山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

2014年04月

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)


 ガラテヤの信徒への手紙におけるパウロの最も大事な信仰告白は上記の御言葉にあるように「キリストの救いによって実現する自由(神との間における和解)」です。

 ところが、これは「自由」といっても「何もかもが許される自由」とは決定的に違います。パウロが指摘する「自由」とは、「罪の支配からの自由」であって、人間は生まれながら「罪の支配のもとに奴隷状態にある」という信仰的理解を前提とするのです。

 そして、イエス・キリストの救いが人間にもたらす「キリスト者の自由」とは、パウロのローマの信徒への手紙の言葉を借りれば、「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマの信徒への手紙6章16節)とあるとおりなのです。

 すなわち、言い方をかえれば、神は正しい方でありそれゆえ永遠の存在ですが、人間は不完全であり、その不完全のゆえに、すなわちキリスト教の信仰でいえば「罪」があるために永遠に生きることはできないのです。

 ところが、では人間から「罪」の部分だけを抽出して分離できるかというとそれは不可能なのです。

 なぜなら、たとえばわたしたち人間が生きるためには他の動植物を食べる行為を通じて、すなわち他の命の犠牲の上にあってはじめて生きることができるわけです。つまり、人間が生きるためには、そうした他の命を犠牲にする罪の行為が必然的に発生するのです。そのため、人間の命は常にそうした他の命の犠牲という罪と一緒であり、この関係を分離することはできないのです。
 そして、キリスト教では、人間の命と罪とが、あたかもコインの表と裏の関係にあるように、人間がこの世において人間として生きる限りにおいて、人間から罪の部分だけを取り除くことは不可能なのです。

 では、イエス・キリストの救いというのは、そうした罪の奴隷状態、言い換えれば呼吸や食事といった、人間の生理機能から自由にするとはどういう意味なのでしょうか?

 仮に、まさにこの「自由」がそうした生理的欲求からの解放であれば、まさに人間はイエス・キリストの救いによって飲み食いする必要はなく、また睡眠やあらゆる人間の活動を必要とせずに人間であることができるようになります。

  しかし、洗礼を受けてクリスチャンになったからと言って、その後、水や空気や一切の生理的欲求を必要とせずに生きることができるかといえば、それが可能なのはミイラか死体でしかありません。

 すなわち、イエス・キリストの救いとは、人間が何か不完全な状態から神に近い完全な状態になることを意味するのではなく(もし、そうであれば神は必要なくなります)、むしろ、それは「イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださることによって実現する神との関係の回復 」として理解されているのです。そして、そうした地上においては復活の主イエス・キリストと共に歩む信仰の生涯、すなわち、わたしたちが主体的に救いの応答として、神の奴隷として生きることをもって、来たるべき天においては義、すなわち神さまの御前において主の永遠の平安に至ることができるとするわけです。

 ですから、パウロは信仰によって救われた人間は、神によって罪から救われたことに対する信仰的応答、すなわち信仰生活を以下のように生きるべきだと勧めています。

 ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節
2)ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
3)割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
4)律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5)わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
6)キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 

 当時のガラテヤ地方にあった異邦人教会に、エルサレムからユダヤ主義に基づくキリスト教の指導者がやってきて異邦人教会の人たちに対して、「イエスはメシアであるが、しかし、モーセによる十戒の遵守も必要である」と教えていました。そうしたエルサレムからの指導者たちが語る福音というのは、イエス・キリストをただ信じるだけではだめで、モーセの十戒も必要だと、具体的には「割礼を受けることも救いには必要だ」と教えたのでした。

 当然、パウロにとって、そうした「信仰において割礼の必要性がある」ということになると、「イエス・キリストの救いは不完全だ」ということになります。だからこそ、パウロはこのところで、イエス・キリストの救いの核心、すなわち福音とはまさに「人間は(割礼などの行いによらず)信仰によってのみ、(イエス・キリストの救いによって)神の御前に義(正しいもの)とされるのだ」ということを主張したのです。

 しかし、だからと言って、パウロはそのようにしてイエス・キリストを信じる信仰によって救われた人間が、自分の本能的欲求に従って生きればいいのだとは言わないのです。

 パウロは5節で、イエス・キリストの救いによって救われた者は、「義とされた者の希望が実現すること」を、「”霊”により」、「信仰に基づいて」、「切に待ち望んでいる」と説明するのです。

 じつに抽象的な表現なので分かりにくいですが、これは何を言っているのかといえば、次の6節に出てくる「愛の実践を伴う信仰」について、すなわち、イエス・キリストの救いによって救われた者、すなわちそのようにして義とされた者は、その心の内に「愛の実践」、すなわち「隣人に対して自分がイエス・キリストから受けた愛をもって接する生き方」(隣人愛の実践)へとその心が向かうようになり、その実現のために、キリスト者は聖霊の助けを求め、信仰に基づいて物事を判断し、神の助けによってそれが実現されるように祈りの内に待ち望むのだというわけです。

 長くなるのでまとめると、要はクリスチャンになった人は、その救われた喜びから、隣人愛の実践に生きるようになるのです。しかし、それは決して、人間的努力として行うのではなく、あくまでも祈りの内に、聖霊の助けによって、信仰によって実現するのだというのです。


 ガラテヤの信徒への手紙5章18~23節
18)しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19)肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
20)偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
21)ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
22)これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
23)柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
 
 ここも結構、有名な聖書箇所ですが、パウロはガラテヤ教会の人たちに対して、キリスト者には二種類いることを説明します。ひとつは「聖霊の導きに従っているキリスト者」であり、もうひとつは「それ以外のキリスト者」です。

 当然、パウロがキリスト者として求めるのは前者であり、それはイエス・キリストの霊である聖霊の導きに従っているキリスト者です。そして、そのようにして信仰生活を全うするキリスト者、あるいは教会こそが、まさにキリストの教会であって、そうでないものはキリストの教会ではないと、かなりキツイ言葉で「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」と言っているとおりです。

 その意味で、わたしたちは自分の信仰について、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、主演、その他これに類するもの」がないかどうかを吟味する必要があるのです。そして、信仰生活における「聖霊の助け」とは、まさにこういったものを総称して「罪」を、聖書の御言葉を通じて教え諭してくれるのです。

 そして、キリスト者はひとりひとりがそうしたものに常に注意すると共に、次のことが実現するように神さまに祈り求めなければならないのです。それは「(キリストの)愛であり、(罪の赦しによる)喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といったものです。

 パウロは、信仰により、イエス・キリストの救いに与ったキリスト者は、そうした信仰生活へと導かれ、まさにそうした信仰者による信仰共同体としての教会を目指すことを教えたのです。


 そして、そうした背後にあるのは、当時のガラテヤ地方の教会が、信仰者の集まりであるにも関わらず、そうした間違った方向へと突き進んでいったということの反省にあるのです。

 ガラテヤの信徒への手紙6章1~2節
1)兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
2)互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 キリスト者は決して清い存在ではなく、イエス・キリストの救いによって救われてなお罪人であるという本質からは逃れることができないのです。むしろ、キリスト者の聖性というものがあるのであれば、それはキリスト者自身の内から出てくるものではなく、その人と共に居ますイエス・キリストの聖性によるものなのです。

 だからこそ、わたしたちは常にイエス・キリストと共にあり、そこにおいて常に罪の告白・罪の悔い改めが必要であるのです。そして、そうした弱さを持つキリスト者が集まっている教会も、また、神の御前において完全ではないわけです。

 パウロは信仰者ひとりひとりが自分の罪に気を付けることは言うまでもなく、互いの罪についても気を配ることを言っています。そこにおいては同じ罪人として、まさに隣人の罪をも自分の罪と同じように考えて、罪の誘惑に陥ってしまうことのないようにしなさいと勧めるのです。そして、まさに教会は、そうした互いの罪を担い合うことを通じて、すなわち互いに重荷を担うことを通じて、「キリストの律法を全う」することになるというわけです。

 キリストの律法とはすなわち『律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。』(ガラテヤ5:14)とあるとおりです。


 ガラテヤの信徒への手紙6章7~9節
7)思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
8)自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
9)たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

 イエス・キリストによって救われた人物が、信仰者となって、その後に犯す罪はイエス・キリストを信じる信仰によって自動的に赦されるのかというとそうではないことをパウロはここで言っています。

 「自分の蒔いたものを、また刈り取る」とは、すなわちたとえ信仰者であっても、罪を犯せば、その罪の責任を取らなければならないということです。

 すなわち「キリスト者になった」ということは、本当の意味での「救いの確約」ではないのです。

 イエス・キリストの救いはそれ自体で完璧なものですが、しかし、それは「永遠の命」に至るための「最初の一歩」なのです。イエス・キリストの救いが、まさにその人をその人の意志とは無関係に強制的に「永遠の命」を約束するものであれば、そこに「人間の意志」は必要ありません。

 一見すると、「神が人間を強制的に救う」ということは人間にとって非常に嬉しいことのように感じますが、実は、それは「人間を人間としない」ことでもあるのです。むしろ、それは「人間としての、人格を持った個としての存在の否定」であって、それは「完璧な救い」に見えますがそうではないのです。

 神さまは、人間をあくまでも一個の人間として、その存在を大切にされるからこそ「勝手に救わない」のです。

 それは一見すると「不親切」に感じますが、そうではありません。

 神さまはわたしたち人間に対して、わたしたちと同じ高さに下ってくださり、そして、わたしたちと対等の立場においてその救いを与えてくださったのです。

 それはわたしたちを一個の人間として大切にされる愛に基づくものであり、当然、信仰として、応答として、神さまの救いに応えることが期待されているのです。



 人に対して、なんでもかんでもやさしくすることが親切かというとそうではありません。わたしたちは悪を行おうと考えて悪を行うことは少ないですが、案外にも、善を行おうとして悪を行うことが多いのです。
 わたしが牧師になって経験した罪というのは、ほとんどがそうした「自分としては親切のつもり」が、結果として「相手の人格を否定している」というケースです。これはよほど注意していないと、うっかりするとよくやってしまう罪です。

 そういう意味で案外にも教会は、パウロが指摘するように、そうした罪の誘惑に多く曝されている場所でもあるのです。表向きは「親切」なので、本人はそれが悪であると気が付きません。しかも、それを無意識で行っていたりすることが多々あります。

 そうしたことが個人レベルで起こり、また教会レベルで起こるのです。

 キリスト者が立ち向かうべき相手は、まさにそうしたわたしたちの罪であり、当然、それは信仰により、聖霊の助けによらなければ決して立ち向かうことはできないのです。



 今日のキリスト教会において表向き「偶像礼拝」は存在しません。しかし、パウロが言う「偶像礼拝」は決して他の宗教の神像を礼拝することを意味しません。むしろ「伝道」「宣教」「福音」「救済」という言葉によって、個人の自己満足や組織の拡大など、それに類するさまざまなものが偶像としてキリスト教会の中で礼拝の対象となっているのです。

 ガラテヤ書において「律法」は「割礼」を意味していました。では、今日における「律法」とは何でしょうか?

 もちろん、教科書的には「律法主義」というような答えになるのでしょうが、わたしがこのガラテヤ書から読み取ることができるのは今日的「律法」とは「伝道」ということです。

 それは「伝道」そのものが否定されるのではありません。「伝道」が目的化され、教会員に対して伝道がノルマ化されることが、今日的な「偶像礼拝」なのです。それは表向き「悪でない」ことから、「正しいことだ」と無条件に考えてしまいやすいのです。

 キリスト者もまた教会も、常に、そうした何が罪であり、偶像礼拝であるのか、そのことに注意を払い、イエス・キリストに従い続けなければ、その先にあるのは身の破滅でしかないのです。
 

 パウロの直筆による手紙としてテサロニケの信徒への手紙を見ました。厳密には、テサロニケの信徒への手紙2はパウロの偽名書簡として知られており、そういう意味ではテサロニケの信徒への手紙1の次はガラテヤの信徒への手紙となります。

 ガラテヤの信徒への手紙はパウロの個人的な救いの体験が記されていたりする、同じパウロについて記されている使徒言行録とはまた違った意味で興味深い手紙です。

 さて、この手紙において、パウロは自身の救いについて、特にそれが神によるものであることを最初に告白します。


 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 」(ガラテヤ1:1~2)

 「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」(ガラテヤ1:11~12)

 パウロにとって復活の主イエス・キリストとの出会いは、まさに「人々からでもなく、人を通してでも」ないものでありました。しかし、パウロはだからといって独学でキリストの信仰を得たのかというとそうではありません。

 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。(使徒言行録9:10~11)

 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。(使徒言行録9:27)


 使徒言行録の記述によればパウロをその信仰のはじめから導いたのはアナニアという弟子とバルナバという弟子でありました。

 しかし、パウロ自身の信仰告白としては、すなわちキリスト者アナニアとキリスト者バルナバがパウロにとって信仰的な指導者だったのですが、パウロの自己理解としては、アナニアとバルナバの導きによるのではなくそれはすなわち「神の導きであった」ということなのです。


 多くの教会では「福音宣教」という旗印を掲げ、まさにそれこそがこの世に生きるキリスト者に課せられた使命だとして、そのために教会を上げて取り組むということが少なくありません。

 「今は、聖霊の時代であり、まさに聖霊の助けによって、キリスト者は出て行ってすべての民に福音を宣教する時代である」と。

 教会の牧師をまさに一種の軍隊の長として、以下、個別の小隊を率いるリーダーを立て、あるいは様々な働きを割り当て、そうしたリーダーを長とする小隊を組織して、まさに教会全体がそうした「福音宣教」という使命を完遂するためのある種「軍隊」として教会を考えるやり方があるわけです。

 「福音宣教」を第一にして、まさに「福音宣教」のために存在する教会が、いわゆる最近よく話題にのぼる教会の形であるのです。

 それは一人一人の個性を活かし、まさに適材適所という言葉が似合うように、教会を一種の軍隊化するわけです。そこに求められるのは「上からの命令に対する絶対服従」であり、まさに教会員は「道具」であるわけです。

 能力主義・成果主義・絶対服従・滅私奉教会(あるいは滅私奉牧師?)・熱狂・騒乱・愉快・跳躍・感動・・・


 さて、こうしたものが求めているものは本当に「福音宣教」なのでしょうか?


 そうしなければ実現できない「福音」とは一体どういう福音なのでしょうか?


 イエス・キリストの福音がわたしたちにとって喜びであるというのは確かです。しかし、その「喜び」と、上記のものがもたらす「喜び」とは同一なのでしょうか?


 それは、たとえば以下のような御言葉を見ればわかるでしょう。

 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:7)

 キリスト者が喜ぶ喜びとは、まさにそれは人間の肉の欲望による喜びでなく、それは「一人の罪人が神の御前に罪を悔い改める」ということによって引き起こされる喜びであるのです。

 すなわち、教会における喜びの根底にあるのは「主イエス・キリストによる罪の赦しの出来事」であって、常に、そこに基準があるのです。

 では、はじめに戻って、パウロの信仰のひとつの特徴は、確かに、直接的にはアナニアやバルナバといった、先に異邦人に対する福音宣教を行ったキリスト者たちによってはじめられたものですが、しかし、パウロ自身の信仰告白として「救いは神の導きによるもの」という確信がまずあったということなのです。

 だからこそ、パウロは「人々からでもなく、人を通してでもなく」と語るのです。それは言い方を変えれば、決して、アナニアやバルナバによって与えられた信仰ではないということなのです。

 つまり、福音宣教とは人間が努めてそれを行うものではなく、その本質において神の救いの御業であるのです。


 だとすると、先ほどのように牧師を頂点として、組織だって福音宣教を行うという、いわゆる教会の伝道の業、クリスチャンによる伝道の業というのは神の御前において一体どういうものなのでしょうか?

 それは教会の中では善として認識され、それを行う人は、「自分は神の御前に正しいことをした。神によろこばれる良いことをした。」という認識を得ることでしょう。


 しかし、それは神の御前においては、イザヤ書59章の以下の御言葉がよく示していると思います。

 イザヤ書59章1~4節
1)主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
2)むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
3)お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。
4)正しい訴えをする者はなく/真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り/労苦をはらみ、災いを産む。

 人間による伝道の業はそれがまさに神の御心に沿うものでない限り、それは行動において、「神には人間を救う力がない。」ということを証していることと同じです。それは、神を信じているようで、実は、神を否定する行為になっているのです。

 「日本ではクリスチャン人口が1%にも満たない。」「山陰は日本でもキリスト教の伝道困難地域だ。」というようなことを聞きます。

 もし、そう言う人が「自分は神を信じている」と自覚するのであれば、それは「自分は神を信じているが、神の力は信用していない。」と言っているのと同じです。

 むしろ、イザヤ書の言葉に聞き従うのであれば、山陰がキリスト教の伝道困難地域だというのは、山陰にあるキリスト教会が、本当の意味でイエス・キリストの福音に立脚していないということが問題なのかもしれません。

 それは教会の外の問題ではなく、むしろ教会の中の問題なのです。ノンクリスチャンが問題なのではなく、クリスチャンにこそ問題があるのです。

 先ほどの軍隊式のような教会をあげて福音宣教を使命とするやり方というのは、下手をすると、すなわち教会の中の人たちが正しく(あるいは、救われた人)、教会の外の人たちが間違っている(あるいは、救われていない人)という二元論的な価値観に支配されます。

 パウロは、ある人物が神によって信仰を持つのは、あるいは信仰に導かれるのは、まさに神の導きであると説明します。つまり、クリスチャンが教会に勧誘すること自体には極端なことを言えば意味がないのです。

 確かに、人間による宗教的勧誘によって、教会に来たことのない人が教会に来るきっかけを作ることはできます。しかし、その事と、その人が神との出会いを経験し、自分の罪を告白して救いに至るかどうかは神の導きによるものであって、そこには関係はないというのがパウロが告白するところなのです。

 むしろ、本当の意味でキリスト教会に求められるのは、次の御言葉にあるように神にすべてをおゆだねする信仰であるのです。

 主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」(民数記11:23)

 わたしたちキリスト者は下手をすると福音宣教という事柄を通じて、まさに神に対して「あなたにはその能力がない。」ということを証していることになるのです。当然、それでは神の栄光があらわれるはずもありません。


 それどころか、「福音」という言葉を用いて、まったく宣教とは逆のことを行っているのです。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(ガラテヤ1:6~7)

  パウロが生きていた当時、ガラテヤの地域、すなわち今日のトルコ共和国の東部地方において、ユダヤ主義に基づくキリスト教を伝える巡回教師のような人たちがいました。彼らの主張は、イエス・キリストをメシアと信じるけれども、しかし、ユダヤ教に基づく食物規定などの事柄もキリスト教の信仰に盛り込む必要があることを説いて回っていたのでした。

 キリスト教会は「福音宣教」という目的のために、あるいはプロテスタントという性質から「保守的」であることを罪として、「新しいこと」「改革」を美徳とする傾向があります。

 当然、変わるべきところは変えなければならないのですが、問題は「何を基準として、その変えること、変えないことを判断するのか」ということです。


 ちまたで良く聞くのは「~だから、教会に人が来ないのだ。」「~だから、教会に魅力がないのだ。」という言葉です。

 そして、当然のことのように、「~すれば、教会に人が来るようになる。」「~すれば、教会がもっと魅力的になる。」という議論が行われるのです。

 まあ、キリスト教会が「人間相手のサービス業だ」ということであれば、そうした議論も成立するでしょう。


 しかし、教会が神の教会であり、礼拝は神が主催されるものである限りにおいて、そうした人間を基準にして考えることは基本的に間違っています。

 教会はすべての人が招かれる礼拝の場でありますが、その目的は神を礼拝することです。

 それは、むしろ人間にとって時間を拘束され、行動を制約される、本能的には不快な出来事なのです。

 しかし、それを上回る喜びが、すなわち本来は神にまみえる資格を持たない、礼拝することを許されない罪深い人間が、イエス・キリストによって神を礼拝することを許されたという喜びの出来事(神との間に和解を得た出来事)であるのです。

 当然、礼拝は人間が「神を礼拝する」という口実で、自分たちが楽しむためのレクリエーションではありません。そして、当然、礼拝には「神を礼拝する喜び」以外の魅力はありません。

 つまりはそうした「参加者にとって魅力的な礼拝」というのは、神を礼拝するようでつまるところは偶像崇拝なのです。
  
 そして、神を神としない、偶像を神とする行為であり、極めて神の御前における重大な過ちであるということになるのです。
 
 
 たしかに、議論として「教会にもっと人が来るようになるためには?」「もっと魅力のある教会にするには?」といったことは議論としては可能です。しかし、パウロに言わせれば、そうしたイエス・キリストの福音と関係のないもの、あるいは指向する方向が異なるものは、まさに福音を覆すものにほかならないのです。

 「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(ガラテヤ1:10)

 キリスト者が聞き従うべきなのは、まさにイエス・キリストの言葉であって、それ以外の誰かの言葉ではありません。パウロはそうした、キリスト者がイエス・キリスト以外の言葉に聞き従う(特に牧師はそのことに注意しなければなりません)のであれば、それはもはや「キリストの僕ではない」と言うわけです。

 そして、そうした信仰へと導くのはまさに神であり、人間ではありません。ガラテヤ書においてパウロが主張する救いとは「キリスト者の伝道による/キリスト者の宣教による」救いではなく、まさに「信仰により、神の導きによる」救いであるのです。

 それはキリスト教会においては基本中の基本でありますが、教会がまさに自己目的化するときに、むしろ、神の導きはどうでもよく、ただ教会が大きくなること、礼拝出席人数が増えること、礼拝献金が増えることが目的化されるのです。

 もちろん、牧師も信徒も「献金が増えることが目的です」「人数が増えることが目的です」ということを表向きに主張することには抵抗があるので、その別の言い回しとして、「福音宣教」という言葉が、教会の自己目的化の隠れ蓑になるのです。

 もし、信仰熱心であることを求めるのであれば、むしろ、日々の生活に努め、聖書を読むことと、神さまに対して祈りをささげることに熱心になればよいのです。

 週毎の礼拝こそがわたしたちの為すべきキリスト者としての証であり、神は礼拝に人を招き、礼拝において神の言葉が語られ、礼拝において救いを経験し、礼拝においてイエス・キリストの今もなお生きて働かれることを信じ、礼拝をもって、この世に対してイエス・キリストの福音を宣教するのです。

 それがキリスト者の生涯における中心的出来事であり、まさにパウロが目指した「信仰によって人は義とされる」ということを証明する唯一の方法であるわけです。 

キリスト教会としての要件2】

 教会が教会であるために、今回はテサロニケの信徒への手紙2を見ます。

 「テサロニケの信徒への手紙2」は、パウロの名を冠した手紙ではありますが、その成立年代(80~90年代。つまりパウロの死後)を考慮すると、パウロが先にテサロニケの教会に対して宛てた第一の手紙に対して、こちらは後の人たち(パウロの弟子か?)が自分たちの教会の信仰として、この手紙をパウロの権威において書いたものと推測されます。
 ただ、ここでは文献としての問題は置いておき、そこに書かれている当時の教会における問題と、それに対する教えについてみていきたいとおもいます。


 テサロニケの信徒への手紙2 1章6~9節
6)神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、
7)また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
8)主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
9)彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。

 キリスト教の信仰において、今日あまり言われなくなったのが「終末/再臨」の信仰です。

 キリスト教の教義を勉強すると分かりますが、基本的に、今日のわたしたちも礼拝において「終末/再臨」を信じ、告白します。しかし、終末も再臨も共に、それは信仰的には神が行われる出来事である限りにおいて、「それが何時起こる」だとか、あるいは「起こらない」ということを、わたしたち人間は議論することもできません。
 そのため、新約聖書の時代に生きた人たちでさえ、「再臨は近い」、あるいは「再臨は起こらない」というような様々な教えがあり、当時のクリスチャンたちも「一体どうなのか?」と疑問に思ったのです。

 さて、では当時の信仰として、あるいはパウロの信仰として「終末/再臨」ということは起こるのか・起こらないかと言えば、答えは「起こる」であり、また、それは何時起こるのかということについては「神のみがご存じである」ということが了解されたのです。

 たとえば、それはイエスさまが弟子たちに言われた言葉、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 」(使徒言行録1:7)にある御言葉と同じであると思います。


 つまり、そうすると「終末/再臨」は、それが具体的にどういうものであるかということを人間が議論することは、ある意味で無意味であるということなのです。

 では、なぜ、そうした人間が議論することが無意味な「終末/再臨」を聖書は問題にするのでしょうか?

 上記のテサロニケの信徒への手紙2章の本文を読んでわかることは、すなわち、「終末/再臨」とは、それ自体が信仰の対象として問題なのではなく、それはむしろ、クリスチャンが自分たちの信仰の備えをしなければならない、その「最終期限」として説明されているのです。

 つまり、それはどういうことかと言えば、たとえばこの世においてクリスチャンであろうがなかろうが、この世においてすべての事柄には「終わりがある」ということなのです。そして、それは神さまが定めるものである限り、人間がその事象に対して何か遅くしたり、早くしたりできるかと言えば、それは不可能ということなのです。

 そして、ではそうした問いが無意味ということであれば、この「終末/再臨」の教えが意味するものは一体何なのでしょうか?

 それは、「終末/再臨」が神の権威に基づく、待ったなしの、取り返しのつかない「最終期限」としてこの世に設定される限りにおいて、つまり「わたしたちの信仰の生涯は、現在、執行猶予期間に過ぎない」ということなのです。

 この神によって定められた「最終期限」は、神による一つの真実の出来事であるわけですが、それは見方によっては大きく二通りの意味があるのです。それは、まさに「最後の審判」を意味する「終末」であり、そして、もうひとつは「イエス・キリストの再臨」であり、それは別の意味において最終的な慰めでもあるのです。

 たとえば、この世において苦しみを負う人にとって、この「終末/再臨」は、まさにそれが苦しみを負う人の上に実現する時に、彼は慰めを受けると共に苦しみから解放される時となるのです。 ところがそれは、逆に、そうした苦しみを負う人を虐げる人においては、まさに自分の犯している悪行の責任を追及される最後の審判の時となるわけです。
 つまり、傷害事件を例にあげれば、「終末・再臨」が指し示す第一義は、「加害者の自分の犯した罪に対する贖罪と被害者が受けた損害に対する補償」であり、第二義は、すなわち「今はまさに執行猶予期間である」ということであるのです。

 では、こうしたことは教会においてどういう意味があるのでしょうか?

 先ほどのテサロニケの信徒への手紙2の引用において「
そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。」とあります。

 おそらく、今日の教会でこの言葉が語られる時、「神を認めない者」「主イエスの福音に聞き従わない者」は、すなわち「教会の外の人」であり、「クリスチャンでない人」と教会の中では理解されるのではないかと思います。

 しかし、それは決して正しい読み方ではありません。

 先の引用の次の節において「
彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。」とあります。

 上記の下線で示した部分が示しているのは、すなわち、「神を認めない者」「主イエスの福音に聞き従わない者」とは、そもそも彼らは教会の中で、「主の面前」に存在し、その「栄光に輝く力」に繋がっている人物であるのです。
 そして、まさにそれはキリスト者であり、自ら「主イエス・キリストを信じる」と教会の中において告白する人物が、実は教会の中でその行いにおいて、生き方において「神を認めず」「主イエスの福音に聞き従わず」、しかも教会の中において同じ兄弟姉妹に対して悪を行っているということが意図されているのです。

 その意味で、「終末/再臨」を信じる信仰とは、「いつか神の裁きによって、あるいはイエスさまの再臨によって、この世が終わります。」ということを意味するだけでなく、むしろ、そうした意味よりも、イエス・キリストによって罪を赦されたキリスト者が、なお罪の中に留まり続けていることを憂慮し、「まだ時間があるうちに、猶予のあるうちに、自分の罪を悔い改め、兄弟姉妹と和解し、来たるべきその時において共に神の御許において永遠の平安に与ることができるようにしようではないか!」という信仰的な励ましのメッセージであるのです。

 旧約聖書のエゼキエル書33章11節に以下のような御言葉があります。

 「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル書33章11節)

 神さまは、未信者や他の信仰を持つ人たちのことを問題にしません。むしろ、信仰者が救いに与ってなお、滅びてしまうことを憂えておられるのです。その意味で、「神の裁きの言葉」はまさに言葉のとおり「神が人間の滅びを願う」ということではなく、「滅んでほしくないから、このように強く言うのだ」ということであり、「神の御言葉を聞く」とは、まさに神の御心の内面を読み取るそうした作業でもあるのです。当然、それは聖霊の導きによるものであり、信仰者が自身の罪の悔い改めを積み重ねる事によって実現する神の導きであるのです。

 教会は、まさにそうした信仰者が共同体を組織することによって成立する「神の出来事」であり、ただ「建物」を指して、あるいは「集団」を指して「これが教会だ」とは言えないのです。

 ただ人間が集まり、礼拝のようなことをしているだけではそれは教会ではありません。

 仮に教会がそのようなものであれば、上記の御言葉にあるように、それは「お前たちの悪しき道」なのです。神の示される方向性は、当然、「立ち帰れ、立ち帰れ」ということであり、常にこの神(の言葉)に立ち帰る信仰こそが、教会を教会たらしめるものであるのです。

 そして、ここで肝心なことは決して「神の言葉=牧師の言葉」ではないということです。

 牧師が聖書を通じて語られる神の言葉に聞き従わなければ、その牧師が語る言葉は、ただ牧師の腹から出てくる欲望の言葉であり、罪の言葉なのです。たとえ、それが礼拝で説教として語られたとしても、それは決して「神の言葉」にはなり得ません。

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。」(イザヤ書55章8節)

 これはわたしが常に意識するようにしていることですが、信徒にとって牧師の語る言葉は、たとえそれがどんなにつまらない言葉であったとしても、それが礼拝における説教で語られる時、場合によっては信徒によってそれは神の言葉として聞かれてしまうのです。

 それは牧師にとって実に恐ろしいことです。牧師の語る言葉は常に神の言葉と聞き間違えられる可能性を持つのです。

 だからこそ、牧師は聖書の御言葉に、神の言葉が一体何であるかを聞くということに努めなければならないのです。

 牧師が自分の言葉をまさにそれが神の言葉であるとするのであれば、上記のイザヤ書の言葉のとおり、それは牧師として神に逆らうことになります。

 まだ、教会も信仰もまったく知らない人がその発言や行いにおいて神に逆らうのであれば、それは神さまにとって大きな問題にはならないでしょう。なぜなら、旧約聖書いおいて「知らない」ということは罪にはならないからです。

 ところが、すでに信仰を持ち、神の言葉に聞き従うという決意をもって神に献身した牧師が、神の言葉に聞き従わず、自分の言葉を神の言葉にするのであれば、それはどれほど重い罪になるかということです。

 その意味で、牧師は教会の中で誰よりも罪に対して敏感であることが求められます。しかも、それは教会員に対してではなく自分自身に対してです。

 牧師が率先して罪の告白をせず、また罪の悔い改めをしないのに、「自分は献身者だから」と、信徒に対してだけ罪の告白や悔い改めを求めるのであれば、それは子どもでも牧師のやっていることはおかしいと言うでしょう。

 牧師は牧師として偉くなるために牧師をするのではありません。福音宣教こそが牧師の存在意義であり、それは自分の考えを捨てて、神の言葉に聞き従うことによってはじめて実現するのです。

 わたしは藤沢で最初に牧師になった時に、「何か問題があったら、すぐにあやまろう。」ということを心掛けてきました。年齢が高くなれば、いろいろと社会的に、あるいは教会において責任が重くなると人間は謝ることが難しくなる。だからこそ、まだ牧師として初心者である内に、まだ年齢が若い内に、「何かあれば教会員に対して謝る」ということを心掛けたのです。

 しかし、それでもやはり教会の中では問題が起こります。わたしは出雲教会で6年目を迎えますが、しかし、その間において、ある方との関係が壊れてその方が教会を去ったことを経験しました。現在、まだその方との和解はできておりません。 自分ではそれだけ気を付けていても、やはり人間は完全ではありませんから問題が起こるのです。

  その意味で牧師は誰よりも自分の罪に対して敏感でなければ、決して、天国にいけるなどとは言えないのです。「信徒として天国に行くこと」と「牧師として天国に行くこと」とは、難しさの観点からみれば牧師の方が桁違いに困難なのです。

 既に牧師としてある今において、わたしの前にあるのは非常に困難な道です。しかし、まさに神がそれをわたしに望んでおられるのだと確信することにおいて、わたしは牧師として、自分の使命として誰よりも自分の罪に対して敏感であるよう、これからも務めていきたいと願うのです。



~~~追記~~~


 テサロニケの信徒への手紙2 3章8~15節
8)また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
9)援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
10)実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
11)ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12)そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
13)そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
14)もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。
15しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。 

 当時のテサロニケの教会は、先にパウロが指導した後、「終末/再臨」の信仰について、誤解があったことをこのところで訂正しています。

 それはどういうことかと言えば、先にパウロが指導した時に、人々は「終末/再臨」が「近い」ということをパウロの言葉から感じ取り、そして、そのように理解した人々は、「終末/再臨」が近いので、この世における社会生活を放棄して、教会の中に閉じこもり、ただ終末を祈り求めるという特異な信仰形態を持つグループが教会の中に起こったのです。

 当然、教会の中の人たちはそうしたグループとそうではない健全(パウロの指導に忠実な)な信仰を持つグループに分かれたのですが、問題は教会としての運営がそうした前者の存在によって脅かされる事態に陥っていたのです。

 そこでパウロは、自分自身がまだテサロニケの教会に滞在していた時に、決して、誰からも何もせず食べさせてもらったことがないように、すなわちその教会の働きをするために、パウロ自身も昼夜仕事をして教会の会計を支えたことを思い出しなさいと、また、その時に、「働きたくないものは、食べてはならない」と勧めたことを思い出すように教えたのです。

 しかし、それは決して、そうした「怠惰な生活を行う者を教会から排除せよ」ということではなく、あくまでも信仰を同じにする兄弟として、正しい信仰に復帰することができるようにと願ってのことであったのです。


 すなわち、教会の目標は「福音宣教」でありますが、それは実に危ういものであり、「福音宣教」のためなら「何をしてもよい」というふうに誤解される危険性が教会の中には常にあることを教えているのです。

 世にある教会で多くみかけるのは「宣教」を教会の主目的に持ってくるものです。

 それ自体、問題があるのではありませんが、教会を運営する上で、会計上どうしても礼拝出席や席上献金(礼拝の中で行われる自由献金)、月定献金(信徒が自主的に月ごとに教会に対して行う献金で、信徒としての献身の意味を持つ)の額が話に上ることがあります。

 そして、そこにあって教会の規模が小さいことが問題とされ、また教会が「大きくなること」が目標となることがしばしばなのです。

 わたしたちのナザレン教会も文部省管轄下にあり、毎年、活動報告・会計報告をしなければなりません。

 ところが、そうした一種の「この世的な縛り」が、教会に対して悪影響を及ぼす危険性を持つのです。 

 教会会計を透明化する意味において教会会計をきちんとすることは大切です。

 ところが、そうした社会的な公平性のためではなく、こうした働きが教会規模の拡大のために、いわば自社営利を目的とする会社などと同じように、 教会が教会組織の繁栄を自己目的化するときに間違った方向に向かいやすいのです。

 その意味で、「福音宣教」と「教会拡大」ということは同一目的のように思えますが、そこには注意が必要なのです。特に、これは指導的立場に立たされる牧師にとって常に気を付けなければと常々感じていることですが、「福音宣教」は教会の主目的・存在意義でありますが、「教会拡大」というのは結果的に、神の祝福により、神さまによって後から恵みとして与えられるものであるということなのです。

 たとえば、旧約聖書に次のようなくだりがあります。

 『主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。』(サムエル記下24章1節)

  サムエル記の最後において、神さまの誘惑によってダビデ王は(北)イスラエルと(南ユダ)の人口を調査することを計画し、実行します。

 長くなるのでごく簡単に説明しますと、神さまは王となったダビデに対して誘惑によって、その神を信じる信仰が正常かどうかを試みられました。その時にダビデは神の祝福に頼ることを止めて、この世的なものの考え方によって国力(人頭税による収入と兵士の男子の数)を調査するように部下に命令を出したのです。当然、このダビデの判断は神さまに対する反逆行為とされて、7万人の住民が命を落とす結果となったのです。

 すなわち、これを今日の教会になぞらえて言えば、「教会会計の透明化をはかる」ということはこの世において、キリスト教会が公平・正義をもって神と人との前に正しく歩んでいることの証になりますが、それを別の目的に用いることは神に対する反逆行為であり、非常に重い罪になるのです。

 特に、「福音宣教」が、「教会組織の拡大」ということを主目的にすることは神の御前における大きな罪であり、神さまは教会を指導する牧師に対して、そうした「誘惑」をもって、その信仰が常に正しいものであるように注意することを促しているのです。

 わたしたちは「福音宣教の拡大」ということを宣言し、そこに牧師も信徒も動員するということをもって「神の力を否定する」のです。

 「神を信じているはずの教会が、実は最も神を信じていない」という結末ほど教会にとって恐ろしい結末はありません。「神を信じる」とは、まさに「すべてを神におゆだねする」ということであって、それ以外の何ものでもありません。

 人間がなすべき業はまさにそれぞれが置かれた場所において、礼拝を通じて神をわたしたちの神と証することであって、神に教会を拡大する力がないから人間が努力し、頑張って福音を宣教することではありません。

 わたしたちクリスチャンは誰もが、「わたしは神さまによって教会に導かれた」ということを経験して知っています。つまり、それは人間の努力の結果ではないのです。

 まさに、こうした点が教会が本当の意味で教会であるための基本的事柄であって、神さまは常にそのところにおいて教会を、また牧師を信仰によって立つことができるかどうかを試みられるのです。

 それは教会が本当の意味で神の恵みと祝福に立ち続ける教会であるための神の憐みであって、また恵みであることを忘れてはならないのです。そして、そのことを見失った時に、教会はダビデが経験したように、神の裁きの御前において自分たちの犯したその過ちに対する責任をとることになるのです。

【キリスト教会としての要件1】

 教会が教会であるために、一体何が大切であるのか?

 いろいろと議論はありますが、ここではまず、聖書における「教会」がどのようなものであり、またそこにおいて、どのような教会の姿が求められているのか、聖書の記述をもとにこれから数回に分けて考えていきたいと思います。 

 まず、聖書の中で「教会」と訳されている言葉は、新約聖書に登場するギリシャ語の「ekklesia(エクレシア)」と言い「(神によって)呼び集められた者たち」というような意味があります。つまり、この語が意味するのは、当然、キリスト教信仰をもつ者が、ただ人間の思惑によって集合した集合体ではなく、まさに神によって、神の言葉によって、そして、神の言葉に基づき、そこで形成される信仰共同体のことを「教会」と呼ぶことがわかると思います。
 その意味で、「教会」は「公」の性格を持ち、そこでは牧師や信徒といった役割の違いこそあれ、それはあくまでも階級や順位ではなく、ひとしくイエス・キリストを頭とする公平な共同体であるのです。



 さて、では新約聖書において「教会」という言葉がどこに出てくるかといえば、たとえばマタイによる福音書から順番に見ていきますと以下の聖書箇所に「教会」という言葉が登場します。

 「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:18)

 「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」(マタイ18:17)


 もちろん、それ以外にも使徒言行録やローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙といったところ(その他もあり)で、「教会」という言葉が登場します。

 しかし、少し考えてみると分かりますが、「教会」とは生前のイエスさまが指導し立ち上げた組織ではなく、当然、使徒言行録2章におけるペンテコステの出来事以後に成立した信仰共同体であるとみるのであれば、このマタイによる福音書の記述は、生前のイエスさまが発した言葉というよりも、その後、すなわち紀元80年から90年にかけてマタイによる福音書を記した人たちがイエスさまの口によって語られた言葉として、自分たちの信仰を告白した言葉として見ることが普通であると思います。

 すなわち、紀元80~90年ごろには当然、「キリストの教会」というものが存在していたのです。



 では、新約聖書に含まれる文書の成立年代を考慮するのであれば、マタイによる福音書は紀元80~90年代ということになるので、それよりも以前に成立したものといえばテサロニケの信徒への手紙1(紀元50年の前後と推測される。なお、イエスさまの十字架は紀元30年ごろ。)など、パウロの自筆による手紙が最も時代的には古く、そこで用いられている「教会」に着目することによって、初期の頃の「教会」の様子をうかがい知ることができると思います。

~~~2014.8.14.追記~~~

 以下、テサロニケの信徒への手紙1からはじまって、パウロの直筆による手紙から話を進めていきますが、ここで紹介する文書の紹介、順番については、『新約聖書』(ゲルト・タイセン著、大貫 隆訳、教文館)に準拠します。

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 そこで、新約聖書におけるパウロの著作で最も古いものがテサロニケの信徒への手紙1ですのでこれをみていきたいと思います。なお、全文を引用すると長くなるので部分的に抜粋しながら話をしますが、パウロは以下の本文でも語っているように、福音宣教は決して楽しいものでも、安全なものでもありませんでした。

 パウロもそうした危険と困難の中、福音宣教を行ったのですが、それと同じようにテサロニケの教会の人々も苦労し、そうした宗教的な迫害の中においてテサロニケの教会の人たちを勇気づけるために、パウロはこの手紙を記したのでした。聖書の本文に対して少しわたしなりの注釈をつけながら説明します。


 テサロニケの信徒への手紙1 1章5~7、9~10節
~~~現状の報告~~~
5)わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
6)そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
7)マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。

~~~信仰の核心について~~~
9)彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
10)更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。


 パウロの福音宣教においてここで言われている大切な点は、テサロニケの教会が、まず主イエス・キリストを信じる信仰において非常に模範的であったということです。

 それは、テサロニケの教会の人たちの信仰が単なる口先だけのものではなく、有言実行であり、常に神の御前における真実を追及していた点にあるのです。当然、そのことは人間的な、あるいはこの世的な能力によるものではなく、真実を伴った行動と、聖霊の助け、イエス・キリストを主とする強い確信、すなわちイエス・キリストの御前において自分自身の罪を告白し、日々罪を悔い改めるという、その基本的な信仰の姿勢を貫いていたことが、テサロニケの教会が、まさにマケドニア州とアカイア州においてすべての信仰者の模範となったと説明するのです。

 では、そうした信仰の中身は一体何でしょうか?

 パウロはそれに続けて、すなわち「わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか」、つまりテサロニケの教会の人たちはパウロの語る神の言葉を素直に、忠実に聞き従い、パウロとパウロの言葉を受け入れ、自分たちのそれまでの生活のあり方を改め、主イエス・キリストの御前における罪の告白と罪の悔い改めを通じて、偶像にすぎない自分たちの欲望を捨て、何よりもまず神の言葉に聞き従うことを求め、聖霊を通して働かれる生けるまことの神であるイエス・キリストの言葉に聞き従う信仰を得て、来たるべき裁きの時に、決して、信仰者でありながら天からの火によって滅ぼされることのないように、イエスを主として、すなわち日々、主イエスのみ名によって罪の赦しを求める悔い改めの生涯へと導かれたことを説明するのです。

 パウロはそうした教会の福音宣教の業が、いわゆる「勧誘活動」ではなく、「主に倣う者となること」によるものだということを強調します。
 
 パウロにおける「宣教/伝道」とは、「人間による勧誘」ではなく、それが「神の導き」である点にあります。その意味で、わたしたちキリスト者が為すべき宣教の業・伝道の業とは、まさに「主に倣う者になること」であり、それは他の人たちに対して「(神を信じる者としての)模範」となることであり、決して、「キリスト教の価値観を絶対のものだとして、他人に押し付けること」ではありません。

 そのことは使徒言行録の以下の記述からも明らかです。


 使徒言行録2章46~47節
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 キリスト者が為すべき業、すなわち、それは他の人々から好意を寄せられるものであり、しかもそうした教会に人を招き導くのは牧師でも信徒でもなく「神である」ということなのです。

 その意味で、礼拝出席や献金の金額など、そういったこの世的なものを目標として教会活動を行うというのでは、それでは本末転倒ということになるのです。確かに、営利を目的とする会社などではそれでも良いかもしれません。しかし、教会がそれを行うのであれば、結局のところ教会もこの世的な会社も同じということになり、たとえどんなに人が多く集まったとしても、それは教会としては失格ということになります。

 パウロはそうした窮乏の中にあって、自分は説教だけに専念し、教会員に「もっと献金をささげなさい」と呼びかけたかというとそうではなく、パウロは自ら働いて生計を立てながらみんなと同じように苦しみを分かち合いながら、その上でテサロニケの教会に仕えたのでした。その意味で、そうした副業を持たずに牧師ができるということは、実に恵まれたことなのです。



 テサロニケの信徒への手紙1 2章1~10節
~~~あいさつ~~~
1)兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。
2)無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。

~~~パウロの宣教の目的~~~
3)わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。
4)わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。

~~~パウロの信仰の姿勢1~~~
5)あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。

 ここでパウロは自分たちの宣教の目的が、決して「自分が偉くなりたい」とか、「教会を大きくしたい」とか、「人数を増やしたい」とか、「献金を多くしたい」といったような、迷いや不純な動機に基づくものでなく、また、そうした自分の本音を隠して、表面的に他人をごまかして、あたかも良い信仰者のようなふりをして宣教を行ったのではありません。

 パウロがなぜ福音宣教を行うのか、その根本的な動機は、まさにパウロの福音宣教という業が、神によって認められ、許可されたものであり、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるということをゆだねられているという確信に基づくからこそ、バカ正直に罪の告白と罪の悔い改めを生活の中で実践しているのです。

 その意味で、パウロはまさに常に、自分を神さまの御前に置き、その裁きの座に明らかにし、自身の罪を告白し、罪を悔い改めるということを生活の中で実践したのです。

 それは当然、誰か金持ちを信仰者に導きいれ、そのお金を口実を設けてかすめ取ったりするためでないことは、まさに神が証してくださいますと正直に語っているとおりです。



~~~パウロの信仰の姿勢2~~~
6)また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。

~~~パウロの信仰の姿勢3~~~
7)わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、
8)わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。

 また、パウロは決して、テサロニケの教会の人たちから名誉職としてあがめられたり、あるいは教会の外の人たちに対しても、決して、社会的に高い評価を受けることを求めませんでした。むしろ、そうしたこととは無縁であることに徹したのです。

 なぜなら、パウロたちは、まさに復活のイエス・キリストの使徒として、自分たちの権威を教会の中にも外にも、それを主張し、知らしめ、誇ることができたのです。しかし、パウロたちは、テサロニケの教会に訪れたときに、むしろ、そうした自分の使徒としての権威を教会員に誇示することなく、むしろ、自分をテサロニケの教会の中においてはもっとも小さい幼子のようなものとして、決して、威圧的に権威を振りかざすようなことをせず、むしろ、母親がその子どもを大事に育てるように、パウロはテサロニケの教会のひとりひとりを大切に思っていたので、ただ、礼拝において神の福音を言葉で伝えるだけでなく、むしろ、信徒が危険な状態にある時は、パウロは自分の命さえ喜んで与えたいと願うほどに、教会員ひとりひとりのことを大切に扱ったのです。なぜなら、パウロにとってテサロニケ教会の教会員ひとりひとりは、まさにパウロにとって信仰によって愛する兄弟姉妹となったからなのです。


~~~パウロの信仰の姿勢4~~~
9)兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。
10)あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。
 
  しかも、パウロはそうした他の地域にまで模範的な教会として知られるようになった教会が、実は経済的に非常に大変であり、そこにおいて教会員のだれにも負担をかけないように夜も昼も働き、自力で生活をしながら、その上で神の福音をテサロニケの教会の人たちに対して語ったのでした。

 つまり、パウロは自分の生活のために教会を興したのではなく、あくまでも、福音宣教こそが彼の信仰によって与えられた人生の最大の目的であり、その目的の実現のために、彼は教会員に対して献金を呼びかけたり、さらには教会員からお金をだまし取ったりすることなく、自分で牧師以外の仕事をしつつ福音宣教を行ったということなのです。

 そうしたパウロの苦労は、信者のだれもが知っていることだし、しかも、テサロニケの教会の中で、自分たちがどれほど神の言葉に照らして信仰的に正しく、信徒の人たちから非難されることのないように努めたか。そのことはテサロニケの教会の皆さんも陰ながら知っているし、実に、そのように神の言葉に忠実に聞き従ってきたことを神が証してくださることでしょう。

 


 さて、ここまでくると、なんとなく教会において大切なことが何かということがわかってきます。

 教会には牧師や信徒、役員会、執事、その他いろいろな役割があります。そうした組織については教会ごとに異なりますし、ナザレン教会の中だけでもいろいろと違いがありますので、そうした話が複雑になることは置いておきます。そうした上で、先ほどのテサロニケの信徒への手紙1におけるパウロの記述によるのであれば教会が教会であるために大切なことは以下のとおりです。

 ・礼拝が礼拝としてきちんとされていること。
 ・牧師も信徒も信仰の基本がキチンとなされていること。
 ・牧師は聖書の御言葉を通じて神の言葉に聞き従っていること。
 ・信徒ひとりひとりに対する牧師による配慮がなされていること。
 ・牧師も信徒も真実をもって互いに相手を尊重し合っていること。


 こうしてみると パウロが言っていることは別に何も特別なことはありません。それらはキリストによって救われた者として、またキリストによって救われた者たちが形成する教会としては、実に平凡なものです。ところが、この「平凡であること」が実にキリスト教会においては難しいと言わざるをえないのが、今日のわたしたちを取り巻く状況であると言えるのです。

 次回は、テサロニケの信徒への手紙2を見ていきたいと思います。

 

 わたしは現在、出雲ナザレン教会で牧師をしている永野健一と申します。今年で6年目を迎えます(ナザレン教団の牧師としては今年で16年目を迎えます)。まずはこのサイトを立ち上げるきっかけについてお話ししたいと思います。

 わたしがキリスト教の教会に行くようになったのは広島の五日市にある広島工業大学の4年の春で、同じ学部の友人が、わたしよりも半年くらい先に広島にあるナザレン教会に行くようになったのがそのはじまりです。

 当初、わたしはキリスト教に関心があるわけでもなく、ただ中学の頃に音楽の授業で聞いたバッハの小フーガ・ト短調に感動した思い出があり、「たぶん教会に行けばパイプオルガンがあって、弾かせてもらえるかもしれない。」と思ったのがはじめでした。

 その友人はもともとわたしを教会に誘っていたのではないのですが、学食で席がたまたま近かった時、そういう興味本位だけで広島ナザレン教会に行くようになったのです。

 その後、8月に洗礼を受けてクリスチャンとなったのですが、それから紆余曲折があって日本ナザレン教団の牧師となったのです。


 その後、神奈川県藤沢市にある教会で10年牧会をし、出雲に来て6年目を迎えるのですが、クリスチャンとなり、教会の内側を見聞きするようになって、教会も色々と問題が多いのだということを知るようになりました。


 
 わたしは広島のナザレン教会に所属している時代に、今では色々と広く知られるようになりましたが「星の子どもたち」という、子どもを主な対象としてキリスト教の伝道を行っている「夏の星の子キャンプ」に、ある時は参加者として、またある時はリーダーとして参加し、その働きを手伝ってきました。

 「小松牧師は、特に重い障がいを持った子どもたちのために日本全国を飛び回っている。」と、当時は、そうした小松牧師の姿勢に感動を覚えたものです。

 ところが、わたしがナザレン神学校に入学して間もなく、「星の子どもたち」の働きをやめるという話を聞き、当時、「そんなに牧師が収入があるわけでもなく、みんなの献金で活動しているので会計的に行き詰まったのか」と思っていました。

 それからしばらくして小松牧師が裁判で訴えられているというような話を耳にし、しかもそれがただの金銭トラブルということではなく、小松牧師のハラスメントが原因で亡くなった方がいると伺い、クリスチャンとして、またキリスト教会の牧師として、やはりこうした問題に対してきちんとしなければと心に思ったのです。



 さて、それから時間が流れて新聞雑誌やインターネットなどで色々とキリスト教会の不祥事について見かけるようになり、また出雲に来てからも「わたしのホームページを見て」という方から電話をいただき、涙ながらに「自分の信仰は間違っているのだろうか?」と訴える方の話を聞きながら、「キリスト教とは?」「教会とは?」という事についていろいろと考えさせられ、自身のこれまでの反省に立ち、自戒の意味を含めて考えてみようと、このサイトを立ち上げた次第です。

 その後、たまたま小松牧師のハラスメントを訴えておられる方とお電話で話す機会が与えられ、自分がまだ牧師になる前に「星の子どもたち」に関わっていたことをお伝えし、今は牧師としてそうした反省のもとにあることをお伝えすることができ、こうした思いを新たにされる時となりました。


 今回、そうした反省から、キリスト者として、牧師として、キリスト者のあるべき姿、牧師のあるべき姿、教会のあるべき姿について文章を書いてみようと思います。

 ご質問等には答えられる範囲で答えたいと思いますが、このサイトは既存の教会を誹謗中傷することを目的とするものではありません。その点をご留意いただきご質問等いただければと思います。

 そして人間的にそのことを考えるのではなく聖書の御言葉に、神の言葉に聞き従うことをもって、考えていけたらと思います。以上、ごあいさつとして。

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