山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

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 コリントの信徒への手紙1は全体が長いのでまず、今回は1~2章について話を進めたいと思います。

 まず、コリントの信徒への手紙1 章11節に「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」(1コリント1:11)とあるように、事の発端は、コリント教会の教会員であるクロエの家のある人物からパウロに対して、コリント教会に発生したある問題についての相談がの連絡があったことにはじまります。


 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。(1コリント1:12~13)

 そのクロエの家のある人物からの知らせが記す当時のコリント教会の問題は、いわば「内部分裂」であって、コリントの教会の中に、例えるならパウロ派、アポロ派、ケファ派(ペトロ派、ユダヤ主義キリスト教)、キリスト派(パウロやアポロ、ケファといった人間ではなく、キリストを主とする派)という具合に、キリストの体である教会がいくつにも分けられてしまったような状況であることをパウロに伝えたのです。


 さて、なにやら話が複雑な様相なので、少し、使徒言行録などの記述にみるコリントの教会の成立について簡単に説明します。

コリントの信徒への手紙1に見る教会


 まず、コリントの信徒への手紙1の成立について、なぜ、このような手紙をパウロが記したのかを図にしたのが上のものです。①~⑦というのは出来事の順番を指しています。

 この説明をしますと、まず、そもそもコリントの教会のはじまりは、もともとローマのユダヤ人会堂においてメシア=イエス運動をおこなった首謀者に対して、当時の皇帝クラウディウスがローマ市からユダヤ人を追放するという出来事が起こります。

 その時、メシア=イエス運動の首謀者にアキラとプリスキラという夫婦がいたのです。二人はローマから追放され、活動の場を求めてイタリア州からアカイア州コリントの町へやってきたのでした。

 その時、パウロはマケドニア州のテサロニケから始まって宣教旅行を行っておりましたが、ユダヤ人の反感を買い、追われるようにしてアテネ、コリントと移ってきたのでした。

 そして、まさにこのコリントの町においてアキラとプリスキラ、そしてパウロが信仰を同じにする者同士(つまり、アキラとプリスキラはパウロの協力者であって弟子ではない)としてコリントの教会を興すのです。それが①の出来事です。

 その後、パウロとアキラとプリスキラは海をわたり、アジア州エフェソに赴きそこでエフェソ教会を指導するようになるのです。


 パウロはその後、エフェソから別の場所へと宣教旅行で移っていきます。それが③です。

 しかし、アキラとプリスキラはエフェソの教会に留まり教会を指導するのです。ところが、そうしている内に、エジプトのアレキサンドリアから聖書に詳しいユダヤ人雄弁家のアポロという人物がエフェソへとやってきます。そして、アポロがメシア=イエス運動を行っているという噂を聞きつけ、アキラとプリスキラはアポロを招いて、「聖霊による洗礼」を教えるのです。それが④です。


 さて、その後、アポロはもともと「アカイア州に行きたい」という願いを持っていたことから、アキラとプリスキラは、アカイア州にある教会であるコリントの教会に手紙を書き、アポロに手紙を持たせて送り出したのです。

 ところが、コリントの教会におけるアポロの活躍は、決して、良い結果だけをもたらしたわけではなかったのです。それが⑤です。

 コリントの教会の中に分裂の危機が訪れ、それに心を痛めたクロエの家のある人物が、そうした状況をパウロに知らせた。それが⑥です。

 そして、パウロはそうしたコリントの教会の状況を何とか信仰的に解決しようと、コリントの信徒への手紙1を記したのです。それが⑦です。


 さて、パウロによるコリントの信徒への手紙が書かれたいきさつはおよそ上記の通りとなります。

 なお、パウロがこの手紙を書くきっかけとなった「雄弁家アポロ」については、以下のところにまとめてありますので、そちらをご覧ください。-> 「問題宣教者アポロ」



 まず、上記の話の整理をします。

 パウロのコリントの信徒への手紙に直接個人名として登場する「アポロ」という人物についてですが、彼はエジプト・アレキサンドリア出身のユダヤ人で、聖書(旧約聖書)に詳しい雄弁家であり、アレキサンドリアでユダヤ教の中でも、特に、イエスをメシアとして信じる信仰を受け入れ、その信仰を持ったのです。そして、彼には、イエスをメシアだと信じる信仰の宣教者として大都市での宣教を志していたのです。

 その後、アポロはアレキサンドリアからアジア州・エフェソにやって来て、そこでユダヤ教の会堂に行き、イエスこそがメシアであることをかなり強烈に人々に教えたのです。そういう意味では、アポロは非常にカリスマ的な要素を持った人物であることがわかるのです。


 当時、パウロが直接、アポロと接触があったのかはわかりませんが、パウロと一緒にコリントの教会からエフェソの教会へと移ってきたアキラとプリスキラ夫妻は、このアポロの才能に目を留め、アポロに対して信仰的な指導を行い(アポロ自身は洗礼者ヨハネの洗礼しか知らなかった)、その後、アポロの要望を受けて、アカイア州のコリントの教会に手紙を書き、その手紙を持たせてアポロをコリントの教会へと派遣したのでした(パウロはおそらくはこの事を知らないか、直接は関わっていないのでしょう)。

 なぜ、パウロとアポロの接触がないのかと言えば、パウロがアポロと接触していたのであれば、おそらく、コリントの教会へアポロを派遣する以前において、その問題点を指摘できていたものと判断されるからです。


 かくして、アポロはコリント教会に行き、必ずしもアポロに起因するものが全てではないですが、そこで教会の中のいろいろな信仰の問題が起こり、パウロはそうした当時のコリント教会の人々が直面した信仰的な問題に対して、パウロは手紙を記して、ひとつひとつの問題に対して信仰的指導を行ったというわけなのです。



 

 さて、ここまで来てコリントの信徒への手紙の背景について、ご理解いただけたのではないかと思うのですが、パウロ個人としては、つまりはそうした理由によってこの手紙を記したのです。

 しかし、最終的に、キリスト教の歴史において、「キリスト教の聖典」という枠組みの中にこの文書が採用されたのはなぜかということを考えるのであれば、すなわち、こうしたコリント教会における一種の不祥事のような事柄が、以後のキリスト教会においては当然反省されていてしかるべき、という教訓としての意味があるということなのです。

 そうした「歴史的な教訓に学ぶ」「先人の犯した罪とその反省に学ぶ」ということが、すなわちキリスト教の信仰において大切なものであり、「罪の悔い改め」とは、まさにそうした「同じ失敗を繰り返さない」ということなのです。

 聖書はそういう意味では全体として、「人間の失敗(人間の罪)」ということを反省し、そうした「過ちを二度と犯すことのないように」という、信仰の先達たちの慈愛に基づいているわけです。


 つまり、「悔い改め」だとか、「聖霊の導き/満たし」「きよめ/きよめの生涯」「キリストの内住」「聖化」とか、こうしたいろいろな表現はありますが、そうしたものが具体的には何を言っているのかという、具体的には「神の言葉に耳を傾け、日々自分の生き方を(イエス・キリストの御名によって告白し)反省する」ということであるわけです。そういう意味では「反省しないキリスト者」というのは当然有り得ないのです。

 牧師は信徒に先だって自分自身がまず神の御前に反省する者であり、そうした牧師の姿勢に信徒がならい、そのようにしてキリストの教会は形成されるのです。



 では、以下に御言葉を引用します。

「こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(1コリント1:6~7)

 この言葉は、パウロが「挨拶の言葉」として記したものです。

 パウロは1コリント12章12節以下において、キリストの教会を「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」(1コリント12:12)と言っているように、教会は全体としては、地上においてイエス・キリストを証するひとつの体であり、しかし、それは一つの体であるけれども、そこには「多くの部分から成り」、すなわち色々な賜物を持ったイエス・キリストを証しする教会員ひとりひとりによって構成されることを説明しています。

 つまり、そこには様々な賜物を持ったキリスト者がいるわけですが、問題は、教会はそうした賜物を持ったキリスト者が、全体として協調し、秩序を保ち、具体的には地上において、例えば、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章34~35節)にあるような「これこそがキリスト教会」としての証をすることにあるのです。

 当然、教会には子どももいれば青年もおり、壮年、高齢者、男性、女性、健常者に闘病者、外国人・・・と、すなわち地上における教会とは、こうした現実の社会の縮図のような、まさに教会の中にイエス・キリストがご隣在くださり、今もなお、そうした人たちに対して、その重荷・苦しみ・悲しみを知ってくださり、そうした兄弟姉妹に対して、祝福と祈りをもって応えてくださるものであるのです。

 そういう意味では、教会は、ペトロが神殿の門において足の不自由な人に対して語ったように、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(使徒言行録3章6節)と、「教会が貧しい」ということは本質的な問題ではないのです。

 教会が持っているもの、すなわち教会がイエスさまからいただいたものは現金ではありません。教会がイエスさまから頂いたのは祝福の言葉と祈りであって、まさに「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイによる福音書10章8節)とイエスさまが言われたように、教会がその宣教の核心において代価を求めるということは、絶対的にあってはならないのです。あくまでも、そうした祝福を受けた方が感謝の気持ちとして教会に捧げてくださるものがあれば、教会はそれを感謝して受け取ればよいのです。それは必ずしも現金ではなく、当然、別の形のものである場合もあるわけです。ある人はそれを自分が育てた野菜で返してくださる場合もあるでしょうし、何もないので感謝の祈りで返してくださることもあるでしょうし、それはその人の感謝の気持ちがあればイエスさまは十分であると言ってくださるでしょう。

 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」(ルカによる福音書17章15~16節)

 当然、イエスさまはこの人物に対して「感謝」以上のものを求めてはいないでしょう。



 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(1コリント1:10)

 次に、1章10節以下のところでパウロが示すキリスト教会のあり方というのは、すなわち「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」という事に集約されます。

 イエス・キリストを信じる者は当然、イエス・キリストの約束した霊、すなわち聖霊を受けている者であり、そうした人物は当然の事として、イエスの語られた掟である「あなたの隣人を愛しなさい。」という隣人愛の実践こそが、その基本であるわけです。

 それはもちろん、人間的努力によって実現するものではありませんが、しかし、各人は、聖霊の助けによって隣人愛を実践する者として変えられていくことを願い求めることが要求されているのです。なぜなら、イエス・キリストが十字架上でその命を落とされた、その出来事が、まさにキリスト者に対してそのことを御心の内に命じているからです。

 そして、そうしたイエス・キリストにつながる一人一人がまさに、「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合」うのがパウロの願い求めるキリスト教会の姿であるのです。

 しかし、それは決して、牧師を司令官として、その下に各種リーダーがいて、その下に平信徒がいるというような権威主義的なピラミッド型の教会ではありません。

 パウロはあえて教会の仕組みを、「キリストの体」というふうに表現しています。当然、それは当時知られているローマ軍のような軍隊構造ではなく、「キリストの体だ!」ということであるのです。教会はひとりひとりがみんな異なり、しかし、みんなが異なるにもかかわらず、それはイエス・キリストの愛によって、固く結び合っているのです。当然、それは「できる人だけの教会」ではないわけです。




「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1コリント1:18)

「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1コリント1:21)

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:26~29)

 パウロにとって「宣教」とは何であるか? それを端的に示しているのがこの御言葉です。

 パウロの「宣教」とは、①「十字架の言葉による」ものであり、②「愚かな手段」であり、③「(神の)召し」によるものであり、④「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」のものであるということなのです。

 これはどういうことかと言えば、まず①について「十字架の言葉による」とは、例えば、以下のイエスさまの言葉に見ることができます。
 
 『それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』(ルカによる福音書9章23節)

 キリスト者としての信仰生活は、すなわち「日々、自分の十字架を背負う」事としてイエスさまは言っています。

 それは具体的には、「毎日、聖書を読み、そこで示される自分の罪を認識し、イエス・キリストの御名によって罪の赦しを祈り(無力なわたしを助けてくださいという祈り)、そうした罪の悔い改めを毎日行うこと」であるのです。

 つまり、パウロの言う「宣教」とは「信仰の勧誘」ではないのです。

 ②の「宣教」が「愚かな手段」だとは、まさに「キリスト教の宣教とは、自分が罪人であることを神と人との前において証しすること」だからです。そこには「賜物」などというものは一切関係がないのです。


 そして、「宣教」は③神の召しによるものである、というわけです。

 わたしたちもそうですが、わたしたちがキリスト者になったのは「勧誘されたからか?」というとそうではありません。

 確かに目に見えるところにおいて、そうしたきっかけとして教会で行われる音楽会や伝道集会などの様々なものは一定の効果はあるかもしれません。しかし、パウロはそうした「人間的勧誘行為」は全く問題にしていません。

 あくまでも、その人がキリスト者になるのは神の召しによるものであって、教会がそうした人たちのために行うべき行為は、当然、「勧誘」ではなく、「(とりなしの)祈り」によるものであることが読み取れるのです。

 そして、そうした「宣教」が「神の召し」によるものであることの重要性が、結論的に語られている「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:29)という言葉にあるとおりなのです。

 教会がキリストの体であるとは、パウロが12章で語っているように、体の部分に過ぎない目や手が、誰よりも目立つ・尊重されるというような事があってはいけないことを言っているのです。当然、牧師と言えども、それはキリストの体の一部であって、決してキリストの頭などではなくむしろ体のなかで一番汚れ役である「足の裏」であることが求められるのです。

 「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコによる福音書9章35節)

 それが、キリスト教会の価値観であり、イエス・キリストが弟子たちに示された「一番」なのです。



『神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』(1コリント1:30~31)

 そして、そうした教会が誇るべきはイエス・キリストであり、教会の中でイエス・キリスト以外が誇られることがあってはならないのです。

 

「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」(1コリント2:4~5)

 パウロはコリント教会の人々に自分自身の経験として、まずコリントに訪れた時のことを証します。

 パウロはそれを「“霊”と力の証明によるもの」と言っていますが、それは当然、パウロ自身の持つ人間的な魅力、たとえばカリスマ的なもの、あるいは人徳のようなものではなく、あくまでも聖書の御言葉に基づく、パウロ自身の罪の悔い改めというキリストを証する者としての生き方によるものであることを言うのです。

 実際、パウロに対して当時の教会の人々が思ったのは「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(2コリント10:10)と言う者たちがいるほどです。

 その意味で、パウロの人間的な外見は、決してカリスマ的な特徴があるわけでもなく、むしろ、弱々しい感じで、しかもその話も、他人を惹きつけるような魅力あふれるものではなかったのです。

 こうしてみると、「パウロの宣教」とは、まさにパウロ自身が自分の罪に対する弱さを皆の前で告白し、まさにそうしたこの世において弱く、傷ついた者たちが、まさにイエス・キリストの罪の赦しの経験を通じて、まさにパウロをはじめとしたコリント教会の人々が「自分の十字架」を担いつつ、日々、イエス・キリストの言葉に聞き従うという信仰者としての日常生活を通じて、隣人を(神が)感化させてくれるというものであったということなのです。


 ところが、今日のキリスト教界においては数量的な増加、教会(あるいは宣教)の拡大ということが、まさに「神の御心である」として、多くの人がその事について疑いを持つこともなく、まさにサタンの誘惑に対して盲目的に追従してしまっている現状があるわけです。

 特に、パウロのそうした「宣教」ということを考慮すれば、当然、「信仰継承」とは、つまりは「使徒継承」であって、それは「親から子」という人間の血肉による信仰の継承はありえないのです。

 確かに、父親が牧師、あるいはクリスチャンであり、その息子が牧師、あるいはクリスチャンになるケースもありますが、それは基本的には、ひとりひとりがイエス・キリストの御前において自分の十字架を担うという信仰告白を通じてはじめて可能であり、むしろ、そうした血肉に拠らないからこそ、教会は、いつの時代においても、また全く教会が無い場所であっても、神の御心であれば、無の状態から教会は興されるのです。そして、それを興すのは神であるのです。

 確かに、教会を実際に興すのは、牧師であり、また牧師と志を同じにする信徒の集まりであるわけですけれども、しかし、それは信仰的には、人間の努力として興すのではなく、「神の御心において興される」ものであるのです。その部分を、わたしたちは間違えてはなりません。

 わたしたちが地上においてキリスト者として求められているのは「神を礼拝すること」であって、わたしたちの日常の信仰生活は、「日々、自分の十字架を背負うこと」であるのです。

 そして、その教会が無くなるのも、また興されるのも、すべては「神の御心」であり、それは「人間(牧師)の願い(考え)」ではないのです。 



『わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。』(1コリント2:12~16)

 神から与えられる聖霊は、いわゆるこの世的な「霊(感)」「スピリチュアル」というようなものとは決定的に異なっています。

 「聖霊の満たし」「キリストの内住」など、多くの人がそれを聞けば、なにやらシャーマニズム的な要素がキリスト教信仰にもあるものと思われるかもしれませんが、そうではありません。

 パウロが「宣教を愚かな手段」と呼んだように、キリスト者が聖霊の働きとして聖書の御言葉を通じて知ることのできるものは、決して、「精神的な昂揚感」のようなものではなく、むしろ、「人間の罪を明らかにするもの」であるのです。

 「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。」とは、まさにそうした聖霊の助けにより、聖霊の働きによって、わたしたちが聖書の御言葉から自分の罪を指し示すその事柄は、当然、「自分の汚点」でもあるので、普通の人はそれを受け入れることはできないのです。むしろ、わたしたちは幼い頃から「強くなること」に憧れ、人間的に「強くなること」を教えられて成長するのですから、そうした「自分の欠点(自力では克服が難しいので)」などは、むしろ「見ないようにする」ということが当たり前なのです。

 当然、「欠点は見ずに、長所を伸ばす」ということが人間が人間として成長する時に大切だと言われるのです。

 ところが、キリスト教の信仰は、むしろ、「人間の長所は見ずに、欠点(自分の罪)を認めて、神の助けを求める」ということですので、明らかに「常識からすれば非常識だ」ということになるわけです。

 では、パウロはそうした「キリスト教の常識」は「霊によって初めて判断できるからです。」と言っていますがそれはどういうことでしょうか?

 わたしたちが(聖)霊によって何を判断できるのかといえば、それは当然、「自分の罪(弱さ/神の助けが必要な部分)は何であるか?」ということです。

  すると、わたしたちのイエス・キリストの名による罪の告白は、当然、わたしたちが神の御前において、イエス・キリストの御前において、自分の罪を、一種の公開裁判を受けているのと同じですから、当然、その人に対して聖霊の働きを通じて語られている「罪」とは、まさにそれは「神の言葉」であり、「神さまがその人に対して直々に語られた判決」であり、当然、『その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」』とパウロが言っているように、自分の罪を告白し、罪を悔い改める人物を、「人間が裁く」ことはできないのです。

 この「罪の告白」と「悔い改め」こそが、キリスト者の命であり、信仰生活であり、そして、教会が教会であること、牧師をまさに牧師たらしめるものであって、パウロがコリント教会の人たちに対して信仰的に大切なこととして教え伝え、そして、今日のキリスト教会は、まさにそうした聖霊による価値基準・判断基準によって、この世においてイエス・キリストの救いによって教会であり続けることができるのです。


 

 今回はコリントの信徒への手紙1 3章~4章をみます。


1)兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
2)わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3)相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
4)ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
5)アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
6)わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
7)ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。


 さて、キリスト教の信仰は一足飛びに深まるものではありません。
 また、教会に通うようになって、年数が経てばそれだけ信仰が深まるのかというと、パウロはそうだとは言いません。クリスチャンも教会も、共に成長するものであるというわけです。

 このコリントの教会の人たちの場合でいえば、アポロというカリスマ的な宣教者がやってきたことにより、コリントの教会は一変しました。それが良い方へ一変したというのであれば良いのですが、パウロに言わせればむしろ逆だというわけです。

 パウロは、まずアキラとプリスキラたちと共にコリントの教会の立ち上げを行い、当時、まだコリントの教会もその教会の人々も信仰的には「あかちゃん」だと表記しています。

 そして、パウロによって、あるいはアキラとプリスキラたちによって、信仰的な養育(指導)を受けるわけですが、そのようにしてキリストを信じる信仰者として「大人」になったかといえば、そうではなかったというわけです。


 ここにパウロのキリスト教信仰、あるいは教会についての理解が読み取ることができます。

 それはどういうことかと言えば、キリスト教信仰とはその信仰の始まりから、「信仰生活を通じて、信仰的成長、言い換えるなら信仰者として成熟することが求められている」ということです。

 しかも、それはいわゆる「キリスト教の知識が増し加わる」ということではなく、パウロはそうした信仰に基づく、キリスト者としての信仰生活、教会生活という非常に具体的な、実際的な出来事において、キリスト教信仰が身を結んでいなければならないとみているのです。

 それはコリント教会においては具体的に、「教会の中でねたみや争いが絶えない」という現実的な出来事において、信仰的な成長、あるいは「教会であるこ」との実践が全くできていなかったことを意味しています。

 すなわちわたしたちはキリストの救いに接し、キリスト教徒になるわけですが、問題は、むしろその後の「キリスト者としての生き方」と、そうしたキリスト者の共同体である「キリスト教会」にあるのです。


 しかし、そうしたパウロが指摘する問題とは、決して、個々のキリスト者が「明確に神に逆らおう」として発生した出来事ではなく、むしろ「キリスト者が人間的に神に近づこうとした」結果として、結んだ人間の罪の実、すなわち偽善が引き起こした教会の不和であるということにあるのです。

 多くの場合がそうだと思いますが、キリスト教信仰に触れ、キリストの救いにあずかった人物が、意図的に「悪を犯そう」とは考えません。むしろ「キリストに倣って善を行おう」と考えるのです。

 ところが、問題はそのようにしてキリスト者が求める「善」が、実は「偽善」であったということにあるのです。

 使徒言行録に記されていますがアポロは雄弁家であり、パウロに比べれば、そのカリスマ的な存在感はパウロをはるかに凌ぐものであったことが考えられます。

 そうした、アポロのカリスマ的な牽引力に、コリントの教会の人々は大いに啓発され、そこで大きな働きをなしたのです。

 「それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たち(アキラとプリスキラたち)はアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着く(アキラとプリスキラたちが建てたコリントの教会)と、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。」(使徒言行録18章27~28節)

 ところが、一見「大成功」に見えたアポロのアカイア州の(コリントの)教会での成功は、パウロにしてみれば「大失敗」であったわけです。

 パウロはこのコリントの信徒への手紙において、コリント教会の人々が、キリスト教信仰の基本から離れてしまって、むしろ、アポロのカリスマ的で力強い宣教に大いに心を惹かれたわけです。

 キリスト教の信仰の基本が、「イエス・キリストの御前において自分自身の罪を告白し、罪を悔い改める」というものである限りにおいて、キリスト教の信仰で「人間のカリスマ性」というような、人間の性質(賜物)は問題ではありません。

 ところが、そうした「激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せた」ような、アポロの「雄弁」というカリスマ性、アポロの人間としての能力、あるいは賜物について、それがコリント教会において一部の人たちから大いに評価されたのです。

 当然、パウロやアキラ、プリスキラたちによって指導を受けた他の信仰者たちは、アポロのような人間的カリスマ性を否定し、よりパウロの教えに忠実であろうとしたわけです。

 しかし、パウロはここで、アポロ派になった人たちが信仰的に問題であるということを主張するのではなく、むしろパウロ派についた人たちも同様に、互いにひとつの教会の教会員として全員が神の御前において、自分たちの罪を悔い改める必要性を説いたわけです。

 パウロは、そういう意味で、自分自身について、あるいはアポロについて、すなわち今日的に表現すれば牧師という存在について、それは教会において尊重されるべき存在であるけれども、しかし、だからと言って、「どの牧師が正しい」という見方を退けるのです。

 わたしたちが仕えるべきはあくまでも教会の頭であるイエス・キリストであり、イエス・キリストの言葉に聞き従う者であることが、キリスト者にとって最も大切なことなのです。

 そして、そうしたイエス・キリストの言葉に聞き従う者は、当然、普段の生活においても、そうした信仰的に基づいた生活を行わなければなりません。イエス・キリストは「互いに愛し合いなさい。」と言ったのであって、「互いに争いなさい。」とは言いませんでした。

 そして、本当の意味において、「イエス・キリストの言葉に聞き従っている」ということがキリスト者にとって大切であり、またそうした一人一人のキリスト者によって、頭なるイエス・キリストにおいて、イエス・キリストの体である教会を形作ることができるのです。

 その意味で、たとえば「隣人愛の実践」は、キリスト教会においてはまさに必須の事柄であって、教会は、あるいは牧師や信徒は、そうした隣人愛の実践が求められているのです。


 当然、それはキリスト教の信仰の基本である「罪の告白と罪の悔い改め」によるものであって、「人間的努力の結果」として実現されるものではないのです。

 具体的に礼拝式の中でハグをしたりというような人間的親密さではなく、あくまでも一人一人が神の御前においてキリストの言葉に従い、真実を持って生きる、そうした罪の告白である証と祈りによって、むしろ、自分がいかに弱い存在であり、神の助けによって生かされているのだという、信仰によって生きる一人一人の神の御前における感謝の姿によって教会は教会として正しく信仰的に成熟することができるのです。


 パウロは、そうした教会が教会として成長することにおいて、「指導者の自覚が大事だ」というだけではなく、もちろんそれも大切ですが、「教会員の一人一人の心がけ、信仰生活も大事だ」ということを言おうとしているのです。

 問題のある教会において、「牧師に問題がある」というケースは良く指摘されますが、パウロに言わせれば、「それを黙認している信徒にも同様に重大な問題がある」という事なのです。

 その意味で、牧師が常に信徒と対等にものを言えるようにできているか。すなわちプロテスタント教会でいえば「万人祭司」の信仰に立つ教会は、そうした点がきちんとわきまえられていることが大事であるのです。

 そして、そうした誰もが等しく、イエス・キリストをこそ主とし、イエス・キリストの言葉に聞き従う時に、教会はまさに神によって正しく成長するのです。



1)こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
2)この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。

4)自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。


 パウロは、このところでキリスト者として大切な事が何であるか、あるいは牧師の資質として求められるものは何かを明らかにしています。

 それは何かと言えば、「イエス・キリストに忠実であること」です。


 「イエス・キリストに忠実であること」とは、牧師にとって、キリスト者にとって至極当然のことでありますが、実は、この「忠実である」ということが実は難しいのです。

 パウロは、キリスト者として、教会を指導する者として、今日的に言えば牧師、あるいは教会指導者として、自分自身が神の御前において「義とされているわけではない」と告白しています。

 それは、言い方を変えれば、パウロ自身も、自分が考え判断し行動しているその事が「神の前に正しい」とは考えていないということなのです。

 すなわち、「牧師が間違うはずがない」とは有り得ない事柄なのです。

 むしろ、「牧師も間違うし、信徒も間違う」のです。


 その意味で、パウロがここで指摘するのは、「キリスト者の正しさ」「牧師の正しさ」「教会の正しさ」とは、いったい何によって実現できるかと言えば、それは当然、「キリスト者の罪の告白」「牧師の罪の告白」「教会の罪の告白」によって、はじめて実現されるのです。

 キリスト教信仰において、キリストの救いが「罪の赦し」である限り、「信仰者の正しさ」とは「罪の告白によって明らかにされる」のです。

 これは実に基本的であり、キリスト教信仰の初歩の初歩ですが、案外にもわたしたち信仰者が忘れやすいものであり、牧師や教会が失いやすいものでもあるのです。


 わたしたちとイエスさまとの関係は、まさにヨハネによる福音書13章に示されているとおり、

 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネによる福音書13章8節

 すなわち、「自分の罪の告白を通じてのみ、わたしはイエスさまと関係がある」と言えるのです。

 当然、十字架のペンダントを肌身離さず身に着けていたとしても、毎週礼拝を守っていたとしても、あるいは毎週、礼拝において奉仕をしていたとしても、「自分の罪の告白をしない」のであれば、それは「キリスト者ではない」ということなのです。

 「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14章27節)


 「自分の十字架を負う」とは、「自分の罪を告白する」ということです。

 しかも、それは洗礼を受ける時に、人生において一回だけ行えば良いということではありません。

 日々イエス・キリストの後に、すなわち日々聖書の御言葉を通じて、聖霊の助けによって示される自分の罪を告白し、罪の悔い改めの日々を送る者が、まさにわたしたちの罪を赦してくださるイエス・キリストとの関わりにおいて、わたしたちを「キリスト者」としてくれるのです。

 当然、一回一回の礼拝も、わたしたちの罪の告白と悔い改めの場であるということです。

 プロテスタント教会では聖餐式の時に「おのおの自分の罪を深く悔い改めなければなりません。」(日本基督教団・口語訳・式文による)と言いますので、その時に、わたしたちは罪の悔い改めが必要だということを耳にします。

 すなわち、そうした「罪の告白を免除されたキリスト者」というのはいないわけです。



 礼拝は、決して、面白くも楽しいものでもありません。それはパウロの時代もそうでした。

 コリントの教会に雄弁家アポロがやってきて、その礼拝はまさにそうしたキリスト教の信仰に基本的なものであるところから、大きく、人間的な喜びや人間の素晴らしさのような、一種、人間主義的なものへと変質化したのです。

 しかし、そうではなく、パウロはあくまでも教会はキリストの言葉に忠実であることを第一としたのです。

 当然、そうした礼拝は面白くも楽しいものでもありません。

 なぜなら、礼拝における「喜び」とは、罪人の罪が赦されたことによる喜びであるからです。

 その真の「喜び」を喜ぶことのできる教会でありたいと願います。 


コリントの信徒への手紙1 5章1~2節、9~13節
1)現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
2)それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。

9)わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、
10)その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
11)わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
12)外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
13)外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」


  パウロは、この手紙に先だって、コリント教会に手紙を記していました。そこで、パウロは「みだらな者と交際してはいけない」ということを書いたようですが、コリントの教会の人たちはその手紙でいうところの「みだらな者」を「教会の外(普通の)のみだらな者」として、すなわち、キリスト者というのはそうした当時の多くの人たちと関係を断って、キリスト者は一般世間と隔絶した、ごく禁欲的な生活を守らなければならないというふうに受け取ったのです。

 そして、それは更に曲解されて、相手が同じキリスト者であれば相手は「みだらな者」ではないので、同じキリスト者間における交際は許されるのであり、たとえば血の繋がった親子の関係における自由恋愛は許されるのだというふうに理解されてしまったのです。

 それは言い方を変えれば、「相手が同じキリスト者であれば近親相姦も許される」というふうにコリントの教会の一部の人は考え、そしてまさにそのような事例が起こったのです。

 パウロはここで、そうしたコリント教会の人たちに対して、そうした理解は誤解であることを説明し、結論として、13節にあるように、「あなたがたがの中から悪い者を除き去りなさい。」と勧めるのです。

 なぜなら、キリスト者とは、イエス・キリストの御前において自分の罪を告白し、罪を悔い改める人物を言います。つまり、そうした人物が集まって神を礼拝するところがキリスト教会であるわけですから、当然、「悪を行うキリスト者」というのは、そうした理屈からすれば存在するはずがないのです。



 ところが現実問題として、教会の中では様々な人間の悪による事件が起こるわけです。

 人間は、イエス・キリストの救いによってその罪を贖われたとして、以後も、救われた罪人でしかありません。当然、キリスト者となった人物といえども罪からまったく自由であるわけではないのです。 しかし、わたしたちは「キリスト者は罪から自由になっている」と信じます。

 では、この「罪から自由」とは具体的にはどういう意味なのでしょうか?

 それは「キリスト者は罪から救われたので、もう罪を犯すことがない」ではなく、「たとえキリスト者であっても罪を犯すことがある。しかし、イエス・キリストが常に共に居てくださる恵みによって、わたしたちは何時でもイエス・キリストの御前に罪を告白することができ、罪を悔い改めて、罪から自由になることができる」ということであるのです。

 パウロは、ここで「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」(13節)と、かなり厳しい言葉で語っていますが、当然、それはパウロにとってみれば本意ではありません。

 本来、このような裁きとしての言葉は言いたくない。しかし、それを言わなければならないほどにコリント教会の直面している問題が深刻であることを示しているのです。


 教会は「誰が正しく」「誰が間違っている」ということを互いに裁き合う場所ではなく、教会がそうしたお互いの罪の裁き合いを行う場所でないとは正しいことです。

 しかし、それは「教会の中だから」「教会の中のルールは社会のルールとは違うのだ」と言って、教会の中で行われる信仰者の罪を全く不問にし、それをまったく水に流し、そうした問題を直視せずに、表面的に教会を維持しようということではないのです。

 パウロは「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」とは言いますが、それは当然、信仰によって実現されるべきものであり、意味としても「悪人の追い出し」ではなく、むしろ、「そうした人物が教会の中に居ない状態に、教会全体として罪の告白と悔い改めがなされるべきである」ことを、「悪い者を除き去りなさい」というように強調して表現しているのです。

 そうでなければ、キリスト教の教会は、そうした「自分たちに都合の悪い人間を切り捨てる」ことが教会の働きになってしまうからです。そうした、いわば「トカゲのしっぽ切り」のような行為によって教会の中が浄化されるかと言えば、当然、そのようなはずはないですし、また当然、パウロが一方でコリント信徒への手紙12章において「キリストの体」ということを大切な事として主張しているわけですから、パウロの本意が「教会を訴える人を追い出せ」というはずがないのです。

 だからこそ、パウロのこの厳しい言葉には、一人一人が自分の罪の重さを自覚し、互いに自分の罪を告白し、悔い改める。そうした事によって、一人一人が神の御前に罪を赦された者同士の交わりとして、互いに支え合い、教会を維持することをパウロは求めているのです。

 それは、「誰が悪い」という犯人を捜すことが目的なのではなく、いったい何が神の御前に間違っていたのか、その間違いを明らかにし、教会全体としてそのことの罪の悔い改めをすることが必要であることを促しているのです。

 当然、牧師はその矢面に立つ責任があるわけで、その意味で、牧師に「自分は教会の中の罪とは無関係」という事はあり得ないわけです。これはわたし自身、常に、注意するようにしています。



コリントの信徒への手紙6章1~11節
1)あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
2)あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。
3)わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
4)それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
5)あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。
6)兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。
7)そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。
8)それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。
9)正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、
10)泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
11)あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。


 教会の中で、信徒間で、あるいは信徒と牧師の間で問題が起こり、しかも、その問題をその教会の中で仲裁することができず、教会とは関係のない人に対して、その仲裁をお願いするということがコリントの教会で起こりました。

 パウロがここで問題にしているのは、そうした「キリスト者がこの世の裁判に問題の仲裁を求めること」が問題だというのではなく、そもそも、なぜ「そうした問題が教会の中で起こるのか」を問題にしているのです。


 キリスト教会において、イエス・キリストの救いがわたしたち人間の罪の赦しである限り、当然、教会の中には、そうした「人間の罪に対しての自浄作用」があるはずなのです。

 キリスト教の信仰は、言い換えるなら「自分の罪に対する自浄作用」なのです。



 ところが、パウロが指摘するのは、コリント教会の中で、言い換えるなら信徒(牧師)の罪が放置され、それが全く野放し状態になっている。当然、放置された罪はそのままであるはずがありませんから、どんどん雪だるまが転がって大きくなっていくように、教会内における人間の罪が肥大化し、一部の信徒だけではなく、教会全体を巻き込んで人間の罪の巣窟状態になったしまったのです。

 パウロはそうしたコリント教会の状況に対して、なぜ、キリスト者が集うキリストの教会が、本来であれば、イエス・キリストを信じる信仰によって、その自浄作用によって人間の罪からは遠く離れているはずであるのに、それがむしろ罪の巣窟状態になっているのかと、そのことを問題にしているのです。

 「兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」とは、すなわち、教会員の誰もが「罪を認識できない」か、あるいは「罪を認識しつつも黙認している」のどちらかであるということです。



 人間は神に近づけば近づくほど、自分の罪に対して敏感になります。 そのかわりに、人間は神から離れれば離れるほど、自分の罪を認識しなくなるのです。

 ところが、そうした神から遠く離れてしまったキリスト者は「自分の罪を自覚しない」ものですから、むしろ「自分は神に近い」と思い違いをするわけです。

 パウロはそうした「自分は罪を赦され、聖霊を受け、神に近いのだ」と自称するキリスト者に対して、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(9~10節)と言うわけです。

 信仰者は罪を犯さないのではなく、信仰者と言えども罪を犯すのです。

 だからこそ、信仰者は常に自分が神の御前に罪を犯していないか、聖書の御言葉を通じて、聖霊の助けを通じて示される自分の罪を聞くことを日課とし、日々、イエス・キリストの御前において自分の罪を告白し、罪を悔い改めを祈るのです。

 その意味で、人は洗礼を受け、キリスト者となったら、それであとは自動的に天国へ行けるわけではないのです。



===ご質問に対する応答===

Q:教会の中では「罪の赦し」が言われており、そうした教会の中で起こる問題を一般的な裁判に訴え出ることは信仰的に間違っているのか、そうしたことをするのはキリスト教においては不信仰なのか?


A:パウロは、そもそも「キリスト教会という仕組みは、その本質において罪に対する自浄作用がある」と見ています。

 一見すると、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」(7節)というパウロの言葉はこれを表面的に読めば確かに「キリスト者は損害を受けても、それを相手に訴え出ることをせずに損害を受けるままでいることが信仰的に正しいのだ/自分に対して犯された罪を赦すことが信仰的に正しいのだ」というふうに解釈できます。

 しかし、この部分をもう少し丁寧に読むのであれば、6章で言われている具体的な事例を説明するのであれば、まず、第一に教会の中で信徒間において搾取が行われたという出来事があったのです。

 そして、搾取に遭った人物は、教会の他の人たちに、この搾取の事を訴えたけれども誰もそれを真摯に受け止めてくれる人たちが居なかった。

 だからこそ、この搾取を受けた信仰者は、「教会に訴え出てもだめだ」と、この世的な裁判官?に対して教会の中で搾取が行われたことについて訴え出たということがあったことが推測できるのです。


 さて、このところでパウロが指摘するのは、そうした「この世的な裁判官に対して教会の中における搾取を訴え出ることが間違っている」ということではなく、むしろ、「信仰の事柄を、信仰を持っていない人に訴える出ることは間違っている。」という事なのです。

 それは誤解の無いように言えば、「信徒が信徒(牧師)の罪を裁判に訴えてはならない。」ということをパウロは言おうとしているのではありません。

 大事なのは、そもそも正しく信仰を持ったキリスト者が、救われた後に、そうした意図的に「搾取」をするなどということはあり得ないとパウロは確信しているのです。

 なぜなら、キリスト者とは、日々神の御前において罪を告白し、罪を悔い改めるという信仰生活を行うわけでありますから、たとえば意図せずに「搾取」をしてしまい、そうした事を他の人の言葉により、あるいは自分自身の自覚として知ったのであれば、当然その罪は告白され、悔い改められるはずであるからなのです。この時の罪の悔い改めにおいて、当然、「搾取」に対する謝罪・弁償が行われるであろうことは、そのことをわざわざ文字にして書かなくても、それが当然であるということが当時の人たちの信仰にあるわけです。

 当然、キリスト教会はまさにイエス・キリストを頭とした、キリストの体であり、パウロが「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリントの信徒への手紙1 12章26節)で語っているように、そうした「一つの部分の苦しみ」を、教会全体が共に苦しむということが必要であるわけです。

 それは、当然、「搾取した信仰者を罪人と断定して教会から排除する」ということではないのです。


 たとえば、「被害を受けた人物が加害者(の罪)を赦せば、教会は丸くおさまります。」とは、一見信仰的なようでまったく信仰的ではありません。 

 これは教会が全体として罪に対する認識を放棄して、罪の誘惑に教会を委ねたということになります。パウロが問題ありと指摘するコリントの教会の状況はまさにこうした状況であったのです。

 では、信仰的に正しくこのことに向き合うためには、コリントの教会はどうすればよかったのでしょうか?


 一つ目は、信徒ひとりひとりが自分の罪に対する責任をもっと自覚するということです。

 二つ目は、そのようにひとりひとりが注意していても、そうした罪が教会の中で発生する事があります。問題は、その時に、その事柄を、ただ加害者・被害者だけの問題として、教会はそれに関わらないとするのではなくて、教会全体として、その事柄について、一人一人が罪の告白をもって、イエス・キリストの御前において、教会全体としてその事が和解できるように計らうことが大事であるのです。

 ところが、コリントの教会はそうした「教会としての働き」が上手く機能しませんでした。

 コリントの教会はパウロが「それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。」と指摘しているように、むしろ、コリント教会は、その被害を受けた信徒に対して、「加害者側の肩を持ち、被害者を教会から追い出すようなことをした」わけです。

 つまり、ここで「不義」を行っている「あなたがた」というのは「教会(側)」を意味しており、そうすると、直前で言われている7節の「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」という言葉も、すなわちは「被害者」ではなく、「教会」に対して言われている言葉であるのです。
 
 パウロは、搾取した側である教会・信徒に対して色々と信仰的な注文を付けているのであって、決して、信徒としてこの世的な裁判官に訴え出た人を問題にしているのではないのです。

 それはパウロが5章のところで「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。」(12節)と言っていることからも明らかです。

 その意味で、パウロがここで告発しているのは、あくまでも教会であり、教会を構成する一人一人であり、それ以外の誰でもないということなのです。

 わたしたち人間は生きている限りにおいて「罪を全く犯しません」ということはありません。だからこそ、常に、イエス・キリストの言葉に聞き従うこと、すなわち聖書の御言葉を通じて自分の罪が示されたのであれば、イエス・キリストの御前において罪を告白し、罪を悔い改めることを通じてはじめて、わたしたちはキリストと共にあって清い生活を送ることが可能になるのです。

 教会はまさにそうしたキリスト者が主の御前において、共同体として罪の告白と罪の悔い改めを行うのです。それが、週ごとの礼拝の本質であって、「罪の告白と罪の悔い改めが欠如した礼拝」とは、単なる偶像崇拝に過ぎないということなのです。

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コリントの信徒への手紙1 6章18~20節
18)みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
19)知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
20)あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 イエス・キリストの救いによってわたしたちに与えられた命は、「わたしの命」ではなく、それは「イエスさまが与えてくださったイエスさまの命」であるのです。

 パウロはローマの信徒への手紙12章1節において「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)と語っています。

 まさにそれと同じことをこのところで勧めています。

 キリスト者の証しとは、まさにわたしたち自身が、イエス・キリストによって罪を赦され、罪から救われるというその経験を積むこと、すなわちそうした信仰生活を行うことにあります。

 わたしたちは、「自分の罪を管理する責任」を神さまから委ねられたのであって、イエス・キリストの救いは、「わたしたちが(意図的に)罪を犯すことの許可証」ではないのです。


 わたしたちの身の回りでは、むしろ、イエス・キリストの救いをまさに「罪に対する万能薬」のようなものととらえ、あたかも「キリスト者は何をやっても許されるのだ」「キリストを信じる者が正義だ」というような、または「キリスト者は罪を犯しても、罪を告白すれば罪を赦される」というような話を耳にする機会があります。

 しかし、パウロが言っているのは、「人間の罪を最終的に裁くのは神であって、それはその時にならないとわからない。」ということです。

 すなわち、わたしたちが地上において言えることは、「かの日において、信仰者でありながら神によって滅ぼされることがないように、一日一日を大切に、神の御前に正しく生きましょう」ということだけです。

 パウロはそのことをこうした箇所において言っているのです。


 コリントの信徒への手紙1 7章1~2、17~19節
1)そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
2)しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。

17)おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
18)割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。
19)割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 

 コリントの信徒への手紙1 7章は全体的にはキリスト者が結婚する事に対して、それが信仰的に問題があるのかどうかという事について、コリントの教会の人たちが質問を送って、その質問に対する応答という形で記されています。

 まず、7章における全体的な説明をするのであれば、こうしたやり取りが始まる前において、パウロがコリントの教会の人たちに教えた事は、それこそ今日的にいえば修道者生活のように生涯独身を貫くような、禁欲的な生活であったのです。

 当時のギリシャ・ローマといった世界における性に関するモラルは、どちらかといえば非常にルーズであり、下手をすると「なんでもあり」の世界であり、当然のことのように妻以外にも愛人を持つことは社会人の嗜みのようなものとして理解されていたのです。

 そして、まさにそうしたことが一般常識である人たちに対して、「正しい信仰は生涯独身のような禁欲的な生活によって実現される」というような事を教えた事によって、当時のコリントの教会の人たちは大いに衝撃を受けたのです。

 パウロは1節において、そうした経緯があったことを「そちらから書いてよこしたことによれば」と、そうしたやり取りがあったことをほのめかしながら、以下に、キリスト教信仰に基づく人生観、および結婚観を提示するのです。

 あれこれと書かれていますが、それはすなわち今日的「一夫一婦制」であって、そのことは特に問題ではありません。

 結論から言えば、信仰者の信仰生活において大切なことは、「結婚」という信仰生活の具体的一面についてではなく、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、大切なのは神の掟を守ることです。」というところに集約されます。

 つまり、キリスト教会というものは、そうした信仰的な自覚をもった信仰者ひとりひとりによって形作られるところであり、そのように神の言葉であるイエス・キリストに従う一人一人の信仰者によって成り立つものであるということが重要なのです。

 そして、そうした教会を形成する信仰者ひとりひとりに求められているものがまず、上記の「おのおの主から分け与えられた分に応じ」ということで、それは救いにあずかる以前と以後とにおいて、その生活を劇的に変化させる必要はないということです。

 イエス・キリストの十字架と復活によって実現されたわたしたちの罪の赦しは、「罪を赦す」ということがその本質的な出来事であって、パウロはそこで具体的に「割礼を既に受けた者が割礼の痕を無くそうとしてはならない」と、自分自身の身体に刻まれている傷跡について、そうした痕をまた人為的に無くす必要はないことをここで教えています。

 すなわち今日のわたしたちで言えば、神の救いは、まさにわたしたちが今生かされている、わたしたち一人一人の日常生活の中において実現する神の救いであって、キリスト者になるということは、そうした日常生活から離れて禁欲的な集団生活を行うようなものではなく、むしろ、救われて後も、それまで普段の生活と同じように生活することを勧めているのです。

 しかし、大切なのはそうした普段の生活であっても、そこにおいてイエス・キリストの教えに反する、すなわち「意図的に罪を犯す」ことはダメであり、普段の生活においても、そうしたイエス・キリストの教えの実践が求められるのだ、それが具体的に示されているのが「神の掟を守ること」ということであるのです。

 では、ここで言われている「神の掟」とは何かと言えば、それは個人の生活においては信仰生活のことであり、また社会生活においては「イエス・キリストに従うこと」であり、たとえば具体的に例を上げれば「隣人愛の実践」ということになるのです。

 その意味で、コリントの教会の人たちにとってみれば、自分の周りはみんなが性的に放縦な生活をしている中にあって、自分だけはそうした他の人たちと同じ生き方をするのではなく、節度とモラルをもって生活することをパウロは教えたのです。

 しかし、パウロの本音としては、「キリスト者は生涯独身」ということが頭にあったのでしょう。

 パウロの同労者であるアキラとプリスキラはパウロと同様の信仰をもっていましたが二人は結婚していました。パウロが「生涯独身」を声高らかに言えば、アキラとプリスキラは別れなければならなくなります。その意味で、コリントの教会の信徒ですでに結婚した人たちが結婚を解消してまで「生涯独身」に拘ることは、信仰の本質的な問題ではないとパウロは見ているのです。



 コリントの信徒への手紙1 8章8~13節
8)わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
9)ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。

10)知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。
11)そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
12)このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
13)それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 パウロの生きていた時代、まだキリスト教はユダヤ教と完全に決別ができていたわけではなく、紀元70年ごろにエルサレムとエルサレム神殿がユダヤ戦争によって破壊されるまでは、エルサレム神殿に対する信仰とまた、そうしたユダヤ教律法の拘束力・信頼性というのは非常に高かったのです。

 そういう意味では、地方に暮らしていた離散のユダヤ人もそうした影響を受けており、まったくギリシャ・ローマ社会に生まれた者とによって形成されていたコリントの教会においては、いろいろとそういった面において信仰の上で大きな問題となていたのです。

 具体的には、異教祭儀に供えられた肉を食べることはキリスト教信仰においては罪を犯すことになるのではないかという事と、あるいは普段の社会生活の中において、そうした異教祭儀の肉をキリスト者として食べざるを得ない状況になった時に、キリスト者は信仰を理由にしてそれを断るのが正しいのか、というようなことがパウロに対して質問されていたのです。

 パウロは、この事柄について、偶像に供えられた肉を食べる事によって、わたしたちの信仰が何かしらの影響を受けることはないのだと説明し、そうしたキリスト者でありながら異教祭儀に加わることは信仰において禁止こそされないけれども、しかし、それがもし、キリスト者として他の信仰者をつまづかせるような事になるのであれば、わたしの個人的な判断としては、わたしは今後、そうした偶像に供えられた肉を食べることはしない(つまり、現在までその肉を食べているけれども、今後はそうしない)ことを伝えたのです。



 さて、今日、キリスト教会において、特別に、何か「信仰的に禁止される食物」があるかというとそれはありません。となると、この聖書箇所は、わたしたちには意味のない言葉のように思うかもしれませんが、そうではありません。

 わたしたちがキリスト者としてこの世において生活する限り、たとえば神社など、他宗教の祭儀との関わりが避けられない場合があります。たとえば、仏式のお葬式に出席するような場合がまさにそうした具体的な例となりますが、そうした他宗教の祭儀との関わりをキリスト者はどう理解し、行動すれば良いのか。

 パウロのこの8章の記述をみると、結論から言えば、「そうした他宗教の祭儀に参加する」という出来事がわたしたちの信仰に与える影響はない、という事です。

 ただし、パウロはそれに続けて、「しかし、キリスト者としてそうした宗教祭儀に参加する事によって、それが他の教会員に対して悪影響を及ぼすような場合は、そうした宗教祭儀に参加することは控えた方が良い。」ということになるかと思います。

 そうした信仰の考え方は、パウロはすでに5章10節「その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。と言っているとおりです。

 すなわち、わたしたちはこの世において、キリストの救いの証人としてこの世の中に生きることが求められているのであって、この世から隔絶したところで隠遁生活をするわけではないからです。


 しかし、キリスト者が注意しなければならないのは、そうした特殊な隠遁生活ではなく、キリスト者はそうしたこの世の罪の満ちた世界において、イエス・キリストの信仰によって、その福音の指し示す指針に基づいて発言・行動しなければならないという点です。

 キリスト教会はそういう意味では、他宗教との関わりこそ大きな問題とはなりませんが、キリスト教会が「この世的繁栄」に対して、そうした「人間的欲望を良しとしない」という決断をとることが大切なのです。

 教会もこの世の中において存在する限り、この世の経済から独立して存在することはできません。

 キリスト教会もやはり電気・ガス・水道といったライフラインを受けている関係において、教会の運営にはお金の問題が常に付きまといます。

 しかし、そこにおいて信仰とこの世的価値基準と二重の価値観を教会は混同しないようにしないといけません。

 なぜなら、教会運営においてこの二種の価値観が混同される時に教会は大きく過つからです。

 『イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。』(マルコによる福音書12章7節)

 イエスさまの言葉に上記のものがありますが、「皇帝のもの」、すなわちこの世に属するお金の類の話については、きちんとこの世に属する価値観において判断し、それを信仰的に考えて判断しない、というようなことです。

 たとえば、教会は献金収入がありますが、それをまさに「皆が神さまにささげたものだ」として、牧師が勝手に使っていいということにはなりません。

 「皇帝のものは皇帝に」とは、たとえば金銭管理についてはこの世の金銭管理のルールに従って、正しく会計を調べ報告し、教会でその使途について話し合われ、決断され、正しく運用されるということが守られなければならないということです。

 もちろん、イエスさまがそうした教会運営を念頭に話をすることはありませんから、それはわたし永野の個人的な解釈なのですが、特に小さい教会においては、牧師の財布と教会の会計とが一つであることもあるために、最初の内は予定外の出費などに牧師が自腹を切ったりすることもあるのです。

 ところが、教会の規模が大きくなってくるとそれではどこからどこまで教会の会計でどこからどこまでが牧師の家計なのか分からなくなってきます。そういう意味では、ある程度、額の小さいうちからでもそこらへんをきちんとしておくという習慣が教会には必要なのだと思います。


 しかし、教会がこの世において教会活動を続ける上で、やはりそうした教勢(教会の会員数の動態、教会の収入支出の動態)について、それが教会の中で議論されることもあり、「教会(礼拝人数)をもっと大きなものに!」「献金がもっと与えられるように!」というような声が上がってくるのです。

 しかし、教会に信徒が与えられることも、また教会に献金がささげられるのも「神さまもの」であるなら、それはまさに礼拝においてわたしたちの感謝として「神さまにお返しするもの」であって、教会がそうした「信徒獲得」「献金倍増」というようなことを目標とすべきではありません。

 それは、教会をあげて神さまに対して「あなたが下さっている恵みは少なく、もっと恵みを多くください」と要求しているのと同じであって、それがはたして信仰的に正しいかどうかと言えば、それは大きな疑問です。

 むしろ、パウロがコリントの信徒への手紙2で、『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』(コリントの信徒への手紙2 12章9節)と言っているように、教会はむしろ、今与えられている恵みに感謝しつつ、それを大事にしながらこの世において教会運営を行うべきではないかというのが、わたしの個人的な感想です。


 上をみればきりがなく、欲望を抱けばきりがありません。そうした人間の欲望に対して、キリスト者は、決して流されてしまうことのないように、だからこそ、日ごろから自分自身の罪の告白によって、そうした人間の欲望に対して心を奪われてしまわないようにしなければならないのです。

コリントの信徒への手紙1 9章3~7節、23~27節
3)わたしを批判する人たちには、こう弁明します。
4)わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。
5)わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
6)あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。
7)そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。 

23)福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
24)あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
25)競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
26)だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
27)むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 


パウロは、自分自身の確信するところの信仰生活は、当時の初代エルサレム教会の人たちの信仰生活とは幾分かの違いがありました。

それは具体的には、他の十二使徒たちや主の兄弟ヤコブ(イエスさまの血縁上の兄弟)やケファ(シモン・ペトロ)たちが妻帯しているのに対してパウロは独身を貫こうとしていることや、独身生活を勧めていたこと。あるいは十二使徒たちは、他の信徒からの献金によって生活をしていたのに対して、パウロやバルナバ(パウロを指導した人物)たちは、むしろ自分たちで生活費を稼いでいたことがありました。

パウロはここで、十二使徒たちが妻帯しているような権利、あるいは、自分たちが信徒の献金によって生活を立てるという権利(実際、パウロたちは自分で生活費を稼いでいた)において、十二使徒たちとパウロとの間に、何か決定的な違いがあるだろうか、ということをコリントの教会の人たちに対して弁明しています。

そして、そうした権利については、十二使徒たちと同様、自分たちにも結婚する権利や信徒の献金によって生活する権利をパウロたちも当然の事として持っているのだということを言うのです。

しかし、ここで、復活のイエスさまによって使徒とされたパウロにとって、そうした権利を自分も持っているが、しかし、あえてわたしは「結婚すること」や「信徒の献金で生活を立てること」を、信仰的な決断によって「自分は行使しないのだ」ということをこのところで主張するのです。

パウロはこの24節において、「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」と語っています。

すなわち、イエス・キリストの御前において罪を告白し、洗礼を受けてキリスト者になったら、天国行が確定するのかと言えばそうではないことをパウロは言っているのです。


キリスト者は、一度、救いにあずかったのであれば、そこからが信仰生活のはじまりであって、それはまさに「賞を受けるまで」、すなわちわたしたちが地上での生涯を終えて天に凱旋するその時に、まさに天国の門を通過するまでは、キリスト者は決して罪の告白・罪の悔い改めを怠ってはならないというわけです。

その意味で、洗礼を受けてクリスチャンになることがわたしたちの目標ではないのです。


わたしたち人間の目標は、まさにわたしたちが地上における生涯を終えて天に凱旋する、その天国の門を通過するための地上の人生であり、そのための教会生活であるのです。

その意味で、教会生活も普段の信仰生活においても、弛まぬ罪の告白と罪の悔い改めが求められており、まさにパウロはそうした信仰生活をもってはじめて、天国の門を凱旋する可能性を手にすることができるのだということを言っているのです。

その意味で、わたしたちが礼拝を守るということは、まさに罪の告白と罪の悔い改めを行うということであり、罪の告白と罪の悔い改めが、礼拝において一人一人の内で行われるからこそ、その罪の赦しの喜びによって、わたしたちは主なる神を心から褒め称えることが可能になるのです。そして、そのように心から主を賛美することができるのです。

その意味で、礼拝の賛美は、まさに救われた喜びがその根源であって、音楽の発表会ではありません。また、宗教的カラオケでもありません。


そして、パウロは、まさに自分がそうしたことをコリントの教会の人たちに語る上で、自分自身がそうした信仰的な節制を行っていることを告白するのです。

なぜなら、パウロができないことをコリントの教会の人たちに命令しても、何の説得力もないからです。


それは、教会において牧師は、信徒の誰よりもそういう意味では、神の御前にへりくだり、神の御前において教会員の誰よりも聖書の御言葉に耳を傾け、イエス・キリストの言葉に聞き従い、そして自分自身の罪の告白をし、罪を悔い改める者でなければならないということであるのです。


口で言うだけで全く実践が伴わない牧師、すなわち神の御前において罪の告白と罪の悔い改めができない牧師は牧師失格ということです。

パウロは自分自身のことも含めて厳しく、「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 」と告白している通りです。

そういう意味では、まさに教会が教会であるためには、牧師が牧師として、神と人との前において正しく罪の告白と罪の悔い改めができているかが重要だということです。



コリントの信徒への手紙1 10章12節、14節、15節、31~33節
12)だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

14)わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
15)わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

31)だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
32)ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
33)わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。


パウロは「サタンの誘惑」というものは教会の外にもあるけれども、むしろ「教会の中」、また「クリスチャン同士の間」にも「サタンの誘惑」があるのだということを教えています。

それは「立っていると思う者」とあるように、すなわち、「自分は信仰によって救われている」というふうに考える信仰者の心の油断が、まさに危険であることを言っているのです。

信仰者でない者が信仰でつまづくことはなく、むしろ信仰者こそが信仰でつまづくのです。


そして、そうした教会の中において、あるいは教会員同士の間にあって注意すべきつまづきが、ここで言われている「偶像礼拝」なのです。

ここでいう「偶像」とは、いわゆる「木彫りの像」などではなく、むしろ教会においては「教会成長」や「献金倍増」、「信徒獲得」といったような、「この世的な繁栄を教会にもたらすもの」であったり、あるいはパウロがその次の節において指摘しているように、「クリスチャン一人一人の思考力を奪うもの」であったりするのです。

パウロは信仰とは、まさに聖書の御言葉に基づき、その御言葉を通じて示されるイエス・キリストの言葉に聞き従うことによって、わたしたちに与えられる「何が罪であるか」を見抜く思考力であることを言っています。

ところが、昨今のいろいろな教会の不祥事などを見ると共通して見えてくるのが、信徒に対する一種のマインドコントロールであって、それは第一義は「牧師の指導者としての罪を隠すため」であり、第二義は「教会の不祥事が問題となって、教会の不評をまねくことを隠すため」であるのです。

本来、キリスト教の救いが罪の告白と悔い改めであることから考えれば、そうした大きな不祥事になる前に、罪の告白と罪の悔い改めが教会の中で行われるので、たとえ間違いが起こったとしても大きな不祥事まで発展することは少ないのです。

むしろ、牧師も人間であり、教会員一人一人も皆等しく人間であるなら、教会の中にそうした間違いが常に起こることを想定して、いざそうした間違いが起こった場合には、教会の中で、速やかに罪の告白と罪の悔い改めがなされるなら、教会はまさにイエス・キリストの体なる教会として、常に神の御前に正しくあることができるのです。

ところが、多くの教会では、そうした罪の告白や罪の悔い改めが軽視され、むしろ人間的な、この世的な繁栄が求められることから、まさに「常勝思考」が教会の拠って立つ基本になってしまうのです。

そして、いったんそうした常勝思考の教会になってしまったら、教会の中での「失敗/敗北」は一切許されないことになるので、たとえそうした失敗が起こったとしても、「そうした事実はありませんでした」というような形に流れてしまうのです。

たとえ牧師の個人的な失敗であったとしても、しかし、そうしたことは牧師個人に留まりません。牧師が常に教会の看板である限りにおいて、牧師の失敗を教会(役員会など)が隠そうとする例は枚挙にいとまがありません。


そういう意味で、パウロはコリントの教会の人たちに対して、自分たちの喜びのためではなく、全ての人に対して、人を惑わすことのないように、すなわち、教会は常に、神とそうした多くの人たちの前において、自分たちの過ちを認め、過ちを悔い改めるという、神の御前における真実をもって歩むことが大切であることをパウロは言うのです。

教会がその地域に対してそうした責任ある態度を取り続けることが、教会がその地域に対して教会であるための必要条件であるのです。そして、一旦間違いが起こった場合には、社会的責任を取るという決断をも教会は覚悟しなければならないのです。

だからこそ、日々における例えどんなに小さな、軽微な罪であったとしても、その罪が告白され、罪の悔い改めがなされることが大切なのです。

そうした小さな罪に対して誠実に対応でない牧師や教会、あるいは信徒が、それよりも大きな罪に対して誠実な態度を取ることは不可能です。罪の告白と罪の悔い改めとは、まさに毎日の信仰生活によって養われる信仰の力なのです。私自身自戒しつつ。

 コリントの信徒への手紙1 11章2~16節
2)あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。
3)ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
4)男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
5)女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
6)女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
7)男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。
8)というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
9)男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
10)だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。
11)いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。
12)それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。
13)自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。
14)男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。
16)この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。 

 この箇所は、礼拝における女性のかぶりものについて弁明です。

 まず、パウロが生きていた時代において、まだキリスト教はユダヤ教の中のひとつの派、すなわち、「ナザレのイエスこそメシアである」という「ナザレのイエス派」という位置づけでした。パウロの自筆によるであろうとされる新約聖書の文書について、たとえばローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙1に登場する人物をリストアップし、それが異邦人であるかユダヤ人であるかということを見ていくと、新約聖書においてパウロの指導した「異邦人教会」とされる教会において、実は本当に「異邦人である」キリスト者というのは非常に少ないことがわかります。

 その事については、ここで説明すると長くなるので、わたしの別の記事のリンクを以下に紹介しておきます。

 ・本当の意味で異邦人であったテトス

 ・使徒言行録にみる初期のキリスト教信仰のかたち

 ・ユダヤ教、エルサレム教会とアンティオキア教会(異邦人教会)の信仰的差異について


 まず、簡潔にパウロが問題としていることについて何が言われようとしているかといえば、まず基本的なこととしてユダヤ教においては礼拝の時には礼拝をまもるための装いが定められていました。

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 上記は現代の写真ですが通常の礼拝ではなく、ヴァル・ミツヴァ(バル・ミツバ)と呼ばれる男の子の成人式の写真です。
 これを見るとわかるように、男性が頭に小さい帽子(「キッパ」という)のようなものと、ショールのようなもの(祈祷衣で「タリート」という)、そして額と左手に黒い何か(「テフィリン」という聖句箱(小さい聖書が入った箱))を体に結びつけることが必要なのです(そのほかに「シドゥール」という祈祷書が必要)。

 こうした写真を見ると当時のユダヤ教の習慣がわかりますが、パウロが生きていた時代、ユダヤ教での宗教的祭儀には男性しか加わることができません。また、女性は写真がないので紹介できないのですが、イスラム教の女性を想像していただけるといいのですが、あそこまで全身を覆い隠すことはしませんが、基本的に頭はスカーフでスッポリと覆う(顔は隠さない)ことが当時のユダヤ教における常識であったのです。

 また、当時はエルサレム神殿が健在だったので、当然、エルサレム神殿に行って、そこでそうした習慣に則って礼拝を行っていたのです。


 ところが、そうした「当時の礼拝」というのは、そういう意味では、そうしたユダヤ教の習慣(衣服)と「エルサレム神殿」ということが大きな宗教的な権威となっており、ペトロたち十二使徒たちの信仰は限りなく、そうしたエルサレム神殿の権威を排除できずに、そうしたユダヤ教の祭儀規定を遵守しながらも、「ナザレのイエスこそはメシアである」と信じていたのです。

 ところが、パウロが問題にしているコリントの教会は当然の事としてエルサレムから遠く離れており、週毎の礼拝をエルサレム神殿で守るなどということは不可能でした。そこで、当時としては、エルサレム以外に住む、離散(ディアスポラ)のユダヤ人たちによって、毎週、集会所(シナゴーク)礼拝というものが行われていたのです。これがいわゆる今日のわたしたちキリスト教礼拝の初期の形であり、多くのユダヤ人を中心として、そこに改宗した異邦人などを含めた「異邦人教会」という新しい信仰共同体の形が形成されていたのです。


 さて、パウロがそうした「異邦人教会」を指導するにおいて問題となるのが、「自分たちは、どこまでエルサレム神殿やユダヤ教の戒律に従うのか?」ということでした。

 使徒言行録15章において、世界で最初の教会会議の事が記されていますが、そこにおいて問題となっているのは「割礼」と「食物規定」でした。

 しかし、あともうひとつそこには問題となっていることがあり、「礼拝に対する女性の参加とその場合の服装について」であったのです。

 ここでのパウロの議論は読むとわかりますがパウロの主張は以下の二点です。

 ・男は礼拝においてかぶりものをすべきではない(実際は、男性はユダヤ教のかぶりもの(正装)をしている)。
 ・女は礼拝においてはかぶりものをすべきである(実際は、女性はかぶりものをしていない)。


 つまり、ここでパウロが言おうとしているのは「ユダヤ教の習慣」についての議論であって、いろいろとパウロはアダム(男)やエバ(女)や男が先で女が後だという創世記の記述による論述をしていますが、そうしたことが問題ではないのです。

 結論からすれば、「キリスト教の礼拝を守る上で、男女に【正装】はありません」(そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。)ということなのです。パウロはそうした【正装】はキリスト教信仰においては全く問題にならない(なぜなら、キリスト教信仰においてもっとも重要な問題は「自分自身の罪の告白とイエス・キリストによる罪の赦し」にあるから)ということを言おうとしているのです。
 



 コリントの信徒への手紙11章17~22節
17)次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
18)まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
19)あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
20)それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
21)なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
22)あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。

 コリントの信徒への手紙11章17節以下は、いわゆる今日の礼拝における「聖餐式」についての規定についてです。

 当時は、まだいわゆる教会における共同の食事(一種の「愛餐会」)と「聖餐式」とが明確に分かれていませんでした。

 パウロはここで教会の中に、お互いの中で「仲間割れ」が起こるであろうことを前提としています。それはなぜなら、教会の信徒ひとりひとりは、自分の罪について、それを神のみ前において告白し、悔い改めることを信仰の一大事としますが、わたしたち人間は、案外、「自分の罪」というものが見えにくい。むしろ「他の人の罪」が目に見えることの方が多いのです。

 そうした、状況において、当時のコリントの教会の中で起こっていたのは、すなわち、自身の罪の告白と悔い改めもさることながら、「他の人に対して、その人の罪を指摘する」ということが日常的に行われていたのです。なお、そうしたことについてはコリントの信徒への手紙1の6章のところでも触れられている通りです。

 しかし、問題は、そうしたもともとは自分自身の罪の告白と悔い改めという信仰的事柄が、「信徒同士の裁きあい」という事態を招き、それによって「教会分裂」という状況に陥っているということなのです。

 そうした、状況において、イエス・キリストを中心とした(「神と人」、「人と人」との)和解の食卓である「主の聖餐」に共にあずかるということは不可能です。

 だからこそ、「主の聖餐」にあずかる者の必須条件として、自分自身の罪の告白もさることながら、お互いが指摘された罪の告発を受け入れ、お互いに神の御前において罪の赦しを受け、教会全体として神のみ前において罪を悔い改めることを勧めたのです。


 ただし、ここで注意しなければならないのは、昨今のキリスト教会の中で起こるさまざまな問題についてそうですが、「教会の中で誰が正義であり、誰が罪びとであるか?」というような事になってはなってはならないということです。

 ひとたび教会の中で問題が起こった場合、そうした問題を起こした教会の選択する態度は大きく二つです。

 ひとつは、「問題をなかったことにしようとする」ことであり、もうひとつが「問題解決のために、誰かを犠牲にする」ということです。


 そうした態度をとる背景にあるのは教会全体としての共同体的自己保身、あるいはその他教会員が「自分の信仰生活における平穏を守りたい」という個人的な自己保身があるからです。

 その意味で、パウロの目指すのはそうした人間的欲求である(共同体・個人的)自己保身ではなく、あくまで神のみ言葉に基づいて、その問題を「わたしたち全体の罪の帰結である」と認識し、そして神と人との前において、自分たちの罪を告白するという事にあります。

 そして、そのようにして教会の中における利害関係の解消、すなわち教会の中における加害者と被害者との和解の実現を目指すことがパウロの求めているところであるのです。


 そして、コリントの教会の中で、そうした教会の中における利害関係に対して、教会が全体として、その問題を自己保身的に考え、問題としてきちんと対処しなかったために、既に見た6章における「信仰者が信仰のない人に訴え出る」という問題が起こったのです。


 そうした教会の中に起こる問題は、そもそもある日突然、天から降って湧いたかのように問題が発生するわけではありません。大問題の前には当然、そうした大問題の前兆であり、個人的罪の段階が存在するからです。

 ところが、そうした大問題といえども、元は小さな個人的罪からはじまるのです。



 キリスト教会において大切なのはそういう意味では、大問題を起こすことは論外ですが、そうした「元々は小さな個人的罪」に対して、牧師も信徒もひとりひとりが常に気をつけて、例えそうした小さな罪が発生したとしても、まだまだ和解のしやすい「小さな罪」の段階で、神のみ前において和解することが可能であれば、教会は決して、そうした大問題を起こすことはないはずであるのです。

 ところが、今日の現状として、山陰に限らずあちこちでキリスト教会の不祥事や問題が起こっています。

 それは何故かと言えば、「小さな個人的罪」について、あまりにも教会が、あるいは牧師も信徒もひとりひとりが無頓着であるからです。

 たとえば、それは「福音宣教」が大目的になり、「福音宣教」を実現するためには「多少の罪には目をつむる」ということがそうした教会において習慣となってしまうからです。中には、「福音宣教」のためには「自分たちが罪を犯すことも良しとする」というような状況も起こっています。

 あらためて書きますが、「福音宣教はキリスト教会の使命か?」と問われるのであれば、パウロの回答は「そうではない」という事になります。

 「福音宣教」とは、「キリスト教会がこの世にあって正しい信仰生活を全うすることによって実現する神の御業」であるというのがパウロの視点であるのです。

 しかし、今日の教会は、むしろ「正しい信仰生活」ということよりも、「福音宣教」という(神が実現し与えてくださる)結果を自分たち人間の手で獲得しようとするのです。



 そういう意味では、そうした自分たちがこれまで「正義」だと考えてきたものに対して、今一度、聖書の御言葉に立ち返り、神の御前において教会全体として罪の告白と罪の悔い改めが求められているのかも知れません。

 パウロの筆ではありませんが、使徒言行録に以下のように記されています。

 ペトロとほかの使徒たちは答えた。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。(使徒言行録5章29節)

 キリスト者にとって実に基本的・根本的なことですが、今日の教会においては、むしろ「神に従うよりも、人間(の欲望)に従わなくてはなりません。」というような状況に陥っているのです。

 そして、そうした教会においては当然のことながら、そうした「自分たちの罪を指摘する聖書箇所」は開かれることもなく、たとえ開いたとしても、自分たちに都合の良いように解釈がされて話されるのです。そして、そこで問題となるのは、そうした事柄について信徒が疑問を持ったとしても、「自分の信仰生活を守りたい」という欲求から、牧師も信徒も見て見ぬふりをするのです。

 罪の誘惑は恐ろしいもので、わたしたち人間は殆どその自覚を持ちません。

 イエスさまは確かにわたしたちの罪を赦してくださいますが、しかし、「(意図的に)罪を犯すことを許してくださっている」わけではありません。 

 教会において、そこらへんを適当にするのであれば、そうした教会には信仰的自浄作用はありません。

 あとは罪の誘惑の導くままに破滅的な状況にまで陥るのが関の山です。


 そういう意味で、教会のひとりひとりが自分自身の小さい罪に対して忠実に、それを真摯に受け止め、イエス・キリストの御前において罪を告白し、罪の悔い改めがなされないのであれば、それがどんなに多くの人が集まるキリスト教会であっても「キリストの教会」ではあり得ないのです。

 アメリカにあったメガ・チャーチとして有名なクリスタル・カテドラル(信徒数7000人)が2010年に破産しました。

 「人が集まるから成功」というのは、キリスト教会においてはまったく本質的ではありません。そうしたこの世的な栄光を求めるのであれば、そうした教会は「サタン」を礼拝すればよいのです。あるいは、むしろサタンを崇拝するからこそ、そうしたこの世的な繁栄を得ることができるのです。

 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。(マタイによる福音書4章8~9節)

 キリスト教会が常に意識して注意しなければならない事柄がまさにここに示されているわけです。




 コリントの信徒への手紙12章3節
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 コリントの信徒への手紙12章26~27節
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
 

 キリスト教会がキリスト教会であるために必要なことは、まさに、パウロがこのところで語っている通りのものであると思います。

 キリスト者・キリスト教会の働きはまさに「聖霊」によるものであって、それは「イエスを主である」と、わたしたちの救い主とすし、罪を告白し、罪を赦された事に、神さまに対して感謝し、その御名を褒め称える礼拝にあるのです。

 そして、もうひとつ、ここで大切なのは、「キリスト者の敵はノンクリスチャン」ではなく、「(牧師も信徒も関係なく)キリスト者の敵は自分自身の罪である」ということです。

 キリスト者やキリスト教会はそうしたわたしたちの罪から離れるために、共にすべての人が、そうした罪を担いあうことによってキリストの体であるキリストの教会を形成することにあります。そのためには、ひとりひとりが自分の罪について自覚をもって告白と悔い改めが行われることが必要であるのと、あともうひとつは、そうした教会の中で起こる小さな罪をひとつひとつ丁寧に告白し、悔い改められていくことであるのです。

 それは、決して、「罪を犯した人を犯人に仕立て上げ、教会から排除する」ことではなく、常に、教会の中においてお互いの和解がなされるように、何が神のみ前において真実であるかがハッキリとされる事にあるのです。

 仮に、ある教会で、誰かが罪人にされて教会から排除されるのであれば、その教会はまさに罪に敗北したのです。

 そうではなく、なぜそうした問題が起こったのか、どうして今まで、誰もその事に気がつかなかったのか? あるいは気がついていたのか?

 その教会の中にまさに聖霊が働き、神の御言葉が語られており、語られた神の御言葉にひとりひとりが聞き従っているのであれば、キリスト教会はイエス・キリストの救いが実現する自浄作用によって、「神と人との前における和解」を、神の言葉が支配する「神の国」を実現していると言えるのです。

 そうした教会こそがパウロの目指したキリストの教会と言う事ができるでしょうか。


 コリントの信徒への手紙1 13章1~3節、13節
1)たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
2)たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3)全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 

13)それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。



 この聖書箇所は、よく結婚式の時に式文として使われる有名な聖書箇所です。

 しかし、当然、パウロは結婚式を前提としてこのことを書いているのではありません。


 はやい時期の教会においては、一種の霊的なカリスマである異言、預言、いやしといった事が行われていました。当然、それはイエスさまの生きていた時代にさかのぼるものでありますが、福音書において、弟子たちが町や村を巡って悪霊を追い出し、いやしを行い、様々な奇跡をおこなった伝統は、エルサレムから遠く離れたこのコリントの地にある教会においても、同様に、一種の権威であったのです。

 そして、まさにそうした賜物、すなわちたとえばアポロのような雄弁家としてのカリスマをもった人物や、その他のカリスマをもった人々がコリントの教会をけん引するようになり、しかし、コリントの教会はそうしたことも原因のひとつになって、まさに教会分裂の危機を迎えていたのです。

 パウロは、そうしたコリントの人たちに対して、それは「コリントの信徒への手紙2 12章」において、パウロは知人のこととして、自分の経験を語っていますが、パウロ自身、教会において、そうした霊的カリスマについて、完全に否定するのかというとそうした現象があることは否定しません。

 しかし、問題は、そうした霊的カリスマが「真に教会を成長させることはない」ということを、パウロはこのところで言おうとしているのです。

 それは、霊的なカリスマだけに留まらず、3節において「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」と、すなわち自分の全財産を教会にささげることや、あるいは、教会のために殉教をしようが、「そうした事柄はいっさい教会の成長のためにはならない」ということをパウロは言っているのです。


 なぜなら、教会はまさに信徒ひとりひとりによって支えられるのが教会であり、その信徒ひとりひとりを支えるのは、まさに神の助けであるからです。そのようにして、全体として教会が教会として活動できることが、まさにその教会が神の教会であることの証拠であるわけです。

 ところが、コリントの教会は、そうした「みんなで支えあう教会」ではなく、「特定の有力信徒」によって教会の形成がなされたのです。

 それは、一見すると「正しいこと」のように見えますが、しかし、本質においては、それが特定の有力信徒によるものである点において、いくら人間的に見て正しい行いのように見えても、神の御前においては「偽善」であり、「罪」にすぎないのです。


 たとえば、教会がその地域に根差し、その地域に仕えるということを目標にして、たとえばチャーチスクールや介護施設など、そういった公共的な役割を担うことをします。

 イエス・キリストの命令により、「隣人を愛しなさい」という御言葉に従って、そうした地域に密着した働きを教会が行う。

 当然、だれもそのことが神の御前において「罪」であるとは考えません。


 キリスト教会が置かれた場所において社会福祉のため、あるいは産業を興すといった、そういった事を行うことは決して「犯罪」ではありません。

 しかし、パウロに言わせれば、それは「偽善」に過ぎないのです。

 ではなぜ、そうしたことが「偽善」と言えるのでしょうか?


 理由は簡単で、「教会はそうしたチャーチスクールや介護施設の維持・運営といった社会事業の運営を、その地域に対してどこまで責任をとることができるのか?」ということです。

 つまり、「教会が可能である間はそうした事業を行うけれども、できなくなったやめる」では、その地域に対して非常に無責任になってしまうからです。

 歴史的に見て、カトリック教会の例をあげれば、カトリック教会はそうした社会的な事業を必要に応じて行いますが、それは教会本体として事業を行うのではなく、教会はあくまでもミサ、すなわち礼拝をおこなう場所であるとして、そうした事業は別団体の仕事として、教会とは全く分離して行うのです。

 「困っている人がいるから、教会が何かをしてあげましょう。」ということは、そういう意味では教会にとっては大きな誘惑です。


 困っている人をかわいそうに感じるのは、わたしたち人間にとって決して悪いことではありません。しかし、問題は、そうした人を「一時的に」助けるだけで済めば良いのですが、場合によってはそれがその人の生涯に関わるものである場合に、わたしたちはどこまでその人に対して責任を全うできるのか。

 もし、その責任が負えないというのであれば教会は手を出してはならないのです。


 しかし、わたしたちキリスト者の内には、信仰による「正義感」があり、困った人を見捨てるわけではありませんが、見て見ぬふりをすることは、やはり「手を貸す」以上に困難を覚えるのです。

 パウロは、キリスト者が自分の持つ全財産を使い果たしてまで、貧しい人たちのために善行を行うことを良しとはしません。なぜなら、それは貧しい人たちにとって、何の根本的な問題解決にならないからです。そこに残るのは、「全財産を貧しい人たちのために使った」という自己満足だけです。

 あるいは、まさにイエス・キリストがわたしたちの救いのために、自分自身の命を十字架上で捨てられたことに倣って、わたしたちも教会のため、イエスさまのために命を捨てることが良しとされるかというとそれもありません。

 結局、こうした人間の思惑に基づく慈善、人間の思惑に基づく殉教も決して教会のためにはならないのだということをパウロはこのところで、コリントの教会の人たちに教えるのです。

 そして、パウロは、「では教会の中で何がいちばん大切か」ということについて、信仰と希望、そしてもっとも大切なものが、イエス・キリストから頂いた「キリストの愛」であることを、このところで主張するのです。

 

 キリストの愛とは、そういう意味では「隣人愛」として、それが表現されるように、それは「この世にあってわたしたちキリスト者がそうした貧しい人たちと共に歩む」ことを意味し、「貧しい人たちに対して施しをする」ことを意味しません。

 キリスト教会は社会実業家の集まりでも、政治家の集まりでもありません。

 教会は信仰共同体であって、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。

 わたしたちがなすべきは「神を礼拝する」ことであって、神を信じる信仰において、わたしたちはそうした貧しい人たち、困っている人たちと共に、この世にあって生きることが大切であるのです。

 それは「分かち合う」ということであって、「施す」「恵み与える」ということではありません。

 神を信じるというのであれば、人間の業ではなく、神のみ業によって、そうした人たちがキリストによって同じ人間として立ち上がることが尊重されるべきことであるのです。


 「かわいそう」という言葉は、その言葉の裏に「わたしはそうでないから良かった」という人間の傲慢があります。本当の意味で、そうした貧しい人たちに寄り添うのであれば、「かわいそう」と思うのではなく、まさにそうした人たちに寄り添い、この世に生きる友人として、共に神を礼拝すればよいのです。

 仮に、そこで友人として「何をして欲しい」ということがあれば、それに対して友人として応える。そうした、神の御前において、同じ人間として共に生きるということが、パウロの目指す信仰生活であり、教会のあり方なのです。



 コリントの信徒への手紙2 13章5~8節
5)信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
6)わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。
7)わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。
8)わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。

 パウロはコリントの信徒への手紙1の最後において、コリント教会の人たちに対して、自分自身の信仰を吟味しなさいということを伝えます。

 それはキリスト教信仰が、常に、自己吟味を必要とするからです。

 ナザレン教団は「きよめ派」に属する、「聖化」を尊重するキリスト教会です。


 この「きよめ」「聖化」が意味するのは、日々の信仰生活において毎日聖書の御言葉に親しみ、聖霊の助けによって示される自分の罪を日々悔い改める、そうした信仰をいいます。

 しかし、わたし自身、毎日自分の罪に気づいているかどうか、実際問題としては、なかなか見えていないことの方が多いのではないかと感じるところです。

 「きよめ」「聖化」とは言いますが、それは必ずしも「自分が神の御前においてきよくなった」という実感を持つものではありません。むしろ、わたしたちは聖書の御言葉に聞けば聞くほど、自分の罪深さを認識せざるを得ないのです。

 その意味で、「きよめ」「聖化」も、それは具体的には「自分自身の罪深さの認識」であって、決して、「神の前に清くなった」と感じることのできるものではありません。

 むしろ、そのようにして示された罪をイエス・キリストが赦してくださることに対して、わたしたちは深く感謝を覚えるという、「神さまの憐みに対する深い感謝の念を覚える」というのが、その実際のところであるのです。

 わたしたちはともすると、信仰者として、人間として、「神に近づいた」と感じることが、「きよめ」「聖化」を体験することだと考えてしまいます。しかし、言い方を変えれば、「人間が神に近づく」ということほど神の御前において罪深いことはないかと思います。

 人間は神に近づくことはできず、むしろ、わたしたちキリスト者は自分自身の罪深さを深く悔いるときに、わたしたちの背後からイエス・キリストがその憐みをもって近づいてくださるのです。

 わたしたちが神の御前において礼拝し、神を賛美し、祈る、その喜びの源泉は、まさにその事柄にあります。そして、それこそがわたしたちをキリスト者にする神の力であり、教会を教会とする真に神の力であるのです。

  

コリントの信徒への手紙14章1~4節、14~20節、23~25節
1)愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
2)異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
3)しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 
4)異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。

14) わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。
15)では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
16)さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。
17)あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。
18)わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。
19)しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
20)兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。

23)教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。
24)反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、
25)心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。


 教会における異言による祈りは、パウロの時代から存在し、今日の教会にもやはり見ることのある現象です。

 パウロは自分自身で、「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」(18節)と言って、自分自身が当時のコリントの教会の誰よりも多くの異言を語ることのできる者であることを、神の御前において告白しています。

 すなわち、パウロは当時のコリントの教会において誰よりも異言を語ることができる、そうした賜物を備えた人物であったのです。


 しかし、パウロにとってそうした「異言を語れる」ということが教会において何か意味を持つのかというと、そうではないことをパウロは言っています。

 なぜなら、2節においてパウロが言っているように「異言」とは、いわばキリスト教信仰に基づく霊的現象であって、それは神に向かって発せられる言葉であって、人間にはわからない言葉であるからです。

 だからこそ、パウロは先の13章の冒頭で言っているように、それは教会や礼拝といった秩序の求められる場には不適合であり、むしろ、それよりも預言が語れることの方が大事であることを力説するのです。


 当時のコリントの教会において、そうした異言による祈りが礼拝において行われていたことをパウロは前提としています。しかし、そうした礼拝における異言はむしろ人々が神に向かうためには不要であり、それよりも大切なのは、人間を自分自身の罪の自覚と罪の悔い改めへと導く預言こそが大事であることをパウロはここでいうのです。

 それは、19~20節において、「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」(コリントの信徒への手紙1 14章19~20節)とあるとおりです。

 
 今日のキリスト教会においても同様ですが、当時のコリントの教会においても、やはり理性ではなく、むしろ感覚的に神を理解しようとする事が多く行われていたのです。なぜなら、そうした不思議な業、他の人が真似のできないような特殊な現象を起こせることは、いつの時代においても「自分たちの信仰が本物であることの証拠」として利用されやすいからです。

 しかし、わたしたちは「異言」を語れるからといって、それが教会のためにはならないことをパウロは「物の判断については大人になってください」と忠告するのです。

 むしろ、それよりも「悪事については幼子となり」とあるように、幼子のような純粋な心で悪事(人間的計略・謀略)から離れると共に、そうした教会の中における物事の判断については、まさに大人として、何が信仰的に良く、何が悪いのか、そうした自分たちの罪に対する極めて深い洞察力を身に着けることによって、そして、そうした神の御前において正しい教会を築きあげることが大切であるというのです。


 そうした、自分たちの罪について非常に深い洞察力、パウロのいうところの理性を培った教会に、ひとたび外から神の救いを求める人が加われば、『反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。』(24・25節)とあるように、その人は、教会の人々が語るその預言の言葉、すなわち、自分自身の罪を諭す言葉、罪の告白の言葉を耳にすれば、 その人も自分自身の罪を自覚し、心の内に隠していた罪をすべて明らかにされることによって、ただ、それは決して、その人を断罪し、罪人として告発するのではなく、あくまでも自分自身の内なる罪の告白として、たちまち神の御前に信仰をあらわすことへと導かれるであろうというわけです。


 すなわち教会における理性の言葉、預言の言葉とは、すべてが信仰者による自分たちの罪の告発の言葉であり、人間の言葉を告発する言葉である限りにおいて、それはさまにイエス・キリストの言葉として、わたしたちの罪を明らかに、その罪を赦してくださるというその救いを実現してくれる言葉となるのです。

 教会はその意味で、神の御前に常に自分たち信仰者としての罪がどのようなものであるのか、そうした事柄に敏感であることが求められるのです。


 ところが、異言は、そうした教会の中における自分たちの罪の告白とは、直接的に関係のないものであって(意味が分からない言葉なので)、異言がそうした教会においてキリスト者の信仰を深める事にはならないのです。

 むしろ、それはキリスト者の信仰を、自分の罪の認識から、目を逸らせる意味においてむしろ教会においては害となるのです。だからこそ、パウロは自分は誰よりも異言が語れるけれども、そうした異言において1万の言葉を語るよりも、理性において5つの言葉を語ろうと言うのです。



コリントの信徒への手紙1 14章26~40節
26)兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
27)異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。
28)解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。
29)預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。
30)座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。
31)皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。
32)預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。
33)神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、
34)婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。
35)何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。
36)それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
37)自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。
38)それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。
39)わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。
40)しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。 

 さて、このところはいろいろと今日的には解釈の上でパウロによる女性蔑視の奨励というような感じで、実に問題がある箇所です。

 しかし、パウロは一般論として「女性は教会の中では発言権がない」ということを言おうとしているのかといえば、そうではなく、あくまでも、この発言は、コリントの教会の抱える一つの具体的な問題として、この事を言っていると理解するのが無難であると思います。

 すなわち、この箇所を丁寧に読むのであれ、コリントの教会における一つの具体的な問題として、教会の中で秩序を乱し、異言を語る女性のキリスト者が居たということです。しかも、一人ではなく、そうした女性が数人居たことがうかがえるのです。

 以下はわたしの個人的な推測ですが、おそらく、コリントの教会において、いわば女性霊能者のようなグループが起こっていたのだと思います。そして、そうした女性集団の特徴が異言による祈りであったのです。しかも、そうしたグループが特定のメンバーだけに縛られることなく、むしろ、コリントの教会の中でひとつの運動として広がりを見せていたのです。

 そして、いつしか、コリントの教会で異言を語れる女性こそが、教会において預言を行う資格があるような風潮が起こったのだと思います。それは一種の女性霊能者による教会形成のようなものであるかと思います。そして、それ以外の預言が信仰においてはむしろ無意味なように言われていたのだと思います。

 「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。」(36節)

 この御言葉は、すなわちそうした女性霊能者のような人々が、「自分たちこそ神の言葉を語っているのだ」というふうにしていたことを示していると思います。

 そして、当然、コリントの教会における奉仕者の中でそうした女性霊能者集団の位置づけが問題となり、パウロはそのことを13章から14章にかけて、そうした霊的な現象を求めるのではなく、むしろキリスト教会はイエス・キリストの愛を実現するものであり、それは理性と秩序が大切であることを説いたのです。

 そして、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。」(34節)と言っている言葉は、まさに今日的には教会において女性の発言が認められていないことを言っているわけですが、この言葉も、やはり、そうした背景を元に読むのであれば、当然、「婦人たち」というのも、おそらくはそうした女性霊能者集団のメンバーを指して言っているものであることがうかがえるのです。

 そして、「許されていません」とは、その度合いが厳しい意味において、よほど彼女たち女性霊能者集団の行いが問題となっていたことが理解できるのです。

 しかし、パウロがここで問題としているのはあくまでも「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、」(33節)で言っているように、 教会において大切なのは、一にも二にもそうした秩序であって、それは当然、イエス・キリストの言葉、神の言葉の支配にもとづくものであり、大切なのはそうした信仰に基づく秩序、すなわちイエス・キリストの平和が実現されていることが大切なのです。

 それは、教会の中における異言の現象を禁じることにあるのではなく、そうした異言が行われるのであれば、それはきちんと秩序立てて、キリストの平和を実現するように用いられなければならないのです。

 その意味で、パウロが異言について言おうとするのは、異言について、それを禁止するとは言わないけれども、特にキリスト教信仰を持たない人がいる場においては異言は行うべきではない、ということなのです。

 

コリントの信徒への手紙1 15章3~8節、11~12節
3)最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4)葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5)ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6)次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
7)次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
8)そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 

11) とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
12)キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。


 パウロがコリントの教会の人たちに伝えたイエス・キリストの福音というのは、まさにこのパウロが 3)~5)節のところで語っている内容です。

 そして、まだパウロがこうしてコリントの教会やその他の地域にある教会に宣教を行っていた当時、まだ、大部分の人々は生きていたのです。

 ところが、そうしたイエス・キリストを信じる信仰において、今日のわたしたちよりもずっと時代の近かったコリントの教会の人たちにとって、既に、「イエス・キリストの復活は無かった」と信じる人たちが、コリントの教会の中で起こっていたというのです。

 コリントの教会がなぜ、そのような「イエス・キリストの復活は無かった」というふうに信じる人たちが増えたのか? その理由について、パウロはこのところで詳しく説明しません。

 しかし、わたしたちがこれまでのコリントの信徒への手紙を読んできて、その理由が当然、「これまでのところで書かれているからだ」とするのであれば、それは、コリント教会の信仰が正しいキリスト教信仰から離れて、全く別の偶像崇拝になってしまったからだと見るのが自然であると思うのです。

 では、その偶像崇拝とはいったいどういうものでしょうか?


 上記の引用聖句で分かりますが、正しいキリスト教信仰は何かと言えば、まさにパウロが3)~5)節で語っている内容です。

 すなわち、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるための必要条件が、「イエス・キリストを信じる」とわたしたちが言った場合の、その信仰の具体的な内容です。

 これはきわめて基本的な事柄ですが、この世にあって、キリスト教会がキリスト教会であるための絶対条件ともいえるものであると思います。

 それは何かと言えば、この世において、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるために必要なことは、すなわち、「その教会において、正しくイエス・キリストが信じ告白されている。」ということです。

 それを、更に詳しく言えば、パウロが3)節で言っているように、わたしたちが手にしている『聖書』は、まさにイエス・キリストを証しする書物であり、『聖書』はあくまでも、「イエスがわたしたちの救い主である」ということを指し示すものであるということです。

 そして、では、「イエスがわたしたちの救い主である」ということは、更に具体的に言えば何かというと、それは、「イエスさまは、わたしの罪をその十字架と復活によって赦してくださり、新しい命に生きることができるようにしてくださった」という、罪の告白と罪の赦し、そして、罪を赦された者の新しい命への招き(悔い改め)が、キリスト教信仰においてもっとも大切なものであるというわけなのです。

 すなわち、礼拝も聖餐式も、そこで重要なのは、聖書の言葉を通して、聖霊の助けによってわたしたちに語られる神の言葉(わたしたちの罪・弱さを教え諭してくださる言葉)が、常にきちんと、正しく語られ、そこにおいて、そうした礼拝や聖餐式においてわたしたちの「罪の告白と悔い改め」(信仰の応答)が正しく行われているということが大切なことなのです。


 ところが、おそらく、コリントの信徒への手紙1を読んでいて分かるのは、たとえばアレキサンドリア出身の雄弁家であるアポロ(要はカリスマ的な指導者)や、教会の中で異言を語る女性たち(要は神秘体験)の出現。それ以外にも、信徒の間における確執や分派といった様々な問題が教会の中で起こったということなのです。

 それは、個別具体的に説明すれば長くなりますが、ごく簡単に結論だけを言えば、すなわちキリスト教会という名の偶像崇拝にコリントの教会が陥ってしまったということなのです。


  キリスト教の礼拝とは、その本質において「罪の告白」と「罪の悔い改め」が、その最大の関心事です。

 その意味で、キリスト教礼拝は人間にとっての「娯楽」ではありません。


 旧約聖書においては偶像崇拝の代名詞として「バアル(神)崇拝」があげられます。バアル神というのは、いわゆる日本で言うところの「五穀豊穣の神」であって、その象徴としてふくよかな男女の裸であるとか、性器をシンボル化したものがつかわれます。

 旧約聖書の申命記に以下の記述があります。

 「イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない。」(申命記23章18節)

  この事が意味するのは、旧約聖書の時代において、実際問題として、イスラエルの神殿においてそうした宗教的・売春行為が行われていたことがあったということなのです。

 では、なぜ聖なる場所であるはずの神殿が売春行為の場所となったのか?

 その理由がバアル神であるのです。バアル神は主に男神の像と女神の像と大きさの異なる二種類の像がつかわれます。バアル神崇拝では、この男神と女神とが性的に交わることによって大地の作物が豊かに実るものとして考えられていました。

 だからこそ、男神と女神が性的に興奮するように、そうした男神像と女神像の前で人間の男女が性行為を行うのです。 すると、より興奮した男神と女神はそれによってより強く結ばれ、その年は豊作になるだろうというわけです。 こうした男神・女神の交わり、男女の性に関わる祭儀は、バアル神に限らず、日本国内にもいたるところにあります。


  では、なぜそうしたバアル神崇拝がイスラエルの信仰に入ってきたのでしょうか?

 おそらく理由はごく単純で、「イスラエルの信仰は人間的につまらないから」です。


 今日のキリスト教信仰もそうですが、「自分自身の罪を深く悔い改める」とは、決して面白くも楽しいものでもありません。むしろ、わたしたちはそうしたことには目をつむって、何か楽しい別の事をと考えるのです。

 旧約聖書に登場する神殿での正しい祭儀も同様で、それは人間的には魅力に欠けるものでした。


 だからこそ、昔の人たちも、「より多くの人が神殿に集まるように。」「より祭儀を充実させたい。」というような、人間的な発想から、近隣諸国の宗教祭儀で、取り入れられそうなものを少しずつ取り入れ始めたのです。

 そして、いつの間にか、イスラエルの神殿には多くの人が集まるようになり、また多くの献金やささげものが奉げられるようになったのです。

 ところが、それは信仰とは名ばかりで、信仰を口実にして、同時の宗教的指導者たちがやりたい放題をやったのです。

 当然、神殿には多くの人が訪れるようになり、それまで魅力のなかったイスラエルの神殿祭儀は、目を見張るほどのものになったのです。そこでは神殿娼婦や神殿男娼が、イスラエルの神を崇拝する目的でにぎわっていたのです。

 

 さて、 上記の例は当然、旧約聖書においてイザヤやエレミヤといった時代の話です。ところが、まさにその形を変えたものが、パウロの生きていた時代、コリントの教会において起こっていたのです。当然、そこには神殿娼婦や神殿男娼という存在はいなかったかもしれませんが、しかし、性的関係の堕落、アポロや女性霊能者のようなカリスマやあるいは心霊現象などをキリスト教信仰に持ち込んで、それがコリントの教会の問題となったのです。

 当然、それはコリントの教会だけの問題でなく、今日のわたしたちの教会においても同じです。


 今日、「福音は喜びであるから礼拝・教会は楽しくなければならない。」、あるいは「教会に魅力がないから人が集まらないのだ。」という声を聞きます。

 しかも、まさにそうした声に沿う教会こそが信仰的に正しい教会であるかのように聞きます。 しかし、それは本当にそうでしょうか?


 おそらく、パウロに言わせれば、「そうしたものはすべて偶像崇拝だ」ということになるかと思います。

 キリスト教、あるいは教会の魅力とは何でしょうか? それは決して「面白い・楽しいこと」ではありません。


 キリスト教、キリスト教会の魅力とは、イエス・キリストの救いであって、その他はありません。

 また、「福音が喜びである」というのはその通りですが、その「福音の喜び」は常に、わたしたち具体的な人間の罪の赦しによるものであって、それ以外の何かに由来するものではありません。



 キリスト教信仰において、わたしたち人間は等しく誰もが罪人であり、神の御前において不完全な存在です。

 そのような罪深い、弱い存在であるわたしたちが神さまの御前に出ることは、本来は不可能なのです。

 しかし、神さまはイエス・キリストをこの世にお遣わしになり、その十字架と復活の出来事をとおして、わたしたちの罪を赦し、わたしたちが神さまを礼拝することを可能にしてくださったのです。

 その意味で、礼拝の本質的意味は、それは確かにわたしたち参加者が神さまに対して共同で行う宗教行為ですが、本質的には、神さまが自分自身を救うことのできない罪深い、弱いわたしたちを深く憐れんでくださり、神さまの方から、神さまに近づく資格を持たないわたしたちに近づいてくださり、今日においては聖霊の助けによって、わたしたちは常にイエスさまと神さまと近く居ることを可能にしてくださったということなのです。

 その意味で、礼拝とは、わたしたちの感覚からすれば、「そこに出席するもの」ですが、信仰においては、そうではなく、「礼拝を通じて、神さまがわたしたちを招き、わたしたちに近づいてくださる出来事」なのです。

  そして、イエスさまはわたしたちを犯した罪によってその場で裁くことをしませんが、しかし、だからといってわたしたちが罪に留まることを良しとしてくださっているのではなく、むしろ、信仰者として生きるその人生において、自分の意志によって神の御前に罪を告白し、悔い改め、神の御言葉に聞き従う人生を歩むようにとわたしたちに願い、わたしたちの不忠実さにも関わらず、わたしたちと共に居て、罪の告白のとりなしをしてくださっているのです。

  そういう意味で、わたしたちはひとりひとりがイエスさまから深い憐みと信頼をいただいているのです。

 だからこそ、わたしたちは礼拝で、まさに神さまに罪赦された者として、御前に出ることが許されたことの喜び、感謝しつつ、主の御名を礼拝し賛美するのです。

 当然、それが真剣にそのとおり行われているのであれば、礼拝は誰にとっても素晴らしいものであり、喜びに満ちたものであるのです。



 しかし、そうした喜びが、またそうした本当の救いが礼拝にないという時に、教会は別の魅力である「偶像」へと走るのです。その時、牧師はあの手・この手で教会に人を招こうとするでしょう。

 「教会に、あるいは礼拝に魅力がないから、もっと教会や礼拝を魅力のあるものにしよう!」

 「偶像」とは、いわゆる別の神の像ということではなく、むしろ、人間の内なる欲望を信仰的な対象化したものであって、何かの実体があるわけではありません。例えば、「100人礼拝」「1000人教会」というような、教会の中で呼び掛けられる、信仰の本質とは無関係な一種のイデオロギーのようなものかもしれません。あるいは、牧師の個人的な欲望かもしれません。


 一見、信仰的に正しいように聞こえますが、まったくのナンセンスです。「この教会には、キリストの救いがありません」、あるいは「この教会はキリスト教会ではありません。」ということを神の御前に告白しているのと同じです。

 信仰の喜びは人間が作り出すものではなく、神さまの憐みによって、ひとりひとりに与えられるものです。

 当然、罪を悔いない、あるいは悔い改めないところに救いの喜びはありません。


 その意味で、そうした「信仰の本質とは無関係な何かしらの魅力を打ち出している教会」というのは要注意です。




 「キリスト教会はキリスト教会である」というのは、当たり前というか、まさにその通りなのですが、案外にも、わたしたちの身の回りには「偶像を崇拝するキリスト教会のようなキリスト教会」が多いのではないかと思う今日この頃です。

【エフェソとコリントの地図上での位置関係】
 

47214088


コリントの信徒への手紙16章8~12節
8)しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。
9)わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。
10)テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。
11)だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。
12)兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。


 パウロはこの箇所で、この手紙がアジア州のエフェソという町におり、そこからコリントにある教会の人々に手紙を出していることを説明しています。そして、先にコリントにアポロが宣教しに行った後、パウロがこの手紙を記している段階において、アポロがエフェソにコリントから既に帰ってきており、しかもパウロはコリントの教会で問題を起こしたアポロに対してコリントの教会に再度赴くように勧めているのですが、アポロはコリントの教会に再度行く気持ちがないことをパウロはこのところで明らかにしています。

 パウロはこれまでのところで、アポロが信仰的指導者として、コリントの教会を分裂の危機に追いやった(その他の理由もあるが)ことの責任について、おそらく、コリントの教会に再度赴いてパウロや他のコリントの教会員の前で謝罪するべきであることを考えていると思います。

 そのため、パウロはアポロに対して「信仰の敵」ということではなく、あくまでも「兄弟アポロ」と、すなわち教会指導者として、教会を混乱に陥れたその責任をきちんと果たすことを勧めるのです。ところが、当のアポロは、まだその意志が見受けられません。その意味で、パウロはアポロに対して、時間がかかってもいいから自分が起こした問題についての責任を果たすことを望んでいるものと思います。

 
 さて、ではこの事が今日的にわたしたちに教えるのはどういうことでしょうか?

 まずは、牧師であれそれ以外の指導者であれ、キリスト者として人間として神のみ前において「正しい者は一人もいない」という、わたしたち人間の現実に即して物事を考えるべきであるということです。

 当然、それは「牧師であるから間違いはない」というような一種の思い込みを禁じると共に、牧師も何かしらのリーダー的な存在も、また一信徒として、共に教会の重荷を担い、またそのために教会に仕える者であるという所から外れないということです。

 パウロがアポロに求めているのは、口だけで指導するのではなく、その業についても働きについても、特に信仰において罪の告白や罪の悔い改めという事柄についても、牧師も指導者もまた自分からそうしたことを率先して行い、まず、自分自身がキリストの言葉に聞き従う者であることに徹することが求められるということです。

 その意味で教会における福音宣教の業において、牧師、あるいは指導的立場にある人に求められるのは、まず自分自身がイエス・キリストのみ前に罪を告白し、罪を悔い改める者であり、まさにそうした信仰者としての生き方をもって教会の人々を指導するということです。


 ところが、そうではなく牧師や指導者が人間的努力、すなわちこの世的な成功といった事において、牧師として、あるいは指導者となりますと、そこには当然、「この世的な成功=失敗を犯さない=清い人=正しい人」といったイメージが構築されます。

 「常に神の助けによって勝利を収める」とは、聞こえは良いのですが、それが信仰的謙遜によって実現されるものである限りにおいては良いですが、都合よく信仰者だけが勝利を収めることはありません。そのため、「勝利=神の祝福」を実現するために、牧師、あるいは指導者は「勝利のためには悪を行うこともいとわない」というような事にもなっていくのです。

 こうした事は新約聖書においてはあまり見かけることはありませんが、旧約聖書においてイザヤ書などの預言書において告発されるイスラエルの罪について見ていると、そうした、信仰共同体において「まずありえないことが起こる現実問題として起こるのだ」ということが見えてくるかと思います。

 わたしたちがこの世において受ける祝福(繁栄)とは、その本質において神の祝福による祝福(繁栄)と、人間の悪による祝福(繁栄)とがあります。両者はその結果において共に共通しますが、しかし、その本質は決定的に違うのです。

 教会が結果だけを見て、その本質を見誤る時に、教会はイエス・キリストを信じているようでサタンを信じ、サタンの誘惑に従って繁栄を手にするという事があるのです。それは信仰共同体においては致命的な間違いであって、常日ごろから、自分たちの行っていることが神のみ前に正しいかどうかを悔い改めながらでなければ、教会はあっという間にサタンの誘惑に落ちてしまうのです。

 また、わたしたち人間はサタンに対して「誘惑」の罪の責任を追及することはできません。サタンとは、すなわち便宜上、わたしたちがわたしたちの信仰を神から遠ざける架空の存在であって、本質において実体はありません。

 なぜなら、わたしたちがサタンと呼ぶものは本質は、自分の内にある「欲望」に過ぎないからです。その「欲望」をわたしたちが、現実の世界において投射する対象がすなわちサタンであり、サタンの実体はなく、ただ自分の内にある欲望に過ぎないのです。
 
 当然、わたしたちがその罪の責任をサタンに追及することはできず、その罪の責任を担うのは当の本人ということになるのです。その意味で、神にサタンがその罪を追及されることはなく、あくまでも罪を犯した人間がその罪の責任を取らざるを得ないのです。
 

 教会で何か特別な行事を行い、それによって新来会者が与えられた時、それはむしろわたしたちは注意しなければならないのです。わたしたちは、そのようにして自分たちの努力によって、新しい人が教会に来てくれた。それは神の導きだ、神の祝福だと理解するでしょうが、むしろ、パウロに言わせれば、そうした事は神の祝福でもなんでもなく、ただ自分たちの欲望の望むままに事態が進展したことを、「まさに神の御心」であると認識しただけであって、まさにそれがここでいうところのサタンの誘惑であるのです。



コリントの信徒への手紙16章13~24節
13)目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。
14)何事も愛をもって行いなさい。
15)兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。
16)どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。
17)ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。
18)わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。
19)アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。
20)すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
21)わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。
22)主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。
23)主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
24)わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。

 その意味で、本当の「神の導きによる新来会者」とは、そうした集会ということに関係なく、普段の礼拝において教会に訪れる人において、まさにそうであるということが言えるのです。もちろん、そうした特集に来た人がまったく「神の導きに拠らない」とは、人間は言い切ることができません。

 しかし、わたしたちが教会として特別なことではなく、パウロがこの13節で言っているように、わたしたちが信じ、また守っている「礼拝」はまさにこれこそが教会においてもっとも大切なものであって、わたしたちはそれに誇りと自信を持ち、堂々と、「教会の外の人々が何を考えているのか」というようなことを気にせず、自分たちの大切にしていることを大切にしていけばそれでいいのです。

 仮に、何か教会が特別なことをしたことによって、新来会者が与えらえるのだというのであれば、教会は常にそうした新来会者が与えられるためにすべての情熱をつぎ込まなければなりません。

 テレビ局が視聴率を獲得するために、一定の放送倫理の枠の中で、あの手この手で視聴者を飽きさせないようにするのと似ています。

 キリスト教会はそのようなエンターテイメントを提供する場所ではありません。

 キリスト教会は神を礼拝する所である。それ以上のものでもそれ以下のものでもなく、定められた時に、定められた場所で礼拝を必ず行っている。その欠かすことのない週毎の礼拝を100年、1000年と続けるのがキリスト教会なのです。

 その意味で、教会が、この世的な流行を取り入れることがどれほど神のみ前に愚かしい事か。しかし、キリスト教会はそれが「愚かしい」と思いながらも、しかし、それをまったく切り捨てる信仰的勇気を持たないところが、すなわち今日におけるキリスト教会の信仰的な弱さであるのです。

 神は無から有を生み出す方です。

 わたしたちが信じるのは、まさにこの世的な流行に左右されることなく、天地のはじまりからその終わりまでわたしたちと共にいて、御言葉を与え、わたしたちの罪深さを深く憐れんでくださる方であるのです。

 教会が最近の流行を取り入れることが神のみ前における大いなる反逆であると自覚するキリスト者は、今では少ないかもしれません。

 
 「今の若い者は・・・」という事ではなく、パウロがまさにコリントの信徒への手紙1 15章で 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 」(Ⅰコリント15:3~5)と語っているように、それはパウロの生きていた時代においても、また100年前の時代においても、今日においても、またわたしたちの後の時代の人たちにとっても、この言葉が変わることはないのです。

 それは、確かに、今のような自由な時代においては、それは表面的にはただ「言葉による情報」であって、取り立てて何かしら秘密めいたものでもなく、面白くも楽しくもありません。

 しかし、パウロがそうしたように、過去のキリスト者はこの事柄を大事にし、まさにその事を自分の生涯においてもっとも大切なこととして生きる人生を通じて、この信仰をその世代から次の世代へと継承していったのです。

 その意味で、教会はキリスト教の斡旋所でも、布教所でもありません。

 まさに教会は「神を礼拝するところ」ということを本質にするところであって、キリスト者はキリスト教の斡旋をすることなく、ただわたしたちは神の憐みと導きによって「キリスト者と成る」のです。




 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(マタイ7:13)

 イエスさまがこう言われる言葉はまさに真実です。

 しかし、もう一言付け加えることを主が許してくださるなら、わたしは次のように書きます。


 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる教会の門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」


 それはまさに「あそこの教会」がということではなく、わたしたち自身の直面する問題であり、教会は常に、この事を意識しつつ歩んでいく必要があるのです。

 当然、それは常に神のみ前に罪を悔い改めようとする信仰生活において実現される神の導きであり、ナザレン教会が言うところの清め・聖化とは、まさにそうした教会のあり方であるのです。

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