【エフェソとコリントの地図上での位置関係】
 

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コリントの信徒への手紙16章8~12節
8)しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。
9)わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。
10)テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。
11)だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。
12)兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。


 パウロはこの箇所で、この手紙がアジア州のエフェソという町におり、そこからコリントにある教会の人々に手紙を出していることを説明しています。そして、先にコリントにアポロが宣教しに行った後、パウロがこの手紙を記している段階において、アポロがエフェソにコリントから既に帰ってきており、しかもパウロはコリントの教会で問題を起こしたアポロに対してコリントの教会に再度赴くように勧めているのですが、アポロはコリントの教会に再度行く気持ちがないことをパウロはこのところで明らかにしています。

 パウロはこれまでのところで、アポロが信仰的指導者として、コリントの教会を分裂の危機に追いやった(その他の理由もあるが)ことの責任について、おそらく、コリントの教会に再度赴いてパウロや他のコリントの教会員の前で謝罪するべきであることを考えていると思います。

 そのため、パウロはアポロに対して「信仰の敵」ということではなく、あくまでも「兄弟アポロ」と、すなわち教会指導者として、教会を混乱に陥れたその責任をきちんと果たすことを勧めるのです。ところが、当のアポロは、まだその意志が見受けられません。その意味で、パウロはアポロに対して、時間がかかってもいいから自分が起こした問題についての責任を果たすことを望んでいるものと思います。

 
 さて、ではこの事が今日的にわたしたちに教えるのはどういうことでしょうか?

 まずは、牧師であれそれ以外の指導者であれ、キリスト者として人間として神のみ前において「正しい者は一人もいない」という、わたしたち人間の現実に即して物事を考えるべきであるということです。

 当然、それは「牧師であるから間違いはない」というような一種の思い込みを禁じると共に、牧師も何かしらのリーダー的な存在も、また一信徒として、共に教会の重荷を担い、またそのために教会に仕える者であるという所から外れないということです。

 パウロがアポロに求めているのは、口だけで指導するのではなく、その業についても働きについても、特に信仰において罪の告白や罪の悔い改めという事柄についても、牧師も指導者もまた自分からそうしたことを率先して行い、まず、自分自身がキリストの言葉に聞き従う者であることに徹することが求められるということです。

 その意味で教会における福音宣教の業において、牧師、あるいは指導的立場にある人に求められるのは、まず自分自身がイエス・キリストのみ前に罪を告白し、罪を悔い改める者であり、まさにそうした信仰者としての生き方をもって教会の人々を指導するということです。


 ところが、そうではなく牧師や指導者が人間的努力、すなわちこの世的な成功といった事において、牧師として、あるいは指導者となりますと、そこには当然、「この世的な成功=失敗を犯さない=清い人=正しい人」といったイメージが構築されます。

 「常に神の助けによって勝利を収める」とは、聞こえは良いのですが、それが信仰的謙遜によって実現されるものである限りにおいては良いですが、都合よく信仰者だけが勝利を収めることはありません。そのため、「勝利=神の祝福」を実現するために、牧師、あるいは指導者は「勝利のためには悪を行うこともいとわない」というような事にもなっていくのです。

 こうした事は新約聖書においてはあまり見かけることはありませんが、旧約聖書においてイザヤ書などの預言書において告発されるイスラエルの罪について見ていると、そうした、信仰共同体において「まずありえないことが起こる現実問題として起こるのだ」ということが見えてくるかと思います。

 わたしたちがこの世において受ける祝福(繁栄)とは、その本質において神の祝福による祝福(繁栄)と、人間の悪による祝福(繁栄)とがあります。両者はその結果において共に共通しますが、しかし、その本質は決定的に違うのです。

 教会が結果だけを見て、その本質を見誤る時に、教会はイエス・キリストを信じているようでサタンを信じ、サタンの誘惑に従って繁栄を手にするという事があるのです。それは信仰共同体においては致命的な間違いであって、常日ごろから、自分たちの行っていることが神のみ前に正しいかどうかを悔い改めながらでなければ、教会はあっという間にサタンの誘惑に落ちてしまうのです。

 また、わたしたち人間はサタンに対して「誘惑」の罪の責任を追及することはできません。サタンとは、すなわち便宜上、わたしたちがわたしたちの信仰を神から遠ざける架空の存在であって、本質において実体はありません。

 なぜなら、わたしたちがサタンと呼ぶものは本質は、自分の内にある「欲望」に過ぎないからです。その「欲望」をわたしたちが、現実の世界において投射する対象がすなわちサタンであり、サタンの実体はなく、ただ自分の内にある欲望に過ぎないのです。
 
 当然、わたしたちがその罪の責任をサタンに追及することはできず、その罪の責任を担うのは当の本人ということになるのです。その意味で、神にサタンがその罪を追及されることはなく、あくまでも罪を犯した人間がその罪の責任を取らざるを得ないのです。
 

 教会で何か特別な行事を行い、それによって新来会者が与えられた時、それはむしろわたしたちは注意しなければならないのです。わたしたちは、そのようにして自分たちの努力によって、新しい人が教会に来てくれた。それは神の導きだ、神の祝福だと理解するでしょうが、むしろ、パウロに言わせれば、そうした事は神の祝福でもなんでもなく、ただ自分たちの欲望の望むままに事態が進展したことを、「まさに神の御心」であると認識しただけであって、まさにそれがここでいうところのサタンの誘惑であるのです。



コリントの信徒への手紙16章13~24節
13)目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。
14)何事も愛をもって行いなさい。
15)兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。
16)どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。
17)ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。
18)わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。
19)アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。
20)すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
21)わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。
22)主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。
23)主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
24)わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。

 その意味で、本当の「神の導きによる新来会者」とは、そうした集会ということに関係なく、普段の礼拝において教会に訪れる人において、まさにそうであるということが言えるのです。もちろん、そうした特集に来た人がまったく「神の導きに拠らない」とは、人間は言い切ることができません。

 しかし、わたしたちが教会として特別なことではなく、パウロがこの13節で言っているように、わたしたちが信じ、また守っている「礼拝」はまさにこれこそが教会においてもっとも大切なものであって、わたしたちはそれに誇りと自信を持ち、堂々と、「教会の外の人々が何を考えているのか」というようなことを気にせず、自分たちの大切にしていることを大切にしていけばそれでいいのです。

 仮に、何か教会が特別なことをしたことによって、新来会者が与えらえるのだというのであれば、教会は常にそうした新来会者が与えられるためにすべての情熱をつぎ込まなければなりません。

 テレビ局が視聴率を獲得するために、一定の放送倫理の枠の中で、あの手この手で視聴者を飽きさせないようにするのと似ています。

 キリスト教会はそのようなエンターテイメントを提供する場所ではありません。

 キリスト教会は神を礼拝する所である。それ以上のものでもそれ以下のものでもなく、定められた時に、定められた場所で礼拝を必ず行っている。その欠かすことのない週毎の礼拝を100年、1000年と続けるのがキリスト教会なのです。

 その意味で、教会が、この世的な流行を取り入れることがどれほど神のみ前に愚かしい事か。しかし、キリスト教会はそれが「愚かしい」と思いながらも、しかし、それをまったく切り捨てる信仰的勇気を持たないところが、すなわち今日におけるキリスト教会の信仰的な弱さであるのです。

 神は無から有を生み出す方です。

 わたしたちが信じるのは、まさにこの世的な流行に左右されることなく、天地のはじまりからその終わりまでわたしたちと共にいて、御言葉を与え、わたしたちの罪深さを深く憐れんでくださる方であるのです。

 教会が最近の流行を取り入れることが神のみ前における大いなる反逆であると自覚するキリスト者は、今では少ないかもしれません。

 
 「今の若い者は・・・」という事ではなく、パウロがまさにコリントの信徒への手紙1 15章で 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 」(Ⅰコリント15:3~5)と語っているように、それはパウロの生きていた時代においても、また100年前の時代においても、今日においても、またわたしたちの後の時代の人たちにとっても、この言葉が変わることはないのです。

 それは、確かに、今のような自由な時代においては、それは表面的にはただ「言葉による情報」であって、取り立てて何かしら秘密めいたものでもなく、面白くも楽しくもありません。

 しかし、パウロがそうしたように、過去のキリスト者はこの事柄を大事にし、まさにその事を自分の生涯においてもっとも大切なこととして生きる人生を通じて、この信仰をその世代から次の世代へと継承していったのです。

 その意味で、教会はキリスト教の斡旋所でも、布教所でもありません。

 まさに教会は「神を礼拝するところ」ということを本質にするところであって、キリスト者はキリスト教の斡旋をすることなく、ただわたしたちは神の憐みと導きによって「キリスト者と成る」のです。




 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(マタイ7:13)

 イエスさまがこう言われる言葉はまさに真実です。

 しかし、もう一言付け加えることを主が許してくださるなら、わたしは次のように書きます。


 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる教会の門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」


 それはまさに「あそこの教会」がということではなく、わたしたち自身の直面する問題であり、教会は常に、この事を意識しつつ歩んでいく必要があるのです。

 当然、それは常に神のみ前に罪を悔い改めようとする信仰生活において実現される神の導きであり、ナザレン教会が言うところの清め・聖化とは、まさにそうした教会のあり方であるのです。