パウロの直面している信仰の問題は、すなわちユダヤ主義・キリスト教(イエス・キリストをメシアであると信じるけれどもモーセの十戒にはじまる律法の遵守、エルサレム神殿などの聖所に関わる事柄なども同様に重要と考える。自分たちはあくまでもイエス・キリストを信じるユダヤ教徒であるという認識。)とキリスト教信仰とがどのように共通しどのように決定的に異なっているのかという点にあります。

 そして、その信仰的な差異を知ることがまさにイエス・キリストの福音を正しく知ることであるとパウロは確信しているのです。そして、そうしたパウロの確信に基づき、パウロはそうした異邦人教会に訪れてきては、異邦人教会をユダヤ主義・キリスト教(厳密にはユダヤ教)に回心させようとするユダヤ主義・キリスト教の教師たちの教えについて、パウロはいったい彼ら、ユダヤ主義・キリスト教の教えの何が間違っているのかということを、このローマの信徒への手紙で明らかにしていくのです。

 そして、そうした論述を通して、パウロはもう一つの目的、すなわち、この手紙における自分の確信について、それがすなわちローマにある異邦人教会の人々の確信するところと同じであることを理解してもらおうとするのです。


 

 ローマの信徒への手紙 2章1節
1)だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

 パウロはエルサレムからやってくるユダヤ主義・キリスト教の教師たちに対して、あるいはそうしたユダヤ教の教師に対して、「人を裁く者よ」と呼びかけます。すなわち、それが彼らの本質であるというわけです。

 言い方を変えれば、「人を裁く者」とは、すなわち「人を裁くための基準を自分の内に持つ者」という事です。

 しかしそれは、そうしたユダヤ主義・キリスト教の教師たちだけがそうだということではなく、キリスト教の信仰においては、「わたしたち人間すべてがそうした存在である」という解釈に立ちます。

 たとえばわたしたちは神を信じる信じないに関わらず、自分の内に何かしらの価値基準を持っています。それが信仰に基づくものであるか基づかないかは大きな問題ではありません。

 ところが、わたしたちはすべての人が天地を創造した神の御前において、自分以外の何者かを裁くときに、実は、その「わたしたちが誰かを裁く」という行為によって、わたしたちは神に対して罪を犯しているのです。

 どういうことかといえば、この世界において神さましか「正義」を持つ存在はいません。すなわち、人間は、その人が頭の良し悪しに関わらず、社会的に地位が高い低いに関わらず、当然、男女の違いにも関わらず、誰もが自分の内に「正義」を持たないのです。

 つまり、自分の内に正義を持たない人間が、他の人の正義を問えるかといえば、当然それは不可能なのです。

 ところがわたしたちは普段の生活の中で、自分を含めて他の人の事についても、そうした善悪を判断します。

 つまり、わたしたちが自分の中に持つそうした善悪の基準とは、すなわちそうした本来は自分の中に「正義」を持たない人間が、自分の内なる正義のようなものを基準として、他の人の善悪を判断しているということになるのです。

 ですから、そうしたわたしたちの内にある善悪の基準とは、すなわち神の「正義」などではなく、あくまでも自分自身の主観に基づく「相対的正義」であって、それは神さまの正義のようであって、そうではないのです。マタイによる福音書などに見る律法学者やファリサイ派の人々の正義は、まさに、イエスさまによって「偽善」であることが示されるとおりです(たとえばマタイ6:2以下、23:1以下参照)。


 特に、信仰者にとって自分の内にそうした信仰的価値観を持つ人にとって見れば、まさに「自分が信じているところのものが正義である」という考えに陥りやすいのです。こうした事は福音書では律法学者やファリサイ派の人たちが例として挙げられていますが、キリスト教会もキリスト者もそうした罪の誘惑に流されやすいのです。

 なぜなら、キリスト者が信じているところの「神」は「正義」です。ところが、だからと言ってその神を信じている信仰者が正義であるとはならないのです。それどころか、パウロはむしろ、キリスト者はそうした神を正しく信じる信仰によって、正しい信仰のキリスト者とは、自分自身が罪人であるという自覚をもって、神を神とする者であると信じているのです。

 ところが、エルサレムからやってきた教師なる人物たちは、まさに自分たちこそが神によってキリスト者とされた者であり、まさにそのゆえに自分たちの信仰をも正しいとする人たちであったのです。

 彼らは、イエス・キリストがメシアであると信じていますが、しかし、その一方において、ユダヤ教徒としての律法の遵守、すなわちエルサレム神殿を大切にし、男性であれば割礼を受け、日々の生活の中において日に3度の祈りと、食物規定に基づく聖なる生活をすることを要求したのです。


 また、今日的な例を上げれば、たとえば牧師が信徒に対して語る言葉が、常に、そうした「自分たちこそが正しいのだ」という、一種のマインドコントロールに陥りやすいのです。しかし、それは案外、そうした御言葉による力を得ていない、すなわち自分の罪が何であるかを認識しないように、自分自身に対して「わたしは神によって立てられた。神によって肯定されている。」と自己暗示をかけているような場合もあるのです。

 牧師が御言葉を使って、牧師自身の自己肯定を行う、そうした言葉を聞いた時にはだからこそ注意が必要なのです。あるいは、それは信徒リーダーに対する言葉として語られるような場合もそうです。

 牧師が自分自身の願望・欲望を、あたかも「神の御心である」と自発的に勘違いし、そのように自己暗示をかけ、リーダーをそのように洗脳し、教会員ひとりひとりに対して、その言葉に忠実であるように命令をする。そして、まさにそうした事によって教会が、ひとつの集合体として組織を大きくしていくわけです。

 当然、そこでは、そうした成長、拡大は「神の御心」「神の祝福」だと語られるだろうし、そうした成長や拡大がない、あるいは組織の弱体化が起これば、牧師は「信徒の献身が不十分である」「神のめぐみに対する感謝が足りない」というようなことを言うかもしれません。

 いつしか、教会は、そうした「願望・欲望」が牧師の人格から遊離して、教会の中の指導的な立場にある人たちを拘束し、洗脳するようになるでしょう。

 そうなると、それは「欲望・願望」が、教会という組織の中で肥大化していき、最終的には、「欲望・願望」によって、その教会全体が喰われてしまうことになるわけです。

 その場合、すべてがご破算になった時の牧師の答えはこうです。「信徒が勝手にやった。」
 信徒の答えはこうです。「牧師が命令したからそれに従っただけだ。」



 わたしたちは教会組織が罪に飲み込まれてしまう恐ろしさをあまりにも過小評価していないでしょうか。

 だからこそ、イエスさまは当時のエルサレム神殿を中心としたユダヤ教組織の持つ根源的な罪の問題について、エルサレム神殿とそうしたものが実現する間違った信仰について、福音書のなかでかなり厳しく批判しているのです。

 その意味で、教会は確かにこの世においてイエス・キリストのからだなる教会としてその役割を担っていますが、しかし、本質においては、常に教会がエルサレム神殿化してしまうことのないようにという、教会の自己絶対化という大きな誘惑に直面するのです。

 その意味で、規模が小さい教会はそうした誘惑に対して強いですが、教会の規模が大きくなればなるほど、そうしたこの世的なものとの戦いが激しく、そして大変になっていきます。

 特に、牧師も信徒も、自分たちの教会がどんどん大きくなることを願っているようですと、そうした誘惑に陥りやすく、そのようにして教会が実際に大きくなるのですが、世代を越えて教会としてやっていけるかどうかは、かなり不透明なところが多いようです。


 ローマの信徒への手紙2章2節-15節
2)神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
3)このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
4)あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
5)あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
6)神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
7)すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
8)反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
9)すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
10)すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
神は人を分け隔てなさいません。
11)律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
12)律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
13)たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
14)こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
15)そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。


 では、たとえば牧師が自分の欲望・願望をあたかも「神の御心である」と思い込んで、教会全体を巻き込みながらキリスト教の伝道を行うことは、その結果として、いくらかの人たちは教会で傷つき、信仰を捨て、教会から去って行ったとしても、その数に比べれば、その教会で洗礼を受けて信仰者になった人の数がはるかに上回るのであれば、人間は誰しも過ちは犯す存在なので、そうした牧師も教会も、神の御前に正しいとされるのでしょうか?

 決してそうではありません。

 パウロの言葉を借りれば、「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」(ローマの信徒への手紙2:5~6節)ということです。


 ごく単純なことですが、この世でお金を儲ければ、お金持ちになれます。逆に、お金儲けをしなければ、お金持ちにはなりません。それは当然です。

 では、教会がこの世において行うことは、お金儲けでしょうか? 福音宣教でしょうか?

 それとも、「福音宣教=お金儲け」でしょうか?

 福音を宣教するとお金が儲かるのでしょうか?


 なぜ、教会は福音宣教を行うのでしょうか?
 あるいは、なぜ教会は信徒を増やさなければならないのでしょうか?


 おそらく、クリスチャンであればだれでも一度は考えるのではないかと思いますが、この世におけるキリスト教会は自己矛盾を内に秘めています。それは言い方を変えれば、「教会(あるいは教団)」という組織が本質的に持っている罪の部分です。

 これは加藤 隆氏がその著書で指摘していますが、キリスト教会は「福音」という「救い」によって、すべての人間を「救われる人」と「救いの必要な人(救われない人)」とに区別していると。たしかに、そうであるのです。



 では、パウロはこのところでどういっているのでしょうか?

 パウロはイエス・キリストの救いは完全であるけれども、しかし、それがわたしたちを自動的に天国まで連れて行ってくれるものではないことを、このところで説明しています。

 イエス・キリストの救いが実現してくれたものは、ユダヤ教の信仰における人と神との関係性の回復であって、それが回復してはじめて、わたしたち人間は神の御前に罪を自由に悔い改めるということが可能となったと理解しているのです。

 そして、問題は、その救いを受け入れた後に、それぞれの人間が、その生涯において犯すであろう罪について、あるいは発言や行動について、最終的に、「神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ローマ2:15)と言っているように、まさに「イエス・キリストによってすべての人が裁かれる日」に、そこではじめてすべてが明らかになるであろうというわけです。

 その意味で、イエス・キリストの救いは、そうしたイエス・キリストによる新しい人生の始まりを意味しており、当然、そうした新しい人生においてわたしたちがイエス・キリストによって与えられた命という恵みに対してどのように生きるか、人生をもって神に応答するかが問われているのです。

 つまり、その意味で、信仰は常に、神と個人との関係性が問題であって、教会という組織はそうした意味では本質的な問題とはならないのです。

 しかし、では、信仰が神と個人との関係性だというのであれば、教会はどうでもいいのかというと決してそうだとも言い切れません。なぜなら、わたしたちの信仰の原点として、そうしたキリスト教信仰を今日に伝える役割を教会が担ってきたからです。

 すなわち、キリスト教会が担っている大きな役割とは、すなわち教会が福音宣教の母体であると共に、それはまさに神を礼拝する礼拝をもって、わたしたちが礼拝を通じて、信仰生活をすることを通じて、世に証しすることによって福音宣教が実現するのです。

 その意味で福音宣教をけん引するのは、すなわち神さまであって、当然、教会は神さまに仕える、神さまの御言葉に聞き従うという具体的な行動、礼拝を通じてはじめて行われる神の御業であるのです。



 パウロは自分がこれから訪れようとするローマの教会の人たちに対して、「自分が行けばあなた方の教会は信徒も倍増し、献金も増えるであろう」とは決して言いません。むしろ、神の御前において、正しい信仰を保つことこそが大切であることを説明します。

 この世的な見せかけだけの発展・成長ではなく、信仰により、神の憐みと恵みによる真実の成長こそが、大事であることをパウロはここで示すのです。