フィリピの信徒への手紙3章1~5節
1)では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
2)あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3)彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
4)とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 


 フィリピの教会にパウロがこうした手紙を送った背景にあるのは、2節でパウロが「あの犬ども」と表現する、直接的にはユダヤ教における神の救いにあずかるための要件であった「割礼」(その他には食物規定)をキリスト教徒に対して要求する、エルサレム教会からの、あるいはユダヤ主義的なキリスト教会からの伝道者が各地にあった異邦人教会の人々に対してパウロの伝える信仰から離れるようにという要請でありました。

 それは、今日的にはもちろん、日本におけるキリスト教会の中で「割礼」を要求することはありません。だから、こうした「割礼」の問題は、今のわたしたちにとってみれば全く無関係のことだというのかというとそうではありません。

 ここでパウロが指摘する「割礼」が具体的に、直接的に今のキリスト教会において要求されることはありません。しかし、わたしたちの教会においては、パウロがそれに続けて説明しているように、「割礼」とは当時行われていたひとつの具体例であって、信仰的にこの「割礼」が意味するものが何かといえば、それは「肉に頼ろうとする」ことであり、パウロが「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」ということが、すなわち「真の割礼を受けた者」を指すのであれば、当然、「偽りの割礼」、すなわち、「肉体への割礼を要求する信仰」とは、すなわち「神の霊によって礼拝することなく、キリスト・イエスを誇りとすることなく、肉体への割礼を要求する」ものであることがわかるのです。

 それは、言い方を変えれば、「礼拝をするけれども、それは神を礼拝するのではなく、イエス・キリストを救い主だとは言うけれども、この世的な人間の業によって救われようとうする信仰」というふうに表現できるのです。


 信仰者は神を信じ、神の救いによって生きます。

 誰もが、クリスチャン、キリスト教徒はそのようにして生きていると考えています。

 ところが、パウロの生きた時代のキリスト教会もそうですが、過去のキリスト教会の歴史においてもそうであり、そしてまた今日のキリスト教会においても、実は、教会はまさに肉の思いによって、すなわち信仰と人間の欲望とのせめぎ合いの中におかれているのです。



 なぜ、パウロの意に反して、当時の異邦人教会の人々は、ユダヤ主義的なキリスト教へと改宗してしまったのでしょうか? 彼らは、「割礼」を「イエス・キリストの十字架と復活」よりも信仰的に大事だと信じたのでしょうか?

 ここらへんの信仰者の考え方が見えてこないと、すなわち信仰の戦いにおいて最も重要な信仰の敵である罪が何であるのかが見えないと、キリスト教会は、まさに「カネのなるキリスト」を崇拝する教会へと、まさにこの世的繁栄を約束するサタンを礼拝する教会になってしまい、そうなってしまったことに気付かない、あるいは気付いていても、もう引き返すことができないという事になってしまうのです。

 繰り返しますが、それは「わたし永野や出雲教会が信仰的に安全だ」ということを言っているのではなく、わたしたちは常に、そうした信仰の戦いに直面して、この世で信仰者として生かされ、信仰者として生きているということなのです。それは誰もがそうであって、何時、どんなきっかけで信仰的にイエス・キリストから離れ去ってしまうか、わたしたちは常に、そのことを自問しながら、「神の御言葉に従う」という選択をし続けていかなければならないのです。



 さて、では、なぜ当時の異邦人教会において、ユダヤ主義的なキリスト教への改宗が進んだのでしょうか?
 
 それは決して、異邦人キリスト教会の人々が「パウロの教えが間違っている」と単純に信じたからではありません。


 それは当時の世界において、いうなればキリスト教会がキリスト教会として、ローマ帝国内において生き残りを賭けた決断を求められた時に、ひとつの踏み絵が提示された。それが「1民族1宗教」というローマ帝国の宗教政策であり、そこにおいて当時のキリスト教会は自分たちの信仰において決断をしなければならなかったという歴史的事実に基づいているのです。

 つまり、「キリスト教はキリスト教である」として、当時のローマ帝国内において、当時としては異端的宗教として生きるか、それとも、「キリスト教はユダヤ教という大きな枠の中のナザレのイエス派である」というこの世の権力者に対して妥協して生きるかという二者択一を迫られていたのです。

 そして、ペトロたち初代教会の弟子たちは、パウロたちのように、そうした時の権力者たちに逆らい、摘発され、その結果としてキリスト教会がなくなってしまうよりも、もともと自分たちはユダヤ人であるのだから、ユダヤ教の一派として、ローマ帝国の支配下においてユダヤ主義キリスト教の組織として、ローマ帝国の保護下に生き残るという選択肢の方が確実であり、もっとも現実的な選択肢であると判断したのです。

 すなわち、それは今日的に見ても、パウロの選択肢よりも、初代教会の弟子たちがとった選択肢の方が極めて妥当的な、現実的な選択肢であったと思われるのです。

 しかし、パウロはまさにキリスト教会はユダヤ教の教会ではなく、まさにキリスト教会であることによって、はじめて本当の意味でキリスト教会でありうると、そのことを強調するのです。


 つまり、こうしたことを見ると、パウロがフィリピの教会の人たちに対して手紙を送って訴えた「割礼」という信仰の問題は、ただそうした肉体に傷を付ける儀式だけが限定的に問題だとされているのではなく、むしろ、信仰共同体であるはずのキリスト教会が、いわば「教会の存続」という、本来は信仰において、聖霊の助けによって導かれるべき問題が、人間的、すなわち霊的な解決方法ではなく肉的方法を、神の栄光ではなく、まさに人間的打算によって自分たちの歩むべき道を歩んだという事が問題となっているのです。

 だからこそ、それは常に、「常識的判断」ではなく「信仰的判断」によって、すなわちキリスト教会は、教会の存続について、決してそれを常識的・打算的に判断するのではなく、礼拝において語られる神の言葉に聞き従うことによって、信仰によって判断することが必要であることを説明するのです。


 そして、パウロはそうしたキリスト者の歩みが、この世における教会が、地上において既に完成されたものではなく、 常にイエス・キリストの姿に倣いつつ、神の御国へと向かって歩むのもであるというわけです。

フィリピの信徒への手紙3章13~14節
13)兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
14)神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです
 
 キリスト者が、あるいは教会がこの世において目標として目指すべきものはいったい何でしょうか?

 パウロがこの言葉で示そうとするものは、たとえば、マタイによる福音書25章21節「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」というような、信仰者が地上での生涯を終えて、信仰の戦いを立派に戦い抜いたその結果、神さまからいただくことができる「慰めの言葉」と表現できるでしょうか。

 わたしたちの地上の喜びも、悲しみも、苦しみも、すべてはこの神さまがわたしに対して与えてくださるその「慰めの言葉」で十分なのです。神さまのこの「慰めの言葉」によって、わたしたちの命はまさにこれ以上ないほどの価値を与えられることになるからです。

 だからこそ、わたしたちキリスト者にとって教会にとって、目指すべきものは、まさにこの神さまから与えられる「慰めの言葉」であって、まさにこのためにキリスト者は、あるいは教会は地上においてイエス・キリストと共にある喜びを喜び、またイエス・キリストと共にある苦しみを苦しみ、この世に対してイエス・キリストの証人としての、あるいはイエス・キリストの教会としての歩みを全うするのです。


 
フィリピの信徒への手紙3章17~21節
17)兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
18)何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
19)彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
20)しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
21)キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

  世にあるキリスト教会が、まさにキリスト教会であるかどうか。その事はパウロの生きていた時代においても、大きな問題でした。パウロがまさにここで繰り返し訴えているように、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」のです。

 それは、「ノンクリスチャンが多い」「未信者が多い」ということではありません。これまでの話が「教会の中」を問題としているように、当然、ここで言われている「キリストに敵対して歩んでいる者」とは、当時のキリスト者のことであり、当時の教会であるのです。 
 
  しかし、では、それは当時のキリスト者がそのように問題であって、現在のわたしたちはそうではないということが言えるかといえば、それは違います。


 まさに、今日において、キリスト教会でこの御言葉が読まれる時に、それは今日のわたしたちの問題なのです。

 今日のキリスト者にも、あるいは教会にも、そのようにしてキリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。


 それは、決して、「あそこの教会」ということではなく、まさに「わたしたちの教会はそうでないだろうか?」と、自問することが求められているということなのです。

 わたしたちの信仰は、イエス・キリストの救いを受け入れたからといってそれで完成したわけではありません。それは、これまでのところでパウロが言ってるとおりです。

 すなわち、わたしたちキリスト者の信仰は、地上において命ある限りにおいて未完成なのです。その信仰が完成するのは、まさに地上での信仰生活を全うして、神さまから「よくやった」との「慰めの言葉」をいただいてはじめて「完成」と呼べるのです。


フィリピの信徒への手紙4章4~7節
4)主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
5)あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
6)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7)そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

 「主において喜ぶ」とは、決して、「うれしいことで喜ぶ」と同じではありません。

 パウロがこの手紙を語っているその背景において、キリスト者は迫害を受けているからです。しかも、人々の前で自分の信仰を表明すれば、それはすなわち死刑を意味するやもしれません。

 彼ら、キリスト者の周りには迫害と困難が溢れているのです。つまり、彼らの目に映るのは決して喜びではないのです。むしろ、それよりも苦難・困難が多いことでしょう。

 しかし、パウロはそうした苦難・困難の中にあるキリスト者に対して、「主において常に喜びなさい」と勧めます。

 それは決して、やせ我慢や苦行のようなことを言っているのではありません。

 むしろ、パウロが勧めるのは、普段の生活における信仰生活の励行です。

 何か特別なことをしなさいというのではありません。


 キリスト者のこの世における戦いは、すなわち神の戦いなのです。

 そこで戦われるのは神ご自身であって、わたしたち人間は、その戦いの目撃者であり、また、勝利者である神さまを賛美し、褒め称えることです。

 出エジプト記14章14節
 「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

  
 これはわたしが個人的に好きな御言葉でもありますが、キリスト教の伝道を例えるなら、すなわち「神が戦われる神の戦い」であるのです。

 神さまは福音宣教のためにわたしたち人間の力を借りようとしているのかといえばそうではありません。わたしの理解では、この世における福音宣教の御業は、あくまでも神の御業であって、わたしたちはそこで神さまの働きを助けるということはできないのです。

 むしろ、わたしたち人間が何かをすれば、いったい何が神の業であるのか、その判別ができなくなります。

 人間が何もしないのであれば、当然、そこで起こる出来事は、すべてが神さまの導きであるということが言えます。

 その意味で、キリスト者に求められるのはただ礼拝を守ることであって、そこにおいて一週間の信仰生活において行われた神の御業をおぼえ、神の御名を褒め称えるということだけであるのです。



 教会はなぜ大きくならなければならないのでしょうか?

 マタイによる福音書18章20節
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 新約聖書に見るこうした記述は当時のキリスト教会が小さい集団で構成されていたことを物語っていると、G・タイセンは説明しています。また、パウロがローマの信徒への手紙の最後で個人名を上げていますが、ひとつひとつ数えても30人程度です。


 「教会を大きくしたい」とは、いったい何のためでしょうか?

 おそらく、そこにどのような理由がきたとしても、それは「キリストに敵対する」ことになると思います。

 なぜなら、むしろ教会は「神の祝福によって、結果として大きくなるはず」であるからです。


 その意味で、「伝道・宣教の成功、あるいは失敗」は、礼拝出席数や献金額ではかれるものではありません。


 その昔、先輩牧師から、「教会は礼拝出席が80人を越えたら、株分けを考えるもの」と聞きました。

 すなわち、1教会の人数の限界は礼拝出席が80人であり、またそれは信徒数でいえば1教会150~60人程度であるのです。それは一人の牧師がすべての信徒を牧会できる限界だということでしょう。

 もちろん、それを越えて人数の多い教会もいくつもあります。

 教会が大きくなればなるほど、牧師と信徒との人間的つながりは希薄になってきます。それは大会社の社長と平社員とが、顔すら合わせることがないというのと同じです。むしろ、それよりも中小企業のように社長も平社員も一緒に仕事を頑張る方が人間関係としては良い関係が築けるのではないでしょうか?


 現在、出雲教会では家庭集会を一か所で行っていますが、そこに集まるのはわたしを含めて3人です。

 わたし以外のお二人は共に高齢のため、いつまでこうした個人宅での礼拝が続けられるかわかりません。

 しかし、それはわずか三人の集まりではありますが、決して大教会の礼拝に負けることのない、とても祝福された礼拝であるのです。

 なぜなら、そこには人間的に誇れるようなものは何もありません。集う人数にしても、そこでささげられる献金にしても、それはごくわずかです。

 ところが、そこにおいて互いに、礼拝において神の御言葉を聞き、真の信仰を互いに確かめ合うことができることは、他の何ものにも代えることができません。こうしたことは大教会では、まずできない経験です。なぜなら、そこには人為的なものが何もないからこそ、そこで経験するすべてのことが神の恵みとして理解できるのです。

 もちろん、大教会の礼拝でいただく喜びを、わたしたちは経験することはできませんが、しかし、だからと言ってそうした「大教会の礼拝に対して何か憧れるか?」と問われれば、「憧れるようなものは何もない」というところです。

 わたしたちキリスト者が求めるのは「教会」という器ではなく、「礼拝の中で語られる神の言葉」です。そして、その中で行われる聖餐の経験と、その後のちょっとしたお茶の時間という、例えるなら聖徒の交わりです。

 礼拝においてわたしたちが聞くのは「神の言葉」であって、礼拝の演出でも、会堂の広さでもありません。歌手や音楽家も、あるいは楽器すら必要ありません。そうした人為的な「感動」は、一時的な清涼剤としての効果はありますが、所詮アトラクションに過ぎない点において、信仰の本質においてはまったく無意味です。

 つまり、共に聖書を読み、共に祈り、共にさんびを神に対してささげ、共にパンを裂き、共に交わるという礼拝行為の本質は、教会の大小には関係がないのです。むしろ、大教会になることによって失われるものの方が多いかもしれません。

 わたしたちはそうして礼拝が終われば、三人でお茶を飲み、世間話をしますが、それはほんのささやかなものであって、大人数のパーティーではありません。しかし、そうした濃密なともいえる神の言葉と聖徒の交わりの時間は、いくら予算を計上したところで、お金で買うことはできません。後になって、悔やんだところでわたしたちは時間を巻き戻すことはできません。大教会でいくら献金が多いとは言っても、お金で時間は買えません。

 そして、三人だけの小さな礼拝、聖餐、そして聖徒の交わりに、わたしたちは礼拝を持つことのできる喜びと慰めを深く経験するのです。これこそが、まさに神さまを中心とした聖徒のまじわりであって、この経験こそが地上におけるわたしたちキリスト者の唯一の慰めではないでしょうか。

 わたしたちは、地上においては、まさに聖徒のまじわりによる慰めを、そして来る御国においては神の慈しみ深い慰めの言葉によって、キリスト者の命はまさに最高の栄誉を受けることになるのです。