この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)
ガラテヤの信徒への手紙におけるパウロの最も大事な信仰告白は上記の御言葉にあるように「キリストの救いによって実現する自由(神との間における和解)」です。
ところが、これは「自由」といっても「何もかもが許される自由」とは決定的に違います。パウロが指摘する「自由」とは、「罪の支配からの自由」であって、人間は生まれながら「罪の支配のもとに奴隷状態にある」という信仰的理解を前提とするのです。
そして、イエス・キリストの救いが人間にもたらす「キリスト者の自由」とは、パウロのローマの信徒への手紙の言葉を借りれば、「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマの信徒への手紙6章16節)とあるとおりなのです。
すなわち、言い方をかえれば、神は正しい方でありそれゆえ永遠の存在ですが、人間は不完全であり、その不完全のゆえに、すなわちキリスト教の信仰でいえば「罪」があるために永遠に生きることはできないのです。
ところが、では人間から「罪」の部分だけを抽出して分離できるかというとそれは不可能なのです。
なぜなら、たとえばわたしたち人間が生きるためには他の動植物を食べる行為を通じて、すなわち他の命の犠牲の上にあってはじめて生きることができるわけです。つまり、人間が生きるためには、そうした他の命を犠牲にする罪の行為が必然的に発生するのです。そのため、人間の命は常にそうした他の命の犠牲という罪と一緒であり、この関係を分離することはできないのです。
そして、キリスト教では、人間の命と罪とが、あたかもコインの表と裏の関係にあるように、人間がこの世において人間として生きる限りにおいて、人間から罪の部分だけを取り除くことは不可能なのです。
では、イエス・キリストの救いというのは、そうした罪の奴隷状態、言い換えれば呼吸や食事といった、人間の生理機能から自由にするとはどういう意味なのでしょうか?
仮に、まさにこの「自由」がそうした生理的欲求からの解放であれば、まさに人間はイエス・キリストの救いによって飲み食いする必要はなく、また睡眠やあらゆる人間の活動を必要とせずに人間であることができるようになります。
しかし、洗礼を受けてクリスチャンになったからと言って、その後、水や空気や一切の生理的欲求を必要とせずに生きることができるかといえば、それが可能なのはミイラか死体でしかありません。
すなわち、イエス・キリストの救いとは、人間が何か不完全な状態から神に近い完全な状態になることを意味するのではなく(もし、そうであれば神は必要なくなります)、むしろ、それは「イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださることによって実現する神との関係の回復 」として理解されているのです。そして、そうした地上においては復活の主イエス・キリストと共に歩む信仰の生涯、すなわち、わたしたちが主体的に救いの応答として、神の奴隷として生きることをもって、来たるべき天においては義、すなわち神さまの御前において主の永遠の平安に至ることができるとするわけです。
ですから、パウロは信仰によって救われた人間は、神によって罪から救われたことに対する信仰的応答、すなわち信仰生活を以下のように生きるべきだと勧めています。
当時のガラテヤ地方にあった異邦人教会に、エルサレムからユダヤ主義に基づくキリスト教の指導者がやってきて異邦人教会の人たちに対して、「イエスはメシアであるが、しかし、モーセによる十戒の遵守も必要である」と教えていました。そうしたエルサレムからの指導者たちが語る福音というのは、イエス・キリストをただ信じるだけではだめで、モーセの十戒も必要だと、具体的には「割礼を受けることも救いには必要だ」と教えたのでした。
当然、パウロにとって、そうした「信仰において割礼の必要性がある」ということになると、「イエス・キリストの救いは不完全だ」ということになります。だからこそ、パウロはこのところで、イエス・キリストの救いの核心、すなわち福音とはまさに「人間は(割礼などの行いによらず)信仰によってのみ、(イエス・キリストの救いによって)神の御前に義(正しいもの)とされるのだ」ということを主張したのです。
しかし、だからと言って、パウロはそのようにしてイエス・キリストを信じる信仰によって救われた人間が、自分の本能的欲求に従って生きればいいのだとは言わないのです。
パウロは5節で、イエス・キリストの救いによって救われた者は、「義とされた者の希望が実現すること」を、「”霊”により」、「信仰に基づいて」、「切に待ち望んでいる」と説明するのです。
じつに抽象的な表現なので分かりにくいですが、これは何を言っているのかといえば、次の6節に出てくる「愛の実践を伴う信仰」について、すなわち、イエス・キリストの救いによって救われた者、すなわちそのようにして義とされた者は、その心の内に「愛の実践」、すなわち「隣人に対して自分がイエス・キリストから受けた愛をもって接する生き方」(隣人愛の実践)へとその心が向かうようになり、その実現のために、キリスト者は聖霊の助けを求め、信仰に基づいて物事を判断し、神の助けによってそれが実現されるように祈りの内に待ち望むのだというわけです。
長くなるのでまとめると、要はクリスチャンになった人は、その救われた喜びから、隣人愛の実践に生きるようになるのです。しかし、それは決して、人間的努力として行うのではなく、あくまでも祈りの内に、聖霊の助けによって、信仰によって実現するのだというのです。
ガラテヤの信徒への手紙5章18~23節
ここも結構、有名な聖書箇所ですが、パウロはガラテヤ教会の人たちに対して、キリスト者には二種類いることを説明します。ひとつは「聖霊の導きに従っているキリスト者」であり、もうひとつは「それ以外のキリスト者」です。
当然、パウロがキリスト者として求めるのは前者であり、それはイエス・キリストの霊である聖霊の導きに従っているキリスト者です。そして、そのようにして信仰生活を全うするキリスト者、あるいは教会こそが、まさにキリストの教会であって、そうでないものはキリストの教会ではないと、かなりキツイ言葉で「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」と言っているとおりです。
その意味で、わたしたちは自分の信仰について、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、主演、その他これに類するもの」がないかどうかを吟味する必要があるのです。そして、信仰生活における「聖霊の助け」とは、まさにこういったものを総称して「罪」を、聖書の御言葉を通じて教え諭してくれるのです。
そして、キリスト者はひとりひとりがそうしたものに常に注意すると共に、次のことが実現するように神さまに祈り求めなければならないのです。それは「(キリストの)愛であり、(罪の赦しによる)喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といったものです。
パウロは、信仰により、イエス・キリストの救いに与ったキリスト者は、そうした信仰生活へと導かれ、まさにそうした信仰者による信仰共同体としての教会を目指すことを教えたのです。
そして、そうした背後にあるのは、当時のガラテヤ地方の教会が、信仰者の集まりであるにも関わらず、そうした間違った方向へと突き進んでいったということの反省にあるのです。
ガラテヤの信徒への手紙6章1~2節
キリスト者は決して清い存在ではなく、イエス・キリストの救いによって救われてなお罪人であるという本質からは逃れることができないのです。むしろ、キリスト者の聖性というものがあるのであれば、それはキリスト者自身の内から出てくるものではなく、その人と共に居ますイエス・キリストの聖性によるものなのです。
だからこそ、わたしたちは常にイエス・キリストと共にあり、そこにおいて常に罪の告白・罪の悔い改めが必要であるのです。そして、そうした弱さを持つキリスト者が集まっている教会も、また、神の御前において完全ではないわけです。
パウロは信仰者ひとりひとりが自分の罪に気を付けることは言うまでもなく、互いの罪についても気を配ることを言っています。そこにおいては同じ罪人として、まさに隣人の罪をも自分の罪と同じように考えて、罪の誘惑に陥ってしまうことのないようにしなさいと勧めるのです。そして、まさに教会は、そうした互いの罪を担い合うことを通じて、すなわち互いに重荷を担うことを通じて、「キリストの律法を全う」することになるというわけです。
キリストの律法とはすなわち『律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。』(ガラテヤ5:14)とあるとおりです。
ガラテヤの信徒への手紙6章7~9節
7)思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
イエス・キリストによって救われた人物が、信仰者となって、その後に犯す罪はイエス・キリストを信じる信仰によって自動的に赦されるのかというとそうではないことをパウロはここで言っています。
「自分の蒔いたものを、また刈り取る」とは、すなわちたとえ信仰者であっても、罪を犯せば、その罪の責任を取らなければならないということです。
すなわち「キリスト者になった」ということは、本当の意味での「救いの確約」ではないのです。
イエス・キリストの救いはそれ自体で完璧なものですが、しかし、それは「永遠の命」に至るための「最初の一歩」なのです。イエス・キリストの救いが、まさにその人をその人の意志とは無関係に強制的に「永遠の命」を約束するものであれば、そこに「人間の意志」は必要ありません。
一見すると、「神が人間を強制的に救う」ということは人間にとって非常に嬉しいことのように感じますが、実は、それは「人間を人間としない」ことでもあるのです。むしろ、それは「人間としての、人格を持った個としての存在の否定」であって、それは「完璧な救い」に見えますがそうではないのです。
神さまは、人間をあくまでも一個の人間として、その存在を大切にされるからこそ「勝手に救わない」のです。
それは一見すると「不親切」に感じますが、そうではありません。
神さまはわたしたち人間に対して、わたしたちと同じ高さに下ってくださり、そして、わたしたちと対等の立場においてその救いを与えてくださったのです。
それはわたしたちを一個の人間として大切にされる愛に基づくものであり、当然、信仰として、応答として、神さまの救いに応えることが期待されているのです。
人に対して、なんでもかんでもやさしくすることが親切かというとそうではありません。わたしたちは悪を行おうと考えて悪を行うことは少ないですが、案外にも、善を行おうとして悪を行うことが多いのです。
わたしが牧師になって経験した罪というのは、ほとんどがそうした「自分としては親切のつもり」が、結果として「相手の人格を否定している」というケースです。これはよほど注意していないと、うっかりするとよくやってしまう罪です。
そういう意味で案外にも教会は、パウロが指摘するように、そうした罪の誘惑に多く曝されている場所でもあるのです。表向きは「親切」なので、本人はそれが悪であると気が付きません。しかも、それを無意識で行っていたりすることが多々あります。
そうしたことが個人レベルで起こり、また教会レベルで起こるのです。
キリスト者が立ち向かうべき相手は、まさにそうしたわたしたちの罪であり、当然、それは信仰により、聖霊の助けによらなければ決して立ち向かうことはできないのです。
今日のキリスト教会において表向き「偶像礼拝」は存在しません。しかし、パウロが言う「偶像礼拝」は決して他の宗教の神像を礼拝することを意味しません。むしろ「伝道」「宣教」「福音」「救済」という言葉によって、個人の自己満足や組織の拡大など、それに類するさまざまなものが偶像としてキリスト教会の中で礼拝の対象となっているのです。
ガラテヤ書において「律法」は「割礼」を意味していました。では、今日における「律法」とは何でしょうか?
もちろん、教科書的には「律法主義」というような答えになるのでしょうが、わたしがこのガラテヤ書から読み取ることができるのは今日的「律法」とは「伝道」ということです。
それは「伝道」そのものが否定されるのではありません。「伝道」が目的化され、教会員に対して伝道がノルマ化されることが、今日的な「偶像礼拝」なのです。それは表向き「悪でない」ことから、「正しいことだ」と無条件に考えてしまいやすいのです。
キリスト者もまた教会も、常に、そうした何が罪であり、偶像礼拝であるのか、そのことに注意を払い、イエス・キリストに従い続けなければ、その先にあるのは身の破滅でしかないのです。
ガラテヤの信徒への手紙におけるパウロの最も大事な信仰告白は上記の御言葉にあるように「キリストの救いによって実現する自由(神との間における和解)」です。
ところが、これは「自由」といっても「何もかもが許される自由」とは決定的に違います。パウロが指摘する「自由」とは、「罪の支配からの自由」であって、人間は生まれながら「罪の支配のもとに奴隷状態にある」という信仰的理解を前提とするのです。
そして、イエス・キリストの救いが人間にもたらす「キリスト者の自由」とは、パウロのローマの信徒への手紙の言葉を借りれば、「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマの信徒への手紙6章16節)とあるとおりなのです。
すなわち、言い方をかえれば、神は正しい方でありそれゆえ永遠の存在ですが、人間は不完全であり、その不完全のゆえに、すなわちキリスト教の信仰でいえば「罪」があるために永遠に生きることはできないのです。
ところが、では人間から「罪」の部分だけを抽出して分離できるかというとそれは不可能なのです。
なぜなら、たとえばわたしたち人間が生きるためには他の動植物を食べる行為を通じて、すなわち他の命の犠牲の上にあってはじめて生きることができるわけです。つまり、人間が生きるためには、そうした他の命を犠牲にする罪の行為が必然的に発生するのです。そのため、人間の命は常にそうした他の命の犠牲という罪と一緒であり、この関係を分離することはできないのです。
そして、キリスト教では、人間の命と罪とが、あたかもコインの表と裏の関係にあるように、人間がこの世において人間として生きる限りにおいて、人間から罪の部分だけを取り除くことは不可能なのです。
では、イエス・キリストの救いというのは、そうした罪の奴隷状態、言い換えれば呼吸や食事といった、人間の生理機能から自由にするとはどういう意味なのでしょうか?
仮に、まさにこの「自由」がそうした生理的欲求からの解放であれば、まさに人間はイエス・キリストの救いによって飲み食いする必要はなく、また睡眠やあらゆる人間の活動を必要とせずに人間であることができるようになります。
しかし、洗礼を受けてクリスチャンになったからと言って、その後、水や空気や一切の生理的欲求を必要とせずに生きることができるかといえば、それが可能なのはミイラか死体でしかありません。
すなわち、イエス・キリストの救いとは、人間が何か不完全な状態から神に近い完全な状態になることを意味するのではなく(もし、そうであれば神は必要なくなります)、むしろ、それは「イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださることによって実現する神との関係の回復 」として理解されているのです。そして、そうした地上においては復活の主イエス・キリストと共に歩む信仰の生涯、すなわち、わたしたちが主体的に救いの応答として、神の奴隷として生きることをもって、来たるべき天においては義、すなわち神さまの御前において主の永遠の平安に至ることができるとするわけです。
ですから、パウロは信仰によって救われた人間は、神によって罪から救われたことに対する信仰的応答、すなわち信仰生活を以下のように生きるべきだと勧めています。
ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節
2)ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
2)ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
3)割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
4)律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5)わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
6)キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 当時のガラテヤ地方にあった異邦人教会に、エルサレムからユダヤ主義に基づくキリスト教の指導者がやってきて異邦人教会の人たちに対して、「イエスはメシアであるが、しかし、モーセによる十戒の遵守も必要である」と教えていました。そうしたエルサレムからの指導者たちが語る福音というのは、イエス・キリストをただ信じるだけではだめで、モーセの十戒も必要だと、具体的には「割礼を受けることも救いには必要だ」と教えたのでした。
当然、パウロにとって、そうした「信仰において割礼の必要性がある」ということになると、「イエス・キリストの救いは不完全だ」ということになります。だからこそ、パウロはこのところで、イエス・キリストの救いの核心、すなわち福音とはまさに「人間は(割礼などの行いによらず)信仰によってのみ、(イエス・キリストの救いによって)神の御前に義(正しいもの)とされるのだ」ということを主張したのです。
しかし、だからと言って、パウロはそのようにしてイエス・キリストを信じる信仰によって救われた人間が、自分の本能的欲求に従って生きればいいのだとは言わないのです。
パウロは5節で、イエス・キリストの救いによって救われた者は、「義とされた者の希望が実現すること」を、「”霊”により」、「信仰に基づいて」、「切に待ち望んでいる」と説明するのです。
じつに抽象的な表現なので分かりにくいですが、これは何を言っているのかといえば、次の6節に出てくる「愛の実践を伴う信仰」について、すなわち、イエス・キリストの救いによって救われた者、すなわちそのようにして義とされた者は、その心の内に「愛の実践」、すなわち「隣人に対して自分がイエス・キリストから受けた愛をもって接する生き方」(隣人愛の実践)へとその心が向かうようになり、その実現のために、キリスト者は聖霊の助けを求め、信仰に基づいて物事を判断し、神の助けによってそれが実現されるように祈りの内に待ち望むのだというわけです。
長くなるのでまとめると、要はクリスチャンになった人は、その救われた喜びから、隣人愛の実践に生きるようになるのです。しかし、それは決して、人間的努力として行うのではなく、あくまでも祈りの内に、聖霊の助けによって、信仰によって実現するのだというのです。
ガラテヤの信徒への手紙5章18~23節
18)しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19)肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
20)偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
21)ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
22)これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
23)柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ここも結構、有名な聖書箇所ですが、パウロはガラテヤ教会の人たちに対して、キリスト者には二種類いることを説明します。ひとつは「聖霊の導きに従っているキリスト者」であり、もうひとつは「それ以外のキリスト者」です。
当然、パウロがキリスト者として求めるのは前者であり、それはイエス・キリストの霊である聖霊の導きに従っているキリスト者です。そして、そのようにして信仰生活を全うするキリスト者、あるいは教会こそが、まさにキリストの教会であって、そうでないものはキリストの教会ではないと、かなりキツイ言葉で「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」と言っているとおりです。
その意味で、わたしたちは自分の信仰について、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、主演、その他これに類するもの」がないかどうかを吟味する必要があるのです。そして、信仰生活における「聖霊の助け」とは、まさにこういったものを総称して「罪」を、聖書の御言葉を通じて教え諭してくれるのです。
そして、キリスト者はひとりひとりがそうしたものに常に注意すると共に、次のことが実現するように神さまに祈り求めなければならないのです。それは「(キリストの)愛であり、(罪の赦しによる)喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といったものです。
パウロは、信仰により、イエス・キリストの救いに与ったキリスト者は、そうした信仰生活へと導かれ、まさにそうした信仰者による信仰共同体としての教会を目指すことを教えたのです。
そして、そうした背後にあるのは、当時のガラテヤ地方の教会が、信仰者の集まりであるにも関わらず、そうした間違った方向へと突き進んでいったということの反省にあるのです。
ガラテヤの信徒への手紙6章1~2節
1)兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
2)互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
キリスト者は決して清い存在ではなく、イエス・キリストの救いによって救われてなお罪人であるという本質からは逃れることができないのです。むしろ、キリスト者の聖性というものがあるのであれば、それはキリスト者自身の内から出てくるものではなく、その人と共に居ますイエス・キリストの聖性によるものなのです。
だからこそ、わたしたちは常にイエス・キリストと共にあり、そこにおいて常に罪の告白・罪の悔い改めが必要であるのです。そして、そうした弱さを持つキリスト者が集まっている教会も、また、神の御前において完全ではないわけです。
パウロは信仰者ひとりひとりが自分の罪に気を付けることは言うまでもなく、互いの罪についても気を配ることを言っています。そこにおいては同じ罪人として、まさに隣人の罪をも自分の罪と同じように考えて、罪の誘惑に陥ってしまうことのないようにしなさいと勧めるのです。そして、まさに教会は、そうした互いの罪を担い合うことを通じて、すなわち互いに重荷を担うことを通じて、「キリストの律法を全う」することになるというわけです。
キリストの律法とはすなわち『律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。』(ガラテヤ5:14)とあるとおりです。
ガラテヤの信徒への手紙6章7~9節
7)思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
8)自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
9)たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。
イエス・キリストによって救われた人物が、信仰者となって、その後に犯す罪はイエス・キリストを信じる信仰によって自動的に赦されるのかというとそうではないことをパウロはここで言っています。
「自分の蒔いたものを、また刈り取る」とは、すなわちたとえ信仰者であっても、罪を犯せば、その罪の責任を取らなければならないということです。
すなわち「キリスト者になった」ということは、本当の意味での「救いの確約」ではないのです。
イエス・キリストの救いはそれ自体で完璧なものですが、しかし、それは「永遠の命」に至るための「最初の一歩」なのです。イエス・キリストの救いが、まさにその人をその人の意志とは無関係に強制的に「永遠の命」を約束するものであれば、そこに「人間の意志」は必要ありません。
一見すると、「神が人間を強制的に救う」ということは人間にとって非常に嬉しいことのように感じますが、実は、それは「人間を人間としない」ことでもあるのです。むしろ、それは「人間としての、人格を持った個としての存在の否定」であって、それは「完璧な救い」に見えますがそうではないのです。
神さまは、人間をあくまでも一個の人間として、その存在を大切にされるからこそ「勝手に救わない」のです。
それは一見すると「不親切」に感じますが、そうではありません。
神さまはわたしたち人間に対して、わたしたちと同じ高さに下ってくださり、そして、わたしたちと対等の立場においてその救いを与えてくださったのです。
それはわたしたちを一個の人間として大切にされる愛に基づくものであり、当然、信仰として、応答として、神さまの救いに応えることが期待されているのです。
人に対して、なんでもかんでもやさしくすることが親切かというとそうではありません。わたしたちは悪を行おうと考えて悪を行うことは少ないですが、案外にも、善を行おうとして悪を行うことが多いのです。
わたしが牧師になって経験した罪というのは、ほとんどがそうした「自分としては親切のつもり」が、結果として「相手の人格を否定している」というケースです。これはよほど注意していないと、うっかりするとよくやってしまう罪です。
そういう意味で案外にも教会は、パウロが指摘するように、そうした罪の誘惑に多く曝されている場所でもあるのです。表向きは「親切」なので、本人はそれが悪であると気が付きません。しかも、それを無意識で行っていたりすることが多々あります。
そうしたことが個人レベルで起こり、また教会レベルで起こるのです。
キリスト者が立ち向かうべき相手は、まさにそうしたわたしたちの罪であり、当然、それは信仰により、聖霊の助けによらなければ決して立ち向かうことはできないのです。
今日のキリスト教会において表向き「偶像礼拝」は存在しません。しかし、パウロが言う「偶像礼拝」は決して他の宗教の神像を礼拝することを意味しません。むしろ「伝道」「宣教」「福音」「救済」という言葉によって、個人の自己満足や組織の拡大など、それに類するさまざまなものが偶像としてキリスト教会の中で礼拝の対象となっているのです。
ガラテヤ書において「律法」は「割礼」を意味していました。では、今日における「律法」とは何でしょうか?
もちろん、教科書的には「律法主義」というような答えになるのでしょうが、わたしがこのガラテヤ書から読み取ることができるのは今日的「律法」とは「伝道」ということです。
それは「伝道」そのものが否定されるのではありません。「伝道」が目的化され、教会員に対して伝道がノルマ化されることが、今日的な「偶像礼拝」なのです。それは表向き「悪でない」ことから、「正しいことだ」と無条件に考えてしまいやすいのです。
キリスト者もまた教会も、常に、そうした何が罪であり、偶像礼拝であるのか、そのことに注意を払い、イエス・キリストに従い続けなければ、その先にあるのは身の破滅でしかないのです。