山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

2015年02月

 ローマの信徒への手紙8章1~10節
1)従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
2)キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
3)肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
4)それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
5)肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
6)肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
7)なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
9)神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10)キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。

 さて、パウロが教えるところのイエス・キリストの救いは、イエスを主と信じ、告白すること、すなわち、まさにわたしたちが、イエスの御前において自分自身の罪を告白する時に、わたしたちは主イエス・キリストがその告白されたわたしの罪を赦してくださるというその「罪の赦し」の関係において、すなわち、主イエス・キリストを信じる信仰によってわたしたちとイエス・キリストとが結ばれていると宣言します。

 それゆえ、当然、主イエス・キリストによって救われた者は、イエス・キリストとの関係性によって、その繋がりによって、その繋がりを拒否しない限りは決して罪に定められることがないと宣言します。


 本来、ユダヤ教において人が救われるためには、律法の完全な遵守が必要でありました。しかも、人間はそもそも神の御前において不完全であり、神の御前に全く罪を犯さないということは不可能でありました。それゆえ、そうしたわたしたちの不完全さ、すなわちパウロが言うところの「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」のゆえに、律法が実現できなかった人間の救いを、まさにイエスさまがその十字架とその十字架での死によって、すなわち「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」という事によって、わたしたちの罪は、イエス・キリストを信じる信仰によって赦されたのです。

 ところが、パウロの説明によれば人はイエス・キリストの救いの前後において、「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」とに分かれることを言っています。

 
 おそらく、わたしが個人的に感じているキリスト教会における問題の温床はひとつにはこうした点に由来するかと考えます。

 すなわち、パウロが言っていることからすれば、「イエス・キリストを信じて罪を赦された者は、以後、罪を犯すはずがない」というような理解です。

 その観点から言えば、まだ洗礼を受けていないクリスチャンでない人は「肉に従って歩む者」であって、当然、イエスさまを信じない、信仰告白をしないわけですから、そうした理屈から言えば「神に敵対する者」であって、罪人であるという事になります。

 ところが、ではキリスト教会を組織している教会員はすべてがキリスト者であり、当然イエス・キリストを信じているわけだから、キリスト教会の中では問題が一切起こらないのかというとそうではありません。

 事実、キリスト教会という組織の中で、しかも牧師や信徒によって様々な問題が起こっていることに対して、どのようにこのことを説明すれば良いのでしょうか?


 わたしたちは多くの教会において、「信仰」あるいは「イエス・キリストの救い」という事柄によって、人を「救われた人」と「救われていない人」という風に二分して考えます。

 たとえば牧師が、「伝道」(あるいは布教)を信徒に呼びかける事によって、当然、それは自動的に、人を「救われた人」と「救われていない人」とに区別することを、まさにキリスト教会が行っていることになります。

 キリスト教会は宗教団体であり、布教活動がその中心的な役割なので当然といえば当然なのですが、しかし、問題は、そのキリスト教会において認識されている「救われた」ということが何を意味しているかにあるのです。

 キリスト教における宣教、伝道は、客観的にいえば「教会員を増やそう」という活動です。

 これはよく言われる話ですが、「礼拝だけやっているだけではだめで、キリスト者は教会から出て行って宣教しなければならない。」ということがあります。


 すなわち、キリスト教会の中には、常に、「教会員を増やそう」というこの世的な教会の繁栄を目指す「肉の思い」と、「イエス・キリストの救いの喜びを多くの人に伝えたい」という「霊の思い」とが、実に渾然一体にまじりあった状況におかれる事が多々あるのです。

 当然、そうした教会においては、すべての人は「救われるべき人」であって、教会の中にいる信仰者である自分たちは「救われた人」であって、そこにはまさに「信仰」という基準によって人を理解する価値観に支配されてしまうのです。

 
 ところが、そうしたイエス・キリストの救いにあずかった人たちが形成するキリスト教会において、まさにニュースで紙面を賑わせるような事件が起こったりします。

 では、そうした今日のキリスト教会の中における問題を説明しきれないパウロの信仰は間違っているということなのでしょうか?

 
 先ほど、パウロの説明によれば人はイエス・キリストの救いの前後において、「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」との分けられるとしていました。

 問題は、今日のキリスト教会でいうところの「キリスト者になること」「洗礼を受けること」、あるいは「信仰者となって教会員になること」が、まさに「霊に従って歩む」という事と同じかといえば、そうではない点にあるのです。


 パウロの記述を見ればわかりますが、パウロは「クリスチャンになったら大丈夫だ」というようなことは言っていません。ところが、キリスト教会の中ではまさに「クリスチャンになったら大丈夫だ」というような事が言われるのです。

 すなわち、パウロの言う「肉に従って歩む人」「霊に従って歩む人」とは、共にキリスト者のことを言っているのです。

 つまり、人はたとえキリスト者になったとしても、そのイエス・キリストを信じる信仰により、すなわちその人とイエスさまとの関係性によって、キリスト者は「肉に従って歩む人」と「霊に従って歩む人」に分けられるということをパウロは言おうとしているのです。

 当然、そのような偽キリスト者はパウロが言っているように「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」と言っているように、その先にあるのは「肉の思いは死」という現実です。

 しかし、そうではなく、イエス・キリストの御前に自分の罪を告白するというイエスさまとの関係性の中に生きるのであれば、それは「神の霊があなたがたの内に宿っている」ということでありそのかぎりにおいて「あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」と、たとえ肉の思いを完全に取り去ることのできない弱いキリスト者であったとしても、まさにイエス・キリストの霊によって、わたしたちは生きることができ、それによって「命と平和」に至ることができるのです。
 


 キリスト教会が本当の意味においてキリスト教会となるためには、だからこそ、そこに集うキリスト者ひとりひとりのそうしたイエスさまとの密接な関係性が大切であることがわかります。それゆえに、そうした問題が起きるキリスト教会においては、まさにそうした信仰の面における欠如が、まさにそうした問題を引き起こすことの温床となるのです。


 ローマの信徒への手紙8章15~19節
15)あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
16)この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
17)もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。 
18)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
19)被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

 さて、パウロは、そうしたイエス・キリストとの正しい関係性により、それはまさにキリスト者の内にやどるイエス・キリストの霊により、わたしたちは、天の父を「アッバ、父よ」と呼ぶことが可能となるのです。

 それは、わたしたちがただ神を「父なる神」として信じることを意味するのではなく、むしろ、わたしたちキリスト者はわたしたちの内にその霊の働きにより、まさに父なる神の子どもとされていることをこのところで宣言するのです。
 それは、キリスト者にとって大いなる喜びであり、栄誉であるのです。


 ところがパウロの生きた時代はまさにキリスト者の受難の時代でありました。特に、使徒言行録を見るとわかりますが、使徒言行録8章1節に「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」とあり、サウロ、すなわち若き日のパウロはまさにステファノのキリスト者としての殉教を知っていたのでした。

 パウロはそうした時代にキリスト者として生き、そして、そうしたキリスト教徒に対する迫害の中を生きました。

 そして、まさにまだ自分がサウロと名乗っていた時に、自分自身がキリスト者を迫害したように、今や、パウロは自分自身が迫害される側に立ち、そうしたキリスト教徒が蒙る悩みや苦しみについて、希望を与えようとするわけです。

 パウロはわたしたちキリスト者がこの世で受ける悩みや苦しみについて、それは来たるべき、わたしたちが神の真正な子どもとして受ける恵みや祝福について、それらはこの世的な悩み苦しみに比べるほどのできないほどの大きな喜びであることを言っています。



 ローマの信徒への手紙8章31~34節
31)では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
32)わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
33)だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
34)だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 

 ローマの信徒への手紙8章38~39節
38)わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
39)高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 


 そして、まさに、わたしたちがイエス・キリストの霊の助けにより、まさにわたしたちが「神の子ども」とされている事が、この世において意味する大切な希望をここで語ろうとしています。

 それは、すなわち、この世界が、まさに神によって創造されたものであるなら、当然、その神の独り子であるイエス・キリストのとりなしによって、わたしたちが「神の子」とされているのであれば、いったい誰がわたしたちに敵対することができるだろうかというのです。

 それはわたしたちがこの地上において、正しくイエス・キリストとの関係に生きる限り、まさにイエス・キリストこそが、神がわたしたちの味方であることを約束し、そうした神の力強い守りの中にあって、わたしたちを神から引き離し、滅ぼすことができる存在は何もないと宣言するのです。

 それはこの世に生きるキリスト者にとっての大きな慰めです。


 わたしたちはキリスト者として、この世において決して安楽な生活をするとは限りません。むしろ、キリスト教の信仰に入ったがゆえに、それまであまり気が付かなかったようなことに悩まされることも多いのです。

 その意味で、キリスト教信仰における救いとは、いわゆる「ご利益」のような、自分にとって都合の良いものではなく、むしろ、イエス・キリストと共にある生涯としての祝福である限り、この世においてわたしたちは様々な出来事を経験させられ、しかし、喜ぶべきは、それらの出来事はひとつとして無駄になることなく、「主と共に歩む人生」として、大いなる恵みと慰めに満ちた生涯となるのです。

  

 ローマの信徒への手紙7章5~6節
5)わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
6)しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。 


 ローマの信徒への手紙7章18~25節
18)わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
19)わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
20)もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
21)それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
22)「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
23)わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
24)わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
25)わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 


 キリスト教会において、「救い」とはすなわち「イエス・キリストによる罪の赦し」として理解されています。

 当然それは教会の中において、「救われた者」「まだ救われていない者」という価値観を与え、たとえばナザレン教会のような「聖霊のバプテスマ」といったようなことを信じている教会においては、さらに「救われた者」はさらに「聖霊のバプテスマを受けた人」「聖霊のバプテスマをまだ受けていない人」というような区別をもたらし、場合によっては、さらにその先に「聖霊のバプテスマを受けた証拠」として、異言・癒し・預言といった一種の聖霊体験を強調するキリスト教会もあります。

 これらの「聖霊のバプテスマ」「異言」「癒し」「預言」といった事柄については、聖書に書かれている事柄でもあるので、「そうした事はあり得ない」ということはしませんが、教会において問題となるのは、こうした事柄が、その教会の中において信徒間、あるいは求道者と信徒との間における支配・被支配の仕組みとして用いられることが、教会が注意しなければならないことです。

 いわゆる奇跡によってその人の生き方が変わることはあるでしょうが、問題は、こうした「異言」「癒し」「預言」などの事を「行う事ができた」という事が、信仰においてどれほどの意味があるのかというところです。

 ある教会では、まさにそうした奇跡を行うことができることを信仰のバロメーターのようにして捉え、たとえば「ある信徒が祈りによって病気を癒すことができる」というような場合に、その信徒は教会の中において、求道者よりも偉いのでしょうか? あるいは「癒しを行うことのできない他の信徒よりも信仰的に勝っている」という事になるのでしょうか?


 こうした「異言」「癒し」「預言」といったような聖霊の働きによる一種の霊的な能力を指して「(霊的)賜物」というふうにキリスト教会では言ったりします。

 しかし、キリスト教会でいうところのこうした「賜物」は、「その人の能力」ではなく、その人に対する神さまの憐みによる一種の贈り物と同じで、そうした現象の源は神さまであって、その人の能力としては理解しないのです。

 すなわち、くだけた言い方をすれば、それは「超能力」とは異なるのです。

 
  つまり、キリスト教の教会において、求道者も信徒も、そうしたことが可能である信徒も含めて、基本的にはみな同じ「罪人」なのです。


 先に書きましたが、「キリスト教の救いはイエス・キリストによる罪の赦し」であって、それは何か人間を本質的に造りかえるものかというとそうではありません。

 イエス・キリストの救いによって変化するのは人間ではなく、神さまとその人との関係性が変化するのです。

 その意味で、まだ信仰告白していない人であろうが、既に信仰を持つようになった人であろうが、キリスト教会の中において、そうした信仰による上下の区別のようなものはないのです。

 当然、それはプロテスタント教会がそうですが、牧師の信徒との関係も、ただ役割が異なるだけであって基本的には皆が一緒という理解に立つのです(「万人祭司」と言います)。



 ところが、中にはそうした事柄をもって教会の頂点に牧師が立ち、その中において信徒の階級制のようなものを形成し、信徒を自由にコントロールしようという教会も中にはあるのです。

 もちろん、それはキリスト教会の中における組織化であって、決してこうした組織化がすなわち悪なのではありません。 問題は、そうした組織化が教会全体のためではなく、何か別の目的のために利用されたりする場合に、それは問題となってくるのです。

 その意味で、信徒数が多い教会ほどこうした組織的な課題が大きくなることは想像に難くありません。

 教会が大きくなることは悪いことではありませんが、しかし、そこにはサタンの誘惑も強力になってくることを覚えておく必要があるのです。



 さて、パウロはそうしたキリスト者とは、ここで言っているように、その救いの前と後とにおいて、何か人間が新たに造りかえられるのかというと、たとえイエス・キリストを信じ、その罪の赦しに与ったとしても、決して人間が「聖なる存在に変わるわけではない」ということを明らかにしようとしています。

 その意味で、キリスト者とは「救われた罪人」であって、本質において、わたしたちが人間である限り、「罪人」であることから完全に自由になることはできないのです(もし、そうであれば聖霊もイエス・キリストも不要になるので)。

 だからこそ、求道者も信仰者も本質においては共に「罪人」であり、その違いは、イエス・キリストによって罪の赦しを得ているか、得ていないかというような、神さまとの関係性の違いしかないということなのです。


 そうなると、キリスト教会とは、そうした人たちが互いに集い、共に神を礼拝するところであり、キリスト教会における組織化は、まさにそうした「共に神を礼拝する」という目的を実現するための組織化であって、あるいは、そうした相互の交わりのための組織化であるべきであるという事が見えてくるかと思います。


 つまり、キリスト教会における組織化は「仕える」ための組織化であり、「誰かを仕えさせる」ための組織化ではないということです。

 当然、牧師は「信徒に仕えてもらう」ために存在するのではなく、「信徒に仕える」ために存在するのであって、それは基本的な事でありますが、案外にも、「牧師のワンマンのための信徒」というような理解でいる教会もあるんじゃないかなというところです。


 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(マタイ23:11)

 別に牧師は偉いわけではないですが、牧師の本分は教会員に仕える事であり、教会員に仕えてもらうことではないということです。


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