コリントの信徒への手紙14章1~4節、14~20節、23~25節
1)愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
2)異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
3)しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 
4)異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。

14) わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。
15)では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
16)さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。
17)あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。
18)わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。
19)しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
20)兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。

23)教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。
24)反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、
25)心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。


 教会における異言による祈りは、パウロの時代から存在し、今日の教会にもやはり見ることのある現象です。

 パウロは自分自身で、「わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」(18節)と言って、自分自身が当時のコリントの教会の誰よりも多くの異言を語ることのできる者であることを、神の御前において告白しています。

 すなわち、パウロは当時のコリントの教会において誰よりも異言を語ることができる、そうした賜物を備えた人物であったのです。


 しかし、パウロにとってそうした「異言を語れる」ということが教会において何か意味を持つのかというと、そうではないことをパウロは言っています。

 なぜなら、2節においてパウロが言っているように「異言」とは、いわばキリスト教信仰に基づく霊的現象であって、それは神に向かって発せられる言葉であって、人間にはわからない言葉であるからです。

 だからこそ、パウロは先の13章の冒頭で言っているように、それは教会や礼拝といった秩序の求められる場には不適合であり、むしろ、それよりも預言が語れることの方が大事であることを力説するのです。


 当時のコリントの教会において、そうした異言による祈りが礼拝において行われていたことをパウロは前提としています。しかし、そうした礼拝における異言はむしろ人々が神に向かうためには不要であり、それよりも大切なのは、人間を自分自身の罪の自覚と罪の悔い改めへと導く預言こそが大事であることをパウロはここでいうのです。

 それは、19~20節において、「しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」(コリントの信徒への手紙1 14章19~20節)とあるとおりです。

 
 今日のキリスト教会においても同様ですが、当時のコリントの教会においても、やはり理性ではなく、むしろ感覚的に神を理解しようとする事が多く行われていたのです。なぜなら、そうした不思議な業、他の人が真似のできないような特殊な現象を起こせることは、いつの時代においても「自分たちの信仰が本物であることの証拠」として利用されやすいからです。

 しかし、わたしたちは「異言」を語れるからといって、それが教会のためにはならないことをパウロは「物の判断については大人になってください」と忠告するのです。

 むしろ、それよりも「悪事については幼子となり」とあるように、幼子のような純粋な心で悪事(人間的計略・謀略)から離れると共に、そうした教会の中における物事の判断については、まさに大人として、何が信仰的に良く、何が悪いのか、そうした自分たちの罪に対する極めて深い洞察力を身に着けることによって、そして、そうした神の御前において正しい教会を築きあげることが大切であるというのです。


 そうした、自分たちの罪について非常に深い洞察力、パウロのいうところの理性を培った教会に、ひとたび外から神の救いを求める人が加われば、『反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。』(24・25節)とあるように、その人は、教会の人々が語るその預言の言葉、すなわち、自分自身の罪を諭す言葉、罪の告白の言葉を耳にすれば、 その人も自分自身の罪を自覚し、心の内に隠していた罪をすべて明らかにされることによって、ただ、それは決して、その人を断罪し、罪人として告発するのではなく、あくまでも自分自身の内なる罪の告白として、たちまち神の御前に信仰をあらわすことへと導かれるであろうというわけです。


 すなわち教会における理性の言葉、預言の言葉とは、すべてが信仰者による自分たちの罪の告発の言葉であり、人間の言葉を告発する言葉である限りにおいて、それはさまにイエス・キリストの言葉として、わたしたちの罪を明らかに、その罪を赦してくださるというその救いを実現してくれる言葉となるのです。

 教会はその意味で、神の御前に常に自分たち信仰者としての罪がどのようなものであるのか、そうした事柄に敏感であることが求められるのです。


 ところが、異言は、そうした教会の中における自分たちの罪の告白とは、直接的に関係のないものであって(意味が分からない言葉なので)、異言がそうした教会においてキリスト者の信仰を深める事にはならないのです。

 むしろ、それはキリスト者の信仰を、自分の罪の認識から、目を逸らせる意味においてむしろ教会においては害となるのです。だからこそ、パウロは自分は誰よりも異言が語れるけれども、そうした異言において1万の言葉を語るよりも、理性において5つの言葉を語ろうと言うのです。



コリントの信徒への手紙1 14章26~40節
26)兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
27)異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。
28)解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。
29)預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。
30)座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。
31)皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。
32)預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。
33)神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、
34)婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。
35)何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。
36)それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
37)自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。
38)それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。
39)わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。
40)しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。 

 さて、このところはいろいろと今日的には解釈の上でパウロによる女性蔑視の奨励というような感じで、実に問題がある箇所です。

 しかし、パウロは一般論として「女性は教会の中では発言権がない」ということを言おうとしているのかといえば、そうではなく、あくまでも、この発言は、コリントの教会の抱える一つの具体的な問題として、この事を言っていると理解するのが無難であると思います。

 すなわち、この箇所を丁寧に読むのであれ、コリントの教会における一つの具体的な問題として、教会の中で秩序を乱し、異言を語る女性のキリスト者が居たということです。しかも、一人ではなく、そうした女性が数人居たことがうかがえるのです。

 以下はわたしの個人的な推測ですが、おそらく、コリントの教会において、いわば女性霊能者のようなグループが起こっていたのだと思います。そして、そうした女性集団の特徴が異言による祈りであったのです。しかも、そうしたグループが特定のメンバーだけに縛られることなく、むしろ、コリントの教会の中でひとつの運動として広がりを見せていたのです。

 そして、いつしか、コリントの教会で異言を語れる女性こそが、教会において預言を行う資格があるような風潮が起こったのだと思います。それは一種の女性霊能者による教会形成のようなものであるかと思います。そして、それ以外の預言が信仰においてはむしろ無意味なように言われていたのだと思います。

 「それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。」(36節)

 この御言葉は、すなわちそうした女性霊能者のような人々が、「自分たちこそ神の言葉を語っているのだ」というふうにしていたことを示していると思います。

 そして、当然、コリントの教会における奉仕者の中でそうした女性霊能者集団の位置づけが問題となり、パウロはそのことを13章から14章にかけて、そうした霊的な現象を求めるのではなく、むしろキリスト教会はイエス・キリストの愛を実現するものであり、それは理性と秩序が大切であることを説いたのです。

 そして、「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。」(34節)と言っている言葉は、まさに今日的には教会において女性の発言が認められていないことを言っているわけですが、この言葉も、やはり、そうした背景を元に読むのであれば、当然、「婦人たち」というのも、おそらくはそうした女性霊能者集団のメンバーを指して言っているものであることがうかがえるのです。

 そして、「許されていません」とは、その度合いが厳しい意味において、よほど彼女たち女性霊能者集団の行いが問題となっていたことが理解できるのです。

 しかし、パウロがここで問題としているのはあくまでも「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、」(33節)で言っているように、 教会において大切なのは、一にも二にもそうした秩序であって、それは当然、イエス・キリストの言葉、神の言葉の支配にもとづくものであり、大切なのはそうした信仰に基づく秩序、すなわちイエス・キリストの平和が実現されていることが大切なのです。

 それは、教会の中における異言の現象を禁じることにあるのではなく、そうした異言が行われるのであれば、それはきちんと秩序立てて、キリストの平和を実現するように用いられなければならないのです。

 その意味で、パウロが異言について言おうとするのは、異言について、それを禁止するとは言わないけれども、特にキリスト教信仰を持たない人がいる場においては異言は行うべきではない、ということなのです。