ローマの信徒への手紙10章6~13節、17節
8)では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
11)聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
17)実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
パウロはユダヤ教の信仰が「神の御前に正しいことを行うことによって、自分が神の御前に義とされる」ものであり、それは結果として「神の義」を求めるものではなく、「自分の義(正しさ)」を求めるものであることを指摘します。
それに対して、パウロは本当の意味で正しい信仰とは、そうした「人間の義」ではなく、まさに「神の義」によって実現するものであることを指摘します。そして、キリスト教会とは、まさにこの「神の義」によって成立する信仰共同体であることをパウロはこのところで言うのです。
パウロはそうした正しい信仰を持つ者は「誰が天に上るか」「誰が底なしの淵に下るか」と、心の中で思ってはいけないと注意をしています。これはいったいどういう事でしょうか?
ユダヤ教において神のみ前に義しくあるためには、常に律法の示す基準によって物事を考え、行動する必要がありました。そのため、自分自身の物事の考え方の基準は常に律法であったのです。
ところが、そうした物事を基準として考え行動することは、当然、そうした自分の内なる律法の基準によって、自分自身を省みると同時に、他の人についてもそうした判断基準をもって接するようになります。
すなわち、それは福音書に登場する律法学者のように、誰かの発言や行動を見て、それが罪であるのか、それとも神の御前において義しいのか、そうしたことを常に考えるような信仰となっていたのです。
つまり、パウロが言おうとしている「誰が天に上るか」「誰が底なしの淵に下るか」とは、「誰が神の前に正しい」「誰が神の前に罪人であるか」ということを心の中に思ってはいけないということであり、それは、たとえばキリスト者がある人を見て、「彼はクリスチャンだから救われている」とか、「あの人はクリスチャンではないから、救われない」というような事を心に思ってはいけないということであるのです。
たとえば、ユダヤ教において罪とは、「律法に違反する」ということをもって「罪」と定められます。それは言い方を変えれば、そうした「具体的な行動」が伴ってはじめて「罪」と定められるのです。つまり、「姦淫の罪」は、まさに「姦淫」という具体的な行動があってはじめて、「姦淫の罪」と定められるのであって、直接そうした行動がなく、ただ心の中で妄想することは、ユダヤ教においては罪とはされないのです。
ところが、イエスさまのそうした信仰的な倫理基準はそうしたユダヤ教の律法がそうした具体的な出来事がなければ罪に該当しないのに対して、「心の中で思ってもだめ」という非常に厳しいものでもあったのです。
マタイ5:28
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
つまり、パウロは、神の救いがまさに「信仰によって人を救う」ものである限り、信仰の力は、わたしたちキリスト者が他の人を裁くこと(つまり、人を裁ける存在は神しかないので)において、まさに自分自身に神の裁きを招くものとなることの注意喚起をしているのです。
そして、そうした人間を罪から救い出す神の力は、いったいどこからくるのかと言えば、それはユダヤ人が信じるように、律法を人間が行うことによって実現するのではなく、あくまでもイエス・キリストを信じ・告白することをもって、すなわち信仰によって、神の力によって人は救われるのです。
そして、キリスト者の救いがまさにそうした神の力である限りにおいて、その力の源はどこにあるかといえば、イエス・キリストを信じ告白することであり、それは具体的には、自分自身の罪の告白によって、イエス・キリストの御名によって実現するのです。
すなわち、それは言い方を変えればキリスト教会のもっとも中心事項が何であるかをこの聖書箇所は示しています。
それは、まさにイエス・キリストの救いが神の力であるからこそ、神の言葉を聞くことにその源泉があるのです。
キリスト教会の礼拝とは、まさにわたしたちキリスト者もそうでない者も、礼拝を通じてわたしたちは神の言葉を聞き、そこにおいてイエス・キリストの御名によって自分自身の罪を告白し、悔い改めるのです。
それが礼拝における中心的な事柄であり、まさにこの罪を告白することを通じてイエス・キリストを通じて与えられる罪の赦しの経験こそが、礼拝における喜びの源泉であるのです。
わたしたちは、ただ感情的に、感覚的に、感動をすることが礼拝における喜びの源泉なのではありません。
そうした、いわば一緒に歌い踊り、共通の高揚感を経験するのは、一種のシャーマニズムにおけるエクスタシー経験と同じです。
そうしたものは、まさに聖書では出エジプト記32章に記される偶像崇拝と本質的には一緒です。
出エジプト記32章17~19節
17)ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、
たとえば、強烈な太陽光線の前に黒い紙をおけばその熱によって紙は焼けてしまいます。
罪人がなぜ神の御前に出ることができないのかといえば、まさにそういうイメージであるのです。当然、その紙が白く、強烈な太陽光線を反射するほどに綺麗なものであれば、紙は光を受けてなお焼けることはありません。
それと同じで、本来、罪人が神の御前に出れば、その神の義しさのゆえに罪が焼かれてしまうわけです。しかし、イエス・キリストの御名によって罪を告白した者は、その罪を赦され、神のみ前に出ることのできる状態に変えられるのです。
そして、そうしたイエス・キリストの執り成しがなければ、人間は神の御前に出ることは不可能であるのです。
だからこそ、礼拝とは、まさにそれ自体が人間に対する神の救いを意味しており、そこにおいて神を礼拝するとは、自分自身の罪の告白をもってはじめて、正しく礼拝にあずかることができるのです。
しかし、教会によっては、その「喜び」というのが、実に、人間的な、参加者の欲望を満たすためのものである時に、キリスト教会は間違った方向へと進んでいくわけです。
それは、人間の栄光を求める礼拝であり、神を口実にして、実は自分たちが快いことが重要視されていたりするのです。
多くキリスト教会を訪れる人は、何かしら自分の居場所を見出せない人であることがあります。
そして、キリスト教会は、まさにそうしたこの世において居場所を見出せない人に対して、居場所を用意し与えることが、キリスト教会の宣教であるとする、そうした教会も少なくありません。
礼拝や教会の奉仕を通じて、自分にやりがいを見出すことは、それ自体が間違っているわけではありませんが、それは実に注意が必要であるのです。わたしたちが、そうした注意を怠る時、わたしたちはまさに、自分の心地よさのゆえに、すなわち自分の腹(欲求)を神として、イエス・キリストの内にまさに自分が満たされていることを喜びとする、そうした方向に誘惑されてしまうことがあるのです。
だからこそ、パウロは心の中で、誰が救われ、誰が滅びるのかというような事を考えてはいけないと注意を呼びかけているのです。
わたしたちキリスト者は神を求める点において、何が神の御前に正しく、何が神の御前に間違っているかということを普通のこととして考えるようになります。それは決してすべてが間違っているわけではありませんが、そこには常に注意が必要なのです。
クリスチャンが正しく、ノンクリスチャンが間違っている。教会でより献金をし、奉仕をしている人の方が偉い。教会の中に救いがあり、教会の外に救いはない、など。この世において、クリスチャンがまさに罪から救われたにも関わらず、隣人に対してそのように信仰的に裁き(心の中でそのように相手を見る)をすることによって、実は、自分自身をわたしたちは罪人に仕立て上げてしまうのです。
その意味で、キリスト教会の中において、「正義」が叫ばれる時、そこには注意が必要です。
キリスト者は「神の裁き」をもたらすために救われるのではなく、まさにイエス・キリストの福音を証しするために、キリスト者とされるのです。
その意味で、わたしたちは、常に、まず心をイエス・キリストに向ける必要があるのです。
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)
あなたの行っている教会は、イエス・キリストを信じていますか? それとも、イエス・キリストのような何か別のものを信じていませんか?
6)しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
7)また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
8)では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
9)口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10)実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
11)聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
12)ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
13)「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 17)実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
パウロはユダヤ教の信仰が「神の御前に正しいことを行うことによって、自分が神の御前に義とされる」ものであり、それは結果として「神の義」を求めるものではなく、「自分の義(正しさ)」を求めるものであることを指摘します。
それに対して、パウロは本当の意味で正しい信仰とは、そうした「人間の義」ではなく、まさに「神の義」によって実現するものであることを指摘します。そして、キリスト教会とは、まさにこの「神の義」によって成立する信仰共同体であることをパウロはこのところで言うのです。
パウロはそうした正しい信仰を持つ者は「誰が天に上るか」「誰が底なしの淵に下るか」と、心の中で思ってはいけないと注意をしています。これはいったいどういう事でしょうか?
ユダヤ教において神のみ前に義しくあるためには、常に律法の示す基準によって物事を考え、行動する必要がありました。そのため、自分自身の物事の考え方の基準は常に律法であったのです。
ところが、そうした物事を基準として考え行動することは、当然、そうした自分の内なる律法の基準によって、自分自身を省みると同時に、他の人についてもそうした判断基準をもって接するようになります。
すなわち、それは福音書に登場する律法学者のように、誰かの発言や行動を見て、それが罪であるのか、それとも神の御前において義しいのか、そうしたことを常に考えるような信仰となっていたのです。
つまり、パウロが言おうとしている「誰が天に上るか」「誰が底なしの淵に下るか」とは、「誰が神の前に正しい」「誰が神の前に罪人であるか」ということを心の中に思ってはいけないということであり、それは、たとえばキリスト者がある人を見て、「彼はクリスチャンだから救われている」とか、「あの人はクリスチャンではないから、救われない」というような事を心に思ってはいけないということであるのです。
たとえば、ユダヤ教において罪とは、「律法に違反する」ということをもって「罪」と定められます。それは言い方を変えれば、そうした「具体的な行動」が伴ってはじめて「罪」と定められるのです。つまり、「姦淫の罪」は、まさに「姦淫」という具体的な行動があってはじめて、「姦淫の罪」と定められるのであって、直接そうした行動がなく、ただ心の中で妄想することは、ユダヤ教においては罪とはされないのです。
ところが、イエスさまのそうした信仰的な倫理基準はそうしたユダヤ教の律法がそうした具体的な出来事がなければ罪に該当しないのに対して、「心の中で思ってもだめ」という非常に厳しいものでもあったのです。
マタイ5:28
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
つまり、パウロは、神の救いがまさに「信仰によって人を救う」ものである限り、信仰の力は、わたしたちキリスト者が他の人を裁くこと(つまり、人を裁ける存在は神しかないので)において、まさに自分自身に神の裁きを招くものとなることの注意喚起をしているのです。
そして、そうした人間を罪から救い出す神の力は、いったいどこからくるのかと言えば、それはユダヤ人が信じるように、律法を人間が行うことによって実現するのではなく、あくまでもイエス・キリストを信じ・告白することをもって、すなわち信仰によって、神の力によって人は救われるのです。
そして、キリスト者の救いがまさにそうした神の力である限りにおいて、その力の源はどこにあるかといえば、イエス・キリストを信じ告白することであり、それは具体的には、自分自身の罪の告白によって、イエス・キリストの御名によって実現するのです。
すなわち、それは言い方を変えればキリスト教会のもっとも中心事項が何であるかをこの聖書箇所は示しています。
それは、まさにイエス・キリストの救いが神の力であるからこそ、神の言葉を聞くことにその源泉があるのです。
キリスト教会の礼拝とは、まさにわたしたちキリスト者もそうでない者も、礼拝を通じてわたしたちは神の言葉を聞き、そこにおいてイエス・キリストの御名によって自分自身の罪を告白し、悔い改めるのです。
それが礼拝における中心的な事柄であり、まさにこの罪を告白することを通じてイエス・キリストを通じて与えられる罪の赦しの経験こそが、礼拝における喜びの源泉であるのです。
わたしたちは、ただ感情的に、感覚的に、感動をすることが礼拝における喜びの源泉なのではありません。
そうした、いわば一緒に歌い踊り、共通の高揚感を経験するのは、一種のシャーマニズムにおけるエクスタシー経験と同じです。
そうしたものは、まさに聖書では出エジプト記32章に記される偶像崇拝と本質的には一緒です。
出エジプト記32章17~19節
17)ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、
18)モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも/敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」
19)宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。
礼拝は、それがまさに神の御前に出て神を拝する行為であるゆえに、わたしたちは自分自身が不完全な人間として神のみ前に出ることを意味します。それは、本質的には不可能な出来事であるのです。たとえば、強烈な太陽光線の前に黒い紙をおけばその熱によって紙は焼けてしまいます。
罪人がなぜ神の御前に出ることができないのかといえば、まさにそういうイメージであるのです。当然、その紙が白く、強烈な太陽光線を反射するほどに綺麗なものであれば、紙は光を受けてなお焼けることはありません。
それと同じで、本来、罪人が神の御前に出れば、その神の義しさのゆえに罪が焼かれてしまうわけです。しかし、イエス・キリストの御名によって罪を告白した者は、その罪を赦され、神のみ前に出ることのできる状態に変えられるのです。
そして、そうしたイエス・キリストの執り成しがなければ、人間は神の御前に出ることは不可能であるのです。
だからこそ、礼拝とは、まさにそれ自体が人間に対する神の救いを意味しており、そこにおいて神を礼拝するとは、自分自身の罪の告白をもってはじめて、正しく礼拝にあずかることができるのです。
しかし、教会によっては、その「喜び」というのが、実に、人間的な、参加者の欲望を満たすためのものである時に、キリスト教会は間違った方向へと進んでいくわけです。
それは、人間の栄光を求める礼拝であり、神を口実にして、実は自分たちが快いことが重要視されていたりするのです。
多くキリスト教会を訪れる人は、何かしら自分の居場所を見出せない人であることがあります。
そして、キリスト教会は、まさにそうしたこの世において居場所を見出せない人に対して、居場所を用意し与えることが、キリスト教会の宣教であるとする、そうした教会も少なくありません。
礼拝や教会の奉仕を通じて、自分にやりがいを見出すことは、それ自体が間違っているわけではありませんが、それは実に注意が必要であるのです。わたしたちが、そうした注意を怠る時、わたしたちはまさに、自分の心地よさのゆえに、すなわち自分の腹(欲求)を神として、イエス・キリストの内にまさに自分が満たされていることを喜びとする、そうした方向に誘惑されてしまうことがあるのです。
だからこそ、パウロは心の中で、誰が救われ、誰が滅びるのかというような事を考えてはいけないと注意を呼びかけているのです。
わたしたちキリスト者は神を求める点において、何が神の御前に正しく、何が神の御前に間違っているかということを普通のこととして考えるようになります。それは決してすべてが間違っているわけではありませんが、そこには常に注意が必要なのです。
クリスチャンが正しく、ノンクリスチャンが間違っている。教会でより献金をし、奉仕をしている人の方が偉い。教会の中に救いがあり、教会の外に救いはない、など。この世において、クリスチャンがまさに罪から救われたにも関わらず、隣人に対してそのように信仰的に裁き(心の中でそのように相手を見る)をすることによって、実は、自分自身をわたしたちは罪人に仕立て上げてしまうのです。
その意味で、キリスト教会の中において、「正義」が叫ばれる時、そこには注意が必要です。
キリスト者は「神の裁き」をもたらすために救われるのではなく、まさにイエス・キリストの福音を証しするために、キリスト者とされるのです。
その意味で、わたしたちは、常に、まず心をイエス・キリストに向ける必要があるのです。
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)
あなたの行っている教会は、イエス・キリストを信じていますか? それとも、イエス・キリストのような何か別のものを信じていませんか?