ローマの信徒への手紙15章1~2節
1)わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
1)わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。
2)おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
ローマの信徒への手紙15章14~16節
ローマの信徒への手紙15章は、全体としてはパウロの使命やローマにあるキリストの教会の人たちに、いずれ自分がそちらの教会に行くことを考えていることを伝えています。しかし、それは献金を携えてこれからエルサレムに行くという、その出来事の後に、パウロの逮捕という全く思いもしない形でローマに行くことが実現するのです。
さて、このローマの信徒への手紙15章において、これは先の14章における内容の続きとなりますが、「キリストの教会」は、まさに「キリストのものである」という点が重要です。
すなわち、教会は牧師の私物ではないのです。
たしかに、単立教会や開拓伝道の場合に、牧師の住まいを礼拝堂として使うような場合、なかなかそうした境界線がはっきりしないこともあります。
教会が法人格を取得するまでは、教会として、つまり「法人」として銀行口座を作ったり、動産・不動産の売買を行うことはできません。
そのため、主に開拓伝道の場合において、牧師が個人名義でマンションの部屋の賃貸契約を結び、当然、その支払いも牧師の個人名義で行われるわけです。
その関係で、ゼロから教会を運営していくためには、どうしても「牧師の家計」と「教会の会計」との境界線が曖昧にならざるを得ないのです。たとえば、そうしたマンションの一室を借りて、そこで礼拝を考えるとわかりますが、たとえば水道代や電気代など、単純にどこからどこまでが教会で、どこからどこまで牧師の家計か判断できないことが起こるのです。
ですから、そうした開拓伝道の時代というのは、そうした会計が曖昧な状況で進むことがどうしても避けられないのです。
しかし、次第に教会が大きくなり、規模が大きくなってくると、やはりそうしたところをキチンとして考えていかなければなりません。その時に、教会が本当の意味で公的な存在として、まさに「キリストの教会」となることができるかが問われてくるのです。
パウロはこの15章1~2節のところで、教会は「強い者」、すなわち「能力のある人」たちが自分たちのやりたいようにやっていいところではないと言います。
たとえば、これはどこの教会でも当てはまるかと思いますが、教会では「奏楽者」なる奉仕者がいます。
もちろん、奏楽に限らず、他の様々な奉仕についても同じですが、「奏楽の奉仕」とは、すなわち皆さんが礼拝で賛美歌を歌う、その伴奏を行う役割を指しています。
教会の中で音楽を演奏することは、毎週の礼拝においても行われるようにごく自然なこととして行われます。
時に、そうした奏楽者で音楽的な才能のある方がそうした奉仕をされるようになると、自然と、礼拝賛美に音楽的に力が入るようになり、自然と、そうした音楽の才能の高い人たちが集まってくるようになります。
教会によっては、そうした音楽に打ち込む力が非常に強くなり、それこそ礼拝賛美に音楽的にプロ級の人たちが加わるようになります。そして、そのうち、そうした音楽的な熱意が高まり、それこそ「教会の宣教の業だ」と思い込むようになり演奏会をはじめ、色々な形で活躍することになります。
わたしたちは、多くの場合そうした教会を見て、若く、音楽の才能の豊かな人たちが教会に多く集まり、素晴らしい演奏や礼拝音楽を奏でてくれる教会として、それを「素晴らしい教会である」と感じるのではないかと思います。
しかし、パウロはそうした事について、決してそうしたことを全面的に否定するわけではありませんが、しかし、言い方を変えれば、パウロは「才能のある人は、そうした才能のない人を助けなさい」と勧めているのです。
それは、音楽をひとつ例に挙げれば、教会には音楽的に才能のある人もいれば、音痴な人もいます。パウロは、そうした状況において、音楽的才能のある人が音痴な人を指導して、教会の全体としての音楽的なレベルを上げることを目的としてはならないということを言っているのです。
むしろ、音楽的に才能のある人は、音痴な人に合わせて、みんなで一緒に神さまを礼拝し賛美できるようにすることを大切にしなさいと言っているのです。
わたしたちの生活する社会は弱肉強食の世界です。そこにおいては強い者が生き残るのです。
しかし、キリストの教会はそうではありません。強い者の強さ、才能のある人の才能は、むしろ、そうした強さや才能のない人たちを支えるため強さであり、才能であるというわけです。
ですから、教会において、必要以上に音楽的なレベルを上げることは、教会の本分ではありません。
そうした奉仕に限らず、信仰的に強い人は、信仰的に弱い人を支えるための強さなのです。自分たちだけ信仰的に強くなることを目指すのは、それはまさに荒れ野におけるサタンの誘惑と同じなのです。
そして、そのためには互いに愛し合う事と同時に、もし、教会で間違いが起こった場合には、互いにそのことを正していく、そうした公平さ、中立さ、正しさが求められるのです。
このことは口で言うのは簡単ですが、実際は非常に難しいことです。
特にプロテスタント教会では「罪をゆるすこと」が奨励されます。
何かしら問題が起こったとしても、「無条件にゆるしなさい」という信仰的な心のストッパーが働くのです。
しかし、それは一見して正しいようで正しくありません。
わたしたちは不正を知った上で、不正を行うことをゆるす、すなわち「不正を許可する」ことをしてはいけないのです。
その意味で、教会の中で「罪をゆるす」とは、個人のプライバシーに注意しながら、いったい何が原因でどういう結果になったのか、そうしたことが明らかにされた上で、互いにそのことの責任を負いながら、お互いの罪をゆるすということが為されることが求められているのです。
それはイエスさまが「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(マタイ18:15)というふうに言われている言葉にもあらわれています。
しかし、現実問題として、こうしたことが教会の中で自然とできるためには、牧師をはじめとして、普段からの罪の悔い改めが非常に大事になってきます。
なぜなら、わたしたちは「小さな罪」であれば、それを告白することも容易く、悔い改めることも容易ですが、それが段々と大きくなるにつれて、告白することも、悔い改めることも難しくなっていくからです。
キリスト教会で起こる様々な問題がありますが、なぜ、そこまで事態が深刻になるかといえば、まだ事態が深刻でない状況で、そうした罪の告白と悔い改めがなされなかったからです。
犯した罪が「小さいから」と言って、それを放置すると、その罪はだんだんと大きくなって、ある時を境にして、その人にとって、もうどうすることもできなくなるのです。
それは、昨今よく聞く、「危険薬物への依存」と同じです。
「ちょっとだけなら」という誘惑が、甘い考えが最も危険なのです。
教会における人間の罪も同じです。その罪が小さいうちは、互いに罪を告白して、悔い改めることが可能ですが、そうした罪を放置し、「なあなあ」で済ますことを続けると、結局のところ事態はますます深刻化し、最終的には教会の滅びへと進んでいくのです。
キリスト者が教会を滅ぼすとは、普通は考えられないことです。
ところが、そうした考えられないようなことが、実際の教会の中では起こっているのです。
それはなぜでしょうか?
理由はただひとつ、「神さまの言葉を聞いていない」、つまり、「イエスさまの言葉やパウロの言葉を聞いているようで聞いていない」 ということです。
しかも、それは決してそうした問題を起こした教会やそうした人たちだけの問題ではありません。わたし自身、常に、そうした危険性と背中合わせで、一日一日を過ごしているのです。
神さまがカインに対して言われた言葉が、まさにそうしたわたしたちの真実を示しています。
主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記4:6~7節)
ローマの信徒への手紙15章14~16節
14)兄弟たち、あなたがた自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。
15)記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、
16)異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。
ローマの信徒への手紙15章は、全体としてはパウロの使命やローマにあるキリストの教会の人たちに、いずれ自分がそちらの教会に行くことを考えていることを伝えています。しかし、それは献金を携えてこれからエルサレムに行くという、その出来事の後に、パウロの逮捕という全く思いもしない形でローマに行くことが実現するのです。
さて、このローマの信徒への手紙15章において、これは先の14章における内容の続きとなりますが、「キリストの教会」は、まさに「キリストのものである」という点が重要です。
すなわち、教会は牧師の私物ではないのです。
たしかに、単立教会や開拓伝道の場合に、牧師の住まいを礼拝堂として使うような場合、なかなかそうした境界線がはっきりしないこともあります。
教会が法人格を取得するまでは、教会として、つまり「法人」として銀行口座を作ったり、動産・不動産の売買を行うことはできません。
そのため、主に開拓伝道の場合において、牧師が個人名義でマンションの部屋の賃貸契約を結び、当然、その支払いも牧師の個人名義で行われるわけです。
その関係で、ゼロから教会を運営していくためには、どうしても「牧師の家計」と「教会の会計」との境界線が曖昧にならざるを得ないのです。たとえば、そうしたマンションの一室を借りて、そこで礼拝を考えるとわかりますが、たとえば水道代や電気代など、単純にどこからどこまでが教会で、どこからどこまで牧師の家計か判断できないことが起こるのです。
ですから、そうした開拓伝道の時代というのは、そうした会計が曖昧な状況で進むことがどうしても避けられないのです。
しかし、次第に教会が大きくなり、規模が大きくなってくると、やはりそうしたところをキチンとして考えていかなければなりません。その時に、教会が本当の意味で公的な存在として、まさに「キリストの教会」となることができるかが問われてくるのです。
パウロはこの15章1~2節のところで、教会は「強い者」、すなわち「能力のある人」たちが自分たちのやりたいようにやっていいところではないと言います。
たとえば、これはどこの教会でも当てはまるかと思いますが、教会では「奏楽者」なる奉仕者がいます。
もちろん、奏楽に限らず、他の様々な奉仕についても同じですが、「奏楽の奉仕」とは、すなわち皆さんが礼拝で賛美歌を歌う、その伴奏を行う役割を指しています。
教会の中で音楽を演奏することは、毎週の礼拝においても行われるようにごく自然なこととして行われます。
時に、そうした奏楽者で音楽的な才能のある方がそうした奉仕をされるようになると、自然と、礼拝賛美に音楽的に力が入るようになり、自然と、そうした音楽の才能の高い人たちが集まってくるようになります。
教会によっては、そうした音楽に打ち込む力が非常に強くなり、それこそ礼拝賛美に音楽的にプロ級の人たちが加わるようになります。そして、そのうち、そうした音楽的な熱意が高まり、それこそ「教会の宣教の業だ」と思い込むようになり演奏会をはじめ、色々な形で活躍することになります。
わたしたちは、多くの場合そうした教会を見て、若く、音楽の才能の豊かな人たちが教会に多く集まり、素晴らしい演奏や礼拝音楽を奏でてくれる教会として、それを「素晴らしい教会である」と感じるのではないかと思います。
しかし、パウロはそうした事について、決してそうしたことを全面的に否定するわけではありませんが、しかし、言い方を変えれば、パウロは「才能のある人は、そうした才能のない人を助けなさい」と勧めているのです。
それは、音楽をひとつ例に挙げれば、教会には音楽的に才能のある人もいれば、音痴な人もいます。パウロは、そうした状況において、音楽的才能のある人が音痴な人を指導して、教会の全体としての音楽的なレベルを上げることを目的としてはならないということを言っているのです。
むしろ、音楽的に才能のある人は、音痴な人に合わせて、みんなで一緒に神さまを礼拝し賛美できるようにすることを大切にしなさいと言っているのです。
わたしたちの生活する社会は弱肉強食の世界です。そこにおいては強い者が生き残るのです。
しかし、キリストの教会はそうではありません。強い者の強さ、才能のある人の才能は、むしろ、そうした強さや才能のない人たちを支えるため強さであり、才能であるというわけです。
ですから、教会において、必要以上に音楽的なレベルを上げることは、教会の本分ではありません。
そうした奉仕に限らず、信仰的に強い人は、信仰的に弱い人を支えるための強さなのです。自分たちだけ信仰的に強くなることを目指すのは、それはまさに荒れ野におけるサタンの誘惑と同じなのです。
そして、そのためには互いに愛し合う事と同時に、もし、教会で間違いが起こった場合には、互いにそのことを正していく、そうした公平さ、中立さ、正しさが求められるのです。
このことは口で言うのは簡単ですが、実際は非常に難しいことです。
特にプロテスタント教会では「罪をゆるすこと」が奨励されます。
何かしら問題が起こったとしても、「無条件にゆるしなさい」という信仰的な心のストッパーが働くのです。
しかし、それは一見して正しいようで正しくありません。
わたしたちは不正を知った上で、不正を行うことをゆるす、すなわち「不正を許可する」ことをしてはいけないのです。
その意味で、教会の中で「罪をゆるす」とは、個人のプライバシーに注意しながら、いったい何が原因でどういう結果になったのか、そうしたことが明らかにされた上で、互いにそのことの責任を負いながら、お互いの罪をゆるすということが為されることが求められているのです。
それはイエスさまが「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(マタイ18:15)というふうに言われている言葉にもあらわれています。
しかし、現実問題として、こうしたことが教会の中で自然とできるためには、牧師をはじめとして、普段からの罪の悔い改めが非常に大事になってきます。
なぜなら、わたしたちは「小さな罪」であれば、それを告白することも容易く、悔い改めることも容易ですが、それが段々と大きくなるにつれて、告白することも、悔い改めることも難しくなっていくからです。
キリスト教会で起こる様々な問題がありますが、なぜ、そこまで事態が深刻になるかといえば、まだ事態が深刻でない状況で、そうした罪の告白と悔い改めがなされなかったからです。
犯した罪が「小さいから」と言って、それを放置すると、その罪はだんだんと大きくなって、ある時を境にして、その人にとって、もうどうすることもできなくなるのです。
それは、昨今よく聞く、「危険薬物への依存」と同じです。
「ちょっとだけなら」という誘惑が、甘い考えが最も危険なのです。
教会における人間の罪も同じです。その罪が小さいうちは、互いに罪を告白して、悔い改めることが可能ですが、そうした罪を放置し、「なあなあ」で済ますことを続けると、結局のところ事態はますます深刻化し、最終的には教会の滅びへと進んでいくのです。
キリスト者が教会を滅ぼすとは、普通は考えられないことです。
ところが、そうした考えられないようなことが、実際の教会の中では起こっているのです。
それはなぜでしょうか?
理由はただひとつ、「神さまの言葉を聞いていない」、つまり、「イエスさまの言葉やパウロの言葉を聞いているようで聞いていない」 ということです。
しかも、それは決してそうした問題を起こした教会やそうした人たちだけの問題ではありません。わたし自身、常に、そうした危険性と背中合わせで、一日一日を過ごしているのです。
神さまがカインに対して言われた言葉が、まさにそうしたわたしたちの真実を示しています。
主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(創世記4:6~7節)