山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

 パウロは先に記したコリント教会の教会員に宛てた手紙において、コリント教会の内部における信仰的な違いによる不一致について、そうした教会員ひとりひとりの思惑を捨てて、イエス・キリストが示してくださった愛に基づいて、一致して教会を建て上げていく(もちろん、人間の業ではなく神の恵みによって)ことを勧めました。

 そして、そのあとコリントの教会を再訪することになるのですが、問題はパウロが、アポロや他の十二使徒の教会からの宣教者たちと比較される時に、パウロは、アポロのような雄弁家の賜物(カリスマ)もなく、また十二使徒の教会からの宣教者たちのような、直接、イエス・キリストと結びつく何かしらの印のようなものを一切持ち合わせていませんでした。

 ましてや、パウロは持病をもっており、そういう意味では、他の使徒たちが「いやし」といった奇跡を行ったり、あるいは異言を行ったりするのに対して、むしろいわゆる他の使徒や宣教者たちが身に着けている賜物、すなわちカリスマを一切持ち合わせていなかったのです(あるいは、そういったことを自身の宣教においては一切行わなかった)。

 そうした事から、コリント教会の信徒の間でパウロの使徒としての資質に対する疑義が起こったのです。

 そうした背景から、パウロは再度、コリント教会の人たちに対して手紙を送り、そうしたコリント教会の信徒たちに対して自分が正しく「神の御前においてきちんとした使徒である」ということを弁明すると共に、それによってコリントの教会の人々との和解を願って綴った文書というかたちをとっています。



 パウロがなぜ、コリントの教会において「使徒」として存在できるのか? 

 それはパウロがガラテヤの信徒への手紙の冒頭で記しているように、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」(ガラテヤ1:1)、すなわち、パウロはコリントの教会において、教会の創立者であると共に、自身の信仰告白として、すなわちあくまでも「自称使徒」であったのです。

 アポロや他の十二使徒の教会からの福音宣教者(キリスト教をユダヤ教の中に位置づけようとする教会指導者)たちの言葉によって、コリント教会の教会員たちはパウロに対する疑心暗鬼に陥り、中にはパウロに対して侮辱の言葉を浴びせる人々(たとえばコリントⅡ 10:10『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。』)が起こり、パウロはコリントの教会にあって使徒としての立場を立証する必要に迫られました。


 そこでパウロは、自分自身が「正真正銘の使徒である」という根拠を、「実際的な神の助け」、すなわち福音宣教者としての苦難において、神がそれを助けて下さった事の証をもって、自分自身がまさに神さまによって使徒とされていることの根拠においたのです。

 すなわち、パウロが「偽物の使徒」であれば、パウロは神と人に対して嘘を言っている事になるので、当然、使徒としての活動が続けられることもなく、神を冒涜している行為になるので神さまによって助けられることはなく、死んでしまうであろう。

 ところが、パウロはこれまでの福音宣教者としての人生において、数多くの困難(コリントの信徒への手紙Ⅱ 11:11~33)において、神さまの導き、助けによって命を守られてきた。すなわち、こうしたパウロの福音宣教者としての数多くの苦労が、パウロが真にイエス・キリストによって使徒とされたことの根拠になっている、という事なのです。

 そこで、パウロはそうした事がらを踏まえて、コリントの教会がまさにイエス・キリストの教会として、今、直面している問題に対して、信仰によってこの困難を乗り越え、パウロ自身がまさに神さまの助けによって使徒と証明されたように、パウロとコリント教会とのギクシャクした関係を修復し、すなわち、イエス・キリストがその救いによって神と人との関係を和解させてくださったように、パウロとコリント教会の間を「イエス・キリストが与えてくださった聖霊の助けによって、愛によって、和解に至ろう」とコリントの教会の教会員に勧めるのです。



 さて、大枠は上記のとおりとして、以下に個別的に聖書箇所を見ていきたいと思います。

コリントの信徒への手紙2 2章5~11節
5)悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。
6)その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。
7)むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。
8)そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。
9)わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。
10)あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
11)わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。
 
 
 教会がまさにキリストの教会であるために大切なことは、まさにイエス・キリストがわたしたちの罪を赦してくださったその出来事に倣い、わたしたち自身もそのことを覚えつつ、自分たちもまた神の御前において同じ罪人であるとの自覚の上に、互いにゆるし合うということが大事です。

 それはキリスト教信仰における基本的な事柄ですが、キリスト教会の中では案外にも難しい事柄です。

 なぜなら、キリスト教信仰は、常に神の御心を求める点において、それは言い方を変えれば、信仰における「正義・正しさ」を求めるからです。

 つまり「何が神の御前に正しいのか?」という信仰の視点は常に「正しさ」を求め、それは例えるなら「誰が正義で誰が悪か?」という考え方に陥るからです。


 本来、キリスト教の信仰において、あるいは聖書において、正義・正しさは常に「神さまに属するもの」であって、当然、人間がそれを保有することはできません。

 ところが、キリスト教会においては多くの場合、「キリスト教を信じる=正義」という構図で説教がなされ、それは同時に、「自分たち・教会(牧師?)=正義」というような価値観を信徒に押し付けるのです。


 たとえば、旧約聖書のダニエル書9章に以下のような記述があります。

『わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。「主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。』(ダニエル書9章4~5節)

 ダニエルは当然、神を信じている点において「信仰者」なのですが、そのダニエルは神さまに対して、イスラエルの過去における罪の歴史を振り返りながら、自分自身をそうした罪深いイスラエルの人々と同じ場所におき、すなわち、自分自身もまた神の御前に罪人のひとりであるという信仰的な自己理解に立つのです。

 言葉で説明すると分かりにくくなるので以下に図で示します。


旧約聖書に見る信仰者の自己理解と教会におけるキリスト者の自己理解


 旧約聖書において、特に預言書に見る信仰者の自己理解は、自分がいくら信仰者であったとしても、神の御前に正しい者であったとしても、人間が自分で神の御前において「自分は神の側に存在する」などとは信仰的には絶対に言わないのです。

  なぜなら、創世記においても示されているように、神は創造主であって、人間は被造物に過ぎません。その意味で、神と人間との間には大きな隔たりがあって、その隔たりがまさに罪(図では示してありませんが、左右の四角の間の空間です)であり、そうした隔たりを考慮すれば、人間は神の御前に信仰者であろうとなかろうと本質は同じなのです。

 だからこそ、旧約聖書においては、自分たちが神の側に立つような表現はまず出てきません。なぜなら、人間が神の側に立つということを神の御前において主張することほど神の御前に恐れ多いことはないからです。その点で、新約聖書においてイエスさまがご自分を神の子とした点についてユダヤ人たちが「神を冒涜している」と発言するのは、「イエスさまが神の独り子である」ということを抜きにして考えれば、それは至極当然のことなのです。

 ですから、預言者イザヤが神さまから召命を受けるときに言った言葉は、まさに上の図と共通するのです。

イザヤ書6章5~7節
5)わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6)するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7)彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
 
 イザヤは神さまから召命を受けた時、祭司をしていました。すなわちイスラエルの信仰においては神の御前に罪を清められている存在であるにも関わらず、イザヤは自分自身が罪にけがれており、しかも、自分は罪にけがれた人々の中に生活しているような人間であることを、神の御前に告白するのです。



 ところが、キリスト教会においては、イエス・キリストの救いによって、人間に対するイエスさまの「近接さ」が、あたかもそれが事実、本当に自分自身と神とが同じ立場に存在するかのような誤解を招いているのです。

 つまり、信仰者が、まさに「自分は神と同じ側にあり、神によって正義をいただいている」というような感じに自己理解をするようになる。ところが、神の御前に、こうした信仰ほど傲慢な信仰はないわけです。


 むしろ、それはイエス・キリストの救いが「わたしたち罪人に対する憐み」である限りにおいて、例えば、「神の子とされた」とは、それは「事実そうされたのだ」ということ以上に、「信仰者に対する憐みと慰めの言葉である」という理解が大切なのです。

 だからこそ、キリスト者は、あくまでも「イエス・キリストの救いによって罪を赦された罪人である」という自己理解が非常に大切なのです。わたしたちキリスト者はイエス・キリストの救いに与って神の子とされるわけですが、神の子とされるとは、すなわち「わたしは神の側に立つ人間だ」ということではなく、「神との関係において罪を赦された者として、日々罪を告白し、罪を悔い改めつつ歩むことが求められている」ということなのです。

 『イミタチオ・クリスティ』(邦題:「キリストに倣いて」)という本がありますが、ホーリネスやナザレン教会の信仰である「聖化」とは、すなわちそうした神の御前において常に信仰的に謙遜であり続けようとする、神の御前に真実に生きようとする者の生き方であるのです。

 

新約聖書が提示する神・キリスト・聖霊・人間の関係


 だからこそ、わたしたちは「神の子とする」という神さまの言葉に対して、むしろ、「キリスト者として当然です」とそれを受け取るのではなく、むしろ、「いえ、決してそのような事はありません。わたしはイエスさまに対して多くの罪を犯した者です。ただ、罪深いわたしを憐れんでくださり、ありがとうございます。」と告白することが、キリスト者としての大切な自己理解でないかと個人的には思います。

 その意味で、カトリック教会にあるキリエ(・エレイソン)の祈り、「主よ、(罪深いわたしを)憐れんでください。」という祈りは大事です。

 神さまに対して「わたしを救いなさい」と命令することなく、神さまに対して、わたしを憐れんでくださる事を願うことを通じて、神さまの判断・決断として、憐れんでくださり、救いを与えてくださることに信頼するという祈りであるからです。

 「救ってください。」「助けてください。」という祈りは、一見すると信仰的に何の問題もないように思えますが、しかし、それは神さまに対して下手に出た人間の、神さまに対するわたしを「救え」「助けろ」という命令以外の何物でもないのです。



 話がだいぶそれましたが、パウロはそうしたコリント教会の中にあって、起こった人間関係の破たん、すなわち教会の中で加害者・被害者・審判者という対立関係が起こった事について、深い憂慮を覚えると共に、教会員の人たちに対して既にそうした教会員が加害者・被害者・審判者になることによって発生した関係性の破たんを、イエス・キリストの御前において罪を告白し、誰が正しく・誰が間違っているということを明らかにすることよりも、むしろ、神の御前において一人ひとりが自分たちの加害者としての罪、また被害者としての罪、そして審判者としての罪を告白し合い、すべてを神の御前に真実を明らかにすることによって、真の和解へと、神さまの導きによって導かれることを勧めるのです。



コリントの信徒への手紙2 2章14~17節
14)神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
15)救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
16)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。
17)わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。


 パウロはコリント教会がまさにイエス・キリストを礎とする教会であるために、 先の教会の中における内部分裂という出来事をまさにイエス・キリストの救いに基づいて、この出来事を神さまの導きによって実現することを通じて、キリスト教会は、常に「キリストの勝利の行進」、すなわちまさにイエス・キリストの御名が褒め称えられることを通じて、「キリストを知るという知識の香り」を、コリントの教会の人々が、あたかも自分たちの信仰生活を通じて、その生き方、神の御前における真実な生き方を通じて、自分自身の罪を知るという「キリストを知る知識」の香りを放つようであれと、勧めるのです。

 その意味で、キリスト教会とは、まさに正義を主張するところではなく、人間の罪、すなわち人間の弱さが告白されるところであり、その人間の弱さに対して神さまの憐み、助け、祝福が注がれる場所である限りにおいて、神の御前においてそれは正しい事であり、この「自分たちは神の御前において罪深く、間違っている」という正しく神を知ることによって、キリスト教会はこの世において正しくあることができるのです。

 そうした、「キリスト教的な正しさ」、すなわち、「罪の告白(わたしたちは神の御前において、語られる神の御言葉によって間違っている)」は、 当然、罪によって滅んでいく者にとっては愚かなもの、すなわち「滅びる者には死から死に至らせる香り」であり、しかし、同時にキリスト者にとっては、「キリスト教的な正しさ」「罪の告白」とは、「命から命に至らせる」、まさに「キリストの香り」なのです。

 パウロは、キリスト者は、キリスト教会は、まさにそうした「神の御前に自分たちの罪を悔い改める者」たちによって、「自分たちの罪の悔い改め」がなされるところであり、キリスト教会がキリスト教会であるためには、多くの人々が「キリストの言葉」をまさに商品(神の言葉を売り物にせず)として、この世的な利益を追求する「キリスト教」販売所のような教会になってはならず、神の御前において常に誠実に、まさに(本来わたしたち人間は神に属するような資格は一切持たないが、イエス・キリストの救いによって)神に属する者とされたという大いなる憐みに感謝しつつ、真実をもって神の御前に共に生きることを主張するのです。


コリントの信徒への手紙2 3章17~18節
17)ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。
18)わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 パウロは、この世においてキリスト者をキリスト者とするもの、そしてキリスト教会をキリスト教会とするものをまさに「霊」、すなわち「聖霊なる主」の働きによるものであると説明しています。

 しかし、問題は、そうした「聖霊の働き」を、わたしたちは「救い」と切り離し、「罪の告白」から切り離し、あたかもそれを「キリスト者の所有物」かのように扱うことが教会の中で広まったということでした。

 具体的に言えばコリントの信徒への手紙1(12章1~11節)で預言や異言といった聖霊の働きによる事柄が、コリントの教会の中で行われるのですが、しかし、それは教会を建て上げるための、教会を秩序付けるためのものでもなく、むしろ、「その人が霊的な体験をした」という、一種の「信仰者の自慢(自画自賛)」に陥っていたということです。

 パウロはそうした聖霊による預言や異言といったことを否定するのではなく、聖霊はまさにイエスをわたしたちの救い主と告白させてくださる方(『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』コリントの信徒への手紙1 12:3)である点において、むしろそれはわたしたち人間を罪の束縛から自由にしてくださる方であり、そのように、キリスト者は自分自身の罪から自由にされて、神の御前に罪を告白することを通じ、イエス・キリストの救いの力によって罪から自由にされ、そのように罪の束縛、誘惑から自由にされた者は、自由に自分の罪を神の御前に告白することを通じて、その信仰がきよめられる。

 すなわち、そのようにして聖霊の働きによって、キリスト者は日々罪を悔い改めることを通じて、わたしたちは皆、罪による顔の覆いを除かれて、罪から自由にされて、まさに鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによるものであって、キリスト教会とは、まさにそうしたキリスト者によって形作られるものであることをパウロは主張するのです。

【エフェソとコリントの地図上での位置関係】
 

47214088


コリントの信徒への手紙16章8~12節
8)しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。
9)わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。
10)テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。
11)だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。
12)兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。


 パウロはこの箇所で、この手紙がアジア州のエフェソという町におり、そこからコリントにある教会の人々に手紙を出していることを説明しています。そして、先にコリントにアポロが宣教しに行った後、パウロがこの手紙を記している段階において、アポロがエフェソにコリントから既に帰ってきており、しかもパウロはコリントの教会で問題を起こしたアポロに対してコリントの教会に再度赴くように勧めているのですが、アポロはコリントの教会に再度行く気持ちがないことをパウロはこのところで明らかにしています。

 パウロはこれまでのところで、アポロが信仰的指導者として、コリントの教会を分裂の危機に追いやった(その他の理由もあるが)ことの責任について、おそらく、コリントの教会に再度赴いてパウロや他のコリントの教会員の前で謝罪するべきであることを考えていると思います。

 そのため、パウロはアポロに対して「信仰の敵」ということではなく、あくまでも「兄弟アポロ」と、すなわち教会指導者として、教会を混乱に陥れたその責任をきちんと果たすことを勧めるのです。ところが、当のアポロは、まだその意志が見受けられません。その意味で、パウロはアポロに対して、時間がかかってもいいから自分が起こした問題についての責任を果たすことを望んでいるものと思います。

 
 さて、ではこの事が今日的にわたしたちに教えるのはどういうことでしょうか?

 まずは、牧師であれそれ以外の指導者であれ、キリスト者として人間として神のみ前において「正しい者は一人もいない」という、わたしたち人間の現実に即して物事を考えるべきであるということです。

 当然、それは「牧師であるから間違いはない」というような一種の思い込みを禁じると共に、牧師も何かしらのリーダー的な存在も、また一信徒として、共に教会の重荷を担い、またそのために教会に仕える者であるという所から外れないということです。

 パウロがアポロに求めているのは、口だけで指導するのではなく、その業についても働きについても、特に信仰において罪の告白や罪の悔い改めという事柄についても、牧師も指導者もまた自分からそうしたことを率先して行い、まず、自分自身がキリストの言葉に聞き従う者であることに徹することが求められるということです。

 その意味で教会における福音宣教の業において、牧師、あるいは指導的立場にある人に求められるのは、まず自分自身がイエス・キリストのみ前に罪を告白し、罪を悔い改める者であり、まさにそうした信仰者としての生き方をもって教会の人々を指導するということです。


 ところが、そうではなく牧師や指導者が人間的努力、すなわちこの世的な成功といった事において、牧師として、あるいは指導者となりますと、そこには当然、「この世的な成功=失敗を犯さない=清い人=正しい人」といったイメージが構築されます。

 「常に神の助けによって勝利を収める」とは、聞こえは良いのですが、それが信仰的謙遜によって実現されるものである限りにおいては良いですが、都合よく信仰者だけが勝利を収めることはありません。そのため、「勝利=神の祝福」を実現するために、牧師、あるいは指導者は「勝利のためには悪を行うこともいとわない」というような事にもなっていくのです。

 こうした事は新約聖書においてはあまり見かけることはありませんが、旧約聖書においてイザヤ書などの預言書において告発されるイスラエルの罪について見ていると、そうした、信仰共同体において「まずありえないことが起こる現実問題として起こるのだ」ということが見えてくるかと思います。

 わたしたちがこの世において受ける祝福(繁栄)とは、その本質において神の祝福による祝福(繁栄)と、人間の悪による祝福(繁栄)とがあります。両者はその結果において共に共通しますが、しかし、その本質は決定的に違うのです。

 教会が結果だけを見て、その本質を見誤る時に、教会はイエス・キリストを信じているようでサタンを信じ、サタンの誘惑に従って繁栄を手にするという事があるのです。それは信仰共同体においては致命的な間違いであって、常日ごろから、自分たちの行っていることが神のみ前に正しいかどうかを悔い改めながらでなければ、教会はあっという間にサタンの誘惑に落ちてしまうのです。

 また、わたしたち人間はサタンに対して「誘惑」の罪の責任を追及することはできません。サタンとは、すなわち便宜上、わたしたちがわたしたちの信仰を神から遠ざける架空の存在であって、本質において実体はありません。

 なぜなら、わたしたちがサタンと呼ぶものは本質は、自分の内にある「欲望」に過ぎないからです。その「欲望」をわたしたちが、現実の世界において投射する対象がすなわちサタンであり、サタンの実体はなく、ただ自分の内にある欲望に過ぎないのです。
 
 当然、わたしたちがその罪の責任をサタンに追及することはできず、その罪の責任を担うのは当の本人ということになるのです。その意味で、神にサタンがその罪を追及されることはなく、あくまでも罪を犯した人間がその罪の責任を取らざるを得ないのです。
 

 教会で何か特別な行事を行い、それによって新来会者が与えられた時、それはむしろわたしたちは注意しなければならないのです。わたしたちは、そのようにして自分たちの努力によって、新しい人が教会に来てくれた。それは神の導きだ、神の祝福だと理解するでしょうが、むしろ、パウロに言わせれば、そうした事は神の祝福でもなんでもなく、ただ自分たちの欲望の望むままに事態が進展したことを、「まさに神の御心」であると認識しただけであって、まさにそれがここでいうところのサタンの誘惑であるのです。



コリントの信徒への手紙16章13~24節
13)目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。
14)何事も愛をもって行いなさい。
15)兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。
16)どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。
17)ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。
18)わたしとあなたがたとを元気づけてくれたのです。このような人たちを重んじてください。
19)アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。
20)すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。
21)わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します。
22)主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。
23)主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。
24)わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。

 その意味で、本当の「神の導きによる新来会者」とは、そうした集会ということに関係なく、普段の礼拝において教会に訪れる人において、まさにそうであるということが言えるのです。もちろん、そうした特集に来た人がまったく「神の導きに拠らない」とは、人間は言い切ることができません。

 しかし、わたしたちが教会として特別なことではなく、パウロがこの13節で言っているように、わたしたちが信じ、また守っている「礼拝」はまさにこれこそが教会においてもっとも大切なものであって、わたしたちはそれに誇りと自信を持ち、堂々と、「教会の外の人々が何を考えているのか」というようなことを気にせず、自分たちの大切にしていることを大切にしていけばそれでいいのです。

 仮に、何か教会が特別なことをしたことによって、新来会者が与えらえるのだというのであれば、教会は常にそうした新来会者が与えられるためにすべての情熱をつぎ込まなければなりません。

 テレビ局が視聴率を獲得するために、一定の放送倫理の枠の中で、あの手この手で視聴者を飽きさせないようにするのと似ています。

 キリスト教会はそのようなエンターテイメントを提供する場所ではありません。

 キリスト教会は神を礼拝する所である。それ以上のものでもそれ以下のものでもなく、定められた時に、定められた場所で礼拝を必ず行っている。その欠かすことのない週毎の礼拝を100年、1000年と続けるのがキリスト教会なのです。

 その意味で、教会が、この世的な流行を取り入れることがどれほど神のみ前に愚かしい事か。しかし、キリスト教会はそれが「愚かしい」と思いながらも、しかし、それをまったく切り捨てる信仰的勇気を持たないところが、すなわち今日におけるキリスト教会の信仰的な弱さであるのです。

 神は無から有を生み出す方です。

 わたしたちが信じるのは、まさにこの世的な流行に左右されることなく、天地のはじまりからその終わりまでわたしたちと共にいて、御言葉を与え、わたしたちの罪深さを深く憐れんでくださる方であるのです。

 教会が最近の流行を取り入れることが神のみ前における大いなる反逆であると自覚するキリスト者は、今では少ないかもしれません。

 
 「今の若い者は・・・」という事ではなく、パウロがまさにコリントの信徒への手紙1 15章で 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 」(Ⅰコリント15:3~5)と語っているように、それはパウロの生きていた時代においても、また100年前の時代においても、今日においても、またわたしたちの後の時代の人たちにとっても、この言葉が変わることはないのです。

 それは、確かに、今のような自由な時代においては、それは表面的にはただ「言葉による情報」であって、取り立てて何かしら秘密めいたものでもなく、面白くも楽しくもありません。

 しかし、パウロがそうしたように、過去のキリスト者はこの事柄を大事にし、まさにその事を自分の生涯においてもっとも大切なこととして生きる人生を通じて、この信仰をその世代から次の世代へと継承していったのです。

 その意味で、教会はキリスト教の斡旋所でも、布教所でもありません。

 まさに教会は「神を礼拝するところ」ということを本質にするところであって、キリスト者はキリスト教の斡旋をすることなく、ただわたしたちは神の憐みと導きによって「キリスト者と成る」のです。




 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」(マタイ7:13)

 イエスさまがこう言われる言葉はまさに真実です。

 しかし、もう一言付け加えることを主が許してくださるなら、わたしは次のように書きます。


 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる教会の門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。」


 それはまさに「あそこの教会」がということではなく、わたしたち自身の直面する問題であり、教会は常に、この事を意識しつつ歩んでいく必要があるのです。

 当然、それは常に神のみ前に罪を悔い改めようとする信仰生活において実現される神の導きであり、ナザレン教会が言うところの清め・聖化とは、まさにそうした教会のあり方であるのです。

コリントの信徒への手紙1 15章3~8節、11~12節
3)最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4)葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5)ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6)次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
7)次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
8)そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 

11) とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。
12)キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。


 パウロがコリントの教会の人たちに伝えたイエス・キリストの福音というのは、まさにこのパウロが 3)~5)節のところで語っている内容です。

 そして、まだパウロがこうしてコリントの教会やその他の地域にある教会に宣教を行っていた当時、まだ、大部分の人々は生きていたのです。

 ところが、そうしたイエス・キリストを信じる信仰において、今日のわたしたちよりもずっと時代の近かったコリントの教会の人たちにとって、既に、「イエス・キリストの復活は無かった」と信じる人たちが、コリントの教会の中で起こっていたというのです。

 コリントの教会がなぜ、そのような「イエス・キリストの復活は無かった」というふうに信じる人たちが増えたのか? その理由について、パウロはこのところで詳しく説明しません。

 しかし、わたしたちがこれまでのコリントの信徒への手紙を読んできて、その理由が当然、「これまでのところで書かれているからだ」とするのであれば、それは、コリント教会の信仰が正しいキリスト教信仰から離れて、全く別の偶像崇拝になってしまったからだと見るのが自然であると思うのです。

 では、その偶像崇拝とはいったいどういうものでしょうか?


 上記の引用聖句で分かりますが、正しいキリスト教信仰は何かと言えば、まさにパウロが3)~5)節で語っている内容です。

 すなわち、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるための必要条件が、「イエス・キリストを信じる」とわたしたちが言った場合の、その信仰の具体的な内容です。

 これはきわめて基本的な事柄ですが、この世にあって、キリスト教会がキリスト教会であるための絶対条件ともいえるものであると思います。

 それは何かと言えば、この世において、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるために必要なことは、すなわち、「その教会において、正しくイエス・キリストが信じ告白されている。」ということです。

 それを、更に詳しく言えば、パウロが3)節で言っているように、わたしたちが手にしている『聖書』は、まさにイエス・キリストを証しする書物であり、『聖書』はあくまでも、「イエスがわたしたちの救い主である」ということを指し示すものであるということです。

 そして、では、「イエスがわたしたちの救い主である」ということは、更に具体的に言えば何かというと、それは、「イエスさまは、わたしの罪をその十字架と復活によって赦してくださり、新しい命に生きることができるようにしてくださった」という、罪の告白と罪の赦し、そして、罪を赦された者の新しい命への招き(悔い改め)が、キリスト教信仰においてもっとも大切なものであるというわけなのです。

 すなわち、礼拝も聖餐式も、そこで重要なのは、聖書の言葉を通して、聖霊の助けによってわたしたちに語られる神の言葉(わたしたちの罪・弱さを教え諭してくださる言葉)が、常にきちんと、正しく語られ、そこにおいて、そうした礼拝や聖餐式においてわたしたちの「罪の告白と悔い改め」(信仰の応答)が正しく行われているということが大切なことなのです。


 ところが、おそらく、コリントの信徒への手紙1を読んでいて分かるのは、たとえばアレキサンドリア出身の雄弁家であるアポロ(要はカリスマ的な指導者)や、教会の中で異言を語る女性たち(要は神秘体験)の出現。それ以外にも、信徒の間における確執や分派といった様々な問題が教会の中で起こったということなのです。

 それは、個別具体的に説明すれば長くなりますが、ごく簡単に結論だけを言えば、すなわちキリスト教会という名の偶像崇拝にコリントの教会が陥ってしまったということなのです。


  キリスト教の礼拝とは、その本質において「罪の告白」と「罪の悔い改め」が、その最大の関心事です。

 その意味で、キリスト教礼拝は人間にとっての「娯楽」ではありません。


 旧約聖書においては偶像崇拝の代名詞として「バアル(神)崇拝」があげられます。バアル神というのは、いわゆる日本で言うところの「五穀豊穣の神」であって、その象徴としてふくよかな男女の裸であるとか、性器をシンボル化したものがつかわれます。

 旧約聖書の申命記に以下の記述があります。

 「イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない。」(申命記23章18節)

  この事が意味するのは、旧約聖書の時代において、実際問題として、イスラエルの神殿においてそうした宗教的・売春行為が行われていたことがあったということなのです。

 では、なぜ聖なる場所であるはずの神殿が売春行為の場所となったのか?

 その理由がバアル神であるのです。バアル神は主に男神の像と女神の像と大きさの異なる二種類の像がつかわれます。バアル神崇拝では、この男神と女神とが性的に交わることによって大地の作物が豊かに実るものとして考えられていました。

 だからこそ、男神と女神が性的に興奮するように、そうした男神像と女神像の前で人間の男女が性行為を行うのです。 すると、より興奮した男神と女神はそれによってより強く結ばれ、その年は豊作になるだろうというわけです。 こうした男神・女神の交わり、男女の性に関わる祭儀は、バアル神に限らず、日本国内にもいたるところにあります。


  では、なぜそうしたバアル神崇拝がイスラエルの信仰に入ってきたのでしょうか?

 おそらく理由はごく単純で、「イスラエルの信仰は人間的につまらないから」です。


 今日のキリスト教信仰もそうですが、「自分自身の罪を深く悔い改める」とは、決して面白くも楽しいものでもありません。むしろ、わたしたちはそうしたことには目をつむって、何か楽しい別の事をと考えるのです。

 旧約聖書に登場する神殿での正しい祭儀も同様で、それは人間的には魅力に欠けるものでした。


 だからこそ、昔の人たちも、「より多くの人が神殿に集まるように。」「より祭儀を充実させたい。」というような、人間的な発想から、近隣諸国の宗教祭儀で、取り入れられそうなものを少しずつ取り入れ始めたのです。

 そして、いつの間にか、イスラエルの神殿には多くの人が集まるようになり、また多くの献金やささげものが奉げられるようになったのです。

 ところが、それは信仰とは名ばかりで、信仰を口実にして、同時の宗教的指導者たちがやりたい放題をやったのです。

 当然、神殿には多くの人が訪れるようになり、それまで魅力のなかったイスラエルの神殿祭儀は、目を見張るほどのものになったのです。そこでは神殿娼婦や神殿男娼が、イスラエルの神を崇拝する目的でにぎわっていたのです。

 

 さて、 上記の例は当然、旧約聖書においてイザヤやエレミヤといった時代の話です。ところが、まさにその形を変えたものが、パウロの生きていた時代、コリントの教会において起こっていたのです。当然、そこには神殿娼婦や神殿男娼という存在はいなかったかもしれませんが、しかし、性的関係の堕落、アポロや女性霊能者のようなカリスマやあるいは心霊現象などをキリスト教信仰に持ち込んで、それがコリントの教会の問題となったのです。

 当然、それはコリントの教会だけの問題でなく、今日のわたしたちの教会においても同じです。


 今日、「福音は喜びであるから礼拝・教会は楽しくなければならない。」、あるいは「教会に魅力がないから人が集まらないのだ。」という声を聞きます。

 しかも、まさにそうした声に沿う教会こそが信仰的に正しい教会であるかのように聞きます。 しかし、それは本当にそうでしょうか?


 おそらく、パウロに言わせれば、「そうしたものはすべて偶像崇拝だ」ということになるかと思います。

 キリスト教、あるいは教会の魅力とは何でしょうか? それは決して「面白い・楽しいこと」ではありません。


 キリスト教、キリスト教会の魅力とは、イエス・キリストの救いであって、その他はありません。

 また、「福音が喜びである」というのはその通りですが、その「福音の喜び」は常に、わたしたち具体的な人間の罪の赦しによるものであって、それ以外の何かに由来するものではありません。



 キリスト教信仰において、わたしたち人間は等しく誰もが罪人であり、神の御前において不完全な存在です。

 そのような罪深い、弱い存在であるわたしたちが神さまの御前に出ることは、本来は不可能なのです。

 しかし、神さまはイエス・キリストをこの世にお遣わしになり、その十字架と復活の出来事をとおして、わたしたちの罪を赦し、わたしたちが神さまを礼拝することを可能にしてくださったのです。

 その意味で、礼拝の本質的意味は、それは確かにわたしたち参加者が神さまに対して共同で行う宗教行為ですが、本質的には、神さまが自分自身を救うことのできない罪深い、弱いわたしたちを深く憐れんでくださり、神さまの方から、神さまに近づく資格を持たないわたしたちに近づいてくださり、今日においては聖霊の助けによって、わたしたちは常にイエスさまと神さまと近く居ることを可能にしてくださったということなのです。

 その意味で、礼拝とは、わたしたちの感覚からすれば、「そこに出席するもの」ですが、信仰においては、そうではなく、「礼拝を通じて、神さまがわたしたちを招き、わたしたちに近づいてくださる出来事」なのです。

  そして、イエスさまはわたしたちを犯した罪によってその場で裁くことをしませんが、しかし、だからといってわたしたちが罪に留まることを良しとしてくださっているのではなく、むしろ、信仰者として生きるその人生において、自分の意志によって神の御前に罪を告白し、悔い改め、神の御言葉に聞き従う人生を歩むようにとわたしたちに願い、わたしたちの不忠実さにも関わらず、わたしたちと共に居て、罪の告白のとりなしをしてくださっているのです。

  そういう意味で、わたしたちはひとりひとりがイエスさまから深い憐みと信頼をいただいているのです。

 だからこそ、わたしたちは礼拝で、まさに神さまに罪赦された者として、御前に出ることが許されたことの喜び、感謝しつつ、主の御名を礼拝し賛美するのです。

 当然、それが真剣にそのとおり行われているのであれば、礼拝は誰にとっても素晴らしいものであり、喜びに満ちたものであるのです。



 しかし、そうした喜びが、またそうした本当の救いが礼拝にないという時に、教会は別の魅力である「偶像」へと走るのです。その時、牧師はあの手・この手で教会に人を招こうとするでしょう。

 「教会に、あるいは礼拝に魅力がないから、もっと教会や礼拝を魅力のあるものにしよう!」

 「偶像」とは、いわゆる別の神の像ということではなく、むしろ、人間の内なる欲望を信仰的な対象化したものであって、何かの実体があるわけではありません。例えば、「100人礼拝」「1000人教会」というような、教会の中で呼び掛けられる、信仰の本質とは無関係な一種のイデオロギーのようなものかもしれません。あるいは、牧師の個人的な欲望かもしれません。


 一見、信仰的に正しいように聞こえますが、まったくのナンセンスです。「この教会には、キリストの救いがありません」、あるいは「この教会はキリスト教会ではありません。」ということを神の御前に告白しているのと同じです。

 信仰の喜びは人間が作り出すものではなく、神さまの憐みによって、ひとりひとりに与えられるものです。

 当然、罪を悔いない、あるいは悔い改めないところに救いの喜びはありません。


 その意味で、そうした「信仰の本質とは無関係な何かしらの魅力を打ち出している教会」というのは要注意です。




 「キリスト教会はキリスト教会である」というのは、当たり前というか、まさにその通りなのですが、案外にも、わたしたちの身の回りには「偶像を崇拝するキリスト教会のようなキリスト教会」が多いのではないかと思う今日この頃です。

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