コリントの信徒への手紙2 10章1節、7~13節
1)さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。


7)あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。
8)あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。
9)わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
10)わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
11)そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。
12)わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。
13)わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。 

 
  さて、パウロは、1節、10節で赤く示したところで言っているように、先の第一コリントの手紙の後において、コリント教会の信徒の一部から、かなり酷評されたことが分かります。

 その理由は、これまでのところでも説明しましたが、イエスさまの直接の弟子である十二使徒のようなイエス・キリストの弟子であるという権威、あるいはアレキサンドリア出身の雄弁家アポロのように、パウロはいわゆるカリスマ的な要素を まったく持ち合わせていませんでした。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙で記しているように、あるいは使徒言行録において説明されているように、彼の信仰の土台は「復活の主イエス・キリストによる召命に 全てを負っていた」からです。すなわち、それは「自称使徒」といことであって、最初はパウロを受け入れていたコリントの教会の人たちも、そうした十二使徒たちの教会から派遣されてきた教師、あるいはアポロといった雄弁家の語るメッセージに、パウロには無い福音の力強さのようなものを感じていたのではないかと思います。

 パウロは、そうした信仰者として、福音宣教者として、アポロやその他の教師たちと自分とを比較される事について、そうした教会指導者としての比較が実に愚かなことであることを7節、12節において主張します。

 それは具体的には、「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。」「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」という言葉によって示されていますが、すなわち十二使徒の教会からやってきた教師たちが誇示するのは、まさに自分たちが十二使徒たちの教会に所属し、そこから派遣されてきたのだというまさに自己推薦であり、また雄弁家アポロとの比較によって示される、人間的な能力・才能の比較であり、パウロはそうしたものは福音宣教者としての「うわべのこと」にしか過ぎないというのです。

 しかも、そうしたアポロや他の教師たちは、自分たちを、あくまでも仲間同士で評価し合い、比較し合っていると、その評価は福音宣教者として、実に偏った評価の仕方であるとパウロは主張するのです。


 こうしたパウロの指摘する点は、まさに今日において、いろいろとパワハラやセクハラ問題が取りざたされる牧師や教会に、案外にも共通することです。

 すなわちそれはどういう事かと言えば、本当の意味で信仰的な交わりがなされるのではなく、ただ「(信仰の方向性において、あるいは目指す目的において)お仲間」という非常にこの世的な、あるいはごく世俗的な「なあなあ」の関係のように、そこにあるのは「キリスト教界において主流派になろう」とするために、お互いに相手を良い評価でもって褒めちぎり、そうした「仲間同士の評価」によって、さも「自分たちは正統である」ということをアピールするのと同じであるのです。

 パウロはそうした、偽りの相互評価によって福音宣教者を評価するのではなく、パウロは、むしろ福音宣教者として、何度も命を落としそうになったにも関わらず、いまだ病がいやされていないにも関わらず、今なお生きて福音宣教者として活動できていることこそが、まさにパウロがイエス・キリストの使徒であるということを証明する唯一のものであると主張するのです。

 教会も牧師も、何か時流にのっているからこそ正統であるということではなく、十二使徒の権威をひけらかすのではなく、また雄弁家のような能力や才能によってやっているから正統なのでなく、むしろ、牧師も教会もこの世において困難の中にあって福音宣教の御業を行い続けることができている事において、それはまさに神の憐みによってはじめて実現する事柄である限り、牧師も教会も、自分たちの歩みが神の御前において正しいと判断することができるのです。

 そのためには、むしろ「信徒獲得/勧誘行為」というような教会の業はむしろ否定されなければなりません。そうではなく、パウロはわたしたちキリスト者は、まさにイエス・キリストの救いによってこの世において「信仰によって生きる」という「キリスト者としての証し」によって主による福音宣教の御業に参与するのです。



 しかし、そうではなく、むしろこの世にある教会は、そのような不確定要素の強い神の祝福、神の導きではなく、むしろこの世的なエコノミストとして、あるいは実業家として、また活動家として、すなわちまさにアポロが雄弁家として、福音宣教ではなく、むしろ弁論術によって相手を言い負かしたように、福音の本質とは全く異なる手法によって教会を大きくしようとしやすいのです。

 いわゆる「今、流行っている教会」「今、成長している教会」というのは、いったいどういう事でしょうか? それは本当に神の祝福によるものでしょうか? それが本当に神の祝福によるものだということを一体何によって証明するのでしょうか?

 わたしたちは案外にも、「数が増えている」「メディアなどの露出が多い」というような実に、この世的な、本質とは異なる価値基準によって、さもそれが「神の祝福によるもの」と理解するのです。そして、それに対して、正面から「そうではない」ということを言う人も多くありません。


 パウロは、牧師もまたキリスト者も、そうした教会の状況について深く考えることをせずに、「なんとな~く良しとする」ということをしてはいけないことをここで勧めています。

 そうではなく、まさにパウロは以下のように結論付けるのです。

コリントの信徒への手紙2 10章17~18節
17)「誇る者は主を誇れ。」
18)自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
 
 「うちの教会は今すごく聖霊が働いています!」ということではなく、まさに「主から推薦される人」こそ、すなわち、それは地道な福音宣教の御業において、決して自分のことを他人に誇ることなく、ただ主によって福音宣教者として命が守られることによって、それは神さまが明らかにしてくださるのだというのです。 




コリントの信徒への手紙2 11章12~15節
12)わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。
13)こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。
14)だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
15)だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう


 パウロの指摘する「偽使徒」は、まさに使徒の教会からやってきた教師でありましたが、彼らの語る内容は「(自分自身の罪の告白)証し」ではなく、「自分が使徒の教会に所属する人間である」という自慢話がその特徴であるのです。

  その意味で、その牧師が本当の意味でイエス・キリストの弟子であると言えるかどうか、それを見抜くためには、その人が語る証しを聞けば良いのです。

 マタイによる福音書4章8~9節
8)更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9)「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 

 その牧師の語る言葉が目指すものが何か、それは「この世的な繁栄」でしょうか? もし、そうであるなら、その牧師はまさにイエスさまの言われる「悪魔」であるのです。 

 あるいは、その語るとこが自慢話ではないでしょうか? もし、そうであるなら、その牧師は「サタンに仕える者」ということになるでしょう。


 理由は簡単です。なぜなら、イエス・キリストの救いがまさに「わたしたちの罪の赦し」である限り、わたしたちの証しは常に、「わたしと神さまとの関係性」が証しの内容になってくるからです。

 キリスト教における「罪」とは、わたしと神さまとの関係における「関係の破たん」をいうのです。その意味で、キリスト教における「救い」とは、まさに「罪の赦し」であり、それはわたしと神さまとの関係における「破たんした関係の和解」であるのです。

 だからこそ、それは「できる・できない」や「治らない・治った」ではなく、むしろ、「神さまによって生かされている事に対する感謝の応答」であるのです。


 しかも、パウロは案外にもそうした偽使徒(今日的には「偽牧師」?)が多いこと、また加えて、「模範的な牧師/模範的な信仰者」を装うことが良くあることであると説明するのです。

 
 パウロは、そうしたこの世において偽使徒(偽牧師)が多い事をあまり問題にする必要はないことをコリントの教会の人たちに対して勧めます。なぜなら、神の御前において悪を行って、その罪の報いを受けないことはないと確信しているからです。

 言い方を変えれば、牧師が悪を行って、その犯した悪の報いを受けないはずがなく、当然、神によってその牧師は自分の行った悪に応じた最後を迎えることになるとコリントの教会の人たちに勧めるのです。



 そしてパウロは有名な12章9~10節の御言葉を語ります。

コリントの信徒への手紙2 12章9~10節
9)すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10)それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 牧師や信徒がこの世において誇るべきことがあるのだとすれば、それは第一に「誇る者は主を誇れ。」(コリントの信徒への手紙2 10章17節)であり、第二に誇ることがあるとすれば、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙2 11章30節)ということでしょう。

 では、教会が誇るべきことは一体何でしょうか?

 パウロはこの聖書箇所において神の力がわたしたち人間の弱さの中でこそ十分に発揮されることを明らかにしています。

 すなわち、教会がそこに集う兄弟姉妹の人間的力で頑張っている間は、神の力は十分に働くことはないのです。むしろ、それは自分たちの力を誇ることとなり、表向きは「神さまの栄光」でありながら、実は、自分たちの自慢になっている場合があるのです。

 そうではなく、主がパウロに対して神の力が人間の弱さの中でこそ十分に発揮されるのであれば、それは当然、教会(あるいは牧師・信徒)として、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態において働く神の力によってはじめて、それがわたしたちが本当の意味で誇るべき神の力であることを示しているのです。


 若い人がいない。高齢者ばかりだ。そもそも人数が少ない。自分たちだけでは何もできない。などなど。

 そうした教会はこの世的には「魅力のない教会」ということになるでしょう。しかし、パウロに言わせればそうではないのです。むしろ、そうした困難の中にある教会こそが、まさに神さまの力が大いに働く教会であることを言っているのです。


 その意味で、わたしたちはそうしたこの世的にはマイナス要因しかない教会の状況を決して悲観する必要も、絶望することもないのです。むしろ、そうした教会において、主の憐みを求めるところに主の大いなる御業がなされるのです。


 教会が人間的な繁栄を求めるときに、それはまさにサタンに付け入る隙を与えるのと同じです。そして、牧師も信徒も気づかない内に、そうした教会は牧師も信徒も、信仰において「サタンの使い」に成り下がってしまうのです。それは非常に恐ろしいことであり、わたしたちはそうなりやすいのです。

 そして、一度、そうした方向に牧師や信徒、教会が流れてしまったら、自分たちの努力で元の状態に軌道修正することはほぼ不可能です。そうした教会はわたしたちの身の回りに多くあります。



 常に主の御言葉に耳を傾け、自分自身の罪を告白し、悔い改める。それは信仰の基本であって、もっとも大切なことです。そして、その事にどれだけ忠実であることができるか。それが常にわたしたちに問われているのです。