【キリスト教会としての要件1】

 教会が教会であるために、一体何が大切であるのか?

 いろいろと議論はありますが、ここではまず、聖書における「教会」がどのようなものであり、またそこにおいて、どのような教会の姿が求められているのか、聖書の記述をもとにこれから数回に分けて考えていきたいと思います。 

 まず、聖書の中で「教会」と訳されている言葉は、新約聖書に登場するギリシャ語の「ekklesia(エクレシア)」と言い「(神によって)呼び集められた者たち」というような意味があります。つまり、この語が意味するのは、当然、キリスト教信仰をもつ者が、ただ人間の思惑によって集合した集合体ではなく、まさに神によって、神の言葉によって、そして、神の言葉に基づき、そこで形成される信仰共同体のことを「教会」と呼ぶことがわかると思います。
 その意味で、「教会」は「公」の性格を持ち、そこでは牧師や信徒といった役割の違いこそあれ、それはあくまでも階級や順位ではなく、ひとしくイエス・キリストを頭とする公平な共同体であるのです。



 さて、では新約聖書において「教会」という言葉がどこに出てくるかといえば、たとえばマタイによる福音書から順番に見ていきますと以下の聖書箇所に「教会」という言葉が登場します。

 「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ16:18)

 「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」(マタイ18:17)


 もちろん、それ以外にも使徒言行録やローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙といったところ(その他もあり)で、「教会」という言葉が登場します。

 しかし、少し考えてみると分かりますが、「教会」とは生前のイエスさまが指導し立ち上げた組織ではなく、当然、使徒言行録2章におけるペンテコステの出来事以後に成立した信仰共同体であるとみるのであれば、このマタイによる福音書の記述は、生前のイエスさまが発した言葉というよりも、その後、すなわち紀元80年から90年にかけてマタイによる福音書を記した人たちがイエスさまの口によって語られた言葉として、自分たちの信仰を告白した言葉として見ることが普通であると思います。

 すなわち、紀元80~90年ごろには当然、「キリストの教会」というものが存在していたのです。



 では、新約聖書に含まれる文書の成立年代を考慮するのであれば、マタイによる福音書は紀元80~90年代ということになるので、それよりも以前に成立したものといえばテサロニケの信徒への手紙1(紀元50年の前後と推測される。なお、イエスさまの十字架は紀元30年ごろ。)など、パウロの自筆による手紙が最も時代的には古く、そこで用いられている「教会」に着目することによって、初期の頃の「教会」の様子をうかがい知ることができると思います。

~~~2014.8.14.追記~~~

 以下、テサロニケの信徒への手紙1からはじまって、パウロの直筆による手紙から話を進めていきますが、ここで紹介する文書の紹介、順番については、『新約聖書』(ゲルト・タイセン著、大貫 隆訳、教文館)に準拠します。

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 そこで、新約聖書におけるパウロの著作で最も古いものがテサロニケの信徒への手紙1ですのでこれをみていきたいと思います。なお、全文を引用すると長くなるので部分的に抜粋しながら話をしますが、パウロは以下の本文でも語っているように、福音宣教は決して楽しいものでも、安全なものでもありませんでした。

 パウロもそうした危険と困難の中、福音宣教を行ったのですが、それと同じようにテサロニケの教会の人々も苦労し、そうした宗教的な迫害の中においてテサロニケの教会の人たちを勇気づけるために、パウロはこの手紙を記したのでした。聖書の本文に対して少しわたしなりの注釈をつけながら説明します。


 テサロニケの信徒への手紙1 1章5~7、9~10節
~~~現状の報告~~~
5)わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
6)そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
7)マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。

~~~信仰の核心について~~~
9)彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
10)更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。


 パウロの福音宣教においてここで言われている大切な点は、テサロニケの教会が、まず主イエス・キリストを信じる信仰において非常に模範的であったということです。

 それは、テサロニケの教会の人たちの信仰が単なる口先だけのものではなく、有言実行であり、常に神の御前における真実を追及していた点にあるのです。当然、そのことは人間的な、あるいはこの世的な能力によるものではなく、真実を伴った行動と、聖霊の助け、イエス・キリストを主とする強い確信、すなわちイエス・キリストの御前において自分自身の罪を告白し、日々罪を悔い改めるという、その基本的な信仰の姿勢を貫いていたことが、テサロニケの教会が、まさにマケドニア州とアカイア州においてすべての信仰者の模範となったと説明するのです。

 では、そうした信仰の中身は一体何でしょうか?

 パウロはそれに続けて、すなわち「わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか」、つまりテサロニケの教会の人たちはパウロの語る神の言葉を素直に、忠実に聞き従い、パウロとパウロの言葉を受け入れ、自分たちのそれまでの生活のあり方を改め、主イエス・キリストの御前における罪の告白と罪の悔い改めを通じて、偶像にすぎない自分たちの欲望を捨て、何よりもまず神の言葉に聞き従うことを求め、聖霊を通して働かれる生けるまことの神であるイエス・キリストの言葉に聞き従う信仰を得て、来たるべき裁きの時に、決して、信仰者でありながら天からの火によって滅ぼされることのないように、イエスを主として、すなわち日々、主イエスのみ名によって罪の赦しを求める悔い改めの生涯へと導かれたことを説明するのです。

 パウロはそうした教会の福音宣教の業が、いわゆる「勧誘活動」ではなく、「主に倣う者となること」によるものだということを強調します。
 
 パウロにおける「宣教/伝道」とは、「人間による勧誘」ではなく、それが「神の導き」である点にあります。その意味で、わたしたちキリスト者が為すべき宣教の業・伝道の業とは、まさに「主に倣う者になること」であり、それは他の人たちに対して「(神を信じる者としての)模範」となることであり、決して、「キリスト教の価値観を絶対のものだとして、他人に押し付けること」ではありません。

 そのことは使徒言行録の以下の記述からも明らかです。


 使徒言行録2章46~47節
「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」

 キリスト者が為すべき業、すなわち、それは他の人々から好意を寄せられるものであり、しかもそうした教会に人を招き導くのは牧師でも信徒でもなく「神である」ということなのです。

 その意味で、礼拝出席や献金の金額など、そういったこの世的なものを目標として教会活動を行うというのでは、それでは本末転倒ということになるのです。確かに、営利を目的とする会社などではそれでも良いかもしれません。しかし、教会がそれを行うのであれば、結局のところ教会もこの世的な会社も同じということになり、たとえどんなに人が多く集まったとしても、それは教会としては失格ということになります。

 パウロはそうした窮乏の中にあって、自分は説教だけに専念し、教会員に「もっと献金をささげなさい」と呼びかけたかというとそうではなく、パウロは自ら働いて生計を立てながらみんなと同じように苦しみを分かち合いながら、その上でテサロニケの教会に仕えたのでした。その意味で、そうした副業を持たずに牧師ができるということは、実に恵まれたことなのです。



 テサロニケの信徒への手紙1 2章1~10節
~~~あいさつ~~~
1)兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。
2)無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。

~~~パウロの宣教の目的~~~
3)わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。
4)わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。

~~~パウロの信仰の姿勢1~~~
5)あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。

 ここでパウロは自分たちの宣教の目的が、決して「自分が偉くなりたい」とか、「教会を大きくしたい」とか、「人数を増やしたい」とか、「献金を多くしたい」といったような、迷いや不純な動機に基づくものでなく、また、そうした自分の本音を隠して、表面的に他人をごまかして、あたかも良い信仰者のようなふりをして宣教を行ったのではありません。

 パウロがなぜ福音宣教を行うのか、その根本的な動機は、まさにパウロの福音宣教という業が、神によって認められ、許可されたものであり、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるということをゆだねられているという確信に基づくからこそ、バカ正直に罪の告白と罪の悔い改めを生活の中で実践しているのです。

 その意味で、パウロはまさに常に、自分を神さまの御前に置き、その裁きの座に明らかにし、自身の罪を告白し、罪を悔い改めるということを生活の中で実践したのです。

 それは当然、誰か金持ちを信仰者に導きいれ、そのお金を口実を設けてかすめ取ったりするためでないことは、まさに神が証してくださいますと正直に語っているとおりです。



~~~パウロの信仰の姿勢2~~~
6)また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。

~~~パウロの信仰の姿勢3~~~
7)わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、
8)わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。

 また、パウロは決して、テサロニケの教会の人たちから名誉職としてあがめられたり、あるいは教会の外の人たちに対しても、決して、社会的に高い評価を受けることを求めませんでした。むしろ、そうしたこととは無縁であることに徹したのです。

 なぜなら、パウロたちは、まさに復活のイエス・キリストの使徒として、自分たちの権威を教会の中にも外にも、それを主張し、知らしめ、誇ることができたのです。しかし、パウロたちは、テサロニケの教会に訪れたときに、むしろ、そうした自分の使徒としての権威を教会員に誇示することなく、むしろ、自分をテサロニケの教会の中においてはもっとも小さい幼子のようなものとして、決して、威圧的に権威を振りかざすようなことをせず、むしろ、母親がその子どもを大事に育てるように、パウロはテサロニケの教会のひとりひとりを大切に思っていたので、ただ、礼拝において神の福音を言葉で伝えるだけでなく、むしろ、信徒が危険な状態にある時は、パウロは自分の命さえ喜んで与えたいと願うほどに、教会員ひとりひとりのことを大切に扱ったのです。なぜなら、パウロにとってテサロニケ教会の教会員ひとりひとりは、まさにパウロにとって信仰によって愛する兄弟姉妹となったからなのです。


~~~パウロの信仰の姿勢4~~~
9)兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。
10)あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。
 
  しかも、パウロはそうした他の地域にまで模範的な教会として知られるようになった教会が、実は経済的に非常に大変であり、そこにおいて教会員のだれにも負担をかけないように夜も昼も働き、自力で生活をしながら、その上で神の福音をテサロニケの教会の人たちに対して語ったのでした。

 つまり、パウロは自分の生活のために教会を興したのではなく、あくまでも、福音宣教こそが彼の信仰によって与えられた人生の最大の目的であり、その目的の実現のために、彼は教会員に対して献金を呼びかけたり、さらには教会員からお金をだまし取ったりすることなく、自分で牧師以外の仕事をしつつ福音宣教を行ったということなのです。

 そうしたパウロの苦労は、信者のだれもが知っていることだし、しかも、テサロニケの教会の中で、自分たちがどれほど神の言葉に照らして信仰的に正しく、信徒の人たちから非難されることのないように努めたか。そのことはテサロニケの教会の皆さんも陰ながら知っているし、実に、そのように神の言葉に忠実に聞き従ってきたことを神が証してくださることでしょう。

 


 さて、ここまでくると、なんとなく教会において大切なことが何かということがわかってきます。

 教会には牧師や信徒、役員会、執事、その他いろいろな役割があります。そうした組織については教会ごとに異なりますし、ナザレン教会の中だけでもいろいろと違いがありますので、そうした話が複雑になることは置いておきます。そうした上で、先ほどのテサロニケの信徒への手紙1におけるパウロの記述によるのであれば教会が教会であるために大切なことは以下のとおりです。

 ・礼拝が礼拝としてきちんとされていること。
 ・牧師も信徒も信仰の基本がキチンとなされていること。
 ・牧師は聖書の御言葉を通じて神の言葉に聞き従っていること。
 ・信徒ひとりひとりに対する牧師による配慮がなされていること。
 ・牧師も信徒も真実をもって互いに相手を尊重し合っていること。


 こうしてみると パウロが言っていることは別に何も特別なことはありません。それらはキリストによって救われた者として、またキリストによって救われた者たちが形成する教会としては、実に平凡なものです。ところが、この「平凡であること」が実にキリスト教会においては難しいと言わざるをえないのが、今日のわたしたちを取り巻く状況であると言えるのです。

 次回は、テサロニケの信徒への手紙2を見ていきたいと思います。