パウロは先に記したコリント教会の教会員に宛てた手紙において、コリント教会の内部における信仰的な違いによる不一致について、そうした教会員ひとりひとりの思惑を捨てて、イエス・キリストが示してくださった愛に基づいて、一致して教会を建て上げていく(もちろん、人間の業ではなく神の恵みによって)ことを勧めました。
そして、そのあとコリントの教会を再訪することになるのですが、問題はパウロが、アポロや他の十二使徒の教会からの宣教者たちと比較される時に、パウロは、アポロのような雄弁家の賜物(カリスマ)もなく、また十二使徒の教会からの宣教者たちのような、直接、イエス・キリストと結びつく何かしらの印のようなものを一切持ち合わせていませんでした。
ましてや、パウロは持病をもっており、そういう意味では、他の使徒たちが「いやし」といった奇跡を行ったり、あるいは異言を行ったりするのに対して、むしろいわゆる他の使徒や宣教者たちが身に着けている賜物、すなわちカリスマを一切持ち合わせていなかったのです(あるいは、そういったことを自身の宣教においては一切行わなかった)。
そうした事から、コリント教会の信徒の間でパウロの使徒としての資質に対する疑義が起こったのです。
そうした背景から、パウロは再度、コリント教会の人たちに対して手紙を送り、そうしたコリント教会の信徒たちに対して自分が正しく「神の御前においてきちんとした使徒である」ということを弁明すると共に、それによってコリントの教会の人々との和解を願って綴った文書というかたちをとっています。
パウロがなぜ、コリントの教会において「使徒」として存在できるのか?
それはパウロがガラテヤの信徒への手紙の冒頭で記しているように、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ1:1)、すなわち、パウロはコリントの教会において、教会の創立者であると共に、自身の信仰告白として、すなわちあくまでも「自称使徒」であったのです。
アポロや他の十二使徒の教会からの福音宣教者(キリスト教をユダヤ教の中に位置づけようとする教会指導者)たちの言葉によって、コリント教会の教会員たちはパウロに対する疑心暗鬼に陥り、中にはパウロに対して侮辱の言葉を浴びせる人々(たとえばコリントⅡ 10:10『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。』)が起こり、パウロはコリントの教会にあって使徒としての立場を立証する必要に迫られました。
そこでパウロは、自分自身が「正真正銘の使徒である」という根拠を、「実際的な神の助け」、すなわち福音宣教者としての苦難において、神がそれを助けて下さった事の証をもって、自分自身がまさに神さまによって使徒とされていることの根拠においたのです。
すなわち、パウロが「偽物の使徒」であれば、パウロは神と人に対して嘘を言っている事になるので、当然、使徒としての活動が続けられることもなく、神を冒涜している行為になるので神さまによって助けられることはなく、死んでしまうであろう。
ところが、パウロはこれまでの福音宣教者としての人生において、数多くの困難(コリントの信徒への手紙Ⅱ 11:11~33)において、神さまの導き、助けによって命を守られてきた。すなわち、こうしたパウロの福音宣教者としての数多くの苦労が、パウロが真にイエス・キリストによって使徒とされたことの根拠になっている、という事なのです。
そこで、パウロはそうした事がらを踏まえて、コリントの教会がまさにイエス・キリストの教会として、今、直面している問題に対して、信仰によってこの困難を乗り越え、パウロ自身がまさに神さまの助けによって使徒と証明されたように、パウロとコリント教会とのギクシャクした関係を修復し、すなわち、イエス・キリストがその救いによって神と人との関係を和解させてくださったように、パウロとコリント教会の間を「イエス・キリストが与えてくださった聖霊の助けによって、愛によって、和解に至ろう」とコリントの教会の教会員に勧めるのです。
さて、大枠は上記のとおりとして、以下に個別的に聖書箇所を見ていきたいと思います。
コリントの信徒への手紙2 2章5~11節
教会がまさにキリストの教会であるために大切なことは、まさにイエス・キリストがわたしたちの罪を赦してくださったその出来事に倣い、わたしたち自身もそのことを覚えつつ、自分たちもまた神の御前において同じ罪人であるとの自覚の上に、互いにゆるし合うということが大事です。
それはキリスト教信仰における基本的な事柄ですが、キリスト教会の中では案外にも難しい事柄です。
なぜなら、キリスト教信仰は、常に神の御心を求める点において、それは言い方を変えれば、信仰における「正義・正しさ」を求めるからです。
つまり「何が神の御前に正しいのか?」という信仰の視点は常に「正しさ」を求め、それは例えるなら「誰が正義で誰が悪か?」という考え方に陥るからです。
本来、キリスト教の信仰において、あるいは聖書において、正義・正しさは常に「神さまに属するもの」であって、当然、人間がそれを保有することはできません。
ところが、キリスト教会においては多くの場合、「キリスト教を信じる=正義」という構図で説教がなされ、それは同時に、「自分たち・教会(牧師?)=正義」というような価値観を信徒に押し付けるのです。
たとえば、旧約聖書のダニエル書9章に以下のような記述があります。
ところが、キリスト教会においては、イエス・キリストの救いによって、人間に対するイエスさまの「近接さ」が、あたかもそれが事実、本当に自分自身と神とが同じ立場に存在するかのような誤解を招いているのです。
つまり、信仰者が、まさに「自分は神と同じ側にあり、神によって正義をいただいている」というような感じに自己理解をするようになる。ところが、神の御前に、こうした信仰ほど傲慢な信仰はないわけです。
むしろ、それはイエス・キリストの救いが「わたしたち罪人に対する憐み」である限りにおいて、例えば、「神の子とされた」とは、それは「事実そうされたのだ」ということ以上に、「信仰者に対する憐みと慰めの言葉である」という理解が大切なのです。
だからこそ、キリスト者は、あくまでも「イエス・キリストの救いによって罪を赦された罪人である」という自己理解が非常に大切なのです。わたしたちキリスト者はイエス・キリストの救いに与って神の子とされるわけですが、神の子とされるとは、すなわち「わたしは神の側に立つ人間だ」ということではなく、「神との関係において罪を赦された者として、日々罪を告白し、罪を悔い改めつつ歩むことが求められている」ということなのです。
『イミタチオ・クリスティ』(邦題:「キリストに倣いて」)という本がありますが、ホーリネスやナザレン教会の信仰である「聖化」とは、すなわちそうした神の御前において常に信仰的に謙遜であり続けようとする、神の御前に真実に生きようとする者の生き方であるのです。
だからこそ、わたしたちは「神の子とする」という神さまの言葉に対して、むしろ、「キリスト者として当然です」とそれを受け取るのではなく、むしろ、「いえ、決してそのような事はありません。わたしはイエスさまに対して多くの罪を犯した者です。ただ、罪深いわたしを憐れんでくださり、ありがとうございます。」と告白することが、キリスト者としての大切な自己理解でないかと個人的には思います。
その意味で、カトリック教会にあるキリエ(・エレイソン)の祈り、「主よ、(罪深いわたしを)憐れんでください。」という祈りは大事です。
神さまに対して「わたしを救いなさい」と命令することなく、神さまに対して、わたしを憐れんでくださる事を願うことを通じて、神さまの判断・決断として、憐れんでくださり、救いを与えてくださることに信頼するという祈りであるからです。
「救ってください。」「助けてください。」という祈りは、一見すると信仰的に何の問題もないように思えますが、しかし、それは神さまに対して下手に出た人間の、神さまに対するわたしを「救え」「助けろ」という命令以外の何物でもないのです。
話がだいぶそれましたが、パウロはそうしたコリント教会の中にあって、起こった人間関係の破たん、すなわち教会の中で加害者・被害者・審判者という対立関係が起こった事について、深い憂慮を覚えると共に、教会員の人たちに対して既にそうした教会員が加害者・被害者・審判者になることによって発生した関係性の破たんを、イエス・キリストの御前において罪を告白し、誰が正しく・誰が間違っているということを明らかにすることよりも、むしろ、神の御前において一人ひとりが自分たちの加害者としての罪、また被害者としての罪、そして審判者としての罪を告白し合い、すべてを神の御前に真実を明らかにすることによって、真の和解へと、神さまの導きによって導かれることを勧めるのです。
コリントの信徒への手紙2 2章14~17節
そして、そのあとコリントの教会を再訪することになるのですが、問題はパウロが、アポロや他の十二使徒の教会からの宣教者たちと比較される時に、パウロは、アポロのような雄弁家の賜物(カリスマ)もなく、また十二使徒の教会からの宣教者たちのような、直接、イエス・キリストと結びつく何かしらの印のようなものを一切持ち合わせていませんでした。
ましてや、パウロは持病をもっており、そういう意味では、他の使徒たちが「いやし」といった奇跡を行ったり、あるいは異言を行ったりするのに対して、むしろいわゆる他の使徒や宣教者たちが身に着けている賜物、すなわちカリスマを一切持ち合わせていなかったのです(あるいは、そういったことを自身の宣教においては一切行わなかった)。
そうした事から、コリント教会の信徒の間でパウロの使徒としての資質に対する疑義が起こったのです。
そうした背景から、パウロは再度、コリント教会の人たちに対して手紙を送り、そうしたコリント教会の信徒たちに対して自分が正しく「神の御前においてきちんとした使徒である」ということを弁明すると共に、それによってコリントの教会の人々との和解を願って綴った文書というかたちをとっています。
パウロがなぜ、コリントの教会において「使徒」として存在できるのか?
それはパウロがガラテヤの信徒への手紙の冒頭で記しているように、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ1:1)、すなわち、パウロはコリントの教会において、教会の創立者であると共に、自身の信仰告白として、すなわちあくまでも「自称使徒」であったのです。
アポロや他の十二使徒の教会からの福音宣教者(キリスト教をユダヤ教の中に位置づけようとする教会指導者)たちの言葉によって、コリント教会の教会員たちはパウロに対する疑心暗鬼に陥り、中にはパウロに対して侮辱の言葉を浴びせる人々(たとえばコリントⅡ 10:10『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。』)が起こり、パウロはコリントの教会にあって使徒としての立場を立証する必要に迫られました。
そこでパウロは、自分自身が「正真正銘の使徒である」という根拠を、「実際的な神の助け」、すなわち福音宣教者としての苦難において、神がそれを助けて下さった事の証をもって、自分自身がまさに神さまによって使徒とされていることの根拠においたのです。
すなわち、パウロが「偽物の使徒」であれば、パウロは神と人に対して嘘を言っている事になるので、当然、使徒としての活動が続けられることもなく、神を冒涜している行為になるので神さまによって助けられることはなく、死んでしまうであろう。
ところが、パウロはこれまでの福音宣教者としての人生において、数多くの困難(コリントの信徒への手紙Ⅱ 11:11~33)において、神さまの導き、助けによって命を守られてきた。すなわち、こうしたパウロの福音宣教者としての数多くの苦労が、パウロが真にイエス・キリストによって使徒とされたことの根拠になっている、という事なのです。
そこで、パウロはそうした事がらを踏まえて、コリントの教会がまさにイエス・キリストの教会として、今、直面している問題に対して、信仰によってこの困難を乗り越え、パウロ自身がまさに神さまの助けによって使徒と証明されたように、パウロとコリント教会とのギクシャクした関係を修復し、すなわち、イエス・キリストがその救いによって神と人との関係を和解させてくださったように、パウロとコリント教会の間を「イエス・キリストが与えてくださった聖霊の助けによって、愛によって、和解に至ろう」とコリントの教会の教会員に勧めるのです。
さて、大枠は上記のとおりとして、以下に個別的に聖書箇所を見ていきたいと思います。
コリントの信徒への手紙2 2章5~11節
5)悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
6)その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
7)むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
8)そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
9)わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。
10)あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
11)わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
教会がまさにキリストの教会であるために大切なことは、まさにイエス・キリストがわたしたちの罪を赦してくださったその出来事に倣い、わたしたち自身もそのことを覚えつつ、自分たちもまた神の御前において同じ罪人であるとの自覚の上に、互いにゆるし合うということが大事です。
それはキリスト教信仰における基本的な事柄ですが、キリスト教会の中では案外にも難しい事柄です。
なぜなら、キリスト教信仰は、常に神の御心を求める点において、それは言い方を変えれば、信仰における「正義・正しさ」を求めるからです。
つまり「何が神の御前に正しいのか?」という信仰の視点は常に「正しさ」を求め、それは例えるなら「誰が正義で誰が悪か?」という考え方に陥るからです。
本来、キリスト教の信仰において、あるいは聖書において、正義・正しさは常に「神さまに属するもの」であって、当然、人間がそれを保有することはできません。
ところが、キリスト教会においては多くの場合、「キリスト教を信じる=正義」という構図で説教がなされ、それは同時に、「自分たち・教会(牧師?)=正義」というような価値観を信徒に押し付けるのです。
たとえば、旧約聖書のダニエル書9章に以下のような記述があります。
『わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。』(ダニエル書9章4~5節)
ダニエルは当然、神を信じている点において「信仰者」なのですが、そのダニエルは神さまに対して、イスラエルの過去における罪の歴史を振り返りながら、自分自身をそうした罪深いイスラエルの人々と同じ場所におき、すなわち、自分自身もまた神の御前に罪人のひとりであるという信仰的な自己理解に立つのです。
言葉で説明すると分かりにくくなるので以下に図で示します。
旧約聖書において、特に預言書に見る信仰者の自己理解は、自分がいくら信仰者であったとしても、神の御前に正しい者であったとしても、人間が自分で神の御前において「自分は神の側に存在する」などとは信仰的には絶対に言わないのです。
なぜなら、創世記においても示されているように、神は創造主であって、人間は被造物に過ぎません。その意味で、神と人間との間には大きな隔たりがあって、その隔たりがまさに罪(図では示してありませんが、左右の四角の間の空間です)であり、そうした隔たりを考慮すれば、人間は神の御前に信仰者であろうとなかろうと本質は同じなのです。
だからこそ、旧約聖書においては、自分たちが神の側に立つような表現はまず出てきません。なぜなら、人間が神の側に立つということを神の御前において主張することほど神の御前に恐れ多いことはないからです。その点で、新約聖書においてイエスさまがご自分を神の子とした点についてユダヤ人たちが「神を冒涜している」と発言するのは、「イエスさまが神の独り子である」ということを抜きにして考えれば、それは至極当然のことなのです。
ですから、預言者イザヤが神さまから召命を受けるときに言った言葉は、まさに上の図と共通するのです。
イザヤ書6章5~7節
イザヤは神さまから召命を受けた時、祭司をしていました。すなわちイスラエルの信仰においては神の御前に罪を清められている存在であるにも関わらず、イザヤは自分自身が罪にけがれており、しかも、自分は罪にけがれた人々の中に生活しているような人間であることを、神の御前に告白するのです。ダニエルは当然、神を信じている点において「信仰者」なのですが、そのダニエルは神さまに対して、イスラエルの過去における罪の歴史を振り返りながら、自分自身をそうした罪深いイスラエルの人々と同じ場所におき、すなわち、自分自身もまた神の御前に罪人のひとりであるという信仰的な自己理解に立つのです。
言葉で説明すると分かりにくくなるので以下に図で示します。
旧約聖書において、特に預言書に見る信仰者の自己理解は、自分がいくら信仰者であったとしても、神の御前に正しい者であったとしても、人間が自分で神の御前において「自分は神の側に存在する」などとは信仰的には絶対に言わないのです。
なぜなら、創世記においても示されているように、神は創造主であって、人間は被造物に過ぎません。その意味で、神と人間との間には大きな隔たりがあって、その隔たりがまさに罪(図では示してありませんが、左右の四角の間の空間です)であり、そうした隔たりを考慮すれば、人間は神の御前に信仰者であろうとなかろうと本質は同じなのです。
だからこそ、旧約聖書においては、自分たちが神の側に立つような表現はまず出てきません。なぜなら、人間が神の側に立つということを神の御前において主張することほど神の御前に恐れ多いことはないからです。その点で、新約聖書においてイエスさまがご自分を神の子とした点についてユダヤ人たちが「神を冒涜している」と発言するのは、「イエスさまが神の独り子である」ということを抜きにして考えれば、それは至極当然のことなのです。
ですから、預言者イザヤが神さまから召命を受けるときに言った言葉は、まさに上の図と共通するのです。
イザヤ書6章5~7節
5)わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6)するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7)彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
ところが、キリスト教会においては、イエス・キリストの救いによって、人間に対するイエスさまの「近接さ」が、あたかもそれが事実、本当に自分自身と神とが同じ立場に存在するかのような誤解を招いているのです。
つまり、信仰者が、まさに「自分は神と同じ側にあり、神によって正義をいただいている」というような感じに自己理解をするようになる。ところが、神の御前に、こうした信仰ほど傲慢な信仰はないわけです。
むしろ、それはイエス・キリストの救いが「わたしたち罪人に対する憐み」である限りにおいて、例えば、「神の子とされた」とは、それは「事実そうされたのだ」ということ以上に、「信仰者に対する憐みと慰めの言葉である」という理解が大切なのです。
だからこそ、キリスト者は、あくまでも「イエス・キリストの救いによって罪を赦された罪人である」という自己理解が非常に大切なのです。わたしたちキリスト者はイエス・キリストの救いに与って神の子とされるわけですが、神の子とされるとは、すなわち「わたしは神の側に立つ人間だ」ということではなく、「神との関係において罪を赦された者として、日々罪を告白し、罪を悔い改めつつ歩むことが求められている」ということなのです。
『イミタチオ・クリスティ』(邦題:「キリストに倣いて」)という本がありますが、ホーリネスやナザレン教会の信仰である「聖化」とは、すなわちそうした神の御前において常に信仰的に謙遜であり続けようとする、神の御前に真実に生きようとする者の生き方であるのです。
だからこそ、わたしたちは「神の子とする」という神さまの言葉に対して、むしろ、「キリスト者として当然です」とそれを受け取るのではなく、むしろ、「いえ、決してそのような事はありません。わたしはイエスさまに対して多くの罪を犯した者です。ただ、罪深いわたしを憐れんでくださり、ありがとうございます。」と告白することが、キリスト者としての大切な自己理解でないかと個人的には思います。
その意味で、カトリック教会にあるキリエ(・エレイソン)の祈り、「主よ、(罪深いわたしを)憐れんでください。」という祈りは大事です。
神さまに対して「わたしを救いなさい」と命令することなく、神さまに対して、わたしを憐れんでくださる事を願うことを通じて、神さまの判断・決断として、憐れんでくださり、救いを与えてくださることに信頼するという祈りであるからです。
「救ってください。」「助けてください。」という祈りは、一見すると信仰的に何の問題もないように思えますが、しかし、それは神さまに対して下手に出た人間の、神さまに対するわたしを「救え」「助けろ」という命令以外の何物でもないのです。
話がだいぶそれましたが、パウロはそうしたコリント教会の中にあって、起こった人間関係の破たん、すなわち教会の中で加害者・被害者・審判者という対立関係が起こった事について、深い憂慮を覚えると共に、教会員の人たちに対して既にそうした教会員が加害者・被害者・審判者になることによって発生した関係性の破たんを、イエス・キリストの御前において罪を告白し、誰が正しく・誰が間違っているということを明らかにすることよりも、むしろ、神の御前において一人ひとりが自分たちの加害者としての罪、また被害者としての罪、そして審判者としての罪を告白し合い、すべてを神の御前に真実を明らかにすることによって、真の和解へと、神さまの導きによって導かれることを勧めるのです。
コリントの信徒への手紙2 2章14~17節
14)神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
15)救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
16)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
17)わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
パウロはコリント教会がまさにイエス・キリストを礎とする教会であるために、 先の教会の中における内部分裂という出来事をまさにイエス・キリストの救いに基づいて、この出来事を神さまの導きによって実現することを通じて、キリスト教会は、常に「キリストの勝利の行進」、すなわちまさにイエス・キリストの御名が褒め称えられることを通じて、「キリストを知るという知識の香り」を、コリントの教会の人々が、あたかも自分たちの信仰生活を通じて、その生き方、神の御前における真実な生き方を通じて、自分自身の罪を知るという「キリストを知る知識」の香りを放つようであれと、勧めるのです。
その意味で、キリスト教会とは、まさに正義を主張するところではなく、人間の罪、すなわち人間の弱さが告白されるところであり、その人間の弱さに対して神さまの憐み、助け、祝福が注がれる場所である限りにおいて、神の御前においてそれは正しい事であり、この「自分たちは神の御前において罪深く、間違っている」という正しく神を知ることによって、キリスト教会はこの世において正しくあることができるのです。
そうした、「キリスト教的な正しさ」、すなわち、「罪の告白(わたしたちは神の御前において、語られる神の御言葉によって間違っている)」は、 当然、罪によって滅んでいく者にとっては愚かなもの、すなわち「滅びる者には死から死に至らせる香り」であり、しかし、同時にキリスト者にとっては、「キリスト教的な正しさ」「罪の告白」とは、「命から命に至らせる」、まさに「キリストの香り」なのです。
パウロは、キリスト者は、キリスト教会は、まさにそうした「神の御前に自分たちの罪を悔い改める者」たちによって、「自分たちの罪の悔い改め」がなされるところであり、キリスト教会がキリスト教会であるためには、多くの人々が「キリストの言葉」をまさに商品(神の言葉を売り物にせず)として、この世的な利益を追求する「キリスト教」販売所のような教会になってはならず、神の御前において常に誠実に、まさに(本来わたしたち人間は神に属するような資格は一切持たないが、イエス・キリストの救いによって)神に属する者とされたという大いなる憐みに感謝しつつ、真実をもって神の御前に共に生きることを主張するのです。
コリントの信徒への手紙2 3章17~18節
パウロは、この世においてキリスト者をキリスト者とするもの、そしてキリスト教会をキリスト教会とするものをまさに「霊」、すなわち「聖霊なる主」の働きによるものであると説明しています。
しかし、問題は、そうした「聖霊の働き」を、わたしたちは「救い」と切り離し、「罪の告白」から切り離し、あたかもそれを「キリスト者の所有物」かのように扱うことが教会の中で広まったということでした。
具体的に言えばコリントの信徒への手紙1(12章1~11節)で預言や異言といった聖霊の働きによる事柄が、コリントの教会の中で行われるのですが、しかし、それは教会を建て上げるための、教会を秩序付けるためのものでもなく、むしろ、「その人が霊的な体験をした」という、一種の「信仰者の自慢(自画自賛)」に陥っていたということです。
パウロはそうした聖霊による預言や異言といったことを否定するのではなく、聖霊はまさにイエスをわたしたちの救い主と告白させてくださる方(『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』コリントの信徒への手紙1 12:3)である点において、むしろそれはわたしたち人間を罪の束縛から自由にしてくださる方であり、そのように、キリスト者は自分自身の罪から自由にされて、神の御前に罪を告白することを通じ、イエス・キリストの救いの力によって罪から自由にされ、そのように罪の束縛、誘惑から自由にされた者は、自由に自分の罪を神の御前に告白することを通じて、その信仰がきよめられる。
すなわち、そのようにして聖霊の働きによって、キリスト者は日々罪を悔い改めることを通じて、わたしたちは皆、罪による顔の覆いを除かれて、罪から自由にされて、まさに鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによるものであって、キリスト教会とは、まさにそうしたキリスト者によって形作られるものであることをパウロは主張するのです。
パウロはコリント教会がまさにイエス・キリストを礎とする教会であるために、 先の教会の中における内部分裂という出来事をまさにイエス・キリストの救いに基づいて、この出来事を神さまの導きによって実現することを通じて、キリスト教会は、常に「キリストの勝利の行進」、すなわちまさにイエス・キリストの御名が褒め称えられることを通じて、「キリストを知るという知識の香り」を、コリントの教会の人々が、あたかも自分たちの信仰生活を通じて、その生き方、神の御前における真実な生き方を通じて、自分自身の罪を知るという「キリストを知る知識」の香りを放つようであれと、勧めるのです。
その意味で、キリスト教会とは、まさに正義を主張するところではなく、人間の罪、すなわち人間の弱さが告白されるところであり、その人間の弱さに対して神さまの憐み、助け、祝福が注がれる場所である限りにおいて、神の御前においてそれは正しい事であり、この「自分たちは神の御前において罪深く、間違っている」という正しく神を知ることによって、キリスト教会はこの世において正しくあることができるのです。
そうした、「キリスト教的な正しさ」、すなわち、「罪の告白(わたしたちは神の御前において、語られる神の御言葉によって間違っている)」は、 当然、罪によって滅んでいく者にとっては愚かなもの、すなわち「滅びる者には死から死に至らせる香り」であり、しかし、同時にキリスト者にとっては、「キリスト教的な正しさ」「罪の告白」とは、「命から命に至らせる」、まさに「キリストの香り」なのです。
パウロは、キリスト者は、キリスト教会は、まさにそうした「神の御前に自分たちの罪を悔い改める者」たちによって、「自分たちの罪の悔い改め」がなされるところであり、キリスト教会がキリスト教会であるためには、多くの人々が「キリストの言葉」をまさに商品(神の言葉を売り物にせず)として、この世的な利益を追求する「キリスト教」販売所のような教会になってはならず、神の御前において常に誠実に、まさに(本来わたしたち人間は神に属するような資格は一切持たないが、イエス・キリストの救いによって)神に属する者とされたという大いなる憐みに感謝しつつ、真実をもって神の御前に共に生きることを主張するのです。
コリントの信徒への手紙2 3章17~18節
17)ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
18)わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
パウロは、この世においてキリスト者をキリスト者とするもの、そしてキリスト教会をキリスト教会とするものをまさに「霊」、すなわち「聖霊なる主」の働きによるものであると説明しています。
しかし、問題は、そうした「聖霊の働き」を、わたしたちは「救い」と切り離し、「罪の告白」から切り離し、あたかもそれを「キリスト者の所有物」かのように扱うことが教会の中で広まったということでした。
具体的に言えばコリントの信徒への手紙1(12章1~11節)で預言や異言といった聖霊の働きによる事柄が、コリントの教会の中で行われるのですが、しかし、それは教会を建て上げるための、教会を秩序付けるためのものでもなく、むしろ、「その人が霊的な体験をした」という、一種の「信仰者の自慢(自画自賛)」に陥っていたということです。
パウロはそうした聖霊による預言や異言といったことを否定するのではなく、聖霊はまさにイエスをわたしたちの救い主と告白させてくださる方(『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』コリントの信徒への手紙1 12:3)である点において、むしろそれはわたしたち人間を罪の束縛から自由にしてくださる方であり、そのように、キリスト者は自分自身の罪から自由にされて、神の御前に罪を告白することを通じ、イエス・キリストの救いの力によって罪から自由にされ、そのように罪の束縛、誘惑から自由にされた者は、自由に自分の罪を神の御前に告白することを通じて、その信仰がきよめられる。
すなわち、そのようにして聖霊の働きによって、キリスト者は日々罪を悔い改めることを通じて、わたしたちは皆、罪による顔の覆いを除かれて、罪から自由にされて、まさに鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによるものであって、キリスト教会とは、まさにそうしたキリスト者によって形作られるものであることをパウロは主張するのです。