ローマの信徒への手紙6章1~2節
ローマの信徒への手紙6章8~13節
この世においてキリスト者として生きるとは一体どういう事であるか? また、この世におけるキリスト教会とはどのようなものであるのか?
パウロは、イエス・キリストの救いによって罪を赦され、救われた人は、救われた者として神の御前に生きるようになるはずだという風に説明します。
それはそれまでの生き方とは決定的に異なる生き方であり、イエス・キリストを信じ、その救いを受け入れることは、「罪に対する決別」と「神の御言葉に従って生きる」という、この二つのことがキリスト者において実現されていることが大切であると説明します。
その意味で、「罪の赦し」とは一切の過去における罪であって、問題は、それが「自分が将来、犯すであろう罪までを含んでいない」という点にあります。
すなわち、イエス・キリストによって罪を赦され、救われた人は、「将来にわたって罪を犯すことがない」のではなく、常にわたしたちと共にある神の言葉によって、自分の罪を示されることから、自分の罪を自由に告白し、悔い改めることが可能となり、結果として、罪から離れて生きることが可能となるということであるのです。
そして、キリスト教会は、まさにそうした生き方を志す兄弟姉妹が共に集い、神を礼拝する場所であるわけです。
ローマの信徒への手紙6章15~16節
ローマの信徒への手紙6章22~23節
その意味で、キリスト者とは「イエス・キリストを選択する者」ではなく、本質において「イエス・キリストによって選ばれた者」であるわけです。
そして、そのことは当然、先の1~13節までのところからも分かるように、「選ばれた」とは言いますが、しかし、そこにおいて、自発的に信仰的な決断をすることが大切であり、「そのように神さまから期待されている」ということであるのです。
ところが、キリスト教会は信仰者の集まりであると共に、同時に、それは罪に弱い人間の集まりでもあります。
わたしたちが罪の支配から神の支配に移されているように、まさに罪から自由にされていることを十分に生かし切らない限り、わたしたちは1節にもあるように「罪にとどまろうとする」内なる力が働くのです。
そうしたわたしたちを滅びへと導く罪の力がごく個人的なところで適正に処理されていれば良いですが、わたしたちの社会を見回すと分かるように、個人的な罪は個人に留まらずに、だんだんと共同体、すなわち教会を汚染するようになります。
仮に、教会がそうした人間の罪によって支配されるようになってしまった場合、その行き着く先は破滅です。
パウロは、罪が支払う報酬が死であり、しかし、罪から離れ、神の導きに生きる時に、その行きつく先は永遠の命であると説明するのです。
すなわち、パウロに言わせれば、まさに人間も教会も、その信仰(生活)によって行きつく先は決まっているということを明言するわけです。
わたしたちは本当の意味で、そうしたことを大事にしているかどうか? 案外にもサタンの誘惑するこの世的な繁栄を求めることが多いのではないか、そのように思うところです。
1)では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
2)決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 ローマの信徒への手紙6章8~13節
8)わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
9)そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
10)キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
11)このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
12)従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
13)また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。 この世においてキリスト者として生きるとは一体どういう事であるか? また、この世におけるキリスト教会とはどのようなものであるのか?
パウロは、イエス・キリストの救いによって罪を赦され、救われた人は、救われた者として神の御前に生きるようになるはずだという風に説明します。
それはそれまでの生き方とは決定的に異なる生き方であり、イエス・キリストを信じ、その救いを受け入れることは、「罪に対する決別」と「神の御言葉に従って生きる」という、この二つのことがキリスト者において実現されていることが大切であると説明します。
その意味で、「罪の赦し」とは一切の過去における罪であって、問題は、それが「自分が将来、犯すであろう罪までを含んでいない」という点にあります。
すなわち、イエス・キリストによって罪を赦され、救われた人は、「将来にわたって罪を犯すことがない」のではなく、常にわたしたちと共にある神の言葉によって、自分の罪を示されることから、自分の罪を自由に告白し、悔い改めることが可能となり、結果として、罪から離れて生きることが可能となるということであるのです。
そして、キリスト教会は、まさにそうした生き方を志す兄弟姉妹が共に集い、神を礼拝する場所であるわけです。
ローマの信徒への手紙6章15~16節
15)では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
16)知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。 ローマの信徒への手紙6章22~23節
22)あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
23)罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
その意味で、キリスト者とは「イエス・キリストを選択する者」ではなく、本質において「イエス・キリストによって選ばれた者」であるわけです。
そして、そのことは当然、先の1~13節までのところからも分かるように、「選ばれた」とは言いますが、しかし、そこにおいて、自発的に信仰的な決断をすることが大切であり、「そのように神さまから期待されている」ということであるのです。
ところが、キリスト教会は信仰者の集まりであると共に、同時に、それは罪に弱い人間の集まりでもあります。
わたしたちが罪の支配から神の支配に移されているように、まさに罪から自由にされていることを十分に生かし切らない限り、わたしたちは1節にもあるように「罪にとどまろうとする」内なる力が働くのです。
そうしたわたしたちを滅びへと導く罪の力がごく個人的なところで適正に処理されていれば良いですが、わたしたちの社会を見回すと分かるように、個人的な罪は個人に留まらずに、だんだんと共同体、すなわち教会を汚染するようになります。
仮に、教会がそうした人間の罪によって支配されるようになってしまった場合、その行き着く先は破滅です。
パウロは、罪が支払う報酬が死であり、しかし、罪から離れ、神の導きに生きる時に、その行きつく先は永遠の命であると説明するのです。
すなわち、パウロに言わせれば、まさに人間も教会も、その信仰(生活)によって行きつく先は決まっているということを明言するわけです。
わたしたちは本当の意味で、そうしたことを大事にしているかどうか? 案外にもサタンの誘惑するこの世的な繁栄を求めることが多いのではないか、そのように思うところです。