山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

2015年03月

 ローマの信徒への手紙10章6~13節、17節
6)しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
7)また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。

8)では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
9)口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10)実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

11)聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
12)ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
13)「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 
 
17)実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。


 パウロはユダヤ教の信仰が「神の御前に正しいことを行うことによって、自分が神の御前に義とされる」ものであり、それは結果として「神の義」を求めるものではなく、「自分の義(正しさ)」を求めるものであることを指摘します。

 それに対して、パウロは本当の意味で正しい信仰とは、そうした「人間の義」ではなく、まさに「神の義」によって実現するものであることを指摘します。そして、キリスト教会とは、まさにこの「神の義」によって成立する信仰共同体であることをパウロはこのところで言うのです。


 パウロはそうした正しい信仰を持つ者は「誰が天に上るか」「誰が底なしの淵に下るか」と、心の中で思ってはいけないと注意をしています。これはいったいどういう事でしょうか?

 ユダヤ教において神のみ前に義しくあるためには、常に律法の示す基準によって物事を考え、行動する必要がありました。そのため、自分自身の物事の考え方の基準は常に律法であったのです。

 ところが、そうした物事を基準として考え行動することは、当然、そうした自分の内なる律法の基準によって、自分自身を省みると同時に、他の人についてもそうした判断基準をもって接するようになります。

 すなわち、それは福音書に登場する律法学者のように、誰かの発言や行動を見て、それが罪であるのか、それとも神の御前において義しいのか、そうしたことを常に考えるような信仰となっていたのです。


 つまり、パウロが言おうとしている「誰が天に上るか」「誰が底なしの淵に下るか」とは、「誰が神の前に正しい」「誰が神の前に罪人であるか」ということを心の中に思ってはいけないということであり、それは、たとえばキリスト者がある人を見て、「彼はクリスチャンだから救われている」とか、「あの人はクリスチャンではないから、救われない」というような事を心に思ってはいけないということであるのです。

 たとえば、ユダヤ教において罪とは、「律法に違反する」ということをもって「罪」と定められます。それは言い方を変えれば、そうした「具体的な行動」が伴ってはじめて「罪」と定められるのです。つまり、「姦淫の罪」は、まさに「姦淫」という具体的な行動があってはじめて、「姦淫の罪」と定められるのであって、直接そうした行動がなく、ただ心の中で妄想することは、ユダヤ教においては罪とはされないのです。

 ところが、イエスさまのそうした信仰的な倫理基準はそうしたユダヤ教の律法がそうした具体的な出来事がなければ罪に該当しないのに対して、「心の中で思ってもだめ」という非常に厳しいものでもあったのです。

 マタイ5:28
 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 つまり、パウロは、神の救いがまさに「信仰によって人を救う」ものである限り、信仰の力は、わたしたちキリスト者が他の人を裁くこと(つまり、人を裁ける存在は神しかないので)において、まさに自分自身に神の裁きを招くものとなることの注意喚起をしているのです。

 そして、そうした人間を罪から救い出す神の力は、いったいどこからくるのかと言えば、それはユダヤ人が信じるように、律法を人間が行うことによって実現するのではなく、あくまでもイエス・キリストを信じ・告白することをもって、すなわち信仰によって、神の力によって人は救われるのです。

 そして、キリスト者の救いがまさにそうした神の力である限りにおいて、その力の源はどこにあるかといえば、イエス・キリストを信じ告白することであり、それは具体的には、自分自身の罪の告白によって、イエス・キリストの御名によって実現するのです。



 すなわち、それは言い方を変えればキリスト教会のもっとも中心事項が何であるかをこの聖書箇所は示しています。

 それは、まさにイエス・キリストの救いが神の力であるからこそ、神の言葉を聞くことにその源泉があるのです。


 キリスト教会の礼拝とは、まさにわたしたちキリスト者もそうでない者も、礼拝を通じてわたしたちは神の言葉を聞き、そこにおいてイエス・キリストの御名によって自分自身の罪を告白し、悔い改めるのです。

 それが礼拝における中心的な事柄であり、まさにこの罪を告白することを通じてイエス・キリストを通じて与えられる罪の赦しの経験こそが、礼拝における喜びの源泉であるのです。


 わたしたちは、ただ感情的に、感覚的に、感動をすることが礼拝における喜びの源泉なのではありません。

 そうした、いわば一緒に歌い踊り、共通の高揚感を経験するのは、一種のシャーマニズムにおけるエクスタシー経験と同じです。

 そうしたものは、まさに聖書では出エジプト記32章に記される偶像崇拝と本質的には一緒です。

 出エジプト記32章17~19節
17)ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、
18)モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも/敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」
19)宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。
 
 礼拝は、それがまさに神の御前に出て神を拝する行為であるゆえに、わたしたちは自分自身が不完全な人間として神のみ前に出ることを意味します。それは、本質的には不可能な出来事であるのです。
 
 たとえば、強烈な太陽光線の前に黒い紙をおけばその熱によって紙は焼けてしまいます。

 罪人がなぜ神の御前に出ることができないのかといえば、まさにそういうイメージであるのです。当然、その紙が白く、強烈な太陽光線を反射するほどに綺麗なものであれば、紙は光を受けてなお焼けることはありません。

 それと同じで、本来、罪人が神の御前に出れば、その神の義しさのゆえに罪が焼かれてしまうわけです。しかし、イエス・キリストの御名によって罪を告白した者は、その罪を赦され、神のみ前に出ることのできる状態に変えられるのです。

 そして、そうしたイエス・キリストの執り成しがなければ、人間は神の御前に出ることは不可能であるのです。



 だからこそ、礼拝とは、まさにそれ自体が人間に対する神の救いを意味しており、そこにおいて神を礼拝するとは、自分自身の罪の告白をもってはじめて、正しく礼拝にあずかることができるのです。

 しかし、教会によっては、その「喜び」というのが、実に、人間的な、参加者の欲望を満たすためのものである時に、キリスト教会は間違った方向へと進んでいくわけです。


 それは、人間の栄光を求める礼拝であり、神を口実にして、実は自分たちが快いことが重要視されていたりするのです。


 多くキリスト教会を訪れる人は、何かしら自分の居場所を見出せない人であることがあります。

 そして、キリスト教会は、まさにそうしたこの世において居場所を見出せない人に対して、居場所を用意し与えることが、キリスト教会の宣教であるとする、そうした教会も少なくありません。

 礼拝や教会の奉仕を通じて、自分にやりがいを見出すことは、それ自体が間違っているわけではありませんが、それは実に注意が必要であるのです。わたしたちが、そうした注意を怠る時、わたしたちはまさに、自分の心地よさのゆえに、すなわち自分の腹(欲求)を神として、イエス・キリストの内にまさに自分が満たされていることを喜びとする、そうした方向に誘惑されてしまうことがあるのです。


 だからこそ、パウロは心の中で、誰が救われ、誰が滅びるのかというような事を考えてはいけないと注意を呼びかけているのです。

 わたしたちキリスト者は神を求める点において、何が神の御前に正しく、何が神の御前に間違っているかということを普通のこととして考えるようになります。それは決してすべてが間違っているわけではありませんが、そこには常に注意が必要なのです。


 クリスチャンが正しく、ノンクリスチャンが間違っている。教会でより献金をし、奉仕をしている人の方が偉い。教会の中に救いがあり、教会の外に救いはない、など。この世において、クリスチャンがまさに罪から救われたにも関わらず、隣人に対してそのように信仰的に裁き(心の中でそのように相手を見る)をすることによって、実は、自分自身をわたしたちは罪人に仕立て上げてしまうのです。

 その意味で、キリスト教会の中において、「正義」が叫ばれる時、そこには注意が必要です。

 
 キリスト者は「神の裁き」をもたらすために救われるのではなく、まさにイエス・キリストの福音を証しするために、キリスト者とされるのです。

 その意味で、わたしたちは、常に、まず心をイエス・キリストに向ける必要があるのです。

 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)


 あなたの行っている教会は、イエス・キリストを信じていますか? それとも、イエス・キリストのような何か別のものを信じていませんか?
 


 ローマの信徒への手紙9章19~33節
19)ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。

20)人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
21)焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

22)神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
23)それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

24)神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。

 
 パウロによれば、「神の救い」は、まずユダヤ人に対して律法を通じて明らかにされたが、結局のところ、ユダヤ人はそれを歓迎せず、今や、イエス・キリストの登場によって、「神の救い」は異邦人に対して示されたことをこれまでのところで説明します。

 そして、イエス・キリストによって救いが明らかにされたことは、同時に、二つの疑問を生み出しました。すなわち、1)イエス・キリスト以前の救いは無効となり、ユダヤ人は再び罪に定められることになったのか? すなわちイエス・キリストの救いによって異邦人に救いが開かれたことにより、ユダヤ人は再び神にその罪を責められるのか? 2)人の救いを決定付けるのが神であるなら、神の決定にいったい誰が逆らうことができるのだろうか? というものでした。

 神の御前におけるユダヤ人と異邦人とはいったい何者であるのか? 先にユダヤ人に対して救いが示されたのが神の御心であるのであれば、今やイエス・キリストによって異邦人に救いが示されたこともやはり神の御心である。

 すなわち、こうした神の救いの計画は、ユダヤ人と異邦人を比較してどちらが尊く、どちらが劣っているというようなことの目的のためではなく、神の御心はまさに人類全体を救済しようとする目的から、その救いは先にユダヤ人に示され、今や、異邦人に対しても示されたのであり、そのようにして救われる者が起こされるということは、まさに神が人類を憐れんでくださっていることの証拠であり、キリスト者とは、まさにそうした神の憐れみを人々に証明する器として立てられていることをパウロは言うのです。



 ローマの信徒への手紙9章30~33節
30)では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
31)しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
32)なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
33)「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

 しかし、そうなるとそこに疑問が起こります。
 すなわち、そもそも異邦人は「神の義」を求めていません。ところが、神の憐れみにより、イエス・キリストを通じて、信仰による「神の義」を得るようになったのです。ところが、ユダヤ人は神から与えられた律法を遵守することによって神の義をひたすら追い求めたのですが、結局のところ、本当の意味で神の義を得ることができませんでした。 そこで、なぜユダヤ人は神の義を得ることができなかったのでしょうか?

 その問いに対してパウロは、ユダヤ人は「信仰による救い」ではなく、あたかも「自分たちの行いによって、自分たちを救うことができる」と考えたからであり、それはまさにユダヤ人にとってはつまずきの石であり、妨げの岩であるが、しかし、それは信じる者は失望することがない。つまり、行いによって律法を全うしようとする者はイエス・キリストに躓き、しかし、イエス・キリストを信じる者は、その信仰によって救いに与ることができるのだというわけです。



 さて、このように見てきて、これがキリスト教会とどうかかわってくるかですが、パウロはキリスト教の救いがまさに信仰によるものであり、決して行いによるものでないことを力説します。

 そして、その信仰による救いですが、そこにおいてもうひとつ大切なのは、それがあくまでもわたしたち人間の素行や素質といったものではなく、あくまでも「神の憐れみ」によるものであることを力説します。

 それはすなわち、わたしたちの信仰とは、まさに神の憐れみという大きな力によって、そして、それはあくまでもイエス・キリストを信じる信仰によって実現するものであるということであるのです。


 ところが、キリスト教会では、「神が主導」と言いながら、わたしたち人間の努力として、人為的にキリスト者を増やそうとしていないでしょうか? あるいは、人為的にキリスト者を増やすために、さまざまな手段を用いていないでしょうか?

 そして、そうした人為的にキリスト者を増やすために、さまざまな手段を用いることを肯定するために、そこに何かしらの「キリスト教的思想」を展開・構築していないでしょうか?



 わたしたちがキリスト教を信じるのは、誰かをキリスト教徒にするためでしょうか?


 わたしたちは、神の憐れみによって、神に招かれ、イエス・キリストを通じた信仰告白をもって、キリスト者になるのです。

 そこにあって大切なのは、神の憐れみと神の招きであって、それは人為的にどうにかなるものではありません。

 宣教・伝道はキリスト教会において大変重要な事柄ですが、それがあまりにも突出する時に、あたかもユダヤ人が律法によって神の義を得ようとしたように、キリスト教会もそうした宗教的勧誘によって神の栄光を手にしようとする、そうした過ちを犯すようになるのです。

 宣教・伝道は、イエス・キリストの救いにあずかり、キリスト者に変えられた者が、まさに古いそれまでの生き方から、新しいイエス・キリストの命に生きるようになるそうした出来事であって、それ以上に何かを要求されるものではありません。



 ところが、キリスト教会がまさに自己目的化、あるいは牧師の野望?といった、教会員の欲望?など、さまざまな人間的な罪の誘惑によって、まさに「礼拝しているだけではダメだ。」というようなことが、キリスト教会の中において叫ばれるようになるのです。

 その教会の礼拝出席が増え、教会が大きくなるか、あるいは教会員が減って消滅するか、教会のその行く末を左右するのは、わたしは個人的には「神の御心である」と信じます。

 その意味で、わたしたちが求められているのは、まさにわたしたちがキリスト者として、神を礼拝することを人生の中心に置き、それぞれが置かれたところで信仰の生涯をきちんと歩むことであって、教会が大きくなる・小さくなるということは、信仰的にはまったく関係のない話ではないかと思うのです。

 世にあるキリスト教会は、多かれ少なかれ、自分たちの教会の規模を見て一喜一憂することが多いのではないかと思います。特に、ある程度の規模がある教会であれば、そんなに心配をしなくても良いとは思いますが、小さい教会は「大きくならねば」と思いわずらい、大きな教会は「さらに大きくなるためには」と思いわずらうことが多いように感じます。

 牧師の「牧師としての評価」を、一年間での受洗者数やその牧師の教会の規模によって評価し、評価されることが一般的になされる上で、そうしたこの世的な評価と無関係に、意識せずに牧会を行うことは、牧師にとってはなかなか大変なことでないかと思います。

 しかし、キリスト者はそのようなこの世的な評価を得るためにキリスト者になるわけではなく、そのためにキリスト者が起こされるわけでもありません。

 その意味で、教会が大きくなるのも、小さくなるのも「すべては神の御心である」として、牧師も信徒もあわてず騒がず、自分に与えられた信仰の生涯を全うすることこそ、わたしたちのキリスト者としての本分でないかと思うところです。

 最後に、イエスさまの語られた言葉を紹介します。

 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16:24)

 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:22)


 

 
 


 

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