山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

カテゴリ:パウロの直筆の手紙 > コリントの信徒への手紙2

 パウロは先に記したコリント教会の教会員に宛てた手紙において、コリント教会の内部における信仰的な違いによる不一致について、そうした教会員ひとりひとりの思惑を捨てて、イエス・キリストが示してくださった愛に基づいて、一致して教会を建て上げていく(もちろん、人間の業ではなく神の恵みによって)ことを勧めました。

 そして、そのあとコリントの教会を再訪することになるのですが、問題はパウロが、アポロや他の十二使徒の教会からの宣教者たちと比較される時に、パウロは、アポロのような雄弁家の賜物(カリスマ)もなく、また十二使徒の教会からの宣教者たちのような、直接、イエス・キリストと結びつく何かしらの印のようなものを一切持ち合わせていませんでした。

 ましてや、パウロは持病をもっており、そういう意味では、他の使徒たちが「いやし」といった奇跡を行ったり、あるいは異言を行ったりするのに対して、むしろいわゆる他の使徒や宣教者たちが身に着けている賜物、すなわちカリスマを一切持ち合わせていなかったのです(あるいは、そういったことを自身の宣教においては一切行わなかった)。

 そうした事から、コリント教会の信徒の間でパウロの使徒としての資質に対する疑義が起こったのです。

 そうした背景から、パウロは再度、コリント教会の人たちに対して手紙を送り、そうしたコリント教会の信徒たちに対して自分が正しく「神の御前においてきちんとした使徒である」ということを弁明すると共に、それによってコリントの教会の人々との和解を願って綴った文書というかたちをとっています。



 パウロがなぜ、コリントの教会において「使徒」として存在できるのか? 

 それはパウロがガラテヤの信徒への手紙の冒頭で記しているように、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ1:1)、すなわち、パウロはコリントの教会において、教会の創立者であると共に、自身の信仰告白として、すなわちあくまでも「自称使徒」であったのです。

 アポロや他の十二使徒の教会からの福音宣教者(キリスト教をユダヤ教の中に位置づけようとする教会指導者)たちの言葉によって、コリント教会の教会員たちはパウロに対する疑心暗鬼に陥り、中にはパウロに対して侮辱の言葉を浴びせる人々(たとえばコリントⅡ 10:10『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。』)が起こり、パウロはコリントの教会にあって使徒としての立場を立証する必要に迫られました。


 そこでパウロは、自分自身が「正真正銘の使徒である」という根拠を、「実際的な神の助け」、すなわち福音宣教者としての苦難において、神がそれを助けて下さった事の証をもって、自分自身がまさに神さまによって使徒とされていることの根拠においたのです。

 すなわち、パウロが「偽物の使徒」であれば、パウロは神と人に対して嘘を言っている事になるので、当然、使徒としての活動が続けられることもなく、神を冒涜している行為になるので神さまによって助けられることはなく、死んでしまうであろう。

 ところが、パウロはこれまでの福音宣教者としての人生において、数多くの困難(コリントの信徒への手紙Ⅱ 11:11~33)において、神さまの導き、助けによって命を守られてきた。すなわち、こうしたパウロの福音宣教者としての数多くの苦労が、パウロが真にイエス・キリストによって使徒とされたことの根拠になっている、という事なのです。

 そこで、パウロはそうした事がらを踏まえて、コリントの教会がまさにイエス・キリストの教会として、今、直面している問題に対して、信仰によってこの困難を乗り越え、パウロ自身がまさに神さまの助けによって使徒と証明されたように、パウロとコリント教会とのギクシャクした関係を修復し、すなわち、イエス・キリストがその救いによって神と人との関係を和解させてくださったように、パウロとコリント教会の間を「イエス・キリストが与えてくださった聖霊の助けによって、愛によって、和解に至ろう」とコリントの教会の教会員に勧めるのです。



 さて、大枠は上記のとおりとして、以下に個別的に聖書箇所を見ていきたいと思います。

コリントの信徒への手紙2 2章5~11節
5)悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
6)その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
7)むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
8)そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
9)わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。
10)あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
11)わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
 
 
 教会がまさにキリストの教会であるために大切なことは、まさにイエス・キリストがわたしたちの罪を赦してくださったその出来事に倣い、わたしたち自身もそのことを覚えつつ、自分たちもまた神の御前において同じ罪人であるとの自覚の上に、互いにゆるし合うということが大事です。

 それはキリスト教信仰における基本的な事柄ですが、キリスト教会の中では案外にも難しい事柄です。

 なぜなら、キリスト教信仰は、常に神の御心を求める点において、それは言い方を変えれば、信仰における「正義・正しさ」を求めるからです。

 つまり「何が神の御前に正しいのか?」という信仰の視点は常に「正しさ」を求め、それは例えるなら「誰が正義で誰が悪か?」という考え方に陥るからです。


 本来、キリスト教の信仰において、あるいは聖書において、正義・正しさは常に「神さまに属するもの」であって、当然、人間がそれを保有することはできません。

 ところが、キリスト教会においては多くの場合、「キリスト教を信じる=正義」という構図で説教がなされ、それは同時に、「自分たち・教会(牧師?)=正義」というような価値観を信徒に押し付けるのです。


 たとえば、旧約聖書のダニエル書9章に以下のような記述があります。

『わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。』(ダニエル書9章4~5節)

 ダニエルは当然、神を信じている点において「信仰者」なのですが、そのダニエルは神さまに対して、イスラエルの過去における罪の歴史を振り返りながら、自分自身をそうした罪深いイスラエルの人々と同じ場所におき、すなわち、自分自身もまた神の御前に罪人のひとりであるという信仰的な自己理解に立つのです。

 言葉で説明すると分かりにくくなるので以下に図で示します。


旧約聖書に見る信仰者の自己理解と教会におけるキリスト者の自己理解


 旧約聖書において、特に預言書に見る信仰者の自己理解は、自分がいくら信仰者であったとしても、神の御前に正しい者であったとしても、人間が自分で神の御前において「自分は神の側に存在する」などとは信仰的には絶対に言わないのです。

  なぜなら、創世記においても示されているように、神は創造主であって、人間は被造物に過ぎません。その意味で、神と人間との間には大きな隔たりがあって、その隔たりがまさに罪(図では示してありませんが、左右の四角の間の空間です)であり、そうした隔たりを考慮すれば、人間は神の御前に信仰者であろうとなかろうと本質は同じなのです。

 だからこそ、旧約聖書においては、自分たちが神の側に立つような表現はまず出てきません。なぜなら、人間が神の側に立つということを神の御前において主張することほど神の御前に恐れ多いことはないからです。その点で、新約聖書においてイエスさまがご自分を神の子とした点についてユダヤ人たちが「神を冒涜している」と発言するのは、「イエスさまが神の独り子である」ということを抜きにして考えれば、それは至極当然のことなのです。

 ですから、預言者イザヤが神さまから召命を受けるときに言った言葉は、まさに上の図と共通するのです。

イザヤ書6章5~7節
5)わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6)するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7)彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
 
 イザヤは神さまから召命を受けた時、祭司をしていました。すなわちイスラエルの信仰においては神の御前に罪を清められている存在であるにも関わらず、イザヤは自分自身が罪にけがれており、しかも、自分は罪にけがれた人々の中に生活しているような人間であることを、神の御前に告白するのです。



 ところが、キリスト教会においては、イエス・キリストの救いによって、人間に対するイエスさまの「近接さ」が、あたかもそれが事実、本当に自分自身と神とが同じ立場に存在するかのような誤解を招いているのです。

 つまり、信仰者が、まさに「自分は神と同じ側にあり、神によって正義をいただいている」というような感じに自己理解をするようになる。ところが、神の御前に、こうした信仰ほど傲慢な信仰はないわけです。


 むしろ、それはイエス・キリストの救いが「わたしたち罪人に対する憐み」である限りにおいて、例えば、「神の子とされた」とは、それは「事実そうされたのだ」ということ以上に、「信仰者に対する憐みと慰めの言葉である」という理解が大切なのです。

 だからこそ、キリスト者は、あくまでも「イエス・キリストの救いによって罪を赦された罪人である」という自己理解が非常に大切なのです。わたしたちキリスト者はイエス・キリストの救いに与って神の子とされるわけですが、神の子とされるとは、すなわち「わたしは神の側に立つ人間だ」ということではなく、「神との関係において罪を赦された者として、日々罪を告白し、罪を悔い改めつつ歩むことが求められている」ということなのです。

 『イミタチオ・クリスティ』(邦題:「キリストに倣いて」)という本がありますが、ホーリネスやナザレン教会の信仰である「聖化」とは、すなわちそうした神の御前において常に信仰的に謙遜であり続けようとする、神の御前に真実に生きようとする者の生き方であるのです。

 

新約聖書が提示する神・キリスト・聖霊・人間の関係


 だからこそ、わたしたちは「神の子とする」という神さまの言葉に対して、むしろ、「キリスト者として当然です」とそれを受け取るのではなく、むしろ、「いえ、決してそのような事はありません。わたしはイエスさまに対して多くの罪を犯した者です。ただ、罪深いわたしを憐れんでくださり、ありがとうございます。」と告白することが、キリスト者としての大切な自己理解でないかと個人的には思います。

 その意味で、カトリック教会にあるキリエ(・エレイソン)の祈り、「主よ、(罪深いわたしを)憐れんでください。」という祈りは大事です。

 神さまに対して「わたしを救いなさい」と命令することなく、神さまに対して、わたしを憐れんでくださる事を願うことを通じて、神さまの判断・決断として、憐れんでくださり、救いを与えてくださることに信頼するという祈りであるからです。

 「救ってください。」「助けてください。」という祈りは、一見すると信仰的に何の問題もないように思えますが、しかし、それは神さまに対して下手に出た人間の、神さまに対するわたしを「救え」「助けろ」という命令以外の何物でもないのです。



 話がだいぶそれましたが、パウロはそうしたコリント教会の中にあって、起こった人間関係の破たん、すなわち教会の中で加害者・被害者・審判者という対立関係が起こった事について、深い憂慮を覚えると共に、教会員の人たちに対して既にそうした教会員が加害者・被害者・審判者になることによって発生した関係性の破たんを、イエス・キリストの御前において罪を告白し、誰が正しく・誰が間違っているということを明らかにすることよりも、むしろ、神の御前において一人ひとりが自分たちの加害者としての罪、また被害者としての罪、そして審判者としての罪を告白し合い、すべてを神の御前に真実を明らかにすることによって、真の和解へと、神さまの導きによって導かれることを勧めるのです。



コリントの信徒への手紙2 2章14~17節
14)神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
15)救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
16)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
17)わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。


 パウロはコリント教会がまさにイエス・キリストを礎とする教会であるために、 先の教会の中における内部分裂という出来事をまさにイエス・キリストの救いに基づいて、この出来事を神さまの導きによって実現することを通じて、キリスト教会は、常に「キリストの勝利の行進」、すなわちまさにイエス・キリストの御名が褒め称えられることを通じて、「キリストを知るという知識の香り」を、コリントの教会の人々が、あたかも自分たちの信仰生活を通じて、その生き方、神の御前における真実な生き方を通じて、自分自身の罪を知るという「キリストを知る知識」の香りを放つようであれと、勧めるのです。

 その意味で、キリスト教会とは、まさに正義を主張するところではなく、人間の罪、すなわち人間の弱さが告白されるところであり、その人間の弱さに対して神さまの憐み、助け、祝福が注がれる場所である限りにおいて、神の御前においてそれは正しい事であり、この「自分たちは神の御前において罪深く、間違っている」という正しく神を知ることによって、キリスト教会はこの世において正しくあることができるのです。

 そうした、「キリスト教的な正しさ」、すなわち、「罪の告白(わたしたちは神の御前において、語られる神の御言葉によって間違っている)」は、 当然、罪によって滅んでいく者にとっては愚かなもの、すなわち「滅びる者には死から死に至らせる香り」であり、しかし、同時にキリスト者にとっては、「キリスト教的な正しさ」「罪の告白」とは、「命から命に至らせる」、まさに「キリストの香り」なのです。

 パウロは、キリスト者は、キリスト教会は、まさにそうした「神の御前に自分たちの罪を悔い改める者」たちによって、「自分たちの罪の悔い改め」がなされるところであり、キリスト教会がキリスト教会であるためには、多くの人々が「キリストの言葉」をまさに商品(神の言葉を売り物にせず)として、この世的な利益を追求する「キリスト教」販売所のような教会になってはならず、神の御前において常に誠実に、まさに(本来わたしたち人間は神に属するような資格は一切持たないが、イエス・キリストの救いによって)神に属する者とされたという大いなる憐みに感謝しつつ、真実をもって神の御前に共に生きることを主張するのです。


コリントの信徒への手紙2 3章17~18節
17)ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
18)わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 パウロは、この世においてキリスト者をキリスト者とするもの、そしてキリスト教会をキリスト教会とするものをまさに「霊」、すなわち「聖霊なる主」の働きによるものであると説明しています。

 しかし、問題は、そうした「聖霊の働き」を、わたしたちは「救い」と切り離し、「罪の告白」から切り離し、あたかもそれを「キリスト者の所有物」かのように扱うことが教会の中で広まったということでした。

 具体的に言えばコリントの信徒への手紙1(12章1~11節)で預言や異言といった聖霊の働きによる事柄が、コリントの教会の中で行われるのですが、しかし、それは教会を建て上げるための、教会を秩序付けるためのものでもなく、むしろ、「その人が霊的な体験をした」という、一種の「信仰者の自慢(自画自賛)」に陥っていたということです。

 パウロはそうした聖霊による預言や異言といったことを否定するのではなく、聖霊はまさにイエスをわたしたちの救い主と告白させてくださる方(『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』コリントの信徒への手紙1 12:3)である点において、むしろそれはわたしたち人間を罪の束縛から自由にしてくださる方であり、そのように、キリスト者は自分自身の罪から自由にされて、神の御前に罪を告白することを通じ、イエス・キリストの救いの力によって罪から自由にされ、そのように罪の束縛、誘惑から自由にされた者は、自由に自分の罪を神の御前に告白することを通じて、その信仰がきよめられる。

 すなわち、そのようにして聖霊の働きによって、キリスト者は日々罪を悔い改めることを通じて、わたしたちは皆、罪による顔の覆いを除かれて、罪から自由にされて、まさに鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによるものであって、キリスト教会とは、まさにそうしたキリスト者によって形作られるものであることをパウロは主張するのです。

コリントの信徒への手紙2 4章1~5節
1)こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
2)かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
3)わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
4)この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
5)わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。 


  教会もキリスト者も、共にイエス・キリストの十字架と復活によって示された「神の救い」、すなわち、この「神の救い」をこの世において「証しする」ことが、キリスト者にとって、またキリスト教会にとっての存在意義です。

  パウロはそうした、「神の救いを証しする」ことが、実に多くの苦難に満ちていることを、その経験(Ⅱコリント11:16以下)から確信していました。

 すなわち、パウロはコリントの教会の信徒数や献金の額が多いことが、この世におけるコリントの教会が「真に教会である」ことの指標とすることなく、むしろ、この世において、コリントの教会が、この世の様々な悩みや苦しみに直面しつつ、しかし、そのような中にあって、神の祝福と導きによって、教会が形成されることこそ、コリントの教会がまさにこの世においてイエス・キリストを土台とする教会であることの指標であるとしました。

 だからこそ、パウロはここで、そうしたこの世の中にあってキリスト教会が困難に直面しているという事について、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(1節)と告白しているのです。


 しかし現実はコリントの教会においては切実なものであり、コリントの教会から雄弁家であったアポロが去り、また巡回する十二使徒たちの教会からの伝道者たちが去り、そうしたなか、コリントの教会員だけの状況になり、そこにおいて教会の人々は、やはりこの世的な伝道方策や、あるいは当時において大勢であったユダヤ教に吸収合併されることも良しとする考え方に傾倒したのです。


 わたしたちの教会もそうですが、いわゆる伝道をして、すぐに人が増えるわけでもなく、教会としての年月が過ぎていくと、当然、教会の中もマンネリ化し、そうしたマンネリ化を打破するために、牧師も信徒も、「あれをやって信徒を増やそう」「これをやったら教会に人が来るようになる」と、そうしたこの世的なものの考えにて、教会をあたかも一種の商売として、この世に対してキリスト教の売り込みをしようという事に陥るのです。

  パウロはそうした、いわゆる「信仰的な下心」による教会の行動に対して、「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだね」(2節)ようと、むしろ、そうした「信徒を増やそう」「献金を増やそう」というような神の御前における「卑劣な隠れた行い」を捨てて、また「悪賢く歩まず」、イエス・キリストが真実をもって十字架の死に至るまで忠実に歩まれたように、自分たちもイエス・キリストの真実さに倣って、「神の言葉を曲げず」「真理を明らかにする」ことによって、むしろ、自分たちはこの世において、ただ礼拝を守り、神の言葉に忠実であることを通じて、神と人との前に、すなわち、この世に対して、自分たちが真にキリスト者であり、キリスト教会であることをもって歩むことを勧めるのです。

 それは、自分たちがあの手この手で、すなわち「信仰的な下心」をもって信徒を獲得しようとするのではなく、むしろ、自分たちがこの世においてキリスト者として真実に生きるという姿勢をもって、「教会に行く・行かない」の判断を、「すべての人の良心にゆだねる」ことを言うのです。

 当然、その裏には、コリントの教会において、まさに「悪賢く」「神の言葉を曲げ」という事が起こっていたことを意味します。

 神の知恵ではなく人間的な「悪賢さ」。真実な神の言葉ではなく、そうした人間的な「悪賢さ」によって捻じ曲げられた神の言葉が語られている。


 礼拝説教を良く聞いてみてください。

 本当に「神の言葉」が語られているでしょうか?

 それは、人間的な悪賢さによって捻じ曲げられた神の言葉ではないでしょうか?

 教会の礼拝において語られる説教は、まさにこのいずれかです。「神の言葉」かそれとも「偽りの神の言葉」か。それは見かけ上、同じように見えますが本質的においては決定的に異なるのです。
 
 それはまさに「善と偽善」の違いであって、善は神から出ますが偽善は人間の罪から出てきます。 


 そして、現実問題として、まさにコリントの教会が経験したように、そうした「信仰者の偽善」が、キリスト教会いおいては大きな問題となるのです。

 中には、教会が全体として、そうした「偽善」に走っているケースも珍しくはありません。



 たとえば、なぜ、「教会にリーダーが必要なのでしょうか?」

 教会には「リーダー」なるものが存在しなければ、教会を組織し、運営することができないのでしょうか?

 むしろ、プロテスタント教会が「万人祭司」の信仰に立つのであれば、そうした「リーダー」なるものは一体どういう存在なのでしょうか?


 「ここの教会には青年が多いです」ということを言うキリスト教会の特徴は、すなわち、教会という組織において、その青年たちに、教会組織におけるポスト、すなわち「居場所」を提供しているのです。当然、そうした「自分の居場所」を求める青年は多く居ますから、「自分の可能性」を信じる青年は、そうした「自分の居場所」を提供してくれる教会に集い、そうした教会が青年で溢れかえるということは、別に神の祝福でもなんでもなく、ただ「青年のニーズと教会の提供するサービスが一致した」というだけであるわけです。

 教会が青年に対してそうした居場所を提供する。

 そのこと自体は間違ってはいません。わたし自身が、まさにそうした形で教会に導かれ、わたし自身の経験で申し上げれば、わたしは音楽が好きだったから教会に行き、そうしたわたし自身の趣味と教会の提供するものとが一致したために、今日に至ったということも言えるからです。

 しかし、それは信仰的と言えるかと言えばそうではありません。
 わたし自身の経験を言うのであれば、わたしはそうした自分が音楽が好きでみんなの前で音楽を披露できるという自分自身の欲求をただ満たそうとして、キリスト教会を利用していたという自分にある時、気が付いたのです。

 わたしは、他の人よりも熱心に教会の礼拝に出席し、まさに他の人たちが都合で奏楽の奉仕ができず、ピンチヒッターのような形で奏楽をすることが大好きでした。

 他の奏楽者の機会を奪ってでも自分が奏楽の奉仕ができることに、当時、わたしはその罪深さにまったく無頓着でした。


 音楽が好きで教会に行くようになる。そのこと自体が否定されるわけではありません。しかし、本質は、教会はわたしたち信仰者ひとりひとりが自分勝手を行ってよい場所ではなく、あくまでも「公の場である」ということです。教会は牧師のものでも、また信徒のものでもなく、ただ神さまのものであるのです。

 当然、それは牧師であってもまた信徒であっても自分勝手にして良いものではありません。問題は、教会において「奉仕」と「自分のやりたいこと」とは決定的に違うということです。

 パウロは、教会がまさにそうした「イエス・キリストを宣べ伝える」場所であり、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」(5節)と。

 すなわち、教会は「リーダー」たちの自画自賛の場ではなく、またストレス発散の場でもなく、牧師においては、牧師はまさにそうした教会に仕える者であって、アポロがまさに雄弁家として、まさにコリント教会の宣教リーダーとしてコリントの教会をグイグイと引っ張ったように引っ張ることが求められているのではないということなのです。

 教会はまさにイエス・キリストをこの世において、礼拝を守ることを通じて、福音を証しするところであり、キリスト者はまさにその礼拝において、自分の罪を悔い改めることをもって、福音を証しするのです。


 では、教会は若い人たちに対して、そうした居場所を提供してはならないのでしょうか?

 そうではありません。

 仮に居場所を提供するのであれば、それは神さまであって、わたしたちではなく、また教会でもないということです。それは「自分の居場所」は別に「若い人」に限定されるものでもありません。むしろ、すべての人に対して教会はまさに礼拝という居場所を提供しているのです。

 それはイエスさまの次の御言葉にも明らかです。
 
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

 教会は礼拝を守る場所であって、それ以外のものではありません。

 そして、イエス・キリストはまさに、わたしたちすべての者を、まさに礼拝に招いておられるのです。

 それはイエスさまが招かれる招きによるものであって、わたしたち人間の信仰的な下心による宗教勧誘によるものではありません。

 そうなると、教会は礼拝や祈祷会などの他には、ほとんど行わないということになります。


 むしろ、それが良いのです。

 なぜなら、自分たちが伝道をしないのであれば、その教会に招かれる人すべてが神さまの導きによるものであることが分かるからです。


 少しでも自分たちの努力によって教会に人を招いたとしたら、その教会は、以後、自分たちが人を教会に招かないといけなくなります。そして、そうした教会に人が増えたとすると、牧師も信徒もなおさらそうした「宗教勧誘」の手法に熱心になり、そうした伝道活動はより加速します。

 しかし、教会の難しいところは、そうした人間的努力によって急成長した教会が、そのまま成長し続けることはなく、ある程度のところで礼拝出席も献金額も頭打ちになってくるのです。そして、その教会は、そこでいろいろと悩むのです。 

 そうした状況に陥った教会において、もはや「神の導き」なる不確定要素の強い選択肢は選択できません。
 今までみんなで頑張ってきた事によって現在の繁栄があるわけですが、そうした教会の牧師も信徒も、「礼拝や祈祷会以外の特別なことを一切やめる」というような選択は、あまりにも「無策」と同じであって、「そこに神の祝福があるはずがない」と考えるのです。



 以前、牧師の口から「羊飼いが羊を増やすことはできず、羊が羊を増やすのだ」という話を聞いたことがあります。

 当時は、そうした話を聞きながら、何となくそういうものだと納得していましたが、そうではありません。


 信仰においては「神が羊を増やす」のです。

 それはまさに信仰的な「賭け」であり、「礼拝(祈祷会など)以外の何もしない」というのは特にプロテスタント教会においてはナンセンスと受け取られることがほとんどです。

 しかし、パウロが戦った信仰の戦いとはまさに、神にすべてをお委ねするという戦いではないでしょうか?


 今日の教会における大きな誘惑は、そうした意味では、「羊が羊をどのように増やすのか?」ということが教会のあるいはキリスト者の至上命題になっているということです。

 そして、そうした「羊が羊を増やす」ことに熱心な教会は、当然、「羊がより羊を増やせるように」と願い、そうした人間的な手法により、そして、そうした数量的成功をまさに神の祝福として、どんどん神から離れ去ってしまうわけです。


 パウロはそうした人間的な思いで教会を形成することは不可能であり、まさに教会は礼拝において、神の言葉に忠実であることをもって、この世の悩み・苦しみの中で、神の憐みによって成長することを証言しています。

 うちの教会のある信徒の方から、「うちの教会は病人ばかりだ」と少し自虐的に言われました。

 確かに、わたしどもの教会は若い人は少なく、高齢者がほとんどで、どこかしら病気を持っている方がほとんどです。表面的には健康そうに見えても、そうでない人ばかりです。

 しかし、むしろわたしはこの教会が、そのような人たちによって神さまによって教会とされていることに深く感謝するのです。

 「わたしたちの教会以上に、神さまに憐れんでいただいている教会があるだろうか?」と。

 若い人が多い教会は、まさに若い人たちの熱意と力によって教会が維持されます。

 ところが、わたしどもの教会はそうした力も何もありません。しかし、そうした何もないところにおいてこそ、神さまはわたしたちを深く憐れんでくださり、この教会に人を招いてくださるのです。それは、わたしたちが特別何か努力をしているわけでない点において、まさに私ども教会において神さまが助け守ってくださっているということが「真実である」と言うことができるのです。

 もし、わたしたちが何かしら頑張っていたとしたら、そうした理解に至ることも可能だとは思いますが、しかし、「実感として」、どれほど神の助けを体験し、認識できるかと言えば、かなりの違いがそこにはあるのではないかと思います。

 中には、無理矢理?に「感謝」「ハレルヤ」と、自分(たち)自身に言い聞かせているような教会もありますが、「実感のない」にも関わらず、「感謝」ということを本気で言うことはできません。

 その意味で、キリスト教信仰は自虐的ではありません。表面的に見ればそのように見えるかもしれませんが、神の憐みを経験する人にとって、「感謝」という言葉はまさに「神さまの憐みを受け、深く慰められた」からこそ「感謝」の言葉が出るのであって、「苦しくても、『感謝』と言っていれば、神さまが祝福してくれる」というようなものではありません。

 確かに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)という事も言われていますが、その背後には、「真実をもって神の言葉に従う」という信仰生活、そうした教会において「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という事が言われているのであって、牧師や信徒の自己中心的な思惑を実現するために、そうしたことが勧められているのではありません。

 そして、だからこそ「真実の神の言葉」が大切にされる教会であることは、教会が教会であるための生命線であり、まさにそうした教会であり続けることができるようにと、常に神の御前に願っております。

コリントの信徒への手紙2 4章16節~5章10節

16)だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
17)わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
18)わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 

1)わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
2)わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
3)それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。
4)この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
5)わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
6)それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
7)目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
8)わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
9)だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。


 キリスト教会においてよくありがちな信仰的誤りは、「キリスト教は万人救済説である」という理解です。

 確かに、この世を支配される神によって、最終的には、すべての被造物が救済される、すなわち万物が神によってまさに終わりを迎える時において、そうであるかも知れません。

 しかし、「万人を救済するか・しないか」は神さまの主権において決定されることであり、わたしたち人間は、たとえ信仰者であっても「すべての人はイエス・キリストの救いによって救われます」と言うことはできません。

 確かに、神さまは御心においてすべての人を救おうとされるのは事実でしょうが、問題は、だからと言って神さまはわたしたちの意志と無関係に、わたしたちの人格を無視して救済を行うことはないのです。それは福音書においてイエスさまが言われている通りであり、イエスさまが言われていること以上のことを牧師が言うことはできませんし、もし、それを言うのであれば、牧師は神と人の前において嘘をついているのと同じであるのです。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイによる福音書7章21節)

 その意味で、牧師が「真実を語らない」「誤った福音を語る」ということの罪深さを理解しないと、教会はあっという間に偶像崇拝の巣窟になってしまうのです。


 
 さて、パウロは、この箇所において「キリスト者として生きるとはどういうことか?」という事について、コリントの教会の人々に語っています。

 パウロはまず、5章16節において、イエス・キリストを信じることが、いわゆるアンチエイジングのような、人間としての寿命をただ伸ばすものではないことを説明します。おそらく、これはたとえば「永遠の命を信ず」という信仰告白とのかかわりがあるのではないかと個人的には考えるのですが、「イエス・キリストを信じる者は病になることもなく、歳を取ることもない。」というような考え方に対する、信仰的な修正をパウロは行っているのです。

 すなわち、他のユダヤ主義に基づくキリスト教会からの使徒たちは、いやしの賜物を持っており、実際に病の人をいやしたりしていました。

 ところが、パウロはと言えば、コリントの信徒への手紙2 12章7・8節で「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」とパウロ自身が語っているように、パウロは使徒である割には病を持っており、パウロはその病を取り除いてくださるよう神さまに祈るのですが、結局、パウロの病はいやされることがなかったのです。

 パウロは、そういう意味で、他の使徒たちのようにいやしといった賜物を持つこともなく、アポロのような福音を雄弁に語る弁も持たず、しかも、神によっていやされることのない持病を持っているという、実に、使徒らしからぬ人物であったのです。

 しかし、パウロはそうした人間としての様々な弱さを持った自分自身の姿が、まさに、これこそが神の助けによって生きている証拠であると、そうした信仰的な理解の上で、キリスト者として生きるとは、まさに自分の生まれ持った能力・才能、あるいは癒しや異言といったような霊的な賜物といったようなものに依らず、まさに神の祝福によって生きることこそが大切であることをこのところで人々に語るのです。

 そして、その最初の問題が、人間の肉体的な老いについてであるのです。

 キリスト者は信仰によって、肉体的に・精神的に老いるのことがないのか?
 

 そうした問いに対して、パウロは例えイエス・キリストを信じる信仰があったとしても、人間は老いるし、病気もすれば、最終的には死ぬことを、このところで説明するのです。

 当時、まだパウロが生きていた時代においては、イエス・キリストの再臨が近いと、かなり強烈な終末信仰に立って、この世の生活から離れ、ただ神によって生きて天に上げられるのを待ち望む信仰者たちのグループがありました。

 しかし、パウロはそうした終末信仰・再臨信仰を退け、しかし、決してそれを否定するのではなく、わたしたちは日々神によってそうした終末、すなわち「日々神の裁きの前に生きているのだ」ということを説明するのです。

 それゆえ、わたしたちの地上における信仰の生涯は、当然、来たるべき終末、来たるべき再臨に対して常にその準備をしておく必要があり、その時が来るまではわたしたちは人間として地上での信仰生活を正しく歩む必要があることをパウロは示すのです。

 当然、そうした地上における信仰生活において、わたしたち人間はだんだんと加齢とともに肉体は徐々に衰えていきます。

 しかし、信仰者は他の、神を信じていない人たちとどのように違うのかということを、多くの人にとっては加齢による肉体の衰えであるけれども、わたしたち信仰者は、他の人たちと同じように肉体は衰えたとしても、わたしたちの内なる人、すなわち「霊による体」は、信仰によってだんだんと成長するのだと言うのです。

 わたしたち信仰者の地上における信仰の生涯の目的は、「信仰者としての生涯を全うする」ことを最終目的とするのではなく、4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」とパウロが言っているように、「見えないもの」、すなわちいわゆる「天国への凱旋」こそが、地上における信仰者の最終目的であることをパウロは説明するのです。


 だからこそ、わたしたちの信仰者としての地上における悩みや苦しみは、「天国への凱旋」をもって、すべてが報われるのです(たとえば「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(ヨハネによる福音書14:2))。

 しかし、わたしたちは地上においては、この朽ちるべき肉体に住んでいるかぎり、すなわち地上において命のある限り、たとえ信仰者であっても「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。」(コリントの信徒への手紙2 5章6節)と、常に、自分たちは神を信じてはいるけれども、主から離れており、罪を犯しやすく、常に神の御前において罪を告白し、罪を悔い改める必要があることをパウロは説明するのです。

 
 そして、この世において信仰者として、たとえば「いやしができない」「異言が語れない」「病がいやされない」といったようなこの世におけるそうした事柄は信仰生活においては本質的な問題ではなく、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(コリントの信徒への手紙2 5章10節)とパウロが結論的に語っているように、キリスト者はそうした信仰者としての目に見える形の現象や出来事はまったく問題にならず、むしろ、地上において、わたしたちはキリスト者として、肉体を持つことによる罪からできる限り離れ、信仰においては天国に凱旋するための確かな霊の体を作り上げることに専念することをコリントの教会の人々に勧めるのです。




 コリントの信徒への手紙2 6章16~18節
16)神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
17)だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18)父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」

 そして、だからこそパウロは、キリスト者は、あるいはキリストの教会は、まさに自分たちがイエス・キリストを信じる信仰において、わたしたち一人一人がまさに生ける神の神殿である自覚に立ち、すなわち、イエス・キリストにあって常に罪を告白し、罪を悔い改めるという責任を担うことを強調するのです。

 その反対にあるのは、まさに偶像崇拝と化してしまった信仰者の姿であり、またキリスト教会の姿です。


 ある教会では牧師が「福音を宣べ伝えなさい。」というイエス・キリストの御言葉を引用して、信徒に対して、キリスト教への、あるいは教会への勧誘を、かなり無理矢理に命じます。

 その言葉がイエス・キリストが語られた言葉であり、牧師は、まさにイエスさまのその命令に則って、自分がまさにイエス・キリストの位置から、信徒に対して、「伝道しろ。伝道しろ。」と命じるわけです。そして、そうした「伝道熱心であること」をもって、「正しいキリスト教の信仰」とするのです。



 確かに、イエス・キリストが、例えば「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:16)と言われたということは聖書に記されています。では、ここでイエスさまが言われている「福音を宣べ伝えなさい。」とは、いわゆる「キリスト教の勧誘」なのでしょうか? もちろん、そうした教会では、「まさにそのとおりだ」と信じて疑わないわけです。


 しかし、パウロはその手紙の中で、一度も、「信徒は、あるいは牧師や教会は信仰者を増やさなければならない」、あるいは「人数を増やせ。献金をどんどんしろ。」というようなことを言うことはありません。

 パウロがキリスト教徒として、信仰者として、あるいは教会として命じているのは、あくまで「ひとりひとりがキリスト教徒として正しく生きる」ということであって、信仰生活の目標は伝道や宣教ではなく、むしろ、「内なる人を強め、最終的に天国に凱旋すること」が目標なのです。



 すなわち、そうしたパウロの信仰に立つのであれば、宣教・伝道とはどういうことかと言えば、それはキリスト者が神の御前においてこの世の中で信仰的に正しく生きることこそがまさにキリスト者の宣教・伝道であって、そのような人たちが集まり共に神を礼拝することこそがまさに宣教・伝道であるのです。

 

 コリントの信徒への手紙2 7章1節
1)愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

 
 パウロは教会が、そうした人間的な罪の誘惑に負けることのないように、常に信仰において、神の御前に正しくあることができるようにと、「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め」と、信仰者は常に、神の御前に自分を置いて、イエス・キリストの御名によって罪を告白し、罪を悔い改める生活を続けることを勧めます。

 そして、それは決して、個人的な罪の悔い改めだけに留まらず、キリスト教会にも、神の御前に教会として罪を悔い改めることの大切さをパウロは指摘します。


 コリントの信徒への手紙2 7章2節、9節
2)わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。

9)今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。



 パウロは、これまでコリントの教会に書き送った手紙において、かなり真摯に信仰における問題についてコリントの教会の抱えている罪を告発しました。

 それは、コリントの教会の人々を一旦は深い悲しみに沈めるものでありましたが、しかし、それはまさに神の御前において真実な内容であるからこそ、コリントの教会の人々は、パウロの指摘する罪を認め、自分たちがまさに神と人との前において罪深いものであったことを告白し、コリントの教会をあげて罪を悔い改めるに至ったのです。

 そして、パウロは今回もまた、悲しむべき出来事が起こったにも関わらず、今回の手紙においても同様に、コリント教会の人々が神の御前に罪を悔い改めてくれることを信じてやまないのです。


 わたしたちは、時に教会の中で問題を隠そうとします。それは教会の汚点として、教会の外の人たちに対して「良い証しにならない」という視点からそのように考えるのです。

 しかし、パウロはそれが決して教会にとって、またコリント教会の人たちの信仰において決して益とならないことを確信していました。

 むしろ、キリスト者も教会も、神と人との前に常に真実をもって、裏表なく、神の御前に正しく生きようとするところに神さまの憐みは大きく働くのです。

 そうではなく、むしろ、そうした汚点を不祥事として、教会が秘匿しようとする時、それはまさに神さまの定められた時に、公に暴かれる時がくるのです。そして、その時にいくら弁解したところで、ひとたび失われた信用を取り戻すことはできません。

 わたしたちはそうした「失われた信用を取り戻すことは人間には不可能である」ということを常に心にとめ、間違いを犯したのであれば速やかに神と人との前において、罪を告白し、罪を悔い改める生き方を選択する必要があるのです。

 神と人との前において罪を告白し、悔い改めることは決してキリスト教においては汚点でもなんでもありません。

 わたしたちが人間である限り、だれもが神の御前において「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)のです。それを偽って「教会には間違いはありません。」「信仰者・牧師は嘘を言いません。まちがいを犯しません。」と言い張るところに、信仰者の傲慢の罪があるのです。

 むしろ、わたしたちはこの世において、自分たちが神の御前において罪深い者であり、しかしながら、そのような弱い者であるにも関わらず、イエス・キリストの罪の赦しのゆえに神を礼拝し、この世において希望を抱いて信仰生活を生きることができるのです。

 それは神の憐みによるもの、神の祝福によるものであって、決して人間のやせ我慢や努力によって打ち立てるものではありません。

 人間のウソ、虚構、努力、欲望、願望。そうしたものによって建て上げられた教会というのは、まさに創世記におけるバベルの塔と同じであり、結局のところ、神さまによって破壊されるのです。それは神の御前において明らかなことであり、真実であり、それは今日のわたしたちにおいても、また真実であるとわたしは思います。

 
 

 パウロの最晩年に書かれたであろう「ローマの信徒への手紙」において、パウロは以下のように記述しています。

ローマの信徒への手紙3章9~18節
9)では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
10)次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
11)悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
12)皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
13)彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
14)口は、呪いと苦味で満ち、
15)足は血を流すのに速く、
16)その道には破壊と悲惨がある。
17)彼らは平和の道を知らない。
18)彼らの目には神への畏れがない。

 パウロはキリスト者がキリスト者でない者、たとえば不信仰者、異教徒などに対して何かキリスト教信仰において優位であるかという事について、「全くありません。」と簡潔に述べています。

 その意味で、たとえば「キリスト者」と「そうでない者」という区別はありますが、「罪深い人間である」という点においては「キリスト者」も「そうでない者」も同じだというのです。

 だからこそ、パウロは「キリスト者」を「天国に行けることが確定した者」とはみなさず、あくまでも「イエス・キリストの救いによって、神との関係において和解を得た罪人である」として、なお「救われた罪人」に過ぎないという認識において「善を行うことはできない」というふうに考えるのです。

 そのようにして、イエス・キリストと無関係に、ただ哲学的に人間が「神」「正義」といった神に属する事柄を選択できるかと言えば、それは不可能であることを示すのです。なぜなら、「神」や「正義」を知るための「平和の道」とは、それは「わたしたちの罪の認識、告白、罪の悔い改め」ということをもって、ただしく神を畏れ敬うという信仰がなければ不可能であるからなのです。


 ところがそうすると、たとえ信仰者が「善い行い(慈善)」をする場合、いったいどのようにしてそれが「偽善」ではなく「善」であり、わたしたちは「善(行)」を選択することができるのでしょうか?




コリントの信徒への手紙2 8章1~7節、9~11節
1)兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。
2)彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。
3)わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、
4)聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。
5)また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、
6)わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。
7)あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。


9)あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
10)この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。
11)だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。

 パウロはそうした、わたしたち人間が本質において「正しくあり得ない」という理解に基づいて、そのような罪深い人間が一体どのようにしたら、人間のそうした罪深い本質と無関係に「正しいこと・善行」を行うことができるのか、マケドニア州にある教会(おそらくフィリピかテサロニケの教会)を例に挙げてそのことを説明します。

 パウロの言葉によれば、このマケドニア州にある教会は時流に乗っている教会でもなく、勢いがあるわけでもなく、その現実は非常に厳しいものでありました。教会は様々な迫害の下にあり、問題があり、また金銭面においても極度に貧しく、まさに「信仰においては迫害にある教会」であり、「金銭面においては極貧にある教会」であったのです。

 しかし、そうしたこの世的には貧しさの中にありながらも、マケドニア州の教会の人々は、信仰においても物質的な面においてもパウロの働きを大いに助けたのでした。

 それは当然、この世的に富んでいる人たちではなく、貧しい人たちが物質的な援助をするわけですから、その援助自体はパウロにしてみれば「有り余るほどの豊かさ」ではなく、恐らくは「何も持っていない人たちが、それでも何も持たない中から、苦労してパウロのために少しずつ集めてパウロのために送ったもの」であって、それは「物質的な豊かさ」とはまったく関係のないものであったことでしょう。しかし、パウロにとってみれば、信仰において、それは充分であったのです。

 教会が貧しいということは決して欠点でも何でもなく、むしろ何もないところに、イエス・キリストの救いによって、また神さまの深い憐みによって満たされる。そして、そうした中から、さらに神さまによって与えられたものを更に分かち合う。

 イエス・キリストはまさに貧しさの中に生まれ、苦しみの中に生きられましたが、それは、まさにキリスト者がイエス・キリストの貧しさによって、わたしたちが豊かになるためであったとパウロは説明するのです。

 ですから、当然、そうした豊かさは、いわゆる物質的な豊かさとは異なると思います。決して多くを求めることなく、神さまの祝福によって与えられているところに満足し、その満たされたところのわずかのものを、さらに兄弟姉妹で分かち合うのです。


 そして、それは神の御前において「正しくあり得ない」わたしたち信仰者が、いかに「善」を選択するかということのヒントにもなっているのです。


 そもそもわたしたちは信仰者であれ、不信仰者であれ、すべての人間が神の御前において罪深いのです。信仰者はその罪深さの中に絶望の淵から、イエス・キリストによって神との間に和解を得た存在であると言えます。

 しかし、それはイエス・キリストの救いがわたしたちの「罪の赦し」であるという一点において、わたしたちが神の御前において「罪人である」という自己認識において、すなわち「わたしたちは善を選択する能力を持たない哀れな人間に過ぎない。」という神さまに対する告白において、神さまはそれを「正しいこと」として認めてくださり、そのような哀れな罪人に過ぎないわたしたちに対して深い憐みをもって顧みてくださるのです。

 そして、わたしたちはそこにおいて神さまの憐みを受け、その与えられた憐み、祝福によって、自分自身の体をまさに何も持たないわたしたちが神さまに唯一献げうるものとしての「献身」へと導かれるのです。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)

 わたしたちはそのようにして神さまの憐みによって礼拝へと招かれ、そして、そこから隣人愛へと導かれます。それはあくまでも、「神の言葉による導き」であって、「牧師による命令(脅迫)」ではありません。その意味で、「献身」とは「導かれ、招かれるもの」(自発的)であって、「人(牧師)に言われたからやるもの」(受動的)ではありません。

 そして、そうした「自発的」の土台となるのは当然、イエス・キリストによって「罪を赦されたという喜び」であることを忘れてはなりません。

 その意味で、キリスト者が「善を行う」とは、まさに「自分が受けた愛に報いる」ということで、それは自分の罪とその赦し・救いとの関わりにおいてはじめて実現可能(神さまによって導かれる出来事として)なすことが可能なのです。



コリントの信徒への手紙2 9章8~9節
8)神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
9)「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。 


 パウロがここで言っているように教会の発展はまさに、神の祝福によります。しかも、それはあくまでも結果として与えられる豊かさであり、わたしたちはそれを目標とする事はできません。

 そして、教会が注意しなければならないのは、ここで言われている「惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。」とは、いわゆる「教会で献金を募って、献金を困っている人たちに施す」という意味ではないという事です。

 イエス・キリストの示された慈善、すなわち「隣人愛の実践」は、「物品や金銭をめぐんでやる」ということではなく、「困難にある隣人と分かち合う」ということであるのです。

 キリスト教の信仰において「困った人を助ける」ということは通常「正義/善い事」として理解されます。


 しかし、「困った人を助ける」とは実に信仰者が気を付けなければならない誘惑であって、わたしたちは時に、そうした行動をとってしまいやすいのです。

 たとえば、教会が立っている地域とは、まったく縁もゆかりもない別の地域において災害が起こったとします。わたしたちはその時、「ああ、あの人たちはかわいそうだ。大変そうだ。さぞ困っているだろう。」と良心的に考え、「あの人たちを助けるために、何かをしなくては!」と考えて、まさにそうした行動に移るのです。

 もちろん、そうした困った人たちに同情することは決して悪でも罪でもありません。しかし、そうしたことを受けて、わたしたちがその人たちに対して「良い事をしてやろう(善を行う)。」と考える時に注意が必要なのです。


 教会は決してボランティアセンターではありません。ところが、まさにそうした災害が起こった時に、我先にと教会がボランティアセンターに早変わりし、そうした人たちに支援を行い、人材を派遣し一定の成果を上げるのです。

 同じ地域や近い地域にある教会がそうした支援を行うことはあまり問題にはなりません。ところが、むしろ、遠く離れた教会がそうした地域の支援に加わってきます。そうした「同一地域の教会」「遠隔地にある教会」と何が異なるのかと言えば、それは「責任」の問題です。

 それは県をまたいでという場合もありますし、それこそ国内外での場合もあります。

 確かに、そうしたひとつひとつの働きは尊いものですが、問題は教会がそうした責任を持たないまま、自分たちの好き勝手を行い、まさに「自分たちは良い事をしてやった。」と、「正義を行った」と勝手に思うのです。

 中には、実に勝手に、無責任にそうした奉仕を行い、自分たちの都合で勝手に奉仕を引き上げたりします。それによって、被災された方々が混乱するということが実際問題として起こっています。



 その意味で、「責任が取れないのであれば不用意に関わらない。」という判断は、教会においては大変難しい決断となります。

 むしろ、「困っている人を見たら、助ける」という方が簡単なのです。しかし、問題は、わたしたちはそうした責任を果たす力が無いにも関わらず、ただ信仰によって「神さまが助けてくれるだろう」という安直な考えによって、無責任な行動を繰り返すことがあるのです。

 それはまさにイエスさまが言われた「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 」(ルカによる福音書6章39節)と同じです。


 神さまの憐みによって信仰へと導かれたわたしたちは、自分たちが「救われた罪人に過ぎない」という自覚が欠如する時に、あたかも「自分たちは神さまによって後ろ盾を得た。」と、自分の能力・実力以上の事を為そうとするのです。

 わたしたちはイエス・キリストによって罪を赦され、救われたキリスト者であって、それ以上の者でもそれ以下の者でもありません。

 キリスト者は医者にとって代われる者でもなく、特殊な能力を持ち合わせている者でもありません。


 ところがわたしたちは信仰によって罪を赦され、それによってあたかも「他の人よりも信仰において抜きん出た、秀でた、優秀な人間である」と自分自身を理解したい欲求に駆られるのです。それは実に、恐ろしい罪の誘惑であって、特に、若い人たちにとって大きな誘惑であるのです。

 神さまはわたしたち人間の持っている可能性のゆえに、わたしたちを救ってくださるのではありません。むしろ、その逆で、わたしたち人間は大人も子どもも同じように、神の御前においては滅ぶべき哀れな人間に過ぎないのです。

 ところが教会がそうした「人間の無限の可能性」をうたうときに、教会は偶像崇拝へと進んでいきます。そうした教会は当然、若い人たちが多く集まり、活気に満ちています。しかし、それが本当に正しい教会であるかどうかは別の問題であるのです。

 そうしたことを常に、心に覚えつつ、信仰生活を歩んでいきたいと願っています。
 
 

 

 




 

コリントの信徒への手紙2 10章1節、7~13節
1)さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。


7)あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。
8)あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。
9)わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
10)わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
11)そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。
12)わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。
13)わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。 

 
  さて、パウロは、1節、10節で赤く示したところで言っているように、先の第一コリントの手紙の後において、コリント教会の信徒の一部から、かなり酷評されたことが分かります。

 その理由は、これまでのところでも説明しましたが、イエスさまの直接の弟子である十二使徒のようなイエス・キリストの弟子であるという権威、あるいはアレキサンドリア出身の雄弁家アポロのように、パウロはいわゆるカリスマ的な要素を まったく持ち合わせていませんでした。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙で記しているように、あるいは使徒言行録において説明されているように、彼の信仰の土台は「復活の主イエス・キリストによる召命に 全てを負っていた」からです。すなわち、それは「自称使徒」といことであって、最初はパウロを受け入れていたコリントの教会の人たちも、そうした十二使徒たちの教会から派遣されてきた教師、あるいはアポロといった雄弁家の語るメッセージに、パウロには無い福音の力強さのようなものを感じていたのではないかと思います。

 パウロは、そうした信仰者として、福音宣教者として、アポロやその他の教師たちと自分とを比較される事について、そうした教会指導者としての比較が実に愚かなことであることを7節、12節において主張します。

 それは具体的には、「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。」「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」という言葉によって示されていますが、すなわち十二使徒の教会からやってきた教師たちが誇示するのは、まさに自分たちが十二使徒たちの教会に所属し、そこから派遣されてきたのだというまさに自己推薦であり、また雄弁家アポロとの比較によって示される、人間的な能力・才能の比較であり、パウロはそうしたものは福音宣教者としての「うわべのこと」にしか過ぎないというのです。

 しかも、そうしたアポロや他の教師たちは、自分たちを、あくまでも仲間同士で評価し合い、比較し合っていると、その評価は福音宣教者として、実に偏った評価の仕方であるとパウロは主張するのです。


 こうしたパウロの指摘する点は、まさに今日において、いろいろとパワハラやセクハラ問題が取りざたされる牧師や教会に、案外にも共通することです。

 すなわちそれはどういう事かと言えば、本当の意味で信仰的な交わりがなされるのではなく、ただ「(信仰の方向性において、あるいは目指す目的において)お仲間」という非常にこの世的な、あるいはごく世俗的な「なあなあ」の関係のように、そこにあるのは「キリスト教界において主流派になろう」とするために、お互いに相手を良い評価でもって褒めちぎり、そうした「仲間同士の評価」によって、さも「自分たちは正統である」ということをアピールするのと同じであるのです。

 パウロはそうした、偽りの相互評価によって福音宣教者を評価するのではなく、パウロは、むしろ福音宣教者として、何度も命を落としそうになったにも関わらず、いまだ病がいやされていないにも関わらず、今なお生きて福音宣教者として活動できていることこそが、まさにパウロがイエス・キリストの使徒であるということを証明する唯一のものであると主張するのです。

 教会も牧師も、何か時流にのっているからこそ正統であるということではなく、十二使徒の権威をひけらかすのではなく、また雄弁家のような能力や才能によってやっているから正統なのでなく、むしろ、牧師も教会もこの世において困難の中にあって福音宣教の御業を行い続けることができている事において、それはまさに神の憐みによってはじめて実現する事柄である限り、牧師も教会も、自分たちの歩みが神の御前において正しいと判断することができるのです。

 そのためには、むしろ「信徒獲得/勧誘行為」というような教会の業はむしろ否定されなければなりません。そうではなく、パウロはわたしたちキリスト者は、まさにイエス・キリストの救いによってこの世において「信仰によって生きる」という「キリスト者としての証し」によって主による福音宣教の御業に参与するのです。



 しかし、そうではなく、むしろこの世にある教会は、そのような不確定要素の強い神の祝福、神の導きではなく、むしろこの世的なエコノミストとして、あるいは実業家として、また活動家として、すなわちまさにアポロが雄弁家として、福音宣教ではなく、むしろ弁論術によって相手を言い負かしたように、福音の本質とは全く異なる手法によって教会を大きくしようとしやすいのです。

 いわゆる「今、流行っている教会」「今、成長している教会」というのは、いったいどういう事でしょうか? それは本当に神の祝福によるものでしょうか? それが本当に神の祝福によるものだということを一体何によって証明するのでしょうか?

 わたしたちは案外にも、「数が増えている」「メディアなどの露出が多い」というような実に、この世的な、本質とは異なる価値基準によって、さもそれが「神の祝福によるもの」と理解するのです。そして、それに対して、正面から「そうではない」ということを言う人も多くありません。


 パウロは、牧師もまたキリスト者も、そうした教会の状況について深く考えることをせずに、「なんとな~く良しとする」ということをしてはいけないことをここで勧めています。

 そうではなく、まさにパウロは以下のように結論付けるのです。

コリントの信徒への手紙2 10章17~18節
17)「誇る者は主を誇れ。」
18)自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
 
 「うちの教会は今すごく聖霊が働いています!」ということではなく、まさに「主から推薦される人」こそ、すなわち、それは地道な福音宣教の御業において、決して自分のことを他人に誇ることなく、ただ主によって福音宣教者として命が守られることによって、それは神さまが明らかにしてくださるのだというのです。 




コリントの信徒への手紙2 11章12~15節
12)わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。
13)こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。
14)だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
15)だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう


 パウロの指摘する「偽使徒」は、まさに使徒の教会からやってきた教師でありましたが、彼らの語る内容は「(自分自身の罪の告白)証し」ではなく、「自分が使徒の教会に所属する人間である」という自慢話がその特徴であるのです。

  その意味で、その牧師が本当の意味でイエス・キリストの弟子であると言えるかどうか、それを見抜くためには、その人が語る証しを聞けば良いのです。

 マタイによる福音書4章8~9節
8)更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9)「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 

 その牧師の語る言葉が目指すものが何か、それは「この世的な繁栄」でしょうか? もし、そうであるなら、その牧師はまさにイエスさまの言われる「悪魔」であるのです。 

 あるいは、その語るとこが自慢話ではないでしょうか? もし、そうであるなら、その牧師は「サタンに仕える者」ということになるでしょう。


 理由は簡単です。なぜなら、イエス・キリストの救いがまさに「わたしたちの罪の赦し」である限り、わたしたちの証しは常に、「わたしと神さまとの関係性」が証しの内容になってくるからです。

 キリスト教における「罪」とは、わたしと神さまとの関係における「関係の破たん」をいうのです。その意味で、キリスト教における「救い」とは、まさに「罪の赦し」であり、それはわたしと神さまとの関係における「破たんした関係の和解」であるのです。

 だからこそ、それは「できる・できない」や「治らない・治った」ではなく、むしろ、「神さまによって生かされている事に対する感謝の応答」であるのです。


 しかも、パウロは案外にもそうした偽使徒(今日的には「偽牧師」?)が多いこと、また加えて、「模範的な牧師/模範的な信仰者」を装うことが良くあることであると説明するのです。

 
 パウロは、そうしたこの世において偽使徒(偽牧師)が多い事をあまり問題にする必要はないことをコリントの教会の人たちに対して勧めます。なぜなら、神の御前において悪を行って、その罪の報いを受けないことはないと確信しているからです。

 言い方を変えれば、牧師が悪を行って、その犯した悪の報いを受けないはずがなく、当然、神によってその牧師は自分の行った悪に応じた最後を迎えることになるとコリントの教会の人たちに勧めるのです。



 そしてパウロは有名な12章9~10節の御言葉を語ります。

コリントの信徒への手紙2 12章9~10節
9)すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10)それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 牧師や信徒がこの世において誇るべきことがあるのだとすれば、それは第一に「誇る者は主を誇れ。」(コリントの信徒への手紙2 10章17節)であり、第二に誇ることがあるとすれば、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙2 11章30節)ということでしょう。

 では、教会が誇るべきことは一体何でしょうか?

 パウロはこの聖書箇所において神の力がわたしたち人間の弱さの中でこそ十分に発揮されることを明らかにしています。

 すなわち、教会がそこに集う兄弟姉妹の人間的力で頑張っている間は、神の力は十分に働くことはないのです。むしろ、それは自分たちの力を誇ることとなり、表向きは「神さまの栄光」でありながら、実は、自分たちの自慢になっている場合があるのです。

 そうではなく、主がパウロに対して神の力が人間の弱さの中でこそ十分に発揮されるのであれば、それは当然、教会(あるいは牧師・信徒)として、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態において働く神の力によってはじめて、それがわたしたちが本当の意味で誇るべき神の力であることを示しているのです。


 若い人がいない。高齢者ばかりだ。そもそも人数が少ない。自分たちだけでは何もできない。などなど。

 そうした教会はこの世的には「魅力のない教会」ということになるでしょう。しかし、パウロに言わせればそうではないのです。むしろ、そうした困難の中にある教会こそが、まさに神さまの力が大いに働く教会であることを言っているのです。


 その意味で、わたしたちはそうしたこの世的にはマイナス要因しかない教会の状況を決して悲観する必要も、絶望することもないのです。むしろ、そうした教会において、主の憐みを求めるところに主の大いなる御業がなされるのです。


 教会が人間的な繁栄を求めるときに、それはまさにサタンに付け入る隙を与えるのと同じです。そして、牧師も信徒も気づかない内に、そうした教会は牧師も信徒も、信仰において「サタンの使い」に成り下がってしまうのです。それは非常に恐ろしいことであり、わたしたちはそうなりやすいのです。

 そして、一度、そうした方向に牧師や信徒、教会が流れてしまったら、自分たちの努力で元の状態に軌道修正することはほぼ不可能です。そうした教会はわたしたちの身の回りに多くあります。



 常に主の御言葉に耳を傾け、自分自身の罪を告白し、悔い改める。それは信仰の基本であって、もっとも大切なことです。そして、その事にどれだけ忠実であることができるか。それが常にわたしたちに問われているのです。

 

コリントの信徒への手紙2 13章1~13節
1)わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。
2)以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。
3)なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。
4)キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。
5)信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
6)わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。
7)わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。
8)わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。
9)わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。
10)遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。
11)終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
12)聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
13)主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。


 パウロはコリントの信徒への手紙2の13章において、「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。」(1節)と記しています。すなわち、先にも説明したように、パウロは先の第一の手紙を記した前後において、教会の中で不祥事が起こったことを記しています。

 すなわち、このコリントの信徒への手紙2が書かれた背景においては、これまでパウロが語ってきたこともありますが、加えて、先に起こったコリント教会内の不祥事について、そこで罪を犯した加害者と、その罪によって被害を受けた被害者との間において和解が成立していないことを問題にしています。


 このコリント教会の中における不祥事についてパウロは具体的なことを記していませんが、それはコリントの教会の人たちにとってみれば周知の事実であって、問題は、パウロが1節で「すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。」と言っているように、不祥事がなお不祥事のまま、コリント教会の中で決着が着けられずに、誰も何もしないままの状態が続いていることを問題だとして、2節において「今度そちらに行ったら、容赦しません。」と、かなり厳しい言い方をもってコリントの教会の人たちに対して、不祥事についての和解を為すようにと、なかば厳しく命令しているのです。

 こうした教会の中における不祥事について、パウロはローマの信徒への手紙において「・・・、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマの信徒への手紙7:7)と言っているように、すなわち「罪とは律法によって定義されるものである」という点において、理屈のうえでは律法のないところに罪は起こらないのです。

 実は、これがキリスト教会に限らず、色々な組織において不祥事が起こっても、なかなかその事が表に出てこないのは、まさに罪のこうした性質によるものであって、それを罪を犯す人間がその事を良くも悪くもよく心得ている点にあるのです。

 すなわち、「Aは問題だ!」と誰かが叫べばまさにAは問題となりますが、誰もAについて「問題だ!」と言わなければ、Aは問題にならないというわけです。

 表現を変えて、たとえば教会の中において「Aさんはセクハラをした」と被害者が声を上げれば、まさにその教会の中において問題が発生するのです。すなわち、被害者が声を上げない限り、教会の中でいくらAさんによってセクハラが行われていたとしても問題にはならないのです。

 もちろん、そうしたことが神の御前において間違っていることは明白です。それはパウロがまさに1節で「二人ないし三人の証人の口によって確定されるべき」と言っているとおりなのです。


 ところが、キリスト教会を例にあげれば、牧師・信徒に限らず、教会の中でそうした不祥事が起こった場合に、牧師も信徒も自分たちの平常の信仰生活、礼拝を守りたいという「自分たちの平安」のために、不祥事の加害者に対して注意をするよりも、むしろ、「問題だ!」と声を上げようとする不祥事の被害者に対して圧力をかけ、「教会の看板に傷がつく」「キリスト教会で不祥事が起こったことがうわさになれば、地域に対して良い証しにならない」というような感じで、むしろ「問題だ!」と声を上げようとする、すなわち真実を明らかにしようとする被害者に対して「罪の赦しがキリスト者のあり方だ」とか、「『問題だ』という被害者にこそ問題があるのだ」とでも言わんばかりに不祥事を黙殺し、最終的には時の流れと共に「その内にほとぼりもさめるであろう」と、「何も問題は起きなかった」ということにすることを要求してくるのです。

 パウロはここであまり詳しいことを記していませんが、おそらく、言外に、まさにコリントの教会において上記のような、被害者に対してはそれを問題として取り上げず、また加害者に対しても、不祥事に対する責任についての話をするでもなく、ただいたずらに時間が過ぎるに任せていたのです。

 そのため、コリントの信徒への手紙1において「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。」(コリントの信徒への手紙1 6章6節)とパウロが言っているように、主だった教会の人たちがその問題を問題として取り上げなかったために、被害者はそれを、教会外の一般の裁判の席に訴え出ざるをえなかったのです。

 既に、先の記事で説明したとおり、パウロはそもそも教会は神の御前において自分たちの罪を告白し、悔い改めることがキリスト教会の信仰の基本であることを認めている点において、そうした教会内で起こったそうした不祥事についても、教会内でそれを信仰的に判断してきちんとなされるはずであることを、既にパウロはコリントの教会の人たちに伝えていました。

 そこでパウロは、そうしたコリント教会内における不祥事について、まさに一体誰が誰に対して何を行ったのか、その真実を明らかにすると共に、弁償すべきは弁償し、謝罪するべきは謝罪し、まさに 3節において「キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。」と、すなわちイエス・キリストを信じ、主と告白する教会内において、そうした不祥事が未解決のままに放置されれば、当然、神の裁きによってその罪が裁かれるであろうことをパウロは強調するのです。

 イエス・キリストを信じる信仰者が罪の中を歩むことは不可能です。その意味で、信仰者が自分の内に罪を未解決のまま放置することはありえない事であり、まさにそうしたあり得ない状態のまま神の裁きによって滅びる「失格者」になることがないようにと、パウロはそういう意味で、一連の不祥事における加害者も被害者も共に罪の告白と罪の悔い改めを通じて神の御前に互いが和解し、加害者も被害者も、双方が共に失格者にならないようにという切なる願いを込めて、深い愛情をもってこの事の重大さを説明するのです。

  パウロは、コリントの教会の人たちのために、自分自身がたとえ信仰者として神の御前に罪を犯して失格者のように見えたとしても、しかし、それによってコリントの教会の人々が神の御前に罪を悔い改め、善を行いうる適格者になることができるようにと切に祈っているのです。

 その意味で、これまでのコリント教会の人々に対するパウロの厳しい言葉のひとつひとつは、コリント教会の中に起こった不祥事を明らかにし、コリントの教会を破壊するため、コリント教会の信徒をバラバラにするためではなく、すべては 「壊すためではなく造り上げるため」(10節)であることを重ねて説明するのです。


 
 だからこそ、ここから見えてくるパウロのが言わんとする、教会の中における罪の赦しとは、今日的な教会で間違って捉えられているように、「無かったことにする。」「すべてを水にながす。」という事とは決定的に異なるということです。

 イエス・キリストによる和解とは、すなわち「加害者も被害者も共に神の御前においてお互いが罪を告白し、真実を明らかにする」ことを通じて実現する「神による和解の出来事」なのです。その意味で単純に「加害者を悪者にする」ことも目的としていません。 もちろん、ただ口で「ごめんなさい」で終わりということでもありません。

 たとえば被害者が加害者から受けた損害に対する賠償を含め、「和解」のための丁寧な取り扱いが求められるのです。その意味で「表面的な和解」でなく、まさに「真実の和解」を目指すことが求められるのです。 
 
 当然、そこには多くの祈りが奉げられる必要があるでしょうし、ただ加害者・被害者というだけではなく、教会が全体としてこの不祥事について公平に、信仰をもって関わることが求められることでしょう。その意味で、「真実の和解」とは、まさに教会全体の取組みとして、教会全体がこの不祥事について、まさに自分たちの痛みとして理解し、教会全体として神の御前に罪を悔い改めるという、神に対する教会全体の姿勢が問われるのです。

 
 そして、まさにパウロはコリントの教会がまさにそうした教会であるようにと、祝福と一致の祈りをもってコリント教会の人たちの上に祝福を祈るのです。この最後の聖句は、牧師が礼拝の最後の方で行う祝祷の文言として良く使われます。

 
 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
 聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
 

 世のキリスト教会がまさにこうしたパウロの祈りに応える教会であるように願いつつ。

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