山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

 ローマの信徒への手紙は、ガラテヤの信徒への手紙(「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。」ガラテヤ6:11)と同様、パウロの晩年の手紙で、タイトルのとおりパウロがローマにあるキリストの教会に対して送った手紙となっています。

 また、極めてまとまった形で、しかも自分で問題を提起していき、それに対して信仰的な答えをもって回答をするという哲学的な話の進め方をする関係で、古来より「キリスト教の神学書」的なものとして理解され、そしてそのように註解をしている人も多くいます。

 それだけ、キリスト教信仰についてまとまった形で記されているものですので、当然、一気にこれだけのものが書かれたというものであるか細かい事はわかりませんが、ここではそうした「神学論文」という視点をひとまずおいておいて、「ある特定状況下において、パウロがローマにあるキリスト教会の信徒に対して宛てて記した手紙」という理解において、説明していきたいと思います。

 

 ローマの信徒への手紙1章1~15節
1)キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
2)この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、
3)御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
4)聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
5)わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました
6)この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――
7)神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
 
8)まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
9)わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、
10)何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています
11)あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。
12)あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
13)兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。
14)わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。
15)それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。


 さて、この手紙でパウロが書いているように、パウロがローマにあるキリスト教会にこの手紙を記したのは、神が「すべての異邦人を信仰による従順へと導くため」に、その福音宣教というパウロの使命によって、「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があ」るために、ローマの教会に行く必要があり、そのためにも、自分がローマに到着した時にはよろしく迎え入れてほしいという願いと、もうひとつは、自分がこれから行く時に、ローマにあるキリスト教会の人々の信仰が「パウロと同じである」ということのために、パウロを受け入れる準備として、先に手紙で自分の信仰について、なるべく正確にそのことを伝えようとしたということがうかがえるのです。

 そして、パウロが語るべき、多くの言葉を重ねて説明すべき事柄は、まさに御子イエス・キリストについての事であり、もうひとつは、それが既に旧約聖書の言葉に約束されていたものであり、その約束は、ユダヤ人という特定民族だけでなく、「すべての異邦人を信仰による従順へ」と導くためのものであり、まさにそれが神の御心であるというわけです。

 なぜ、パウロがここまで丁寧に、自分の信仰のことを含めて説明しなければならないのか?

 それは、おそらく、パウロにとってローマにあるキリストの教会に行くのは、まさに「初めてのこと」であるからです。

 また、ローマにあるキリスト教会と関係が深いのは、使徒言行録の記述によればアキラとプリスキラという夫婦です。パウロはアキラとプリスキラが、まさに自分と同じ信仰であるということに気づき、そこで意気投合して一緒になりコリント教会を立ち上げ、その後、三人はアジア州のエフェソの教会を組織し、アキラとプリスキラはそこに留まり、パウロは宣教旅行を続けることになります。

 すなわち、パウロはローマにキリスト教会が存在することをアキラとプリスキラから聞かされており、自分もまた、アキラとプリスキラという信仰の兄弟姉妹の関係を使って、ローマにあるキリストの教会へ、自分自身がまさにアキラとプリスキラ同様の信仰を持っていることを伝え、自分のことをアキラとプリスキラと同様に受け入れてほしいという願いの下に、この手紙を記したのであろうと思うのです。

 当然、パウロは第二回目の宣教旅行においてアキラとプリスキラと一緒になっていますので、この手紙はそれ以降に出されており、おそらく第三回目の宣教旅行の最後においてローマに護送されますが、その時に記されたのではないかというところです。



 ローマの信徒への手紙1章16~17節
16)わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
17)福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 


 クリスチャンが、イエス・キリストを信じているのは当たり前です。牧師もイエス・キリストを信じていますし、信徒もイエス・キリストを信じています。それはごく当たり前のことです。

 ところがその基本中の基本である「イエス・キリストを信じる」ということ、すなわち「福音を恥としない」ということがどれだけその人の人生において実質的であるかは、かなり疑問があるところです。

 牧師ほど、あるいはクリスチャンほど、その実質を求められることはありません。

 そこが、まさに「キリスト教会である」か、それとも「キリスト教風のコミュニティーセンターである」かは、外見上同じでありますが本質的には全く異なります。


 クリスチャンがイエス・キリストを信じているというのは、まさに当たり前であって、そのとおりです。

 ところが、そのクリスチャンが世にあって、自分が直面する出来事に対して、「キリスト教信仰に基づいて」決断し行動するか、それとも「この世的な価値観に基づいて」決断し行動するかは、本質的には関わりがないのです。

 たとえば、ある行為が「罪である」場合に、「それは罪であり、自分の信仰に反する」と行わないのであれば問題はありません。

 ところが、場合によっては、わたしたちは「それは罪であるれども、自分は完全な人間ではない」と、すなわち「罪だと認めつつ、罪を犯す」場合、あるいは「信仰はあくまでも信仰であって、この世のことはこの世的に判断しないと生きていけない」として罪を犯す場合という具合に、あれこれと理由をつけて罪を犯す事が多々あるのです。

 その意味でキリスト教の信仰は極めてシンプルであるにも関わらず、キリスト者は自分たちに都合の良いようにいろいろと理由をつけてはその信仰を複雑にすることが多いのです。

 イエスさまがわたしたちに提示するものはまさにシロかクロかであって、しかも「クロ」という選択肢はあり得ないので実質的に一択問題であるのです。ところが、牧師も信徒もそうした単純な一択問題であるはずのところを「ハイイロ」の選択をするわけです。

 その意味で、「福音を恥としない」とはキリスト者であれば誰もが知っていることであり、当然の事として理解しているわけですが、しかし、その人が、実際に自分の生活において、まさにそのように生きているかといとそうでないケースが多いのです。

 だからこそ、礼拝出席の多い、あるいは献金の多い教会ほど、「福音を恥としない」という決断から遠ざかっていくことが多いのです。

 以前にも紹介しましたが、アメリカではメガチャーチと呼ばれる教会がまさに破産をしました。日本国内の教会においても、週報などで教会会計が紹介される事はあります(教会会計の透明性を確保するためにも必要)が、だからといって毎週のように金融機関からの借金返済のために献金が呼び掛けられるような状況はいかがなものかと個人的には考えます。

 立派な会堂、充実した音響設備は礼拝において必須かと言えばそうではありません。ドラムセットもバンドも必要ありません。

 礼拝はまさに主イエス・キリストのみ名によってキリスト者が集まるところはどこであっても、まさにそこが礼拝の場であって、キリストの教会であるのです。福音書においてイエスさまがあえて神殿ではなく、会堂でもなく、山や平地で人々に教えられたのは、すなわちそういう意味もあるかと思います。
 
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書18章20節)

 その意味で、キリスト教会が本当の意味でキリスト教会であるためには、「豊かさ」はあってもいいですが、しかし、その場合はこの世的な誘惑が多いということを肝に銘じておかなければならないということでしょう。この世的に流されれば、キリスト者はキリスト者でなくなります。

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」(マタイによる福音書5章13節)

 イエスさまの言われるように、キリスト者はまさに「地の塩」でありますが、この世においては、そうしたこの世的な判断を通じて「塩気のない塩」、すなわち「形だけのキリスト者」に成り下がることが多いのです。 

 パウロは「福音を恥としない」と宣言しました。それはまさにキリスト者として自分の信仰に決してそうしたブレがないことを言ったのであり、また、それこそがキリスト者がキリスト者として、すなわち、まさに地の塩であるために必要なことであるのです。

 当然、「信仰者が生きる」と言う場合、まさにそうした「福音を恥としない」という決断と行動によってはじめてそれが実現できるのであって、それはキリスト者として至極当然の事でありながらも、しかし、この世的には非常に難しいことでもあるのです。

 そうしたこの世にあって、自分の弱さと向き合いつつ、常に主の御言葉の前において自身の罪を悔い改めることができれば、それは実に幸せな生き方であると言えるでしょう。

 わたしが青年の頃、「わたしは二重人格者です。教会では信仰者の顔をしておきながら、実際の生活においてはこの世的に考えて行動しています。」という証しを聞きました。まさにキリスト者はそういう状況に立たされているのです。常に信仰的に選択をできれば良いですが、なかなか人間的には難しいところであるかと思います。しかし、だからといってこの世的に流されてしまっては信仰することの意味さえ失ってしまいます。

 だからこそ、わたしたちはこの世において信仰者として悩むのでしょう。
 しかし、それは絶望ではなく、そうした悩みに神さまが共に寄り添ってくださり、わたしの苦しみを顧みてくださる、そういう大切な時でもあるのです。

 主と共にある人生とは、まさにそうした悩み・苦しみと向き合うことの多い人生であると思います。しかし、だからこそ、主が悩み・苦しむわたしと共にいてくださり、それを無為な悩み・苦しみ、無意味な時間ではなく、主と共にある充実した人生へと変えてくださるのだと思います。
 


 

コリントの信徒への手紙2 13章1~13節
1)わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。
2)以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったら、容赦しません。
3)なぜなら、あなたがたはキリストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。
4)キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。
5)信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。
6)わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。
7)わたしたちは、あなたがたがどんな悪も行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。
8)わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。
9)わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。
10)遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。
11)終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
12)聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
13)主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。


 パウロはコリントの信徒への手紙2の13章において、「わたしがあなたがたのところに行くのは、これで三度目です。」(1節)と記しています。すなわち、先にも説明したように、パウロは先の第一の手紙を記した前後において、教会の中で不祥事が起こったことを記しています。

 すなわち、このコリントの信徒への手紙2が書かれた背景においては、これまでパウロが語ってきたこともありますが、加えて、先に起こったコリント教会内の不祥事について、そこで罪を犯した加害者と、その罪によって被害を受けた被害者との間において和解が成立していないことを問題にしています。


 このコリント教会の中における不祥事についてパウロは具体的なことを記していませんが、それはコリントの教会の人たちにとってみれば周知の事実であって、問題は、パウロが1節で「すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべきです。」と言っているように、不祥事がなお不祥事のまま、コリント教会の中で決着が着けられずに、誰も何もしないままの状態が続いていることを問題だとして、2節において「今度そちらに行ったら、容赦しません。」と、かなり厳しい言い方をもってコリントの教会の人たちに対して、不祥事についての和解を為すようにと、なかば厳しく命令しているのです。

 こうした教会の中における不祥事について、パウロはローマの信徒への手紙において「・・・、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」(ローマの信徒への手紙7:7)と言っているように、すなわち「罪とは律法によって定義されるものである」という点において、理屈のうえでは律法のないところに罪は起こらないのです。

 実は、これがキリスト教会に限らず、色々な組織において不祥事が起こっても、なかなかその事が表に出てこないのは、まさに罪のこうした性質によるものであって、それを罪を犯す人間がその事を良くも悪くもよく心得ている点にあるのです。

 すなわち、「Aは問題だ!」と誰かが叫べばまさにAは問題となりますが、誰もAについて「問題だ!」と言わなければ、Aは問題にならないというわけです。

 表現を変えて、たとえば教会の中において「Aさんはセクハラをした」と被害者が声を上げれば、まさにその教会の中において問題が発生するのです。すなわち、被害者が声を上げない限り、教会の中でいくらAさんによってセクハラが行われていたとしても問題にはならないのです。

 もちろん、そうしたことが神の御前において間違っていることは明白です。それはパウロがまさに1節で「二人ないし三人の証人の口によって確定されるべき」と言っているとおりなのです。


 ところが、キリスト教会を例にあげれば、牧師・信徒に限らず、教会の中でそうした不祥事が起こった場合に、牧師も信徒も自分たちの平常の信仰生活、礼拝を守りたいという「自分たちの平安」のために、不祥事の加害者に対して注意をするよりも、むしろ、「問題だ!」と声を上げようとする不祥事の被害者に対して圧力をかけ、「教会の看板に傷がつく」「キリスト教会で不祥事が起こったことがうわさになれば、地域に対して良い証しにならない」というような感じで、むしろ「問題だ!」と声を上げようとする、すなわち真実を明らかにしようとする被害者に対して「罪の赦しがキリスト者のあり方だ」とか、「『問題だ』という被害者にこそ問題があるのだ」とでも言わんばかりに不祥事を黙殺し、最終的には時の流れと共に「その内にほとぼりもさめるであろう」と、「何も問題は起きなかった」ということにすることを要求してくるのです。

 パウロはここであまり詳しいことを記していませんが、おそらく、言外に、まさにコリントの教会において上記のような、被害者に対してはそれを問題として取り上げず、また加害者に対しても、不祥事に対する責任についての話をするでもなく、ただいたずらに時間が過ぎるに任せていたのです。

 そのため、コリントの信徒への手紙1において「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。」(コリントの信徒への手紙1 6章6節)とパウロが言っているように、主だった教会の人たちがその問題を問題として取り上げなかったために、被害者はそれを、教会外の一般の裁判の席に訴え出ざるをえなかったのです。

 既に、先の記事で説明したとおり、パウロはそもそも教会は神の御前において自分たちの罪を告白し、悔い改めることがキリスト教会の信仰の基本であることを認めている点において、そうした教会内で起こったそうした不祥事についても、教会内でそれを信仰的に判断してきちんとなされるはずであることを、既にパウロはコリントの教会の人たちに伝えていました。

 そこでパウロは、そうしたコリント教会内における不祥事について、まさに一体誰が誰に対して何を行ったのか、その真実を明らかにすると共に、弁償すべきは弁償し、謝罪するべきは謝罪し、まさに 3節において「キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方です。」と、すなわちイエス・キリストを信じ、主と告白する教会内において、そうした不祥事が未解決のままに放置されれば、当然、神の裁きによってその罪が裁かれるであろうことをパウロは強調するのです。

 イエス・キリストを信じる信仰者が罪の中を歩むことは不可能です。その意味で、信仰者が自分の内に罪を未解決のまま放置することはありえない事であり、まさにそうしたあり得ない状態のまま神の裁きによって滅びる「失格者」になることがないようにと、パウロはそういう意味で、一連の不祥事における加害者も被害者も共に罪の告白と罪の悔い改めを通じて神の御前に互いが和解し、加害者も被害者も、双方が共に失格者にならないようにという切なる願いを込めて、深い愛情をもってこの事の重大さを説明するのです。

  パウロは、コリントの教会の人たちのために、自分自身がたとえ信仰者として神の御前に罪を犯して失格者のように見えたとしても、しかし、それによってコリントの教会の人々が神の御前に罪を悔い改め、善を行いうる適格者になることができるようにと切に祈っているのです。

 その意味で、これまでのコリント教会の人々に対するパウロの厳しい言葉のひとつひとつは、コリント教会の中に起こった不祥事を明らかにし、コリントの教会を破壊するため、コリント教会の信徒をバラバラにするためではなく、すべては 「壊すためではなく造り上げるため」(10節)であることを重ねて説明するのです。


 
 だからこそ、ここから見えてくるパウロのが言わんとする、教会の中における罪の赦しとは、今日的な教会で間違って捉えられているように、「無かったことにする。」「すべてを水にながす。」という事とは決定的に異なるということです。

 イエス・キリストによる和解とは、すなわち「加害者も被害者も共に神の御前においてお互いが罪を告白し、真実を明らかにする」ことを通じて実現する「神による和解の出来事」なのです。その意味で単純に「加害者を悪者にする」ことも目的としていません。 もちろん、ただ口で「ごめんなさい」で終わりということでもありません。

 たとえば被害者が加害者から受けた損害に対する賠償を含め、「和解」のための丁寧な取り扱いが求められるのです。その意味で「表面的な和解」でなく、まさに「真実の和解」を目指すことが求められるのです。 
 
 当然、そこには多くの祈りが奉げられる必要があるでしょうし、ただ加害者・被害者というだけではなく、教会が全体としてこの不祥事について公平に、信仰をもって関わることが求められることでしょう。その意味で、「真実の和解」とは、まさに教会全体の取組みとして、教会全体がこの不祥事について、まさに自分たちの痛みとして理解し、教会全体として神の御前に罪を悔い改めるという、神に対する教会全体の姿勢が問われるのです。

 
 そして、まさにパウロはコリントの教会がまさにそうした教会であるようにと、祝福と一致の祈りをもってコリント教会の人たちの上に祝福を祈るのです。この最後の聖句は、牧師が礼拝の最後の方で行う祝祷の文言として良く使われます。

 
 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
 聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。
 

 世のキリスト教会がまさにこうしたパウロの祈りに応える教会であるように願いつつ。

コリントの信徒への手紙2 10章1節、7~13節
1)さて、あなたがたの間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る、と思われている、このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います。


7)あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じきっている人がいれば、その人は、自分と同じくわたしたちもキリストのものであることを、もう一度考えてみるがよい。
8)あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇りすぎたとしても、恥にはならないでしょう。
9)わたしは手紙であなたがたを脅していると思われたくない。
10)わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいるからです。
11)そのような者は心得ておくがよい。離れていて手紙で書くわたしたちと、その場に居合わせてふるまうわたしたちとに変わりはありません。
12)わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。
13)わたしたちは限度を超えては誇らず、神が割り当ててくださった範囲内で誇る、つまり、あなたがたのところまで行ったということで誇るのです。 

 
  さて、パウロは、1節、10節で赤く示したところで言っているように、先の第一コリントの手紙の後において、コリント教会の信徒の一部から、かなり酷評されたことが分かります。

 その理由は、これまでのところでも説明しましたが、イエスさまの直接の弟子である十二使徒のようなイエス・キリストの弟子であるという権威、あるいはアレキサンドリア出身の雄弁家アポロのように、パウロはいわゆるカリスマ的な要素を まったく持ち合わせていませんでした。

 パウロはガラテヤの信徒への手紙で記しているように、あるいは使徒言行録において説明されているように、彼の信仰の土台は「復活の主イエス・キリストによる召命に 全てを負っていた」からです。すなわち、それは「自称使徒」といことであって、最初はパウロを受け入れていたコリントの教会の人たちも、そうした十二使徒たちの教会から派遣されてきた教師、あるいはアポロといった雄弁家の語るメッセージに、パウロには無い福音の力強さのようなものを感じていたのではないかと思います。

 パウロは、そうした信仰者として、福音宣教者として、アポロやその他の教師たちと自分とを比較される事について、そうした教会指導者としての比較が実に愚かなことであることを7節、12節において主張します。

 それは具体的には、「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。」「わたしたちは、自己推薦する者たちと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。彼らは仲間どうしで評価し合い、比較し合っていますが、愚かなことです。」という言葉によって示されていますが、すなわち十二使徒の教会からやってきた教師たちが誇示するのは、まさに自分たちが十二使徒たちの教会に所属し、そこから派遣されてきたのだというまさに自己推薦であり、また雄弁家アポロとの比較によって示される、人間的な能力・才能の比較であり、パウロはそうしたものは福音宣教者としての「うわべのこと」にしか過ぎないというのです。

 しかも、そうしたアポロや他の教師たちは、自分たちを、あくまでも仲間同士で評価し合い、比較し合っていると、その評価は福音宣教者として、実に偏った評価の仕方であるとパウロは主張するのです。


 こうしたパウロの指摘する点は、まさに今日において、いろいろとパワハラやセクハラ問題が取りざたされる牧師や教会に、案外にも共通することです。

 すなわちそれはどういう事かと言えば、本当の意味で信仰的な交わりがなされるのではなく、ただ「(信仰の方向性において、あるいは目指す目的において)お仲間」という非常にこの世的な、あるいはごく世俗的な「なあなあ」の関係のように、そこにあるのは「キリスト教界において主流派になろう」とするために、お互いに相手を良い評価でもって褒めちぎり、そうした「仲間同士の評価」によって、さも「自分たちは正統である」ということをアピールするのと同じであるのです。

 パウロはそうした、偽りの相互評価によって福音宣教者を評価するのではなく、パウロは、むしろ福音宣教者として、何度も命を落としそうになったにも関わらず、いまだ病がいやされていないにも関わらず、今なお生きて福音宣教者として活動できていることこそが、まさにパウロがイエス・キリストの使徒であるということを証明する唯一のものであると主張するのです。

 教会も牧師も、何か時流にのっているからこそ正統であるということではなく、十二使徒の権威をひけらかすのではなく、また雄弁家のような能力や才能によってやっているから正統なのでなく、むしろ、牧師も教会もこの世において困難の中にあって福音宣教の御業を行い続けることができている事において、それはまさに神の憐みによってはじめて実現する事柄である限り、牧師も教会も、自分たちの歩みが神の御前において正しいと判断することができるのです。

 そのためには、むしろ「信徒獲得/勧誘行為」というような教会の業はむしろ否定されなければなりません。そうではなく、パウロはわたしたちキリスト者は、まさにイエス・キリストの救いによってこの世において「信仰によって生きる」という「キリスト者としての証し」によって主による福音宣教の御業に参与するのです。



 しかし、そうではなく、むしろこの世にある教会は、そのような不確定要素の強い神の祝福、神の導きではなく、むしろこの世的なエコノミストとして、あるいは実業家として、また活動家として、すなわちまさにアポロが雄弁家として、福音宣教ではなく、むしろ弁論術によって相手を言い負かしたように、福音の本質とは全く異なる手法によって教会を大きくしようとしやすいのです。

 いわゆる「今、流行っている教会」「今、成長している教会」というのは、いったいどういう事でしょうか? それは本当に神の祝福によるものでしょうか? それが本当に神の祝福によるものだということを一体何によって証明するのでしょうか?

 わたしたちは案外にも、「数が増えている」「メディアなどの露出が多い」というような実に、この世的な、本質とは異なる価値基準によって、さもそれが「神の祝福によるもの」と理解するのです。そして、それに対して、正面から「そうではない」ということを言う人も多くありません。


 パウロは、牧師もまたキリスト者も、そうした教会の状況について深く考えることをせずに、「なんとな~く良しとする」ということをしてはいけないことをここで勧めています。

 そうではなく、まさにパウロは以下のように結論付けるのです。

コリントの信徒への手紙2 10章17~18節
17)「誇る者は主を誇れ。」
18)自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。
 
 「うちの教会は今すごく聖霊が働いています!」ということではなく、まさに「主から推薦される人」こそ、すなわち、それは地道な福音宣教の御業において、決して自分のことを他人に誇ることなく、ただ主によって福音宣教者として命が守られることによって、それは神さまが明らかにしてくださるのだというのです。 




コリントの信徒への手紙2 11章12~15節
12)わたしは今していることを今後も続けるつもりです。それは、わたしたちと同様に誇れるようにと機会をねらっている者たちから、その機会を断ち切るためです。
13)こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。
14)だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
15)だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう


 パウロの指摘する「偽使徒」は、まさに使徒の教会からやってきた教師でありましたが、彼らの語る内容は「(自分自身の罪の告白)証し」ではなく、「自分が使徒の教会に所属する人間である」という自慢話がその特徴であるのです。

  その意味で、その牧師が本当の意味でイエス・キリストの弟子であると言えるかどうか、それを見抜くためには、その人が語る証しを聞けば良いのです。

 マタイによる福音書4章8~9節
8)更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9)「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 

 その牧師の語る言葉が目指すものが何か、それは「この世的な繁栄」でしょうか? もし、そうであるなら、その牧師はまさにイエスさまの言われる「悪魔」であるのです。 

 あるいは、その語るとこが自慢話ではないでしょうか? もし、そうであるなら、その牧師は「サタンに仕える者」ということになるでしょう。


 理由は簡単です。なぜなら、イエス・キリストの救いがまさに「わたしたちの罪の赦し」である限り、わたしたちの証しは常に、「わたしと神さまとの関係性」が証しの内容になってくるからです。

 キリスト教における「罪」とは、わたしと神さまとの関係における「関係の破たん」をいうのです。その意味で、キリスト教における「救い」とは、まさに「罪の赦し」であり、それはわたしと神さまとの関係における「破たんした関係の和解」であるのです。

 だからこそ、それは「できる・できない」や「治らない・治った」ではなく、むしろ、「神さまによって生かされている事に対する感謝の応答」であるのです。


 しかも、パウロは案外にもそうした偽使徒(今日的には「偽牧師」?)が多いこと、また加えて、「模範的な牧師/模範的な信仰者」を装うことが良くあることであると説明するのです。

 
 パウロは、そうしたこの世において偽使徒(偽牧師)が多い事をあまり問題にする必要はないことをコリントの教会の人たちに対して勧めます。なぜなら、神の御前において悪を行って、その罪の報いを受けないことはないと確信しているからです。

 言い方を変えれば、牧師が悪を行って、その犯した悪の報いを受けないはずがなく、当然、神によってその牧師は自分の行った悪に応じた最後を迎えることになるとコリントの教会の人たちに勧めるのです。



 そしてパウロは有名な12章9~10節の御言葉を語ります。

コリントの信徒への手紙2 12章9~10節
9)すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10)それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

 牧師や信徒がこの世において誇るべきことがあるのだとすれば、それは第一に「誇る者は主を誇れ。」(コリントの信徒への手紙2 10章17節)であり、第二に誇ることがあるとすれば、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙2 11章30節)ということでしょう。

 では、教会が誇るべきことは一体何でしょうか?

 パウロはこの聖書箇所において神の力がわたしたち人間の弱さの中でこそ十分に発揮されることを明らかにしています。

 すなわち、教会がそこに集う兄弟姉妹の人間的力で頑張っている間は、神の力は十分に働くことはないのです。むしろ、それは自分たちの力を誇ることとなり、表向きは「神さまの栄光」でありながら、実は、自分たちの自慢になっている場合があるのです。

 そうではなく、主がパウロに対して神の力が人間の弱さの中でこそ十分に発揮されるのであれば、それは当然、教会(あるいは牧師・信徒)として、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、行き詰まりの状態において働く神の力によってはじめて、それがわたしたちが本当の意味で誇るべき神の力であることを示しているのです。


 若い人がいない。高齢者ばかりだ。そもそも人数が少ない。自分たちだけでは何もできない。などなど。

 そうした教会はこの世的には「魅力のない教会」ということになるでしょう。しかし、パウロに言わせればそうではないのです。むしろ、そうした困難の中にある教会こそが、まさに神さまの力が大いに働く教会であることを言っているのです。


 その意味で、わたしたちはそうしたこの世的にはマイナス要因しかない教会の状況を決して悲観する必要も、絶望することもないのです。むしろ、そうした教会において、主の憐みを求めるところに主の大いなる御業がなされるのです。


 教会が人間的な繁栄を求めるときに、それはまさにサタンに付け入る隙を与えるのと同じです。そして、牧師も信徒も気づかない内に、そうした教会は牧師も信徒も、信仰において「サタンの使い」に成り下がってしまうのです。それは非常に恐ろしいことであり、わたしたちはそうなりやすいのです。

 そして、一度、そうした方向に牧師や信徒、教会が流れてしまったら、自分たちの努力で元の状態に軌道修正することはほぼ不可能です。そうした教会はわたしたちの身の回りに多くあります。



 常に主の御言葉に耳を傾け、自分自身の罪を告白し、悔い改める。それは信仰の基本であって、もっとも大切なことです。そして、その事にどれだけ忠実であることができるか。それが常にわたしたちに問われているのです。

 

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