ローマの信徒への手紙9章19~33節
19)ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。

20)人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
21)焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

22)神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
23)それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

24)神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。

 
 パウロによれば、「神の救い」は、まずユダヤ人に対して律法を通じて明らかにされたが、結局のところ、ユダヤ人はそれを歓迎せず、今や、イエス・キリストの登場によって、「神の救い」は異邦人に対して示されたことをこれまでのところで説明します。

 そして、イエス・キリストによって救いが明らかにされたことは、同時に、二つの疑問を生み出しました。すなわち、1)イエス・キリスト以前の救いは無効となり、ユダヤ人は再び罪に定められることになったのか? すなわちイエス・キリストの救いによって異邦人に救いが開かれたことにより、ユダヤ人は再び神にその罪を責められるのか? 2)人の救いを決定付けるのが神であるなら、神の決定にいったい誰が逆らうことができるのだろうか? というものでした。

 神の御前におけるユダヤ人と異邦人とはいったい何者であるのか? 先にユダヤ人に対して救いが示されたのが神の御心であるのであれば、今やイエス・キリストによって異邦人に救いが示されたこともやはり神の御心である。

 すなわち、こうした神の救いの計画は、ユダヤ人と異邦人を比較してどちらが尊く、どちらが劣っているというようなことの目的のためではなく、神の御心はまさに人類全体を救済しようとする目的から、その救いは先にユダヤ人に示され、今や、異邦人に対しても示されたのであり、そのようにして救われる者が起こされるということは、まさに神が人類を憐れんでくださっていることの証拠であり、キリスト者とは、まさにそうした神の憐れみを人々に証明する器として立てられていることをパウロは言うのです。



 ローマの信徒への手紙9章30~33節
30)では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
31)しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
32)なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
33)「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

 しかし、そうなるとそこに疑問が起こります。
 すなわち、そもそも異邦人は「神の義」を求めていません。ところが、神の憐れみにより、イエス・キリストを通じて、信仰による「神の義」を得るようになったのです。ところが、ユダヤ人は神から与えられた律法を遵守することによって神の義をひたすら追い求めたのですが、結局のところ、本当の意味で神の義を得ることができませんでした。 そこで、なぜユダヤ人は神の義を得ることができなかったのでしょうか?

 その問いに対してパウロは、ユダヤ人は「信仰による救い」ではなく、あたかも「自分たちの行いによって、自分たちを救うことができる」と考えたからであり、それはまさにユダヤ人にとってはつまずきの石であり、妨げの岩であるが、しかし、それは信じる者は失望することがない。つまり、行いによって律法を全うしようとする者はイエス・キリストに躓き、しかし、イエス・キリストを信じる者は、その信仰によって救いに与ることができるのだというわけです。



 さて、このように見てきて、これがキリスト教会とどうかかわってくるかですが、パウロはキリスト教の救いがまさに信仰によるものであり、決して行いによるものでないことを力説します。

 そして、その信仰による救いですが、そこにおいてもうひとつ大切なのは、それがあくまでもわたしたち人間の素行や素質といったものではなく、あくまでも「神の憐れみ」によるものであることを力説します。

 それはすなわち、わたしたちの信仰とは、まさに神の憐れみという大きな力によって、そして、それはあくまでもイエス・キリストを信じる信仰によって実現するものであるということであるのです。


 ところが、キリスト教会では、「神が主導」と言いながら、わたしたち人間の努力として、人為的にキリスト者を増やそうとしていないでしょうか? あるいは、人為的にキリスト者を増やすために、さまざまな手段を用いていないでしょうか?

 そして、そうした人為的にキリスト者を増やすために、さまざまな手段を用いることを肯定するために、そこに何かしらの「キリスト教的思想」を展開・構築していないでしょうか?



 わたしたちがキリスト教を信じるのは、誰かをキリスト教徒にするためでしょうか?


 わたしたちは、神の憐れみによって、神に招かれ、イエス・キリストを通じた信仰告白をもって、キリスト者になるのです。

 そこにあって大切なのは、神の憐れみと神の招きであって、それは人為的にどうにかなるものではありません。

 宣教・伝道はキリスト教会において大変重要な事柄ですが、それがあまりにも突出する時に、あたかもユダヤ人が律法によって神の義を得ようとしたように、キリスト教会もそうした宗教的勧誘によって神の栄光を手にしようとする、そうした過ちを犯すようになるのです。

 宣教・伝道は、イエス・キリストの救いにあずかり、キリスト者に変えられた者が、まさに古いそれまでの生き方から、新しいイエス・キリストの命に生きるようになるそうした出来事であって、それ以上に何かを要求されるものではありません。



 ところが、キリスト教会がまさに自己目的化、あるいは牧師の野望?といった、教会員の欲望?など、さまざまな人間的な罪の誘惑によって、まさに「礼拝しているだけではダメだ。」というようなことが、キリスト教会の中において叫ばれるようになるのです。

 その教会の礼拝出席が増え、教会が大きくなるか、あるいは教会員が減って消滅するか、教会のその行く末を左右するのは、わたしは個人的には「神の御心である」と信じます。

 その意味で、わたしたちが求められているのは、まさにわたしたちがキリスト者として、神を礼拝することを人生の中心に置き、それぞれが置かれたところで信仰の生涯をきちんと歩むことであって、教会が大きくなる・小さくなるということは、信仰的にはまったく関係のない話ではないかと思うのです。

 世にあるキリスト教会は、多かれ少なかれ、自分たちの教会の規模を見て一喜一憂することが多いのではないかと思います。特に、ある程度の規模がある教会であれば、そんなに心配をしなくても良いとは思いますが、小さい教会は「大きくならねば」と思いわずらい、大きな教会は「さらに大きくなるためには」と思いわずらうことが多いように感じます。

 牧師の「牧師としての評価」を、一年間での受洗者数やその牧師の教会の規模によって評価し、評価されることが一般的になされる上で、そうしたこの世的な評価と無関係に、意識せずに牧会を行うことは、牧師にとってはなかなか大変なことでないかと思います。

 しかし、キリスト者はそのようなこの世的な評価を得るためにキリスト者になるわけではなく、そのためにキリスト者が起こされるわけでもありません。

 その意味で、教会が大きくなるのも、小さくなるのも「すべては神の御心である」として、牧師も信徒もあわてず騒がず、自分に与えられた信仰の生涯を全うすることこそ、わたしたちのキリスト者としての本分でないかと思うところです。

 最後に、イエスさまの語られた言葉を紹介します。

 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16:24)

 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:22)