パウロが活動していたであろう紀元50年ごろのユダヤ教


  ローマの信徒への手紙においてパウロが対峙している信仰とは、いわゆるユダヤ教(議論としてはユダヤ教も含みますが)ではなく、初代教会の信仰であって、自分の確信するところと初代教会の信仰において、何が自分たちの信仰において正しいものであるかという議論となっています。

 そして、それを図にして示したものが上記のものです。

 しかし、パウロはこれを初代教会の人たちに対して、「自分たちの信仰こそが正しいのだ」と主張しているのではなく、このローマの手紙は、ローマの教会の人たちに対して書かれていることからも、パウロの自分自身の信仰がまさにローマの教会の人たちと違いがないことを説明しようとしているものであることを頭においておかなければなりません。


 ローマの信徒への手紙 11章11~15節
11)では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。
12)彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
13)では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。
14)何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。
15)もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。 

 パウロは「異邦人の救い」という事について、今や、神の憐れみによって、恵みによって、ユダヤ人が躓き、異邦人に救いが告げ知らされたということは、異邦人こそが神によって選ばれた「優れた民」であり、ユダヤ人は「滅ぶべき民」として選ばれたことであろうかと、異邦人が何かユダヤ人に対して聖なる、尊い存在なのだろうかと問います。

 当然、その答えは「ノー」であって、神の救いが「憐れみ」であり、「選び」である限りにおいて、それは神さまが神さまの権威をもって救いをあらわしてくださったのであって、それは血縁やその他のいかなる人間的な努力・才能、そういったものと無関係であることを、異邦人に対して戒めるのです。

 パウロは、それはユダヤ人に対して異邦人にねたみを起こさせ、最終的にはユダヤ人も神さまと和解し、その救いを受け入れ、異邦人どころかユダヤ人をも救うことを神さまは計画しているのだと、このところで説明するのです。

 
 そして、そのことは、当然、異邦人、すなわちキリスト教徒に対する、重要な信仰的戒めとなっています。

 すなわち、それは何かと言えば、神の救いが、まさに神の御心により、神さまの選びにより、憐れみによって異邦人に救いがあらわされたのであって、そのすべての功績は神さまにあるということです。

 つまり、キリスト者として、信仰者として救われた者は、自分自身の内に当然ながら、「自分が神によって救われる必然性を持っていない」ということであるのです。

 もし、仮に、キリスト教徒が「自分はまさに神によって選ばれる資質を持っていたのだ」と神と人の前で自負するようなことがあれば、それは神の救いをまったく無駄にするような行為であることをパウロは、キリスト者に忠告しているのです。

 その意味で、異邦人がユダヤ人よりも優れていたということではなく、ある意味で、それはまさに「神さまの御心」であり、言い方をかえれば「神さまの気まぐれ」というほど、それは「わたしたちには一片の救いの根拠も何もない」ことを言おうとしているのです。



 ローマの信徒への手紙11章30~36節
30)あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
31)それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
32)神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
33)ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
34)「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。
35)だれがまず主に与えて、/その報いを受けるであろうか。」
36)すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
 
 パウロはそのことをまさに大きな驚きをもって、神の救いの御業が、まさに人類すべてを救済することを目的とする救いであって、それはまさに人間には理解しえず、究め尽くすことのできないものであることを賛美するのです。



 その意味で、キリスト教会は常に、自分たちが他の人たちよりも優れていると自認することは注意が必要ということです。

 キリスト教信仰は、救われた人が英雄になるものでなく、むしろ、イエスが弟子たちに言っているように、『イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」』(マルコ9:35)ということであり、それはわたしたちキリスト者は、まさに教会の外にいるすべての人に仕えるようにならないといけないことを示しているのです。

 その意味で、教会の中では、いかなる人間的な栄光をもあらわされることは好ましくないということになります。


 ところが、実際には、キリスト教会の中でこそ「この世的・人間的権威」をもって、信徒が信仰的教育を受けることが少なくありません。

 それはまさに初代教会の中で行われていた行為であり、パウロが対峙していた初代教会では、まさに「生前のイエス」との直接・間接的な関わりをもって、それこそが「イエスを証しする権威」「自分たちの信仰の正統性の保証」となっていたのです。


 みなさんの教会ではどうでしょうか?

 もちろん、中にはそのように権威をもって紹介される講師であっても、聴衆に対しては非常に謙遜な先生も多くおります。

 いったい何が教会的に正しく、間違っているか、そうした目を養うことは重要です。そうしなければ、わたしたちはいつの間にか人間的な、この世的な権威によってイエスを信じるようになってしまうからです。仮にそうなってしまっては、わたしたちが信じているところのイエスは本当の意味でのイエスではなく、イエスという名称をもった単なる偶像と同じということになります。

 わたしたちはそういう意味で、常に自分自身の信仰を省みなければなりません。日々、常に神のみ前に罪を悔い改めるとは、まさにそうした信仰の目を養うのに大切であるのです。そして、そうした罪の悔い改めをもってはじめてわたしたちは、自分自身を信仰的に謙遜であることが可能となるのです。

 自戒しつつ。