コリントの信徒への手紙1は全体が長いのでまず、今回は1~2章について話を進めたいと思います。

 まず、コリントの信徒への手紙1 章11節に「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。」(1コリント1:11)とあるように、事の発端は、コリント教会の教会員であるクロエの家のある人物からパウロに対して、コリント教会に発生したある問題についての相談がの連絡があったことにはじまります。


 あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。(1コリント1:12~13)

 そのクロエの家のある人物からの知らせが記す当時のコリント教会の問題は、いわば「内部分裂」であって、コリントの教会の中に、例えるならパウロ派、アポロ派、ケファ派(ペトロ派、ユダヤ主義キリスト教)、キリスト派(パウロやアポロ、ケファといった人間ではなく、キリストを主とする派)という具合に、キリストの体である教会がいくつにも分けられてしまったような状況であることをパウロに伝えたのです。


 さて、なにやら話が複雑な様相なので、少し、使徒言行録などの記述にみるコリントの教会の成立について簡単に説明します。

コリントの信徒への手紙1に見る教会


 まず、コリントの信徒への手紙1の成立について、なぜ、このような手紙をパウロが記したのかを図にしたのが上のものです。①~⑦というのは出来事の順番を指しています。

 この説明をしますと、まず、そもそもコリントの教会のはじまりは、もともとローマのユダヤ人会堂においてメシア=イエス運動をおこなった首謀者に対して、当時の皇帝クラウディウスがローマ市からユダヤ人を追放するという出来事が起こります。

 その時、メシア=イエス運動の首謀者にアキラとプリスキラという夫婦がいたのです。二人はローマから追放され、活動の場を求めてイタリア州からアカイア州コリントの町へやってきたのでした。

 その時、パウロはマケドニア州のテサロニケから始まって宣教旅行を行っておりましたが、ユダヤ人の反感を買い、追われるようにしてアテネ、コリントと移ってきたのでした。

 そして、まさにこのコリントの町においてアキラとプリスキラ、そしてパウロが信仰を同じにする者同士(つまり、アキラとプリスキラはパウロの協力者であって弟子ではない)としてコリントの教会を興すのです。それが①の出来事です。

 その後、パウロとアキラとプリスキラは海をわたり、アジア州エフェソに赴きそこでエフェソ教会を指導するようになるのです。


 パウロはその後、エフェソから別の場所へと宣教旅行で移っていきます。それが③です。

 しかし、アキラとプリスキラはエフェソの教会に留まり教会を指導するのです。ところが、そうしている内に、エジプトのアレキサンドリアから聖書に詳しいユダヤ人雄弁家のアポロという人物がエフェソへとやってきます。そして、アポロがメシア=イエス運動を行っているという噂を聞きつけ、アキラとプリスキラはアポロを招いて、「聖霊による洗礼」を教えるのです。それが④です。


 さて、その後、アポロはもともと「アカイア州に行きたい」という願いを持っていたことから、アキラとプリスキラは、アカイア州にある教会であるコリントの教会に手紙を書き、アポロに手紙を持たせて送り出したのです。

 ところが、コリントの教会におけるアポロの活躍は、決して、良い結果だけをもたらしたわけではなかったのです。それが⑤です。

 コリントの教会の中に分裂の危機が訪れ、それに心を痛めたクロエの家のある人物が、そうした状況をパウロに知らせた。それが⑥です。

 そして、パウロはそうしたコリントの教会の状況を何とか信仰的に解決しようと、コリントの信徒への手紙1を記したのです。それが⑦です。


 さて、パウロによるコリントの信徒への手紙が書かれたいきさつはおよそ上記の通りとなります。

 なお、パウロがこの手紙を書くきっかけとなった「雄弁家アポロ」については、以下のところにまとめてありますので、そちらをご覧ください。-> 「問題宣教者アポロ」



 まず、上記の話の整理をします。

 パウロのコリントの信徒への手紙に直接個人名として登場する「アポロ」という人物についてですが、彼はエジプト・アレキサンドリア出身のユダヤ人で、聖書(旧約聖書)に詳しい雄弁家であり、アレキサンドリアでユダヤ教の中でも、特に、イエスをメシアとして信じる信仰を受け入れ、その信仰を持ったのです。そして、彼には、イエスをメシアだと信じる信仰の宣教者として大都市での宣教を志していたのです。

 その後、アポロはアレキサンドリアからアジア州・エフェソにやって来て、そこでユダヤ教の会堂に行き、イエスこそがメシアであることをかなり強烈に人々に教えたのです。そういう意味では、アポロは非常にカリスマ的な要素を持った人物であることがわかるのです。


 当時、パウロが直接、アポロと接触があったのかはわかりませんが、パウロと一緒にコリントの教会からエフェソの教会へと移ってきたアキラとプリスキラ夫妻は、このアポロの才能に目を留め、アポロに対して信仰的な指導を行い(アポロ自身は洗礼者ヨハネの洗礼しか知らなかった)、その後、アポロの要望を受けて、アカイア州のコリントの教会に手紙を書き、その手紙を持たせてアポロをコリントの教会へと派遣したのでした(パウロはおそらくはこの事を知らないか、直接は関わっていないのでしょう)。

 なぜ、パウロとアポロの接触がないのかと言えば、パウロがアポロと接触していたのであれば、おそらく、コリントの教会へアポロを派遣する以前において、その問題点を指摘できていたものと判断されるからです。


 かくして、アポロはコリント教会に行き、必ずしもアポロに起因するものが全てではないですが、そこで教会の中のいろいろな信仰の問題が起こり、パウロはそうした当時のコリント教会の人々が直面した信仰的な問題に対して、パウロは手紙を記して、ひとつひとつの問題に対して信仰的指導を行ったというわけなのです。



 

 さて、ここまで来てコリントの信徒への手紙の背景について、ご理解いただけたのではないかと思うのですが、パウロ個人としては、つまりはそうした理由によってこの手紙を記したのです。

 しかし、最終的に、キリスト教の歴史において、「キリスト教の聖典」という枠組みの中にこの文書が採用されたのはなぜかということを考えるのであれば、すなわち、こうしたコリント教会における一種の不祥事のような事柄が、以後のキリスト教会においては当然反省されていてしかるべき、という教訓としての意味があるということなのです。

 そうした「歴史的な教訓に学ぶ」「先人の犯した罪とその反省に学ぶ」ということが、すなわちキリスト教の信仰において大切なものであり、「罪の悔い改め」とは、まさにそうした「同じ失敗を繰り返さない」ということなのです。

 聖書はそういう意味では全体として、「人間の失敗(人間の罪)」ということを反省し、そうした「過ちを二度と犯すことのないように」という、信仰の先達たちの慈愛に基づいているわけです。


 つまり、「悔い改め」だとか、「聖霊の導き/満たし」「きよめ/きよめの生涯」「キリストの内住」「聖化」とか、こうしたいろいろな表現はありますが、そうしたものが具体的には何を言っているのかという、具体的には「神の言葉に耳を傾け、日々自分の生き方を(イエス・キリストの御名によって告白し)反省する」ということであるわけです。そういう意味では「反省しないキリスト者」というのは当然有り得ないのです。

 牧師は信徒に先だって自分自身がまず神の御前に反省する者であり、そうした牧師の姿勢に信徒がならい、そのようにしてキリストの教会は形成されるのです。



 では、以下に御言葉を引用します。

「こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます。」(1コリント1:6~7)

 この言葉は、パウロが「挨拶の言葉」として記したものです。

 パウロは1コリント12章12節以下において、キリストの教会を「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」(1コリント12:12)と言っているように、教会は全体としては、地上においてイエス・キリストを証するひとつの体であり、しかし、それは一つの体であるけれども、そこには「多くの部分から成り」、すなわち色々な賜物を持ったイエス・キリストを証しする教会員ひとりひとりによって構成されることを説明しています。

 つまり、そこには様々な賜物を持ったキリスト者がいるわけですが、問題は、教会はそうした賜物を持ったキリスト者が、全体として協調し、秩序を保ち、具体的には地上において、例えば、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章34~35節)にあるような「これこそがキリスト教会」としての証をすることにあるのです。

 当然、教会には子どももいれば青年もおり、壮年、高齢者、男性、女性、健常者に闘病者、外国人・・・と、すなわち地上における教会とは、こうした現実の社会の縮図のような、まさに教会の中にイエス・キリストがご隣在くださり、今もなお、そうした人たちに対して、その重荷・苦しみ・悲しみを知ってくださり、そうした兄弟姉妹に対して、祝福と祈りをもって応えてくださるものであるのです。

 そういう意味では、教会は、ペトロが神殿の門において足の不自由な人に対して語ったように、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」(使徒言行録3章6節)と、「教会が貧しい」ということは本質的な問題ではないのです。

 教会が持っているもの、すなわち教会がイエスさまからいただいたものは現金ではありません。教会がイエスさまから頂いたのは祝福の言葉と祈りであって、まさに「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイによる福音書10章8節)とイエスさまが言われたように、教会がその宣教の核心において代価を求めるということは、絶対的にあってはならないのです。あくまでも、そうした祝福を受けた方が感謝の気持ちとして教会に捧げてくださるものがあれば、教会はそれを感謝して受け取ればよいのです。それは必ずしも現金ではなく、当然、別の形のものである場合もあるわけです。ある人はそれを自分が育てた野菜で返してくださる場合もあるでしょうし、何もないので感謝の祈りで返してくださることもあるでしょうし、それはその人の感謝の気持ちがあればイエスさまは十分であると言ってくださるでしょう。

 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。」(ルカによる福音書17章15~16節)

 当然、イエスさまはこの人物に対して「感謝」以上のものを求めてはいないでしょう。



 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」(1コリント1:10)

 次に、1章10節以下のところでパウロが示すキリスト教会のあり方というのは、すなわち「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」という事に集約されます。

 イエス・キリストを信じる者は当然、イエス・キリストの約束した霊、すなわち聖霊を受けている者であり、そうした人物は当然の事として、イエスの語られた掟である「あなたの隣人を愛しなさい。」という隣人愛の実践こそが、その基本であるわけです。

 それはもちろん、人間的努力によって実現するものではありませんが、しかし、各人は、聖霊の助けによって隣人愛を実践する者として変えられていくことを願い求めることが要求されているのです。なぜなら、イエス・キリストが十字架上でその命を落とされた、その出来事が、まさにキリスト者に対してそのことを御心の内に命じているからです。

 そして、そうしたイエス・キリストにつながる一人一人がまさに、「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合」うのがパウロの願い求めるキリスト教会の姿であるのです。

 しかし、それは決して、牧師を司令官として、その下に各種リーダーがいて、その下に平信徒がいるというような権威主義的なピラミッド型の教会ではありません。

 パウロはあえて教会の仕組みを、「キリストの体」というふうに表現しています。当然、それは当時知られているローマ軍のような軍隊構造ではなく、「キリストの体だ!」ということであるのです。教会はひとりひとりがみんな異なり、しかし、みんなが異なるにもかかわらず、それはイエス・キリストの愛によって、固く結び合っているのです。当然、それは「できる人だけの教会」ではないわけです。




「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(1コリント1:18)

「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」(1コリント1:21)

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:26~29)

 パウロにとって「宣教」とは何であるか? それを端的に示しているのがこの御言葉です。

 パウロの「宣教」とは、①「十字架の言葉による」ものであり、②「愚かな手段」であり、③「(神の)召し」によるものであり、④「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」のものであるということなのです。

 これはどういうことかと言えば、まず①について「十字架の言葉による」とは、例えば、以下のイエスさまの言葉に見ることができます。
 
 『それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』(ルカによる福音書9章23節)

 キリスト者としての信仰生活は、すなわち「日々、自分の十字架を背負う」事としてイエスさまは言っています。

 それは具体的には、「毎日、聖書を読み、そこで示される自分の罪を認識し、イエス・キリストの御名によって罪の赦しを祈り(無力なわたしを助けてくださいという祈り)、そうした罪の悔い改めを毎日行うこと」であるのです。

 つまり、パウロの言う「宣教」とは「信仰の勧誘」ではないのです。

 ②の「宣教」が「愚かな手段」だとは、まさに「キリスト教の宣教とは、自分が罪人であることを神と人との前において証しすること」だからです。そこには「賜物」などというものは一切関係がないのです。


 そして、「宣教」は③神の召しによるものである、というわけです。

 わたしたちもそうですが、わたしたちがキリスト者になったのは「勧誘されたからか?」というとそうではありません。

 確かに目に見えるところにおいて、そうしたきっかけとして教会で行われる音楽会や伝道集会などの様々なものは一定の効果はあるかもしれません。しかし、パウロはそうした「人間的勧誘行為」は全く問題にしていません。

 あくまでも、その人がキリスト者になるのは神の召しによるものであって、教会がそうした人たちのために行うべき行為は、当然、「勧誘」ではなく、「(とりなしの)祈り」によるものであることが読み取れるのです。

 そして、そうした「宣教」が「神の召し」によるものであることの重要性が、結論的に語られている「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(1コリント1:29)という言葉にあるとおりなのです。

 教会がキリストの体であるとは、パウロが12章で語っているように、体の部分に過ぎない目や手が、誰よりも目立つ・尊重されるというような事があってはいけないことを言っているのです。当然、牧師と言えども、それはキリストの体の一部であって、決してキリストの頭などではなくむしろ体のなかで一番汚れ役である「足の裏」であることが求められるのです。

 「イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」(マルコによる福音書9章35節)

 それが、キリスト教会の価値観であり、イエス・キリストが弟子たちに示された「一番」なのです。



『神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。』(1コリント1:30~31)

 そして、そうした教会が誇るべきはイエス・キリストであり、教会の中でイエス・キリスト以外が誇られることがあってはならないのです。

 

「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」(1コリント2:4~5)

 パウロはコリント教会の人々に自分自身の経験として、まずコリントに訪れた時のことを証します。

 パウロはそれを「“霊”と力の証明によるもの」と言っていますが、それは当然、パウロ自身の持つ人間的な魅力、たとえばカリスマ的なもの、あるいは人徳のようなものではなく、あくまでも聖書の御言葉に基づく、パウロ自身の罪の悔い改めというキリストを証する者としての生き方によるものであることを言うのです。

 実際、パウロに対して当時の教会の人々が思ったのは「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(2コリント10:10)と言う者たちがいるほどです。

 その意味で、パウロの人間的な外見は、決してカリスマ的な特徴があるわけでもなく、むしろ、弱々しい感じで、しかもその話も、他人を惹きつけるような魅力あふれるものではなかったのです。

 こうしてみると、「パウロの宣教」とは、まさにパウロ自身が自分の罪に対する弱さを皆の前で告白し、まさにそうしたこの世において弱く、傷ついた者たちが、まさにイエス・キリストの罪の赦しの経験を通じて、まさにパウロをはじめとしたコリント教会の人々が「自分の十字架」を担いつつ、日々、イエス・キリストの言葉に聞き従うという信仰者としての日常生活を通じて、隣人を(神が)感化させてくれるというものであったということなのです。


 ところが、今日のキリスト教界においては数量的な増加、教会(あるいは宣教)の拡大ということが、まさに「神の御心である」として、多くの人がその事について疑いを持つこともなく、まさにサタンの誘惑に対して盲目的に追従してしまっている現状があるわけです。

 特に、パウロのそうした「宣教」ということを考慮すれば、当然、「信仰継承」とは、つまりは「使徒継承」であって、それは「親から子」という人間の血肉による信仰の継承はありえないのです。

 確かに、父親が牧師、あるいはクリスチャンであり、その息子が牧師、あるいはクリスチャンになるケースもありますが、それは基本的には、ひとりひとりがイエス・キリストの御前において自分の十字架を担うという信仰告白を通じてはじめて可能であり、むしろ、そうした血肉に拠らないからこそ、教会は、いつの時代においても、また全く教会が無い場所であっても、神の御心であれば、無の状態から教会は興されるのです。そして、それを興すのは神であるのです。

 確かに、教会を実際に興すのは、牧師であり、また牧師と志を同じにする信徒の集まりであるわけですけれども、しかし、それは信仰的には、人間の努力として興すのではなく、「神の御心において興される」ものであるのです。その部分を、わたしたちは間違えてはなりません。

 わたしたちが地上においてキリスト者として求められているのは「神を礼拝すること」であって、わたしたちの日常の信仰生活は、「日々、自分の十字架を背負うこと」であるのです。

 そして、その教会が無くなるのも、また興されるのも、すべては「神の御心」であり、それは「人間(牧師)の願い(考え)」ではないのです。 



『わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。』(1コリント2:12~16)

 神から与えられる聖霊は、いわゆるこの世的な「霊(感)」「スピリチュアル」というようなものとは決定的に異なっています。

 「聖霊の満たし」「キリストの内住」など、多くの人がそれを聞けば、なにやらシャーマニズム的な要素がキリスト教信仰にもあるものと思われるかもしれませんが、そうではありません。

 パウロが「宣教を愚かな手段」と呼んだように、キリスト者が聖霊の働きとして聖書の御言葉を通じて知ることのできるものは、決して、「精神的な昂揚感」のようなものではなく、むしろ、「人間の罪を明らかにするもの」であるのです。

 「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。」とは、まさにそうした聖霊の助けにより、聖霊の働きによって、わたしたちが聖書の御言葉から自分の罪を指し示すその事柄は、当然、「自分の汚点」でもあるので、普通の人はそれを受け入れることはできないのです。むしろ、わたしたちは幼い頃から「強くなること」に憧れ、人間的に「強くなること」を教えられて成長するのですから、そうした「自分の欠点(自力では克服が難しいので)」などは、むしろ「見ないようにする」ということが当たり前なのです。

 当然、「欠点は見ずに、長所を伸ばす」ということが人間が人間として成長する時に大切だと言われるのです。

 ところが、キリスト教の信仰は、むしろ、「人間の長所は見ずに、欠点(自分の罪)を認めて、神の助けを求める」ということですので、明らかに「常識からすれば非常識だ」ということになるわけです。

 では、パウロはそうした「キリスト教の常識」は「霊によって初めて判断できるからです。」と言っていますがそれはどういうことでしょうか?

 わたしたちが(聖)霊によって何を判断できるのかといえば、それは当然、「自分の罪(弱さ/神の助けが必要な部分)は何であるか?」ということです。

  すると、わたしたちのイエス・キリストの名による罪の告白は、当然、わたしたちが神の御前において、イエス・キリストの御前において、自分の罪を、一種の公開裁判を受けているのと同じですから、当然、その人に対して聖霊の働きを通じて語られている「罪」とは、まさにそれは「神の言葉」であり、「神さまがその人に対して直々に語られた判決」であり、当然、『その人自身はだれからも判断されたりしません。「だれが主の思いを知り、/主を教えるというのか。」』とパウロが言っているように、自分の罪を告白し、罪を悔い改める人物を、「人間が裁く」ことはできないのです。

 この「罪の告白」と「悔い改め」こそが、キリスト者の命であり、信仰生活であり、そして、教会が教会であること、牧師をまさに牧師たらしめるものであって、パウロがコリント教会の人たちに対して信仰的に大切なこととして教え伝え、そして、今日のキリスト教会は、まさにそうした聖霊による価値基準・判断基準によって、この世においてイエス・キリストの救いによって教会であり続けることができるのです。