コリントの信徒への手紙2 4章1~5節
教会もキリスト者も、共にイエス・キリストの十字架と復活によって示された「神の救い」、すなわち、この「神の救い」をこの世において「証しする」ことが、キリスト者にとって、またキリスト教会にとっての存在意義です。
パウロはそうした、「神の救いを証しする」ことが、実に多くの苦難に満ちていることを、その経験(Ⅱコリント11:16以下)から確信していました。
すなわち、パウロはコリントの教会の信徒数や献金の額が多いことが、この世におけるコリントの教会が「真に教会である」ことの指標とすることなく、むしろ、この世において、コリントの教会が、この世の様々な悩みや苦しみに直面しつつ、しかし、そのような中にあって、神の祝福と導きによって、教会が形成されることこそ、コリントの教会がまさにこの世においてイエス・キリストを土台とする教会であることの指標であるとしました。
だからこそ、パウロはここで、そうしたこの世の中にあってキリスト教会が困難に直面しているという事について、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(1節)と告白しているのです。
しかし現実はコリントの教会においては切実なものであり、コリントの教会から雄弁家であったアポロが去り、また巡回する十二使徒たちの教会からの伝道者たちが去り、そうしたなか、コリントの教会員だけの状況になり、そこにおいて教会の人々は、やはりこの世的な伝道方策や、あるいは当時において大勢であったユダヤ教に吸収合併されることも良しとする考え方に傾倒したのです。
わたしたちの教会もそうですが、いわゆる伝道をして、すぐに人が増えるわけでもなく、教会としての年月が過ぎていくと、当然、教会の中もマンネリ化し、そうしたマンネリ化を打破するために、牧師も信徒も、「あれをやって信徒を増やそう」「これをやったら教会に人が来るようになる」と、そうしたこの世的なものの考えにて、教会をあたかも一種の商売として、この世に対してキリスト教の売り込みをしようという事に陥るのです。
パウロはそうした、いわゆる「信仰的な下心」による教会の行動に対して、「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだね」(2節)ようと、むしろ、そうした「信徒を増やそう」「献金を増やそう」というような神の御前における「卑劣な隠れた行い」を捨てて、また「悪賢く歩まず」、イエス・キリストが真実をもって十字架の死に至るまで忠実に歩まれたように、自分たちもイエス・キリストの真実さに倣って、「神の言葉を曲げず」「真理を明らかにする」ことによって、むしろ、自分たちはこの世において、ただ礼拝を守り、神の言葉に忠実であることを通じて、神と人との前に、すなわち、この世に対して、自分たちが真にキリスト者であり、キリスト教会であることをもって歩むことを勧めるのです。
それは、自分たちがあの手この手で、すなわち「信仰的な下心」をもって信徒を獲得しようとするのではなく、むしろ、自分たちがこの世においてキリスト者として真実に生きるという姿勢をもって、「教会に行く・行かない」の判断を、「すべての人の良心にゆだねる」ことを言うのです。
当然、その裏には、コリントの教会において、まさに「悪賢く」「神の言葉を曲げ」という事が起こっていたことを意味します。
神の知恵ではなく人間的な「悪賢さ」。真実な神の言葉ではなく、そうした人間的な「悪賢さ」によって捻じ曲げられた神の言葉が語られている。
礼拝説教を良く聞いてみてください。
本当に「神の言葉」が語られているでしょうか?
それは、人間的な悪賢さによって捻じ曲げられた神の言葉ではないでしょうか?
教会の礼拝において語られる説教は、まさにこのいずれかです。「神の言葉」かそれとも「偽りの神の言葉」か。それは見かけ上、同じように見えますが本質的においては決定的に異なるのです。
それはまさに「善と偽善」の違いであって、善は神から出ますが偽善は人間の罪から出てきます。
そして、現実問題として、まさにコリントの教会が経験したように、そうした「信仰者の偽善」が、キリスト教会いおいては大きな問題となるのです。
中には、教会が全体として、そうした「偽善」に走っているケースも珍しくはありません。
たとえば、なぜ、「教会にリーダーが必要なのでしょうか?」
教会には「リーダー」なるものが存在しなければ、教会を組織し、運営することができないのでしょうか?
むしろ、プロテスタント教会が「万人祭司」の信仰に立つのであれば、そうした「リーダー」なるものは一体どういう存在なのでしょうか?
「ここの教会には青年が多いです」ということを言うキリスト教会の特徴は、すなわち、教会という組織において、その青年たちに、教会組織におけるポスト、すなわち「居場所」を提供しているのです。当然、そうした「自分の居場所」を求める青年は多く居ますから、「自分の可能性」を信じる青年は、そうした「自分の居場所」を提供してくれる教会に集い、そうした教会が青年で溢れかえるということは、別に神の祝福でもなんでもなく、ただ「青年のニーズと教会の提供するサービスが一致した」というだけであるわけです。
教会が青年に対してそうした居場所を提供する。
そのこと自体は間違ってはいません。わたし自身が、まさにそうした形で教会に導かれ、わたし自身の経験で申し上げれば、わたしは音楽が好きだったから教会に行き、そうしたわたし自身の趣味と教会の提供するものとが一致したために、今日に至ったということも言えるからです。
しかし、それは信仰的と言えるかと言えばそうではありません。
わたし自身の経験を言うのであれば、わたしはそうした自分が音楽が好きでみんなの前で音楽を披露できるという自分自身の欲求をただ満たそうとして、キリスト教会を利用していたという自分にある時、気が付いたのです。
わたしは、他の人よりも熱心に教会の礼拝に出席し、まさに他の人たちが都合で奏楽の奉仕ができず、ピンチヒッターのような形で奏楽をすることが大好きでした。
他の奏楽者の機会を奪ってでも自分が奏楽の奉仕ができることに、当時、わたしはその罪深さにまったく無頓着でした。
音楽が好きで教会に行くようになる。そのこと自体が否定されるわけではありません。しかし、本質は、教会はわたしたち信仰者ひとりひとりが自分勝手を行ってよい場所ではなく、あくまでも「公の場である」ということです。教会は牧師のものでも、また信徒のものでもなく、ただ神さまのものであるのです。
当然、それは牧師であってもまた信徒であっても自分勝手にして良いものではありません。問題は、教会において「奉仕」と「自分のやりたいこと」とは決定的に違うということです。
パウロは、教会がまさにそうした「イエス・キリストを宣べ伝える」場所であり、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」(5節)と。
すなわち、教会は「リーダー」たちの自画自賛の場ではなく、またストレス発散の場でもなく、牧師においては、牧師はまさにそうした教会に仕える者であって、アポロがまさに雄弁家として、まさにコリント教会の宣教リーダーとしてコリントの教会をグイグイと引っ張ったように引っ張ることが求められているのではないということなのです。
教会はまさにイエス・キリストをこの世において、礼拝を守ることを通じて、福音を証しするところであり、キリスト者はまさにその礼拝において、自分の罪を悔い改めることをもって、福音を証しするのです。
では、教会は若い人たちに対して、そうした居場所を提供してはならないのでしょうか?
そうではありません。
仮に居場所を提供するのであれば、それは神さまであって、わたしたちではなく、また教会でもないということです。それは「自分の居場所」は別に「若い人」に限定されるものでもありません。むしろ、すべての人に対して教会はまさに礼拝という居場所を提供しているのです。
それはイエスさまの次の御言葉にも明らかです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
教会は礼拝を守る場所であって、それ以外のものではありません。
そして、イエス・キリストはまさに、わたしたちすべての者を、まさに礼拝に招いておられるのです。
それはイエスさまが招かれる招きによるものであって、わたしたち人間の信仰的な下心による宗教勧誘によるものではありません。
そうなると、教会は礼拝や祈祷会などの他には、ほとんど行わないということになります。
むしろ、それが良いのです。
なぜなら、自分たちが伝道をしないのであれば、その教会に招かれる人すべてが神さまの導きによるものであることが分かるからです。
少しでも自分たちの努力によって教会に人を招いたとしたら、その教会は、以後、自分たちが人を教会に招かないといけなくなります。そして、そうした教会に人が増えたとすると、牧師も信徒もなおさらそうした「宗教勧誘」の手法に熱心になり、そうした伝道活動はより加速します。
しかし、教会の難しいところは、そうした人間的努力によって急成長した教会が、そのまま成長し続けることはなく、ある程度のところで礼拝出席も献金額も頭打ちになってくるのです。そして、その教会は、そこでいろいろと悩むのです。
そうした状況に陥った教会において、もはや「神の導き」なる不確定要素の強い選択肢は選択できません。
今までみんなで頑張ってきた事によって現在の繁栄があるわけですが、そうした教会の牧師も信徒も、「礼拝や祈祷会以外の特別なことを一切やめる」というような選択は、あまりにも「無策」と同じであって、「そこに神の祝福があるはずがない」と考えるのです。
以前、牧師の口から「羊飼いが羊を増やすことはできず、羊が羊を増やすのだ」という話を聞いたことがあります。
当時は、そうした話を聞きながら、何となくそういうものだと納得していましたが、そうではありません。
信仰においては「神が羊を増やす」のです。
それはまさに信仰的な「賭け」であり、「礼拝(祈祷会など)以外の何もしない」というのは特にプロテスタント教会においてはナンセンスと受け取られることがほとんどです。
しかし、パウロが戦った信仰の戦いとはまさに、神にすべてをお委ねするという戦いではないでしょうか?
今日の教会における大きな誘惑は、そうした意味では、「羊が羊をどのように増やすのか?」ということが教会のあるいはキリスト者の至上命題になっているということです。
そして、そうした「羊が羊を増やす」ことに熱心な教会は、当然、「羊がより羊を増やせるように」と願い、そうした人間的な手法により、そして、そうした数量的成功をまさに神の祝福として、どんどん神から離れ去ってしまうわけです。
パウロはそうした人間的な思いで教会を形成することは不可能であり、まさに教会は礼拝において、神の言葉に忠実であることをもって、この世の悩み・苦しみの中で、神の憐みによって成長することを証言しています。
うちの教会のある信徒の方から、「うちの教会は病人ばかりだ」と少し自虐的に言われました。
確かに、わたしどもの教会は若い人は少なく、高齢者がほとんどで、どこかしら病気を持っている方がほとんどです。表面的には健康そうに見えても、そうでない人ばかりです。
しかし、むしろわたしはこの教会が、そのような人たちによって神さまによって教会とされていることに深く感謝するのです。
「わたしたちの教会以上に、神さまに憐れんでいただいている教会があるだろうか?」と。
若い人が多い教会は、まさに若い人たちの熱意と力によって教会が維持されます。
ところが、わたしどもの教会はそうした力も何もありません。しかし、そうした何もないところにおいてこそ、神さまはわたしたちを深く憐れんでくださり、この教会に人を招いてくださるのです。それは、わたしたちが特別何か努力をしているわけでない点において、まさに私ども教会において神さまが助け守ってくださっているということが「真実である」と言うことができるのです。
もし、わたしたちが何かしら頑張っていたとしたら、そうした理解に至ることも可能だとは思いますが、しかし、「実感として」、どれほど神の助けを体験し、認識できるかと言えば、かなりの違いがそこにはあるのではないかと思います。
中には、無理矢理?に「感謝」「ハレルヤ」と、自分(たち)自身に言い聞かせているような教会もありますが、「実感のない」にも関わらず、「感謝」ということを本気で言うことはできません。
その意味で、キリスト教信仰は自虐的ではありません。表面的に見ればそのように見えるかもしれませんが、神の憐みを経験する人にとって、「感謝」という言葉はまさに「神さまの憐みを受け、深く慰められた」からこそ「感謝」の言葉が出るのであって、「苦しくても、『感謝』と言っていれば、神さまが祝福してくれる」というようなものではありません。
確かに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)という事も言われていますが、その背後には、「真実をもって神の言葉に従う」という信仰生活、そうした教会において「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という事が言われているのであって、牧師や信徒の自己中心的な思惑を実現するために、そうしたことが勧められているのではありません。
そして、だからこそ「真実の神の言葉」が大切にされる教会であることは、教会が教会であるための生命線であり、まさにそうした教会であり続けることができるようにと、常に神の御前に願っております。
1)こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
2)かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
3)わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
4)この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
5)わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。 教会もキリスト者も、共にイエス・キリストの十字架と復活によって示された「神の救い」、すなわち、この「神の救い」をこの世において「証しする」ことが、キリスト者にとって、またキリスト教会にとっての存在意義です。
パウロはそうした、「神の救いを証しする」ことが、実に多くの苦難に満ちていることを、その経験(Ⅱコリント11:16以下)から確信していました。
すなわち、パウロはコリントの教会の信徒数や献金の額が多いことが、この世におけるコリントの教会が「真に教会である」ことの指標とすることなく、むしろ、この世において、コリントの教会が、この世の様々な悩みや苦しみに直面しつつ、しかし、そのような中にあって、神の祝福と導きによって、教会が形成されることこそ、コリントの教会がまさにこの世においてイエス・キリストを土台とする教会であることの指標であるとしました。
だからこそ、パウロはここで、そうしたこの世の中にあってキリスト教会が困難に直面しているという事について、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(1節)と告白しているのです。
しかし現実はコリントの教会においては切実なものであり、コリントの教会から雄弁家であったアポロが去り、また巡回する十二使徒たちの教会からの伝道者たちが去り、そうしたなか、コリントの教会員だけの状況になり、そこにおいて教会の人々は、やはりこの世的な伝道方策や、あるいは当時において大勢であったユダヤ教に吸収合併されることも良しとする考え方に傾倒したのです。
わたしたちの教会もそうですが、いわゆる伝道をして、すぐに人が増えるわけでもなく、教会としての年月が過ぎていくと、当然、教会の中もマンネリ化し、そうしたマンネリ化を打破するために、牧師も信徒も、「あれをやって信徒を増やそう」「これをやったら教会に人が来るようになる」と、そうしたこの世的なものの考えにて、教会をあたかも一種の商売として、この世に対してキリスト教の売り込みをしようという事に陥るのです。
パウロはそうした、いわゆる「信仰的な下心」による教会の行動に対して、「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだね」(2節)ようと、むしろ、そうした「信徒を増やそう」「献金を増やそう」というような神の御前における「卑劣な隠れた行い」を捨てて、また「悪賢く歩まず」、イエス・キリストが真実をもって十字架の死に至るまで忠実に歩まれたように、自分たちもイエス・キリストの真実さに倣って、「神の言葉を曲げず」「真理を明らかにする」ことによって、むしろ、自分たちはこの世において、ただ礼拝を守り、神の言葉に忠実であることを通じて、神と人との前に、すなわち、この世に対して、自分たちが真にキリスト者であり、キリスト教会であることをもって歩むことを勧めるのです。
それは、自分たちがあの手この手で、すなわち「信仰的な下心」をもって信徒を獲得しようとするのではなく、むしろ、自分たちがこの世においてキリスト者として真実に生きるという姿勢をもって、「教会に行く・行かない」の判断を、「すべての人の良心にゆだねる」ことを言うのです。
当然、その裏には、コリントの教会において、まさに「悪賢く」「神の言葉を曲げ」という事が起こっていたことを意味します。
神の知恵ではなく人間的な「悪賢さ」。真実な神の言葉ではなく、そうした人間的な「悪賢さ」によって捻じ曲げられた神の言葉が語られている。
礼拝説教を良く聞いてみてください。
本当に「神の言葉」が語られているでしょうか?
それは、人間的な悪賢さによって捻じ曲げられた神の言葉ではないでしょうか?
教会の礼拝において語られる説教は、まさにこのいずれかです。「神の言葉」かそれとも「偽りの神の言葉」か。それは見かけ上、同じように見えますが本質的においては決定的に異なるのです。
それはまさに「善と偽善」の違いであって、善は神から出ますが偽善は人間の罪から出てきます。
そして、現実問題として、まさにコリントの教会が経験したように、そうした「信仰者の偽善」が、キリスト教会いおいては大きな問題となるのです。
中には、教会が全体として、そうした「偽善」に走っているケースも珍しくはありません。
たとえば、なぜ、「教会にリーダーが必要なのでしょうか?」
教会には「リーダー」なるものが存在しなければ、教会を組織し、運営することができないのでしょうか?
むしろ、プロテスタント教会が「万人祭司」の信仰に立つのであれば、そうした「リーダー」なるものは一体どういう存在なのでしょうか?
「ここの教会には青年が多いです」ということを言うキリスト教会の特徴は、すなわち、教会という組織において、その青年たちに、教会組織におけるポスト、すなわち「居場所」を提供しているのです。当然、そうした「自分の居場所」を求める青年は多く居ますから、「自分の可能性」を信じる青年は、そうした「自分の居場所」を提供してくれる教会に集い、そうした教会が青年で溢れかえるということは、別に神の祝福でもなんでもなく、ただ「青年のニーズと教会の提供するサービスが一致した」というだけであるわけです。
教会が青年に対してそうした居場所を提供する。
そのこと自体は間違ってはいません。わたし自身が、まさにそうした形で教会に導かれ、わたし自身の経験で申し上げれば、わたしは音楽が好きだったから教会に行き、そうしたわたし自身の趣味と教会の提供するものとが一致したために、今日に至ったということも言えるからです。
しかし、それは信仰的と言えるかと言えばそうではありません。
わたし自身の経験を言うのであれば、わたしはそうした自分が音楽が好きでみんなの前で音楽を披露できるという自分自身の欲求をただ満たそうとして、キリスト教会を利用していたという自分にある時、気が付いたのです。
わたしは、他の人よりも熱心に教会の礼拝に出席し、まさに他の人たちが都合で奏楽の奉仕ができず、ピンチヒッターのような形で奏楽をすることが大好きでした。
他の奏楽者の機会を奪ってでも自分が奏楽の奉仕ができることに、当時、わたしはその罪深さにまったく無頓着でした。
音楽が好きで教会に行くようになる。そのこと自体が否定されるわけではありません。しかし、本質は、教会はわたしたち信仰者ひとりひとりが自分勝手を行ってよい場所ではなく、あくまでも「公の場である」ということです。教会は牧師のものでも、また信徒のものでもなく、ただ神さまのものであるのです。
当然、それは牧師であってもまた信徒であっても自分勝手にして良いものではありません。問題は、教会において「奉仕」と「自分のやりたいこと」とは決定的に違うということです。
パウロは、教会がまさにそうした「イエス・キリストを宣べ伝える」場所であり、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」(5節)と。
すなわち、教会は「リーダー」たちの自画自賛の場ではなく、またストレス発散の場でもなく、牧師においては、牧師はまさにそうした教会に仕える者であって、アポロがまさに雄弁家として、まさにコリント教会の宣教リーダーとしてコリントの教会をグイグイと引っ張ったように引っ張ることが求められているのではないということなのです。
教会はまさにイエス・キリストをこの世において、礼拝を守ることを通じて、福音を証しするところであり、キリスト者はまさにその礼拝において、自分の罪を悔い改めることをもって、福音を証しするのです。
では、教会は若い人たちに対して、そうした居場所を提供してはならないのでしょうか?
そうではありません。
仮に居場所を提供するのであれば、それは神さまであって、わたしたちではなく、また教会でもないということです。それは「自分の居場所」は別に「若い人」に限定されるものでもありません。むしろ、すべての人に対して教会はまさに礼拝という居場所を提供しているのです。
それはイエスさまの次の御言葉にも明らかです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)
教会は礼拝を守る場所であって、それ以外のものではありません。
そして、イエス・キリストはまさに、わたしたちすべての者を、まさに礼拝に招いておられるのです。
それはイエスさまが招かれる招きによるものであって、わたしたち人間の信仰的な下心による宗教勧誘によるものではありません。
そうなると、教会は礼拝や祈祷会などの他には、ほとんど行わないということになります。
むしろ、それが良いのです。
なぜなら、自分たちが伝道をしないのであれば、その教会に招かれる人すべてが神さまの導きによるものであることが分かるからです。
少しでも自分たちの努力によって教会に人を招いたとしたら、その教会は、以後、自分たちが人を教会に招かないといけなくなります。そして、そうした教会に人が増えたとすると、牧師も信徒もなおさらそうした「宗教勧誘」の手法に熱心になり、そうした伝道活動はより加速します。
しかし、教会の難しいところは、そうした人間的努力によって急成長した教会が、そのまま成長し続けることはなく、ある程度のところで礼拝出席も献金額も頭打ちになってくるのです。そして、その教会は、そこでいろいろと悩むのです。
そうした状況に陥った教会において、もはや「神の導き」なる不確定要素の強い選択肢は選択できません。
今までみんなで頑張ってきた事によって現在の繁栄があるわけですが、そうした教会の牧師も信徒も、「礼拝や祈祷会以外の特別なことを一切やめる」というような選択は、あまりにも「無策」と同じであって、「そこに神の祝福があるはずがない」と考えるのです。
以前、牧師の口から「羊飼いが羊を増やすことはできず、羊が羊を増やすのだ」という話を聞いたことがあります。
当時は、そうした話を聞きながら、何となくそういうものだと納得していましたが、そうではありません。
信仰においては「神が羊を増やす」のです。
それはまさに信仰的な「賭け」であり、「礼拝(祈祷会など)以外の何もしない」というのは特にプロテスタント教会においてはナンセンスと受け取られることがほとんどです。
しかし、パウロが戦った信仰の戦いとはまさに、神にすべてをお委ねするという戦いではないでしょうか?
今日の教会における大きな誘惑は、そうした意味では、「羊が羊をどのように増やすのか?」ということが教会のあるいはキリスト者の至上命題になっているということです。
そして、そうした「羊が羊を増やす」ことに熱心な教会は、当然、「羊がより羊を増やせるように」と願い、そうした人間的な手法により、そして、そうした数量的成功をまさに神の祝福として、どんどん神から離れ去ってしまうわけです。
パウロはそうした人間的な思いで教会を形成することは不可能であり、まさに教会は礼拝において、神の言葉に忠実であることをもって、この世の悩み・苦しみの中で、神の憐みによって成長することを証言しています。
うちの教会のある信徒の方から、「うちの教会は病人ばかりだ」と少し自虐的に言われました。
確かに、わたしどもの教会は若い人は少なく、高齢者がほとんどで、どこかしら病気を持っている方がほとんどです。表面的には健康そうに見えても、そうでない人ばかりです。
しかし、むしろわたしはこの教会が、そのような人たちによって神さまによって教会とされていることに深く感謝するのです。
「わたしたちの教会以上に、神さまに憐れんでいただいている教会があるだろうか?」と。
若い人が多い教会は、まさに若い人たちの熱意と力によって教会が維持されます。
ところが、わたしどもの教会はそうした力も何もありません。しかし、そうした何もないところにおいてこそ、神さまはわたしたちを深く憐れんでくださり、この教会に人を招いてくださるのです。それは、わたしたちが特別何か努力をしているわけでない点において、まさに私ども教会において神さまが助け守ってくださっているということが「真実である」と言うことができるのです。
もし、わたしたちが何かしら頑張っていたとしたら、そうした理解に至ることも可能だとは思いますが、しかし、「実感として」、どれほど神の助けを体験し、認識できるかと言えば、かなりの違いがそこにはあるのではないかと思います。
中には、無理矢理?に「感謝」「ハレルヤ」と、自分(たち)自身に言い聞かせているような教会もありますが、「実感のない」にも関わらず、「感謝」ということを本気で言うことはできません。
その意味で、キリスト教信仰は自虐的ではありません。表面的に見ればそのように見えるかもしれませんが、神の憐みを経験する人にとって、「感謝」という言葉はまさに「神さまの憐みを受け、深く慰められた」からこそ「感謝」の言葉が出るのであって、「苦しくても、『感謝』と言っていれば、神さまが祝福してくれる」というようなものではありません。
確かに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)という事も言われていますが、その背後には、「真実をもって神の言葉に従う」という信仰生活、そうした教会において「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という事が言われているのであって、牧師や信徒の自己中心的な思惑を実現するために、そうしたことが勧められているのではありません。
そして、だからこそ「真実の神の言葉」が大切にされる教会であることは、教会が教会であるための生命線であり、まさにそうした教会であり続けることができるようにと、常に神の御前に願っております。