コリントの信徒への手紙1 13章1~3節、13節
1)たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
2)たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3)全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。 

13)それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。



 この聖書箇所は、よく結婚式の時に式文として使われる有名な聖書箇所です。

 しかし、当然、パウロは結婚式を前提としてこのことを書いているのではありません。


 はやい時期の教会においては、一種の霊的なカリスマである異言、預言、いやしといった事が行われていました。当然、それはイエスさまの生きていた時代にさかのぼるものでありますが、福音書において、弟子たちが町や村を巡って悪霊を追い出し、いやしを行い、様々な奇跡をおこなった伝統は、エルサレムから遠く離れたこのコリントの地にある教会においても、同様に、一種の権威であったのです。

 そして、まさにそうした賜物、すなわちたとえばアポロのような雄弁家としてのカリスマをもった人物や、その他のカリスマをもった人々がコリントの教会をけん引するようになり、しかし、コリントの教会はそうしたことも原因のひとつになって、まさに教会分裂の危機を迎えていたのです。

 パウロは、そうしたコリントの人たちに対して、それは「コリントの信徒への手紙2 12章」において、パウロは知人のこととして、自分の経験を語っていますが、パウロ自身、教会において、そうした霊的カリスマについて、完全に否定するのかというとそうした現象があることは否定しません。

 しかし、問題は、そうした霊的カリスマが「真に教会を成長させることはない」ということを、パウロはこのところで言おうとしているのです。

 それは、霊的なカリスマだけに留まらず、3節において「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも」と、すなわち自分の全財産を教会にささげることや、あるいは、教会のために殉教をしようが、「そうした事柄はいっさい教会の成長のためにはならない」ということをパウロは言っているのです。


 なぜなら、教会はまさに信徒ひとりひとりによって支えられるのが教会であり、その信徒ひとりひとりを支えるのは、まさに神の助けであるからです。そのようにして、全体として教会が教会として活動できることが、まさにその教会が神の教会であることの証拠であるわけです。

 ところが、コリントの教会は、そうした「みんなで支えあう教会」ではなく、「特定の有力信徒」によって教会の形成がなされたのです。

 それは、一見すると「正しいこと」のように見えますが、しかし、本質においては、それが特定の有力信徒によるものである点において、いくら人間的に見て正しい行いのように見えても、神の御前においては「偽善」であり、「罪」にすぎないのです。


 たとえば、教会がその地域に根差し、その地域に仕えるということを目標にして、たとえばチャーチスクールや介護施設など、そういった公共的な役割を担うことをします。

 イエス・キリストの命令により、「隣人を愛しなさい」という御言葉に従って、そうした地域に密着した働きを教会が行う。

 当然、だれもそのことが神の御前において「罪」であるとは考えません。


 キリスト教会が置かれた場所において社会福祉のため、あるいは産業を興すといった、そういった事を行うことは決して「犯罪」ではありません。

 しかし、パウロに言わせれば、それは「偽善」に過ぎないのです。

 ではなぜ、そうしたことが「偽善」と言えるのでしょうか?


 理由は簡単で、「教会はそうしたチャーチスクールや介護施設の維持・運営といった社会事業の運営を、その地域に対してどこまで責任をとることができるのか?」ということです。

 つまり、「教会が可能である間はそうした事業を行うけれども、できなくなったやめる」では、その地域に対して非常に無責任になってしまうからです。

 歴史的に見て、カトリック教会の例をあげれば、カトリック教会はそうした社会的な事業を必要に応じて行いますが、それは教会本体として事業を行うのではなく、教会はあくまでもミサ、すなわち礼拝をおこなう場所であるとして、そうした事業は別団体の仕事として、教会とは全く分離して行うのです。

 「困っている人がいるから、教会が何かをしてあげましょう。」ということは、そういう意味では教会にとっては大きな誘惑です。


 困っている人をかわいそうに感じるのは、わたしたち人間にとって決して悪いことではありません。しかし、問題は、そうした人を「一時的に」助けるだけで済めば良いのですが、場合によってはそれがその人の生涯に関わるものである場合に、わたしたちはどこまでその人に対して責任を全うできるのか。

 もし、その責任が負えないというのであれば教会は手を出してはならないのです。


 しかし、わたしたちキリスト者の内には、信仰による「正義感」があり、困った人を見捨てるわけではありませんが、見て見ぬふりをすることは、やはり「手を貸す」以上に困難を覚えるのです。

 パウロは、キリスト者が自分の持つ全財産を使い果たしてまで、貧しい人たちのために善行を行うことを良しとはしません。なぜなら、それは貧しい人たちにとって、何の根本的な問題解決にならないからです。そこに残るのは、「全財産を貧しい人たちのために使った」という自己満足だけです。

 あるいは、まさにイエス・キリストがわたしたちの救いのために、自分自身の命を十字架上で捨てられたことに倣って、わたしたちも教会のため、イエスさまのために命を捨てることが良しとされるかというとそれもありません。

 結局、こうした人間の思惑に基づく慈善、人間の思惑に基づく殉教も決して教会のためにはならないのだということをパウロはこのところで、コリントの教会の人たちに教えるのです。

 そして、パウロは、「では教会の中で何がいちばん大切か」ということについて、信仰と希望、そしてもっとも大切なものが、イエス・キリストから頂いた「キリストの愛」であることを、このところで主張するのです。

 

 キリストの愛とは、そういう意味では「隣人愛」として、それが表現されるように、それは「この世にあってわたしたちキリスト者がそうした貧しい人たちと共に歩む」ことを意味し、「貧しい人たちに対して施しをする」ことを意味しません。

 キリスト教会は社会実業家の集まりでも、政治家の集まりでもありません。

 教会は信仰共同体であって、それ以上のものでも、それ以下のものでもありません。

 わたしたちがなすべきは「神を礼拝する」ことであって、神を信じる信仰において、わたしたちはそうした貧しい人たち、困っている人たちと共に、この世にあって生きることが大切であるのです。

 それは「分かち合う」ということであって、「施す」「恵み与える」ということではありません。

 神を信じるというのであれば、人間の業ではなく、神のみ業によって、そうした人たちがキリストによって同じ人間として立ち上がることが尊重されるべきことであるのです。


 「かわいそう」という言葉は、その言葉の裏に「わたしはそうでないから良かった」という人間の傲慢があります。本当の意味で、そうした貧しい人たちに寄り添うのであれば、「かわいそう」と思うのではなく、まさにそうした人たちに寄り添い、この世に生きる友人として、共に神を礼拝すればよいのです。

 仮に、そこで友人として「何をして欲しい」ということがあれば、それに対して友人として応える。そうした、神の御前において、同じ人間として共に生きるということが、パウロの目指す信仰生活であり、教会のあり方なのです。



 コリントの信徒への手紙2 13章5~8節
5)信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
6)わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。
7)わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。
8)わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。

 パウロはコリントの信徒への手紙1の最後において、コリント教会の人たちに対して、自分自身の信仰を吟味しなさいということを伝えます。

 それはキリスト教信仰が、常に、自己吟味を必要とするからです。

 ナザレン教団は「きよめ派」に属する、「聖化」を尊重するキリスト教会です。


 この「きよめ」「聖化」が意味するのは、日々の信仰生活において毎日聖書の御言葉に親しみ、聖霊の助けによって示される自分の罪を日々悔い改める、そうした信仰をいいます。

 しかし、わたし自身、毎日自分の罪に気づいているかどうか、実際問題としては、なかなか見えていないことの方が多いのではないかと感じるところです。

 「きよめ」「聖化」とは言いますが、それは必ずしも「自分が神の御前においてきよくなった」という実感を持つものではありません。むしろ、わたしたちは聖書の御言葉に聞けば聞くほど、自分の罪深さを認識せざるを得ないのです。

 その意味で、「きよめ」「聖化」も、それは具体的には「自分自身の罪深さの認識」であって、決して、「神の前に清くなった」と感じることのできるものではありません。

 むしろ、そのようにして示された罪をイエス・キリストが赦してくださることに対して、わたしたちは深く感謝を覚えるという、「神さまの憐みに対する深い感謝の念を覚える」というのが、その実際のところであるのです。

 わたしたちはともすると、信仰者として、人間として、「神に近づいた」と感じることが、「きよめ」「聖化」を体験することだと考えてしまいます。しかし、言い方を変えれば、「人間が神に近づく」ということほど神の御前において罪深いことはないかと思います。

 人間は神に近づくことはできず、むしろ、わたしたちキリスト者は自分自身の罪深さを深く悔いるときに、わたしたちの背後からイエス・キリストがその憐みをもって近づいてくださるのです。

 わたしたちが神の御前において礼拝し、神を賛美し、祈る、その喜びの源泉は、まさにその事柄にあります。そして、それこそがわたしたちをキリスト者にする神の力であり、教会を教会とする真に神の力であるのです。