キリスト教会としての要件2】

 教会が教会であるために、今回はテサロニケの信徒への手紙2を見ます。

 「テサロニケの信徒への手紙2」は、パウロの名を冠した手紙ではありますが、その成立年代(80~90年代。つまりパウロの死後)を考慮すると、パウロが先にテサロニケの教会に対して宛てた第一の手紙に対して、こちらは後の人たち(パウロの弟子か?)が自分たちの教会の信仰として、この手紙をパウロの権威において書いたものと推測されます。
 ただ、ここでは文献としての問題は置いておき、そこに書かれている当時の教会における問題と、それに対する教えについてみていきたいとおもいます。


 テサロニケの信徒への手紙2 1章6~9節
6)神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、
7)また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。
8)主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。
9)彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。

 キリスト教の信仰において、今日あまり言われなくなったのが「終末/再臨」の信仰です。

 キリスト教の教義を勉強すると分かりますが、基本的に、今日のわたしたちも礼拝において「終末/再臨」を信じ、告白します。しかし、終末も再臨も共に、それは信仰的には神が行われる出来事である限りにおいて、「それが何時起こる」だとか、あるいは「起こらない」ということを、わたしたち人間は議論することもできません。
 そのため、新約聖書の時代に生きた人たちでさえ、「再臨は近い」、あるいは「再臨は起こらない」というような様々な教えがあり、当時のクリスチャンたちも「一体どうなのか?」と疑問に思ったのです。

 さて、では当時の信仰として、あるいはパウロの信仰として「終末/再臨」ということは起こるのか・起こらないかと言えば、答えは「起こる」であり、また、それは何時起こるのかということについては「神のみがご存じである」ということが了解されたのです。

 たとえば、それはイエスさまが弟子たちに言われた言葉、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 」(使徒言行録1:7)にある御言葉と同じであると思います。


 つまり、そうすると「終末/再臨」は、それが具体的にどういうものであるかということを人間が議論することは、ある意味で無意味であるということなのです。

 では、なぜ、そうした人間が議論することが無意味な「終末/再臨」を聖書は問題にするのでしょうか?

 上記のテサロニケの信徒への手紙2章の本文を読んでわかることは、すなわち、「終末/再臨」とは、それ自体が信仰の対象として問題なのではなく、それはむしろ、クリスチャンが自分たちの信仰の備えをしなければならない、その「最終期限」として説明されているのです。

 つまり、それはどういうことかと言えば、たとえばこの世においてクリスチャンであろうがなかろうが、この世においてすべての事柄には「終わりがある」ということなのです。そして、それは神さまが定めるものである限り、人間がその事象に対して何か遅くしたり、早くしたりできるかと言えば、それは不可能ということなのです。

 そして、ではそうした問いが無意味ということであれば、この「終末/再臨」の教えが意味するものは一体何なのでしょうか?

 それは、「終末/再臨」が神の権威に基づく、待ったなしの、取り返しのつかない「最終期限」としてこの世に設定される限りにおいて、つまり「わたしたちの信仰の生涯は、現在、執行猶予期間に過ぎない」ということなのです。

 この神によって定められた「最終期限」は、神による一つの真実の出来事であるわけですが、それは見方によっては大きく二通りの意味があるのです。それは、まさに「最後の審判」を意味する「終末」であり、そして、もうひとつは「イエス・キリストの再臨」であり、それは別の意味において最終的な慰めでもあるのです。

 たとえば、この世において苦しみを負う人にとって、この「終末/再臨」は、まさにそれが苦しみを負う人の上に実現する時に、彼は慰めを受けると共に苦しみから解放される時となるのです。 ところがそれは、逆に、そうした苦しみを負う人を虐げる人においては、まさに自分の犯している悪行の責任を追及される最後の審判の時となるわけです。
 つまり、傷害事件を例にあげれば、「終末・再臨」が指し示す第一義は、「加害者の自分の犯した罪に対する贖罪と被害者が受けた損害に対する補償」であり、第二義は、すなわち「今はまさに執行猶予期間である」ということであるのです。

 では、こうしたことは教会においてどういう意味があるのでしょうか?

 先ほどのテサロニケの信徒への手紙2の引用において「
そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。」とあります。

 おそらく、今日の教会でこの言葉が語られる時、「神を認めない者」「主イエスの福音に聞き従わない者」は、すなわち「教会の外の人」であり、「クリスチャンでない人」と教会の中では理解されるのではないかと思います。

 しかし、それは決して正しい読み方ではありません。

 先の引用の次の節において「
彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。」とあります。

 上記の下線で示した部分が示しているのは、すなわち、「神を認めない者」「主イエスの福音に聞き従わない者」とは、そもそも彼らは教会の中で、「主の面前」に存在し、その「栄光に輝く力」に繋がっている人物であるのです。
 そして、まさにそれはキリスト者であり、自ら「主イエス・キリストを信じる」と教会の中において告白する人物が、実は教会の中でその行いにおいて、生き方において「神を認めず」「主イエスの福音に聞き従わず」、しかも教会の中において同じ兄弟姉妹に対して悪を行っているということが意図されているのです。

 その意味で、「終末/再臨」を信じる信仰とは、「いつか神の裁きによって、あるいはイエスさまの再臨によって、この世が終わります。」ということを意味するだけでなく、むしろ、そうした意味よりも、イエス・キリストによって罪を赦されたキリスト者が、なお罪の中に留まり続けていることを憂慮し、「まだ時間があるうちに、猶予のあるうちに、自分の罪を悔い改め、兄弟姉妹と和解し、来たるべきその時において共に神の御許において永遠の平安に与ることができるようにしようではないか!」という信仰的な励ましのメッセージであるのです。

 旧約聖書のエゼキエル書33章11節に以下のような御言葉があります。

 「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」(エゼキエル書33章11節)

 神さまは、未信者や他の信仰を持つ人たちのことを問題にしません。むしろ、信仰者が救いに与ってなお、滅びてしまうことを憂えておられるのです。その意味で、「神の裁きの言葉」はまさに言葉のとおり「神が人間の滅びを願う」ということではなく、「滅んでほしくないから、このように強く言うのだ」ということであり、「神の御言葉を聞く」とは、まさに神の御心の内面を読み取るそうした作業でもあるのです。当然、それは聖霊の導きによるものであり、信仰者が自身の罪の悔い改めを積み重ねる事によって実現する神の導きであるのです。

 教会は、まさにそうした信仰者が共同体を組織することによって成立する「神の出来事」であり、ただ「建物」を指して、あるいは「集団」を指して「これが教会だ」とは言えないのです。

 ただ人間が集まり、礼拝のようなことをしているだけではそれは教会ではありません。

 仮に教会がそのようなものであれば、上記の御言葉にあるように、それは「お前たちの悪しき道」なのです。神の示される方向性は、当然、「立ち帰れ、立ち帰れ」ということであり、常にこの神(の言葉)に立ち帰る信仰こそが、教会を教会たらしめるものであるのです。

 そして、ここで肝心なことは決して「神の言葉=牧師の言葉」ではないということです。

 牧師が聖書を通じて語られる神の言葉に聞き従わなければ、その牧師が語る言葉は、ただ牧師の腹から出てくる欲望の言葉であり、罪の言葉なのです。たとえ、それが礼拝で説教として語られたとしても、それは決して「神の言葉」にはなり得ません。

 「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。」(イザヤ書55章8節)

 これはわたしが常に意識するようにしていることですが、信徒にとって牧師の語る言葉は、たとえそれがどんなにつまらない言葉であったとしても、それが礼拝における説教で語られる時、場合によっては信徒によってそれは神の言葉として聞かれてしまうのです。

 それは牧師にとって実に恐ろしいことです。牧師の語る言葉は常に神の言葉と聞き間違えられる可能性を持つのです。

 だからこそ、牧師は聖書の御言葉に、神の言葉が一体何であるかを聞くということに努めなければならないのです。

 牧師が自分の言葉をまさにそれが神の言葉であるとするのであれば、上記のイザヤ書の言葉のとおり、それは牧師として神に逆らうことになります。

 まだ、教会も信仰もまったく知らない人がその発言や行いにおいて神に逆らうのであれば、それは神さまにとって大きな問題にはならないでしょう。なぜなら、旧約聖書いおいて「知らない」ということは罪にはならないからです。

 ところが、すでに信仰を持ち、神の言葉に聞き従うという決意をもって神に献身した牧師が、神の言葉に聞き従わず、自分の言葉を神の言葉にするのであれば、それはどれほど重い罪になるかということです。

 その意味で、牧師は教会の中で誰よりも罪に対して敏感であることが求められます。しかも、それは教会員に対してではなく自分自身に対してです。

 牧師が率先して罪の告白をせず、また罪の悔い改めをしないのに、「自分は献身者だから」と、信徒に対してだけ罪の告白や悔い改めを求めるのであれば、それは子どもでも牧師のやっていることはおかしいと言うでしょう。

 牧師は牧師として偉くなるために牧師をするのではありません。福音宣教こそが牧師の存在意義であり、それは自分の考えを捨てて、神の言葉に聞き従うことによってはじめて実現するのです。

 わたしは藤沢で最初に牧師になった時に、「何か問題があったら、すぐにあやまろう。」ということを心掛けてきました。年齢が高くなれば、いろいろと社会的に、あるいは教会において責任が重くなると人間は謝ることが難しくなる。だからこそ、まだ牧師として初心者である内に、まだ年齢が若い内に、「何かあれば教会員に対して謝る」ということを心掛けたのです。

 しかし、それでもやはり教会の中では問題が起こります。わたしは出雲教会で6年目を迎えますが、しかし、その間において、ある方との関係が壊れてその方が教会を去ったことを経験しました。現在、まだその方との和解はできておりません。 自分ではそれだけ気を付けていても、やはり人間は完全ではありませんから問題が起こるのです。

  その意味で牧師は誰よりも自分の罪に対して敏感でなければ、決して、天国にいけるなどとは言えないのです。「信徒として天国に行くこと」と「牧師として天国に行くこと」とは、難しさの観点からみれば牧師の方が桁違いに困難なのです。

 既に牧師としてある今において、わたしの前にあるのは非常に困難な道です。しかし、まさに神がそれをわたしに望んでおられるのだと確信することにおいて、わたしは牧師として、自分の使命として誰よりも自分の罪に対して敏感であるよう、これからも務めていきたいと願うのです。



~~~追記~~~


 テサロニケの信徒への手紙2 3章8~15節
8)また、だれからもパンをただでもらって食べたりはしませんでした。むしろ、だれにも負担をかけまいと、夜昼大変苦労して、働き続けたのです。
9)援助を受ける権利がわたしたちになかったからではなく、あなたがたがわたしたちに倣うように、身をもって模範を示すためでした。
10)実際、あなたがたのもとにいたとき、わたしたちは、「働きたくない者は、食べてはならない」と命じていました。
11)ところが、聞くところによると、あなたがたの中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいるということです。
12)そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。
13)そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。
14)もし、この手紙でわたしたちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。
15しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい。 

 当時のテサロニケの教会は、先にパウロが指導した後、「終末/再臨」の信仰について、誤解があったことをこのところで訂正しています。

 それはどういうことかと言えば、先にパウロが指導した時に、人々は「終末/再臨」が「近い」ということをパウロの言葉から感じ取り、そして、そのように理解した人々は、「終末/再臨」が近いので、この世における社会生活を放棄して、教会の中に閉じこもり、ただ終末を祈り求めるという特異な信仰形態を持つグループが教会の中に起こったのです。

 当然、教会の中の人たちはそうしたグループとそうではない健全(パウロの指導に忠実な)な信仰を持つグループに分かれたのですが、問題は教会としての運営がそうした前者の存在によって脅かされる事態に陥っていたのです。

 そこでパウロは、自分自身がまだテサロニケの教会に滞在していた時に、決して、誰からも何もせず食べさせてもらったことがないように、すなわちその教会の働きをするために、パウロ自身も昼夜仕事をして教会の会計を支えたことを思い出しなさいと、また、その時に、「働きたくないものは、食べてはならない」と勧めたことを思い出すように教えたのです。

 しかし、それは決して、そうした「怠惰な生活を行う者を教会から排除せよ」ということではなく、あくまでも信仰を同じにする兄弟として、正しい信仰に復帰することができるようにと願ってのことであったのです。


 すなわち、教会の目標は「福音宣教」でありますが、それは実に危ういものであり、「福音宣教」のためなら「何をしてもよい」というふうに誤解される危険性が教会の中には常にあることを教えているのです。

 世にある教会で多くみかけるのは「宣教」を教会の主目的に持ってくるものです。

 それ自体、問題があるのではありませんが、教会を運営する上で、会計上どうしても礼拝出席や席上献金(礼拝の中で行われる自由献金)、月定献金(信徒が自主的に月ごとに教会に対して行う献金で、信徒としての献身の意味を持つ)の額が話に上ることがあります。

 そして、そこにあって教会の規模が小さいことが問題とされ、また教会が「大きくなること」が目標となることがしばしばなのです。

 わたしたちのナザレン教会も文部省管轄下にあり、毎年、活動報告・会計報告をしなければなりません。

 ところが、そうした一種の「この世的な縛り」が、教会に対して悪影響を及ぼす危険性を持つのです。 

 教会会計を透明化する意味において教会会計をきちんとすることは大切です。

 ところが、そうした社会的な公平性のためではなく、こうした働きが教会規模の拡大のために、いわば自社営利を目的とする会社などと同じように、 教会が教会組織の繁栄を自己目的化するときに間違った方向に向かいやすいのです。

 その意味で、「福音宣教」と「教会拡大」ということは同一目的のように思えますが、そこには注意が必要なのです。特に、これは指導的立場に立たされる牧師にとって常に気を付けなければと常々感じていることですが、「福音宣教」は教会の主目的・存在意義でありますが、「教会拡大」というのは結果的に、神の祝福により、神さまによって後から恵みとして与えられるものであるということなのです。

 たとえば、旧約聖書に次のようなくだりがあります。

 『主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった。主は、「イスラエルとユダの人口を数えよ」とダビデを誘われた。』(サムエル記下24章1節)

  サムエル記の最後において、神さまの誘惑によってダビデ王は(北)イスラエルと(南ユダ)の人口を調査することを計画し、実行します。

 長くなるのでごく簡単に説明しますと、神さまは王となったダビデに対して誘惑によって、その神を信じる信仰が正常かどうかを試みられました。その時にダビデは神の祝福に頼ることを止めて、この世的なものの考え方によって国力(人頭税による収入と兵士の男子の数)を調査するように部下に命令を出したのです。当然、このダビデの判断は神さまに対する反逆行為とされて、7万人の住民が命を落とす結果となったのです。

 すなわち、これを今日の教会になぞらえて言えば、「教会会計の透明化をはかる」ということはこの世において、キリスト教会が公平・正義をもって神と人との前に正しく歩んでいることの証になりますが、それを別の目的に用いることは神に対する反逆行為であり、非常に重い罪になるのです。

 特に、「福音宣教」が、「教会組織の拡大」ということを主目的にすることは神の御前における大きな罪であり、神さまは教会を指導する牧師に対して、そうした「誘惑」をもって、その信仰が常に正しいものであるように注意することを促しているのです。

 わたしたちは「福音宣教の拡大」ということを宣言し、そこに牧師も信徒も動員するということをもって「神の力を否定する」のです。

 「神を信じているはずの教会が、実は最も神を信じていない」という結末ほど教会にとって恐ろしい結末はありません。「神を信じる」とは、まさに「すべてを神におゆだねする」ということであって、それ以外の何ものでもありません。

 人間がなすべき業はまさにそれぞれが置かれた場所において、礼拝を通じて神をわたしたちの神と証することであって、神に教会を拡大する力がないから人間が努力し、頑張って福音を宣教することではありません。

 わたしたちクリスチャンは誰もが、「わたしは神さまによって教会に導かれた」ということを経験して知っています。つまり、それは人間の努力の結果ではないのです。

 まさに、こうした点が教会が本当の意味で教会であるための基本的事柄であって、神さまは常にそのところにおいて教会を、また牧師を信仰によって立つことができるかどうかを試みられるのです。

 それは教会が本当の意味で神の恵みと祝福に立ち続ける教会であるための神の憐みであって、また恵みであることを忘れてはならないのです。そして、そのことを見失った時に、教会はダビデが経験したように、神の裁きの御前において自分たちの犯したその過ちに対する責任をとることになるのです。