今回はコリントの信徒への手紙1 3章~4章をみます。


1)兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
2)わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3)相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
4)ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
5)アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
6)わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
7)ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。


 さて、キリスト教の信仰は一足飛びに深まるものではありません。
 また、教会に通うようになって、年数が経てばそれだけ信仰が深まるのかというと、パウロはそうだとは言いません。クリスチャンも教会も、共に成長するものであるというわけです。

 このコリントの教会の人たちの場合でいえば、アポロというカリスマ的な宣教者がやってきたことにより、コリントの教会は一変しました。それが良い方へ一変したというのであれば良いのですが、パウロに言わせればむしろ逆だというわけです。

 パウロは、まずアキラとプリスキラたちと共にコリントの教会の立ち上げを行い、当時、まだコリントの教会もその教会の人々も信仰的には「あかちゃん」だと表記しています。

 そして、パウロによって、あるいはアキラとプリスキラたちによって、信仰的な養育(指導)を受けるわけですが、そのようにしてキリストを信じる信仰者として「大人」になったかといえば、そうではなかったというわけです。


 ここにパウロのキリスト教信仰、あるいは教会についての理解が読み取ることができます。

 それはどういうことかと言えば、キリスト教信仰とはその信仰の始まりから、「信仰生活を通じて、信仰的成長、言い換えるなら信仰者として成熟することが求められている」ということです。

 しかも、それはいわゆる「キリスト教の知識が増し加わる」ということではなく、パウロはそうした信仰に基づく、キリスト者としての信仰生活、教会生活という非常に具体的な、実際的な出来事において、キリスト教信仰が身を結んでいなければならないとみているのです。

 それはコリント教会においては具体的に、「教会の中でねたみや争いが絶えない」という現実的な出来事において、信仰的な成長、あるいは「教会であるこ」との実践が全くできていなかったことを意味しています。

 すなわちわたしたちはキリストの救いに接し、キリスト教徒になるわけですが、問題は、むしろその後の「キリスト者としての生き方」と、そうしたキリスト者の共同体である「キリスト教会」にあるのです。


 しかし、そうしたパウロが指摘する問題とは、決して、個々のキリスト者が「明確に神に逆らおう」として発生した出来事ではなく、むしろ「キリスト者が人間的に神に近づこうとした」結果として、結んだ人間の罪の実、すなわち偽善が引き起こした教会の不和であるということにあるのです。

 多くの場合がそうだと思いますが、キリスト教信仰に触れ、キリストの救いにあずかった人物が、意図的に「悪を犯そう」とは考えません。むしろ「キリストに倣って善を行おう」と考えるのです。

 ところが、問題はそのようにしてキリスト者が求める「善」が、実は「偽善」であったということにあるのです。

 使徒言行録に記されていますがアポロは雄弁家であり、パウロに比べれば、そのカリスマ的な存在感はパウロをはるかに凌ぐものであったことが考えられます。

 そうした、アポロのカリスマ的な牽引力に、コリントの教会の人々は大いに啓発され、そこで大きな働きをなしたのです。

 「それから、アポロがアカイア州に渡ることを望んでいたので、兄弟たち(アキラとプリスキラたち)はアポロを励まし、かの地の弟子たちに彼を歓迎してくれるようにと手紙を書いた。アポロはそこへ着く(アキラとプリスキラたちが建てたコリントの教会)と、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた。彼が聖書に基づいて、メシアはイエスであると公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたからである。」(使徒言行録18章27~28節)

 ところが、一見「大成功」に見えたアポロのアカイア州の(コリントの)教会での成功は、パウロにしてみれば「大失敗」であったわけです。

 パウロはこのコリントの信徒への手紙において、コリント教会の人々が、キリスト教信仰の基本から離れてしまって、むしろ、アポロのカリスマ的で力強い宣教に大いに心を惹かれたわけです。

 キリスト教の信仰の基本が、「イエス・キリストの御前において自分自身の罪を告白し、罪を悔い改める」というものである限りにおいて、キリスト教の信仰で「人間のカリスマ性」というような、人間の性質(賜物)は問題ではありません。

 ところが、そうした「激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せた」ような、アポロの「雄弁」というカリスマ性、アポロの人間としての能力、あるいは賜物について、それがコリント教会において一部の人たちから大いに評価されたのです。

 当然、パウロやアキラ、プリスキラたちによって指導を受けた他の信仰者たちは、アポロのような人間的カリスマ性を否定し、よりパウロの教えに忠実であろうとしたわけです。

 しかし、パウロはここで、アポロ派になった人たちが信仰的に問題であるということを主張するのではなく、むしろパウロ派についた人たちも同様に、互いにひとつの教会の教会員として全員が神の御前において、自分たちの罪を悔い改める必要性を説いたわけです。

 パウロは、そういう意味で、自分自身について、あるいはアポロについて、すなわち今日的に表現すれば牧師という存在について、それは教会において尊重されるべき存在であるけれども、しかし、だからと言って、「どの牧師が正しい」という見方を退けるのです。

 わたしたちが仕えるべきはあくまでも教会の頭であるイエス・キリストであり、イエス・キリストの言葉に聞き従う者であることが、キリスト者にとって最も大切なことなのです。

 そして、そうしたイエス・キリストの言葉に聞き従う者は、当然、普段の生活においても、そうした信仰的に基づいた生活を行わなければなりません。イエス・キリストは「互いに愛し合いなさい。」と言ったのであって、「互いに争いなさい。」とは言いませんでした。

 そして、本当の意味において、「イエス・キリストの言葉に聞き従っている」ということがキリスト者にとって大切であり、またそうした一人一人のキリスト者によって、頭なるイエス・キリストにおいて、イエス・キリストの体である教会を形作ることができるのです。

 その意味で、たとえば「隣人愛の実践」は、キリスト教会においてはまさに必須の事柄であって、教会は、あるいは牧師や信徒は、そうした隣人愛の実践が求められているのです。


 当然、それはキリスト教の信仰の基本である「罪の告白と罪の悔い改め」によるものであって、「人間的努力の結果」として実現されるものではないのです。

 具体的に礼拝式の中でハグをしたりというような人間的親密さではなく、あくまでも一人一人が神の御前においてキリストの言葉に従い、真実を持って生きる、そうした罪の告白である証と祈りによって、むしろ、自分がいかに弱い存在であり、神の助けによって生かされているのだという、信仰によって生きる一人一人の神の御前における感謝の姿によって教会は教会として正しく信仰的に成熟することができるのです。


 パウロは、そうした教会が教会として成長することにおいて、「指導者の自覚が大事だ」というだけではなく、もちろんそれも大切ですが、「教会員の一人一人の心がけ、信仰生活も大事だ」ということを言おうとしているのです。

 問題のある教会において、「牧師に問題がある」というケースは良く指摘されますが、パウロに言わせれば、「それを黙認している信徒にも同様に重大な問題がある」という事なのです。

 その意味で、牧師が常に信徒と対等にものを言えるようにできているか。すなわちプロテスタント教会でいえば「万人祭司」の信仰に立つ教会は、そうした点がきちんとわきまえられていることが大事であるのです。

 そして、そうした誰もが等しく、イエス・キリストをこそ主とし、イエス・キリストの言葉に聞き従う時に、教会はまさに神によって正しく成長するのです。



1)こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
2)この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。

4)自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。


 パウロは、このところでキリスト者として大切な事が何であるか、あるいは牧師の資質として求められるものは何かを明らかにしています。

 それは何かと言えば、「イエス・キリストに忠実であること」です。


 「イエス・キリストに忠実であること」とは、牧師にとって、キリスト者にとって至極当然のことでありますが、実は、この「忠実である」ということが実は難しいのです。

 パウロは、キリスト者として、教会を指導する者として、今日的に言えば牧師、あるいは教会指導者として、自分自身が神の御前において「義とされているわけではない」と告白しています。

 それは、言い方を変えれば、パウロ自身も、自分が考え判断し行動しているその事が「神の前に正しい」とは考えていないということなのです。

 すなわち、「牧師が間違うはずがない」とは有り得ない事柄なのです。

 むしろ、「牧師も間違うし、信徒も間違う」のです。


 その意味で、パウロがここで指摘するのは、「キリスト者の正しさ」「牧師の正しさ」「教会の正しさ」とは、いったい何によって実現できるかと言えば、それは当然、「キリスト者の罪の告白」「牧師の罪の告白」「教会の罪の告白」によって、はじめて実現されるのです。

 キリスト教信仰において、キリストの救いが「罪の赦し」である限り、「信仰者の正しさ」とは「罪の告白によって明らかにされる」のです。

 これは実に基本的であり、キリスト教信仰の初歩の初歩ですが、案外にもわたしたち信仰者が忘れやすいものであり、牧師や教会が失いやすいものでもあるのです。


 わたしたちとイエスさまとの関係は、まさにヨハネによる福音書13章に示されているとおり、

 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。(ヨハネによる福音書13章8節

 すなわち、「自分の罪の告白を通じてのみ、わたしはイエスさまと関係がある」と言えるのです。

 当然、十字架のペンダントを肌身離さず身に着けていたとしても、毎週礼拝を守っていたとしても、あるいは毎週、礼拝において奉仕をしていたとしても、「自分の罪の告白をしない」のであれば、それは「キリスト者ではない」ということなのです。

 「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(ルカによる福音書14章27節)


 「自分の十字架を負う」とは、「自分の罪を告白する」ということです。

 しかも、それは洗礼を受ける時に、人生において一回だけ行えば良いということではありません。

 日々イエス・キリストの後に、すなわち日々聖書の御言葉を通じて、聖霊の助けによって示される自分の罪を告白し、罪の悔い改めの日々を送る者が、まさにわたしたちの罪を赦してくださるイエス・キリストとの関わりにおいて、わたしたちを「キリスト者」としてくれるのです。

 当然、一回一回の礼拝も、わたしたちの罪の告白と悔い改めの場であるということです。

 プロテスタント教会では聖餐式の時に「おのおの自分の罪を深く悔い改めなければなりません。」(日本基督教団・口語訳・式文による)と言いますので、その時に、わたしたちは罪の悔い改めが必要だということを耳にします。

 すなわち、そうした「罪の告白を免除されたキリスト者」というのはいないわけです。



 礼拝は、決して、面白くも楽しいものでもありません。それはパウロの時代もそうでした。

 コリントの教会に雄弁家アポロがやってきて、その礼拝はまさにそうしたキリスト教の信仰に基本的なものであるところから、大きく、人間的な喜びや人間の素晴らしさのような、一種、人間主義的なものへと変質化したのです。

 しかし、そうではなく、パウロはあくまでも教会はキリストの言葉に忠実であることを第一としたのです。

 当然、そうした礼拝は面白くも楽しいものでもありません。

 なぜなら、礼拝における「喜び」とは、罪人の罪が赦されたことによる喜びであるからです。

 その真の「喜び」を喜ぶことのできる教会でありたいと願います。