山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

カテゴリ:パウロの直筆の手紙 > ガラテヤの信徒への手紙

 パウロの直筆による手紙としてテサロニケの信徒への手紙を見ました。厳密には、テサロニケの信徒への手紙2はパウロの偽名書簡として知られており、そういう意味ではテサロニケの信徒への手紙1の次はガラテヤの信徒への手紙となります。

 ガラテヤの信徒への手紙はパウロの個人的な救いの体験が記されていたりする、同じパウロについて記されている使徒言行録とはまた違った意味で興味深い手紙です。

 さて、この手紙において、パウロは自身の救いについて、特にそれが神によるものであることを最初に告白します。


 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 」(ガラテヤ1:1~2)

 「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」(ガラテヤ1:11~12)

 パウロにとって復活の主イエス・キリストとの出会いは、まさに「人々からでもなく、人を通してでも」ないものでありました。しかし、パウロはだからといって独学でキリストの信仰を得たのかというとそうではありません。

 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。(使徒言行録9:10~11)

 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。(使徒言行録9:27)


 使徒言行録の記述によればパウロをその信仰のはじめから導いたのはアナニアという弟子とバルナバという弟子でありました。

 しかし、パウロ自身の信仰告白としては、すなわちキリスト者アナニアとキリスト者バルナバがパウロにとって信仰的な指導者だったのですが、パウロの自己理解としては、アナニアとバルナバの導きによるのではなくそれはすなわち「神の導きであった」ということなのです。


 多くの教会では「福音宣教」という旗印を掲げ、まさにそれこそがこの世に生きるキリスト者に課せられた使命だとして、そのために教会を上げて取り組むということが少なくありません。

 「今は、聖霊の時代であり、まさに聖霊の助けによって、キリスト者は出て行ってすべての民に福音を宣教する時代である」と。

 教会の牧師をまさに一種の軍隊の長として、以下、個別の小隊を率いるリーダーを立て、あるいは様々な働きを割り当て、そうしたリーダーを長とする小隊を組織して、まさに教会全体がそうした「福音宣教」という使命を完遂するためのある種「軍隊」として教会を考えるやり方があるわけです。

 「福音宣教」を第一にして、まさに「福音宣教」のために存在する教会が、いわゆる最近よく話題にのぼる教会の形であるのです。

 それは一人一人の個性を活かし、まさに適材適所という言葉が似合うように、教会を一種の軍隊化するわけです。そこに求められるのは「上からの命令に対する絶対服従」であり、まさに教会員は「道具」であるわけです。

 能力主義・成果主義・絶対服従・滅私奉教会(あるいは滅私奉牧師?)・熱狂・騒乱・愉快・跳躍・感動・・・


 さて、こうしたものが求めているものは本当に「福音宣教」なのでしょうか?


 そうしなければ実現できない「福音」とは一体どういう福音なのでしょうか?


 イエス・キリストの福音がわたしたちにとって喜びであるというのは確かです。しかし、その「喜び」と、上記のものがもたらす「喜び」とは同一なのでしょうか?


 それは、たとえば以下のような御言葉を見ればわかるでしょう。

 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:7)

 キリスト者が喜ぶ喜びとは、まさにそれは人間の肉の欲望による喜びでなく、それは「一人の罪人が神の御前に罪を悔い改める」ということによって引き起こされる喜びであるのです。

 すなわち、教会における喜びの根底にあるのは「主イエス・キリストによる罪の赦しの出来事」であって、常に、そこに基準があるのです。

 では、はじめに戻って、パウロの信仰のひとつの特徴は、確かに、直接的にはアナニアやバルナバといった、先に異邦人に対する福音宣教を行ったキリスト者たちによってはじめられたものですが、しかし、パウロ自身の信仰告白として「救いは神の導きによるもの」という確信がまずあったということなのです。

 だからこそ、パウロは「人々からでもなく、人を通してでもなく」と語るのです。それは言い方を変えれば、決して、アナニアやバルナバによって与えられた信仰ではないということなのです。

 つまり、福音宣教とは人間が努めてそれを行うものではなく、その本質において神の救いの御業であるのです。


 だとすると、先ほどのように牧師を頂点として、組織だって福音宣教を行うという、いわゆる教会の伝道の業、クリスチャンによる伝道の業というのは神の御前において一体どういうものなのでしょうか?

 それは教会の中では善として認識され、それを行う人は、「自分は神の御前に正しいことをした。神によろこばれる良いことをした。」という認識を得ることでしょう。


 しかし、それは神の御前においては、イザヤ書59章の以下の御言葉がよく示していると思います。

 イザヤ書59章1~4節
1)主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
2)むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
3)お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。
4)正しい訴えをする者はなく/真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り/労苦をはらみ、災いを産む。

 人間による伝道の業はそれがまさに神の御心に沿うものでない限り、それは行動において、「神には人間を救う力がない。」ということを証していることと同じです。それは、神を信じているようで、実は、神を否定する行為になっているのです。

 「日本ではクリスチャン人口が1%にも満たない。」「山陰は日本でもキリスト教の伝道困難地域だ。」というようなことを聞きます。

 もし、そう言う人が「自分は神を信じている」と自覚するのであれば、それは「自分は神を信じているが、神の力は信用していない。」と言っているのと同じです。

 むしろ、イザヤ書の言葉に聞き従うのであれば、山陰がキリスト教の伝道困難地域だというのは、山陰にあるキリスト教会が、本当の意味でイエス・キリストの福音に立脚していないということが問題なのかもしれません。

 それは教会の外の問題ではなく、むしろ教会の中の問題なのです。ノンクリスチャンが問題なのではなく、クリスチャンにこそ問題があるのです。

 先ほどの軍隊式のような教会をあげて福音宣教を使命とするやり方というのは、下手をすると、すなわち教会の中の人たちが正しく(あるいは、救われた人)、教会の外の人たちが間違っている(あるいは、救われていない人)という二元論的な価値観に支配されます。

 パウロは、ある人物が神によって信仰を持つのは、あるいは信仰に導かれるのは、まさに神の導きであると説明します。つまり、クリスチャンが教会に勧誘すること自体には極端なことを言えば意味がないのです。

 確かに、人間による宗教的勧誘によって、教会に来たことのない人が教会に来るきっかけを作ることはできます。しかし、その事と、その人が神との出会いを経験し、自分の罪を告白して救いに至るかどうかは神の導きによるものであって、そこには関係はないというのがパウロが告白するところなのです。

 むしろ、本当の意味でキリスト教会に求められるのは、次の御言葉にあるように神にすべてをおゆだねする信仰であるのです。

 主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」(民数記11:23)

 わたしたちキリスト者は下手をすると福音宣教という事柄を通じて、まさに神に対して「あなたにはその能力がない。」ということを証していることになるのです。当然、それでは神の栄光があらわれるはずもありません。


 それどころか、「福音」という言葉を用いて、まったく宣教とは逆のことを行っているのです。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(ガラテヤ1:6~7)

  パウロが生きていた当時、ガラテヤの地域、すなわち今日のトルコ共和国の東部地方において、ユダヤ主義に基づくキリスト教を伝える巡回教師のような人たちがいました。彼らの主張は、イエス・キリストをメシアと信じるけれども、しかし、ユダヤ教に基づく食物規定などの事柄もキリスト教の信仰に盛り込む必要があることを説いて回っていたのでした。

 キリスト教会は「福音宣教」という目的のために、あるいはプロテスタントという性質から「保守的」であることを罪として、「新しいこと」「改革」を美徳とする傾向があります。

 当然、変わるべきところは変えなければならないのですが、問題は「何を基準として、その変えること、変えないことを判断するのか」ということです。


 ちまたで良く聞くのは「~だから、教会に人が来ないのだ。」「~だから、教会に魅力がないのだ。」という言葉です。

 そして、当然のことのように、「~すれば、教会に人が来るようになる。」「~すれば、教会がもっと魅力的になる。」という議論が行われるのです。

 まあ、キリスト教会が「人間相手のサービス業だ」ということであれば、そうした議論も成立するでしょう。


 しかし、教会が神の教会であり、礼拝は神が主催されるものである限りにおいて、そうした人間を基準にして考えることは基本的に間違っています。

 教会はすべての人が招かれる礼拝の場でありますが、その目的は神を礼拝することです。

 それは、むしろ人間にとって時間を拘束され、行動を制約される、本能的には不快な出来事なのです。

 しかし、それを上回る喜びが、すなわち本来は神にまみえる資格を持たない、礼拝することを許されない罪深い人間が、イエス・キリストによって神を礼拝することを許されたという喜びの出来事(神との間に和解を得た出来事)であるのです。

 当然、礼拝は人間が「神を礼拝する」という口実で、自分たちが楽しむためのレクリエーションではありません。そして、当然、礼拝には「神を礼拝する喜び」以外の魅力はありません。

 つまりはそうした「参加者にとって魅力的な礼拝」というのは、神を礼拝するようでつまるところは偶像崇拝なのです。
  
 そして、神を神としない、偶像を神とする行為であり、極めて神の御前における重大な過ちであるということになるのです。
 
 
 たしかに、議論として「教会にもっと人が来るようになるためには?」「もっと魅力のある教会にするには?」といったことは議論としては可能です。しかし、パウロに言わせれば、そうしたイエス・キリストの福音と関係のないもの、あるいは指向する方向が異なるものは、まさに福音を覆すものにほかならないのです。

 「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(ガラテヤ1:10)

 キリスト者が聞き従うべきなのは、まさにイエス・キリストの言葉であって、それ以外の誰かの言葉ではありません。パウロはそうした、キリスト者がイエス・キリスト以外の言葉に聞き従う(特に牧師はそのことに注意しなければなりません)のであれば、それはもはや「キリストの僕ではない」と言うわけです。

 そして、そうした信仰へと導くのはまさに神であり、人間ではありません。ガラテヤ書においてパウロが主張する救いとは「キリスト者の伝道による/キリスト者の宣教による」救いではなく、まさに「信仰により、神の導きによる」救いであるのです。

 それはキリスト教会においては基本中の基本でありますが、教会がまさに自己目的化するときに、むしろ、神の導きはどうでもよく、ただ教会が大きくなること、礼拝出席人数が増えること、礼拝献金が増えることが目的化されるのです。

 もちろん、牧師も信徒も「献金が増えることが目的です」「人数が増えることが目的です」ということを表向きに主張することには抵抗があるので、その別の言い回しとして、「福音宣教」という言葉が、教会の自己目的化の隠れ蓑になるのです。

 もし、信仰熱心であることを求めるのであれば、むしろ、日々の生活に努め、聖書を読むことと、神さまに対して祈りをささげることに熱心になればよいのです。

 週毎の礼拝こそがわたしたちの為すべきキリスト者としての証であり、神は礼拝に人を招き、礼拝において神の言葉が語られ、礼拝において救いを経験し、礼拝においてイエス・キリストの今もなお生きて働かれることを信じ、礼拝をもって、この世に対してイエス・キリストの福音を宣教するのです。

 それがキリスト者の生涯における中心的出来事であり、まさにパウロが目指した「信仰によって人は義とされる」ということを証明する唯一の方法であるわけです。 

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)


 ガラテヤの信徒への手紙におけるパウロの最も大事な信仰告白は上記の御言葉にあるように「キリストの救いによって実現する自由(神との間における和解)」です。

 ところが、これは「自由」といっても「何もかもが許される自由」とは決定的に違います。パウロが指摘する「自由」とは、「罪の支配からの自由」であって、人間は生まれながら「罪の支配のもとに奴隷状態にある」という信仰的理解を前提とするのです。

 そして、イエス・キリストの救いが人間にもたらす「キリスト者の自由」とは、パウロのローマの信徒への手紙の言葉を借りれば、「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマの信徒への手紙6章16節)とあるとおりなのです。

 すなわち、言い方をかえれば、神は正しい方でありそれゆえ永遠の存在ですが、人間は不完全であり、その不完全のゆえに、すなわちキリスト教の信仰でいえば「罪」があるために永遠に生きることはできないのです。

 ところが、では人間から「罪」の部分だけを抽出して分離できるかというとそれは不可能なのです。

 なぜなら、たとえばわたしたち人間が生きるためには他の動植物を食べる行為を通じて、すなわち他の命の犠牲の上にあってはじめて生きることができるわけです。つまり、人間が生きるためには、そうした他の命を犠牲にする罪の行為が必然的に発生するのです。そのため、人間の命は常にそうした他の命の犠牲という罪と一緒であり、この関係を分離することはできないのです。
 そして、キリスト教では、人間の命と罪とが、あたかもコインの表と裏の関係にあるように、人間がこの世において人間として生きる限りにおいて、人間から罪の部分だけを取り除くことは不可能なのです。

 では、イエス・キリストの救いというのは、そうした罪の奴隷状態、言い換えれば呼吸や食事といった、人間の生理機能から自由にするとはどういう意味なのでしょうか?

 仮に、まさにこの「自由」がそうした生理的欲求からの解放であれば、まさに人間はイエス・キリストの救いによって飲み食いする必要はなく、また睡眠やあらゆる人間の活動を必要とせずに人間であることができるようになります。

  しかし、洗礼を受けてクリスチャンになったからと言って、その後、水や空気や一切の生理的欲求を必要とせずに生きることができるかといえば、それが可能なのはミイラか死体でしかありません。

 すなわち、イエス・キリストの救いとは、人間が何か不完全な状態から神に近い完全な状態になることを意味するのではなく(もし、そうであれば神は必要なくなります)、むしろ、それは「イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださることによって実現する神との関係の回復 」として理解されているのです。そして、そうした地上においては復活の主イエス・キリストと共に歩む信仰の生涯、すなわち、わたしたちが主体的に救いの応答として、神の奴隷として生きることをもって、来たるべき天においては義、すなわち神さまの御前において主の永遠の平安に至ることができるとするわけです。

 ですから、パウロは信仰によって救われた人間は、神によって罪から救われたことに対する信仰的応答、すなわち信仰生活を以下のように生きるべきだと勧めています。

 ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節
2)ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
3)割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
4)律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5)わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
6)キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 

 当時のガラテヤ地方にあった異邦人教会に、エルサレムからユダヤ主義に基づくキリスト教の指導者がやってきて異邦人教会の人たちに対して、「イエスはメシアであるが、しかし、モーセによる十戒の遵守も必要である」と教えていました。そうしたエルサレムからの指導者たちが語る福音というのは、イエス・キリストをただ信じるだけではだめで、モーセの十戒も必要だと、具体的には「割礼を受けることも救いには必要だ」と教えたのでした。

 当然、パウロにとって、そうした「信仰において割礼の必要性がある」ということになると、「イエス・キリストの救いは不完全だ」ということになります。だからこそ、パウロはこのところで、イエス・キリストの救いの核心、すなわち福音とはまさに「人間は(割礼などの行いによらず)信仰によってのみ、(イエス・キリストの救いによって)神の御前に義(正しいもの)とされるのだ」ということを主張したのです。

 しかし、だからと言って、パウロはそのようにしてイエス・キリストを信じる信仰によって救われた人間が、自分の本能的欲求に従って生きればいいのだとは言わないのです。

 パウロは5節で、イエス・キリストの救いによって救われた者は、「義とされた者の希望が実現すること」を、「”霊”により」、「信仰に基づいて」、「切に待ち望んでいる」と説明するのです。

 じつに抽象的な表現なので分かりにくいですが、これは何を言っているのかといえば、次の6節に出てくる「愛の実践を伴う信仰」について、すなわち、イエス・キリストの救いによって救われた者、すなわちそのようにして義とされた者は、その心の内に「愛の実践」、すなわち「隣人に対して自分がイエス・キリストから受けた愛をもって接する生き方」(隣人愛の実践)へとその心が向かうようになり、その実現のために、キリスト者は聖霊の助けを求め、信仰に基づいて物事を判断し、神の助けによってそれが実現されるように祈りの内に待ち望むのだというわけです。

 長くなるのでまとめると、要はクリスチャンになった人は、その救われた喜びから、隣人愛の実践に生きるようになるのです。しかし、それは決して、人間的努力として行うのではなく、あくまでも祈りの内に、聖霊の助けによって、信仰によって実現するのだというのです。


 ガラテヤの信徒への手紙5章18~23節
18)しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19)肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
20)偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
21)ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
22)これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
23)柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
 
 ここも結構、有名な聖書箇所ですが、パウロはガラテヤ教会の人たちに対して、キリスト者には二種類いることを説明します。ひとつは「聖霊の導きに従っているキリスト者」であり、もうひとつは「それ以外のキリスト者」です。

 当然、パウロがキリスト者として求めるのは前者であり、それはイエス・キリストの霊である聖霊の導きに従っているキリスト者です。そして、そのようにして信仰生活を全うするキリスト者、あるいは教会こそが、まさにキリストの教会であって、そうでないものはキリストの教会ではないと、かなりキツイ言葉で「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」と言っているとおりです。

 その意味で、わたしたちは自分の信仰について、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、主演、その他これに類するもの」がないかどうかを吟味する必要があるのです。そして、信仰生活における「聖霊の助け」とは、まさにこういったものを総称して「罪」を、聖書の御言葉を通じて教え諭してくれるのです。

 そして、キリスト者はひとりひとりがそうしたものに常に注意すると共に、次のことが実現するように神さまに祈り求めなければならないのです。それは「(キリストの)愛であり、(罪の赦しによる)喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といったものです。

 パウロは、信仰により、イエス・キリストの救いに与ったキリスト者は、そうした信仰生活へと導かれ、まさにそうした信仰者による信仰共同体としての教会を目指すことを教えたのです。


 そして、そうした背後にあるのは、当時のガラテヤ地方の教会が、信仰者の集まりであるにも関わらず、そうした間違った方向へと突き進んでいったということの反省にあるのです。

 ガラテヤの信徒への手紙6章1~2節
1)兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
2)互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 キリスト者は決して清い存在ではなく、イエス・キリストの救いによって救われてなお罪人であるという本質からは逃れることができないのです。むしろ、キリスト者の聖性というものがあるのであれば、それはキリスト者自身の内から出てくるものではなく、その人と共に居ますイエス・キリストの聖性によるものなのです。

 だからこそ、わたしたちは常にイエス・キリストと共にあり、そこにおいて常に罪の告白・罪の悔い改めが必要であるのです。そして、そうした弱さを持つキリスト者が集まっている教会も、また、神の御前において完全ではないわけです。

 パウロは信仰者ひとりひとりが自分の罪に気を付けることは言うまでもなく、互いの罪についても気を配ることを言っています。そこにおいては同じ罪人として、まさに隣人の罪をも自分の罪と同じように考えて、罪の誘惑に陥ってしまうことのないようにしなさいと勧めるのです。そして、まさに教会は、そうした互いの罪を担い合うことを通じて、すなわち互いに重荷を担うことを通じて、「キリストの律法を全う」することになるというわけです。

 キリストの律法とはすなわち『律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。』(ガラテヤ5:14)とあるとおりです。


 ガラテヤの信徒への手紙6章7~9節
7)思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
8)自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
9)たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

 イエス・キリストによって救われた人物が、信仰者となって、その後に犯す罪はイエス・キリストを信じる信仰によって自動的に赦されるのかというとそうではないことをパウロはここで言っています。

 「自分の蒔いたものを、また刈り取る」とは、すなわちたとえ信仰者であっても、罪を犯せば、その罪の責任を取らなければならないということです。

 すなわち「キリスト者になった」ということは、本当の意味での「救いの確約」ではないのです。

 イエス・キリストの救いはそれ自体で完璧なものですが、しかし、それは「永遠の命」に至るための「最初の一歩」なのです。イエス・キリストの救いが、まさにその人をその人の意志とは無関係に強制的に「永遠の命」を約束するものであれば、そこに「人間の意志」は必要ありません。

 一見すると、「神が人間を強制的に救う」ということは人間にとって非常に嬉しいことのように感じますが、実は、それは「人間を人間としない」ことでもあるのです。むしろ、それは「人間としての、人格を持った個としての存在の否定」であって、それは「完璧な救い」に見えますがそうではないのです。

 神さまは、人間をあくまでも一個の人間として、その存在を大切にされるからこそ「勝手に救わない」のです。

 それは一見すると「不親切」に感じますが、そうではありません。

 神さまはわたしたち人間に対して、わたしたちと同じ高さに下ってくださり、そして、わたしたちと対等の立場においてその救いを与えてくださったのです。

 それはわたしたちを一個の人間として大切にされる愛に基づくものであり、当然、信仰として、応答として、神さまの救いに応えることが期待されているのです。



 人に対して、なんでもかんでもやさしくすることが親切かというとそうではありません。わたしたちは悪を行おうと考えて悪を行うことは少ないですが、案外にも、善を行おうとして悪を行うことが多いのです。
 わたしが牧師になって経験した罪というのは、ほとんどがそうした「自分としては親切のつもり」が、結果として「相手の人格を否定している」というケースです。これはよほど注意していないと、うっかりするとよくやってしまう罪です。

 そういう意味で案外にも教会は、パウロが指摘するように、そうした罪の誘惑に多く曝されている場所でもあるのです。表向きは「親切」なので、本人はそれが悪であると気が付きません。しかも、それを無意識で行っていたりすることが多々あります。

 そうしたことが個人レベルで起こり、また教会レベルで起こるのです。

 キリスト者が立ち向かうべき相手は、まさにそうしたわたしたちの罪であり、当然、それは信仰により、聖霊の助けによらなければ決して立ち向かうことはできないのです。



 今日のキリスト教会において表向き「偶像礼拝」は存在しません。しかし、パウロが言う「偶像礼拝」は決して他の宗教の神像を礼拝することを意味しません。むしろ「伝道」「宣教」「福音」「救済」という言葉によって、個人の自己満足や組織の拡大など、それに類するさまざまなものが偶像としてキリスト教会の中で礼拝の対象となっているのです。

 ガラテヤ書において「律法」は「割礼」を意味していました。では、今日における「律法」とは何でしょうか?

 もちろん、教科書的には「律法主義」というような答えになるのでしょうが、わたしがこのガラテヤ書から読み取ることができるのは今日的「律法」とは「伝道」ということです。

 それは「伝道」そのものが否定されるのではありません。「伝道」が目的化され、教会員に対して伝道がノルマ化されることが、今日的な「偶像礼拝」なのです。それは表向き「悪でない」ことから、「正しいことだ」と無条件に考えてしまいやすいのです。

 キリスト者もまた教会も、常に、そうした何が罪であり、偶像礼拝であるのか、そのことに注意を払い、イエス・キリストに従い続けなければ、その先にあるのは身の破滅でしかないのです。
 

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