パウロの直筆による手紙としてテサロニケの信徒への手紙を見ました。厳密には、テサロニケの信徒への手紙2はパウロの偽名書簡として知られており、そういう意味ではテサロニケの信徒への手紙1の次はガラテヤの信徒への手紙となります。

 ガラテヤの信徒への手紙はパウロの個人的な救いの体験が記されていたりする、同じパウロについて記されている使徒言行録とはまた違った意味で興味深い手紙です。

 さて、この手紙において、パウロは自身の救いについて、特にそれが神によるものであることを最初に告白します。


 「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。 」(ガラテヤ1:1~2)

 「兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。」(ガラテヤ1:11~12)

 パウロにとって復活の主イエス・キリストとの出会いは、まさに「人々からでもなく、人を通してでも」ないものでありました。しかし、パウロはだからといって独学でキリストの信仰を得たのかというとそうではありません。

 ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。(使徒言行録9:10~11)

 しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。(使徒言行録9:27)


 使徒言行録の記述によればパウロをその信仰のはじめから導いたのはアナニアという弟子とバルナバという弟子でありました。

 しかし、パウロ自身の信仰告白としては、すなわちキリスト者アナニアとキリスト者バルナバがパウロにとって信仰的な指導者だったのですが、パウロの自己理解としては、アナニアとバルナバの導きによるのではなくそれはすなわち「神の導きであった」ということなのです。


 多くの教会では「福音宣教」という旗印を掲げ、まさにそれこそがこの世に生きるキリスト者に課せられた使命だとして、そのために教会を上げて取り組むということが少なくありません。

 「今は、聖霊の時代であり、まさに聖霊の助けによって、キリスト者は出て行ってすべての民に福音を宣教する時代である」と。

 教会の牧師をまさに一種の軍隊の長として、以下、個別の小隊を率いるリーダーを立て、あるいは様々な働きを割り当て、そうしたリーダーを長とする小隊を組織して、まさに教会全体がそうした「福音宣教」という使命を完遂するためのある種「軍隊」として教会を考えるやり方があるわけです。

 「福音宣教」を第一にして、まさに「福音宣教」のために存在する教会が、いわゆる最近よく話題にのぼる教会の形であるのです。

 それは一人一人の個性を活かし、まさに適材適所という言葉が似合うように、教会を一種の軍隊化するわけです。そこに求められるのは「上からの命令に対する絶対服従」であり、まさに教会員は「道具」であるわけです。

 能力主義・成果主義・絶対服従・滅私奉教会(あるいは滅私奉牧師?)・熱狂・騒乱・愉快・跳躍・感動・・・


 さて、こうしたものが求めているものは本当に「福音宣教」なのでしょうか?


 そうしなければ実現できない「福音」とは一体どういう福音なのでしょうか?


 イエス・キリストの福音がわたしたちにとって喜びであるというのは確かです。しかし、その「喜び」と、上記のものがもたらす「喜び」とは同一なのでしょうか?


 それは、たとえば以下のような御言葉を見ればわかるでしょう。

 「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:7)

 キリスト者が喜ぶ喜びとは、まさにそれは人間の肉の欲望による喜びでなく、それは「一人の罪人が神の御前に罪を悔い改める」ということによって引き起こされる喜びであるのです。

 すなわち、教会における喜びの根底にあるのは「主イエス・キリストによる罪の赦しの出来事」であって、常に、そこに基準があるのです。

 では、はじめに戻って、パウロの信仰のひとつの特徴は、確かに、直接的にはアナニアやバルナバといった、先に異邦人に対する福音宣教を行ったキリスト者たちによってはじめられたものですが、しかし、パウロ自身の信仰告白として「救いは神の導きによるもの」という確信がまずあったということなのです。

 だからこそ、パウロは「人々からでもなく、人を通してでもなく」と語るのです。それは言い方を変えれば、決して、アナニアやバルナバによって与えられた信仰ではないということなのです。

 つまり、福音宣教とは人間が努めてそれを行うものではなく、その本質において神の救いの御業であるのです。


 だとすると、先ほどのように牧師を頂点として、組織だって福音宣教を行うという、いわゆる教会の伝道の業、クリスチャンによる伝道の業というのは神の御前において一体どういうものなのでしょうか?

 それは教会の中では善として認識され、それを行う人は、「自分は神の御前に正しいことをした。神によろこばれる良いことをした。」という認識を得ることでしょう。


 しかし、それは神の御前においては、イザヤ書59章の以下の御言葉がよく示していると思います。

 イザヤ書59章1~4節
1)主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
2)むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
3)お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。
4)正しい訴えをする者はなく/真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り/労苦をはらみ、災いを産む。

 人間による伝道の業はそれがまさに神の御心に沿うものでない限り、それは行動において、「神には人間を救う力がない。」ということを証していることと同じです。それは、神を信じているようで、実は、神を否定する行為になっているのです。

 「日本ではクリスチャン人口が1%にも満たない。」「山陰は日本でもキリスト教の伝道困難地域だ。」というようなことを聞きます。

 もし、そう言う人が「自分は神を信じている」と自覚するのであれば、それは「自分は神を信じているが、神の力は信用していない。」と言っているのと同じです。

 むしろ、イザヤ書の言葉に聞き従うのであれば、山陰がキリスト教の伝道困難地域だというのは、山陰にあるキリスト教会が、本当の意味でイエス・キリストの福音に立脚していないということが問題なのかもしれません。

 それは教会の外の問題ではなく、むしろ教会の中の問題なのです。ノンクリスチャンが問題なのではなく、クリスチャンにこそ問題があるのです。

 先ほどの軍隊式のような教会をあげて福音宣教を使命とするやり方というのは、下手をすると、すなわち教会の中の人たちが正しく(あるいは、救われた人)、教会の外の人たちが間違っている(あるいは、救われていない人)という二元論的な価値観に支配されます。

 パウロは、ある人物が神によって信仰を持つのは、あるいは信仰に導かれるのは、まさに神の導きであると説明します。つまり、クリスチャンが教会に勧誘すること自体には極端なことを言えば意味がないのです。

 確かに、人間による宗教的勧誘によって、教会に来たことのない人が教会に来るきっかけを作ることはできます。しかし、その事と、その人が神との出会いを経験し、自分の罪を告白して救いに至るかどうかは神の導きによるものであって、そこには関係はないというのがパウロが告白するところなのです。

 むしろ、本当の意味でキリスト教会に求められるのは、次の御言葉にあるように神にすべてをおゆだねする信仰であるのです。

 主はモーセに言われた。「主の手が短いというのか。わたしの言葉どおりになるかならないか、今、あなたに見せよう。」(民数記11:23)

 わたしたちキリスト者は下手をすると福音宣教という事柄を通じて、まさに神に対して「あなたにはその能力がない。」ということを証していることになるのです。当然、それでは神の栄光があらわれるはずもありません。


 それどころか、「福音」という言葉を用いて、まったく宣教とは逆のことを行っているのです。

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(ガラテヤ1:6~7)

  パウロが生きていた当時、ガラテヤの地域、すなわち今日のトルコ共和国の東部地方において、ユダヤ主義に基づくキリスト教を伝える巡回教師のような人たちがいました。彼らの主張は、イエス・キリストをメシアと信じるけれども、しかし、ユダヤ教に基づく食物規定などの事柄もキリスト教の信仰に盛り込む必要があることを説いて回っていたのでした。

 キリスト教会は「福音宣教」という目的のために、あるいはプロテスタントという性質から「保守的」であることを罪として、「新しいこと」「改革」を美徳とする傾向があります。

 当然、変わるべきところは変えなければならないのですが、問題は「何を基準として、その変えること、変えないことを判断するのか」ということです。


 ちまたで良く聞くのは「~だから、教会に人が来ないのだ。」「~だから、教会に魅力がないのだ。」という言葉です。

 そして、当然のことのように、「~すれば、教会に人が来るようになる。」「~すれば、教会がもっと魅力的になる。」という議論が行われるのです。

 まあ、キリスト教会が「人間相手のサービス業だ」ということであれば、そうした議論も成立するでしょう。


 しかし、教会が神の教会であり、礼拝は神が主催されるものである限りにおいて、そうした人間を基準にして考えることは基本的に間違っています。

 教会はすべての人が招かれる礼拝の場でありますが、その目的は神を礼拝することです。

 それは、むしろ人間にとって時間を拘束され、行動を制約される、本能的には不快な出来事なのです。

 しかし、それを上回る喜びが、すなわち本来は神にまみえる資格を持たない、礼拝することを許されない罪深い人間が、イエス・キリストによって神を礼拝することを許されたという喜びの出来事(神との間に和解を得た出来事)であるのです。

 当然、礼拝は人間が「神を礼拝する」という口実で、自分たちが楽しむためのレクリエーションではありません。そして、当然、礼拝には「神を礼拝する喜び」以外の魅力はありません。

 つまりはそうした「参加者にとって魅力的な礼拝」というのは、神を礼拝するようでつまるところは偶像崇拝なのです。
  
 そして、神を神としない、偶像を神とする行為であり、極めて神の御前における重大な過ちであるということになるのです。
 
 
 たしかに、議論として「教会にもっと人が来るようになるためには?」「もっと魅力のある教会にするには?」といったことは議論としては可能です。しかし、パウロに言わせれば、そうしたイエス・キリストの福音と関係のないもの、あるいは指向する方向が異なるものは、まさに福音を覆すものにほかならないのです。

 「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」(ガラテヤ1:10)

 キリスト者が聞き従うべきなのは、まさにイエス・キリストの言葉であって、それ以外の誰かの言葉ではありません。パウロはそうした、キリスト者がイエス・キリスト以外の言葉に聞き従う(特に牧師はそのことに注意しなければなりません)のであれば、それはもはや「キリストの僕ではない」と言うわけです。

 そして、そうした信仰へと導くのはまさに神であり、人間ではありません。ガラテヤ書においてパウロが主張する救いとは「キリスト者の伝道による/キリスト者の宣教による」救いではなく、まさに「信仰により、神の導きによる」救いであるのです。

 それはキリスト教会においては基本中の基本でありますが、教会がまさに自己目的化するときに、むしろ、神の導きはどうでもよく、ただ教会が大きくなること、礼拝出席人数が増えること、礼拝献金が増えることが目的化されるのです。

 もちろん、牧師も信徒も「献金が増えることが目的です」「人数が増えることが目的です」ということを表向きに主張することには抵抗があるので、その別の言い回しとして、「福音宣教」という言葉が、教会の自己目的化の隠れ蓑になるのです。

 もし、信仰熱心であることを求めるのであれば、むしろ、日々の生活に努め、聖書を読むことと、神さまに対して祈りをささげることに熱心になればよいのです。

 週毎の礼拝こそがわたしたちの為すべきキリスト者としての証であり、神は礼拝に人を招き、礼拝において神の言葉が語られ、礼拝において救いを経験し、礼拝においてイエス・キリストの今もなお生きて働かれることを信じ、礼拝をもって、この世に対してイエス・キリストの福音を宣教するのです。

 それがキリスト者の生涯における中心的出来事であり、まさにパウロが目指した「信仰によって人は義とされる」ということを証明する唯一の方法であるわけです。