ローマの信徒への手紙14章7~10節
7)わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
8)わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
9)キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
10)それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。

 教会は一つの信仰共同体です。

 ところが、そもそも教会は、各個の人が、共通の信仰・信条によって、それに同意をして集まったものではありません。

 たとえば、わたしの属する「ナザレン教会」は「ナザレン教会の信仰告白」があって、当然、教会に集う人たちは、すべての人が「ナザレン教会の信仰告白」に同意し、そうした決断をもって教会に集まっているかといえば、必ずしもそうした人たちだけによって教会が形成されているわけではありません。

 その意味で、いわゆる「組織」は、当然その組織のルールがあり、その組織のルールに則って、参加している者たちは、その思考を制限されるわけですが、「教会」はかならずしもそうではありません。

 なぜなら、教会の礼拝にはすべての人が招かれているからです。


 そもそも、教会が教会員だけのものだとすれば、説教で語られるイエス・キリストの福音は、そうした教会員だけが享受すればよいものなのでしょうか?

 もちろんそうではありません。イエス・キリストの福音はすべての人に向けて語られる言葉であって、だからこそ神の言葉であるわけです。

 
 ある牧師が礼拝に来ている人に対して、「あなたは教会にふさわしくない」とは言えず、また、「あなたこそ教会にふさわしい」とも言えないのです。

 その意味で、毎週の礼拝においては、牧師もまた、そうした神さまによって招かれている者の一人でしかなく、何かしらの権限を持っているわけではないのです。

 神さまの御前においては、ひとりひとりは、一個の人間に過ぎず、牧師や奏楽者など、役割の違いこそありますが、すべての人が神さまによって礼拝に招かれ、そして、共に神さまを礼拝するその恵みに招かれているわけです。


 その意味で、「すべての人が礼拝に招かれている」以上、それは信仰の差異によって、「あなたは礼拝にふさわしい」「あなたは礼拝にふさわしくない」とは、人間は言うことはできないのです。


 つまり、そのことの理解に立つのであれば、教会も礼拝も、すべてが神さまのもの(この世的には当然、土地建物に対する所有者というのはありますが)である限りは、そこにおいて重要なのは教会に集うすべての人が神さまの御前において平等であり、公平である必要があるのです。

 教会には信仰歴の長い人もいれば、まだ神さまを信じていない人もいます。

 もちろん、洗礼を受けている・受けていないということで、たとえば信徒とそうでない者とで、教会総会における選挙権・被選挙権があるないといったものの差異はありますが、そうしたことが「差別」に相当するかというとそういうことではありません。

 教会もこの世にある一つの組織である限りは、そうしたこの世に属する以上、組織としてのルールが必要です。

 教会が教会であるための大事な点は、信徒でない者も信徒も、また牧師も、教会の中でそうした組織のルールに則っているか、何かしら公的なもの・私的なものが混在していないかという点が重要なのです。

 キリスト教会は、その意味で、常に公平であること、公的であることが求められます。

 そこに私情をはさむことは、なるべく避けなければならないのです。


 いくらその人が能力があるからと言って、あまりその人ばかり優遇することは良くなく、また、だからと言って、苦手な人に苦手なことを強要することも良くありません。

 こうしたことは教会においては実に難しいところです。


 ローマの信徒への手紙14章17~19節
17)神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。
18)このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。
19)だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。

  パウロの生きていた時代において、ローマの都市に生活する人たちは、皇帝礼拝を義務付けられていました。そこにおいては、たとえば神の像(皇帝の像)に肉と御神酒を捧げて、それを食べることが求められました。

 当時のキリスト者たちは、信仰においてそうした偶像に備えられた肉を食べることを避けることのできる人もいましたが、ある程度の役職に就くような人は、上役たちの監視の目があって、ちゃんと皇帝礼拝をおこなったかどうかチェックをされていたのです。

 そうしたこともあって、パウロは、偶像に備えられた肉を食べることについて、ローマの教会人たちにどうしたらよいか手紙で答えているのですが、そうした肉を食べることによって罪を犯し、救いからもれてしまうようなことはなく、しかし、だからといってそうした偶像礼拝をどんどん行うことは求めないことをパウロはこのところで説明しているのです。

 そして、ここに示されている大切なことは、神の国、すなわち地上におけるキリスト教会は、まさにこの世的な飲み食いによって培われるものではなく、聖霊によって与えられる義(正義)と平和と喜びによるものであることをパウロは示しているのです。

 そして、そうした正義と平和と喜びに満ちた教会の姿は、この世において神に喜ばれるように、この地上においても他の人々から信頼されるものとなることをパウロは言っています。

 つまり、教会がこの世において教会である限り、まわりの人々は教会のことを信頼することになるというのです。


 その意味で、キリスト教会が教会として、近隣の信頼を得ることは、その教会がどのような教会であるのかを知る、ひとつのバロメーターになるというところでしょう。

 「火のないところに煙は立たない」わけであり、当然、人々から信頼される教会は、神と人の前にあって、正しい教会であるといえるでしょう。

 しかし、それは、必ずしも「教会員の多寡・献金の多寡」とは相いれないということを付け加えておきます。