ローマの信徒への手紙13章1節
1)人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。


 パウロによる信仰義認という福音は、一方においてそれを極端に解釈し、まさにイエス・キリストを信じ告白した者は、まさにイエス・キリストの救いによって「あらゆることから自由である」と信じる人々を起こしました。

 パウロはそうした誤解を解くために、 ローマの信徒への手紙12章以下のところで、キリスト者というのは、イエス・キリストの救いによって罪から自由とされたのであるが、しかし、だからと言って、「罪を犯すことまで容認されるわけではない」ということを説明しました。

 そして、そうしたキリスト者としての生活は、たとえばフィレモンへの手紙に登場する逃亡奴隷のオネシモについて、彼はフィレモンの所有する奴隷であったところ、主人であるフィレモンに対して損害を与え、それが原因となってオネシモはフィレモンの家から逃亡します。当時の常識では、逃亡奴隷は下手をすれば処刑されます。

 このオネシモという逃亡奴隷は、経緯は不明ですが、パウロのところに身を寄せ、信仰告白をしてキリスト者となり、パウロの身の回りの世話をするようになるのです。

 ところが、パウロはこのオネシモが実は、自分の弟子であるフィレモンの奴隷であり、そこから逃亡してきたことを知り、パウロはフィレモンに対して、オネシモの犯した罪を許し、しかもオネシモを奴隷としてではなく、同じ信仰の兄弟として受け入れて欲しいということを手紙で書き記したのです。

 すなわち、このオネシモのケースを考えると分かりますが、オネシモは信仰を持ったとして、当時の社会としてはあくまでも奴隷に過ぎないのです。

 今日の教会においては、社会的な地位に関係なく、また性別に関係なく、信仰者は互いに兄弟姉妹です。ところが、当時の社会状況においては、だからと言って奴隷が信仰を持ったから、自分の主人であるフィレモンと肩を並べることができるかというと、そう簡単ではないのです。

 しかし、パウロは究極的には、まさに社会的な身分や性別の違いなく、すべての信仰者が互いに等しく兄弟姉妹であるということを信じていますが、しかし、その理想の実現のために、今はこの世の権威に対しては従順であることを求めるのです。

 それは見方を変えれば、キリスト教の信仰は、決して反体制的なものではなく、むしろ、社会において秩序を維持する上で非常に有益であることを示そうとするのです。

 しかし、それはそうしたこの世的なものが永遠に続くことを意味しません。

 むしろ、ローマの信徒への手紙13章11節以下において、イエス・キリストの再臨が近づいているから、その再臨が実現するその時まで、 イエス・キリストの信仰によって、この世で神に端を発する権威に従順に生きることが大切であることをパウロは言うのです。

 ローマの信徒への手紙13章11節
11)更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。



 そして、キリスト者としてもう一つ大切なのが、互いに愛し合うという、隣人愛の実践です。

  ローマの信徒への手紙13章8~10節
8)互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。
9)「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。
10)愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。 

 パウロは、キリスト者の信仰生活において重要なものが、まさにイエス・キリストの愛によって救われた者は、イエス・キリストの愛に従って生活するべきであり、当然、そうしたイエス・キリストの示された隣人愛に生きることであるというのは至極当然のことです。

 それはキリスト教会の中においても重要です。

 キリスト教会は、単なる「信仰」という嗜好が共通する人たちの集団ということではありません。

 キリスト教会は、まさにイエス・キリストがその中心に立ち給う信仰共同体であって、そこにおいては互いに愛し合うということが行われているはずであるのです。

 その意味で、キリスト教会は同好会ではありません。また、私的なものでもありません。

 人によっては、そうした教会はどことなく味気ないものと映るかもしれません。

 しかし、教会が公的な性質を持ち、しかも隣人愛によって形成される限りにおいて、そこには一定のルールがあり、また個人の欲望を満足させる場ではないのです。


 ところが、「そうした教会はつまらない」と、まさにキリスト愛好会・同好会のような教会を目指す教会があります。一見すると、そうした教会は人間的に面白く楽しいものでありますが、しかし、本質的なところにおいては肝心のものが欠如してしまっていることになります。それは、教会の中心は、人間個人ではなく、イエス・キリストであるからです。

 このことは非常に分かりにくいことですが、それは教会暦が長くなれば長くなるだけ、そのことが理解できるようになるであろうと言っておきます。