コリントの信徒への手紙1 5章1~2節、9~13節
1)現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
2)それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。

9)わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、
10)その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
11)わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
12)外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
13)外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」


  パウロは、この手紙に先だって、コリント教会に手紙を記していました。そこで、パウロは「みだらな者と交際してはいけない」ということを書いたようですが、コリントの教会の人たちはその手紙でいうところの「みだらな者」を「教会の外(普通の)のみだらな者」として、すなわち、キリスト者というのはそうした当時の多くの人たちと関係を断って、キリスト者は一般世間と隔絶した、ごく禁欲的な生活を守らなければならないというふうに受け取ったのです。

 そして、それは更に曲解されて、相手が同じキリスト者であれば相手は「みだらな者」ではないので、同じキリスト者間における交際は許されるのであり、たとえば血の繋がった親子の関係における自由恋愛は許されるのだというふうに理解されてしまったのです。

 それは言い方を変えれば、「相手が同じキリスト者であれば近親相姦も許される」というふうにコリントの教会の一部の人は考え、そしてまさにそのような事例が起こったのです。

 パウロはここで、そうしたコリント教会の人たちに対して、そうした理解は誤解であることを説明し、結論として、13節にあるように、「あなたがたがの中から悪い者を除き去りなさい。」と勧めるのです。

 なぜなら、キリスト者とは、イエス・キリストの御前において自分の罪を告白し、罪を悔い改める人物を言います。つまり、そうした人物が集まって神を礼拝するところがキリスト教会であるわけですから、当然、「悪を行うキリスト者」というのは、そうした理屈からすれば存在するはずがないのです。



 ところが現実問題として、教会の中では様々な人間の悪による事件が起こるわけです。

 人間は、イエス・キリストの救いによってその罪を贖われたとして、以後も、救われた罪人でしかありません。当然、キリスト者となった人物といえども罪からまったく自由であるわけではないのです。 しかし、わたしたちは「キリスト者は罪から自由になっている」と信じます。

 では、この「罪から自由」とは具体的にはどういう意味なのでしょうか?

 それは「キリスト者は罪から救われたので、もう罪を犯すことがない」ではなく、「たとえキリスト者であっても罪を犯すことがある。しかし、イエス・キリストが常に共に居てくださる恵みによって、わたしたちは何時でもイエス・キリストの御前に罪を告白することができ、罪を悔い改めて、罪から自由になることができる」ということであるのです。

 パウロは、ここで「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」(13節)と、かなり厳しい言葉で語っていますが、当然、それはパウロにとってみれば本意ではありません。

 本来、このような裁きとしての言葉は言いたくない。しかし、それを言わなければならないほどにコリント教会の直面している問題が深刻であることを示しているのです。


 教会は「誰が正しく」「誰が間違っている」ということを互いに裁き合う場所ではなく、教会がそうしたお互いの罪の裁き合いを行う場所でないとは正しいことです。

 しかし、それは「教会の中だから」「教会の中のルールは社会のルールとは違うのだ」と言って、教会の中で行われる信仰者の罪を全く不問にし、それをまったく水に流し、そうした問題を直視せずに、表面的に教会を維持しようということではないのです。

 パウロは「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」とは言いますが、それは当然、信仰によって実現されるべきものであり、意味としても「悪人の追い出し」ではなく、むしろ、「そうした人物が教会の中に居ない状態に、教会全体として罪の告白と悔い改めがなされるべきである」ことを、「悪い者を除き去りなさい」というように強調して表現しているのです。

 そうでなければ、キリスト教の教会は、そうした「自分たちに都合の悪い人間を切り捨てる」ことが教会の働きになってしまうからです。そうした、いわば「トカゲのしっぽ切り」のような行為によって教会の中が浄化されるかと言えば、当然、そのようなはずはないですし、また当然、パウロが一方でコリント信徒への手紙12章において「キリストの体」ということを大切な事として主張しているわけですから、パウロの本意が「教会を訴える人を追い出せ」というはずがないのです。

 だからこそ、パウロのこの厳しい言葉には、一人一人が自分の罪の重さを自覚し、互いに自分の罪を告白し、悔い改める。そうした事によって、一人一人が神の御前に罪を赦された者同士の交わりとして、互いに支え合い、教会を維持することをパウロは求めているのです。

 それは、「誰が悪い」という犯人を捜すことが目的なのではなく、いったい何が神の御前に間違っていたのか、その間違いを明らかにし、教会全体としてそのことの罪の悔い改めをすることが必要であることを促しているのです。

 当然、牧師はその矢面に立つ責任があるわけで、その意味で、牧師に「自分は教会の中の罪とは無関係」という事はあり得ないわけです。これはわたし自身、常に、注意するようにしています。



コリントの信徒への手紙6章1~11節
1)あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
2)あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。
3)わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
4)それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
5)あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。
6)兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。
7)そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。
8)それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。
9)正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、
10)泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
11)あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。


 教会の中で、信徒間で、あるいは信徒と牧師の間で問題が起こり、しかも、その問題をその教会の中で仲裁することができず、教会とは関係のない人に対して、その仲裁をお願いするということがコリントの教会で起こりました。

 パウロがここで問題にしているのは、そうした「キリスト者がこの世の裁判に問題の仲裁を求めること」が問題だというのではなく、そもそも、なぜ「そうした問題が教会の中で起こるのか」を問題にしているのです。


 キリスト教会において、イエス・キリストの救いがわたしたち人間の罪の赦しである限り、当然、教会の中には、そうした「人間の罪に対しての自浄作用」があるはずなのです。

 キリスト教の信仰は、言い換えるなら「自分の罪に対する自浄作用」なのです。



 ところが、パウロが指摘するのは、コリント教会の中で、言い換えるなら信徒(牧師)の罪が放置され、それが全く野放し状態になっている。当然、放置された罪はそのままであるはずがありませんから、どんどん雪だるまが転がって大きくなっていくように、教会内における人間の罪が肥大化し、一部の信徒だけではなく、教会全体を巻き込んで人間の罪の巣窟状態になったしまったのです。

 パウロはそうしたコリント教会の状況に対して、なぜ、キリスト者が集うキリストの教会が、本来であれば、イエス・キリストを信じる信仰によって、その自浄作用によって人間の罪からは遠く離れているはずであるのに、それがむしろ罪の巣窟状態になっているのかと、そのことを問題にしているのです。

 「兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」とは、すなわち、教会員の誰もが「罪を認識できない」か、あるいは「罪を認識しつつも黙認している」のどちらかであるということです。



 人間は神に近づけば近づくほど、自分の罪に対して敏感になります。 そのかわりに、人間は神から離れれば離れるほど、自分の罪を認識しなくなるのです。

 ところが、そうした神から遠く離れてしまったキリスト者は「自分の罪を自覚しない」ものですから、むしろ「自分は神に近い」と思い違いをするわけです。

 パウロはそうした「自分は罪を赦され、聖霊を受け、神に近いのだ」と自称するキリスト者に対して、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(9~10節)と言うわけです。

 信仰者は罪を犯さないのではなく、信仰者と言えども罪を犯すのです。

 だからこそ、信仰者は常に自分が神の御前に罪を犯していないか、聖書の御言葉を通じて、聖霊の助けを通じて示される自分の罪を聞くことを日課とし、日々、イエス・キリストの御前において自分の罪を告白し、罪を悔い改めを祈るのです。

 その意味で、人は洗礼を受け、キリスト者となったら、それであとは自動的に天国へ行けるわけではないのです。



===ご質問に対する応答===

Q:教会の中では「罪の赦し」が言われており、そうした教会の中で起こる問題を一般的な裁判に訴え出ることは信仰的に間違っているのか、そうしたことをするのはキリスト教においては不信仰なのか?


A:パウロは、そもそも「キリスト教会という仕組みは、その本質において罪に対する自浄作用がある」と見ています。

 一見すると、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」(7節)というパウロの言葉はこれを表面的に読めば確かに「キリスト者は損害を受けても、それを相手に訴え出ることをせずに損害を受けるままでいることが信仰的に正しいのだ/自分に対して犯された罪を赦すことが信仰的に正しいのだ」というふうに解釈できます。

 しかし、この部分をもう少し丁寧に読むのであれば、6章で言われている具体的な事例を説明するのであれば、まず、第一に教会の中で信徒間において搾取が行われたという出来事があったのです。

 そして、搾取に遭った人物は、教会の他の人たちに、この搾取の事を訴えたけれども誰もそれを真摯に受け止めてくれる人たちが居なかった。

 だからこそ、この搾取を受けた信仰者は、「教会に訴え出てもだめだ」と、この世的な裁判官?に対して教会の中で搾取が行われたことについて訴え出たということがあったことが推測できるのです。


 さて、このところでパウロが指摘するのは、そうした「この世的な裁判官に対して教会の中における搾取を訴え出ることが間違っている」ということではなく、むしろ、「信仰の事柄を、信仰を持っていない人に訴える出ることは間違っている。」という事なのです。

 それは誤解の無いように言えば、「信徒が信徒(牧師)の罪を裁判に訴えてはならない。」ということをパウロは言おうとしているのではありません。

 大事なのは、そもそも正しく信仰を持ったキリスト者が、救われた後に、そうした意図的に「搾取」をするなどということはあり得ないとパウロは確信しているのです。

 なぜなら、キリスト者とは、日々神の御前において罪を告白し、罪を悔い改めるという信仰生活を行うわけでありますから、たとえば意図せずに「搾取」をしてしまい、そうした事を他の人の言葉により、あるいは自分自身の自覚として知ったのであれば、当然その罪は告白され、悔い改められるはずであるからなのです。この時の罪の悔い改めにおいて、当然、「搾取」に対する謝罪・弁償が行われるであろうことは、そのことをわざわざ文字にして書かなくても、それが当然であるということが当時の人たちの信仰にあるわけです。

 当然、キリスト教会はまさにイエス・キリストを頭とした、キリストの体であり、パウロが「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリントの信徒への手紙1 12章26節)で語っているように、そうした「一つの部分の苦しみ」を、教会全体が共に苦しむということが必要であるわけです。

 それは、当然、「搾取した信仰者を罪人と断定して教会から排除する」ということではないのです。


 たとえば、「被害を受けた人物が加害者(の罪)を赦せば、教会は丸くおさまります。」とは、一見信仰的なようでまったく信仰的ではありません。 

 これは教会が全体として罪に対する認識を放棄して、罪の誘惑に教会を委ねたということになります。パウロが問題ありと指摘するコリントの教会の状況はまさにこうした状況であったのです。

 では、信仰的に正しくこのことに向き合うためには、コリントの教会はどうすればよかったのでしょうか?


 一つ目は、信徒ひとりひとりが自分の罪に対する責任をもっと自覚するということです。

 二つ目は、そのようにひとりひとりが注意していても、そうした罪が教会の中で発生する事があります。問題は、その時に、その事柄を、ただ加害者・被害者だけの問題として、教会はそれに関わらないとするのではなくて、教会全体として、その事柄について、一人一人が罪の告白をもって、イエス・キリストの御前において、教会全体としてその事が和解できるように計らうことが大事であるのです。

 ところが、コリントの教会はそうした「教会としての働き」が上手く機能しませんでした。

 コリントの教会はパウロが「それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。」と指摘しているように、むしろ、コリント教会は、その被害を受けた信徒に対して、「加害者側の肩を持ち、被害者を教会から追い出すようなことをした」わけです。

 つまり、ここで「不義」を行っている「あなたがた」というのは「教会(側)」を意味しており、そうすると、直前で言われている7節の「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」という言葉も、すなわちは「被害者」ではなく、「教会」に対して言われている言葉であるのです。
 
 パウロは、搾取した側である教会・信徒に対して色々と信仰的な注文を付けているのであって、決して、信徒としてこの世的な裁判官に訴え出た人を問題にしているのではないのです。

 それはパウロが5章のところで「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。」(12節)と言っていることからも明らかです。

 その意味で、パウロがここで告発しているのは、あくまでも教会であり、教会を構成する一人一人であり、それ以外の誰でもないということなのです。

 わたしたち人間は生きている限りにおいて「罪を全く犯しません」ということはありません。だからこそ、常に、イエス・キリストの言葉に聞き従うこと、すなわち聖書の御言葉を通じて自分の罪が示されたのであれば、イエス・キリストの御前において罪を告白し、罪を悔い改めることを通じてはじめて、わたしたちはキリストと共にあって清い生活を送ることが可能になるのです。

 教会はまさにそうしたキリスト者が主の御前において、共同体として罪の告白と罪の悔い改めを行うのです。それが、週ごとの礼拝の本質であって、「罪の告白と罪の悔い改めが欠如した礼拝」とは、単なる偶像崇拝に過ぎないということなのです。

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コリントの信徒への手紙1 6章18~20節
18)みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
19)知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
20)あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 イエス・キリストの救いによってわたしたちに与えられた命は、「わたしの命」ではなく、それは「イエスさまが与えてくださったイエスさまの命」であるのです。

 パウロはローマの信徒への手紙12章1節において「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)と語っています。

 まさにそれと同じことをこのところで勧めています。

 キリスト者の証しとは、まさにわたしたち自身が、イエス・キリストによって罪を赦され、罪から救われるというその経験を積むこと、すなわちそうした信仰生活を行うことにあります。

 わたしたちは、「自分の罪を管理する責任」を神さまから委ねられたのであって、イエス・キリストの救いは、「わたしたちが(意図的に)罪を犯すことの許可証」ではないのです。


 わたしたちの身の回りでは、むしろ、イエス・キリストの救いをまさに「罪に対する万能薬」のようなものととらえ、あたかも「キリスト者は何をやっても許されるのだ」「キリストを信じる者が正義だ」というような、または「キリスト者は罪を犯しても、罪を告白すれば罪を赦される」というような話を耳にする機会があります。

 しかし、パウロが言っているのは、「人間の罪を最終的に裁くのは神であって、それはその時にならないとわからない。」ということです。

 すなわち、わたしたちが地上において言えることは、「かの日において、信仰者でありながら神によって滅ぼされることがないように、一日一日を大切に、神の御前に正しく生きましょう」ということだけです。

 パウロはそのことをこうした箇所において言っているのです。