パウロの最晩年に書かれたであろう「ローマの信徒への手紙」において、パウロは以下のように記述しています。

ローマの信徒への手紙3章9~18節
9)では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
10)次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
11)悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
12)皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
13)彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
14)口は、呪いと苦味で満ち、
15)足は血を流すのに速く、
16)その道には破壊と悲惨がある。
17)彼らは平和の道を知らない。
18)彼らの目には神への畏れがない。

 パウロはキリスト者がキリスト者でない者、たとえば不信仰者、異教徒などに対して何かキリスト教信仰において優位であるかという事について、「全くありません。」と簡潔に述べています。

 その意味で、たとえば「キリスト者」と「そうでない者」という区別はありますが、「罪深い人間である」という点においては「キリスト者」も「そうでない者」も同じだというのです。

 だからこそ、パウロは「キリスト者」を「天国に行けることが確定した者」とはみなさず、あくまでも「イエス・キリストの救いによって、神との関係において和解を得た罪人である」として、なお「救われた罪人」に過ぎないという認識において「善を行うことはできない」というふうに考えるのです。

 そのようにして、イエス・キリストと無関係に、ただ哲学的に人間が「神」「正義」といった神に属する事柄を選択できるかと言えば、それは不可能であることを示すのです。なぜなら、「神」や「正義」を知るための「平和の道」とは、それは「わたしたちの罪の認識、告白、罪の悔い改め」ということをもって、ただしく神を畏れ敬うという信仰がなければ不可能であるからなのです。


 ところがそうすると、たとえ信仰者が「善い行い(慈善)」をする場合、いったいどのようにしてそれが「偽善」ではなく「善」であり、わたしたちは「善(行)」を選択することができるのでしょうか?




コリントの信徒への手紙2 8章1~7節、9~11節
1)兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。
2)彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。
3)わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、
4)聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。
5)また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、
6)わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。
7)あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。


9)あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
10)この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。
11)だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。

 パウロはそうした、わたしたち人間が本質において「正しくあり得ない」という理解に基づいて、そのような罪深い人間が一体どのようにしたら、人間のそうした罪深い本質と無関係に「正しいこと・善行」を行うことができるのか、マケドニア州にある教会(おそらくフィリピかテサロニケの教会)を例に挙げてそのことを説明します。

 パウロの言葉によれば、このマケドニア州にある教会は時流に乗っている教会でもなく、勢いがあるわけでもなく、その現実は非常に厳しいものでありました。教会は様々な迫害の下にあり、問題があり、また金銭面においても極度に貧しく、まさに「信仰においては迫害にある教会」であり、「金銭面においては極貧にある教会」であったのです。

 しかし、そうしたこの世的には貧しさの中にありながらも、マケドニア州の教会の人々は、信仰においても物質的な面においてもパウロの働きを大いに助けたのでした。

 それは当然、この世的に富んでいる人たちではなく、貧しい人たちが物質的な援助をするわけですから、その援助自体はパウロにしてみれば「有り余るほどの豊かさ」ではなく、恐らくは「何も持っていない人たちが、それでも何も持たない中から、苦労してパウロのために少しずつ集めてパウロのために送ったもの」であって、それは「物質的な豊かさ」とはまったく関係のないものであったことでしょう。しかし、パウロにとってみれば、信仰において、それは充分であったのです。

 教会が貧しいということは決して欠点でも何でもなく、むしろ何もないところに、イエス・キリストの救いによって、また神さまの深い憐みによって満たされる。そして、そうした中から、さらに神さまによって与えられたものを更に分かち合う。

 イエス・キリストはまさに貧しさの中に生まれ、苦しみの中に生きられましたが、それは、まさにキリスト者がイエス・キリストの貧しさによって、わたしたちが豊かになるためであったとパウロは説明するのです。

 ですから、当然、そうした豊かさは、いわゆる物質的な豊かさとは異なると思います。決して多くを求めることなく、神さまの祝福によって与えられているところに満足し、その満たされたところのわずかのものを、さらに兄弟姉妹で分かち合うのです。


 そして、それは神の御前において「正しくあり得ない」わたしたち信仰者が、いかに「善」を選択するかということのヒントにもなっているのです。


 そもそもわたしたちは信仰者であれ、不信仰者であれ、すべての人間が神の御前において罪深いのです。信仰者はその罪深さの中に絶望の淵から、イエス・キリストによって神との間に和解を得た存在であると言えます。

 しかし、それはイエス・キリストの救いがわたしたちの「罪の赦し」であるという一点において、わたしたちが神の御前において「罪人である」という自己認識において、すなわち「わたしたちは善を選択する能力を持たない哀れな人間に過ぎない。」という神さまに対する告白において、神さまはそれを「正しいこと」として認めてくださり、そのような哀れな罪人に過ぎないわたしたちに対して深い憐みをもって顧みてくださるのです。

 そして、わたしたちはそこにおいて神さまの憐みを受け、その与えられた憐み、祝福によって、自分自身の体をまさに何も持たないわたしたちが神さまに唯一献げうるものとしての「献身」へと導かれるのです。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)

 わたしたちはそのようにして神さまの憐みによって礼拝へと招かれ、そして、そこから隣人愛へと導かれます。それはあくまでも、「神の言葉による導き」であって、「牧師による命令(脅迫)」ではありません。その意味で、「献身」とは「導かれ、招かれるもの」(自発的)であって、「人(牧師)に言われたからやるもの」(受動的)ではありません。

 そして、そうした「自発的」の土台となるのは当然、イエス・キリストによって「罪を赦されたという喜び」であることを忘れてはなりません。

 その意味で、キリスト者が「善を行う」とは、まさに「自分が受けた愛に報いる」ということで、それは自分の罪とその赦し・救いとの関わりにおいてはじめて実現可能(神さまによって導かれる出来事として)なすことが可能なのです。



コリントの信徒への手紙2 9章8~9節
8)神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
9)「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。 


 パウロがここで言っているように教会の発展はまさに、神の祝福によります。しかも、それはあくまでも結果として与えられる豊かさであり、わたしたちはそれを目標とする事はできません。

 そして、教会が注意しなければならないのは、ここで言われている「惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。」とは、いわゆる「教会で献金を募って、献金を困っている人たちに施す」という意味ではないという事です。

 イエス・キリストの示された慈善、すなわち「隣人愛の実践」は、「物品や金銭をめぐんでやる」ということではなく、「困難にある隣人と分かち合う」ということであるのです。

 キリスト教の信仰において「困った人を助ける」ということは通常「正義/善い事」として理解されます。


 しかし、「困った人を助ける」とは実に信仰者が気を付けなければならない誘惑であって、わたしたちは時に、そうした行動をとってしまいやすいのです。

 たとえば、教会が立っている地域とは、まったく縁もゆかりもない別の地域において災害が起こったとします。わたしたちはその時、「ああ、あの人たちはかわいそうだ。大変そうだ。さぞ困っているだろう。」と良心的に考え、「あの人たちを助けるために、何かをしなくては!」と考えて、まさにそうした行動に移るのです。

 もちろん、そうした困った人たちに同情することは決して悪でも罪でもありません。しかし、そうしたことを受けて、わたしたちがその人たちに対して「良い事をしてやろう(善を行う)。」と考える時に注意が必要なのです。


 教会は決してボランティアセンターではありません。ところが、まさにそうした災害が起こった時に、我先にと教会がボランティアセンターに早変わりし、そうした人たちに支援を行い、人材を派遣し一定の成果を上げるのです。

 同じ地域や近い地域にある教会がそうした支援を行うことはあまり問題にはなりません。ところが、むしろ、遠く離れた教会がそうした地域の支援に加わってきます。そうした「同一地域の教会」「遠隔地にある教会」と何が異なるのかと言えば、それは「責任」の問題です。

 それは県をまたいでという場合もありますし、それこそ国内外での場合もあります。

 確かに、そうしたひとつひとつの働きは尊いものですが、問題は教会がそうした責任を持たないまま、自分たちの好き勝手を行い、まさに「自分たちは良い事をしてやった。」と、「正義を行った」と勝手に思うのです。

 中には、実に勝手に、無責任にそうした奉仕を行い、自分たちの都合で勝手に奉仕を引き上げたりします。それによって、被災された方々が混乱するということが実際問題として起こっています。



 その意味で、「責任が取れないのであれば不用意に関わらない。」という判断は、教会においては大変難しい決断となります。

 むしろ、「困っている人を見たら、助ける」という方が簡単なのです。しかし、問題は、わたしたちはそうした責任を果たす力が無いにも関わらず、ただ信仰によって「神さまが助けてくれるだろう」という安直な考えによって、無責任な行動を繰り返すことがあるのです。

 それはまさにイエスさまが言われた「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 」(ルカによる福音書6章39節)と同じです。


 神さまの憐みによって信仰へと導かれたわたしたちは、自分たちが「救われた罪人に過ぎない」という自覚が欠如する時に、あたかも「自分たちは神さまによって後ろ盾を得た。」と、自分の能力・実力以上の事を為そうとするのです。

 わたしたちはイエス・キリストによって罪を赦され、救われたキリスト者であって、それ以上の者でもそれ以下の者でもありません。

 キリスト者は医者にとって代われる者でもなく、特殊な能力を持ち合わせている者でもありません。


 ところがわたしたちは信仰によって罪を赦され、それによってあたかも「他の人よりも信仰において抜きん出た、秀でた、優秀な人間である」と自分自身を理解したい欲求に駆られるのです。それは実に、恐ろしい罪の誘惑であって、特に、若い人たちにとって大きな誘惑であるのです。

 神さまはわたしたち人間の持っている可能性のゆえに、わたしたちを救ってくださるのではありません。むしろ、その逆で、わたしたち人間は大人も子どもも同じように、神の御前においては滅ぶべき哀れな人間に過ぎないのです。

 ところが教会がそうした「人間の無限の可能性」をうたうときに、教会は偶像崇拝へと進んでいきます。そうした教会は当然、若い人たちが多く集まり、活気に満ちています。しかし、それが本当に正しい教会であるかどうかは別の問題であるのです。

 そうしたことを常に、心に覚えつつ、信仰生活を歩んでいきたいと願っています。