山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

2014年08月

コリントの信徒への手紙2 4章1~5節
1)こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
2)かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
3)わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
4)この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
5)わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。 


  教会もキリスト者も、共にイエス・キリストの十字架と復活によって示された「神の救い」、すなわち、この「神の救い」をこの世において「証しする」ことが、キリスト者にとって、またキリスト教会にとっての存在意義です。

  パウロはそうした、「神の救いを証しする」ことが、実に多くの苦難に満ちていることを、その経験(Ⅱコリント11:16以下)から確信していました。

 すなわち、パウロはコリントの教会の信徒数や献金の額が多いことが、この世におけるコリントの教会が「真に教会である」ことの指標とすることなく、むしろ、この世において、コリントの教会が、この世の様々な悩みや苦しみに直面しつつ、しかし、そのような中にあって、神の祝福と導きによって、教会が形成されることこそ、コリントの教会がまさにこの世においてイエス・キリストを土台とする教会であることの指標であるとしました。

 だからこそ、パウロはここで、そうしたこの世の中にあってキリスト教会が困難に直面しているという事について、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(1節)と告白しているのです。


 しかし現実はコリントの教会においては切実なものであり、コリントの教会から雄弁家であったアポロが去り、また巡回する十二使徒たちの教会からの伝道者たちが去り、そうしたなか、コリントの教会員だけの状況になり、そこにおいて教会の人々は、やはりこの世的な伝道方策や、あるいは当時において大勢であったユダヤ教に吸収合併されることも良しとする考え方に傾倒したのです。


 わたしたちの教会もそうですが、いわゆる伝道をして、すぐに人が増えるわけでもなく、教会としての年月が過ぎていくと、当然、教会の中もマンネリ化し、そうしたマンネリ化を打破するために、牧師も信徒も、「あれをやって信徒を増やそう」「これをやったら教会に人が来るようになる」と、そうしたこの世的なものの考えにて、教会をあたかも一種の商売として、この世に対してキリスト教の売り込みをしようという事に陥るのです。

  パウロはそうした、いわゆる「信仰的な下心」による教会の行動に対して、「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだね」(2節)ようと、むしろ、そうした「信徒を増やそう」「献金を増やそう」というような神の御前における「卑劣な隠れた行い」を捨てて、また「悪賢く歩まず」、イエス・キリストが真実をもって十字架の死に至るまで忠実に歩まれたように、自分たちもイエス・キリストの真実さに倣って、「神の言葉を曲げず」「真理を明らかにする」ことによって、むしろ、自分たちはこの世において、ただ礼拝を守り、神の言葉に忠実であることを通じて、神と人との前に、すなわち、この世に対して、自分たちが真にキリスト者であり、キリスト教会であることをもって歩むことを勧めるのです。

 それは、自分たちがあの手この手で、すなわち「信仰的な下心」をもって信徒を獲得しようとするのではなく、むしろ、自分たちがこの世においてキリスト者として真実に生きるという姿勢をもって、「教会に行く・行かない」の判断を、「すべての人の良心にゆだねる」ことを言うのです。

 当然、その裏には、コリントの教会において、まさに「悪賢く」「神の言葉を曲げ」という事が起こっていたことを意味します。

 神の知恵ではなく人間的な「悪賢さ」。真実な神の言葉ではなく、そうした人間的な「悪賢さ」によって捻じ曲げられた神の言葉が語られている。


 礼拝説教を良く聞いてみてください。

 本当に「神の言葉」が語られているでしょうか?

 それは、人間的な悪賢さによって捻じ曲げられた神の言葉ではないでしょうか?

 教会の礼拝において語られる説教は、まさにこのいずれかです。「神の言葉」かそれとも「偽りの神の言葉」か。それは見かけ上、同じように見えますが本質的においては決定的に異なるのです。
 
 それはまさに「善と偽善」の違いであって、善は神から出ますが偽善は人間の罪から出てきます。 


 そして、現実問題として、まさにコリントの教会が経験したように、そうした「信仰者の偽善」が、キリスト教会いおいては大きな問題となるのです。

 中には、教会が全体として、そうした「偽善」に走っているケースも珍しくはありません。



 たとえば、なぜ、「教会にリーダーが必要なのでしょうか?」

 教会には「リーダー」なるものが存在しなければ、教会を組織し、運営することができないのでしょうか?

 むしろ、プロテスタント教会が「万人祭司」の信仰に立つのであれば、そうした「リーダー」なるものは一体どういう存在なのでしょうか?


 「ここの教会には青年が多いです」ということを言うキリスト教会の特徴は、すなわち、教会という組織において、その青年たちに、教会組織におけるポスト、すなわち「居場所」を提供しているのです。当然、そうした「自分の居場所」を求める青年は多く居ますから、「自分の可能性」を信じる青年は、そうした「自分の居場所」を提供してくれる教会に集い、そうした教会が青年で溢れかえるということは、別に神の祝福でもなんでもなく、ただ「青年のニーズと教会の提供するサービスが一致した」というだけであるわけです。

 教会が青年に対してそうした居場所を提供する。

 そのこと自体は間違ってはいません。わたし自身が、まさにそうした形で教会に導かれ、わたし自身の経験で申し上げれば、わたしは音楽が好きだったから教会に行き、そうしたわたし自身の趣味と教会の提供するものとが一致したために、今日に至ったということも言えるからです。

 しかし、それは信仰的と言えるかと言えばそうではありません。
 わたし自身の経験を言うのであれば、わたしはそうした自分が音楽が好きでみんなの前で音楽を披露できるという自分自身の欲求をただ満たそうとして、キリスト教会を利用していたという自分にある時、気が付いたのです。

 わたしは、他の人よりも熱心に教会の礼拝に出席し、まさに他の人たちが都合で奏楽の奉仕ができず、ピンチヒッターのような形で奏楽をすることが大好きでした。

 他の奏楽者の機会を奪ってでも自分が奏楽の奉仕ができることに、当時、わたしはその罪深さにまったく無頓着でした。


 音楽が好きで教会に行くようになる。そのこと自体が否定されるわけではありません。しかし、本質は、教会はわたしたち信仰者ひとりひとりが自分勝手を行ってよい場所ではなく、あくまでも「公の場である」ということです。教会は牧師のものでも、また信徒のものでもなく、ただ神さまのものであるのです。

 当然、それは牧師であってもまた信徒であっても自分勝手にして良いものではありません。問題は、教会において「奉仕」と「自分のやりたいこと」とは決定的に違うということです。

 パウロは、教会がまさにそうした「イエス・キリストを宣べ伝える」場所であり、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」(5節)と。

 すなわち、教会は「リーダー」たちの自画自賛の場ではなく、またストレス発散の場でもなく、牧師においては、牧師はまさにそうした教会に仕える者であって、アポロがまさに雄弁家として、まさにコリント教会の宣教リーダーとしてコリントの教会をグイグイと引っ張ったように引っ張ることが求められているのではないということなのです。

 教会はまさにイエス・キリストをこの世において、礼拝を守ることを通じて、福音を証しするところであり、キリスト者はまさにその礼拝において、自分の罪を悔い改めることをもって、福音を証しするのです。


 では、教会は若い人たちに対して、そうした居場所を提供してはならないのでしょうか?

 そうではありません。

 仮に居場所を提供するのであれば、それは神さまであって、わたしたちではなく、また教会でもないということです。それは「自分の居場所」は別に「若い人」に限定されるものでもありません。むしろ、すべての人に対して教会はまさに礼拝という居場所を提供しているのです。

 それはイエスさまの次の御言葉にも明らかです。
 
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

 教会は礼拝を守る場所であって、それ以外のものではありません。

 そして、イエス・キリストはまさに、わたしたちすべての者を、まさに礼拝に招いておられるのです。

 それはイエスさまが招かれる招きによるものであって、わたしたち人間の信仰的な下心による宗教勧誘によるものではありません。

 そうなると、教会は礼拝や祈祷会などの他には、ほとんど行わないということになります。


 むしろ、それが良いのです。

 なぜなら、自分たちが伝道をしないのであれば、その教会に招かれる人すべてが神さまの導きによるものであることが分かるからです。


 少しでも自分たちの努力によって教会に人を招いたとしたら、その教会は、以後、自分たちが人を教会に招かないといけなくなります。そして、そうした教会に人が増えたとすると、牧師も信徒もなおさらそうした「宗教勧誘」の手法に熱心になり、そうした伝道活動はより加速します。

 しかし、教会の難しいところは、そうした人間的努力によって急成長した教会が、そのまま成長し続けることはなく、ある程度のところで礼拝出席も献金額も頭打ちになってくるのです。そして、その教会は、そこでいろいろと悩むのです。 

 そうした状況に陥った教会において、もはや「神の導き」なる不確定要素の強い選択肢は選択できません。
 今までみんなで頑張ってきた事によって現在の繁栄があるわけですが、そうした教会の牧師も信徒も、「礼拝や祈祷会以外の特別なことを一切やめる」というような選択は、あまりにも「無策」と同じであって、「そこに神の祝福があるはずがない」と考えるのです。



 以前、牧師の口から「羊飼いが羊を増やすことはできず、羊が羊を増やすのだ」という話を聞いたことがあります。

 当時は、そうした話を聞きながら、何となくそういうものだと納得していましたが、そうではありません。


 信仰においては「神が羊を増やす」のです。

 それはまさに信仰的な「賭け」であり、「礼拝(祈祷会など)以外の何もしない」というのは特にプロテスタント教会においてはナンセンスと受け取られることがほとんどです。

 しかし、パウロが戦った信仰の戦いとはまさに、神にすべてをお委ねするという戦いではないでしょうか?


 今日の教会における大きな誘惑は、そうした意味では、「羊が羊をどのように増やすのか?」ということが教会のあるいはキリスト者の至上命題になっているということです。

 そして、そうした「羊が羊を増やす」ことに熱心な教会は、当然、「羊がより羊を増やせるように」と願い、そうした人間的な手法により、そして、そうした数量的成功をまさに神の祝福として、どんどん神から離れ去ってしまうわけです。


 パウロはそうした人間的な思いで教会を形成することは不可能であり、まさに教会は礼拝において、神の言葉に忠実であることをもって、この世の悩み・苦しみの中で、神の憐みによって成長することを証言しています。

 うちの教会のある信徒の方から、「うちの教会は病人ばかりだ」と少し自虐的に言われました。

 確かに、わたしどもの教会は若い人は少なく、高齢者がほとんどで、どこかしら病気を持っている方がほとんどです。表面的には健康そうに見えても、そうでない人ばかりです。

 しかし、むしろわたしはこの教会が、そのような人たちによって神さまによって教会とされていることに深く感謝するのです。

 「わたしたちの教会以上に、神さまに憐れんでいただいている教会があるだろうか?」と。

 若い人が多い教会は、まさに若い人たちの熱意と力によって教会が維持されます。

 ところが、わたしどもの教会はそうした力も何もありません。しかし、そうした何もないところにおいてこそ、神さまはわたしたちを深く憐れんでくださり、この教会に人を招いてくださるのです。それは、わたしたちが特別何か努力をしているわけでない点において、まさに私ども教会において神さまが助け守ってくださっているということが「真実である」と言うことができるのです。

 もし、わたしたちが何かしら頑張っていたとしたら、そうした理解に至ることも可能だとは思いますが、しかし、「実感として」、どれほど神の助けを体験し、認識できるかと言えば、かなりの違いがそこにはあるのではないかと思います。

 中には、無理矢理?に「感謝」「ハレルヤ」と、自分(たち)自身に言い聞かせているような教会もありますが、「実感のない」にも関わらず、「感謝」ということを本気で言うことはできません。

 その意味で、キリスト教信仰は自虐的ではありません。表面的に見ればそのように見えるかもしれませんが、神の憐みを経験する人にとって、「感謝」という言葉はまさに「神さまの憐みを受け、深く慰められた」からこそ「感謝」の言葉が出るのであって、「苦しくても、『感謝』と言っていれば、神さまが祝福してくれる」というようなものではありません。

 確かに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)という事も言われていますが、その背後には、「真実をもって神の言葉に従う」という信仰生活、そうした教会において「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という事が言われているのであって、牧師や信徒の自己中心的な思惑を実現するために、そうしたことが勧められているのではありません。

 そして、だからこそ「真実の神の言葉」が大切にされる教会であることは、教会が教会であるための生命線であり、まさにそうした教会であり続けることができるようにと、常に神の御前に願っております。

 パウロは先に記したコリント教会の教会員に宛てた手紙において、コリント教会の内部における信仰的な違いによる不一致について、そうした教会員ひとりひとりの思惑を捨てて、イエス・キリストが示してくださった愛に基づいて、一致して教会を建て上げていく(もちろん、人間の業ではなく神の恵みによって)ことを勧めました。

 そして、そのあとコリントの教会を再訪することになるのですが、問題はパウロが、アポロや他の十二使徒の教会からの宣教者たちと比較される時に、パウロは、アポロのような雄弁家の賜物(カリスマ)もなく、また十二使徒の教会からの宣教者たちのような、直接、イエス・キリストと結びつく何かしらの印のようなものを一切持ち合わせていませんでした。

 ましてや、パウロは持病をもっており、そういう意味では、他の使徒たちが「いやし」といった奇跡を行ったり、あるいは異言を行ったりするのに対して、むしろいわゆる他の使徒や宣教者たちが身に着けている賜物、すなわちカリスマを一切持ち合わせていなかったのです(あるいは、そういったことを自身の宣教においては一切行わなかった)。

 そうした事から、コリント教会の信徒の間でパウロの使徒としての資質に対する疑義が起こったのです。

 そうした背景から、パウロは再度、コリント教会の人たちに対して手紙を送り、そうしたコリント教会の信徒たちに対して自分が正しく「神の御前においてきちんとした使徒である」ということを弁明すると共に、それによってコリントの教会の人々との和解を願って綴った文書というかたちをとっています。



 パウロがなぜ、コリントの教会において「使徒」として存在できるのか? 

 それはパウロがガラテヤの信徒への手紙の冒頭で記しているように、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ1:1)、すなわち、パウロはコリントの教会において、教会の創立者であると共に、自身の信仰告白として、すなわちあくまでも「自称使徒」であったのです。

 アポロや他の十二使徒の教会からの福音宣教者(キリスト教をユダヤ教の中に位置づけようとする教会指導者)たちの言葉によって、コリント教会の教会員たちはパウロに対する疑心暗鬼に陥り、中にはパウロに対して侮辱の言葉を浴びせる人々(たとえばコリントⅡ 10:10『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。』)が起こり、パウロはコリントの教会にあって使徒としての立場を立証する必要に迫られました。


 そこでパウロは、自分自身が「正真正銘の使徒である」という根拠を、「実際的な神の助け」、すなわち福音宣教者としての苦難において、神がそれを助けて下さった事の証をもって、自分自身がまさに神さまによって使徒とされていることの根拠においたのです。

 すなわち、パウロが「偽物の使徒」であれば、パウロは神と人に対して嘘を言っている事になるので、当然、使徒としての活動が続けられることもなく、神を冒涜している行為になるので神さまによって助けられることはなく、死んでしまうであろう。

 ところが、パウロはこれまでの福音宣教者としての人生において、数多くの困難(コリントの信徒への手紙Ⅱ 11:11~33)において、神さまの導き、助けによって命を守られてきた。すなわち、こうしたパウロの福音宣教者としての数多くの苦労が、パウロが真にイエス・キリストによって使徒とされたことの根拠になっている、という事なのです。

 そこで、パウロはそうした事がらを踏まえて、コリントの教会がまさにイエス・キリストの教会として、今、直面している問題に対して、信仰によってこの困難を乗り越え、パウロ自身がまさに神さまの助けによって使徒と証明されたように、パウロとコリント教会とのギクシャクした関係を修復し、すなわち、イエス・キリストがその救いによって神と人との関係を和解させてくださったように、パウロとコリント教会の間を「イエス・キリストが与えてくださった聖霊の助けによって、愛によって、和解に至ろう」とコリントの教会の教会員に勧めるのです。



 さて、大枠は上記のとおりとして、以下に個別的に聖書箇所を見ていきたいと思います。

コリントの信徒への手紙2 2章5~11節
5)悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
6)その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
7)むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
8)そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
9)わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。
10)あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
11)わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
 
 
 教会がまさにキリストの教会であるために大切なことは、まさにイエス・キリストがわたしたちの罪を赦してくださったその出来事に倣い、わたしたち自身もそのことを覚えつつ、自分たちもまた神の御前において同じ罪人であるとの自覚の上に、互いにゆるし合うということが大事です。

 それはキリスト教信仰における基本的な事柄ですが、キリスト教会の中では案外にも難しい事柄です。

 なぜなら、キリスト教信仰は、常に神の御心を求める点において、それは言い方を変えれば、信仰における「正義・正しさ」を求めるからです。

 つまり「何が神の御前に正しいのか?」という信仰の視点は常に「正しさ」を求め、それは例えるなら「誰が正義で誰が悪か?」という考え方に陥るからです。


 本来、キリスト教の信仰において、あるいは聖書において、正義・正しさは常に「神さまに属するもの」であって、当然、人間がそれを保有することはできません。

 ところが、キリスト教会においては多くの場合、「キリスト教を信じる=正義」という構図で説教がなされ、それは同時に、「自分たち・教会(牧師?)=正義」というような価値観を信徒に押し付けるのです。


 たとえば、旧約聖書のダニエル書9章に以下のような記述があります。

『わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。』(ダニエル書9章4~5節)

 ダニエルは当然、神を信じている点において「信仰者」なのですが、そのダニエルは神さまに対して、イスラエルの過去における罪の歴史を振り返りながら、自分自身をそうした罪深いイスラエルの人々と同じ場所におき、すなわち、自分自身もまた神の御前に罪人のひとりであるという信仰的な自己理解に立つのです。

 言葉で説明すると分かりにくくなるので以下に図で示します。


旧約聖書に見る信仰者の自己理解と教会におけるキリスト者の自己理解


 旧約聖書において、特に預言書に見る信仰者の自己理解は、自分がいくら信仰者であったとしても、神の御前に正しい者であったとしても、人間が自分で神の御前において「自分は神の側に存在する」などとは信仰的には絶対に言わないのです。

  なぜなら、創世記においても示されているように、神は創造主であって、人間は被造物に過ぎません。その意味で、神と人間との間には大きな隔たりがあって、その隔たりがまさに罪(図では示してありませんが、左右の四角の間の空間です)であり、そうした隔たりを考慮すれば、人間は神の御前に信仰者であろうとなかろうと本質は同じなのです。

 だからこそ、旧約聖書においては、自分たちが神の側に立つような表現はまず出てきません。なぜなら、人間が神の側に立つということを神の御前において主張することほど神の御前に恐れ多いことはないからです。その点で、新約聖書においてイエスさまがご自分を神の子とした点についてユダヤ人たちが「神を冒涜している」と発言するのは、「イエスさまが神の独り子である」ということを抜きにして考えれば、それは至極当然のことなのです。

 ですから、預言者イザヤが神さまから召命を受けるときに言った言葉は、まさに上の図と共通するのです。

イザヤ書6章5~7節
5)わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6)するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7)彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
 
 イザヤは神さまから召命を受けた時、祭司をしていました。すなわちイスラエルの信仰においては神の御前に罪を清められている存在であるにも関わらず、イザヤは自分自身が罪にけがれており、しかも、自分は罪にけがれた人々の中に生活しているような人間であることを、神の御前に告白するのです。



 ところが、キリスト教会においては、イエス・キリストの救いによって、人間に対するイエスさまの「近接さ」が、あたかもそれが事実、本当に自分自身と神とが同じ立場に存在するかのような誤解を招いているのです。

 つまり、信仰者が、まさに「自分は神と同じ側にあり、神によって正義をいただいている」というような感じに自己理解をするようになる。ところが、神の御前に、こうした信仰ほど傲慢な信仰はないわけです。


 むしろ、それはイエス・キリストの救いが「わたしたち罪人に対する憐み」である限りにおいて、例えば、「神の子とされた」とは、それは「事実そうされたのだ」ということ以上に、「信仰者に対する憐みと慰めの言葉である」という理解が大切なのです。

 だからこそ、キリスト者は、あくまでも「イエス・キリストの救いによって罪を赦された罪人である」という自己理解が非常に大切なのです。わたしたちキリスト者はイエス・キリストの救いに与って神の子とされるわけですが、神の子とされるとは、すなわち「わたしは神の側に立つ人間だ」ということではなく、「神との関係において罪を赦された者として、日々罪を告白し、罪を悔い改めつつ歩むことが求められている」ということなのです。

 『イミタチオ・クリスティ』(邦題:「キリストに倣いて」)という本がありますが、ホーリネスやナザレン教会の信仰である「聖化」とは、すなわちそうした神の御前において常に信仰的に謙遜であり続けようとする、神の御前に真実に生きようとする者の生き方であるのです。

 

新約聖書が提示する神・キリスト・聖霊・人間の関係


 だからこそ、わたしたちは「神の子とする」という神さまの言葉に対して、むしろ、「キリスト者として当然です」とそれを受け取るのではなく、むしろ、「いえ、決してそのような事はありません。わたしはイエスさまに対して多くの罪を犯した者です。ただ、罪深いわたしを憐れんでくださり、ありがとうございます。」と告白することが、キリスト者としての大切な自己理解でないかと個人的には思います。

 その意味で、カトリック教会にあるキリエ(・エレイソン)の祈り、「主よ、(罪深いわたしを)憐れんでください。」という祈りは大事です。

 神さまに対して「わたしを救いなさい」と命令することなく、神さまに対して、わたしを憐れんでくださる事を願うことを通じて、神さまの判断・決断として、憐れんでくださり、救いを与えてくださることに信頼するという祈りであるからです。

 「救ってください。」「助けてください。」という祈りは、一見すると信仰的に何の問題もないように思えますが、しかし、それは神さまに対して下手に出た人間の、神さまに対するわたしを「救え」「助けろ」という命令以外の何物でもないのです。



 話がだいぶそれましたが、パウロはそうしたコリント教会の中にあって、起こった人間関係の破たん、すなわち教会の中で加害者・被害者・審判者という対立関係が起こった事について、深い憂慮を覚えると共に、教会員の人たちに対して既にそうした教会員が加害者・被害者・審判者になることによって発生した関係性の破たんを、イエス・キリストの御前において罪を告白し、誰が正しく・誰が間違っているということを明らかにすることよりも、むしろ、神の御前において一人ひとりが自分たちの加害者としての罪、また被害者としての罪、そして審判者としての罪を告白し合い、すべてを神の御前に真実を明らかにすることによって、真の和解へと、神さまの導きによって導かれることを勧めるのです。



コリントの信徒への手紙2 2章14~17節
14)神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
15)救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
16)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
17)わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。


 パウロはコリント教会がまさにイエス・キリストを礎とする教会であるために、 先の教会の中における内部分裂という出来事をまさにイエス・キリストの救いに基づいて、この出来事を神さまの導きによって実現することを通じて、キリスト教会は、常に「キリストの勝利の行進」、すなわちまさにイエス・キリストの御名が褒め称えられることを通じて、「キリストを知るという知識の香り」を、コリントの教会の人々が、あたかも自分たちの信仰生活を通じて、その生き方、神の御前における真実な生き方を通じて、自分自身の罪を知るという「キリストを知る知識」の香りを放つようであれと、勧めるのです。

 その意味で、キリスト教会とは、まさに正義を主張するところではなく、人間の罪、すなわち人間の弱さが告白されるところであり、その人間の弱さに対して神さまの憐み、助け、祝福が注がれる場所である限りにおいて、神の御前においてそれは正しい事であり、この「自分たちは神の御前において罪深く、間違っている」という正しく神を知ることによって、キリスト教会はこの世において正しくあることができるのです。

 そうした、「キリスト教的な正しさ」、すなわち、「罪の告白(わたしたちは神の御前において、語られる神の御言葉によって間違っている)」は、 当然、罪によって滅んでいく者にとっては愚かなもの、すなわち「滅びる者には死から死に至らせる香り」であり、しかし、同時にキリスト者にとっては、「キリスト教的な正しさ」「罪の告白」とは、「命から命に至らせる」、まさに「キリストの香り」なのです。

 パウロは、キリスト者は、キリスト教会は、まさにそうした「神の御前に自分たちの罪を悔い改める者」たちによって、「自分たちの罪の悔い改め」がなされるところであり、キリスト教会がキリスト教会であるためには、多くの人々が「キリストの言葉」をまさに商品(神の言葉を売り物にせず)として、この世的な利益を追求する「キリスト教」販売所のような教会になってはならず、神の御前において常に誠実に、まさに(本来わたしたち人間は神に属するような資格は一切持たないが、イエス・キリストの救いによって)神に属する者とされたという大いなる憐みに感謝しつつ、真実をもって神の御前に共に生きることを主張するのです。


コリントの信徒への手紙2 3章17~18節
17)ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
18)わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 パウロは、この世においてキリスト者をキリスト者とするもの、そしてキリスト教会をキリスト教会とするものをまさに「霊」、すなわち「聖霊なる主」の働きによるものであると説明しています。

 しかし、問題は、そうした「聖霊の働き」を、わたしたちは「救い」と切り離し、「罪の告白」から切り離し、あたかもそれを「キリスト者の所有物」かのように扱うことが教会の中で広まったということでした。

 具体的に言えばコリントの信徒への手紙1(12章1~11節)で預言や異言といった聖霊の働きによる事柄が、コリントの教会の中で行われるのですが、しかし、それは教会を建て上げるための、教会を秩序付けるためのものでもなく、むしろ、「その人が霊的な体験をした」という、一種の「信仰者の自慢(自画自賛)」に陥っていたということです。

 パウロはそうした聖霊による預言や異言といったことを否定するのではなく、聖霊はまさにイエスをわたしたちの救い主と告白させてくださる方(『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』コリントの信徒への手紙1 12:3)である点において、むしろそれはわたしたち人間を罪の束縛から自由にしてくださる方であり、そのように、キリスト者は自分自身の罪から自由にされて、神の御前に罪を告白することを通じ、イエス・キリストの救いの力によって罪から自由にされ、そのように罪の束縛、誘惑から自由にされた者は、自由に自分の罪を神の御前に告白することを通じて、その信仰がきよめられる。

 すなわち、そのようにして聖霊の働きによって、キリスト者は日々罪を悔い改めることを通じて、わたしたちは皆、罪による顔の覆いを除かれて、罪から自由にされて、まさに鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによるものであって、キリスト教会とは、まさにそうしたキリスト者によって形作られるものであることをパウロは主張するのです。

【エフェソとコリントの地図上での位置関係】
 

47214088


コリントの信徒への手紙16章8~12節
8)しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。
9)わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。
10)テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。
11)だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。
12)兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。


 パウロはこの箇所で、この手紙がアジア州のエフェソという町におり、そこからコリントにある教会の人々に手紙を出していることを説明しています。そして、先にコリントにアポロが宣教しに行った後、パウロがこの手紙を記している段階において、アポロがエフェソにコリントから既に帰ってきており、しかもパウロはコリントの教会で問題を起こしたアポロに対してコリントの教会に再度赴くように勧めているのですが、アポロはコリントの教会に再度行く気持ちがないことをパウロはこのところで明らかにしています。

 パウロはこれまでのところで、アポロが信仰的指導者として、コリントの教会を分裂の危機に追いやった(その他の理由もあるが)ことの責任について、おそらく、コリントの教会に再度赴いてパウロや他のコリントの教会員の前で謝罪するべきであることを考えていると思います。

 そのため、パウロはアポロに対して「信仰の敵」ということではなく、あくまでも「兄弟アポロ」と、すなわち教会指導者として、教会を混乱に陥れたその責任をきちんと果たすことを勧めるのです。ところが、当のアポロは、まだその意志が見受けられません。その意味で、パウロはアポロに対して、時間がかかってもいいから自分が起こした問題についての責任を果たすことを望んでいるものと思います。

 
 さて、ではこの事が今日的にわたしたちに教えるのはどういうことでしょうか?

 まずは、牧師であれそれ以外の指導者であれ、キリスト者として人間として神のみ前において「正しい者は一人もいない」という、わたしたち人間の現実に即して物事を考えるべきであるということです。

 当然、それは「牧師であるから間違いはない」というような一種の思い込みを禁じると共に、牧師も何かしらのリーダー的な存在も、また一信徒として、共に教会の重荷を担い、またそのために教会に仕える者であるという所から外れないということです。

 パウロがアポロに求めているのは、口だけで指導するのではなく、その業についても働きについても、特に信仰において罪の告白や罪の悔い改めという事柄についても、牧師も指導者もまた自分からそうしたことを率先して行い、まず、自分自身がキリストの言葉に聞き従う者であることに徹することが求められるということです。

 その意味で教会における福音宣教の業において、牧師、あるいは指導的立場にある人に求められるのは、まず自分自身がイエス・キリストのみ前に罪を告白し、罪を悔い改める者であり、まさにそうした信仰者としての生き方をもって教会の人々を指導するということです。


 ところが、そうではなく牧師や指導者が人間的努力、すなわちこの世的な成功といった事において、牧師として、あるいは指導者となりますと、そこには当然、「この世的な成功=失敗を犯さない=清い人=正しい人」といったイメージが構築されます。

 「常に神の助けによって勝利を収める」とは、聞こえは良いのですが、それが信仰的謙遜によって実現されるものである限りにおいては良いですが、都合よく信仰者だけが勝利を収めることはありません。そのため、「勝利=神の祝福」を実現するために、牧師、あるいは指導者は「勝利のためには悪を行うこともいとわない」というような事にもなっていくのです。

 こうした事は新約聖書においてはあまり見かけることはありませんが、旧約聖書においてイザヤ書などの預言書において告発されるイスラエルの罪について見ていると、そうした、信仰共同体において「まずありえないことが起こる現実問題として起こるのだ」ということが見えてくるかと思います。

 わたしたちがこの世において受ける祝福(繁栄)とは、その本質において神の祝福による祝福(繁栄)と、人間の悪による祝福(繁栄)とがあります。両者はその結果において共に共通しますが、しかし、その本質は決定的に違うのです。

 教会が結果だけを見て、その本質を見誤る時に、教会はイエス・キリストを信じているようでサタンを信じ、サタンの誘惑に従って繁栄を手にするという事があるのです。それは信仰共同体においては致命的な間違いであって、常日ごろから、自分たちの行っていることが神のみ前に正しいかどうかを悔い改めながらでなければ、教会はあっという間にサタンの誘惑に落ちてしまうのです。

 また、わたしたち人間はサタンに対して「誘惑」の罪の責任を追及することはできません。サタンとは、すなわち便宜上、わたしたちがわたしたちの信仰を神から遠ざける架空の存在であって、本質において実体はありません。

 なぜなら、わたしたちがサタンと呼ぶものは本質は、自分の内にある「欲望」に過ぎないからです。その「欲望」をわたしたちが、現実の世界において投射する対象がすなわちサタンであり、サタンの実体はなく、ただ自分の内にある欲望に過ぎないのです。
 
 当然、わたしたちがその罪の責任をサタンに追及することはできず、その罪の責任を担うのは当の本人ということになるのです。その意味で、神にサタンがその罪を追及されることはなく、あくまでも罪を犯した人間がその罪の責任を取らざるを得ないのです。
 

 教会で何か特別な行事を行い、それによって新来会者が与えられた時、それはむしろわたしたちは注意しなければならないのです。わたしたちは、そのようにして自分たちの努力によって、新しい人が教会に来てくれた。それは神の導きだ、神の祝福だと理解するでしょうが、むしろ、パウロに言わせれば、そうした事は神の祝福でもなんでもなく、ただ自分たちの欲望の望むままに事態が進展したことを、「まさに神の御心」であると認識しただけであって、まさにそれがここでいうところのサタンの誘惑であるのです。



コリントの信徒への手紙16章13~24節
13)目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。
14)何事も愛をもって行いなさい。
15)兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。
16)どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。
17)ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。
18)わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。
19)アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。
20)すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
21)わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。
22)主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。
23)主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
24)わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。

 その意味で、本当の「神の導きによる新来会者」とは、そうした集会ということに関係なく、普段の礼拝において教会に訪れる人において、まさにそうであるということが言えるのです。もちろん、そうした特集に来た人がまったく「神の導きに拠らない」とは、人間は言い切ることができません。

 しかし、わたしたちが教会として特別なことではなく、パウロがこの13節で言っているように、わたしたちが信じ、また守っている「礼拝」はまさにこれこそが教会においてもっとも大切なものであって、わたしたちはそれに誇りと自信を持ち、堂々と、「教会の外の人々が何を考えているのか」というようなことを気にせず、自分たちの大切にしていることを大切にしていけばそれでいいのです。

 仮に、何か教会が特別なことをしたことによって、新来会者が与えらえるのだというのであれば、教会は常にそうした新来会者が与えられるためにすべての情熱をつぎ込まなければなりません。

 テレビ局が視聴率を獲得するために、一定の放送倫理の枠の中で、あの手この手で視聴者を飽きさせないようにするのと似ています。

 キリスト教会はそのようなエンターテイメントを提供する場所ではありません。

 キリスト教会は神を礼拝する所である。それ以上のものでもそれ以下のものでもなく、定められた時に、定められた場所で礼拝を必ず行っている。その欠かすことのない週毎の礼拝を100年、1000年と続けるのがキリスト教会なのです。

 その意味で、教会が、この世的な流行を取り入れることがどれほど神のみ前に愚かしい事か。しかし、キリスト教会はそれが「愚かしい」と思いながらも、しかし、それをまったく切り捨てる信仰的勇気を持たないところが、すなわち今日におけるキリスト教会の信仰的な弱さであるのです。

 神は無から有を生み出す方です。

 わたしたちが信じるのは、まさにこの世的な流行に左右されることなく、天地のはじまりからその終わりまでわたしたちと共にいて、御言葉を与え、わたしたちの罪深さを深く憐れんでくださる方であるのです。

 教会が最近の流行を取り入れることが神のみ前における大いなる反逆であると自覚するキリスト者は、今では少ないかもしれません。

 
 「今の若い者は・・・」という事ではなく、パウロがまさにコリントの信徒への手紙1 15章で 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 」(Ⅰコリント15:3~5)と語っているように、それはパウロの生きていた時代においても、また100年前の時代においても、今日においても、またわたしたちの後の時代の人たちにとっても、この言葉が変わることはないのです。

 それは、確かに、今のような自由な時代においては、それは表面的にはただ「言葉による情報」であって、取り立てて何かしら秘密めいたものでもなく、面白くも楽しくもありません。

 しかし、パウロがそうしたように、過去のキリスト者はこの事柄を大事にし、まさにその事を自分の生涯においてもっとも大切なこととして生きる人生を通じて、この信仰をその世代から次の世代へと継承していったのです。

 その意味で、教会はキリスト教の斡旋所でも、布教所でもありません。

 まさに教会は「神を礼拝するところ」ということを本質にするところであって、キリスト者はキリスト教の斡旋をすることなく、ただわたしたちは神の憐みと導きによって「キリスト者と成る」のです。




 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(マタイ7:13)

 イエスさまがこう言われる言葉はまさに真実です。

 しかし、もう一言付け加えることを主が許してくださるなら、わたしは次のように書きます。


 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる教会の門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」


 それはまさに「あそこの教会」がということではなく、わたしたち自身の直面する問題であり、教会は常に、この事を意識しつつ歩んでいく必要があるのです。

 当然、それは常に神のみ前に罪を悔い改めようとする信仰生活において実現される神の導きであり、ナザレン教会が言うところの清め・聖化とは、まさにそうした教会のあり方であるのです。

このページのトップヘ