ローマの信徒への手紙を読み進めていくためには、ある程度、パウロが示す世界・神・人間(ユダヤ人と異邦人)・罪・救いということがどういうものであるかを把握しておく必要があるので、まず、簡単に1・2章の内容のおさらいをしておきます。


 パウロはまず、1章から説明しているように、イエス・キリストによる救い、すなわち福音が特定民族のためのものではなく、ユダヤ人もギリシャ人も関係なく、すべての人に対する神の救いであることを宣言します。

 そして、この世界における大前提として、神は世界において御心(正義)を行われることが言われます。そして、そうした神の御心、言い換えれば「真理の働き」を妨げるものである人間の(信仰心や行いに関わる)罪に対して、神は怒りを現し、当然、そうした人間の行為に対して報いをもってかえりみられることを説明します(ローマ1:18)。

  たとえばパウロは、ローマ1:20において「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」と説明するとおりです。

  すなわち、パウロの示すキリスト教信仰の大前提は、世界とはそうした神によって創造されたこの世界において、神とはご自分の正義に基づく真理の働きを行われる方であり、その神の御前において人類はユダヤ人もギリシャ人もその他の異邦人もなく、すべての人間が等しく、神の大きな真理の働きの中に置かれていることを説明します。 

 つまり、わたしたちが生きているこの世界はそうした神によって創造され、神が支配する世界であり、その世界においてイエス・キリストの救いとは、ユダヤ人に対して限定的に示された神の救いではなく、人類すべてに対して開かれた神の救いの業であることを提示するのです。そして、その最初に神のそうした啓示、すなわちモーセの十戒をはじめとする律法を受けたのはユダヤ人であると説明するのです。


 では、そうした神から律法を与えられたユダヤ人は、神とのそうした契約を結んだ事により、当然、律法を遵守する責任を負うことになるのですが、その他の異邦人、すなわち神から律法を与えられていないギリシャ人は、当然、律法を知らない、神と契約を交わしていないわけですから、律法に「罪として規定されていること」をギリシャ人が行ったとしても、それは神と契約を結んでいないのだから罪を犯したことにならないのかというと、パウロはそれに対して「違う」と答えるのです。


 ローマの信徒への手紙2章6~14節
6)神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
7)すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
8)反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
9)すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
10)すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
11)
神は人を分け隔てなさいません。
12)律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
13)律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
14)たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。


 モーセの十戒をはじめとする律法はユダヤ人に対してしか示されておらず、その意味で、神の正義(あるいは、裁き)の働きはユダヤ人に限定されているように思えますが、そうなのではなく、この世界が神さまによって創造され、神さまがこの世界における唯一の正義なる方である限り、人類はその神さまによる支配下にあり、正義の執行を免れることはできないと説明するのです。

 すなわち、人類は神さまによって創造された被造物である限り、被造物として神さまの正義の前に立たされており、誰一人、神の裁きから逃れることのできる存在はないのです。そのことはたとえ律法を一度も聞いたことがない人間であっても、その行いにおいて神の御前に義を行うのであれば当然、神さまによって正しいこととされ、神の御前に悪を行うのであれば当然、その犯した悪に対する報いを受けなければならないということであるのです。

 それはすべての人間の中にいわば「良心」ともよべる善を行う要素を持つというような性善説を取るのではなく、ユダヤ人以外の異邦人にとってみれば、まさにそうした(善かれ悪しかれ)自分自身の生き方こそが、ユダヤ人にとっての律法と同じように、すべての人類が神の支配下におかれ、決断・行動といった事に対する報いを受けるというわけです。


 ローマの信徒への手紙3章1~4節
1)では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
2)それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3)それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
4)決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

 そうした主張を受けて、3章においてパウロはそうしたユダヤ人と異邦人において、まずユダヤ人が神によって選ばれ、律法を与えられたことについて、どういう優れた点がユダヤ人にあるのかについてこのところで以下のように説明します。

 神はユダヤ人を選ばれ、彼らに対して律法を与え、神と民という契約関係に入りました。その点で、他の民族に対してユダヤ人は、まず「神の言葉をゆだねられた」事が彼らにとって、他の民族に勝る大きな優れた点であるということが言えます。

 ところが、イスラエルの歴史においてユダヤ人たちは神の言葉に忠実であるどころか、むしろ不忠実であったのです。

 そうすると、神がそうした信仰的に不忠実なユダヤ人を選んだのは「神の過失」であって、「そのような先見の明を持たない神の裁きが世界において正しい」などと主張することはできないのではないか。すなわち、神の御言葉に不忠実なユダヤ人によって、その神までもが「世界において正しくない存在である」とされる事は正しいだろうか、そのような神に世界を正しく裁くことが可能だろうかと問うわけです。当然、パウロは「世界において正しくない神が、ご自分の正義に基づいて世を裁くことは不可能」とみるのです。

 つまり、「神の裁き」がまさに「正義」であるか、それとも「不義」であるのかを考える上で、人間が善悪の判断基準となり、神の善悪を裁くことができるかと言えば、「それはない」というのがパウロの主張です。

 なぜなら、神が創造されたこの世界において、人間はすべて被造物であるという事から、人間の内なる判断基準は当然、神の創造の後のものであって、それが神の創造を超えて正しいということはありえず、逆に、どれだけ人間が「正義」なる基準をもって神を裁こうとしても、この世界が神によって創造されたものである限りにおいて、「神の正義」の前には、人間の正義というものは存在しえないのです。

 それはイザヤ書にかたちを変えて言われていますが、基本的には共通した神理解・人間理解に立っています。

 『「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに/自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか/「何をしているのか/あなたの作ったものに取っ手がない」などと。』(イザヤ書45章9節)

 そして、パウロはそうした信仰的な神理解・人間理解に立つのです。

 

 パウロは、神を信じているユダヤ人もそうでない異邦人も、すべての人が神によって創造された被造物に過ぎず、いくらその人が神の御前において、自分が正しいと信じることを行ったところで、それは神の御前においては決して正しくあり得ないと理解しました。それはたとえば、ユダヤ人が律法に従って生活したとしても、それはその人が「自分は律法に従って生活をした」というだけであって、その人が神の御前において正しいか、正しくないかはどこまで追及しても分からないからです。

 つまり、神を信じている人も、神を信じていない人も、そのままで、あるいは自分が神の御前に正しいと思っていても、そうではなく、神が唯一の正しい方である限り、わたしたち人類はユダヤ人であろうが、異邦人であろうが罪人に過ぎないのだということをパウロは説明したのです。

 しかし、ユダヤ人はモーセの律法を通して、他の民族に先駆けて神の御心を知る、すなわち神を知ることの特権を受けました。ところが律法を行うことを通して、たとえそのように神さまから特別に律法を与えられ、また律法を守ったとしても人間は本質的には罪から救われえないということが、イスラエルの過去の歴史における一つの結論であったのです。

 人間の側からなる神に対する如何なる行為も神の御前において正義を主張することができないのであれば、ユダヤ人をはじめ異邦人にも人間をその罪から救いうる可能性はないことになります。

 ところが、まさに人間の可能性が全く潰えたところに、イエス・キリストの救いが明らかにされたのです。


 ローマの信徒への手紙3章21~24節
21)ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22)すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23)人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24)ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
 

 今や、ユダヤ人をはじめ、全人類に対して律法を守ることとはまったく関係なく、しかし律法と預言者によって「この方こそが救い主である」と立証されて、神の義がわたしたちに示されます。

 すなわち、この神の義、これまで論じられてきた「神の正義」が、まさにイエス・キリストという人物を通じて明らかにされた「神の御心」であったわけです。

 それまでユダヤ人に対しては、律法を完全に守ることを通じて、神の救い、祝福に与ることができると信じられていたところに、そうした事とはまったく無関係に、このイエス・キリストを信じる信仰によって全てが神の御前に正しいとされる神の救いが示されたのです。

 当然、それは全人類に対して示されたものであって、ユダヤ人やギリシャ人といった民族的なこと、あるいは社会的地位や年齢・性別といったあらゆる人間を差別することなく、神の側から一方的に、等しくすべての人に対して示されたのです。

 すなわち、イエス・キリストの救いによって示された人間を罪から救う神の救いの業は、それまでのモーセの律法を遵守することにとは無関係に、しかし、旧約聖書が預言したイエス・キリストを信ずる信仰によって、はじめて実現する神の救いであるのです。


 さて、ここまできて、3章の本論に入っていきます。

 イエス・キリストの登場以前の世界において、「神の救い」とはユダヤ人に限定されておりました。しかも、ただ「ユダヤ人である」ということではダメで、「ユダヤ人」という前提条件を満たしてなお、「律法の遵守」という律法の実践を通じてはじめて、神との関係が正常になり、その状態を維持することを通じて神の祝福を豊かに受けることができるものと信じられていたのです。

 それは、言い方を変えれば今日のキリスト教会の状況にもかなり近いところがあるわけです。

 今日のキリスト教会では、「キリスト教」がまさに当時のユダヤ教に相当し、「キリスト教徒である」ということが神の救いの前提条件として理解されることが多いのです。

 たしかに、神の救いは「信仰により」、わたしたちの(宗教的修行のような)行いによらずイエス・キリストを信じる信仰によって神の御前においてわたしたちは義(神の前に正しい者)とされるのですが、パウロが当時の人々に伝えようとしたことと同じように、「神の救い」は「キリスト教会の内側に限定された神の救い」ではないということです。

 案外にも、キリスト教会においてよく感じるのは、「自分たちこそが神によって救われた者である」という信仰理解です。その意味で、当時のユダヤ人の信仰としては、自分たちがユダヤ人であるからこそ、「神から見捨てられることはない」という楽観的な信仰観がありました。

 しかし、イエス・キリストの福音は、イエス・キリストを信じる者が信仰によって救われることを伝えますが、問題は、そのようにして「クリスチャンになったことが救いを確約するものでない」ということです。

 たとえば、わたしたちは洗礼を受ける時に「自分の罪の告白(「救いの証し」と言ったりもします)」ということを行い(ひょっとすると、こういうことをしない教会もあるかもしれませんが・・・)ますが、この「罪の告白」は洗礼を受ける時に、その人の生涯において「一回だけやればOK」ということかというとそうではありません。

 わたしたちはその生涯において一回だけ水による洗礼を受ければ良いのですが、それはキリスト教信仰における始まりであって、わたしたちはその生涯にわたってイエスさまの御前において、自分自身の罪の告白をすることの自由を与えられるのです。

 すなわち、洗礼を受ける時の罪の告白は、わたしたちの信仰の生涯における第一歩であって、それはわたしたちが生涯にわたって続けることであり、まさにわたしたちの罪の告白をもって、わたしたちはわたしたちの罪をすべて赦してくださる「イエスさまを信じる」ということが可能となるのです。

 ヨハネによる福音書13章8節
 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

 上記の御言葉は少し抽象的な感じをうけますが、「足を洗う」という行為が、「(あなたの)罪を赦す」という意味であると解釈するなら、イエスさまの弟子の中でも年長のペトロさえ、イエスさまの罪の赦し(ここでは「足を洗う」という行為)をいただかなければ、イエスさまと無関係になってしまうという、まさにそういうことであると理解できるわけです。

 すなわち、わたしたちは何をもってイエスさまを信じていると言うことができるかと言えば、それは「罪の告白」を通してはじめてであるのです。



 ところが、旧約の時代いおいて、またイエスさまの時代において多くの人が誤解した信仰的理解は「祝福(豊かさ)とはその人の信仰的な正しさによる」というものでした。

 それは神さまのみ前に正しく生きる人は、神さまの御前においてその人が正しいことから、その人は神さまから多くの祝福を受け、その結果として当然、豊かに祝福されるであろう、というものです。

 旧約聖書のひとつの表現方法として、神の祝福の多寡を、この世的な財産、すなわち金銀や子ども・子孫の数、あるいは年齢の多さによって表現されました。

 つまり、この世的に出世する人は、当然、神の御前において正しく生きているからこそ、神さまの祝福によってそのように出世するのだと昔の人々は理解したのです。それは案外、今日の教会においてもそれと同じように考え、判断されることが多々あるのではないでしょうか。


 ひとつ例をあげますと、教会で様々な集会を催し、その度ごとに献金を募り、牧師が会員に友人を連れてくるように勧める(命令)とします。その結果として、教会に多くの人が訪れ、献金も多くささげられることであるかと思います。

 すると、牧師はその結果に対してどのように教会員に言うかといえば、「みなさん、神さまに感謝しましょう! みなさんの熱い奉仕によって、わたしたちの祈りが神さまによって聞かれました。神さまが大いにわたしたちを祝福して下さいました!」というようなことです。

 では、それは本当でしょうか? 

 まあ、牧師はそう感じるでしょうし、信徒もそのように感じているでしょうし、すべての人が「何となくそうかな。」と思って終わりだと思います。

 では、キリスト教に限らず、他の宗教においても同じような事が起こるのであれば、そうした他の宗教においても、イエス・キリストの神が祝福してくださっているということなのでしょうか?

 あるいは、その逆を考え、いろいろやったけれども少しも人数が増えず、献金もささげられないというのであれば、それは「サタンの仕業」でしょうか? それとも「神に呪われている」のでしょうか?


 キリスト教会は、一種、この世の中にあって、この世とは隔絶した環境と言えます。そして、そこで起こる「良い事」は「神の祝福」と理解され、「悪い事」は「サタンの攻撃」というふうに理解されます。

 少し冷静になって考えればわかりますが、この世はそんなに単純ではありません。

 先の質問に戻って、教会員が熱心に奉仕をし、その結果、教会員が増え、献金が増えたというのであれば、それに対してわたしたち人間が言えることは、「わたしたち人間の努力という原因に対する結果がそうであった」ということであって、それ以上のこと、すなわち「これが神の祝福によるかどうか?」という問については、正直に「わからない。」としか言えないのです。

 旧約の時代、あるいはイエスさまの生きていた時代において、社会的に成功した人、出世した人、金持ち、権力者たちというのは、まさにその人の日ごろの行いが神によって正しいとされ、神さまからこの世的に多くの祝福を受けたからこそのものであると理解されていたのです。

 そして、そうした「理解」を根拠づけ、保証したのが、当時のイスラエルにおける宗教組織であったのです。

 確かに、中には神さまの御前において、清く正しく働き、まっとうな働きをなしてそうした地位に就いた人もいたことでしょう。しかし、福音書においてイエスさまによって告発されている「金持ち/サドカイ派」の人々の例を見ればわかるように、中には他人の不幸の上に自分たちの富を築いた人も少なくなかったのです。

 しかし、当時、そうした信仰的理解があったために、そうした金持ちが、自分の手を汚して得た金によって金持ちになったとしても、「自分がやった悪事は、神に罰せられるほどの悪事ではなかった」、あるいは「神はわたしの悪を罰することはない」と、むしろ自分の悪を肯定するようになっていたのです。

 しかも、そうして得た金を例えばエルサレム神殿に持って行き、そこで献金とするのであれば、祭司によって、その人は、他の人たちの前で、さらに多くの祝福をいただくことであろうと、一種のマネーロンダリングの状況に陥っていたわけです。

 そして、今日のキリスト教会における病理のひとつが、まさにそうした「(この世的)成功=神の祝福=その人の信仰的正しさ」というような理解にあるわけですが、それは、まさにイエスさまの時代のエルサレム神殿を中心としたイスラエルの社会全体がそうした病理に染まっていたことにさかのぼるのです。

 しかし、イエスさまはそうした信仰理解ではなく、神の祝福はいまやすべての人に対して明らかにされたのだと。そして、パウロもそうしたイエスさまの信仰を受け、神の救いは、そうした当時の信仰的と全く無関係に、すべての人に対して開かれたことを宣言したのです。

 そうだとするなら、「教会に人が増えた」「教会に人が減った」という事とは無関係に、神の祝福は世界に注がれているということになります。その意味で、「神の祝福」とは数量的に自明のものではなく、むしろもっと大きな規模で、例えば、天から雨が降るように、毎日、太陽が昇るように、神さまの祝福はそのようにわたしたちの「祝福」の概念を大きく超えたものとして理解する必要があるのです。

 マタイによる福音書5章45節b
 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 

 そうしてみると、神の祝福とは「神が生きて今も働き、わたしたちと共にいてくださる」という事であるというふうに理解するのが妥当というふうに見えてくるわけです。その意味で福音書におけるイエスさまの発言は、エルサレム神殿を破壊することばであり、当時のそうした宗教組織の悪を破壊することばであるという事ができるかと思います。

 そして、イエスさまによって「キリスト教会/エルサレム神殿」という容れ物はもはや問題ではなく、神さまの救いはすべての人に開かれ、そして、すべての人が神の言葉を聞く権利をいただき、それに対する信仰の応答することの自由が各自に与えられたのです。

 その意味で、イエスさまはこの世においでになり、わたしたち一人ひとりと出会う、その機会をわたしたちに与えてくださったのです。

 わたしたちに求められているのは、与えられたその生涯において、イエスさまと真に出会う事(自分の罪の認識と罪の告白)であり、そこで出会って、イエスさまに感謝の応答をする自由を与えられているのです。そして、その自由は当然、わたしたちの側で拒否することもできる自由であるのです。

 それは、まさにイエスさまを信じる、その信仰を通じて実現することであり、教会とはそうしたイエス・キリストを信じる人々が共に神を礼拝する場であり、それは決して、「キリスト教会」という場所ではなく、むしろ、イエス・キリストを信じる人々が共に集まり、神を礼拝する場がまさに「キリスト教会になる」のです。

 キリスト教会がまさにキリスト教会であるために必要なことはすなわち、「イエス・キリストを主として告白する兄弟姉妹が、神を礼拝するために集まる」ということであって、当然、そこでなされるのは「一人ひとりが神さまの御前において自分自身の罪深さを覚え、罪の悔い改めへと変えられること」です。

 そうしたイエス・キリストを「信じる」という、その中身がなく、ただ一種のサロンとして、キリスト教風の歌声喫茶のようなものとして、「キリスト教会」という看板の建物に集まって、自分たちが楽しんでいるだけでは、それはまさに「キリスト教風の建物・集会」というだけであって、「キリスト教会」とは決定的に異なるのです。

 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(ルカによる福音書19章46節)

 イエスさまが言われたこの言葉は、まさに今日のキリスト教会に対して語られている真実の言葉です。


 キリスト教会は信仰者・金持ち・健常者・若者といったような人々に限定的に開かれたものではありません。

 イエスさまが探し求められた人は、むしろそうした人ではなく、この世において神に見捨てられたと感じている人であり、貧しい人であり、病気の人であり、また子ども・女性といった当時の社会における社会的弱者をイエスさまは訪ね歩いたのです。

 当然、そうした人たちによる教会が巨大な礼拝堂を建てることは難しいでしょう。だからこそ、イエスさまの昇天後、使徒たちが建てた教会はほとんどが「家の教会」であったのです。それは今日的には「家庭集会」と呼ぶものだったのです。

 今日のキリスト教会に求められているのは、立派な礼拝堂という容れ物ではなく、場所がどこであれ、イエス・キリストのみ名によって集まり、神の御前に真実の礼拝がささげられるところが真にキリスト教会となることができるのです。