山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

 パウロの最晩年に書かれたであろう「ローマの信徒への手紙」において、パウロは以下のように記述しています。

ローマの信徒への手紙3章9~18節
9)では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
10)次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
11)悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
12)皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
13)彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
14)口は、呪いと苦味で満ち、
15)足は血を流すのに速く、
16)その道には破壊と悲惨がある。
17)彼らは平和の道を知らない。
18)彼らの目には神への畏れがない。

 パウロはキリスト者がキリスト者でない者、たとえば不信仰者、異教徒などに対して何かキリスト教信仰において優位であるかという事について、「全くありません。」と簡潔に述べています。

 その意味で、たとえば「キリスト者」と「そうでない者」という区別はありますが、「罪深い人間である」という点においては「キリスト者」も「そうでない者」も同じだというのです。

 だからこそ、パウロは「キリスト者」を「天国に行けることが確定した者」とはみなさず、あくまでも「イエス・キリストの救いによって、神との関係において和解を得た罪人である」として、なお「救われた罪人」に過ぎないという認識において「善を行うことはできない」というふうに考えるのです。

 そのようにして、イエス・キリストと無関係に、ただ哲学的に人間が「神」「正義」といった神に属する事柄を選択できるかと言えば、それは不可能であることを示すのです。なぜなら、「神」や「正義」を知るための「平和の道」とは、それは「わたしたちの罪の認識、告白、罪の悔い改め」ということをもって、ただしく神を畏れ敬うという信仰がなければ不可能であるからなのです。


 ところがそうすると、たとえ信仰者が「善い行い(慈善)」をする場合、いったいどのようにしてそれが「偽善」ではなく「善」であり、わたしたちは「善(行)」を選択することができるのでしょうか?




コリントの信徒への手紙2 8章1~7節、9~11節
1)兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。
2)彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。
3)わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、
4)聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。
5)また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、
6)わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。
7)あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。


9)あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
10)この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。
11)だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。

 パウロはそうした、わたしたち人間が本質において「正しくあり得ない」という理解に基づいて、そのような罪深い人間が一体どのようにしたら、人間のそうした罪深い本質と無関係に「正しいこと・善行」を行うことができるのか、マケドニア州にある教会(おそらくフィリピかテサロニケの教会)を例に挙げてそのことを説明します。

 パウロの言葉によれば、このマケドニア州にある教会は時流に乗っている教会でもなく、勢いがあるわけでもなく、その現実は非常に厳しいものでありました。教会は様々な迫害の下にあり、問題があり、また金銭面においても極度に貧しく、まさに「信仰においては迫害にある教会」であり、「金銭面においては極貧にある教会」であったのです。

 しかし、そうしたこの世的には貧しさの中にありながらも、マケドニア州の教会の人々は、信仰においても物質的な面においてもパウロの働きを大いに助けたのでした。

 それは当然、この世的に富んでいる人たちではなく、貧しい人たちが物質的な援助をするわけですから、その援助自体はパウロにしてみれば「有り余るほどの豊かさ」ではなく、恐らくは「何も持っていない人たちが、それでも何も持たない中から、苦労してパウロのために少しずつ集めてパウロのために送ったもの」であって、それは「物質的な豊かさ」とはまったく関係のないものであったことでしょう。しかし、パウロにとってみれば、信仰において、それは充分であったのです。

 教会が貧しいということは決して欠点でも何でもなく、むしろ何もないところに、イエス・キリストの救いによって、また神さまの深い憐みによって満たされる。そして、そうした中から、さらに神さまによって与えられたものを更に分かち合う。

 イエス・キリストはまさに貧しさの中に生まれ、苦しみの中に生きられましたが、それは、まさにキリスト者がイエス・キリストの貧しさによって、わたしたちが豊かになるためであったとパウロは説明するのです。

 ですから、当然、そうした豊かさは、いわゆる物質的な豊かさとは異なると思います。決して多くを求めることなく、神さまの祝福によって与えられているところに満足し、その満たされたところのわずかのものを、さらに兄弟姉妹で分かち合うのです。


 そして、それは神の御前において「正しくあり得ない」わたしたち信仰者が、いかに「善」を選択するかということのヒントにもなっているのです。


 そもそもわたしたちは信仰者であれ、不信仰者であれ、すべての人間が神の御前において罪深いのです。信仰者はその罪深さの中に絶望の淵から、イエス・キリストによって神との間に和解を得た存在であると言えます。

 しかし、それはイエス・キリストの救いがわたしたちの「罪の赦し」であるという一点において、わたしたちが神の御前において「罪人である」という自己認識において、すなわち「わたしたちは善を選択する能力を持たない哀れな人間に過ぎない。」という神さまに対する告白において、神さまはそれを「正しいこと」として認めてくださり、そのような哀れな罪人に過ぎないわたしたちに対して深い憐みをもって顧みてくださるのです。

 そして、わたしたちはそこにおいて神さまの憐みを受け、その与えられた憐み、祝福によって、自分自身の体をまさに何も持たないわたしたちが神さまに唯一献げうるものとしての「献身」へと導かれるのです。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)

 わたしたちはそのようにして神さまの憐みによって礼拝へと招かれ、そして、そこから隣人愛へと導かれます。それはあくまでも、「神の言葉による導き」であって、「牧師による命令(脅迫)」ではありません。その意味で、「献身」とは「導かれ、招かれるもの」(自発的)であって、「人(牧師)に言われたからやるもの」(受動的)ではありません。

 そして、そうした「自発的」の土台となるのは当然、イエス・キリストによって「罪を赦されたという喜び」であることを忘れてはなりません。

 その意味で、キリスト者が「善を行う」とは、まさに「自分が受けた愛に報いる」ということで、それは自分の罪とその赦し・救いとの関わりにおいてはじめて実現可能(神さまによって導かれる出来事として)なすことが可能なのです。



コリントの信徒への手紙2 9章8~9節
8)神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
9)「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。 


 パウロがここで言っているように教会の発展はまさに、神の祝福によります。しかも、それはあくまでも結果として与えられる豊かさであり、わたしたちはそれを目標とする事はできません。

 そして、教会が注意しなければならないのは、ここで言われている「惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。」とは、いわゆる「教会で献金を募って、献金を困っている人たちに施す」という意味ではないという事です。

 イエス・キリストの示された慈善、すなわち「隣人愛の実践」は、「物品や金銭をめぐんでやる」ということではなく、「困難にある隣人と分かち合う」ということであるのです。

 キリスト教の信仰において「困った人を助ける」ということは通常「正義/善い事」として理解されます。


 しかし、「困った人を助ける」とは実に信仰者が気を付けなければならない誘惑であって、わたしたちは時に、そうした行動をとってしまいやすいのです。

 たとえば、教会が立っている地域とは、まったく縁もゆかりもない別の地域において災害が起こったとします。わたしたちはその時、「ああ、あの人たちはかわいそうだ。大変そうだ。さぞ困っているだろう。」と良心的に考え、「あの人たちを助けるために、何かをしなくては!」と考えて、まさにそうした行動に移るのです。

 もちろん、そうした困った人たちに同情することは決して悪でも罪でもありません。しかし、そうしたことを受けて、わたしたちがその人たちに対して「良い事をしてやろう(善を行う)。」と考える時に注意が必要なのです。


 教会は決してボランティアセンターではありません。ところが、まさにそうした災害が起こった時に、我先にと教会がボランティアセンターに早変わりし、そうした人たちに支援を行い、人材を派遣し一定の成果を上げるのです。

 同じ地域や近い地域にある教会がそうした支援を行うことはあまり問題にはなりません。ところが、むしろ、遠く離れた教会がそうした地域の支援に加わってきます。そうした「同一地域の教会」「遠隔地にある教会」と何が異なるのかと言えば、それは「責任」の問題です。

 それは県をまたいでという場合もありますし、それこそ国内外での場合もあります。

 確かに、そうしたひとつひとつの働きは尊いものですが、問題は教会がそうした責任を持たないまま、自分たちの好き勝手を行い、まさに「自分たちは良い事をしてやった。」と、「正義を行った」と勝手に思うのです。

 中には、実に勝手に、無責任にそうした奉仕を行い、自分たちの都合で勝手に奉仕を引き上げたりします。それによって、被災された方々が混乱するということが実際問題として起こっています。



 その意味で、「責任が取れないのであれば不用意に関わらない。」という判断は、教会においては大変難しい決断となります。

 むしろ、「困っている人を見たら、助ける」という方が簡単なのです。しかし、問題は、わたしたちはそうした責任を果たす力が無いにも関わらず、ただ信仰によって「神さまが助けてくれるだろう」という安直な考えによって、無責任な行動を繰り返すことがあるのです。

 それはまさにイエスさまが言われた「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。 」(ルカによる福音書6章39節)と同じです。


 神さまの憐みによって信仰へと導かれたわたしたちは、自分たちが「救われた罪人に過ぎない」という自覚が欠如する時に、あたかも「自分たちは神さまによって後ろ盾を得た。」と、自分の能力・実力以上の事を為そうとするのです。

 わたしたちはイエス・キリストによって罪を赦され、救われたキリスト者であって、それ以上の者でもそれ以下の者でもありません。

 キリスト者は医者にとって代われる者でもなく、特殊な能力を持ち合わせている者でもありません。


 ところがわたしたちは信仰によって罪を赦され、それによってあたかも「他の人よりも信仰において抜きん出た、秀でた、優秀な人間である」と自分自身を理解したい欲求に駆られるのです。それは実に、恐ろしい罪の誘惑であって、特に、若い人たちにとって大きな誘惑であるのです。

 神さまはわたしたち人間の持っている可能性のゆえに、わたしたちを救ってくださるのではありません。むしろ、その逆で、わたしたち人間は大人も子どもも同じように、神の御前においては滅ぶべき哀れな人間に過ぎないのです。

 ところが教会がそうした「人間の無限の可能性」をうたうときに、教会は偶像崇拝へと進んでいきます。そうした教会は当然、若い人たちが多く集まり、活気に満ちています。しかし、それが本当に正しい教会であるかどうかは別の問題であるのです。

 そうしたことを常に、心に覚えつつ、信仰生活を歩んでいきたいと願っています。
 
 

 

 




 

コリントの信徒への手紙2 4章16節~5章10節

16)だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
17)わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
18)わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。 

1)わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。
2)わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。
3)それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。
4)この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。
5)わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです。
6)それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。
7)目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。
8)わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。
9)だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
10)なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。


 キリスト教会においてよくありがちな信仰的誤りは、「キリスト教は万人救済説である」という理解です。

 確かに、この世を支配される神によって、最終的には、すべての被造物が救済される、すなわち万物が神によってまさに終わりを迎える時において、そうであるかも知れません。

 しかし、「万人を救済するか・しないか」は神さまの主権において決定されることであり、わたしたち人間は、たとえ信仰者であっても「すべての人はイエス・キリストの救いによって救われます」と言うことはできません。

 確かに、神さまは御心においてすべての人を救おうとされるのは事実でしょうが、問題は、だからと言って神さまはわたしたちの意志と無関係に、わたしたちの人格を無視して救済を行うことはないのです。それは福音書においてイエスさまが言われている通りであり、イエスさまが言われていること以上のことを牧師が言うことはできませんし、もし、それを言うのであれば、牧師は神と人の前において嘘をついているのと同じであるのです。

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイによる福音書7章21節)

 その意味で、牧師が「真実を語らない」「誤った福音を語る」ということの罪深さを理解しないと、教会はあっという間に偶像崇拝の巣窟になってしまうのです。


 
 さて、パウロは、この箇所において「キリスト者として生きるとはどういうことか?」という事について、コリントの教会の人々に語っています。

 パウロはまず、5章16節において、イエス・キリストを信じることが、いわゆるアンチエイジングのような、人間としての寿命をただ伸ばすものではないことを説明します。おそらく、これはたとえば「永遠の命を信ず」という信仰告白とのかかわりがあるのではないかと個人的には考えるのですが、「イエス・キリストを信じる者は病になることもなく、歳を取ることもない。」というような考え方に対する、信仰的な修正をパウロは行っているのです。

 すなわち、他のユダヤ主義に基づくキリスト教会からの使徒たちは、いやしの賜物を持っており、実際に病の人をいやしたりしていました。

 ところが、パウロはと言えば、コリントの信徒への手紙2 12章7・8節で「わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」とパウロ自身が語っているように、パウロは使徒である割には病を持っており、パウロはその病を取り除いてくださるよう神さまに祈るのですが、結局、パウロの病はいやされることがなかったのです。

 パウロは、そういう意味で、他の使徒たちのようにいやしといった賜物を持つこともなく、アポロのような福音を雄弁に語る弁も持たず、しかも、神によっていやされることのない持病を持っているという、実に、使徒らしからぬ人物であったのです。

 しかし、パウロはそうした人間としての様々な弱さを持った自分自身の姿が、まさに、これこそが神の助けによって生きている証拠であると、そうした信仰的な理解の上で、キリスト者として生きるとは、まさに自分の生まれ持った能力・才能、あるいは癒しや異言といったような霊的な賜物といったようなものに依らず、まさに神の祝福によって生きることこそが大切であることをこのところで人々に語るのです。

 そして、その最初の問題が、人間の肉体的な老いについてであるのです。

 キリスト者は信仰によって、肉体的に・精神的に老いるのことがないのか?
 

 そうした問いに対して、パウロは例えイエス・キリストを信じる信仰があったとしても、人間は老いるし、病気もすれば、最終的には死ぬことを、このところで説明するのです。

 当時、まだパウロが生きていた時代においては、イエス・キリストの再臨が近いと、かなり強烈な終末信仰に立って、この世の生活から離れ、ただ神によって生きて天に上げられるのを待ち望む信仰者たちのグループがありました。

 しかし、パウロはそうした終末信仰・再臨信仰を退け、しかし、決してそれを否定するのではなく、わたしたちは日々神によってそうした終末、すなわち「日々神の裁きの前に生きているのだ」ということを説明するのです。

 それゆえ、わたしたちの地上における信仰の生涯は、当然、来たるべき終末、来たるべき再臨に対して常にその準備をしておく必要があり、その時が来るまではわたしたちは人間として地上での信仰生活を正しく歩む必要があることをパウロは示すのです。

 当然、そうした地上における信仰生活において、わたしたち人間はだんだんと加齢とともに肉体は徐々に衰えていきます。

 しかし、信仰者は他の、神を信じていない人たちとどのように違うのかということを、多くの人にとっては加齢による肉体の衰えであるけれども、わたしたち信仰者は、他の人たちと同じように肉体は衰えたとしても、わたしたちの内なる人、すなわち「霊による体」は、信仰によってだんだんと成長するのだと言うのです。

 わたしたち信仰者の地上における信仰の生涯の目的は、「信仰者としての生涯を全うする」ことを最終目的とするのではなく、4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。」とパウロが言っているように、「見えないもの」、すなわちいわゆる「天国への凱旋」こそが、地上における信仰者の最終目的であることをパウロは説明するのです。


 だからこそ、わたしたちの信仰者としての地上における悩みや苦しみは、「天国への凱旋」をもって、すべてが報われるのです(たとえば「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」(ヨハネによる福音書14:2))。

 しかし、わたしたちは地上においては、この朽ちるべき肉体に住んでいるかぎり、すなわち地上において命のある限り、たとえ信仰者であっても「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。」(コリントの信徒への手紙2 5章6節)と、常に、自分たちは神を信じてはいるけれども、主から離れており、罪を犯しやすく、常に神の御前において罪を告白し、罪を悔い改める必要があることをパウロは説明するのです。

 
 そして、この世において信仰者として、たとえば「いやしができない」「異言が語れない」「病がいやされない」といったようなこの世におけるそうした事柄は信仰生活においては本質的な問題ではなく、「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」(コリントの信徒への手紙2 5章10節)とパウロが結論的に語っているように、キリスト者はそうした信仰者としての目に見える形の現象や出来事はまったく問題にならず、むしろ、地上において、わたしたちはキリスト者として、肉体を持つことによる罪からできる限り離れ、信仰においては天国に凱旋するための確かな霊の体を作り上げることに専念することをコリントの教会の人々に勧めるのです。




 コリントの信徒への手紙2 6章16~18節
16)神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。
17)だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
18)父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」

 そして、だからこそパウロは、キリスト者は、あるいはキリストの教会は、まさに自分たちがイエス・キリストを信じる信仰において、わたしたち一人一人がまさに生ける神の神殿である自覚に立ち、すなわち、イエス・キリストにあって常に罪を告白し、罪を悔い改めるという責任を担うことを強調するのです。

 その反対にあるのは、まさに偶像崇拝と化してしまった信仰者の姿であり、またキリスト教会の姿です。


 ある教会では牧師が「福音を宣べ伝えなさい。」というイエス・キリストの御言葉を引用して、信徒に対して、キリスト教への、あるいは教会への勧誘を、かなり無理矢理に命じます。

 その言葉がイエス・キリストが語られた言葉であり、牧師は、まさにイエスさまのその命令に則って、自分がまさにイエス・キリストの位置から、信徒に対して、「伝道しろ。伝道しろ。」と命じるわけです。そして、そうした「伝道熱心であること」をもって、「正しいキリスト教の信仰」とするのです。



 確かに、イエス・キリストが、例えば「それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:16)と言われたということは聖書に記されています。では、ここでイエスさまが言われている「福音を宣べ伝えなさい。」とは、いわゆる「キリスト教の勧誘」なのでしょうか? もちろん、そうした教会では、「まさにそのとおりだ」と信じて疑わないわけです。


 しかし、パウロはその手紙の中で、一度も、「信徒は、あるいは牧師や教会は信仰者を増やさなければならない」、あるいは「人数を増やせ。献金をどんどんしろ。」というようなことを言うことはありません。

 パウロがキリスト教徒として、信仰者として、あるいは教会として命じているのは、あくまで「ひとりひとりがキリスト教徒として正しく生きる」ということであって、信仰生活の目標は伝道や宣教ではなく、むしろ、「内なる人を強め、最終的に天国に凱旋すること」が目標なのです。



 すなわち、そうしたパウロの信仰に立つのであれば、宣教・伝道とはどういうことかと言えば、それはキリスト者が神の御前においてこの世の中で信仰的に正しく生きることこそがまさにキリスト者の宣教・伝道であって、そのような人たちが集まり共に神を礼拝することこそがまさに宣教・伝道であるのです。

 

 コリントの信徒への手紙2 7章1節
1)愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。

 
 パウロは教会が、そうした人間的な罪の誘惑に負けることのないように、常に信仰において、神の御前に正しくあることができるようにと、「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め」と、信仰者は常に、神の御前に自分を置いて、イエス・キリストの御名によって罪を告白し、罪を悔い改める生活を続けることを勧めます。

 そして、それは決して、個人的な罪の悔い改めだけに留まらず、キリスト教会にも、神の御前に教会として罪を悔い改めることの大切さをパウロは指摘します。


 コリントの信徒への手紙2 7章2節、9節
2)わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。

9)今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。



 パウロは、これまでコリントの教会に書き送った手紙において、かなり真摯に信仰における問題についてコリントの教会の抱えている罪を告発しました。

 それは、コリントの教会の人々を一旦は深い悲しみに沈めるものでありましたが、しかし、それはまさに神の御前において真実な内容であるからこそ、コリントの教会の人々は、パウロの指摘する罪を認め、自分たちがまさに神と人との前において罪深いものであったことを告白し、コリントの教会をあげて罪を悔い改めるに至ったのです。

 そして、パウロは今回もまた、悲しむべき出来事が起こったにも関わらず、今回の手紙においても同様に、コリント教会の人々が神の御前に罪を悔い改めてくれることを信じてやまないのです。


 わたしたちは、時に教会の中で問題を隠そうとします。それは教会の汚点として、教会の外の人たちに対して「良い証しにならない」という視点からそのように考えるのです。

 しかし、パウロはそれが決して教会にとって、またコリント教会の人たちの信仰において決して益とならないことを確信していました。

 むしろ、キリスト者も教会も、神と人との前に常に真実をもって、裏表なく、神の御前に正しく生きようとするところに神さまの憐みは大きく働くのです。

 そうではなく、むしろ、そうした汚点を不祥事として、教会が秘匿しようとする時、それはまさに神さまの定められた時に、公に暴かれる時がくるのです。そして、その時にいくら弁解したところで、ひとたび失われた信用を取り戻すことはできません。

 わたしたちはそうした「失われた信用を取り戻すことは人間には不可能である」ということを常に心にとめ、間違いを犯したのであれば速やかに神と人との前において、罪を告白し、罪を悔い改める生き方を選択する必要があるのです。

 神と人との前において罪を告白し、悔い改めることは決してキリスト教においては汚点でもなんでもありません。

 わたしたちが人間である限り、だれもが神の御前において「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)のです。それを偽って「教会には間違いはありません。」「信仰者・牧師は嘘を言いません。まちがいを犯しません。」と言い張るところに、信仰者の傲慢の罪があるのです。

 むしろ、わたしたちはこの世において、自分たちが神の御前において罪深い者であり、しかしながら、そのような弱い者であるにも関わらず、イエス・キリストの罪の赦しのゆえに神を礼拝し、この世において希望を抱いて信仰生活を生きることができるのです。

 それは神の憐みによるもの、神の祝福によるものであって、決して人間のやせ我慢や努力によって打ち立てるものではありません。

 人間のウソ、虚構、努力、欲望、願望。そうしたものによって建て上げられた教会というのは、まさに創世記におけるバベルの塔と同じであり、結局のところ、神さまによって破壊されるのです。それは神の御前において明らかなことであり、真実であり、それは今日のわたしたちにおいても、また真実であるとわたしは思います。

 
 

コリントの信徒への手紙2 4章1~5節
1)こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。
2)かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます。
3)わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
4)この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。
5)わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。 


  教会もキリスト者も、共にイエス・キリストの十字架と復活によって示された「神の救い」、すなわち、この「神の救い」をこの世において「証しする」ことが、キリスト者にとって、またキリスト教会にとっての存在意義です。

  パウロはそうした、「神の救いを証しする」ことが、実に多くの苦難に満ちていることを、その経験(Ⅱコリント11:16以下)から確信していました。

 すなわち、パウロはコリントの教会の信徒数や献金の額が多いことが、この世におけるコリントの教会が「真に教会である」ことの指標とすることなく、むしろ、この世において、コリントの教会が、この世の様々な悩みや苦しみに直面しつつ、しかし、そのような中にあって、神の祝福と導きによって、教会が形成されることこそ、コリントの教会がまさにこの世においてイエス・キリストを土台とする教会であることの指標であるとしました。

 だからこそ、パウロはここで、そうしたこの世の中にあってキリスト教会が困難に直面しているという事について、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」(1節)と告白しているのです。


 しかし現実はコリントの教会においては切実なものであり、コリントの教会から雄弁家であったアポロが去り、また巡回する十二使徒たちの教会からの伝道者たちが去り、そうしたなか、コリントの教会員だけの状況になり、そこにおいて教会の人々は、やはりこの世的な伝道方策や、あるいは当時において大勢であったユダヤ教に吸収合併されることも良しとする考え方に傾倒したのです。


 わたしたちの教会もそうですが、いわゆる伝道をして、すぐに人が増えるわけでもなく、教会としての年月が過ぎていくと、当然、教会の中もマンネリ化し、そうしたマンネリ化を打破するために、牧師も信徒も、「あれをやって信徒を増やそう」「これをやったら教会に人が来るようになる」と、そうしたこの世的なものの考えにて、教会をあたかも一種の商売として、この世に対してキリスト教の売り込みをしようという事に陥るのです。

  パウロはそうした、いわゆる「信仰的な下心」による教会の行動に対して、「かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだね」(2節)ようと、むしろ、そうした「信徒を増やそう」「献金を増やそう」というような神の御前における「卑劣な隠れた行い」を捨てて、また「悪賢く歩まず」、イエス・キリストが真実をもって十字架の死に至るまで忠実に歩まれたように、自分たちもイエス・キリストの真実さに倣って、「神の言葉を曲げず」「真理を明らかにする」ことによって、むしろ、自分たちはこの世において、ただ礼拝を守り、神の言葉に忠実であることを通じて、神と人との前に、すなわち、この世に対して、自分たちが真にキリスト者であり、キリスト教会であることをもって歩むことを勧めるのです。

 それは、自分たちがあの手この手で、すなわち「信仰的な下心」をもって信徒を獲得しようとするのではなく、むしろ、自分たちがこの世においてキリスト者として真実に生きるという姿勢をもって、「教会に行く・行かない」の判断を、「すべての人の良心にゆだねる」ことを言うのです。

 当然、その裏には、コリントの教会において、まさに「悪賢く」「神の言葉を曲げ」という事が起こっていたことを意味します。

 神の知恵ではなく人間的な「悪賢さ」。真実な神の言葉ではなく、そうした人間的な「悪賢さ」によって捻じ曲げられた神の言葉が語られている。


 礼拝説教を良く聞いてみてください。

 本当に「神の言葉」が語られているでしょうか?

 それは、人間的な悪賢さによって捻じ曲げられた神の言葉ではないでしょうか?

 教会の礼拝において語られる説教は、まさにこのいずれかです。「神の言葉」かそれとも「偽りの神の言葉」か。それは見かけ上、同じように見えますが本質的においては決定的に異なるのです。
 
 それはまさに「善と偽善」の違いであって、善は神から出ますが偽善は人間の罪から出てきます。 


 そして、現実問題として、まさにコリントの教会が経験したように、そうした「信仰者の偽善」が、キリスト教会いおいては大きな問題となるのです。

 中には、教会が全体として、そうした「偽善」に走っているケースも珍しくはありません。



 たとえば、なぜ、「教会にリーダーが必要なのでしょうか?」

 教会には「リーダー」なるものが存在しなければ、教会を組織し、運営することができないのでしょうか?

 むしろ、プロテスタント教会が「万人祭司」の信仰に立つのであれば、そうした「リーダー」なるものは一体どういう存在なのでしょうか?


 「ここの教会には青年が多いです」ということを言うキリスト教会の特徴は、すなわち、教会という組織において、その青年たちに、教会組織におけるポスト、すなわち「居場所」を提供しているのです。当然、そうした「自分の居場所」を求める青年は多く居ますから、「自分の可能性」を信じる青年は、そうした「自分の居場所」を提供してくれる教会に集い、そうした教会が青年で溢れかえるということは、別に神の祝福でもなんでもなく、ただ「青年のニーズと教会の提供するサービスが一致した」というだけであるわけです。

 教会が青年に対してそうした居場所を提供する。

 そのこと自体は間違ってはいません。わたし自身が、まさにそうした形で教会に導かれ、わたし自身の経験で申し上げれば、わたしは音楽が好きだったから教会に行き、そうしたわたし自身の趣味と教会の提供するものとが一致したために、今日に至ったということも言えるからです。

 しかし、それは信仰的と言えるかと言えばそうではありません。
 わたし自身の経験を言うのであれば、わたしはそうした自分が音楽が好きでみんなの前で音楽を披露できるという自分自身の欲求をただ満たそうとして、キリスト教会を利用していたという自分にある時、気が付いたのです。

 わたしは、他の人よりも熱心に教会の礼拝に出席し、まさに他の人たちが都合で奏楽の奉仕ができず、ピンチヒッターのような形で奏楽をすることが大好きでした。

 他の奏楽者の機会を奪ってでも自分が奏楽の奉仕ができることに、当時、わたしはその罪深さにまったく無頓着でした。


 音楽が好きで教会に行くようになる。そのこと自体が否定されるわけではありません。しかし、本質は、教会はわたしたち信仰者ひとりひとりが自分勝手を行ってよい場所ではなく、あくまでも「公の場である」ということです。教会は牧師のものでも、また信徒のものでもなく、ただ神さまのものであるのです。

 当然、それは牧師であってもまた信徒であっても自分勝手にして良いものではありません。問題は、教会において「奉仕」と「自分のやりたいこと」とは決定的に違うということです。

 パウロは、教会がまさにそうした「イエス・キリストを宣べ伝える」場所であり、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」(5節)と。

 すなわち、教会は「リーダー」たちの自画自賛の場ではなく、またストレス発散の場でもなく、牧師においては、牧師はまさにそうした教会に仕える者であって、アポロがまさに雄弁家として、まさにコリント教会の宣教リーダーとしてコリントの教会をグイグイと引っ張ったように引っ張ることが求められているのではないということなのです。

 教会はまさにイエス・キリストをこの世において、礼拝を守ることを通じて、福音を証しするところであり、キリスト者はまさにその礼拝において、自分の罪を悔い改めることをもって、福音を証しするのです。


 では、教会は若い人たちに対して、そうした居場所を提供してはならないのでしょうか?

 そうではありません。

 仮に居場所を提供するのであれば、それは神さまであって、わたしたちではなく、また教会でもないということです。それは「自分の居場所」は別に「若い人」に限定されるものでもありません。むしろ、すべての人に対して教会はまさに礼拝という居場所を提供しているのです。

 それはイエスさまの次の御言葉にも明らかです。
 
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)

 教会は礼拝を守る場所であって、それ以外のものではありません。

 そして、イエス・キリストはまさに、わたしたちすべての者を、まさに礼拝に招いておられるのです。

 それはイエスさまが招かれる招きによるものであって、わたしたち人間の信仰的な下心による宗教勧誘によるものではありません。

 そうなると、教会は礼拝や祈祷会などの他には、ほとんど行わないということになります。


 むしろ、それが良いのです。

 なぜなら、自分たちが伝道をしないのであれば、その教会に招かれる人すべてが神さまの導きによるものであることが分かるからです。


 少しでも自分たちの努力によって教会に人を招いたとしたら、その教会は、以後、自分たちが人を教会に招かないといけなくなります。そして、そうした教会に人が増えたとすると、牧師も信徒もなおさらそうした「宗教勧誘」の手法に熱心になり、そうした伝道活動はより加速します。

 しかし、教会の難しいところは、そうした人間的努力によって急成長した教会が、そのまま成長し続けることはなく、ある程度のところで礼拝出席も献金額も頭打ちになってくるのです。そして、その教会は、そこでいろいろと悩むのです。 

 そうした状況に陥った教会において、もはや「神の導き」なる不確定要素の強い選択肢は選択できません。
 今までみんなで頑張ってきた事によって現在の繁栄があるわけですが、そうした教会の牧師も信徒も、「礼拝や祈祷会以外の特別なことを一切やめる」というような選択は、あまりにも「無策」と同じであって、「そこに神の祝福があるはずがない」と考えるのです。



 以前、牧師の口から「羊飼いが羊を増やすことはできず、羊が羊を増やすのだ」という話を聞いたことがあります。

 当時は、そうした話を聞きながら、何となくそういうものだと納得していましたが、そうではありません。


 信仰においては「神が羊を増やす」のです。

 それはまさに信仰的な「賭け」であり、「礼拝(祈祷会など)以外の何もしない」というのは特にプロテスタント教会においてはナンセンスと受け取られることがほとんどです。

 しかし、パウロが戦った信仰の戦いとはまさに、神にすべてをお委ねするという戦いではないでしょうか?


 今日の教会における大きな誘惑は、そうした意味では、「羊が羊をどのように増やすのか?」ということが教会のあるいはキリスト者の至上命題になっているということです。

 そして、そうした「羊が羊を増やす」ことに熱心な教会は、当然、「羊がより羊を増やせるように」と願い、そうした人間的な手法により、そして、そうした数量的成功をまさに神の祝福として、どんどん神から離れ去ってしまうわけです。


 パウロはそうした人間的な思いで教会を形成することは不可能であり、まさに教会は礼拝において、神の言葉に忠実であることをもって、この世の悩み・苦しみの中で、神の憐みによって成長することを証言しています。

 うちの教会のある信徒の方から、「うちの教会は病人ばかりだ」と少し自虐的に言われました。

 確かに、わたしどもの教会は若い人は少なく、高齢者がほとんどで、どこかしら病気を持っている方がほとんどです。表面的には健康そうに見えても、そうでない人ばかりです。

 しかし、むしろわたしはこの教会が、そのような人たちによって神さまによって教会とされていることに深く感謝するのです。

 「わたしたちの教会以上に、神さまに憐れんでいただいている教会があるだろうか?」と。

 若い人が多い教会は、まさに若い人たちの熱意と力によって教会が維持されます。

 ところが、わたしどもの教会はそうした力も何もありません。しかし、そうした何もないところにおいてこそ、神さまはわたしたちを深く憐れんでくださり、この教会に人を招いてくださるのです。それは、わたしたちが特別何か努力をしているわけでない点において、まさに私ども教会において神さまが助け守ってくださっているということが「真実である」と言うことができるのです。

 もし、わたしたちが何かしら頑張っていたとしたら、そうした理解に至ることも可能だとは思いますが、しかし、「実感として」、どれほど神の助けを体験し、認識できるかと言えば、かなりの違いがそこにはあるのではないかと思います。

 中には、無理矢理?に「感謝」「ハレルヤ」と、自分(たち)自身に言い聞かせているような教会もありますが、「実感のない」にも関わらず、「感謝」ということを本気で言うことはできません。

 その意味で、キリスト教信仰は自虐的ではありません。表面的に見ればそのように見えるかもしれませんが、神の憐みを経験する人にとって、「感謝」という言葉はまさに「神さまの憐みを受け、深く慰められた」からこそ「感謝」の言葉が出るのであって、「苦しくても、『感謝』と言っていれば、神さまが祝福してくれる」というようなものではありません。

 確かに、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)という事も言われていますが、その背後には、「真実をもって神の言葉に従う」という信仰生活、そうした教会において「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という事が言われているのであって、牧師や信徒の自己中心的な思惑を実現するために、そうしたことが勧められているのではありません。

 そして、だからこそ「真実の神の言葉」が大切にされる教会であることは、教会が教会であるための生命線であり、まさにそうした教会であり続けることができるようにと、常に神の御前に願っております。

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