コリントの信徒への手紙1 15章3~8節、11~12節
3)最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4)葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5)ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6)次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
7)次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
8)そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 

11) とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
12)キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。


 パウロがコリントの教会の人たちに伝えたイエス・キリストの福音というのは、まさにこのパウロが 3)~5)節のところで語っている内容です。

 そして、まだパウロがこうしてコリントの教会やその他の地域にある教会に宣教を行っていた当時、まだ、大部分の人々は生きていたのです。

 ところが、そうしたイエス・キリストを信じる信仰において、今日のわたしたちよりもずっと時代の近かったコリントの教会の人たちにとって、既に、「イエス・キリストの復活は無かった」と信じる人たちが、コリントの教会の中で起こっていたというのです。

 コリントの教会がなぜ、そのような「イエス・キリストの復活は無かった」というふうに信じる人たちが増えたのか? その理由について、パウロはこのところで詳しく説明しません。

 しかし、わたしたちがこれまでのコリントの信徒への手紙を読んできて、その理由が当然、「これまでのところで書かれているからだ」とするのであれば、それは、コリント教会の信仰が正しいキリスト教信仰から離れて、全く別の偶像崇拝になってしまったからだと見るのが自然であると思うのです。

 では、その偶像崇拝とはいったいどういうものでしょうか?


 上記の引用聖句で分かりますが、正しいキリスト教信仰は何かと言えば、まさにパウロが3)~5)節で語っている内容です。

 すなわち、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるための必要条件が、「イエス・キリストを信じる」とわたしたちが言った場合の、その信仰の具体的な内容です。

 これはきわめて基本的な事柄ですが、この世にあって、キリスト教会がキリスト教会であるための絶対条件ともいえるものであると思います。

 それは何かと言えば、この世において、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるために必要なことは、すなわち、「その教会において、正しくイエス・キリストが信じ告白されている。」ということです。

 それを、更に詳しく言えば、パウロが3)節で言っているように、わたしたちが手にしている『聖書』は、まさにイエス・キリストを証しする書物であり、『聖書』はあくまでも、「イエスがわたしたちの救い主である」ということを指し示すものであるということです。

 そして、では、「イエスがわたしたちの救い主である」ということは、更に具体的に言えば何かというと、それは、「イエスさまは、わたしの罪をその十字架と復活によって赦してくださり、新しい命に生きることができるようにしてくださった」という、罪の告白と罪の赦し、そして、罪を赦された者の新しい命への招き(悔い改め)が、キリスト教信仰においてもっとも大切なものであるというわけなのです。

 すなわち、礼拝も聖餐式も、そこで重要なのは、聖書の言葉を通して、聖霊の助けによってわたしたちに語られる神の言葉(わたしたちの罪・弱さを教え諭してくださる言葉)が、常にきちんと、正しく語られ、そこにおいて、そうした礼拝や聖餐式においてわたしたちの「罪の告白と悔い改め」(信仰の応答)が正しく行われているということが大切なことなのです。


 ところが、おそらく、コリントの信徒への手紙1を読んでいて分かるのは、たとえばアレキサンドリア出身の雄弁家であるアポロ(要はカリスマ的な指導者)や、教会の中で異言を語る女性たち(要は神秘体験)の出現。それ以外にも、信徒の間における確執や分派といった様々な問題が教会の中で起こったということなのです。

 それは、個別具体的に説明すれば長くなりますが、ごく簡単に結論だけを言えば、すなわちキリスト教会という名の偶像崇拝にコリントの教会が陥ってしまったということなのです。


  キリスト教の礼拝とは、その本質において「罪の告白」と「罪の悔い改め」が、その最大の関心事です。

 その意味で、キリスト教礼拝は人間にとっての「娯楽」ではありません。


 旧約聖書においては偶像崇拝の代名詞として「バアル(神)崇拝」があげられます。バアル神というのは、いわゆる日本で言うところの「五穀豊穣の神」であって、その象徴としてふくよかな男女の裸であるとか、性器をシンボル化したものがつかわれます。

 旧約聖書の申命記に以下の記述があります。

 「イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない。」(申命記23章18節)

  この事が意味するのは、旧約聖書の時代において、実際問題として、イスラエルの神殿においてそうした宗教的・売春行為が行われていたことがあったということなのです。

 では、なぜ聖なる場所であるはずの神殿が売春行為の場所となったのか?

 その理由がバアル神であるのです。バアル神は主に男神の像と女神の像と大きさの異なる二種類の像がつかわれます。バアル神崇拝では、この男神と女神とが性的に交わることによって大地の作物が豊かに実るものとして考えられていました。

 だからこそ、男神と女神が性的に興奮するように、そうした男神像と女神像の前で人間の男女が性行為を行うのです。 すると、より興奮した男神と女神はそれによってより強く結ばれ、その年は豊作になるだろうというわけです。 こうした男神・女神の交わり、男女の性に関わる祭儀は、バアル神に限らず、日本国内にもいたるところにあります。


  では、なぜそうしたバアル神崇拝がイスラエルの信仰に入ってきたのでしょうか?

 おそらく理由はごく単純で、「イスラエルの信仰は人間的につまらないから」です。


 今日のキリスト教信仰もそうですが、「自分自身の罪を深く悔い改める」とは、決して面白くも楽しいものでもありません。むしろ、わたしたちはそうしたことには目をつむって、何か楽しい別の事をと考えるのです。

 旧約聖書に登場する神殿での正しい祭儀も同様で、それは人間的には魅力に欠けるものでした。


 だからこそ、昔の人たちも、「より多くの人が神殿に集まるように。」「より祭儀を充実させたい。」というような、人間的な発想から、近隣諸国の宗教祭儀で、取り入れられそうなものを少しずつ取り入れ始めたのです。

 そして、いつの間にか、イスラエルの神殿には多くの人が集まるようになり、また多くの献金やささげものが奉げられるようになったのです。

 ところが、それは信仰とは名ばかりで、信仰を口実にして、同時の宗教的指導者たちがやりたい放題をやったのです。

 当然、神殿には多くの人が訪れるようになり、それまで魅力のなかったイスラエルの神殿祭儀は、目を見張るほどのものになったのです。そこでは神殿娼婦や神殿男娼が、イスラエルの神を崇拝する目的でにぎわっていたのです。

 

 さて、 上記の例は当然、旧約聖書においてイザヤやエレミヤといった時代の話です。ところが、まさにその形を変えたものが、パウロの生きていた時代、コリントの教会において起こっていたのです。当然、そこには神殿娼婦や神殿男娼という存在はいなかったかもしれませんが、しかし、性的関係の堕落、アポロや女性霊能者のようなカリスマやあるいは心霊現象などをキリスト教信仰に持ち込んで、それがコリントの教会の問題となったのです。

 当然、それはコリントの教会だけの問題でなく、今日のわたしたちの教会においても同じです。


 今日、「福音は喜びであるから礼拝・教会は楽しくなければならない。」、あるいは「教会に魅力がないから人が集まらないのだ。」という声を聞きます。

 しかも、まさにそうした声に沿う教会こそが信仰的に正しい教会であるかのように聞きます。 しかし、それは本当にそうでしょうか?


 おそらく、パウロに言わせれば、「そうしたものはすべて偶像崇拝だ」ということになるかと思います。

 キリスト教、あるいは教会の魅力とは何でしょうか? それは決して「面白い・楽しいこと」ではありません。


 キリスト教、キリスト教会の魅力とは、イエス・キリストの救いであって、その他はありません。

 また、「福音が喜びである」というのはその通りですが、その「福音の喜び」は常に、わたしたち具体的な人間の罪の赦しによるものであって、それ以外の何かに由来するものではありません。



 キリスト教信仰において、わたしたち人間は等しく誰もが罪人であり、神の御前において不完全な存在です。

 そのような罪深い、弱い存在であるわたしたちが神さまの御前に出ることは、本来は不可能なのです。

 しかし、神さまはイエス・キリストをこの世にお遣わしになり、その十字架と復活の出来事をとおして、わたしたちの罪を赦し、わたしたちが神さまを礼拝することを可能にしてくださったのです。

 その意味で、礼拝の本質的意味は、それは確かにわたしたち参加者が神さまに対して共同で行う宗教行為ですが、本質的には、神さまが自分自身を救うことのできない罪深い、弱いわたしたちを深く憐れんでくださり、神さまの方から、神さまに近づく資格を持たないわたしたちに近づいてくださり、今日においては聖霊の助けによって、わたしたちは常にイエスさまと神さまと近く居ることを可能にしてくださったということなのです。

 その意味で、礼拝とは、わたしたちの感覚からすれば、「そこに出席するもの」ですが、信仰においては、そうではなく、「礼拝を通じて、神さまがわたしたちを招き、わたしたちに近づいてくださる出来事」なのです。

  そして、イエスさまはわたしたちを犯した罪によってその場で裁くことをしませんが、しかし、だからといってわたしたちが罪に留まることを良しとしてくださっているのではなく、むしろ、信仰者として生きるその人生において、自分の意志によって神の御前に罪を告白し、悔い改め、神の御言葉に聞き従う人生を歩むようにとわたしたちに願い、わたしたちの不忠実さにも関わらず、わたしたちと共に居て、罪の告白のとりなしをしてくださっているのです。

  そういう意味で、わたしたちはひとりひとりがイエスさまから深い憐みと信頼をいただいているのです。

 だからこそ、わたしたちは礼拝で、まさに神さまに罪赦された者として、御前に出ることが許されたことの喜び、感謝しつつ、主の御名を礼拝し賛美するのです。

 当然、それが真剣にそのとおり行われているのであれば、礼拝は誰にとっても素晴らしいものであり、喜びに満ちたものであるのです。



 しかし、そうした喜びが、またそうした本当の救いが礼拝にないという時に、教会は別の魅力である「偶像」へと走るのです。その時、牧師はあの手・この手で教会に人を招こうとするでしょう。

 「教会に、あるいは礼拝に魅力がないから、もっと教会や礼拝を魅力のあるものにしよう!」

 「偶像」とは、いわゆる別の神の像ということではなく、むしろ、人間の内なる欲望を信仰的な対象化したものであって、何かの実体があるわけではありません。例えば、「100人礼拝」「1000人教会」というような、教会の中で呼び掛けられる、信仰の本質とは無関係な一種のイデオロギーのようなものかもしれません。あるいは、牧師の個人的な欲望かもしれません。


 一見、信仰的に正しいように聞こえますが、まったくのナンセンスです。「この教会には、キリストの救いがありません」、あるいは「この教会はキリスト教会ではありません。」ということを神の御前に告白しているのと同じです。

 信仰の喜びは人間が作り出すものではなく、神さまの憐みによって、ひとりひとりに与えられるものです。

 当然、罪を悔いない、あるいは悔い改めないところに救いの喜びはありません。


 その意味で、そうした「信仰の本質とは無関係な何かしらの魅力を打ち出している教会」というのは要注意です。




 「キリスト教会はキリスト教会である」というのは、当たり前というか、まさにその通りなのですが、案外にも、わたしたちの身の回りには「偶像を崇拝するキリスト教会のようなキリスト教会」が多いのではないかと思う今日この頃です。