今回は、パウロの直筆であると言われるフィリピの信徒への手紙において、そこにみる教会のあるべき姿をみていきます。

 まず今回は1~2章をみます。

 さて、パウロは都合3回の伝道旅行を行いますが、その中でフィリピの教会について、パウロは他の教会と比較して非常に良い教会であることをその手紙の冒頭において伝えています。

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 パウロの宣教旅行について、上記の地図を参照していただければと思います。そしてパウロはこうした宣教旅行において牢獄に繋がれることを経験します。それはエフェソ、カイサリア、ローマであるのですが、今日的にはおよそ上記の地図でいういアジア州の「エフェソ」で投獄されており、そこからエーゲ海を隔てた場所にあるフィリピの教会の人たちに対して書き送った手紙であるのです。

 さて、上記の地図においてエフェソは「ヨハネの黙示録」に「アジア州の7つの教会」として登場するように、エフェソを含むこのアジア州はまさにパウロの宣教活動も虚しく、結果としてイエス・キリストの福音を受け入れた教会が、ユダヤ主義に基づく教会へと、福音を捨ててしまったのです。

 そうした背景には当時ローマ帝国が実施した、「1民族1宗教」という政策において、「キリスト教はどの民族の宗教でもない」ということが問題(ユダヤ人にはユダヤ教があるので)となり、そうした「1民族1宗教」に該当しない宗教は排斥を受けるようになったのです。
 そこで、当時のキリスト教会の指導者たちが考えたのは「危険を冒してキリスト教を信じ、ユダヤ教から独立するのではなく、ユダヤ教の中のイエス派としてユダヤ教の宗教祭儀を取り入れ(それまでそうしていたように)、キリスト教会ではなく、ユダヤ教の中のひとつの教会として、この世の権力に対して妥協していこう」ということであったのです。

 そこで、初代教会の指導的地位にあった人々、あるいはその直接的な弟子たちが、各地の異邦人教会を訪れては、「自分たちの信仰はイエス・キリストの福音も大切だが、それを大事にするあまり迫害を受けるよりは、自分たちはユダヤ主義に基づくキリスト教教会として、ローマ帝国の支配下において教会を維持していこう」ということを伝えたのです。

 当然、それは結果として、「イエス・キリストの救いが不完全である」という事を食物規定や割礼の施術といった行為を通じて証しているのと同じであり、それに対して、パウロは「 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」(ローマ12:2)と勧めているとおりなのです。


 その意味で、昔も今も教会が、あるいはキリスト者が常に問われているのは「この世との妥協するのか?否か?」であります。そして、それは言い方を変えれば「イエス・キリストの福音を大切にするのか? それともこの世的な繁栄を大切にするのか?」ということになります。


 このことは教会にとって実に大切なことでり、パウロが口うるさく言うのはそれなりの理由があるからなのです。

 なぜ、教会は宣教を行うのでしょうか? 牧師はなぜ、信徒に対して伝道を命じるのでしょうか? あるいは教会における奉仕を命じるのでしょうか?

 わたしたちの教会は、この世において、その存在理由は非常にはっきりしています。

 それはわたしの理解で説明すれば「礼拝を通じて神の言葉を宣教すること」です。


 教会において牧師の語る言葉に注意して聞いてください。わたしも他人のことは言えませんが、教会において牧師が語る言葉には、当然ながら、その動機があります。その根拠がまさにイエス・キリストの福音に根ざすものであれば、それはまさにイエス・キリストの言葉として、神の言葉としてそれは尊重されるべきでしょう。

 ところが、そうではなく、むしろもっと人間的な牧師の個人的、あるいは教会という組織運営のため、いわゆる会社が業績を上げるためのもの。すなわち教会員をまさに教会というキリスト教販売所の従業員としてとらえ、従業員に対してそのノルマを課すという類のものになってはないでしょうか?

 フィリピの信徒への手紙ではありませんが、マタイによる福音書に以下の御言葉があります。

 マタイによる福音書4章8~11節
8)更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9)「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
10)すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
11)そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
 
 「偶像崇拝」「悪魔崇拝」とは、よほどオカルト風のおどろおどろしい、世間から隠れたところでひそかに行われているものだと多くの人は思うかもしれません。


 ところがこの世において、「偶像崇拝」「悪魔崇拝」に最も近いところに立たされているのが、キリスト教会なのです。

 多くの人は「キリスト教会」に対して、まさか教会が「偶像崇拝を行う教会である」とか、「悪魔を崇拝する教会である」とは思いません。 そうではなく、まさに「信仰的に清い人たちが通うところ」という認識をもって教会を遠巻きに、「自分には縁遠いところ」と思う方が多いのではないかと思います。

 ところが、そうした「信仰的に清いはず」の教会にひとたび入ってみれば、そこでは「信徒獲得」を目的とする「伝道」「宣教」が行われ、そうした「勧誘活動」のための「献金」と「奉仕」という名の「強制労働」が呼びかけられているわけです。しかも、そうした教会では、そうしたものが「正しい信仰である」と、むしろ、そうした事を行わないことを「信仰的に不真面目/不信仰である」「信仰熱心でない」「福音的でない」というような言葉をもって否定するわけです。

 そして、牧師はさらにそうした信徒が自分の考えていることに対して疑義をはさむことの無いように、「考えるな」ということを暗黙のうちに強要します。それは直接的間接的にいろいろな形を通じて、言葉で言われる場合もあれば、そうした「信仰熱心であること」を通じて、信徒の思考力を奪うわけです。そうしたやり方はいわゆるアメリカ海兵隊のブートキャンプのようなものかもしれません。思考力を奪い、飴と鞭を使い分けることによって、教官の意のままになる部下を作り上げるわけです。

 そして、そうしたことによって実現する教会とは一体どういう教会かと言えば、それはすなわち、キリスト教会に対してこの世的な繁栄をもたらす悪魔を崇拝する教会であるのです。しかも、教会の外部の人から見て、その外見は「キリスト教会」であるぶん悪質です。そこを正直に「わたしたちはこの世的な繁栄を追求する、悪魔崇拝の教会です」と、教会の看板に書いてくれれば良いですが、残念ながら教会が「悪魔教会」と看板に表示することはありません。

 しかし、福音書のイエスさまの言葉によって立つのであれば、当然、教会は貧しくて当たり前なのです。なぜなら、教会が求めるのは神の祝福であって、この世的な金銭や人間の力ではありません。ところが、キリスト教会において、牧師において、そうした悪魔のささやきに屈した牧師、あるいは悪魔のささやきに屈していることに気付かない牧師、自分が信じているものがイエス・キリストのかたちをした悪魔であることに気付かない牧師が存在するわけです。それは決して「わたしは大丈夫だ」ということではありません。

 牧師は常に、そうしたイエス・キリストの言葉に対して真摯に向き合うことが求められているのであって、わたしも何時、どういうきっかけでそうした悪魔崇拝牧師になるかもしれないと、常に注意していなければならないというわたしの牧師としての自覚なのです。

 自分が信じているものが本当にイエス・キリストであるのか? それともイエス・キリストの殻をかぶった悪魔であるのか、それを見分ける信仰の目が牧師には必要なのです。そして、そうした間違いを犯す牧師に対して、そうした間違いを遠慮なく指摘する信徒にも同様にそのことが求められるのです(プロテスタントでは万人祭司の信仰に立つので「聖職(者)」という概念がなく、牧師も信徒も役割の違いはあっても基本的には同じと理解します)。


 さて、だいぶフィリピの信徒への手紙から離れてしまいましたので話をもとにもどします。

 フィリピの信徒への手紙1章1~11節
1)キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。

5)それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

7)わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

9)わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
10)本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
11)イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

 パウロがフィリピの教会の信徒に対して記しているように、フィリピの教会にはすでに教会という組織が成立しており、そこにおいて監督者・奉仕者・聖徒(信徒)といったような教会の中における役割の違いがあることがわかります。

 そして、パウロはフィリピの教会がまさに教会であることのそのもっとも大切な事柄として、「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」ということを上げて説明するのです。

 教会が教会であるために大切なことは何かと言えばそれはまさに週ごとに行われる「礼拝」において牧師を通じて「福音」が「語られ」、そして、「信徒」が「福音にあずかっている」ということなのです。


 パウロの生きていた時代において「信徒獲得」は主目的ではありませんでした。むしろ、それは神が祝福として教会に対して与えてくれるものであり、人間(牧師、あるいは信徒)が努力して獲得するものではないのです。

 教会が教会である、その第一条件は「福音の宣教と信徒が福音にあずかる」ということであって、当然、それは「礼拝」を通じて行われるものであるのです。

 ところが、ともすると教会は「礼拝をやっているだけではダメだ」ということを言うようになるわけです。


 聖書の中では神の祝福のひとつの表現方法として数量的に大きくなる表現をもって、神の祝福が大きいことを表現します。

 たとえば、以下の聖書箇所。

 使徒言行録2章40~41節
40)ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
41)ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
 
 ここにおいて、初代教会は1日で3,000人の信徒を獲得したことが書かれています。

 それは、今日的に言えば、「神の祝福があれば3,000人の信徒を獲得することができる」ということなのでしょうか? それとも「3,000人教会を達成すれば、その教会は信仰的に正しい教会である」ということなのでしょうか?

 もちろん、当時の初代教会において実数として3,000人の信徒が加わったとして理解することもかのうですが、むしろ、それは数の大きさをもって「神の祝福の大きさ」を示したものと理解するのが無難なのです。


 ところが、教会によっては、まさにこの「3,000人」ということを非常に重大なこととして、まさにそれが神の祝福を象徴する数字として、また、牧師に対して、神からの啓示としての「3,000人」という、そういう意味では実に誘惑であるのです。 


 パウロはそうした目先の事柄ではなく、週毎の礼拝において神の言葉が何であるかを正しく聞くことによって、信徒が物事を信仰的に正しく見抜くための物事を測る力を持つことを勧めているのです。

 そして、それは具体的には、この世的な悪魔の誘惑から自分の信仰を引き離すものであり、イエス・キリストの言葉に忠実にとどまる信仰の力であり、それは信徒に対して、知る力・見抜く力を養うものであり、それによって、何が信仰において大切なものであるのかをわきまえ、イエス・キリストの愛に根ざして信仰生活を送るようになるものであるのです。

 ところが、そうしたイエス・キリストの愛に根ざして生きるということは、必ずしも、良いことばかりが起こるという生活ではありません。むしろ、フィリピの教会の人たちが経験しているのは、パウロの逮捕やあるいはキリスト教徒に対する迫害、そして、教会に対してやってくるユダヤ教に改宗を求める動きであったのです。


 パウロは1章12節以下において、自分の人生がまさにイエス・キリストのものであることを証します。

 それはキリスト者にとって大変重要なことであり、また牧師にとって、実に基本的な事柄であります。

 パウロはそれを「わたしにとって、生きるとはキリストであり」と言っています。

 牧師はキリストに倣うものであって、当然、悪魔に倣うものではありません。しかし、そのごく当たり前のことが牧師には実に難しいものであるのです。それはわたし自身も常々感じるところですが、この世的な誘惑が常に付きまとうのです。

 そして、そうしたことの結論として、パウロは1章27節以下において次のように結論付けるのです。

 フィリピの信徒への手紙1章27~30節
27)ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
28)どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
29)つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
30)あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
 
 当時の人たちもそうですが、イエス・キリストを信じる信仰において大いに困難を経験する場合あるのです。しかし、それは決して、この世的な繁栄を求めることにおける困難ではなく、むしろ、イエス・キリストを信じる信仰において当時の社会において正しく生きようとした人たちが経験した困難であるのです。

 わたしたちは神の御言葉に絶対的な価値観を置いて、その上に立った上で、この世の物事を知り、見て、そしてそこにおいてキリスト者として生きるわけです。

 当然、そこにおいては困難がつきものなのですが、むしろそうではなく、教会が悪魔崇拝に走るそのことによって、すなわち牧師から達成するべきノルマとして信徒に対して重荷が負わされるというそうした困難が起こるのです。

 それは本来、信徒が負う必要のない全く無意味な困難であるにも関わらず、牧師がそれを「まさに神のための苦しみである」と、「それは神からの恵みである」と、無茶な要求を突き付けることがあるのです。

 マタイによる福音書においてイエスさまが祭司長や律法学者たちに対して言われたことばがあります。

 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(マタイ23:4)

 わたしたちキリスト者にとって、この世における労苦が、まさに「神の栄光のため」であるなら、それを喜びとすることもできます。ところが、そうした労苦が「悪魔の栄光のため」であるならそれは耐え難い屈辱です。

 そして、まさにそうした耐え難い屈辱に耐えかねて自らの命を絶つ方が実際に存在するのです。わたしはそうした方を、自分のこれまでの人生において知っております。

 そういう意味で、わたしは常に自らがそうした悪魔になることの無いように、常に、自分の弱さと向き合いつつ、神の助けを求めているのです。しかし、そのように気をつけていても、あるいは自分の無意識やあるいは自分の知らないところで、そうしたものに巻き込まれ、また自分が気づかないうちにそうした存在になっているかもしれないという可能性は常にあるのです。

 わたしたちがこの世において生きている限りにおいて、そうした罪やあるいは悪魔の誘惑から自由になることはありません。むしろ、わたしの場合でいえば、「牧師である」という事において、他の方々よりもはるかに危険性が高いのです。そして、そのうえで教会において「成功」「勝利」といったことは常に注意が必要ということです。特にそれが人間の努力によって導かれるものである場合、それは「達成感」「充実感」というおまけつきであることが多いのです。そして、その誘惑する力は非常に強力なのです。



 フィリピの信徒への手紙2章3~4節
3)何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4)めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 パウロがそうしたフィリピの教会の信徒に求めるのは信仰における「謙遜」です。牧師も信徒も神と人との前に謙遜であることが大切であるのです。

 フィリピの信徒への手紙2章15~16節
15)そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
16)命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 

 キリスト者にとって「清い者となる」ことは非常に基本的であり、重要です。パウロはそのようにしてい「神の子となる」ことをフィリピの教会の人たちに対して求めます。

 それは、具体的には日々聖書の御言葉に聞き、日ごとにイエス・キリストの御前に罪を告白し、悔い改めを行うという、そうした信仰生活であるのです。そして、キリスト者はそのようにして、この世において信仰者として、それぞれの生活を全うするのです。

 そして、牧師はそれを信徒に語る以前において、まず自身の生活において実践することが求められるのです。しかし、恥ずかしながら、わたしもそれが徹底できているかといえば、決して、徹底できておりません。

 その意味で、日々、神さまにそのことの助けを祈り求める、弱い者であるのです。

 牧師を「献身者」と言えば聞こえが良いですが、本当のところは社会不適格者であったわたしを神さまが信仰において牧師として救って下さったというだけなのです。その意味で、牧師として立てられていること以上の喜びは、わたしにはありません。

 話は変わりますが、わたしの好きなマタイ受難曲の中の一曲が65曲目の「Mache dich, mein Herze, rein,(わが心、清くあれ)」です(リンク先に歌詞も合わせて紹介されています)。
 
 http://pacem.web.fc2.com/youtube_bach/matthaus_2/64_dieskau.htm

 キリスト者の喜びは、まさにイエス・キリストによって罪から救われ、その命を与えられた事にあります。その喜びが本物であることがキリスト者にとって大切です。この喜びこそが、教会の喜びであり、わたしたちはそれによって、教会が本当の教会であるのか、それとも悪魔を崇拝しているような教会であるか、それを見分けることができるのです。