師を頂点とする、あたかも軍隊のような秩序ではありません。

 教会の中の秩序が何によって保たれるのかといえば、上記の御言葉にあるように、「神の平和」であり、それは教会員一人一人がイエス・キリストの罪の赦しによって、互いの間に隣人愛が行われているというような秩序であり、そして、そうした信仰的な交わりを通して、互いに相手を尊重し合い、何が神の御前に正しく、何が神の御前に間違っているのか、そうした成熟した教会へと、神の祝福によって変えられていくことが大切であるのです。

 当然、それは、牧師のための教会でもなく、信徒リーダーのための教会でもありません。

 なぜ、教会の中で「リーダー(指導者)」という言葉が使われるようになったのか、わたしはその経緯を知りませんが、むしろ「賛美をリードする」というのは、「(みんなを)引っ張る」ではなく、「(みんなの声を)支える」ということだとわたしは理解しています。

 わたしが教会で奏楽をする時に注意しているのは、「演奏すること」よりもむしろ「みんながどのように歌っているか」を聞くことです。

 そして、奏楽者はみんなの歌うスピード、またみんなの歌う声の大きさに合わせて、音量を調節したり、曲のスピードを調節するのです。それは、自分が奏楽できる、上手に演奏できることを聞かせることに主眼があるのではなく、礼拝奏楽が奏楽であるためには、「みんなが歌いやすいように伴奏をする」ということが最も大切なポイントなのです。でも、奏楽者がみんなそうできるわけでもなく、またそうしなければならないということでもありません。

 牧師が声を大きく、みんなのペースで歌えば、その声を奏楽者が聞いて、そのリズムに合わせることも可能なので、指揮棒を振るわけではないですが、礼拝式の中では、歌うことによって奏楽者のリズムを調整するということもできるのです。

 だからこそ奏楽者は、別に、音楽家である必要もないし、指一本でもいいわけです。場合によっては、讃美歌の出だしの音を出すだけでも、それは伴奏になるわけです。賛美は、奏楽者だけが、賛美リーダーがするものではなく、会衆全員がひとつになっておこなう共同作業なのです。

 それは心をひとつにして神の尊さを褒め称える、感謝することが目的であって、上手に歌うことに主眼があるわけではないのです。

 
「ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。」(フィレモンへの手紙1章22節)

 パウロはフィレモンに対して、自分がそちらに伺うことを約束します。

 「信仰」とは「信頼」であるといった神学者がいますが、まさに教会が教会であるために必要なのが、この互いに信頼するということであると思います。

 キリスト者は、まさに神を信じるものである信仰者である限りにおいて、まさに「相手を信頼する者」であり、また「相手の信頼に応える者」であることが求められるのです。なぜなら、それは神に対する信仰において、真実をもって、隣人愛の実践を行う者であるからです。

 ところが人間は救われてなおも罪人である限りにおいて、「信頼する」ということは、「わたしは絶対に間違いを犯さないから、わたしを信じなさい」ということではないのです。

 牧師が教会の中で間違ったことを行い、信徒に対して「わたしを信頼しなさい」と言っても何の説得力もありません。

 そうではなく、ここでいうところの「信頼する」とは、「その人の人間性」を「信頼する」のではなく、むしろ「その人が神の御前において罪を告白し、罪を悔い改める者である」ということを「信頼する」のです。

 当然、教会の中で牧師が間違ったことを行った場合には、そのことの告白と悔い改めがなされなければなりません。間違った時に直ぐに謝るということは、習慣づけていないとなかなか簡単ではありません。特に、牧師のように集団の代表というような状況に置かれればなおさらです。

 パウロはフィレモンが、オネシモの逃亡行為(損害を与えたことも含めて)に対して尋常ならざる怒りを心の内に秘めているかもしれないことを十分承知しています。 そして、だからこそ、パウロはそうしたフィレモンが、怒りによって自分を見失い、オネシモを処刑するかもしれないことを危惧しながら(当時の常識ではオネシモは殺されても普通であったから)も、しかしなら、同じイエス・キリストを信じる信仰者として、「信仰によってオネシモの罪を赦し、信仰によってオネシモを愛する兄弟として迎え入れてくれるであろう」ということに「信頼」しているのです。

 当然、フィレモンはこの手紙を受け取って、そうしたパウロの「信頼」に対して「信仰的決断と行動をもって応える」義務があるわけです。

 キリスト教会とは、まさにそうした相互の信頼と信頼に対する誠実な応答が求められているのです。

 そして、来るべき、パウロがフィレモンの家の教会に訪れた時に、フィレモンとオネシモと共に、同じ、主イエス・キリストによって救われた者同士が共に同じ食卓について、喜びを分かち合えるであろう、その時を願っているのです。
 


 フィレモンの手紙のこの後、実際にフィレモンがオネシモをどのように扱い、パウロがどうしたか、その後のことが書かれていません。

 みなさんは、この結末がどうなったか分かるでしょうか?


 
 この文章は手紙であるからこそ、結末が記されていないということは当然なのですが、そうした意味において、この手紙を、ひとつの物語としてとらえるときに、この手紙は、まさに今日の教会に対して語られている神の言葉なのです。

 パウロがわたしたちの教会を訪れた時に、パウロはわたしたちの教会のことを喜んでくれるだろうか?

 その視点は非常に重要です。

 聖書の言葉を理想論として、わたしたちの教会とは無関係だと結論することは非常に簡単です。

 しかし、キリストの教会は、聖書の言葉を通じて、今も、そのように信仰を問われ続けているのです。

 その意味で、教会の宣教が目指すものは、「キリスト教の拡大」ではなく、「信徒獲得」でも「献金倍増」でもなく、ただ、礼拝を通じて自分たちが神の御前において正しくあろうとすること、神の御前における人間としての成熟であって、それ以外ではないのです。

 そうした、わたしたちが人間としてまさに本当の意味において人間になろうとすることが、神の御心としてわたしが聖書から読み取っている神の言葉なのです。


 コリントの信徒への手紙1は全体が長いのでまず、今回は1~2章について話を進めたいと思います。

 まず、コリントの信徒への手紙1 章11節に「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」(1コリント1:11)とあるように、事の発端は、コリント教会の教会員であるクロエの家のある人物からパウロに対して、コリント教会に発生したある問題についての相談がの連絡があったことにはじまります。


 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。(1コリント1:12~13)

 そのクロエの家のある人物からの知らせが記す当時のコリント教会の問題は、いわば「内部分裂」であって、コリントの教会の中に、例えるならパウロ派、アポロ派、ケファ派(ペトロ派、ユダヤ主義キリスト教)、キリスト派(パウロやアポロ、ケファといった人間ではなく、キリストを主とする派)という具合に、キリストの体である教会がいくつにも分けられてしまったような状況であることをパウロに伝えたのです。


 さて、なにやら話が複雑な様相なので、少し、使徒言行録などの記述にみるコリントの教会の成立について簡単に説明します。

コリントの信徒への手紙1に見る教会


 まず、コリントの信徒への手紙1の成立について、なぜ、このような手紙をパウロが記したのかを図にしたのが上のものです。①~⑦というのは出来事の順番を指しています。

 この説明をしますと、まず、そもそもコリントの教会のはじまりは、もともとローマのユダヤ人会堂においてメシア=イエス運動をおこなった首謀者に対して、当時の皇帝クラウディウスがローマ市からユダヤ人を追放するという出来事が起こります。

 その時、メシア=イエス運動の首謀者にアキラとプリスキラという夫婦がいたのです。二人はローマから追放され、活動の場を求めてイタリア州からアカイア州コリントの町へやってきたのでした。

 その時、パウロはマケドニア州のテサロニケから始まって宣教旅行を行っておりましたが、ユダヤ人の反感を買い、追われるようにしてアテネ、コリントと移ってきたのでした。

 そして、まさにこのコリントの町においてアキラとプリスキラ、そしてパウロが信仰を同じにする者同士(つまり、アキラとプリスキラはパウロの協力者であって弟子ではない)としてコリントの教会を興すのです。それが①の出来事です。

 その後、パウロとアキラとプリスキラは海をわたり、アジア州エフェソに赴きそこでエフェソ教会を指導するようになるのです。


 パウロはその後、エフェソから別の場所へと宣教旅行で移っていきます。それが③です。

 しかし、アキラとプリスキラはエフェソの教会に留まり教会を指導するのです。ところが、そうしている内に、エジプトのアレキサンドリアから聖書に詳しいユダヤ人雄弁家のアポロという人物がエフェソへとやってきます。そして、アポロがメシア=イエス運動を行っているという噂を聞きつけ、アキラとプリスキラはアポロを招いて、「聖霊による洗礼」を教えるのです。それが④です。


 さて、その後、アポロはもともと「アカイア州に行きたい」という願いを持っていたことから、アキラとプリスキラは、アカイア州にある教会であるコリントの教会に手紙を書き、アポロに手紙を持たせて送り出したのです。

 ところが、コリントの教会におけるアポロの活躍は、決して、良い結果だけをもたらしたわけではなかったのです。それが⑤です。

 コリントの教会の中に分裂の危機が訪れ、それに心を痛めたクロエの家のある人物が、そうした状況をパウロに知らせた。それが⑥です。

 そして、パウロはそうしたコリントの教会の状況を何とか信仰的に解決しようと、コリントの信徒への手紙1を記したのです。それが⑦です。


 さて、パウロによるコリントの信徒への手紙が書かれたいきさつはおよそ上記の通りとなります。

 なお、パウロがこの手紙を書くきっかけとなった「雄弁家アポロ」については、以下のところにまとめてありますので、そちらをご覧ください。-> 「問題宣教者アポロ」



 まず、上記の話の整理をします。

 パウロのコリントの信徒への手紙に直接個人名として登場する「アポロ」という人物についてですが、彼はエジプト・アレキサンドリア出身のユダヤ人で、聖書(旧約聖書)に詳しい雄弁家であり、アレキサンドリアでユダヤ教の中でも、特に、イエスをメシアとして信じる信仰を受け入れ、その信仰を持ったのです。そして、彼には、イエスをメシアだと信じる信仰の宣教者として大都市での宣教を志していたのです。

 その後、アポロはアレキサンドリアからアジア州・エフェソにやって来て、そこでユダヤ教の会堂に行き、イエスこそがメシアであることをかなり強烈に人々に教えたのです。そういう意味では、アポロは非常にカリスマ的な要素を持った人物であることがわかるのです。


 当時、パウロが直接、アポロと接触があったのかはわかりませんが、パウロと一緒にコリントの教会からエフェソの教会へと移ってきたアキラとプリスキラ夫妻は、このアポロの才能に目を留め、アポロに対して信仰的な指導を行い(アポロ自身は洗礼者ヨハネの洗礼しか知らなかった)、その後、アポロの要望を受けて、アカイア州のコリントの教会に手紙を書き、その手紙を持たせてアポロをコリントの教会へと派遣したのでした(パウロはおそらくはこの事を知らないか、直接は関わっていないのでしょう)。

 なぜ、パウロとアポロの接触がないのかと言えば、パウロがアポロと接触していたのであれば、おそらく、コリントの教会へアポロを派遣する以前において、その問題点を指摘できていたものと判断されるからです。


 かくして、アポロはコリント教会に行き、必ずしもアポロに起因するものが全てではないですが、そこで教会の中のいろいろな信仰の問題が起こり、パウロはそうした当時のコリント教会の人々が直面した信仰的な問題に対して、パウロは手紙を記して、ひとつひとつの問題に対して信仰的指導を行ったというわけなのです。



 

 さて、ここまで来てコリントの信徒への手紙の背景について、ご理解いただけたのではないかと思うのですが、パウロ個人としては、つまりはそうした理由によってこの手紙を記したのです。

 しかし、最終的に、キリスト教の歴史において、「キリスト教の聖典」という枠組みの中にこの文書が採用されたのはなぜかということを考えるのであれば、すなわち、こうしたコリント教会における一種の不祥事のような事柄が、以後のキリスト教会においては当然反省されていてしかるべき、という教訓としての意味があるということなのです。

 そうした「歴史的な教訓に学ぶ」「先人の犯した罪とその反省に学ぶ」ということが、すなわちキリスト教の信仰において大切なものであり、「罪の悔い改め」とは、まさにそうした「同じ失敗を繰り返さない」ということなのです。

 聖書はそういう意味では全体として、「人間の失敗(人間の罪)」ということを反省し、そうした「過ちを二度と犯すことのないように」という、信仰の先達たちの慈愛に基づいているわけです。


 つまり、「悔い改め」だとか、「聖霊の導き/満たし」「きよめ/きよめの生涯」「キリストの内住」「聖化」とか、こうしたいろいろな表現はありますが、そうしたものが具体的には何を言っているのかという、具体的には「神の言葉に耳を傾け、日々自分の生き方を(イエス・キリストの御名によって告白し)反省する」ということであるわけです。そういう意味では「反省しないキリスト者」というのは当然有り得ないのです。

 牧師は信徒に先だって自分自身がまず神の御前に反省する者であり、そうした牧師の姿勢に信徒がならい、そのようにしてキリストの教会は形成されるのです。



 では、以下に御言葉を引用します。

「こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(1コリント1:6~7)

 この言葉は、パウロが「挨拶の言葉」として記したものです。

 パウロは1コリント12章12節以下において、キリストの教会を「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」(1コリント12:12)と言っているように、教会は全体としては、地上においてイエス・キリストを証するひとつの体であり、しかし、それは一つの体であるけれども、そこには「多くの部分から成り」、すなわち色々な賜物を持ったイエス・キリストを証しする教会員ひとりひとりによって構成されることを説明しています。

 つまり、そこには様々な賜物を持ったキリスト者がいるわけですが、問題は、教会はそうした賜物を持ったキリスト者が、全体として協調し、秩序を保ち、具体的には地上において、例えば、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章34~35節)にあるような「これこそがキリスト教会」としての証をすることにあるのです。

 当然、教会には子どももいれば青年もおり、壮年、高齢者、男性、女性、健常者に闘病者、外国人・・・と、すなわち地上における教会とは、こうした現実の社会の縮図のような、まさに教会の中にイエス・キリストがご隣在くださり、今もなお、そうした人たちに対して、その重荷・苦しみ・悲しみを知ってくださり、そうした兄弟姉妹に対して、祝福と祈りをもって応えてくださるものであるのです。

 そういう意味では、教会は、ペトロが神殿の門において足の不自由な人に対して語ったように、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(使徒言行録3章6節)と、「教会が貧しい」ということは本質的な問題ではないのです。

 教会が持っているもの、すなわち教会がイエスさまからいただいたものは現金ではありません。教会がイエスさまから頂いたのは祝福の言葉と祈りであって、まさに「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイによる福音書10章8節)とイエスさまが言われたように、教会がその宣教の核心において代価を求めるということは、絶対的にあってはならないのです。あくまでも、そうした祝福を受けた方が感謝の気持ちとして教会に捧げてくださるものがあれば、教会はそれを感謝して受け取ればよいのです。それは必ずしも現金ではなく、当然、別の形のものである場合もあるわけです。ある人はそれを自分が育てた野菜で返してくださる場合もあるでしょうし、何もないので感謝の祈りで返してくださることもあるでしょうし、それはその人の感謝の気持ちがあればイエスさまは十分であると言ってくださるでしょう。

 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」(ルカによる福音書17章15~16節)

 当然、イエスさまはこの人物に対して「感謝」以上のものを求めてはいないでしょう。



 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(1コリント1:10)

 次に、1章10節以下のところでパウロが示すキリスト教会のあり方というのは、すなわち「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」という事に集約されます。

 イエス・キリストを信じる者は当然、イエス・キリストの約束した霊、すなわち聖霊を受けている者であり、そうした人物は当然の事として、イエスの語られた掟である「あなたの隣人を愛しなさい。」という隣人愛の実践こそが、その基本であるわけです。

 それはもちろん、人間的努力によって実現するものではありませんが、しかし、各人は、聖霊の助けによって隣人愛を実践する者として変えられていくことを願い求めることが要求されているのです。なぜなら、イエス・キリストが十字架上でその命を落とされた、その出来事が、まさにキリスト者に対してそのことを御心の内に命じているからです。

 そして、そうしたイエス・キリストにつながる一人一人がまさに、「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合」うのがパウロの願い求めるキリスト教会の姿であるのです。

 しかし、それは決して、牧師を司令官として、その下に各種リーダーがいて、その下に平信徒がいるというような権威主義的なピラミッド型の教会ではありません。

 パウロはあえて教会の仕組みを、「キリストの体」というふうに表現しています。当然、それは当時知られているローマ軍のような軍隊構造ではなく、「キリストの体だ!」ということであるのです。教会はひとりひとりがみんな異なり、しかし、みんなが異なるにもかかわらず、それはイエス・キリストの愛によって、固く結び合っているのです。当然、それは「できる人だけの教会」ではないわけです。




「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1コリント1:18)

「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1コリント1:21)

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:26~29)

 パウロにとって「宣教」とは何であるか? それを端的に示しているのがこの御言葉です。

 パウロの「宣教」とは、①「十字架の言葉による」ものであり、②「愚かな手段」であり、③「(神の)召し」によるものであり、④「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」のものであるということなのです。

 これはどういうことかと言えば、まず①について「十字架の言葉による」とは、例えば、以下のイエスさまの言葉に見ることができます。
 
 『それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』(ルカによる福音書9章23節)

 キリスト者としての信仰生活は、すなわち「日々、自分の十字架を背負う」事としてイエスさまは言っています。

 それは具体的には、「毎日、聖書を読み、そこで示される自分の罪を認識し、イエス・キリストの御名によって罪の赦しを祈り(無力なわたしを助けてくださいという祈り)、そうした罪の悔い改めを毎日行うこと」であるのです。

 つまり、パウロの言う「宣教」とは「信仰の勧誘」ではないのです。

 ②の「宣教」が「愚かな手段」だとは、まさに「キリスト教の宣教とは、自分が罪人であることを神と人との前において証しすること」だからです。そこには「賜物」などというものは一切関係がないのです。


 そして、「宣教」は③神の召しによるものである、というわけです。

 わたしたちもそうですが、わたしたちがキリスト者になったのは「勧誘されたからか?」というとそうではありません。

 確かに目に見えるところにおいて、そうしたきっかけとして教会で行われる音楽会や伝道集会などの様々なものは一定の効果はあるかもしれません。しかし、パウロはそうした「人間的勧誘行為」は全く問題にしていません。

 あくまでも、その人がキリスト者になるのは神の召しによるものであって、教会がそうした人たちのために行うべき行為は、当然、「勧誘」ではなく、「(とりなしの)祈り」によるものであることが読み取れるのです。

 そして、そうした「宣教」が「神の召し」によるものであることの重要性が、結論的に語られている「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:29)という言葉にあるとおりなのです。

 教会がキリストの体であるとは、パウロが12章で語っているように、体の部分に過ぎない目や手が、誰よりも目立つ・尊重されるというような事があってはいけないことを言っているのです。当然、牧師と言えども、それはキリストの体の一部であって、決してキリストの頭などではなくむしろ体のなかで一番汚れ役である「足の裏」であることが求められるのです。

 「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコによる福音書9章35節)

 それが、キリスト教会の価値観であり、イエス・キリストが弟子たちに示された「一番」なのです。



『神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』(1コリント1:30~31)

 そして、そうした教会が誇るべきはイエス・キリストであり、教会の中でイエス・キリスト以外が誇られることがあってはならないのです。

 

「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」(1コリント2:4~5)

 パウロはコリント教会の人々に自分自身の経験として、まずコリントに訪れた時のことを証します。

 パウロはそれを「“霊”と力の証明によるもの」と言っていますが、それは当然、パウロ自身の持つ人間的な魅力、たとえばカリスマ的なもの、あるいは人徳のようなものではなく、あくまでも聖書の御言葉に基づく、パウロ自身の罪の悔い改めというキリストを証する者としての生き方によるものであることを言うのです。

 実際、パウロに対して当時の教会の人々が思ったのは「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(2コリント10:10)と言う者たちがいるほどです。

 その意味で、パウロの人間的な外見は、決してカリスマ的な特徴があるわけでもなく、むしろ、弱々しい感じで、しかもその話も、他人を惹きつけるような魅力あふれるものではなかったのです。

 こうしてみると、「パウロの宣教」とは、まさにパウロ自身が自分の罪に対する弱さを皆の前で告白し、まさにそうしたこの世において弱く、傷ついた者たちが、まさにイエス・キリストの罪の赦しの経験を通じて、まさにパウロをはじめとしたコリント教会の人々が「自分の十字架」を担いつつ、日々、イエス・キリストの言葉に聞き従うという信仰者としての日常生活を通じて、隣人を(神が)感化させてくれるというものであったということなのです。


 ところが、今日のキリスト教界においては数量的な増加、教会(あるいは宣教)の拡大ということが、まさに「神の御心である」として、多くの人がその事について疑いを持つこともなく、まさにサタンの誘惑に対して盲目的に追従してしまっている現状があるわけです。

 特に、パウロのそうした「宣教」ということを考慮すれば、当然、「信仰継承」とは、つまりは「使徒継承」であって、それは「親から子」という人間の血肉による信仰の継承はありえないのです。

 確かに、父親が牧師、あるいはクリスチャンであり、その息子が牧師、あるいはクリスチャンになるケースもありますが、それは基本的には、ひとりひとりがイエス・キリストの御前において自分の十字架を担うという信仰告白を通じてはじめて可能であり、むしろ、そうした血肉に拠らないからこそ、教会は、いつの時代においても、また全く教会が無い場所であっても、神の御心であれば、無の状態から教会は興されるのです。そして、それを興すのは神であるのです。

 確かに、教会を実際に興すのは、牧師であり、また牧師と志を同じにする信徒の集まりであるわけですけれども、しかし、それは信仰的には、人間の努力として興すのではなく、「神の御心において興される」ものであるのです。その部分を、わたしたちは間違えてはなりません。

 わたしたちが地上においてキリスト者として求められているのは「神を礼拝すること」であって、わたしたちの日常の信仰生活は、「日々、自分の十字架を背負うこと」であるのです。

 そして、その教会が無くなるのも、また興されるのも、すべては「神の御心」であり、それは「人間(牧師)の願い(考え)」ではないのです。 



『わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。』(1コリント2:12~16)

 神から与えられる聖霊は、いわゆるこの世的な「霊(感)」「スピリチュアル」というようなものとは決定的に異なっています。

 「聖霊の満たし」「キリストの内住」など、多くの人がそれを聞けば、なにやらシャーマニズム的な要素がキリスト教信仰にもあるものと思われるかもしれませんが、そうではありません。

 パウロが「宣教を愚かな手段」と呼んだように、キリスト者が聖霊の働きとして聖書の御言葉を通じて知ることのできるものは、決して、「精神的な昂揚感」のようなものではなく、むしろ、「人間の罪を明らかにするもの」であるのです。

 「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。」とは、まさにそうした聖霊の助けにより、聖霊の働きによって、わたしたちが聖書の御言葉から自分の罪を指し示すその事柄は、当然、「自分の汚点」でもあるので、普通の人はそれを受け入れることはできないのです。むしろ、わたしたちは幼い頃から「強くなること」に憧れ、人間的に「強くなること」を教えられて成長するのですから、そうした「自分の欠点(自力では克服が難しいので)」などは、むしろ「見ないようにする」ということが当たり前なのです。

 当然、「欠点は見ずに、長所を伸ばす」ということが人間が人間として成長する時に大切だと言われるのです。

 ところが、キリスト教の信仰は、むしろ、「人間の長所は見ずに、欠点(自分の罪)を認めて、神の助けを求める」ということですので、明らかに「常識からすれば非常識だ」ということになるわけです。

 では、パウロはそうした「キリスト教の常識」は「霊によって初めて判断できるからです。」と言っていますがそれはどういうことでしょうか?

 わたしたちが(聖)霊によって何を判断できるのかといえば、それは当然、「自分の罪(弱さ/神の助けが必要な部分)は何であるか?」ということです。

  すると、わたしたちのイエス・キリストの名による罪の告白は、当然、わたしたちが神の御前において、イエス・キリストの御前において、自分の罪を、一種の公開裁判を受けているのと同じですから、当然、その人に対して聖霊の働きを通じて語られている「罪」とは、まさにそれは「神の言葉」であり、「神さまがその人に対して直々に語られた判決」であり、当然、『その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」』とパウロが言っているように、自分の罪を告白し、罪を悔い改める人物を、「人間が裁く」ことはできないのです。

 この「罪の告白」と「悔い改め」こそが、キリスト者の命であり、信仰生活であり、そして、教会が教会であること、牧師をまさに牧師たらしめるものであって、パウロがコリント教会の人たちに対して信仰的に大切なこととして教え伝え、そして、今日のキリスト教会は、まさにそうした聖霊による価値基準・判断基準によって、この世においてイエス・キリストの救いによって教会であり続けることができるのです。


 

 今回はコリントの信徒への手紙1 3章~4章をみます。


1)兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
2)わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3)相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
4)ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
5)アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
6)わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
7)ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。


 さて、キリスト教の信仰は一足飛びに深まるものではありません。
 また、教会に通うようになって、年数が経てばそれだけ信仰が深まるのかというと、パウロはそうだとは言いません。クリスチャンも教会も、共に成長するものであるというわけです。

 このコリントの教会の人たちの場合でいえば、アポロというカリスマ的な宣教者がやってきたことにより、コリントの教会は一変しました。それが良い方へ一変したというのであれば良いのですが、パウロに言わせればむしろ逆だというわけです。

 パウロは、まずアキラとプリスキラたちと共にコリントの教会の立ち上げを行い、当時、まだコリントの教会もその教会の人々も信仰的には「あかちゃん」だと表記しています。

 そして、パウロによって、あるいはアキラとプリスキラたちによって、信仰的な養育(指導)を受けるわけですが、そのようにしてキリストを信じる信仰者として「大人」になったかといえば、そうではなかったというわけです。


 ここにパウロのキリスト教信仰、あるいは教会についての理解が読み取ることができます。

 それはどういうことかと言えば、キリスト教信仰とはその信仰の始まりから、「信仰生活を通じて、信仰的成長、言い換えるなら信仰者として成熟することが求められている」ということです。

 しかも、それはいわゆる「キリスト教の知識が増し加わる」ということではなく、パウロはそうした信仰に基づく、キリスト者としての信仰生活、教会生活という非常に具体的な、実際的な出来事において、キリスト教信仰が身を結んでいなければならないとみているのです。

 それはコリント教会においては具体的に、「教会の中でねたみや争いが絶えない」という現実的な出来事において、信仰的な成長、あるいは「教会であるこ」との実践が全くできていなかったことを意味しています。

 すなわちわたしたちはキリストの救いに接し、キリスト教徒になるわけですが、問題は、むしろその後の「キリスト者としての生き方」と、そうしたキリスト者の共同体である「キリスト教会」にあるのです。


 しかし、そうしたパウロが指摘する問題とは、決して、個々のキリスト者が「明確に神に逆らおう」として発生した出来事ではなく、むしろ「キリスト者が人間的に神に近づこうとした」結果として、結んだ人間の罪の実、すなわち偽善が引き起こした教会の不和であるということにあるのです。

 多くの場合がそうだと思いますが、キリスト教信仰に触れ、キリストの救いにあずかった人物が、意図的に「悪を犯そう」とは考えません。むしろ「キリストに倣って善を行おう」と考えるのです。

 ところが、問題はそのようにしてキリスト者が求める「善」が、実は「偽善」であったということにあるのです。

 使徒言行録に記されていますがアポロは雄弁家であり、パウロに比べれば、そのカリスマ的な存在感はパウロをはるかに凌ぐものであったことが考えられます。

 そうした、アポロのカリスマ的な牽引力に、コリントの教会の人々は大いに啓発され、そこで大きな働きをなしたのです。

 「それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たち(アキラとプリスキラたち)はアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着く(アキラとプリスキラたちが建てたコリントの教会)と、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。」(使徒言行録18章27~28節)

 ところが、一見「大成功」に見えたアポロのアカイア州の(コリントの)教会での成功は、パウロにしてみれば「大失敗」であったわけです。

 パウロはこのコリントの信徒への手紙において、コリント教会の人々が、キリスト教信仰の基本から離れてしまって、むしろ、アポロのカリスマ的で力強い宣教に大いに心を惹かれたわけです。

 キリスト教の信仰の基本が、「イエス・キリストの御前において自分自身の罪を告白し、罪を悔い改める」というものである限りにおいて、キリスト教の信仰で「人間のカリスマ性」というような、人間の性質(賜物)は問題ではありません。

 ところが、そうした「激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せた」ような、アポロの「雄弁」というカリスマ性、アポロの人間としての能力、あるいは賜物について、それがコリント教会において一部の人たちから大いに評価されたのです。

 当然、パウロやアキラ、プリスキラたちによって指導を受けた他の信仰者たちは、アポロのような人間的カリスマ性を否定し、よりパウロの教えに忠実であろうとしたわけです。

 しかし、パウロはここで、アポロ派になった人たちが信仰的に問題であるということを主張するのではなく、むしろパウロ派についた人たちも同様に、互いにひとつの教会の教会員として全員が神の御前において、自分たちの罪を悔い改める必要性を説いたわけです。

 パウロは、そういう意味で、自分自身について、あるいはアポロについて、すなわち今日的に表現すれば牧師という存在について、それは教会において尊重されるべき存在であるけれども、しかし、だからと言って、「どの牧師が正しい」という見方を退けるのです。

 わたしたちが仕えるべきはあくまでも教会の頭であるイエス・キリストであり、イエス・キリストの言葉に聞き従う者であることが、キリスト者にとって最も大切なことなのです。

 そして、そうしたイエス・キリストの言葉に聞き従う者は、当然、普段の生活においても、そうした信仰的に基づいた生活を行わなければなりません。イエス・キリストは「互いに愛し合いなさい。」と言ったのであって、「互いに争いなさい。」とは言いませんでした。

 そして、本当の意味において、「イエス・キリストの言葉に聞き従っている」ということがキリスト者にとって大切であり、またそうした一人一人のキリスト者によって、頭なるイエス・キリストにおいて、イエス・キリストの体である教会を形作ることができるのです。

 その意味で、たとえば「隣人愛の実践」は、キリスト教会においてはまさに必須の事柄であって、教会は、あるいは牧師や信徒は、そうした隣人愛の実践が求められているのです。


 当然、それはキリスト教の信仰の基本である「罪の告白と罪の悔い改め」によるものであって、「人間的努力の結果」として実現されるものではないのです。

 具体的に礼拝式の中でハグをしたりというような人間的親密さではなく、あくまでも一人一人が神の御前においてキリストの言葉に従い、真実を持って生きる、そうした罪の告白である証と祈りによって、むしろ、自分がいかに弱い存在であり、神の助けによって生かされているのだという、信仰によって生きる一人一人の神の御前における感謝の姿によって教会は教会として正しく信仰的に成熟することができるのです。


 パウロは、そうした教会が教会として成長することにおいて、「指導者の自覚が大事だ」というだけではなく、もちろんそれも大切ですが、「教会員の一人一人の心がけ、信仰生活も大事だ」ということを言おうとしているのです。

 問題のある教会において、「牧師に問題がある」というケースは良く指摘されますが、パウロに言わせれば、「それを黙認している信徒にも同様に重大な問題がある」という事なのです。

 その意味で、牧師が常に信徒と対等にものを言えるようにできているか。すなわちプロテスタント教会でいえば「万人祭司」の信仰に立つ教会は、そうした点がきちんとわきまえられていることが大事であるのです。

 そして、そうした誰もが等しく、イエス・キリストをこそ主とし、イエス・キリストの言葉に聞き従う時に、教会はまさに神によって正しく成長するのです。



1)こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
2)この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。

4)自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。


 パウロは、このところでキリスト者として大切な事が何であるか、あるいは牧師の資質として求められるものは何かを明らかにしています。

 それは何かと言えば、「イエス・キリストに忠実であること」です。


 「イエス・キリストに忠実であること」とは、牧師にとって、キリスト者にとって至極当然のことでありますが、実は、この「忠実である」ということが実は難しいのです。

 パウロは、キリスト者として、教会を指導する者として、今日的に言えば牧師、あるいは教会指導者として、自分自身が神の御前において「義とされているわけではない」と告白しています。

 それは、言い方を変えれば、パウロ自身も、自分が考え判断し行動しているその事が「神の前に正しい」とは考えていないということなのです。

 すなわち、「牧師が間違うはずがない」とは有り得ない事柄なのです。

 むしろ、「牧師も間違うし、信徒も間違う」のです。


 その意味で、パウロがここで指摘するのは、「キリスト者の正しさ」「牧師の正しさ」「教会の正しさ」とは、いったい何によって実現できるかと言えば、それは当然、「キリスト者の罪の告白」「牧師の罪の告白」「教会の罪の告白」によって、はじめて実現されるのです。

 キリスト教信仰において、キリストの救いが「罪の赦し」である限り、「信仰者の正しさ」とは「罪の告白によって明らかにされる」のです。

 これは実に基本的であり、キリスト教信仰の初歩の初歩ですが、案外にもわたしたち信仰者が忘れやすいものであり、牧師や教会が失いやすいものでもあるのです。


 わたしたちとイエスさまとの関係は、まさにヨハネによる福音書13章に示されているとおり、

 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネによる福音書13章8節

 すなわち、「自分の罪の告白を通じてのみ、わたしはイエスさまと関係がある」と言えるのです。

 当然、十字架のペンダントを肌身離さず身に着けていたとしても、毎週礼拝を守っていたとしても、あるいは毎週、礼拝において奉仕をしていたとしても、「自分の罪の告白をしない」のであれば、それは「キリスト者ではない」ということなのです。

 「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14章27節)


 「自分の十字架を負う」とは、「自分の罪を告白する」ということです。

 しかも、それは洗礼を受ける時に、人生において一回だけ行えば良いということではありません。

 日々イエス・キリストの後に、すなわち日々聖書の御言葉を通じて、聖霊の助けによって示される自分の罪を告白し、罪の悔い改めの日々を送る者が、まさにわたしたちの罪を赦してくださるイエス・キリストとの関わりにおいて、わたしたちを「キリスト者」としてくれるのです。

 当然、一回一回の礼拝も、わたしたちの罪の告白と悔い改めの場であるということです。

 プロテスタント教会では聖餐式の時に「おのおの自分の罪を深く悔い改めなければなりません。」(日本基督教団・口語訳・式文による)と言いますので、その時に、わたしたちは罪の悔い改めが必要だということを耳にします。

 すなわち、そうした「罪の告白を免除されたキリスト者」というのはいないわけです。



 礼拝は、決して、面白くも楽しいものでもありません。それはパウロの時代もそうでした。

 コリントの教会に雄弁家アポロがやってきて、その礼拝はまさにそうしたキリスト教の信仰に基本的なものであるところから、大きく、人間的な喜びや人間の素晴らしさのような、一種、人間主義的なものへと変質化したのです。

 しかし、そうではなく、パウロはあくまでも教会はキリストの言葉に忠実であることを第一としたのです。

 当然、そうした礼拝は面白くも楽しいものでもありません。

 なぜなら、礼拝における「喜び」とは、罪人の罪が赦されたことによる喜びであるからです。

 その真の「喜び」を喜ぶことのできる教会でありたいと願います。 


コリントの信徒への手紙1 5章1~2節、9~13節
1)現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
2)それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。

9)わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、
10)その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
11)わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
12)外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
13)外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」


  パウロは、この手紙に先だって、コリント教会に手紙を記していました。そこで、パウロは「みだらな者と交際してはいけない」ということを書いたようですが、コリントの教会の人たちはその手紙でいうところの「みだらな者」を「教会の外(普通の)のみだらな者」として、すなわち、キリスト者というのはそうした当時の多くの人たちと関係を断って、キリスト者は一般世間と隔絶した、ごく禁欲的な生活を守らなければならないというふうに受け取ったのです。

 そして、それは更に曲解されて、相手が同じキリスト者であれば相手は「みだらな者」ではないので、同じキリスト者間における交際は許されるのであり、たとえば血の繋がった親子の関係における自由恋愛は許されるのだというふうに理解されてしまったのです。

 それは言い方を変えれば、「相手が同じキリスト者であれば近親相姦も許される」というふうにコリントの教会の一部の人は考え、そしてまさにそのような事例が起こったのです。

 パウロはここで、そうしたコリント教会の人たちに対して、そうした理解は誤解であることを説明し、結論として、13節にあるように、「あなたがたがの中から悪い者を除き去りなさい。」と勧めるのです。

 なぜなら、キリスト者とは、イエス・キリストの御前において自分の罪を告白し、罪を悔い改める人物を言います。つまり、そうした人物が集まって神を礼拝するところがキリスト教会であるわけですから、当然、「悪を行うキリスト者」というのは、そうした理屈からすれば存在するはずがないのです。



 ところが現実問題として、教会の中では様々な人間の悪による事件が起こるわけです。

 人間は、イエス・キリストの救いによってその罪を贖われたとして、以後も、救われた罪人でしかありません。当然、キリスト者となった人物といえども罪からまったく自由であるわけではないのです。 しかし、わたしたちは「キリスト者は罪から自由になっている」と信じます。

 では、この「罪から自由」とは具体的にはどういう意味なのでしょうか?

 それは「キリスト者は罪から救われたので、もう罪を犯すことがない」ではなく、「たとえキリスト者であっても罪を犯すことがある。しかし、イエス・キリストが常に共に居てくださる恵みによって、わたしたちは何時でもイエス・キリストの御前に罪を告白することができ、罪を悔い改めて、罪から自由になることができる」ということであるのです。

 パウロは、ここで「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」(13節)と、かなり厳しい言葉で語っていますが、当然、それはパウロにとってみれば本意ではありません。

 本来、このような裁きとしての言葉は言いたくない。しかし、それを言わなければならないほどにコリント教会の直面している問題が深刻であることを示しているのです。


 教会は「誰が正しく」「誰が間違っている」ということを互いに裁き合う場所ではなく、教会がそうしたお互いの罪の裁き合いを行う場所でないとは正しいことです。

 しかし、それは「教会の中だから」「教会の中のルールは社会のルールとは違うのだ」と言って、教会の中で行われる信仰者の罪を全く不問にし、それをまったく水に流し、そうした問題を直視せずに、表面的に教会を維持しようということではないのです。

 パウロは「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」とは言いますが、それは当然、信仰によって実現されるべきものであり、意味としても「悪人の追い出し」ではなく、むしろ、「そうした人物が教会の中に居ない状態に、教会全体として罪の告白と悔い改めがなされるべきである」ことを、「悪い者を除き去りなさい」というように強調して表現しているのです。

 そうでなければ、キリスト教の教会は、そうした「自分たちに都合の悪い人間を切り捨てる」ことが教会の働きになってしまうからです。そうした、いわば「トカゲのしっぽ切り」のような行為によって教会の中が浄化されるかと言えば、当然、そのようなはずはないですし、また当然、パウロが一方でコリント信徒への手紙12章において「キリストの体」ということを大切な事として主張しているわけですから、パウロの本意が「教会を訴える人を追い出せ」というはずがないのです。

 だからこそ、パウロのこの厳しい言葉には、一人一人が自分の罪の重さを自覚し、互いに自分の罪を告白し、悔い改める。そうした事によって、一人一人が神の御前に罪を赦された者同士の交わりとして、互いに支え合い、教会を維持することをパウロは求めているのです。

 それは、「誰が悪い」という犯人を捜すことが目的なのではなく、いったい何が神の御前に間違っていたのか、その間違いを明らかにし、教会全体としてそのことの罪の悔い改めをすることが必要であることを促しているのです。

 当然、牧師はその矢面に立つ責任があるわけで、その意味で、牧師に「自分は教会の中の罪とは無関係」という事はあり得ないわけです。これはわたし自身、常に、注意するようにしています。



コリントの信徒への手紙6章1~11節
1)あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
2)あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。
3)わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
4)それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
5)あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。
6)兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。
7)そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。
8)それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。
9)正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、
10)泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
11)あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。


 教会の中で、信徒間で、あるいは信徒と牧師の間で問題が起こり、しかも、その問題をその教会の中で仲裁することができず、教会とは関係のない人に対して、その仲裁をお願いするということがコリントの教会で起こりました。

 パウロがここで問題にしているのは、そうした「キリスト者がこの世の裁判に問題の仲裁を求めること」が問題だというのではなく、そもそも、なぜ「そうした問題が教会の中で起こるのか」を問題にしているのです。


 キリスト教会において、イエス・キリストの救いがわたしたち人間の罪の赦しである限り、当然、教会の中には、そうした「人間の罪に対しての自浄作用」があるはずなのです。

 キリスト教の信仰は、言い換えるなら「自分の罪に対する自浄作用」なのです。



 ところが、パウロが指摘するのは、コリント教会の中で、言い換えるなら信徒(牧師)の罪が放置され、それが全く野放し状態になっている。当然、放置された罪はそのままであるはずがありませんから、どんどん雪だるまが転がって大きくなっていくように、教会内における人間の罪が肥大化し、一部の信徒だけではなく、教会全体を巻き込んで人間の罪の巣窟状態になったしまったのです。

 パウロはそうしたコリント教会の状況に対して、なぜ、キリスト者が集うキリストの教会が、本来であれば、イエス・キリストを信じる信仰によって、その自浄作用によって人間の罪からは遠く離れているはずであるのに、それがむしろ罪の巣窟状態になっているのかと、そのことを問題にしているのです。

 「兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」とは、すなわち、教会員の誰もが「罪を認識できない」か、あるいは「罪を認識しつつも黙認している」のどちらかであるということです。



 人間は神に近づけば近づくほど、自分の罪に対して敏感になります。 そのかわりに、人間は神から離れれば離れるほど、自分の罪を認識しなくなるのです。

 ところが、そうした神から遠く離れてしまったキリスト者は「自分の罪を自覚しない」ものですから、むしろ「自分は神に近い」と思い違いをするわけです。

 パウロはそうした「自分は罪を赦され、聖霊を受け、神に近いのだ」と自称するキリスト者に対して、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(9~10節)と言うわけです。

 信仰者は罪を犯さないのではなく、信仰者と言えども罪を犯すのです。

 だからこそ、信仰者は常に自分が神の御前に罪を犯していないか、聖書の御言葉を通じて、聖霊の助けを通じて示される自分の罪を聞くことを日課とし、日々、イエス・キリストの御前において自分の罪を告白し、罪を悔い改めを祈るのです。

 その意味で、人は洗礼を受け、キリスト者となったら、それであとは自動的に天国へ行けるわけではないのです。



===ご質問に対する応答===

Q:教会の中では「罪の赦し」が言われており、そうした教会の中で起こる問題を一般的な裁判に訴え出ることは信仰的に間違っているのか、そうしたことをするのはキリスト教においては不信仰なのか?


A:パウロは、そもそも「キリスト教会という仕組みは、その本質において罪に対する自浄作用がある」と見ています。

 一見すると、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」(7節)というパウロの言葉はこれを表面的に読めば確かに「キリスト者は損害を受けても、それを相手に訴え出ることをせずに損害を受けるままでいることが信仰的に正しいのだ/自分に対して犯された罪を赦すことが信仰的に正しいのだ」というふうに解釈できます。

 しかし、この部分をもう少し丁寧に読むのであれば、6章で言われている具体的な事例を説明するのであれば、まず、第一に教会の中で信徒間において搾取が行われたという出来事があったのです。

 そして、搾取に遭った人物は、教会の他の人たちに、この搾取の事を訴えたけれども誰もそれを真摯に受け止めてくれる人たちが居なかった。

 だからこそ、この搾取を受けた信仰者は、「教会に訴え出てもだめだ」と、この世的な裁判官?に対して教会の中で搾取が行われたことについて訴え出たということがあったことが推測できるのです。


 さて、このところでパウロが指摘するのは、そうした「この世的な裁判官に対して教会の中における搾取を訴え出ることが間違っている」ということではなく、むしろ、「信仰の事柄を、信仰を持っていない人に訴える出ることは間違っている。」という事なのです。

 それは誤解の無いように言えば、「信徒が信徒(牧師)の罪を裁判に訴えてはならない。」ということをパウロは言おうとしているのではありません。

 大事なのは、そもそも正しく信仰を持ったキリスト者が、救われた後に、そうした意図的に「搾取」をするなどということはあり得ないとパウロは確信しているのです。

 なぜなら、キリスト者とは、日々神の御前において罪を告白し、罪を悔い改めるという信仰生活を行うわけでありますから、たとえば意図せずに「搾取」をしてしまい、そうした事を他の人の言葉により、あるいは自分自身の自覚として知ったのであれば、当然その罪は告白され、悔い改められるはずであるからなのです。この時の罪の悔い改めにおいて、当然、「搾取」に対する謝罪・弁償が行われるであろうことは、そのことをわざわざ文字にして書かなくても、それが当然であるということが当時の人たちの信仰にあるわけです。

 当然、キリスト教会はまさにイエス・キリストを頭とした、キリストの体であり、パウロが「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリントの信徒への手紙1 12章26節)で語っているように、そうした「一つの部分の苦しみ」を、教会全体が共に苦しむということが必要であるわけです。

 それは、当然、「搾取した信仰者を罪人と断定して教会から排除する」ということではないのです。


 たとえば、「被害を受けた人物が加害者(の罪)を赦せば、教会は丸くおさまります。」とは、一見信仰的なようでまったく信仰的ではありません。 

 これは教会が全体として罪に対する認識を放棄して、罪の誘惑に教会を委ねたということになります。パウロが問題ありと指摘するコリントの教会の状況はまさにこうした状況であったのです。

 では、信仰的に正しくこのことに向き合うためには、コリントの教会はどうすればよかったのでしょうか?


 一つ目は、信徒ひとりひとりが自分の罪に対する責任をもっと自覚するということです。

 二つ目は、そのようにひとりひとりが注意していても、そうした罪が教会の中で発生する事があります。問題は、その時に、その事柄を、ただ加害者・被害者だけの問題として、教会はそれに関わらないとするのではなくて、教会全体として、その事柄について、一人一人が罪の告白をもって、イエス・キリストの御前において、教会全体としてその事が和解できるように計らうことが大事であるのです。

 ところが、コリントの教会はそうした「教会としての働き」が上手く機能しませんでした。

 コリントの教会はパウロが「それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。」と指摘しているように、むしろ、コリント教会は、その被害を受けた信徒に対して、「加害者側の肩を持ち、被害者を教会から追い出すようなことをした」わけです。

 つまり、ここで「不義」を行っている「あなたがた」というのは「教会(側)」を意味しており、そうすると、直前で言われている7節の「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」という言葉も、すなわちは「被害者」ではなく、「教会」に対して言われている言葉であるのです。
 
 パウロは、搾取した側である教会・信徒に対して色々と信仰的な注文を付けているのであって、決して、信徒としてこの世的な裁判官に訴え出た人を問題にしているのではないのです。

 それはパウロが5章のところで「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。」(12節)と言っていることからも明らかです。

 その意味で、パウロがここで告発しているのは、あくまでも教会であり、教会を構成する一人一人であり、それ以外の誰でもないということなのです。

 わたしたち人間は生きている限りにおいて「罪を全く犯しません」ということはありません。だからこそ、常に、イエス・キリストの言葉に聞き従うこと、すなわち聖書の御言葉を通じて自分の罪が示されたのであれば、イエス・キリストの御前において罪を告白し、罪を悔い改めることを通じてはじめて、わたしたちはキリストと共にあって清い生活を送ることが可能になるのです。

 教会はまさにそうしたキリスト者が主の御前において、共同体として罪の告白と罪の悔い改めを行うのです。それが、週ごとの礼拝の本質であって、「罪の告白と罪の悔い改めが欠如した礼拝」とは、単なる偶像崇拝に過ぎないということなのです。

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コリントの信徒への手紙1 6章18~20節
18)みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
19)知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
20)あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 イエス・キリストの救いによってわたしたちに与えられた命は、「わたしの命」ではなく、それは「イエスさまが与えてくださったイエスさまの命」であるのです。

 パウロはローマの信徒への手紙12章1節において「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)と語っています。

 まさにそれと同じことをこのところで勧めています。

 キリスト者の証しとは、まさにわたしたち自身が、イエス・キリストによって罪を赦され、罪から救われるというその経験を積むこと、すなわちそうした信仰生活を行うことにあります。

 わたしたちは、「自分の罪を管理する責任」を神さまから委ねられたのであって、イエス・キリストの救いは、「わたしたちが(意図的に)罪を犯すことの許可証」ではないのです。


 わたしたちの身の回りでは、むしろ、イエス・キリストの救いをまさに「罪に対する万能薬」のようなものととらえ、あたかも「キリスト者は何をやっても許されるのだ」「キリストを信じる者が正義だ」というような、または「キリスト者は罪を犯しても、罪を告白すれば罪を赦される」というような話を耳にする機会があります。

 しかし、パウロが言っているのは、「人間の罪を最終的に裁くのは神であって、それはその時にならないとわからない。」ということです。

 すなわち、わたしたちが地上において言えることは、「かの日において、信仰者でありながら神によって滅ぼされることがないように、一日一日を大切に、神の御前に正しく生きましょう」ということだけです。

 パウロはそのことをこうした箇所において言っているのです。

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