山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

2014年07月

コリントの信徒への手紙1 15章3~8節、11~12節
3)最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4)葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5)ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6)次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
7)次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
8)そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 

11) とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
12)キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。


 パウロがコリントの教会の人たちに伝えたイエス・キリストの福音というのは、まさにこのパウロが 3)~5)節のところで語っている内容です。

 そして、まだパウロがこうしてコリントの教会やその他の地域にある教会に宣教を行っていた当時、まだ、大部分の人々は生きていたのです。

 ところが、そうしたイエス・キリストを信じる信仰において、今日のわたしたちよりもずっと時代の近かったコリントの教会の人たちにとって、既に、「イエス・キリストの復活は無かった」と信じる人たちが、コリントの教会の中で起こっていたというのです。

 コリントの教会がなぜ、そのような「イエス・キリストの復活は無かった」というふうに信じる人たちが増えたのか? その理由について、パウロはこのところで詳しく説明しません。

 しかし、わたしたちがこれまでのコリントの信徒への手紙を読んできて、その理由が当然、「これまでのところで書かれているからだ」とするのであれば、それは、コリント教会の信仰が正しいキリスト教信仰から離れて、全く別の偶像崇拝になってしまったからだと見るのが自然であると思うのです。

 では、その偶像崇拝とはいったいどういうものでしょうか?


 上記の引用聖句で分かりますが、正しいキリスト教信仰は何かと言えば、まさにパウロが3)~5)節で語っている内容です。

 すなわち、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるための必要条件が、「イエス・キリストを信じる」とわたしたちが言った場合の、その信仰の具体的な内容です。

 これはきわめて基本的な事柄ですが、この世にあって、キリスト教会がキリスト教会であるための絶対条件ともいえるものであると思います。

 それは何かと言えば、この世において、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるために必要なことは、すなわち、「その教会において、正しくイエス・キリストが信じ告白されている。」ということです。

 それを、更に詳しく言えば、パウロが3)節で言っているように、わたしたちが手にしている『聖書』は、まさにイエス・キリストを証しする書物であり、『聖書』はあくまでも、「イエスがわたしたちの救い主である」ということを指し示すものであるということです。

 そして、では、「イエスがわたしたちの救い主である」ということは、更に具体的に言えば何かというと、それは、「イエスさまは、わたしの罪をその十字架と復活によって赦してくださり、新しい命に生きることができるようにしてくださった」という、罪の告白と罪の赦し、そして、罪を赦された者の新しい命への招き(悔い改め)が、キリスト教信仰においてもっとも大切なものであるというわけなのです。

 すなわち、礼拝も聖餐式も、そこで重要なのは、聖書の言葉を通して、聖霊の助けによってわたしたちに語られる神の言葉(わたしたちの罪・弱さを教え諭してくださる言葉)が、常にきちんと、正しく語られ、そこにおいて、そうした礼拝や聖餐式においてわたしたちの「罪の告白と悔い改め」(信仰の応答)が正しく行われているということが大切なことなのです。


 ところが、おそらく、コリントの信徒への手紙1を読んでいて分かるのは、たとえばアレキサンドリア出身の雄弁家であるアポロ(要はカリスマ的な指導者)や、教会の中で異言を語る女性たち(要は神秘体験)の出現。それ以外にも、信徒の間における確執や分派といった様々な問題が教会の中で起こったということなのです。

 それは、個別具体的に説明すれば長くなりますが、ごく簡単に結論だけを言えば、すなわちキリスト教会という名の偶像崇拝にコリントの教会が陥ってしまったということなのです。


  キリスト教の礼拝とは、その本質において「罪の告白」と「罪の悔い改め」が、その最大の関心事です。

 その意味で、キリスト教礼拝は人間にとっての「娯楽」ではありません。


 旧約聖書においては偶像崇拝の代名詞として「バアル(神)崇拝」があげられます。バアル神というのは、いわゆる日本で言うところの「五穀豊穣の神」であって、その象徴としてふくよかな男女の裸であるとか、性器をシンボル化したものがつかわれます。

 旧約聖書の申命記に以下の記述があります。

 「イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない。」(申命記23章18節)

  この事が意味するのは、旧約聖書の時代において、実際問題として、イスラエルの神殿においてそうした宗教的・売春行為が行われていたことがあったということなのです。

 では、なぜ聖なる場所であるはずの神殿が売春行為の場所となったのか?

 その理由がバアル神であるのです。バアル神は主に男神の像と女神の像と大きさの異なる二種類の像がつかわれます。バアル神崇拝では、この男神と女神とが性的に交わることによって大地の作物が豊かに実るものとして考えられていました。

 だからこそ、男神と女神が性的に興奮するように、そうした男神像と女神像の前で人間の男女が性行為を行うのです。 すると、より興奮した男神と女神はそれによってより強く結ばれ、その年は豊作になるだろうというわけです。 こうした男神・女神の交わり、男女の性に関わる祭儀は、バアル神に限らず、日本国内にもいたるところにあります。


  では、なぜそうしたバアル神崇拝がイスラエルの信仰に入ってきたのでしょうか?

 おそらく理由はごく単純で、「イスラエルの信仰は人間的につまらないから」です。


 今日のキリスト教信仰もそうですが、「自分自身の罪を深く悔い改める」とは、決して面白くも楽しいものでもありません。むしろ、わたしたちはそうしたことには目をつむって、何か楽しい別の事をと考えるのです。

 旧約聖書に登場する神殿での正しい祭儀も同様で、それは人間的には魅力に欠けるものでした。


 だからこそ、昔の人たちも、「より多くの人が神殿に集まるように。」「より祭儀を充実させたい。」というような、人間的な発想から、近隣諸国の宗教祭儀で、取り入れられそうなものを少しずつ取り入れ始めたのです。

 そして、いつの間にか、イスラエルの神殿には多くの人が集まるようになり、また多くの献金やささげものが奉げられるようになったのです。

 ところが、それは信仰とは名ばかりで、信仰を口実にして、同時の宗教的指導者たちがやりたい放題をやったのです。

 当然、神殿には多くの人が訪れるようになり、それまで魅力のなかったイスラエルの神殿祭儀は、目を見張るほどのものになったのです。そこでは神殿娼婦や神殿男娼が、イスラエルの神を崇拝する目的でにぎわっていたのです。

 

 さて、 上記の例は当然、旧約聖書においてイザヤやエレミヤといった時代の話です。ところが、まさにその形を変えたものが、パウロの生きていた時代、コリントの教会において起こっていたのです。当然、そこには神殿娼婦や神殿男娼という存在はいなかったかもしれませんが、しかし、性的関係の堕落、アポロや女性霊能者のようなカリスマやあるいは心霊現象などをキリスト教信仰に持ち込んで、それがコリントの教会の問題となったのです。

 当然、それはコリントの教会だけの問題でなく、今日のわたしたちの教会においても同じです。


 今日、「福音は喜びであるから礼拝・教会は楽しくなければならない。」、あるいは「教会に魅力がないから人が集まらないのだ。」という声を聞きます。

 しかも、まさにそうした声に沿う教会こそが信仰的に正しい教会であるかのように聞きます。 しかし、それは本当にそうでしょうか?


 おそらく、パウロに言わせれば、「そうしたものはすべて偶像崇拝だ」ということになるかと思います。

 キリスト教、あるいは教会の魅力とは何でしょうか? それは決して「面白い・楽しいこと」ではありません。


 キリスト教、キリスト教会の魅力とは、イエス・キリストの救いであって、その他はありません。

 また、「福音が喜びである」というのはその通りですが、その「福音の喜び」は常に、わたしたち具体的な人間の罪の赦しによるものであって、それ以外の何かに由来するものではありません。



 キリスト教信仰において、わたしたち人間は等しく誰もが罪人であり、神の御前において不完全な存在です。

 そのような罪深い、弱い存在であるわたしたちが神さまの御前に出ることは、本来は不可能なのです。

 しかし、神さまはイエス・キリストをこの世にお遣わしになり、その十字架と復活の出来事をとおして、わたしたちの罪を赦し、わたしたちが神さまを礼拝することを可能にしてくださったのです。

 その意味で、礼拝の本質的意味は、それは確かにわたしたち参加者が神さまに対して共同で行う宗教行為ですが、本質的には、神さまが自分自身を救うことのできない罪深い、弱いわたしたちを深く憐れんでくださり、神さまの方から、神さまに近づく資格を持たないわたしたちに近づいてくださり、今日においては聖霊の助けによって、わたしたちは常にイエスさまと神さまと近く居ることを可能にしてくださったということなのです。

 その意味で、礼拝とは、わたしたちの感覚からすれば、「そこに出席するもの」ですが、信仰においては、そうではなく、「礼拝を通じて、神さまがわたしたちを招き、わたしたちに近づいてくださる出来事」なのです。

  そして、イエスさまはわたしたちを犯した罪によってその場で裁くことをしませんが、しかし、だからといってわたしたちが罪に留まることを良しとしてくださっているのではなく、むしろ、信仰者として生きるその人生において、自分の意志によって神の御前に罪を告白し、悔い改め、神の御言葉に聞き従う人生を歩むようにとわたしたちに願い、わたしたちの不忠実さにも関わらず、わたしたちと共に居て、罪の告白のとりなしをしてくださっているのです。

  そういう意味で、わたしたちはひとりひとりがイエスさまから深い憐みと信頼をいただいているのです。

 だからこそ、わたしたちは礼拝で、まさに神さまに罪赦された者として、御前に出ることが許されたことの喜び、感謝しつつ、主の御名を礼拝し賛美するのです。

 当然、それが真剣にそのとおり行われているのであれば、礼拝は誰にとっても素晴らしいものであり、喜びに満ちたものであるのです。



 しかし、そうした喜びが、またそうした本当の救いが礼拝にないという時に、教会は別の魅力である「偶像」へと走るのです。その時、牧師はあの手・この手で教会に人を招こうとするでしょう。

 「教会に、あるいは礼拝に魅力がないから、もっと教会や礼拝を魅力のあるものにしよう!」

 「偶像」とは、いわゆる別の神の像ということではなく、むしろ、人間の内なる欲望を信仰的な対象化したものであって、何かの実体があるわけではありません。例えば、「100人礼拝」「1000人教会」というような、教会の中で呼び掛けられる、信仰の本質とは無関係な一種のイデオロギーのようなものかもしれません。あるいは、牧師の個人的な欲望かもしれません。


 一見、信仰的に正しいように聞こえますが、まったくのナンセンスです。「この教会には、キリストの救いがありません」、あるいは「この教会はキリスト教会ではありません。」ということを神の御前に告白しているのと同じです。

 信仰の喜びは人間が作り出すものではなく、神さまの憐みによって、ひとりひとりに与えられるものです。

 当然、罪を悔いない、あるいは悔い改めないところに救いの喜びはありません。


 その意味で、そうした「信仰の本質とは無関係な何かしらの魅力を打ち出している教会」というのは要注意です。




 「キリスト教会はキリスト教会である」というのは、当たり前というか、まさにその通りなのですが、案外にも、わたしたちの身の回りには「偶像を崇拝するキリスト教会のようなキリスト教会」が多いのではないかと思う今日この頃です。

コリントの信徒への手紙14章1~4節、14~20節、23~25節
1)愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
2)異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
3)しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 
4)異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。

14) わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。
15)では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
16)さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。
17)あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。
18)わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。
19)しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
20)兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。

23)教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。
24)反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、
25)心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。


 教会における異言による祈りは、パウロの時代から存在し、今日の教会にもやはり見ることのある現象です。

 パウロは自分自身で、「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」(18節)と言って、自分自身が当時のコリントの教会の誰よりも多くの異言を語ることのできる者であることを、神の御前において告白しています。

 すなわち、パウロは当時のコリントの教会において誰よりも異言を語ることができる、そうした賜物を備えた人物であったのです。


 しかし、パウロにとってそうした「異言を語れる」ということが教会において何か意味を持つのかというと、そうではないことをパウロは言っています。

 なぜなら、2節においてパウロが言っているように「異言」とは、いわばキリスト教信仰に基づく霊的現象であって、それは神に向かって発せられる言葉であって、人間にはわからない言葉であるからです。

 だからこそ、パウロは先の13章の冒頭で言っているように、それは教会や礼拝といった秩序の求められる場には不適合であり、むしろ、それよりも預言が語れることの方が大事であることを力説するのです。


 当時のコリントの教会において、そうした異言による祈りが礼拝において行われていたことをパウロは前提としています。しかし、そうした礼拝における異言はむしろ人々が神に向かうためには不要であり、それよりも大切なのは、人間を自分自身の罪の自覚と罪の悔い改めへと導く預言こそが大事であることをパウロはここでいうのです。

 それは、19~20節において、「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」(コリントの信徒への手紙1 14章19~20節)とあるとおりです。

 
 今日のキリスト教会においても同様ですが、当時のコリントの教会においても、やはり理性ではなく、むしろ感覚的に神を理解しようとする事が多く行われていたのです。なぜなら、そうした不思議な業、他の人が真似のできないような特殊な現象を起こせることは、いつの時代においても「自分たちの信仰が本物であることの証拠」として利用されやすいからです。

 しかし、わたしたちは「異言」を語れるからといって、それが教会のためにはならないことをパウロは「物の判断については大人になってください」と忠告するのです。

 むしろ、それよりも「悪事については幼子となり」とあるように、幼子のような純粋な心で悪事(人間的計略・謀略)から離れると共に、そうした教会の中における物事の判断については、まさに大人として、何が信仰的に良く、何が悪いのか、そうした自分たちの罪に対する極めて深い洞察力を身に着けることによって、そして、そうした神の御前において正しい教会を築きあげることが大切であるというのです。


 そうした、自分たちの罪について非常に深い洞察力、パウロのいうところの理性を培った教会に、ひとたび外から神の救いを求める人が加われば、『反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。』(24・25節)とあるように、その人は、教会の人々が語るその預言の言葉、すなわち、自分自身の罪を諭す言葉、罪の告白の言葉を耳にすれば、 その人も自分自身の罪を自覚し、心の内に隠していた罪をすべて明らかにされることによって、ただ、それは決して、その人を断罪し、罪人として告発するのではなく、あくまでも自分自身の内なる罪の告白として、たちまち神の御前に信仰をあらわすことへと導かれるであろうというわけです。


 すなわち教会における理性の言葉、預言の言葉とは、すべてが信仰者による自分たちの罪の告発の言葉であり、人間の言葉を告発する言葉である限りにおいて、それはさまにイエス・キリストの言葉として、わたしたちの罪を明らかに、その罪を赦してくださるというその救いを実現してくれる言葉となるのです。

 教会はその意味で、神の御前に常に自分たち信仰者としての罪がどのようなものであるのか、そうした事柄に敏感であることが求められるのです。


 ところが、異言は、そうした教会の中における自分たちの罪の告白とは、直接的に関係のないものであって(意味が分からない言葉なので)、異言がそうした教会においてキリスト者の信仰を深める事にはならないのです。

 むしろ、それはキリスト者の信仰を、自分の罪の認識から、目を逸らせる意味においてむしろ教会においては害となるのです。だからこそ、パウロは自分は誰よりも異言が語れるけれども、そうした異言において1万の言葉を語るよりも、理性において5つの言葉を語ろうと言うのです。



コリントの信徒への手紙1 14章26~40節
26)兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
27)異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。
28)解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。
29)預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。
30)座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。
31)皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。
32)預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。
33)神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、
34)婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。
35)何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。
36)それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
37)自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。
38)それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。
39)わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。
40)しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。 

 さて、このところはいろいろと今日的には解釈の上でパウロによる女性蔑視の奨励というような感じで、実に問題がある箇所です。

 しかし、パウロは一般論として「女性は教会の中では発言権がない」ということを言おうとしているのかといえば、そうではなく、あくまでも、この発言は、コリントの教会の抱える一つの具体的な問題として、この事を言っていると理解するのが無難であると思います。

 すなわち、この箇所を丁寧に読むのであれ、コリントの教会における一つの具体的な問題として、教会の中で秩序を乱し、異言を語る女性のキリスト者が居たということです。しかも、一人ではなく、そうした女性が数人居たことがうかがえるのです。

 以下はわたしの個人的な推測ですが、おそらく、コリントの教会において、いわば女性霊能者のようなグループが起こっていたのだと思います。そして、そうした女性集団の特徴が異言による祈りであったのです。しかも、そうしたグループが特定のメンバーだけに縛られることなく、むしろ、コリントの教会の中でひとつの運動として広がりを見せていたのです。

 そして、いつしか、コリントの教会で異言を語れる女性こそが、教会において預言を行う資格があるような風潮が起こったのだと思います。それは一種の女性霊能者による教会形成のようなものであるかと思います。そして、それ以外の預言が信仰においてはむしろ無意味なように言われていたのだと思います。

 「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。」(36節)

 この御言葉は、すなわちそうした女性霊能者のような人々が、「自分たちこそ神の言葉を語っているのだ」というふうにしていたことを示していると思います。

 そして、当然、コリントの教会における奉仕者の中でそうした女性霊能者集団の位置づけが問題となり、パウロはそのことを13章から14章にかけて、そうした霊的な現象を求めるのではなく、むしろキリスト教会はイエス・キリストの愛を実現するものであり、それは理性と秩序が大切であることを説いたのです。

 そして、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。」(34節)と言っている言葉は、まさに今日的には教会において女性の発言が認められていないことを言っているわけですが、この言葉も、やはり、そうした背景を元に読むのであれば、当然、「婦人たち」というのも、おそらくはそうした女性霊能者集団のメンバーを指して言っているものであることがうかがえるのです。

 そして、「許されていません」とは、その度合いが厳しい意味において、よほど彼女たち女性霊能者集団の行いが問題となっていたことが理解できるのです。

 しかし、パウロがここで問題としているのはあくまでも「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、」(33節)で言っているように、 教会において大切なのは、一にも二にもそうした秩序であって、それは当然、イエス・キリストの言葉、神の言葉の支配にもとづくものであり、大切なのはそうした信仰に基づく秩序、すなわちイエス・キリストの平和が実現されていることが大切なのです。

 それは、教会の中における異言の現象を禁じることにあるのではなく、そうした異言が行われるのであれば、それはきちんと秩序立てて、キリストの平和を実現するように用いられなければならないのです。

 その意味で、パウロが異言について言おうとするのは、異言について、それを禁止するとは言わないけれども、特にキリスト教信仰を持たない人がいる場においては異言は行うべきではない、ということなのです。

 

 コリントの信徒への手紙1 13章1~3節、13節
1)たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
2)たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3)全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 

13)それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。



 この聖書箇所は、よく結婚式の時に式文として使われる有名な聖書箇所です。

 しかし、当然、パウロは結婚式を前提としてこのことを書いているのではありません。


 はやい時期の教会においては、一種の霊的なカリスマである異言、預言、いやしといった事が行われていました。当然、それはイエスさまの生きていた時代にさかのぼるものでありますが、福音書において、弟子たちが町や村を巡って悪霊を追い出し、いやしを行い、様々な奇跡をおこなった伝統は、エルサレムから遠く離れたこのコリントの地にある教会においても、同様に、一種の権威であったのです。

 そして、まさにそうした賜物、すなわちたとえばアポロのような雄弁家としてのカリスマをもった人物や、その他のカリスマをもった人々がコリントの教会をけん引するようになり、しかし、コリントの教会はそうしたことも原因のひとつになって、まさに教会分裂の危機を迎えていたのです。

 パウロは、そうしたコリントの人たちに対して、それは「コリントの信徒への手紙2 12章」において、パウロは知人のこととして、自分の経験を語っていますが、パウロ自身、教会において、そうした霊的カリスマについて、完全に否定するのかというとそうした現象があることは否定しません。

 しかし、問題は、そうした霊的カリスマが「真に教会を成長させることはない」ということを、パウロはこのところで言おうとしているのです。

 それは、霊的なカリスマだけに留まらず、3節において「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」と、すなわち自分の全財産を教会にささげることや、あるいは、教会のために殉教をしようが、「そうした事柄はいっさい教会の成長のためにはならない」ということをパウロは言っているのです。


 なぜなら、教会はまさに信徒ひとりひとりによって支えられるのが教会であり、その信徒ひとりひとりを支えるのは、まさに神の助けであるからです。そのようにして、全体として教会が教会として活動できることが、まさにその教会が神の教会であることの証拠であるわけです。

 ところが、コリントの教会は、そうした「みんなで支えあう教会」ではなく、「特定の有力信徒」によって教会の形成がなされたのです。

 それは、一見すると「正しいこと」のように見えますが、しかし、本質においては、それが特定の有力信徒によるものである点において、いくら人間的に見て正しい行いのように見えても、神の御前においては「偽善」であり、「罪」にすぎないのです。


 たとえば、教会がその地域に根差し、その地域に仕えるということを目標にして、たとえばチャーチスクールや介護施設など、そういった公共的な役割を担うことをします。

 イエス・キリストの命令により、「隣人を愛しなさい」という御言葉に従って、そうした地域に密着した働きを教会が行う。

 当然、だれもそのことが神の御前において「罪」であるとは考えません。


 キリスト教会が置かれた場所において社会福祉のため、あるいは産業を興すといった、そういった事を行うことは決して「犯罪」ではありません。

 しかし、パウロに言わせれば、それは「偽善」に過ぎないのです。

 ではなぜ、そうしたことが「偽善」と言えるのでしょうか?


 理由は簡単で、「教会はそうしたチャーチスクールや介護施設の維持・運営といった社会事業の運営を、その地域に対してどこまで責任をとることができるのか?」ということです。

 つまり、「教会が可能である間はそうした事業を行うけれども、できなくなったやめる」では、その地域に対して非常に無責任になってしまうからです。

 歴史的に見て、カトリック教会の例をあげれば、カトリック教会はそうした社会的な事業を必要に応じて行いますが、それは教会本体として事業を行うのではなく、教会はあくまでもミサ、すなわち礼拝をおこなう場所であるとして、そうした事業は別団体の仕事として、教会とは全く分離して行うのです。

 「困っている人がいるから、教会が何かをしてあげましょう。」ということは、そういう意味では教会にとっては大きな誘惑です。


 困っている人をかわいそうに感じるのは、わたしたち人間にとって決して悪いことではありません。しかし、問題は、そうした人を「一時的に」助けるだけで済めば良いのですが、場合によってはそれがその人の生涯に関わるものである場合に、わたしたちはどこまでその人に対して責任を全うできるのか。

 もし、その責任が負えないというのであれば教会は手を出してはならないのです。


 しかし、わたしたちキリスト者の内には、信仰による「正義感」があり、困った人を見捨てるわけではありませんが、見て見ぬふりをすることは、やはり「手を貸す」以上に困難を覚えるのです。

 パウロは、キリスト者が自分の持つ全財産を使い果たしてまで、貧しい人たちのために善行を行うことを良しとはしません。なぜなら、それは貧しい人たちにとって、何の根本的な問題解決にならないからです。そこに残るのは、「全財産を貧しい人たちのために使った」という自己満足だけです。

 あるいは、まさにイエス・キリストがわたしたちの救いのために、自分自身の命を十字架上で捨てられたことに倣って、わたしたちも教会のため、イエスさまのために命を捨てることが良しとされるかというとそれもありません。

 結局、こうした人間の思惑に基づく慈善、人間の思惑に基づく殉教も決して教会のためにはならないのだということをパウロはこのところで、コリントの教会の人たちに教えるのです。

 そして、パウロは、「では教会の中で何がいちばん大切か」ということについて、信仰と希望、そしてもっとも大切なものが、イエス・キリストから頂いた「キリストの愛」であることを、このところで主張するのです。

 

 キリストの愛とは、そういう意味では「隣人愛」として、それが表現されるように、それは「この世にあってわたしたちキリスト者がそうした貧しい人たちと共に歩む」ことを意味し、「貧しい人たちに対して施しをする」ことを意味しません。

 キリスト教会は社会実業家の集まりでも、政治家の集まりでもありません。

 教会は信仰共同体であって、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。

 わたしたちがなすべきは「神を礼拝する」ことであって、神を信じる信仰において、わたしたちはそうした貧しい人たち、困っている人たちと共に、この世にあって生きることが大切であるのです。

 それは「分かち合う」ということであって、「施す」「恵み与える」ということではありません。

 神を信じるというのであれば、人間の業ではなく、神のみ業によって、そうした人たちがキリストによって同じ人間として立ち上がることが尊重されるべきことであるのです。


 「かわいそう」という言葉は、その言葉の裏に「わたしはそうでないから良かった」という人間の傲慢があります。本当の意味で、そうした貧しい人たちに寄り添うのであれば、「かわいそう」と思うのではなく、まさにそうした人たちに寄り添い、この世に生きる友人として、共に神を礼拝すればよいのです。

 仮に、そこで友人として「何をして欲しい」ということがあれば、それに対して友人として応える。そうした、神の御前において、同じ人間として共に生きるということが、パウロの目指す信仰生活であり、教会のあり方なのです。



 コリントの信徒への手紙2 13章5~8節
5)信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
6)わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。
7)わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。
8)わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。

 パウロはコリントの信徒への手紙1の最後において、コリント教会の人たちに対して、自分自身の信仰を吟味しなさいということを伝えます。

 それはキリスト教信仰が、常に、自己吟味を必要とするからです。

 ナザレン教団は「きよめ派」に属する、「聖化」を尊重するキリスト教会です。


 この「きよめ」「聖化」が意味するのは、日々の信仰生活において毎日聖書の御言葉に親しみ、聖霊の助けによって示される自分の罪を日々悔い改める、そうした信仰をいいます。

 しかし、わたし自身、毎日自分の罪に気づいているかどうか、実際問題としては、なかなか見えていないことの方が多いのではないかと感じるところです。

 「きよめ」「聖化」とは言いますが、それは必ずしも「自分が神の御前においてきよくなった」という実感を持つものではありません。むしろ、わたしたちは聖書の御言葉に聞けば聞くほど、自分の罪深さを認識せざるを得ないのです。

 その意味で、「きよめ」「聖化」も、それは具体的には「自分自身の罪深さの認識」であって、決して、「神の前に清くなった」と感じることのできるものではありません。

 むしろ、そのようにして示された罪をイエス・キリストが赦してくださることに対して、わたしたちは深く感謝を覚えるという、「神さまの憐みに対する深い感謝の念を覚える」というのが、その実際のところであるのです。

 わたしたちはともすると、信仰者として、人間として、「神に近づいた」と感じることが、「きよめ」「聖化」を体験することだと考えてしまいます。しかし、言い方を変えれば、「人間が神に近づく」ということほど神の御前において罪深いことはないかと思います。

 人間は神に近づくことはできず、むしろ、わたしたちキリスト者は自分自身の罪深さを深く悔いるときに、わたしたちの背後からイエス・キリストがその憐みをもって近づいてくださるのです。

 わたしたちが神の御前において礼拝し、神を賛美し、祈る、その喜びの源泉は、まさにその事柄にあります。そして、それこそがわたしたちをキリスト者にする神の力であり、教会を教会とする真に神の力であるのです。

  

このページのトップヘ