ローマの信徒への手紙は、ガラテヤの信徒への手紙(「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」ガラテヤ6:11)と同様、パウロの晩年の手紙で、タイトルのとおりパウロがローマにあるキリストの教会に対して送った手紙となっています。

 また、極めてまとまった形で、しかも自分で問題を提起していき、それに対して信仰的な答えをもって回答をするという哲学的な話の進め方をする関係で、古来より「キリスト教の神学書」的なものとして理解され、そしてそのように註解をしている人も多くいます。

 それだけ、キリスト教信仰についてまとまった形で記されているものですので、当然、一気にこれだけのものが書かれたというものであるか細かい事はわかりませんが、ここではそうした「神学論文」という視点をひとまずおいておいて、「ある特定状況下において、パウロがローマにあるキリスト教会の信徒に対して宛てて記した手紙」という理解において、説明していきたいと思います。

 

 ローマの信徒への手紙1章1~15節
1)キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
2)この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
3)御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
4)聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
5)わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました
6)この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――
7)神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
 
8)まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
9)わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、
10)何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています
11)あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。
12)あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
13)兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。
14)わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。
15)それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。


 さて、この手紙でパウロが書いているように、パウロがローマにあるキリスト教会にこの手紙を記したのは、神が「すべての異邦人を信仰による従順へと導くため」に、その福音宣教というパウロの使命によって、「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があ」るために、ローマの教会に行く必要があり、そのためにも、自分がローマに到着した時にはよろしく迎え入れてほしいという願いと、もうひとつは、自分がこれから行く時に、ローマにあるキリスト教会の人々の信仰が「パウロと同じである」ということのために、パウロを受け入れる準備として、先に手紙で自分の信仰について、なるべく正確にそのことを伝えようとしたということがうかがえるのです。

 そして、パウロが語るべき、多くの言葉を重ねて説明すべき事柄は、まさに御子イエス・キリストについての事であり、もうひとつは、それが既に旧約聖書の言葉に約束されていたものであり、その約束は、ユダヤ人という特定民族だけでなく、「すべての異邦人を信仰による従順へ」と導くためのものであり、まさにそれが神の御心であるというわけです。

 なぜ、パウロがここまで丁寧に、自分の信仰のことを含めて説明しなければならないのか?

 それは、おそらく、パウロにとってローマにあるキリストの教会に行くのは、まさに「初めてのこと」であるからです。

 また、ローマにあるキリスト教会と関係が深いのは、使徒言行録の記述によればアキラとプリスキラという夫婦です。パウロはアキラとプリスキラが、まさに自分と同じ信仰であるということに気づき、そこで意気投合して一緒になりコリント教会を立ち上げ、その後、三人はアジア州のエフェソの教会を組織し、アキラとプリスキラはそこに留まり、パウロは宣教旅行を続けることになります。

 すなわち、パウロはローマにキリスト教会が存在することをアキラとプリスキラから聞かされており、自分もまた、アキラとプリスキラという信仰の兄弟姉妹の関係を使って、ローマにあるキリストの教会へ、自分自身がまさにアキラとプリスキラ同様の信仰を持っていることを伝え、自分のことをアキラとプリスキラと同様に受け入れてほしいという願いの下に、この手紙を記したのであろうと思うのです。

 当然、パウロは第二回目の宣教旅行においてアキラとプリスキラと一緒になっていますので、この手紙はそれ以降に出されており、おそらく第三回目の宣教旅行の最後においてローマに護送されますが、その時に記されたのではないかというところです。



 ローマの信徒への手紙1章16~17節
16)わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
17)福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 


 クリスチャンが、イエス・キリストを信じているのは当たり前です。牧師もイエス・キリストを信じていますし、信徒もイエス・キリストを信じています。それはごく当たり前のことです。

 ところがその基本中の基本である「イエス・キリストを信じる」ということ、すなわち「福音を恥としない」ということがどれだけその人の人生において実質的であるかは、かなり疑問があるところです。

 牧師ほど、あるいはクリスチャンほど、その実質を求められることはありません。

 そこが、まさに「キリスト教会である」か、それとも「キリスト教風のコミュニティーセンターである」かは、外見上同じでありますが本質的には全く異なります。


 クリスチャンがイエス・キリストを信じているというのは、まさに当たり前であって、そのとおりです。

 ところが、そのクリスチャンが世にあって、自分が直面する出来事に対して、「キリスト教信仰に基づいて」決断し行動するか、それとも「この世的な価値観に基づいて」決断し行動するかは、本質的には関わりがないのです。

 たとえば、ある行為が「罪である」場合に、「それは罪であり、自分の信仰に反する」と行わないのであれば問題はありません。

 ところが、場合によっては、わたしたちは「それは罪であるれども、自分は完全な人間ではない」と、すなわち「罪だと認めつつ、罪を犯す」場合、あるいは「信仰はあくまでも信仰であって、この世のことはこの世的に判断しないと生きていけない」として罪を犯す場合という具合に、あれこれと理由をつけて罪を犯す事が多々あるのです。

 その意味でキリスト教の信仰は極めてシンプルであるにも関わらず、キリスト者は自分たちに都合の良いようにいろいろと理由をつけてはその信仰を複雑にすることが多いのです。

 イエスさまがわたしたちに提示するものはまさにシロかクロかであって、しかも「クロ」という選択肢はあり得ないので実質的に一択問題であるのです。ところが、牧師も信徒もそうした単純な一択問題であるはずのところを「ハイイロ」の選択をするわけです。

 その意味で、「福音を恥としない」とはキリスト者であれば誰もが知っていることであり、当然の事として理解しているわけですが、しかし、その人が、実際に自分の生活において、まさにそのように生きているかといとそうでないケースが多いのです。

 だからこそ、礼拝出席の多い、あるいは献金の多い教会ほど、「福音を恥としない」という決断から遠ざかっていくことが多いのです。

 以前にも紹介しましたが、アメリカではメガチャーチと呼ばれる教会がまさに破産をしました。日本国内の教会においても、週報などで教会会計が紹介される事はあります(教会会計の透明性を確保するためにも必要)が、だからといって毎週のように金融機関からの借金返済のために献金が呼び掛けられるような状況はいかがなものかと個人的には考えます。

 立派な会堂、充実した音響設備は礼拝において必須かと言えばそうではありません。ドラムセットもバンドも必要ありません。

 礼拝はまさに主イエス・キリストのみ名によってキリスト者が集まるところはどこであっても、まさにそこが礼拝の場であって、キリストの教会であるのです。福音書においてイエスさまがあえて神殿ではなく、会堂でもなく、山や平地で人々に教えられたのは、すなわちそういう意味もあるかと思います。
 
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)

 その意味で、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるためには、「豊かさ」はあってもいいですが、しかし、その場合はこの世的な誘惑が多いということを肝に銘じておかなければならないということでしょう。この世的に流されれば、キリスト者はキリスト者でなくなります。

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(マタイによる福音書5章13節)

 イエスさまの言われるように、キリスト者はまさに「地の塩」でありますが、この世においては、そうしたこの世的な判断を通じて「塩気のない塩」、すなわち「形だけのキリスト者」に成り下がることが多いのです。 

 パウロは「福音を恥としない」と宣言しました。それはまさにキリスト者として自分の信仰に決してそうしたブレがないことを言ったのであり、また、それこそがキリスト者がキリスト者として、すなわち、まさに地の塩であるために必要なことであるのです。

 当然、「信仰者が生きる」と言う場合、まさにそうした「福音を恥としない」という決断と行動によってはじめてそれが実現できるのであって、それはキリスト者として至極当然の事でありながらも、しかし、この世的には非常に難しいことでもあるのです。

 そうしたこの世にあって、自分の弱さと向き合いつつ、常に主の御言葉の前において自身の罪を悔い改めることができれば、それは実に幸せな生き方であると言えるでしょう。

 わたしが青年の頃、「わたしは二重人格者です。教会では信仰者の顔をしておきながら、実際の生活においてはこの世的に考えて行動しています。」という証しを聞きました。まさにキリスト者はそういう状況に立たされているのです。常に信仰的に選択をできれば良いですが、なかなか人間的には難しいところであるかと思います。しかし、だからといってこの世的に流されてしまっては信仰することの意味さえ失ってしまいます。

 だからこそ、わたしたちはこの世において信仰者として悩むのでしょう。
 しかし、それは絶望ではなく、そうした悩みに神さまが共に寄り添ってくださり、わたしの苦しみを顧みてくださる、そういう大切な時でもあるのです。

 主と共にある人生とは、まさにそうした悩み・苦しみと向き合うことの多い人生であると思います。しかし、だからこそ、主が悩み・苦しむわたしと共にいてくださり、それを無為な悩み・苦しみ、無意味な時間ではなく、主と共にある充実した人生へと変えてくださるのだと思います。