山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

2014年05月


 コリントの信徒への手紙1は全体が長いのでまず、今回は1~2章について話を進めたいと思います。

 まず、コリントの信徒への手紙1 章11節に「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」(1コリント1:11)とあるように、事の発端は、コリント教会の教会員であるクロエの家のある人物からパウロに対して、コリント教会に発生したある問題についての相談がの連絡があったことにはじまります。


 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。(1コリント1:12~13)

 そのクロエの家のある人物からの知らせが記す当時のコリント教会の問題は、いわば「内部分裂」であって、コリントの教会の中に、例えるならパウロ派、アポロ派、ケファ派(ペトロ派、ユダヤ主義キリスト教)、キリスト派(パウロやアポロ、ケファといった人間ではなく、キリストを主とする派)という具合に、キリストの体である教会がいくつにも分けられてしまったような状況であることをパウロに伝えたのです。


 さて、なにやら話が複雑な様相なので、少し、使徒言行録などの記述にみるコリントの教会の成立について簡単に説明します。

コリントの信徒への手紙1に見る教会


 まず、コリントの信徒への手紙1の成立について、なぜ、このような手紙をパウロが記したのかを図にしたのが上のものです。①~⑦というのは出来事の順番を指しています。

 この説明をしますと、まず、そもそもコリントの教会のはじまりは、もともとローマのユダヤ人会堂においてメシア=イエス運動をおこなった首謀者に対して、当時の皇帝クラウディウスがローマ市からユダヤ人を追放するという出来事が起こります。

 その時、メシア=イエス運動の首謀者にアキラとプリスキラという夫婦がいたのです。二人はローマから追放され、活動の場を求めてイタリア州からアカイア州コリントの町へやってきたのでした。

 その時、パウロはマケドニア州のテサロニケから始まって宣教旅行を行っておりましたが、ユダヤ人の反感を買い、追われるようにしてアテネ、コリントと移ってきたのでした。

 そして、まさにこのコリントの町においてアキラとプリスキラ、そしてパウロが信仰を同じにする者同士(つまり、アキラとプリスキラはパウロの協力者であって弟子ではない)としてコリントの教会を興すのです。それが①の出来事です。

 その後、パウロとアキラとプリスキラは海をわたり、アジア州エフェソに赴きそこでエフェソ教会を指導するようになるのです。


 パウロはその後、エフェソから別の場所へと宣教旅行で移っていきます。それが③です。

 しかし、アキラとプリスキラはエフェソの教会に留まり教会を指導するのです。ところが、そうしている内に、エジプトのアレキサンドリアから聖書に詳しいユダヤ人雄弁家のアポロという人物がエフェソへとやってきます。そして、アポロがメシア=イエス運動を行っているという噂を聞きつけ、アキラとプリスキラはアポロを招いて、「聖霊による洗礼」を教えるのです。それが④です。


 さて、その後、アポロはもともと「アカイア州に行きたい」という願いを持っていたことから、アキラとプリスキラは、アカイア州にある教会であるコリントの教会に手紙を書き、アポロに手紙を持たせて送り出したのです。

 ところが、コリントの教会におけるアポロの活躍は、決して、良い結果だけをもたらしたわけではなかったのです。それが⑤です。

 コリントの教会の中に分裂の危機が訪れ、それに心を痛めたクロエの家のある人物が、そうした状況をパウロに知らせた。それが⑥です。

 そして、パウロはそうしたコリントの教会の状況を何とか信仰的に解決しようと、コリントの信徒への手紙1を記したのです。それが⑦です。


 さて、パウロによるコリントの信徒への手紙が書かれたいきさつはおよそ上記の通りとなります。

 なお、パウロがこの手紙を書くきっかけとなった「雄弁家アポロ」については、以下のところにまとめてありますので、そちらをご覧ください。-> 「問題宣教者アポロ」



 まず、上記の話の整理をします。

 パウロのコリントの信徒への手紙に直接個人名として登場する「アポロ」という人物についてですが、彼はエジプト・アレキサンドリア出身のユダヤ人で、聖書(旧約聖書)に詳しい雄弁家であり、アレキサンドリアでユダヤ教の中でも、特に、イエスをメシアとして信じる信仰を受け入れ、その信仰を持ったのです。そして、彼には、イエスをメシアだと信じる信仰の宣教者として大都市での宣教を志していたのです。

 その後、アポロはアレキサンドリアからアジア州・エフェソにやって来て、そこでユダヤ教の会堂に行き、イエスこそがメシアであることをかなり強烈に人々に教えたのです。そういう意味では、アポロは非常にカリスマ的な要素を持った人物であることがわかるのです。


 当時、パウロが直接、アポロと接触があったのかはわかりませんが、パウロと一緒にコリントの教会からエフェソの教会へと移ってきたアキラとプリスキラ夫妻は、このアポロの才能に目を留め、アポロに対して信仰的な指導を行い(アポロ自身は洗礼者ヨハネの洗礼しか知らなかった)、その後、アポロの要望を受けて、アカイア州のコリントの教会に手紙を書き、その手紙を持たせてアポロをコリントの教会へと派遣したのでした(パウロはおそらくはこの事を知らないか、直接は関わっていないのでしょう)。

 なぜ、パウロとアポロの接触がないのかと言えば、パウロがアポロと接触していたのであれば、おそらく、コリントの教会へアポロを派遣する以前において、その問題点を指摘できていたものと判断されるからです。


 かくして、アポロはコリント教会に行き、必ずしもアポロに起因するものが全てではないですが、そこで教会の中のいろいろな信仰の問題が起こり、パウロはそうした当時のコリント教会の人々が直面した信仰的な問題に対して、パウロは手紙を記して、ひとつひとつの問題に対して信仰的指導を行ったというわけなのです。



 

 さて、ここまで来てコリントの信徒への手紙の背景について、ご理解いただけたのではないかと思うのですが、パウロ個人としては、つまりはそうした理由によってこの手紙を記したのです。

 しかし、最終的に、キリスト教の歴史において、「キリスト教の聖典」という枠組みの中にこの文書が採用されたのはなぜかということを考えるのであれば、すなわち、こうしたコリント教会における一種の不祥事のような事柄が、以後のキリスト教会においては当然反省されていてしかるべき、という教訓としての意味があるということなのです。

 そうした「歴史的な教訓に学ぶ」「先人の犯した罪とその反省に学ぶ」ということが、すなわちキリスト教の信仰において大切なものであり、「罪の悔い改め」とは、まさにそうした「同じ失敗を繰り返さない」ということなのです。

 聖書はそういう意味では全体として、「人間の失敗(人間の罪)」ということを反省し、そうした「過ちを二度と犯すことのないように」という、信仰の先達たちの慈愛に基づいているわけです。


 つまり、「悔い改め」だとか、「聖霊の導き/満たし」「きよめ/きよめの生涯」「キリストの内住」「聖化」とか、こうしたいろいろな表現はありますが、そうしたものが具体的には何を言っているのかという、具体的には「神の言葉に耳を傾け、日々自分の生き方を(イエス・キリストの御名によって告白し)反省する」ということであるわけです。そういう意味では「反省しないキリスト者」というのは当然有り得ないのです。

 牧師は信徒に先だって自分自身がまず神の御前に反省する者であり、そうした牧師の姿勢に信徒がならい、そのようにしてキリストの教会は形成されるのです。



 では、以下に御言葉を引用します。

「こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(1コリント1:6~7)

 この言葉は、パウロが「挨拶の言葉」として記したものです。

 パウロは1コリント12章12節以下において、キリストの教会を「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」(1コリント12:12)と言っているように、教会は全体としては、地上においてイエス・キリストを証するひとつの体であり、しかし、それは一つの体であるけれども、そこには「多くの部分から成り」、すなわち色々な賜物を持ったイエス・キリストを証しする教会員ひとりひとりによって構成されることを説明しています。

 つまり、そこには様々な賜物を持ったキリスト者がいるわけですが、問題は、教会はそうした賜物を持ったキリスト者が、全体として協調し、秩序を保ち、具体的には地上において、例えば、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章34~35節)にあるような「これこそがキリスト教会」としての証をすることにあるのです。

 当然、教会には子どももいれば青年もおり、壮年、高齢者、男性、女性、健常者に闘病者、外国人・・・と、すなわち地上における教会とは、こうした現実の社会の縮図のような、まさに教会の中にイエス・キリストがご隣在くださり、今もなお、そうした人たちに対して、その重荷・苦しみ・悲しみを知ってくださり、そうした兄弟姉妹に対して、祝福と祈りをもって応えてくださるものであるのです。

 そういう意味では、教会は、ペトロが神殿の門において足の不自由な人に対して語ったように、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(使徒言行録3章6節)と、「教会が貧しい」ということは本質的な問題ではないのです。

 教会が持っているもの、すなわち教会がイエスさまからいただいたものは現金ではありません。教会がイエスさまから頂いたのは祝福の言葉と祈りであって、まさに「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイによる福音書10章8節)とイエスさまが言われたように、教会がその宣教の核心において代価を求めるということは、絶対的にあってはならないのです。あくまでも、そうした祝福を受けた方が感謝の気持ちとして教会に捧げてくださるものがあれば、教会はそれを感謝して受け取ればよいのです。それは必ずしも現金ではなく、当然、別の形のものである場合もあるわけです。ある人はそれを自分が育てた野菜で返してくださる場合もあるでしょうし、何もないので感謝の祈りで返してくださることもあるでしょうし、それはその人の感謝の気持ちがあればイエスさまは十分であると言ってくださるでしょう。

 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」(ルカによる福音書17章15~16節)

 当然、イエスさまはこの人物に対して「感謝」以上のものを求めてはいないでしょう。



 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(1コリント1:10)

 次に、1章10節以下のところでパウロが示すキリスト教会のあり方というのは、すなわち「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」という事に集約されます。

 イエス・キリストを信じる者は当然、イエス・キリストの約束した霊、すなわち聖霊を受けている者であり、そうした人物は当然の事として、イエスの語られた掟である「あなたの隣人を愛しなさい。」という隣人愛の実践こそが、その基本であるわけです。

 それはもちろん、人間的努力によって実現するものではありませんが、しかし、各人は、聖霊の助けによって隣人愛を実践する者として変えられていくことを願い求めることが要求されているのです。なぜなら、イエス・キリストが十字架上でその命を落とされた、その出来事が、まさにキリスト者に対してそのことを御心の内に命じているからです。

 そして、そうしたイエス・キリストにつながる一人一人がまさに、「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合」うのがパウロの願い求めるキリスト教会の姿であるのです。

 しかし、それは決して、牧師を司令官として、その下に各種リーダーがいて、その下に平信徒がいるというような権威主義的なピラミッド型の教会ではありません。

 パウロはあえて教会の仕組みを、「キリストの体」というふうに表現しています。当然、それは当時知られているローマ軍のような軍隊構造ではなく、「キリストの体だ!」ということであるのです。教会はひとりひとりがみんな異なり、しかし、みんなが異なるにもかかわらず、それはイエス・キリストの愛によって、固く結び合っているのです。当然、それは「できる人だけの教会」ではないわけです。




「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1コリント1:18)

「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1コリント1:21)

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:26~29)

 パウロにとって「宣教」とは何であるか? それを端的に示しているのがこの御言葉です。

 パウロの「宣教」とは、①「十字架の言葉による」ものであり、②「愚かな手段」であり、③「(神の)召し」によるものであり、④「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」のものであるということなのです。

 これはどういうことかと言えば、まず①について「十字架の言葉による」とは、例えば、以下のイエスさまの言葉に見ることができます。
 
 『それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』(ルカによる福音書9章23節)

 キリスト者としての信仰生活は、すなわち「日々、自分の十字架を背負う」事としてイエスさまは言っています。

 それは具体的には、「毎日、聖書を読み、そこで示される自分の罪を認識し、イエス・キリストの御名によって罪の赦しを祈り(無力なわたしを助けてくださいという祈り)、そうした罪の悔い改めを毎日行うこと」であるのです。

 つまり、パウロの言う「宣教」とは「信仰の勧誘」ではないのです。

 ②の「宣教」が「愚かな手段」だとは、まさに「キリスト教の宣教とは、自分が罪人であることを神と人との前において証しすること」だからです。そこには「賜物」などというものは一切関係がないのです。


 そして、「宣教」は③神の召しによるものである、というわけです。

 わたしたちもそうですが、わたしたちがキリスト者になったのは「勧誘されたからか?」というとそうではありません。

 確かに目に見えるところにおいて、そうしたきっかけとして教会で行われる音楽会や伝道集会などの様々なものは一定の効果はあるかもしれません。しかし、パウロはそうした「人間的勧誘行為」は全く問題にしていません。

 あくまでも、その人がキリスト者になるのは神の召しによるものであって、教会がそうした人たちのために行うべき行為は、当然、「勧誘」ではなく、「(とりなしの)祈り」によるものであることが読み取れるのです。

 そして、そうした「宣教」が「神の召し」によるものであることの重要性が、結論的に語られている「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:29)という言葉にあるとおりなのです。

 教会がキリストの体であるとは、パウロが12章で語っているように、体の部分に過ぎない目や手が、誰よりも目立つ・尊重されるというような事があってはいけないことを言っているのです。当然、牧師と言えども、それはキリストの体の一部であって、決してキリストの頭などではなくむしろ体のなかで一番汚れ役である「足の裏」であることが求められるのです。

 「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコによる福音書9章35節)

 それが、キリスト教会の価値観であり、イエス・キリストが弟子たちに示された「一番」なのです。



『神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』(1コリント1:30~31)

 そして、そうした教会が誇るべきはイエス・キリストであり、教会の中でイエス・キリスト以外が誇られることがあってはならないのです。

 

「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」(1コリント2:4~5)

 パウロはコリント教会の人々に自分自身の経験として、まずコリントに訪れた時のことを証します。

 パウロはそれを「“霊”と力の証明によるもの」と言っていますが、それは当然、パウロ自身の持つ人間的な魅力、たとえばカリスマ的なもの、あるいは人徳のようなものではなく、あくまでも聖書の御言葉に基づく、パウロ自身の罪の悔い改めというキリストを証する者としての生き方によるものであることを言うのです。

 実際、パウロに対して当時の教会の人々が思ったのは「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(2コリント10:10)と言う者たちがいるほどです。

 その意味で、パウロの人間的な外見は、決してカリスマ的な特徴があるわけでもなく、むしろ、弱々しい感じで、しかもその話も、他人を惹きつけるような魅力あふれるものではなかったのです。

 こうしてみると、「パウロの宣教」とは、まさにパウロ自身が自分の罪に対する弱さを皆の前で告白し、まさにそうしたこの世において弱く、傷ついた者たちが、まさにイエス・キリストの罪の赦しの経験を通じて、まさにパウロをはじめとしたコリント教会の人々が「自分の十字架」を担いつつ、日々、イエス・キリストの言葉に聞き従うという信仰者としての日常生活を通じて、隣人を(神が)感化させてくれるというものであったということなのです。


 ところが、今日のキリスト教界においては数量的な増加、教会(あるいは宣教)の拡大ということが、まさに「神の御心である」として、多くの人がその事について疑いを持つこともなく、まさにサタンの誘惑に対して盲目的に追従してしまっている現状があるわけです。

 特に、パウロのそうした「宣教」ということを考慮すれば、当然、「信仰継承」とは、つまりは「使徒継承」であって、それは「親から子」という人間の血肉による信仰の継承はありえないのです。

 確かに、父親が牧師、あるいはクリスチャンであり、その息子が牧師、あるいはクリスチャンになるケースもありますが、それは基本的には、ひとりひとりがイエス・キリストの御前において自分の十字架を担うという信仰告白を通じてはじめて可能であり、むしろ、そうした血肉に拠らないからこそ、教会は、いつの時代においても、また全く教会が無い場所であっても、神の御心であれば、無の状態から教会は興されるのです。そして、それを興すのは神であるのです。

 確かに、教会を実際に興すのは、牧師であり、また牧師と志を同じにする信徒の集まりであるわけですけれども、しかし、それは信仰的には、人間の努力として興すのではなく、「神の御心において興される」ものであるのです。その部分を、わたしたちは間違えてはなりません。

 わたしたちが地上においてキリスト者として求められているのは「神を礼拝すること」であって、わたしたちの日常の信仰生活は、「日々、自分の十字架を背負うこと」であるのです。

 そして、その教会が無くなるのも、また興されるのも、すべては「神の御心」であり、それは「人間(牧師)の願い(考え)」ではないのです。 



『わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。』(1コリント2:12~16)

 神から与えられる聖霊は、いわゆるこの世的な「霊(感)」「スピリチュアル」というようなものとは決定的に異なっています。

 「聖霊の満たし」「キリストの内住」など、多くの人がそれを聞けば、なにやらシャーマニズム的な要素がキリスト教信仰にもあるものと思われるかもしれませんが、そうではありません。

 パウロが「宣教を愚かな手段」と呼んだように、キリスト者が聖霊の働きとして聖書の御言葉を通じて知ることのできるものは、決して、「精神的な昂揚感」のようなものではなく、むしろ、「人間の罪を明らかにするもの」であるのです。

 「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。」とは、まさにそうした聖霊の助けにより、聖霊の働きによって、わたしたちが聖書の御言葉から自分の罪を指し示すその事柄は、当然、「自分の汚点」でもあるので、普通の人はそれを受け入れることはできないのです。むしろ、わたしたちは幼い頃から「強くなること」に憧れ、人間的に「強くなること」を教えられて成長するのですから、そうした「自分の欠点(自力では克服が難しいので)」などは、むしろ「見ないようにする」ということが当たり前なのです。

 当然、「欠点は見ずに、長所を伸ばす」ということが人間が人間として成長する時に大切だと言われるのです。

 ところが、キリスト教の信仰は、むしろ、「人間の長所は見ずに、欠点(自分の罪)を認めて、神の助けを求める」ということですので、明らかに「常識からすれば非常識だ」ということになるわけです。

 では、パウロはそうした「キリスト教の常識」は「霊によって初めて判断できるからです。」と言っていますがそれはどういうことでしょうか?

 わたしたちが(聖)霊によって何を判断できるのかといえば、それは当然、「自分の罪(弱さ/神の助けが必要な部分)は何であるか?」ということです。

  すると、わたしたちのイエス・キリストの名による罪の告白は、当然、わたしたちが神の御前において、イエス・キリストの御前において、自分の罪を、一種の公開裁判を受けているのと同じですから、当然、その人に対して聖霊の働きを通じて語られている「罪」とは、まさにそれは「神の言葉」であり、「神さまがその人に対して直々に語られた判決」であり、当然、『その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」』とパウロが言っているように、自分の罪を告白し、罪を悔い改める人物を、「人間が裁く」ことはできないのです。

 この「罪の告白」と「悔い改め」こそが、キリスト者の命であり、信仰生活であり、そして、教会が教会であること、牧師をまさに牧師たらしめるものであって、パウロがコリント教会の人たちに対して信仰的に大切なこととして教え伝え、そして、今日のキリスト教会は、まさにそうした聖霊による価値基準・判断基準によって、この世においてイエス・キリストの救いによって教会であり続けることができるのです。


 

 フィレモンへの手紙は、本文中の「福音のゆえに監禁されている間」(13節)とあるように、パウロがその伝道旅行の途中において、監禁(軟禁)されている間に、フィレモンという、家の教会を主催するパウロの弟子に対して送った手紙として知られています。

 さて、このフィレモンの手紙の話の流れを整理すると以下のとおりです。


・パウロの弟子でキリスト者であり、また家の教会を主催するフィレモンのところに、奴隷の身分であるオネシモという人物がいた。

・ある日、奴隷のオネシモは主人であるフィレモンに対して、具体的なことはわからないが、何かしらの損害を与え、オネシモは軟禁状態であったパウロのところに逃亡(当時としては逃亡奴隷は死刑になってもおかしくない)してきた(オネシモは主人フィレモンがパウロの信仰の弟子であることを知っていた)。

・パウロはそうしたことがあることを知らずに、パウロはオネシモを自分の弟子として迎え入れる。

・その後、パウロはオネシモがフィレモンのもとから逃亡した奴隷(オネシモの所有権はフィレモンにある)であることを知る。

・もし、パウロがオネシモをフィレモンにもどせば、オネシモが引き起こした損害と逃亡罪で殺されるかもしれない。

・パウロは一計を案じて、フィレモンもオネシモも、この世的には主人と奴隷という関係であるが、共に等しくパウロの弟子であることから、フィレモンはオネシモの犯した罪をゆるすと同時に、またオネシモも自分が犯した罪を悔い改め、同じ信仰をもって愛する兄弟として和解し、この世におけるキリストの愛に基づく隣人愛の実践として、家の教会を主催するフィレモンに対するひとつの信仰的な挑戦として、このことを提示する。

 と、だいたい文字で説明すると上記のような内容になります。


 補足説明のために上記のことの概略を以下の図に示します。


フィレモンへの手紙・図解



  さて、パウロがフィレモンに対してこの手紙を通じて伝えようとしたことは、当時のローマ社会における「奴隷制度」というものに対して、オネシモというひとりの逃亡奴隷の救いを通じて、フィレモンが主催する家の教会が信仰的挑戦をパウロから受けるというそうした内容になっています。

 当然、この「信仰的挑戦」に対して、フィレモンは①パウロの言うとおりにオネシモを奴隷から解放し、信仰を同じにする兄弟として、家の教会に迎え入れるという選択肢と、まさに、②当時のローマ社会における奴隷法に基づき、オネシモを逃亡奴隷として処分するという選択肢を突きつけられるのです。

 しかし、パウロからこうした手紙を受け取って、フィレモンが②の選択肢を取るであろうということは想定されておらず、パウロは、フィレモンが当然キリスト者であり、家の教会を主催する者として、必ずや①の選択肢を選択することを見越して手紙を記しているのです。

 しかも、このフィレモンへの手紙は、いわゆる私信として、「フィレモン個人」に書かれた手紙ではなく、2節において「姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」ということで、「公開書簡」として送られているわけです。

 つまり、パウロはこの手紙をオネシモに持たせ、オネシモがフィレモンの家の教会の人たちの前で、この手紙を朗読することが意図されています。

 仮に、この手紙がフィレモンへの私信として、他の誰もがこの内容を知らないというのであれば、この話はフィレモンの個人的なものとして握りつぶすことが可能ですが、パウロはそうした事にならないようにという、かなりフィレモンの出方を考えたものとなっているのです。



 さて、フィレモンへの手紙について、内容としては上記のとおりですが、では、それが今日のキリスト教会においてどのような意味を持つのでしょうか。


フィレモンへの手紙1章3節
「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」


 意味としてみれば、単なる社交辞令のような言葉ですが、こうした紋切り型の言葉である点において、キリスト教会においてはこれは当然のことであり、基本中の基本であることがこの言葉からわかります。

 すなわち、キリスト教会とは、まさにイエス・キリストからの恵みと平和が、この世において実現している場所であるということであるのです。


 このことは非常に重要で、こうした基本的なところが見落とされ、むしろ、「牧師やあるいは奉仕者の暴走」によってキリスト教会が成り立っているというような場合もあるからです。

 キリスト教会において「宣教」は、キリスト教会がキリスト教会である「第一使命」として、どこの教会でも同じように大切なこととされています。それは、わたしたちが所属する日本ナザレン教団においても同じです。

 しかし、問題は、その「第一使命」実現のために、すなわち「宣教」を行うために、「祈り」が求められることもありますが、それ以上に「奉仕」が叫ばれることがあるのです。そして、教会によっては、そうした「奉仕」がむしろ主目的化されてしまい、「教会」と「奉仕」との関係が逆転するというような事が起こるのです。


 本来、「奉仕」とは「礼拝奉仕」という言葉にみるように、それはあくまでも主である「礼拝」を行うための、補助的なものが「奉仕」であり、「奉仕」とは神と人とに仕え、「礼拝」(あるいは教会)を円滑に運営するための縁の下の力持ちであるはずなのです。

 ところが、そうした「奉仕者」が、あたかも「教会員の模範的あり方である」とされて目的化し、「奉仕(者)」のために「教会」が存在するというような現象に至るのです。より、具体的に言えば、「奉仕者の活躍の舞台として礼拝や教会が存在している」というような状況です。

 教会において、奉仕は礼拝を守るための補助的なサポーターではなく、むしろ、例えば「賛美リーダー」という言葉に見ることができるように、それはまさに「奉仕者」ではなく「牽引者」なのです。



 わたしが神学生時代、実践神学の先生から「牧会には馬の牧会と牛の牧会とがある」と教わりました。

 「馬の牧会」とは、まさに牧師が馬の騎手として、馬に鞭を入れて、あたかも信徒を急かし立てるかのように牧会を行うあり方を言います。

 それに対して「牛の牧会」というのは、通常は牛の歩む歩みに任せ、しかし、肝心なところにおいては少しだけ進行方向を調整するというあり方を言います。

 どちらがどうというわけではありませんが、わたしは教会奉仕はまさに縁の下の力持ちであり、それは決して表に出ることはないけれども、しかし、教会の運営を円滑に行う上では大切な役割であると認識しています。


 わたし自身の牧会においては、「教会の運営は最も歩みの遅い人に合せる。」ということを基本としています。

 すなわち、教会は一種の「電車ごっこ」のようなもので、当然、教会の歩みはそこに加わる方々によって決まりますが、「教会のレベル向上」「より宣教的な教会を目指す」ということを教会の目標として掲げることを「電車ごっこ」になぞらえるのであれば、それは「教会の最低スピードを上げよう」というものであるのです。

 ところが、教会に集う人は高齢者もいれば小さい子もおり、また男性もいれば女性もおり、また健常者もいれば身体的・精神的にハンディキャップを持った人たちがいるのが教会であるわけです。

 当然、そうしたメンバーによる「電車ごっこ」で、みんなの走るスピードを上げれば、そうしたスピードについていけずに脱落する人が出て当然であるわけです。

 しかし、スピードを上げることによって、そこに新たにそうした「速く走ることのできる人」が加わってくることもまた真実ですので、結果、どうなるかと言えば、「電車ごっこ」のスピードは限界まで上がっていき、どんどん脱落者を出しながら、結局のところ最終的にはスピードも頭打ちということになるのです。

 たとえスピードを競うレーシングカーであっても、「減速の必要はないのでブレーキはいらない」ということにはなりません。

 安全装置のない自動車は凶器と一緒で、だれもブレーキの壊れた自動車に乗りたいという人はいません。

 ところが、こと教会のことになると、案外にもスピードを上げることには熱心だけれども、ブレーキのことにはまったく無関心ということが少なくないのです。

 「ブレーキがない自動車」と聞けば、誰もその自動車に乗ろうという人はいません。しかし、「ブレーキがない教会」と聞いても、それがどのように危険なのか、それが正しいのか間違っているのか、誰も判断すらしないわけです。

 逆に、かえって「この教会にブレーキは不要だ」と、そうしたブレーキ役の教会員を切り捨ててしまうような事まで起こります。そうなってしまっては、もうその教会は自分たちの意思で減速することも止まることもできません。結果、教会運営において出くわす様々な問題に対して教会ごと体当たりを繰り返し、結局、その度に牧師も教会員も傷つきながら、教会運営が減速するということになるわけです。

 そこにあって牧師は「神さまの与えられた信仰の試練だ」と言って、自分たちの犯した罪、過ちを認めることなく、そうしたことには目をつむっておいて、結局のところ自分たちの罪をひた隠しにするのが関の山なのです。



 教会員の中にいろいろな賜物を持つ人がいることは別に悪いことではありません。しかし、パウロが次の聖書箇所で語っているように、そうした教会がスピードを上げようとする行為に対して、それに対して冷静にそのことを見極め判断する、すなわちブレーキをかける役割を持つ貧しい人や病気の人も、本当の意味で安んずることのできる場であることの方が信仰的に極めて重要なのです。その意味では「弱さ」もまた神さまからの賜物なのです。

コリントの信徒への手紙1 12章21~22節
 「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」

 教会は、キリスト教宣教ということを他の教会、あるいは宗教団体と競うために活動しているのではありません。

 キリスト教会は、この世において、イエス・キリストの愛に基づく信仰共同体として、正しく神を礼拝するところとして、この世において宣教を行うのです。

 当然、そうしたキリスト教会は、常に「信仰的に正しくあること」が求められます。それは「キリスト教を信じているから正しい」のではなく、「イエス・キリストを主として、神の言葉に従うからこそ正しい」のです。

 キリスト教会が、神の言葉であるイエス・キリストに従うとは、もちろん、キリストの愛に基づく隣人愛の実践が行われていることが前提とされています。そのような教会には「要らない」人はひとりもなく、「強い人」はその強さをもって「弱い人」に寄り添うはずであるのです。当然、そうした教会の歩みは速いはずがありません。

 それはキリスト教会において大切でありながら、今日、案外にも忘れられているのではないかと思うのです。


フィレモンへの手紙1章6~7節
6)わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。
7)兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。

 フィレモンが主催する家の教会の働きは、ここに具体的な事柄としては紹介されていませんが、しかし、それは7節において「聖なる者たちの心があなた(フィレモン)のお陰で元気づけられた」とあるように、それはまず「信仰」に基づくものであり、「聖なる者たち」で言われている、すなわちフィレモンの家の教会につながる兄弟姉妹を大きく慰め、元気づけるものであったことがわかるのです。

 ここでフィレモンを、まさに教会の牧師として考えるのであれば、フィレモンが主催するこの家の教会は、まさにフィレモンの信仰、すなわち牧師が信徒ひとりひとりに対してまさに祈りをささげ、また信仰による交わりによって、互いに慰め励まし合う、非常に模範的な教会であることがうかがえます。

 もちろん、パウロにしてみれば、フィレモンに対して、かなり無理なお願い(逃亡奴隷であるオネシモを赦し、しかも奴隷の身分から解放してやり、信仰を同じにする兄弟として迎え入れなさいというもの)をする上で、こうした一種のお世辞とも取れることも確かです。

 しかし、それがたとえお世辞であったにせよ、パウロが言っていることは全く嘘ということではありません。

 キリスト教会がキリスト教会である為に、まさに牧師は「信徒からたてまつられる存在」ではなく、むしろ、信仰を同じにする兄弟として、当時の社会的身分を越えて誰とでも等しく、むしろ、愛する兄弟姉妹のために、「牧師はすべての教会員に仕える者」として、その働きに準じなければならないのです。

 教会においては牧師も奉仕者も、すべての教会員に仕えることが職務であり、牧師や奉仕者に教会員が仕えるのではないのです。そして、牧師や奉仕者の仕えに対して、教会員は感謝をもって、喜びながら神を礼拝することを行うのです。

 キリスト教会はこの関係を間違ってはなりません。


フィレモンへの手紙1章16~17節
16)その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。
17)だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。

 オネシモはフィレモンにとってみれば、自分に対して損害を与えたばかりか、自分の下から逃亡した憎むべき奴隷でありました。しかし、今や、その出来事は、オネシモの改心という出来事によって、新たな展開、すなわち信仰の挑戦となったのです。

 フィレモンの信仰的な正しさは、パウロによって、これでもかというほどに強調されていますが、しかし、それほどの信仰をもったフィレモンであっても、パウロがこのようにして重ねて表現しているように、その事は容易ではないのです。

 昔の時代劇で、「罪を憎んで、人を憎まず」というようなセリフを聞いたことがありますが、教会の中で大事なのは、そうしたことが本当に実践されているかという点が実に大切なのです。

 そして、そこにおいて大切な視点が、牧師も、奉仕者も、すべての人がそうした共通の理解に立って実践されているということです。



 時に、教会の中では「罪」ということばが、「未信者」や「他宗教の人」に対して結び付けられて理解されているような場合に、こうしたことが教会の信仰を捻じ曲げてしまいます。

 それはどういう事かと言えば、キリスト者は、すなわち牧師や信徒は「イエス・キリストを信じている」という事によって、「自分たちは既に罪人ではない」という理解になってしまっている場合に、結果的に「わたしたちは信仰者であるから正しい」といういような理解になる場合です。

 たとえば、「キリスト者が信仰によって罪から自由になっている」とは、決して、「キリスト者は罪を犯さない」ということではありません。

 これはキリスト教信仰において誤解を受けやすい点ですが、「罪から自由」というのは、「罪を犯さない」ということではなく、「キリスト者は罪を犯した場合にも、罪の誘惑に打ち勝って、自由に、イエス・キリストの前に罪を告白することが可能である」という意味なのです。

 その意味で、たとえ信仰告白をし、洗礼を受けてクリスチャンになったとしても、罪を犯す可能性を有する罪人であることに変わりはないのです。

 ただ、決定的に違うのは、キリスト者は、そうした罪を犯したとしても、イエス・キリストを信じる信仰において自身の罪を告白し、罪を悔い改め、神の御前に正しくあることができるというだけなのです。


 ところが、そうではなく、むしろ「教会の中」というのが、「神の御前に正しい者たちの集まり」という、一種の治外法権的な場と理解され、罪として理解されるはずの事柄が、「教会の中で起こるのは正しいこと」「世の中のことは間違っている」というような、教会の中において、神の正義が行われず、むしろ、「自分たちが正義」ということがまかり通りことが起こるのです。

 「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。」(コリントの信徒への手紙1 14章33節)

 神の御前において教会が正しい教会、イエス・キリストの体なる教会であるなら、当然、それは教会の中において秩序が保たれているはずです。しかし、その「秩序」というのは、決して、牧師を頂点とする、あたかも軍隊のような秩序ではありません。

 教会の中の秩序が何によって保たれるのかといえば、上記の御言葉にあるように、「神の平和」であり、それは教会員一人一人がイエス・キリストの罪の赦しによって、互いの間に隣人愛が行われているというような秩序であり、そして、そうした信仰的な交わりを通して、互いに相手を尊重し合い、何が神の御前に正しく、何が神の御前に間違っているのか、そうした成熟した教会へと、神の祝福によって変えられていくことが大切であるのです。

 当然、それは、牧師のための教会でもなく、信徒リーダーのための教会でもありません。

 なぜ、教会の中で「リーダー(指導者)」という言葉が使われるようになったのか、わたしはその経緯を知りませんが、むしろ「賛美をリードする」というのは、「(みんなを)引っ張る」ではなく、「(みんなの声を)支える」ということだとわたしは理解しています。

 わたしが教会で奏楽をする時に注意しているのは、「演奏すること」よりもむしろ「みんながどのように歌っているか」を聞くことです。

 そして、奏楽者はみんなの歌うスピード、またみんなの歌う声の大きさに合わせて、音量を調節したり、曲のスピードを調節するのです。それは、自分が奏楽できる、上手に演奏できることを聞かせることに主眼があるのではなく、礼拝奏楽が奏楽であるためには、「みんなが歌いやすいように伴奏をする」ということが最も大切なポイントなのです。でも、奏楽者がみんなそうできるわけでもなく、またそうしなければならないということでもありません。

 牧師が声を大きく、みんなのペースで歌えば、その声を奏楽者が聞いて、そのリズムに合わせることも可能なので、指揮棒を振るわけではないですが、礼拝式の中では、歌うことによって奏楽者のリズムを調整するということもできるのです。

 だからこそ奏楽者は、別に、音楽家である必要もないし、指一本でもいいわけです。場合によっては、讃美歌の出だしの音を出すだけでも、それは伴奏になるわけです。賛美は、奏楽者だけが、賛美リーダーがするものではなく、会衆全員がひとつになっておこなう共同作業なのです。

 それは心をひとつにして神の尊さを褒め称える、感謝することが目的であって、上手に歌うことに主眼があるわけではないのです。

 
「ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。」(フィレモンへの手紙1章22節)

 パウロはフィレモンに対して、自分がそちらに伺うことを約束します。

 「信仰」とは「信頼」であるといった神学者がいますが、まさに教会が教会であるために必要なのが、この互いに信頼するということであると思います。

 キリスト者は、まさに神を信じるものである信仰者である限りにおいて、まさに「相手を信頼する者」であり、また「相手の信頼に応える者」であることが求められるのです。なぜなら、それは神に対する信仰において、真実をもって、隣人愛の実践を行う者であるからです。

 ところが人間は救われてなおも罪人である限りにおいて、「信頼する」ということは、「わたしは絶対に間違いを犯さないから、わたしを信じなさい」ということではないのです。

 牧師が教会の中で間違ったことを行い、信徒に対して「わたしを信頼しなさい」と言っても何の説得力もありません。

 そうではなく、ここでいうところの「信頼する」とは、「その人の人間性」を「信頼する」のではなく、むしろ「その人が神の御前において罪を告白し、罪を悔い改める者である」ということを「信頼する」のです。

 当然、教会の中で牧師が間違ったことを行った場合には、そのことの告白と悔い改めがなされなければなりません。間違った時に直ぐに謝るということは、習慣づけていないとなかなか簡単ではありません。特に、牧師のように集団の代表というような状況に置かれればなおさらです。

 パウロはフィレモンが、オネシモの逃亡行為(損害を与えたことも含めて)に対して尋常ならざる怒りを心の内に秘めているかもしれないことを十分承知しています。 そして、だからこそ、パウロはそうしたフィレモンが、怒りによって自分を見失い、オネシモを処刑するかもしれないことを危惧しながら(当時の常識ではオネシモは殺されても普通であったから)も、しかしなら、同じイエス・キリストを信じる信仰者として、「信仰によってオネシモの罪を赦し、信仰によってオネシモを愛する兄弟として迎え入れてくれるであろう」ということに「信頼」しているのです。

 当然、フィレモンはこの手紙を受け取って、そうしたパウロの「信頼」に対して「信仰的決断と行動をもって応える」義務があるわけです。

 キリスト教会とは、まさにそうした相互の信頼と信頼に対する誠実な応答が求められているのです。

 そして、来るべき、パウロがフィレモンの家の教会に訪れた時に、フィレモンとオネシモと共に、同じ、主イエス・キリストによって救われた者同士が共に同じ食卓について、喜びを分かち合えるであろう、その時を願っているのです。
 


 フィレモンの手紙のこの後、実際にフィレモンがオネシモをどのように扱い、パウロがどうしたか、その後のことが書かれていません。

 みなさんは、この結末がどうなったか分かるでしょうか?


 
 この文章は手紙であるからこそ、結末が記されていないということは当然なのですが、そうした意味において、この手紙を、ひとつの物語としてとらえるときに、この手紙は、まさに今日の教会に対して語られている神の言葉なのです。

 パウロがわたしたちの教会を訪れた時に、パウロはわたしたちの教会のことを喜んでくれるだろうか?

 その視点は非常に重要です。

 聖書の言葉を理想論として、わたしたちの教会とは無関係だと結論することは非常に簡単です。

 しかし、キリストの教会は、聖書の言葉を通じて、今も、そのように信仰を問われ続けているのです。

 その意味で、教会の宣教が目指すものは、「キリスト教の拡大」ではなく、「信徒獲得」でも「献金倍増」でもなく、ただ、礼拝を通じて自分たちが神の御前において正しくあろうとすること、神の御前における人間としての成熟であって、それ以外ではないのです。

 そうした、わたしたちが人間としてまさに本当の意味において人間になろうとすることが、神の御心としてわたしが聖書から読み取っている神の言葉なのです。


フィリピの信徒への手紙3章1~5節
1)では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
2)あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3)彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
4)とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 


 フィリピの教会にパウロがこうした手紙を送った背景にあるのは、2節でパウロが「あの犬ども」と表現する、直接的にはユダヤ教における神の救いにあずかるための要件であった「割礼」(その他には食物規定)をキリスト教徒に対して要求する、エルサレム教会からの、あるいはユダヤ主義的なキリスト教会からの伝道者が各地にあった異邦人教会の人々に対してパウロの伝える信仰から離れるようにという要請でありました。

 それは、今日的にはもちろん、日本におけるキリスト教会の中で「割礼」を要求することはありません。だから、こうした「割礼」の問題は、今のわたしたちにとってみれば全く無関係のことだというのかというとそうではありません。

 ここでパウロが指摘する「割礼」が具体的に、直接的に今のキリスト教会において要求されることはありません。しかし、わたしたちの教会においては、パウロがそれに続けて説明しているように、「割礼」とは当時行われていたひとつの具体例であって、信仰的にこの「割礼」が意味するものが何かといえば、それは「肉に頼ろうとする」ことであり、パウロが「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」ということが、すなわち「真の割礼を受けた者」を指すのであれば、当然、「偽りの割礼」、すなわち、「肉体への割礼を要求する信仰」とは、すなわち「神の霊によって礼拝することなく、キリスト・イエスを誇りとすることなく、肉体への割礼を要求する」ものであることがわかるのです。

 それは、言い方を変えれば、「礼拝をするけれども、それは神を礼拝するのではなく、イエス・キリストを救い主だとは言うけれども、この世的な人間の業によって救われようとうする信仰」というふうに表現できるのです。


 信仰者は神を信じ、神の救いによって生きます。

 誰もが、クリスチャン、キリスト教徒はそのようにして生きていると考えています。

 ところが、パウロの生きた時代のキリスト教会もそうですが、過去のキリスト教会の歴史においてもそうであり、そしてまた今日のキリスト教会においても、実は、教会はまさに肉の思いによって、すなわち信仰と人間の欲望とのせめぎ合いの中におかれているのです。



 なぜ、パウロの意に反して、当時の異邦人教会の人々は、ユダヤ主義的なキリスト教へと改宗してしまったのでしょうか? 彼らは、「割礼」を「イエス・キリストの十字架と復活」よりも信仰的に大事だと信じたのでしょうか?

 ここらへんの信仰者の考え方が見えてこないと、すなわち信仰の戦いにおいて最も重要な信仰の敵である罪が何であるのかが見えないと、キリスト教会は、まさに「カネのなるキリスト」を崇拝する教会へと、まさにこの世的繁栄を約束するサタンを礼拝する教会になってしまい、そうなってしまったことに気付かない、あるいは気付いていても、もう引き返すことができないという事になってしまうのです。

 繰り返しますが、それは「わたし永野や出雲教会が信仰的に安全だ」ということを言っているのではなく、わたしたちは常に、そうした信仰の戦いに直面して、この世で信仰者として生かされ、信仰者として生きているということなのです。それは誰もがそうであって、何時、どんなきっかけで信仰的にイエス・キリストから離れ去ってしまうか、わたしたちは常に、そのことを自問しながら、「神の御言葉に従う」という選択をし続けていかなければならないのです。



 さて、では、なぜ当時の異邦人教会において、ユダヤ主義的なキリスト教への改宗が進んだのでしょうか?
 
 それは決して、異邦人キリスト教会の人々が「パウロの教えが間違っている」と単純に信じたからではありません。


 それは当時の世界において、いうなればキリスト教会がキリスト教会として、ローマ帝国内において生き残りを賭けた決断を求められた時に、ひとつの踏み絵が提示された。それが「1民族1宗教」というローマ帝国の宗教政策であり、そこにおいて当時のキリスト教会は自分たちの信仰において決断をしなければならなかったという歴史的事実に基づいているのです。

 つまり、「キリスト教はキリスト教である」として、当時のローマ帝国内において、当時としては異端的宗教として生きるか、それとも、「キリスト教はユダヤ教という大きな枠の中のナザレのイエス派である」というこの世の権力者に対して妥協して生きるかという二者択一を迫られていたのです。

 そして、ペトロたち初代教会の弟子たちは、パウロたちのように、そうした時の権力者たちに逆らい、摘発され、その結果としてキリスト教会がなくなってしまうよりも、もともと自分たちはユダヤ人であるのだから、ユダヤ教の一派として、ローマ帝国の支配下においてユダヤ主義キリスト教の組織として、ローマ帝国の保護下に生き残るという選択肢の方が確実であり、もっとも現実的な選択肢であると判断したのです。

 すなわち、それは今日的に見ても、パウロの選択肢よりも、初代教会の弟子たちがとった選択肢の方が極めて妥当的な、現実的な選択肢であったと思われるのです。

 しかし、パウロはまさにキリスト教会はユダヤ教の教会ではなく、まさにキリスト教会であることによって、はじめて本当の意味でキリスト教会でありうると、そのことを強調するのです。


 つまり、こうしたことを見ると、パウロがフィリピの教会の人たちに対して手紙を送って訴えた「割礼」という信仰の問題は、ただそうした肉体に傷を付ける儀式だけが限定的に問題だとされているのではなく、むしろ、信仰共同体であるはずのキリスト教会が、いわば「教会の存続」という、本来は信仰において、聖霊の助けによって導かれるべき問題が、人間的、すなわち霊的な解決方法ではなく肉的方法を、神の栄光ではなく、まさに人間的打算によって自分たちの歩むべき道を歩んだという事が問題となっているのです。

 だからこそ、それは常に、「常識的判断」ではなく「信仰的判断」によって、すなわちキリスト教会は、教会の存続について、決してそれを常識的・打算的に判断するのではなく、礼拝において語られる神の言葉に聞き従うことによって、信仰によって判断することが必要であることを説明するのです。


 そして、パウロはそうしたキリスト者の歩みが、この世における教会が、地上において既に完成されたものではなく、 常にイエス・キリストの姿に倣いつつ、神の御国へと向かって歩むのもであるというわけです。

フィリピの信徒への手紙3章13~14節
13)兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
14)神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです
 
 キリスト者が、あるいは教会がこの世において目標として目指すべきものはいったい何でしょうか?

 パウロがこの言葉で示そうとするものは、たとえば、マタイによる福音書25章21節「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」というような、信仰者が地上での生涯を終えて、信仰の戦いを立派に戦い抜いたその結果、神さまからいただくことができる「慰めの言葉」と表現できるでしょうか。

 わたしたちの地上の喜びも、悲しみも、苦しみも、すべてはこの神さまがわたしに対して与えてくださるその「慰めの言葉」で十分なのです。神さまのこの「慰めの言葉」によって、わたしたちの命はまさにこれ以上ないほどの価値を与えられることになるからです。

 だからこそ、わたしたちキリスト者にとって教会にとって、目指すべきものは、まさにこの神さまから与えられる「慰めの言葉」であって、まさにこのためにキリスト者は、あるいは教会は地上においてイエス・キリストと共にある喜びを喜び、またイエス・キリストと共にある苦しみを苦しみ、この世に対してイエス・キリストの証人としての、あるいはイエス・キリストの教会としての歩みを全うするのです。


 
フィリピの信徒への手紙3章17~21節
17)兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
18)何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
19)彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
20)しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
21)キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

  世にあるキリスト教会が、まさにキリスト教会であるかどうか。その事はパウロの生きていた時代においても、大きな問題でした。パウロがまさにここで繰り返し訴えているように、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」のです。

 それは、「ノンクリスチャンが多い」「未信者が多い」ということではありません。これまでの話が「教会の中」を問題としているように、当然、ここで言われている「キリストに敵対して歩んでいる者」とは、当時のキリスト者のことであり、当時の教会であるのです。 
 
  しかし、では、それは当時のキリスト者がそのように問題であって、現在のわたしたちはそうではないということが言えるかといえば、それは違います。


 まさに、今日において、キリスト教会でこの御言葉が読まれる時に、それは今日のわたしたちの問題なのです。

 今日のキリスト者にも、あるいは教会にも、そのようにしてキリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。


 それは、決して、「あそこの教会」ということではなく、まさに「わたしたちの教会はそうでないだろうか?」と、自問することが求められているということなのです。

 わたしたちの信仰は、イエス・キリストの救いを受け入れたからといってそれで完成したわけではありません。それは、これまでのところでパウロが言ってるとおりです。

 すなわち、わたしたちキリスト者の信仰は、地上において命ある限りにおいて未完成なのです。その信仰が完成するのは、まさに地上での信仰生活を全うして、神さまから「よくやった」との「慰めの言葉」をいただいてはじめて「完成」と呼べるのです。


フィリピの信徒への手紙4章4~7節
4)主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
5)あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
6)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7)そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

 「主において喜ぶ」とは、決して、「うれしいことで喜ぶ」と同じではありません。

 パウロがこの手紙を語っているその背景において、キリスト者は迫害を受けているからです。しかも、人々の前で自分の信仰を表明すれば、それはすなわち死刑を意味するやもしれません。

 彼ら、キリスト者の周りには迫害と困難が溢れているのです。つまり、彼らの目に映るのは決して喜びではないのです。むしろ、それよりも苦難・困難が多いことでしょう。

 しかし、パウロはそうした苦難・困難の中にあるキリスト者に対して、「主において常に喜びなさい」と勧めます。

 それは決して、やせ我慢や苦行のようなことを言っているのではありません。

 むしろ、パウロが勧めるのは、普段の生活における信仰生活の励行です。

 何か特別なことをしなさいというのではありません。


 キリスト者のこの世における戦いは、すなわち神の戦いなのです。

 そこで戦われるのは神ご自身であって、わたしたち人間は、その戦いの目撃者であり、また、勝利者である神さまを賛美し、褒め称えることです。

 出エジプト記14章14節
 「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

  
 これはわたしが個人的に好きな御言葉でもありますが、キリスト教の伝道を例えるなら、すなわち「神が戦われる神の戦い」であるのです。

 神さまは福音宣教のためにわたしたち人間の力を借りようとしているのかといえばそうではありません。わたしの理解では、この世における福音宣教の御業は、あくまでも神の御業であって、わたしたちはそこで神さまの働きを助けるということはできないのです。

 むしろ、わたしたち人間が何かをすれば、いったい何が神の業であるのか、その判別ができなくなります。

 人間が何もしないのであれば、当然、そこで起こる出来事は、すべてが神さまの導きであるということが言えます。

 その意味で、キリスト者に求められるのはただ礼拝を守ることであって、そこにおいて一週間の信仰生活において行われた神の御業をおぼえ、神の御名を褒め称えるということだけであるのです。



 教会はなぜ大きくならなければならないのでしょうか?

 マタイによる福音書18章20節
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 新約聖書に見るこうした記述は当時のキリスト教会が小さい集団で構成されていたことを物語っていると、G・タイセンは説明しています。また、パウロがローマの信徒への手紙の最後で個人名を上げていますが、ひとつひとつ数えても30人程度です。


 「教会を大きくしたい」とは、いったい何のためでしょうか?

 おそらく、そこにどのような理由がきたとしても、それは「キリストに敵対する」ことになると思います。

 なぜなら、むしろ教会は「神の祝福によって、結果として大きくなるはず」であるからです。


 その意味で、「伝道・宣教の成功、あるいは失敗」は、礼拝出席数や献金額ではかれるものではありません。


 その昔、先輩牧師から、「教会は礼拝出席が80人を越えたら、株分けを考えるもの」と聞きました。

 すなわち、1教会の人数の限界は礼拝出席が80人であり、またそれは信徒数でいえば1教会150~60人程度であるのです。それは一人の牧師がすべての信徒を牧会できる限界だということでしょう。

 もちろん、それを越えて人数の多い教会もいくつもあります。

 教会が大きくなればなるほど、牧師と信徒との人間的つながりは希薄になってきます。それは大会社の社長と平社員とが、顔すら合わせることがないというのと同じです。むしろ、それよりも中小企業のように社長も平社員も一緒に仕事を頑張る方が人間関係としては良い関係が築けるのではないでしょうか?


 現在、出雲教会では家庭集会を一か所で行っていますが、そこに集まるのはわたしを含めて3人です。

 わたし以外のお二人は共に高齢のため、いつまでこうした個人宅での礼拝が続けられるかわかりません。

 しかし、それはわずか三人の集まりではありますが、決して大教会の礼拝に負けることのない、とても祝福された礼拝であるのです。

 なぜなら、そこには人間的に誇れるようなものは何もありません。集う人数にしても、そこでささげられる献金にしても、それはごくわずかです。

 ところが、そこにおいて互いに、礼拝において神の御言葉を聞き、真の信仰を互いに確かめ合うことができることは、他の何ものにも代えることができません。こうしたことは大教会では、まずできない経験です。なぜなら、そこには人為的なものが何もないからこそ、そこで経験するすべてのことが神の恵みとして理解できるのです。

 もちろん、大教会の礼拝でいただく喜びを、わたしたちは経験することはできませんが、しかし、だからと言ってそうした「大教会の礼拝に対して何か憧れるか?」と問われれば、「憧れるようなものは何もない」というところです。

 わたしたちキリスト者が求めるのは「教会」という器ではなく、「礼拝の中で語られる神の言葉」です。そして、その中で行われる聖餐の経験と、その後のちょっとしたお茶の時間という、例えるなら聖徒の交わりです。

 礼拝においてわたしたちが聞くのは「神の言葉」であって、礼拝の演出でも、会堂の広さでもありません。歌手や音楽家も、あるいは楽器すら必要ありません。そうした人為的な「感動」は、一時的な清涼剤としての効果はありますが、所詮アトラクションに過ぎない点において、信仰の本質においてはまったく無意味です。

 つまり、共に聖書を読み、共に祈り、共にさんびを神に対してささげ、共にパンを裂き、共に交わるという礼拝行為の本質は、教会の大小には関係がないのです。むしろ、大教会になることによって失われるものの方が多いかもしれません。

 わたしたちはそうして礼拝が終われば、三人でお茶を飲み、世間話をしますが、それはほんのささやかなものであって、大人数のパーティーではありません。しかし、そうした濃密なともいえる神の言葉と聖徒の交わりの時間は、いくら予算を計上したところで、お金で買うことはできません。後になって、悔やんだところでわたしたちは時間を巻き戻すことはできません。大教会でいくら献金が多いとは言っても、お金で時間は買えません。

 そして、三人だけの小さな礼拝、聖餐、そして聖徒の交わりに、わたしたちは礼拝を持つことのできる喜びと慰めを深く経験するのです。これこそが、まさに神さまを中心とした聖徒のまじわりであって、この経験こそが地上におけるわたしたちキリスト者の唯一の慰めではないでしょうか。

 わたしたちは、地上においては、まさに聖徒のまじわりによる慰めを、そして来る御国においては神の慈しみ深い慰めの言葉によって、キリスト者の命はまさに最高の栄誉を受けることになるのです。

 

 今回は、パウロの直筆であると言われるフィリピの信徒への手紙において、そこにみる教会のあるべき姿をみていきます。

 まず今回は1~2章をみます。

 さて、パウロは都合3回の伝道旅行を行いますが、その中でフィリピの教会について、パウロは他の教会と比較して非常に良い教会であることをその手紙の冒頭において伝えています。

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 パウロの宣教旅行について、上記の地図を参照していただければと思います。そしてパウロはこうした宣教旅行において牢獄に繋がれることを経験します。それはエフェソ、カイサリア、ローマであるのですが、今日的にはおよそ上記の地図でいういアジア州の「エフェソ」で投獄されており、そこからエーゲ海を隔てた場所にあるフィリピの教会の人たちに対して書き送った手紙であるのです。

 さて、上記の地図においてエフェソは「ヨハネの黙示録」に「アジア州の7つの教会」として登場するように、エフェソを含むこのアジア州はまさにパウロの宣教活動も虚しく、結果としてイエス・キリストの福音を受け入れた教会が、ユダヤ主義に基づく教会へと、福音を捨ててしまったのです。

 そうした背景には当時ローマ帝国が実施した、「1民族1宗教」という政策において、「キリスト教はどの民族の宗教でもない」ということが問題(ユダヤ人にはユダヤ教があるので)となり、そうした「1民族1宗教」に該当しない宗教は排斥を受けるようになったのです。
 そこで、当時のキリスト教会の指導者たちが考えたのは「危険を冒してキリスト教を信じ、ユダヤ教から独立するのではなく、ユダヤ教の中のイエス派としてユダヤ教の宗教祭儀を取り入れ(それまでそうしていたように)、キリスト教会ではなく、ユダヤ教の中のひとつの教会として、この世の権力に対して妥協していこう」ということであったのです。

 そこで、初代教会の指導的地位にあった人々、あるいはその直接的な弟子たちが、各地の異邦人教会を訪れては、「自分たちの信仰はイエス・キリストの福音も大切だが、それを大事にするあまり迫害を受けるよりは、自分たちはユダヤ主義に基づくキリスト教教会として、ローマ帝国の支配下において教会を維持していこう」ということを伝えたのです。

 当然、それは結果として、「イエス・キリストの救いが不完全である」という事を食物規定や割礼の施術といった行為を通じて証しているのと同じであり、それに対して、パウロは「 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」(ローマ12:2)と勧めているとおりなのです。


 その意味で、昔も今も教会が、あるいはキリスト者が常に問われているのは「この世との妥協するのか?否か?」であります。そして、それは言い方を変えれば「イエス・キリストの福音を大切にするのか? それともこの世的な繁栄を大切にするのか?」ということになります。


 このことは教会にとって実に大切なことでり、パウロが口うるさく言うのはそれなりの理由があるからなのです。

 なぜ、教会は宣教を行うのでしょうか? 牧師はなぜ、信徒に対して伝道を命じるのでしょうか? あるいは教会における奉仕を命じるのでしょうか?

 わたしたちの教会は、この世において、その存在理由は非常にはっきりしています。

 それはわたしの理解で説明すれば「礼拝を通じて神の言葉を宣教すること」です。


 教会において牧師の語る言葉に注意して聞いてください。わたしも他人のことは言えませんが、教会において牧師が語る言葉には、当然ながら、その動機があります。その根拠がまさにイエス・キリストの福音に根ざすものであれば、それはまさにイエス・キリストの言葉として、神の言葉としてそれは尊重されるべきでしょう。

 ところが、そうではなく、むしろもっと人間的な牧師の個人的、あるいは教会という組織運営のため、いわゆる会社が業績を上げるためのもの。すなわち教会員をまさに教会というキリスト教販売所の従業員としてとらえ、従業員に対してそのノルマを課すという類のものになってはないでしょうか?

 フィリピの信徒への手紙ではありませんが、マタイによる福音書に以下の御言葉があります。

 マタイによる福音書4章8~11節
8)更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9)「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
10)すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
11)そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
 
 「偶像崇拝」「悪魔崇拝」とは、よほどオカルト風のおどろおどろしい、世間から隠れたところでひそかに行われているものだと多くの人は思うかもしれません。


 ところがこの世において、「偶像崇拝」「悪魔崇拝」に最も近いところに立たされているのが、キリスト教会なのです。

 多くの人は「キリスト教会」に対して、まさか教会が「偶像崇拝を行う教会である」とか、「悪魔を崇拝する教会である」とは思いません。 そうではなく、まさに「信仰的に清い人たちが通うところ」という認識をもって教会を遠巻きに、「自分には縁遠いところ」と思う方が多いのではないかと思います。

 ところが、そうした「信仰的に清いはず」の教会にひとたび入ってみれば、そこでは「信徒獲得」を目的とする「伝道」「宣教」が行われ、そうした「勧誘活動」のための「献金」と「奉仕」という名の「強制労働」が呼びかけられているわけです。しかも、そうした教会では、そうしたものが「正しい信仰である」と、むしろ、そうした事を行わないことを「信仰的に不真面目/不信仰である」「信仰熱心でない」「福音的でない」というような言葉をもって否定するわけです。

 そして、牧師はさらにそうした信徒が自分の考えていることに対して疑義をはさむことの無いように、「考えるな」ということを暗黙のうちに強要します。それは直接的間接的にいろいろな形を通じて、言葉で言われる場合もあれば、そうした「信仰熱心であること」を通じて、信徒の思考力を奪うわけです。そうしたやり方はいわゆるアメリカ海兵隊のブートキャンプのようなものかもしれません。思考力を奪い、飴と鞭を使い分けることによって、教官の意のままになる部下を作り上げるわけです。

 そして、そうしたことによって実現する教会とは一体どういう教会かと言えば、それはすなわち、キリスト教会に対してこの世的な繁栄をもたらす悪魔を崇拝する教会であるのです。しかも、教会の外部の人から見て、その外見は「キリスト教会」であるぶん悪質です。そこを正直に「わたしたちはこの世的な繁栄を追求する、悪魔崇拝の教会です」と、教会の看板に書いてくれれば良いですが、残念ながら教会が「悪魔教会」と看板に表示することはありません。

 しかし、福音書のイエスさまの言葉によって立つのであれば、当然、教会は貧しくて当たり前なのです。なぜなら、教会が求めるのは神の祝福であって、この世的な金銭や人間の力ではありません。ところが、キリスト教会において、牧師において、そうした悪魔のささやきに屈した牧師、あるいは悪魔のささやきに屈していることに気付かない牧師、自分が信じているものがイエス・キリストのかたちをした悪魔であることに気付かない牧師が存在するわけです。それは決して「わたしは大丈夫だ」ということではありません。

 牧師は常に、そうしたイエス・キリストの言葉に対して真摯に向き合うことが求められているのであって、わたしも何時、どういうきっかけでそうした悪魔崇拝牧師になるかもしれないと、常に注意していなければならないというわたしの牧師としての自覚なのです。

 自分が信じているものが本当にイエス・キリストであるのか? それともイエス・キリストの殻をかぶった悪魔であるのか、それを見分ける信仰の目が牧師には必要なのです。そして、そうした間違いを犯す牧師に対して、そうした間違いを遠慮なく指摘する信徒にも同様にそのことが求められるのです(プロテスタントでは万人祭司の信仰に立つので「聖職(者)」という概念がなく、牧師も信徒も役割の違いはあっても基本的には同じと理解します)。


 さて、だいぶフィリピの信徒への手紙から離れてしまいましたので話をもとにもどします。

 フィリピの信徒への手紙1章1~11節
1)キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。

5)それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

7)わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

9)わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
10)本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
11)イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

 パウロがフィリピの教会の信徒に対して記しているように、フィリピの教会にはすでに教会という組織が成立しており、そこにおいて監督者・奉仕者・聖徒(信徒)といったような教会の中における役割の違いがあることがわかります。

 そして、パウロはフィリピの教会がまさに教会であることのそのもっとも大切な事柄として、「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」ということを上げて説明するのです。

 教会が教会であるために大切なことは何かと言えばそれはまさに週ごとに行われる「礼拝」において牧師を通じて「福音」が「語られ」、そして、「信徒」が「福音にあずかっている」ということなのです。


 パウロの生きていた時代において「信徒獲得」は主目的ではありませんでした。むしろ、それは神が祝福として教会に対して与えてくれるものであり、人間(牧師、あるいは信徒)が努力して獲得するものではないのです。

 教会が教会である、その第一条件は「福音の宣教と信徒が福音にあずかる」ということであって、当然、それは「礼拝」を通じて行われるものであるのです。

 ところが、ともすると教会は「礼拝をやっているだけではダメだ」ということを言うようになるわけです。


 聖書の中では神の祝福のひとつの表現方法として数量的に大きくなる表現をもって、神の祝福が大きいことを表現します。

 たとえば、以下の聖書箇所。

 使徒言行録2章40~41節
40)ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
41)ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
 
 ここにおいて、初代教会は1日で3,000人の信徒を獲得したことが書かれています。

 それは、今日的に言えば、「神の祝福があれば3,000人の信徒を獲得することができる」ということなのでしょうか? それとも「3,000人教会を達成すれば、その教会は信仰的に正しい教会である」ということなのでしょうか?

 もちろん、当時の初代教会において実数として3,000人の信徒が加わったとして理解することもかのうですが、むしろ、それは数の大きさをもって「神の祝福の大きさ」を示したものと理解するのが無難なのです。


 ところが、教会によっては、まさにこの「3,000人」ということを非常に重大なこととして、まさにそれが神の祝福を象徴する数字として、また、牧師に対して、神からの啓示としての「3,000人」という、そういう意味では実に誘惑であるのです。 


 パウロはそうした目先の事柄ではなく、週毎の礼拝において神の言葉が何であるかを正しく聞くことによって、信徒が物事を信仰的に正しく見抜くための物事を測る力を持つことを勧めているのです。

 そして、それは具体的には、この世的な悪魔の誘惑から自分の信仰を引き離すものであり、イエス・キリストの言葉に忠実にとどまる信仰の力であり、それは信徒に対して、知る力・見抜く力を養うものであり、それによって、何が信仰において大切なものであるのかをわきまえ、イエス・キリストの愛に根ざして信仰生活を送るようになるものであるのです。

 ところが、そうしたイエス・キリストの愛に根ざして生きるということは、必ずしも、良いことばかりが起こるという生活ではありません。むしろ、フィリピの教会の人たちが経験しているのは、パウロの逮捕やあるいはキリスト教徒に対する迫害、そして、教会に対してやってくるユダヤ教に改宗を求める動きであったのです。


 パウロは1章12節以下において、自分の人生がまさにイエス・キリストのものであることを証します。

 それはキリスト者にとって大変重要なことであり、また牧師にとって、実に基本的な事柄であります。

 パウロはそれを「わたしにとって、生きるとはキリストであり」と言っています。

 牧師はキリストに倣うものであって、当然、悪魔に倣うものではありません。しかし、そのごく当たり前のことが牧師には実に難しいものであるのです。それはわたし自身も常々感じるところですが、この世的な誘惑が常に付きまとうのです。

 そして、そうしたことの結論として、パウロは1章27節以下において次のように結論付けるのです。

 フィリピの信徒への手紙1章27~30節
27)ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
28)どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
29)つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
30)あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
 
 当時の人たちもそうですが、イエス・キリストを信じる信仰において大いに困難を経験する場合あるのです。しかし、それは決して、この世的な繁栄を求めることにおける困難ではなく、むしろ、イエス・キリストを信じる信仰において当時の社会において正しく生きようとした人たちが経験した困難であるのです。

 わたしたちは神の御言葉に絶対的な価値観を置いて、その上に立った上で、この世の物事を知り、見て、そしてそこにおいてキリスト者として生きるわけです。

 当然、そこにおいては困難がつきものなのですが、むしろそうではなく、教会が悪魔崇拝に走るそのことによって、すなわち牧師から達成するべきノルマとして信徒に対して重荷が負わされるというそうした困難が起こるのです。

 それは本来、信徒が負う必要のない全く無意味な困難であるにも関わらず、牧師がそれを「まさに神のための苦しみである」と、「それは神からの恵みである」と、無茶な要求を突き付けることがあるのです。

 マタイによる福音書においてイエスさまが祭司長や律法学者たちに対して言われたことばがあります。

 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(マタイ23:4)

 わたしたちキリスト者にとって、この世における労苦が、まさに「神の栄光のため」であるなら、それを喜びとすることもできます。ところが、そうした労苦が「悪魔の栄光のため」であるならそれは耐え難い屈辱です。

 そして、まさにそうした耐え難い屈辱に耐えかねて自らの命を絶つ方が実際に存在するのです。わたしはそうした方を、自分のこれまでの人生において知っております。

 そういう意味で、わたしは常に自らがそうした悪魔になることの無いように、常に、自分の弱さと向き合いつつ、神の助けを求めているのです。しかし、そのように気をつけていても、あるいは自分の無意識やあるいは自分の知らないところで、そうしたものに巻き込まれ、また自分が気づかないうちにそうした存在になっているかもしれないという可能性は常にあるのです。

 わたしたちがこの世において生きている限りにおいて、そうした罪やあるいは悪魔の誘惑から自由になることはありません。むしろ、わたしの場合でいえば、「牧師である」という事において、他の方々よりもはるかに危険性が高いのです。そして、そのうえで教会において「成功」「勝利」といったことは常に注意が必要ということです。特にそれが人間の努力によって導かれるものである場合、それは「達成感」「充実感」というおまけつきであることが多いのです。そして、その誘惑する力は非常に強力なのです。



 フィリピの信徒への手紙2章3~4節
3)何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4)めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 パウロがそうしたフィリピの教会の信徒に求めるのは信仰における「謙遜」です。牧師も信徒も神と人との前に謙遜であることが大切であるのです。

 フィリピの信徒への手紙2章15~16節
15)そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
16)命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 

 キリスト者にとって「清い者となる」ことは非常に基本的であり、重要です。パウロはそのようにしてい「神の子となる」ことをフィリピの教会の人たちに対して求めます。

 それは、具体的には日々聖書の御言葉に聞き、日ごとにイエス・キリストの御前に罪を告白し、悔い改めを行うという、そうした信仰生活であるのです。そして、キリスト者はそのようにして、この世において信仰者として、それぞれの生活を全うするのです。

 そして、牧師はそれを信徒に語る以前において、まず自身の生活において実践することが求められるのです。しかし、恥ずかしながら、わたしもそれが徹底できているかといえば、決して、徹底できておりません。

 その意味で、日々、神さまにそのことの助けを祈り求める、弱い者であるのです。

 牧師を「献身者」と言えば聞こえが良いですが、本当のところは社会不適格者であったわたしを神さまが信仰において牧師として救って下さったというだけなのです。その意味で、牧師として立てられていること以上の喜びは、わたしにはありません。

 話は変わりますが、わたしの好きなマタイ受難曲の中の一曲が65曲目の「Mache dich, mein Herze, rein,(わが心、清くあれ)」です(リンク先に歌詞も合わせて紹介されています)。
 
 http://pacem.web.fc2.com/youtube_bach/matthaus_2/64_dieskau.htm

 キリスト者の喜びは、まさにイエス・キリストによって罪から救われ、その命を与えられた事にあります。その喜びが本物であることがキリスト者にとって大切です。この喜びこそが、教会の喜びであり、わたしたちはそれによって、教会が本当の教会であるのか、それとも悪魔を崇拝しているような教会であるか、それを見分けることができるのです。


 

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