山陰からキリスト教・キリスト教会を考える


 ローマの信徒への手紙4章9~17節
9)では、この幸いは、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。わたしたちは言います。「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。
10)どのようにしてそう認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。それとも、割礼を受ける前ですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです。
11)アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。
12)更にまた、彼は割礼を受けた者の父、すなわち、単に割礼を受けているだけでなく、わたしたちの父アブラハムが割礼以前に持っていた信仰の模範に従う人々の父ともなったのです。 
13) 神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
14)律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。
15)実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。
16)従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。
17)「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。


 ローマの信徒への手紙4章23~25節
23)しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、
24)わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
25)イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。


 先の3章において、パウロは人間はすべての人が罪によって神の御前に滅びる定めにあることを明らかにしました。そして、そこから救われる可能性として、信仰によって人は罪から救われることが明らかになりました。

 イエス・キリストとは、まさにそのわたしたち全ての人間を罪の滅びから救済する唯一の存在として、パウロは信じ告白するのです。

 ところが、イエスとは、そもそもがユダヤ人として、ユダヤ人の中においてお生まれになった事からも分かるように、また旧約聖書の預言がいわゆる「全人類」を対象とするのではなく、あくまでも世界の中において、イスラエルの歴史を通じて、そしてユダヤ人の中のイエスという人物を通じて世に明らかにされた事から、当然、イエス・キリストの救いがまさに「全世界に対して、全人類に対して」ではなく、「イスラエルの民に対して」という形を取っていることから、それが「なぜ一度に全世界に対して、全人類に対してではないのか?」「なぜ、全世界・全人類の救いがユダヤ人という特定民族の中のイエスという形で示されたのか?」という疑問が起こります。

 パウロはそのことを、先にイスラエルの歴史において明らかにされたユダヤ教の律法との関わりにおいて、4章でそうした問いに対する回答を与えようとします。

 パウロはイスラエルにおける信仰の祖であるアブラハムの信仰に注目します。

 もともとアブラハムは旧約聖書を読むとわかりますが、アブラムと名乗っていた時に神さまから声をかけられ、神さまの約束される地へと家族を連れて旅だった人物であり、また、神さまによって息子イサクを生贄として捧げることを命じられたり、いろいろと旧約聖書においてはイスラエル民族の祖として知られている人物です。

 さて、ではアブラハムは何人かといえば、旧約聖書の記述に従えば「カルデア(バビロニア)人」になります。しかし、アブラムは神さまからの召しを受け生まれ故郷であるカルデアの地から旅立ち、また神さまから「アブラハム」という名前を与えられ、イスラエルの祖となるわけです。

 パウロはこうしたアブラハムの人生をまさに神の御前における正しい信仰の生涯と理解し、特に、モーセは神さまから律法を与えられますが、アブラハムはまだそうした律法とはほぼ無縁であることから、アブラハム物語のそうした特徴を元にして、「信仰による義」ということについて説明していきます。



 アブラハム物語は、アブラハムの生涯において、ある日突然、神さまからの一方的な介入にはじまります。
すなわち、アブラハムは信仰生活をしており、そうした信仰生活におけるアブラハムの神の御前における正しさが認められて神によって召されたのではなく、あくまでもアブラハムの信仰は、神さまからの介入によってはじまるのです。

 そこにおいて重要な事は、アブラハムはまったく「どこの誰でもなかった」という点であり、その「どこの誰でもない」アブラハムに対して神さまが声をかけ、それに対して、アブラハムはただ神さまの言葉を信じたということによって信仰の関係に入ったという点にあるわけです。つまり、他民族に対するイスラエル民族の優位性のようなものはまったくないというわけです。

 つまり、そういう意味において、ユダヤ人・イスラエル人に対して、まず神の救いが示されたということは、アブラハムの例でいけば、当然、「どこの誰でも良かった」という話になるのです。たまたま神さまが声をかけたのがアブラハムであり、神さまの呼びかけに対して直ぐに従ったということが、アブラハムの義(神の前における正しさ)であるのです。

 そして、当然、アブラハムはまだ割礼を受けていませんし(神さまに導かれるようになってから割礼をうけます)、そして神さまがアブラハムと結んだ信仰とは、それは「(神さまから与えられた神さまとの)約束」というものであり、それは当然、モーセの十戒にはじまる律法を守ることとは直接は無関係ということになるのです。

 ところで、神さまの人間の信仰による義が、まさに信仰によって人間が義とされるのであれば、アブラハム以後のモーセに対して示された十戒と律法とは一体何になるのでしょうか? アブラハムにおいて信仰が完成しているというのであれば、モーセの十戒・律法はまったく無意味ということになります。(そのことについてパウロは次の5章で、十戒・律法の必要性とは、それは人間が罪を認識するために必要であることを説明するので、この点については次の5章の説明にゆずります。)


 パウロは、そうした「信仰による義」が神さまのアブラハムに対する「約束」であって、そして、その意味は、アブラハムがただイスラエルの先祖として、信仰により神の御前に義とされたというだけに留まらず、いまやイエス・キリストの登場によって、その「約束」がすべての人類に対して明らかにされたのだと説明するのです。

 すなわち、パウロはアブラハムを信仰の模範として、その解釈は正しいのですが、イエス・キリスト以前におけるイスラエルの旧来の信仰(律法遵守によって人は神から正しい者とされ、神の祝福を豊かに受けることができる)を飛び越して、イエス・キリストの救いの旧約聖書における信仰の「ひな型」としたわけです。

 そういう意味で、福音書に報告されている歴史的なイエスさまの信仰と、パウロの解釈を通じて教えられるイエスさまの信仰とを比較すると、そういう意味では食い違うところもあり、研究者によっては「キリスト教=パウロ教」だという意見もあるくらいです。



 さて、まあここではそうした細かい事には踏み込まず、パウロのそうした信仰から見えてくる教会のあり方についてどういう事が言えるかというと以下のような感じになるかと思います。


1)神の救いはイエス・キリストの登場によって、全ての民族に対しての救いであることが明らかになった。

 教会の中では、よく世界をキリスト教会の「中」と「外」とに分けて考えられ、人を「キリスト者」「教会に来ている人」と「求道者」「未信者」という二分化して考え、前者は「救いが約束されている」けれども、後者の人は「救われないと滅びる」というような感じで教えることがあります。

 パウロの主張では、そもそもイエス・キリストの救いは、すべての人間に対して開かれたものとして説明されており、その意味において「救われないと滅びる」というような説明はあまり的確とはいえず、むしろ「すべての人が神の救いという約束を神さまからいただいているのだ」ということになるかと思います。

 また、上記のことと関係がありますが「キリスト者=救いが約束されている」ということではなく、厳密には「キリスト者=救いの約束を自分のものとした人」というような位置づけになるかというところです。

 クリスチャンでない人にとってみれば上記の違いはあまり分からないかも知れませんが、表現を変えれば「キリスト者=罪の告白が免除された」という意味ではないということです。

 別の言い方をすれば、「イエス・キリストを信じた人は、必ずしも天国に行くことが約束されているわけではない。」ということです。

 なぜなら、「キリスト者=救いが約束されている」ということであれば、「信仰者はたとえ罪を犯しても、イエス・キリストの救いは完全なので、それによってその罪が赦される」という事になるからです。


 ちょっと考えてみればわかりますが、「イエス・キリストの罪の赦し」というのは「キリスト者が罪を犯すための免罪符」ではないからです。つまり、一度、キリスト教の信仰を得て、その罪が赦されたのであれば、あとはどんなに罪を犯したとしても必ず天国に行けるとはイエスさまは言っていないからです。

 たとえば以下の聖書箇所がそうです。

 「その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」(ヨハネによる福音書5章14節)

 『女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕』(ヨハネによる福音書8章11節)


 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイによる福音書7章21節)



 また、非常に微妙なところですが、イエスさま本人がわたしたちの罪を赦すのではなく、イエスさまに言わせればそれは当然、神さまであって、その罪の赦しにおける最も大切なものが「あなたの信仰」であるという事であるのです。

 「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。」(マタイによる福音書9章22節)

 「イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」」(マルコによる福音書5章34節)

 「イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」(ルカによる福音書7章50節)他


 こうしてみると分かりますが、イエスさまはキリスト教を信じてキリスト者になった人物に対して、「もうこれで罪を犯しても、以後は罪にならない。」とは言わないのです。むしろ、「罪を犯してはならない」と言われるわけです。

 当然、イエスさまの教えに忠実であれば、キリスト者が(意図的に)罪を犯すことをも禁じています。 

 もちろん、「罪を犯す」とはわたしたちの「意図しない罪(過失)」の場合もありますので、犯してしまった罪については「罪を悔い改める」ことが、たとえキリスト者であっても当然、求められるのです。そして、それを実現するものがまさに「あなたの信仰」と言われる「わたしたちの信仰」であって、当然、牧師が罪を赦してくれるわけではありません。

 逆に、牧師、あるいは信徒リーダーのような人物が「あなたの罪は赦されない」とか、「あなたは罪(滅び)に定められている」とか、一種の信仰的な脅迫も当然、その人物の神の御前における大きな罪であって、「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」(マタイによる福音書18章6節)とあるように、そうした人物が神の国に入れる可能性はもちろんわたしが言うことはできませんが、限りなく難しいと言わざるをえないでしょう。



 また、そういう意味で、すべての人がイエス・キリストの救いという約束によって教会に招かれているのであって、教会とは「キリスト者(牧師や特定信徒)の専有物・私有物ではない」という事です。案外、この事が実際問題として事件に発展することがよくあります。



2)キリスト教会・キリスト教徒の使命は「すべての人をキリスト者にすることが目的ではない」という

 こういうことを言えば、「ではキリスト者は何もしなくてもいいのか?」という質問を受けることが多いですが、わたし個人の見解からすればキリスト者の使命は「イエス・キリストを受け入れ信仰に生きる者とされたゆえに、神を礼拝し賛美すること」が目的であると理解します。

 なぜなら、わたし自身の経験がそうですが、「人をキリスト教会に招くのは神さまの導きによる」ものであるからです。それは以下の聖書箇所にも明らかです。

 「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒言行録2章46~47節)

 すなわち、キリスト者がキリスト者としての信仰生活をきちんと行うことが、まさに神の宣教の業であるのです。
  



3)神の救いである人間の罪の赦しは、神を信じる信仰によって実現するものである。

 神を信じる信仰が形として外に表れる時、たとえばそれが「礼拝出席」「献金の額」「禁酒・禁煙」といったものに反映されるとという話を聞いたことがあります。

 古い時代には確かにそのように教えていた事もあったので、今もそうした一種のキリスト教会の伝統のようなものとして教会に残っている場合もあるかと思います。

 しかし、「罪の赦し」は「罪の告白」によらなければ実現しないわけですから、当然、それは信仰によって実現するものであって、「礼拝出席」「献金の額」「禁酒・禁煙」というような実際的行動を行ったから「罪の告白をしなくても罪を赦してもらえる」とはなりません。

 逆に、神の御前において「罪の告白」を行い、洗礼を受けてキリスト者になった人物は、以後、「罪の告白」が免除されているのかというとそうではありません。


 イエス・キリストによる罪の赦しとは、言い換えるなら、「イエスさまが神さまとわたしたちとの間を取り持ってくださることによって、わたしたちは何時でもどこでもイエス・キリストの名によって罪を告白する時に、その罪を赦していただくことができる」という性格のものであるのです。

 つまり、「洗礼を受ける」とは「罪の告白を伴う信仰生活の始まり」であって、「一度だけ罪を告白したら、あとはどんなに罪を犯してもそのすべての罪が自動的に赦される」ということではないのです。

 むしろ、聖霊の助けによって、「わたしたちは常にイエス・キリストと共に居る状態に置かれているので、努めて、罪を告白し、罪を悔い改めることが求められている」というほうが正しいのです。

 だからこそ、イエスさまは救われた人に「罪を犯してはいけない」と言われるのです。



4)イエス・キリストこそがキリスト者において主である。

 先ほどの話と少し重複しますが、イエス・キリストこそがキリスト者にとっての唯一の主であり、それは言い方を変えれば、牧師はイエス・キリストに次ぐ、次の位ということではないという事です。

 その意味で、キリスト教会の中で牧師や特定信徒が礼拝等の式中において奉られるようなことがあってはなりません。

 キリスト教会におけるすべての権威はイエス・キリストに属し、イエス・キリストの下においては牧師も信徒も関係なく、信仰を共にする愛する兄弟姉妹であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもないのです。

 『このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。』(フィリピの信徒への手紙2章9~11節)


 しかし、キリスト教会の規模が大きくなるにつれて、組織が大きくなるにつれて、そうしたやり方では全体的な動きが取れないために、一種の上下関係のような仕組みが形成されることがあります。

 そうした「仕組み」自体が悪なのではないですが、問題は、それを利用して牧師(あるいはその他の特定信徒)が本来ないはずの権威を教会の中で振るったりする事が起こるわけです。

 その意味で、そうした罪から離れるためにも、キリスト教会は「あまり大きな教会にならない」というのが得策ということになります。


 イスラエルの過去の失敗から学ぶのであれば、教会組織が大きくなれば、人間は罪人に過ぎないので、当然、その組織の中が人間の罪によって汚染されてきます。そして、まさにそうした人間の罪をほったらかしにした結果、信仰共同体の中で搾取が起こり、不正が蔓延し、結局は神の裁きによって滅びるという結末を迎えたのです。

 しかし、案外、そうしたことを学んでいない教会があるということと、よほど気をつけていないと、そうでない教会もいつかはそうなってしまう危険性を常に秘めているということです。
 
 

 ローマの信徒への手紙を読み進めていくためには、ある程度、パウロが示す世界・神・人間(ユダヤ人と異邦人)・罪・救いということがどういうものであるかを把握しておく必要があるので、まず、簡単に1・2章の内容のおさらいをしておきます。


 パウロはまず、1章から説明しているように、イエス・キリストによる救い、すなわち福音が特定民族のためのものではなく、ユダヤ人もギリシャ人も関係なく、すべての人に対する神の救いであることを宣言します。

 そして、この世界における大前提として、神は世界において御心(正義)を行われることが言われます。そして、そうした神の御心、言い換えれば「真理の働き」を妨げるものである人間の(信仰心や行いに関わる)罪に対して、神は怒りを現し、当然、そうした人間の行為に対して報いをもってかえりみられることを説明します(ローマ1:18)。

  たとえばパウロは、ローマ1:20において「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」と説明するとおりです。

  すなわち、パウロの示すキリスト教信仰の大前提は、世界とはそうした神によって創造されたこの世界において、神とはご自分の正義に基づく真理の働きを行われる方であり、その神の御前において人類はユダヤ人もギリシャ人もその他の異邦人もなく、すべての人間が等しく、神の大きな真理の働きの中に置かれていることを説明します。 

 つまり、わたしたちが生きているこの世界はそうした神によって創造され、神が支配する世界であり、その世界においてイエス・キリストの救いとは、ユダヤ人に対して限定的に示された神の救いではなく、人類すべてに対して開かれた神の救いの業であることを提示するのです。そして、その最初に神のそうした啓示、すなわちモーセの十戒をはじめとする律法を受けたのはユダヤ人であると説明するのです。


 では、そうした神から律法を与えられたユダヤ人は、神とのそうした契約を結んだ事により、当然、律法を遵守する責任を負うことになるのですが、その他の異邦人、すなわち神から律法を与えられていないギリシャ人は、当然、律法を知らない、神と契約を交わしていないわけですから、律法に「罪として規定されていること」をギリシャ人が行ったとしても、それは神と契約を結んでいないのだから罪を犯したことにならないのかというと、パウロはそれに対して「違う」と答えるのです。


 ローマの信徒への手紙2章6~14節
6)神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
7)すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
8)反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
9)すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
10)すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
11)
神は人を分け隔てなさいません。
12)律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
13)律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
14)たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。


 モーセの十戒をはじめとする律法はユダヤ人に対してしか示されておらず、その意味で、神の正義(あるいは、裁き)の働きはユダヤ人に限定されているように思えますが、そうなのではなく、この世界が神さまによって創造され、神さまがこの世界における唯一の正義なる方である限り、人類はその神さまによる支配下にあり、正義の執行を免れることはできないと説明するのです。

 すなわち、人類は神さまによって創造された被造物である限り、被造物として神さまの正義の前に立たされており、誰一人、神の裁きから逃れることのできる存在はないのです。そのことはたとえ律法を一度も聞いたことがない人間であっても、その行いにおいて神の御前に義を行うのであれば当然、神さまによって正しいこととされ、神の御前に悪を行うのであれば当然、その犯した悪に対する報いを受けなければならないということであるのです。

 それはすべての人間の中にいわば「良心」ともよべる善を行う要素を持つというような性善説を取るのではなく、ユダヤ人以外の異邦人にとってみれば、まさにそうした(善かれ悪しかれ)自分自身の生き方こそが、ユダヤ人にとっての律法と同じように、すべての人類が神の支配下におかれ、決断・行動といった事に対する報いを受けるというわけです。


 ローマの信徒への手紙3章1~4節
1)では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。
2)それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。
3)それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
4)決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。

 そうした主張を受けて、3章においてパウロはそうしたユダヤ人と異邦人において、まずユダヤ人が神によって選ばれ、律法を与えられたことについて、どういう優れた点がユダヤ人にあるのかについてこのところで以下のように説明します。

 神はユダヤ人を選ばれ、彼らに対して律法を与え、神と民という契約関係に入りました。その点で、他の民族に対してユダヤ人は、まず「神の言葉をゆだねられた」事が彼らにとって、他の民族に勝る大きな優れた点であるということが言えます。

 ところが、イスラエルの歴史においてユダヤ人たちは神の言葉に忠実であるどころか、むしろ不忠実であったのです。

 そうすると、神がそうした信仰的に不忠実なユダヤ人を選んだのは「神の過失」であって、「そのような先見の明を持たない神の裁きが世界において正しい」などと主張することはできないのではないか。すなわち、神の御言葉に不忠実なユダヤ人によって、その神までもが「世界において正しくない存在である」とされる事は正しいだろうか、そのような神に世界を正しく裁くことが可能だろうかと問うわけです。当然、パウロは「世界において正しくない神が、ご自分の正義に基づいて世を裁くことは不可能」とみるのです。

 つまり、「神の裁き」がまさに「正義」であるか、それとも「不義」であるのかを考える上で、人間が善悪の判断基準となり、神の善悪を裁くことができるかと言えば、「それはない」というのがパウロの主張です。

 なぜなら、神が創造されたこの世界において、人間はすべて被造物であるという事から、人間の内なる判断基準は当然、神の創造の後のものであって、それが神の創造を超えて正しいということはありえず、逆に、どれだけ人間が「正義」なる基準をもって神を裁こうとしても、この世界が神によって創造されたものである限りにおいて、「神の正義」の前には、人間の正義というものは存在しえないのです。

 それはイザヤ書にかたちを変えて言われていますが、基本的には共通した神理解・人間理解に立っています。

 『「災いだ、土の器のかけらにすぎないのに/自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか/「何をしているのか/あなたの作ったものに取っ手がない」などと。』(イザヤ書45章9節)

 そして、パウロはそうした信仰的な神理解・人間理解に立つのです。

 

 パウロは、神を信じているユダヤ人もそうでない異邦人も、すべての人が神によって創造された被造物に過ぎず、いくらその人が神の御前において、自分が正しいと信じることを行ったところで、それは神の御前においては決して正しくあり得ないと理解しました。それはたとえば、ユダヤ人が律法に従って生活したとしても、それはその人が「自分は律法に従って生活をした」というだけであって、その人が神の御前において正しいか、正しくないかはどこまで追及しても分からないからです。

 つまり、神を信じている人も、神を信じていない人も、そのままで、あるいは自分が神の御前に正しいと思っていても、そうではなく、神が唯一の正しい方である限り、わたしたち人類はユダヤ人であろうが、異邦人であろうが罪人に過ぎないのだということをパウロは説明したのです。

 しかし、ユダヤ人はモーセの律法を通して、他の民族に先駆けて神の御心を知る、すなわち神を知ることの特権を受けました。ところが律法を行うことを通して、たとえそのように神さまから特別に律法を与えられ、また律法を守ったとしても人間は本質的には罪から救われえないということが、イスラエルの過去の歴史における一つの結論であったのです。

 人間の側からなる神に対する如何なる行為も神の御前において正義を主張することができないのであれば、ユダヤ人をはじめ異邦人にも人間をその罪から救いうる可能性はないことになります。

 ところが、まさに人間の可能性が全く潰えたところに、イエス・キリストの救いが明らかにされたのです。


 ローマの信徒への手紙3章21~24節
21)ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
22)すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
23)人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
24)ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
 

 今や、ユダヤ人をはじめ、全人類に対して律法を守ることとはまったく関係なく、しかし律法と預言者によって「この方こそが救い主である」と立証されて、神の義がわたしたちに示されます。

 すなわち、この神の義、これまで論じられてきた「神の正義」が、まさにイエス・キリストという人物を通じて明らかにされた「神の御心」であったわけです。

 それまでユダヤ人に対しては、律法を完全に守ることを通じて、神の救い、祝福に与ることができると信じられていたところに、そうした事とはまったく無関係に、このイエス・キリストを信じる信仰によって全てが神の御前に正しいとされる神の救いが示されたのです。

 当然、それは全人類に対して示されたものであって、ユダヤ人やギリシャ人といった民族的なこと、あるいは社会的地位や年齢・性別といったあらゆる人間を差別することなく、神の側から一方的に、等しくすべての人に対して示されたのです。

 すなわち、イエス・キリストの救いによって示された人間を罪から救う神の救いの業は、それまでのモーセの律法を遵守することにとは無関係に、しかし、旧約聖書が預言したイエス・キリストを信ずる信仰によって、はじめて実現する神の救いであるのです。


 さて、ここまできて、3章の本論に入っていきます。

 イエス・キリストの登場以前の世界において、「神の救い」とはユダヤ人に限定されておりました。しかも、ただ「ユダヤ人である」ということではダメで、「ユダヤ人」という前提条件を満たしてなお、「律法の遵守」という律法の実践を通じてはじめて、神との関係が正常になり、その状態を維持することを通じて神の祝福を豊かに受けることができるものと信じられていたのです。

 それは、言い方を変えれば今日のキリスト教会の状況にもかなり近いところがあるわけです。

 今日のキリスト教会では、「キリスト教」がまさに当時のユダヤ教に相当し、「キリスト教徒である」ということが神の救いの前提条件として理解されることが多いのです。

 たしかに、神の救いは「信仰により」、わたしたちの(宗教的修行のような)行いによらずイエス・キリストを信じる信仰によって神の御前においてわたしたちは義(神の前に正しい者)とされるのですが、パウロが当時の人々に伝えようとしたことと同じように、「神の救い」は「キリスト教会の内側に限定された神の救い」ではないということです。

 案外にも、キリスト教会においてよく感じるのは、「自分たちこそが神によって救われた者である」という信仰理解です。その意味で、当時のユダヤ人の信仰としては、自分たちがユダヤ人であるからこそ、「神から見捨てられることはない」という楽観的な信仰観がありました。

 しかし、イエス・キリストの福音は、イエス・キリストを信じる者が信仰によって救われることを伝えますが、問題は、そのようにして「クリスチャンになったことが救いを確約するものでない」ということです。

 たとえば、わたしたちは洗礼を受ける時に「自分の罪の告白(「救いの証し」と言ったりもします)」ということを行い(ひょっとすると、こういうことをしない教会もあるかもしれませんが・・・)ますが、この「罪の告白」は洗礼を受ける時に、その人の生涯において「一回だけやればOK」ということかというとそうではありません。

 わたしたちはその生涯において一回だけ水による洗礼を受ければ良いのですが、それはキリスト教信仰における始まりであって、わたしたちはその生涯にわたってイエスさまの御前において、自分自身の罪の告白をすることの自由を与えられるのです。

 すなわち、洗礼を受ける時の罪の告白は、わたしたちの信仰の生涯における第一歩であって、それはわたしたちが生涯にわたって続けることであり、まさにわたしたちの罪の告白をもって、わたしたちはわたしたちの罪をすべて赦してくださる「イエスさまを信じる」ということが可能となるのです。

 ヨハネによる福音書13章8節
 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

 上記の御言葉は少し抽象的な感じをうけますが、「足を洗う」という行為が、「(あなたの)罪を赦す」という意味であると解釈するなら、イエスさまの弟子の中でも年長のペトロさえ、イエスさまの罪の赦し(ここでは「足を洗う」という行為)をいただかなければ、イエスさまと無関係になってしまうという、まさにそういうことであると理解できるわけです。

 すなわち、わたしたちは何をもってイエスさまを信じていると言うことができるかと言えば、それは「罪の告白」を通してはじめてであるのです。



 ところが、旧約の時代いおいて、またイエスさまの時代において多くの人が誤解した信仰的理解は「祝福(豊かさ)とはその人の信仰的な正しさによる」というものでした。

 それは神さまのみ前に正しく生きる人は、神さまの御前においてその人が正しいことから、その人は神さまから多くの祝福を受け、その結果として当然、豊かに祝福されるであろう、というものです。

 旧約聖書のひとつの表現方法として、神の祝福の多寡を、この世的な財産、すなわち金銀や子ども・子孫の数、あるいは年齢の多さによって表現されました。

 つまり、この世的に出世する人は、当然、神の御前において正しく生きているからこそ、神さまの祝福によってそのように出世するのだと昔の人々は理解したのです。それは案外、今日の教会においてもそれと同じように考え、判断されることが多々あるのではないでしょうか。


 ひとつ例をあげますと、教会で様々な集会を催し、その度ごとに献金を募り、牧師が会員に友人を連れてくるように勧める(命令)とします。その結果として、教会に多くの人が訪れ、献金も多くささげられることであるかと思います。

 すると、牧師はその結果に対してどのように教会員に言うかといえば、「みなさん、神さまに感謝しましょう! みなさんの熱い奉仕によって、わたしたちの祈りが神さまによって聞かれました。神さまが大いにわたしたちを祝福して下さいました!」というようなことです。

 では、それは本当でしょうか? 

 まあ、牧師はそう感じるでしょうし、信徒もそのように感じているでしょうし、すべての人が「何となくそうかな。」と思って終わりだと思います。

 では、キリスト教に限らず、他の宗教においても同じような事が起こるのであれば、そうした他の宗教においても、イエス・キリストの神が祝福してくださっているということなのでしょうか?

 あるいは、その逆を考え、いろいろやったけれども少しも人数が増えず、献金もささげられないというのであれば、それは「サタンの仕業」でしょうか? それとも「神に呪われている」のでしょうか?


 キリスト教会は、一種、この世の中にあって、この世とは隔絶した環境と言えます。そして、そこで起こる「良い事」は「神の祝福」と理解され、「悪い事」は「サタンの攻撃」というふうに理解されます。

 少し冷静になって考えればわかりますが、この世はそんなに単純ではありません。

 先の質問に戻って、教会員が熱心に奉仕をし、その結果、教会員が増え、献金が増えたというのであれば、それに対してわたしたち人間が言えることは、「わたしたち人間の努力という原因に対する結果がそうであった」ということであって、それ以上のこと、すなわち「これが神の祝福によるかどうか?」という問については、正直に「わからない。」としか言えないのです。

 旧約の時代、あるいはイエスさまの生きていた時代において、社会的に成功した人、出世した人、金持ち、権力者たちというのは、まさにその人の日ごろの行いが神によって正しいとされ、神さまからこの世的に多くの祝福を受けたからこそのものであると理解されていたのです。

 そして、そうした「理解」を根拠づけ、保証したのが、当時のイスラエルにおける宗教組織であったのです。

 確かに、中には神さまの御前において、清く正しく働き、まっとうな働きをなしてそうした地位に就いた人もいたことでしょう。しかし、福音書においてイエスさまによって告発されている「金持ち/サドカイ派」の人々の例を見ればわかるように、中には他人の不幸の上に自分たちの富を築いた人も少なくなかったのです。

 しかし、当時、そうした信仰的理解があったために、そうした金持ちが、自分の手を汚して得た金によって金持ちになったとしても、「自分がやった悪事は、神に罰せられるほどの悪事ではなかった」、あるいは「神はわたしの悪を罰することはない」と、むしろ自分の悪を肯定するようになっていたのです。

 しかも、そうして得た金を例えばエルサレム神殿に持って行き、そこで献金とするのであれば、祭司によって、その人は、他の人たちの前で、さらに多くの祝福をいただくことであろうと、一種のマネーロンダリングの状況に陥っていたわけです。

 そして、今日のキリスト教会における病理のひとつが、まさにそうした「(この世的)成功=神の祝福=その人の信仰的正しさ」というような理解にあるわけですが、それは、まさにイエスさまの時代のエルサレム神殿を中心としたイスラエルの社会全体がそうした病理に染まっていたことにさかのぼるのです。

 しかし、イエスさまはそうした信仰理解ではなく、神の祝福はいまやすべての人に対して明らかにされたのだと。そして、パウロもそうしたイエスさまの信仰を受け、神の救いは、そうした当時の信仰的と全く無関係に、すべての人に対して開かれたことを宣言したのです。

 そうだとするなら、「教会に人が増えた」「教会に人が減った」という事とは無関係に、神の祝福は世界に注がれているということになります。その意味で、「神の祝福」とは数量的に自明のものではなく、むしろもっと大きな規模で、例えば、天から雨が降るように、毎日、太陽が昇るように、神さまの祝福はそのようにわたしたちの「祝福」の概念を大きく超えたものとして理解する必要があるのです。

 マタイによる福音書5章45節b
 父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 

 そうしてみると、神の祝福とは「神が生きて今も働き、わたしたちと共にいてくださる」という事であるというふうに理解するのが妥当というふうに見えてくるわけです。その意味で福音書におけるイエスさまの発言は、エルサレム神殿を破壊することばであり、当時のそうした宗教組織の悪を破壊することばであるという事ができるかと思います。

 そして、イエスさまによって「キリスト教会/エルサレム神殿」という容れ物はもはや問題ではなく、神さまの救いはすべての人に開かれ、そして、すべての人が神の言葉を聞く権利をいただき、それに対する信仰の応答することの自由が各自に与えられたのです。

 その意味で、イエスさまはこの世においでになり、わたしたち一人ひとりと出会う、その機会をわたしたちに与えてくださったのです。

 わたしたちに求められているのは、与えられたその生涯において、イエスさまと真に出会う事(自分の罪の認識と罪の告白)であり、そこで出会って、イエスさまに感謝の応答をする自由を与えられているのです。そして、その自由は当然、わたしたちの側で拒否することもできる自由であるのです。

 それは、まさにイエスさまを信じる、その信仰を通じて実現することであり、教会とはそうしたイエス・キリストを信じる人々が共に神を礼拝する場であり、それは決して、「キリスト教会」という場所ではなく、むしろ、イエス・キリストを信じる人々が共に集まり、神を礼拝する場がまさに「キリスト教会になる」のです。

 キリスト教会がまさにキリスト教会であるために必要なことはすなわち、「イエス・キリストを主として告白する兄弟姉妹が、神を礼拝するために集まる」ということであって、当然、そこでなされるのは「一人ひとりが神さまの御前において自分自身の罪深さを覚え、罪の悔い改めへと変えられること」です。

 そうしたイエス・キリストを「信じる」という、その中身がなく、ただ一種のサロンとして、キリスト教風の歌声喫茶のようなものとして、「キリスト教会」という看板の建物に集まって、自分たちが楽しんでいるだけでは、それはまさに「キリスト教風の建物・集会」というだけであって、「キリスト教会」とは決定的に異なるのです。

 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(ルカによる福音書19章46節)

 イエスさまが言われたこの言葉は、まさに今日のキリスト教会に対して語られている真実の言葉です。


 キリスト教会は信仰者・金持ち・健常者・若者といったような人々に限定的に開かれたものではありません。

 イエスさまが探し求められた人は、むしろそうした人ではなく、この世において神に見捨てられたと感じている人であり、貧しい人であり、病気の人であり、また子ども・女性といった当時の社会における社会的弱者をイエスさまは訪ね歩いたのです。

 当然、そうした人たちによる教会が巨大な礼拝堂を建てることは難しいでしょう。だからこそ、イエスさまの昇天後、使徒たちが建てた教会はほとんどが「家の教会」であったのです。それは今日的には「家庭集会」と呼ぶものだったのです。

 今日のキリスト教会に求められているのは、立派な礼拝堂という容れ物ではなく、場所がどこであれ、イエス・キリストのみ名によって集まり、神の御前に真実の礼拝がささげられるところが真にキリスト教会となることができるのです。

 

 パウロの直面している信仰の問題は、すなわちユダヤ主義・キリスト教(イエス・キリストをメシアであると信じるけれどもモーセの十戒にはじまる律法の遵守、エルサレム神殿などの聖所に関わる事柄なども同様に重要と考える。自分たちはあくまでもイエス・キリストを信じるユダヤ教徒であるという認識。)とキリスト教信仰とがどのように共通しどのように決定的に異なっているのかという点にあります。

 そして、その信仰的な差異を知ることがまさにイエス・キリストの福音を正しく知ることであるとパウロは確信しているのです。そして、そうしたパウロの確信に基づき、パウロはそうした異邦人教会に訪れてきては、異邦人教会をユダヤ主義・キリスト教(厳密にはユダヤ教)に回心させようとするユダヤ主義・キリスト教の教師たちの教えについて、パウロはいったい彼ら、ユダヤ主義・キリスト教の教えの何が間違っているのかということを、このローマの信徒への手紙で明らかにしていくのです。

 そして、そうした論述を通して、パウロはもう一つの目的、すなわち、この手紙における自分の確信について、それがすなわちローマにある異邦人教会の人々の確信するところと同じであることを理解してもらおうとするのです。


 

 ローマの信徒への手紙 2章1節
1)だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。

 パウロはエルサレムからやってくるユダヤ主義・キリスト教の教師たちに対して、あるいはそうしたユダヤ教の教師に対して、「人を裁く者よ」と呼びかけます。すなわち、それが彼らの本質であるというわけです。

 言い方を変えれば、「人を裁く者」とは、すなわち「人を裁くための基準を自分の内に持つ者」という事です。

 しかしそれは、そうしたユダヤ主義・キリスト教の教師たちだけがそうだということではなく、キリスト教の信仰においては、「わたしたち人間すべてがそうした存在である」という解釈に立ちます。

 たとえばわたしたちは神を信じる信じないに関わらず、自分の内に何かしらの価値基準を持っています。それが信仰に基づくものであるか基づかないかは大きな問題ではありません。

 ところが、わたしたちはすべての人が天地を創造した神の御前において、自分以外の何者かを裁くときに、実は、その「わたしたちが誰かを裁く」という行為によって、わたしたちは神に対して罪を犯しているのです。

 どういうことかといえば、この世界において神さましか「正義」を持つ存在はいません。すなわち、人間は、その人が頭の良し悪しに関わらず、社会的に地位が高い低いに関わらず、当然、男女の違いにも関わらず、誰もが自分の内に「正義」を持たないのです。

 つまり、自分の内に正義を持たない人間が、他の人の正義を問えるかといえば、当然それは不可能なのです。

 ところがわたしたちは普段の生活の中で、自分を含めて他の人の事についても、そうした善悪を判断します。

 つまり、わたしたちが自分の中に持つそうした善悪の基準とは、すなわちそうした本来は自分の中に「正義」を持たない人間が、自分の内なる正義のようなものを基準として、他の人の善悪を判断しているということになるのです。

 ですから、そうしたわたしたちの内にある善悪の基準とは、すなわち神の「正義」などではなく、あくまでも自分自身の主観に基づく「相対的正義」であって、それは神さまの正義のようであって、そうではないのです。マタイによる福音書などに見る律法学者やファリサイ派の人々の正義は、まさに、イエスさまによって「偽善」であることが示されるとおりです(たとえばマタイ6:2以下、23:1以下参照)。


 特に、信仰者にとって自分の内にそうした信仰的価値観を持つ人にとって見れば、まさに「自分が信じているところのものが正義である」という考えに陥りやすいのです。こうした事は福音書では律法学者やファリサイ派の人たちが例として挙げられていますが、キリスト教会もキリスト者もそうした罪の誘惑に流されやすいのです。

 なぜなら、キリスト者が信じているところの「神」は「正義」です。ところが、だからと言ってその神を信じている信仰者が正義であるとはならないのです。それどころか、パウロはむしろ、キリスト者はそうした神を正しく信じる信仰によって、正しい信仰のキリスト者とは、自分自身が罪人であるという自覚をもって、神を神とする者であると信じているのです。

 ところが、エルサレムからやってきた教師なる人物たちは、まさに自分たちこそが神によってキリスト者とされた者であり、まさにそのゆえに自分たちの信仰をも正しいとする人たちであったのです。

 彼らは、イエス・キリストがメシアであると信じていますが、しかし、その一方において、ユダヤ教徒としての律法の遵守、すなわちエルサレム神殿を大切にし、男性であれば割礼を受け、日々の生活の中において日に3度の祈りと、食物規定に基づく聖なる生活をすることを要求したのです。


 また、今日的な例を上げれば、たとえば牧師が信徒に対して語る言葉が、常に、そうした「自分たちこそが正しいのだ」という、一種のマインドコントロールに陥りやすいのです。しかし、それは案外、そうした御言葉による力を得ていない、すなわち自分の罪が何であるかを認識しないように、自分自身に対して「わたしは神によって立てられた。神によって肯定されている。」と自己暗示をかけているような場合もあるのです。

 牧師が御言葉を使って、牧師自身の自己肯定を行う、そうした言葉を聞いた時にはだからこそ注意が必要なのです。あるいは、それは信徒リーダーに対する言葉として語られるような場合もそうです。

 牧師が自分自身の願望・欲望を、あたかも「神の御心である」と自発的に勘違いし、そのように自己暗示をかけ、リーダーをそのように洗脳し、教会員ひとりひとりに対して、その言葉に忠実であるように命令をする。そして、まさにそうした事によって教会が、ひとつの集合体として組織を大きくしていくわけです。

 当然、そこでは、そうした成長、拡大は「神の御心」「神の祝福」だと語られるだろうし、そうした成長や拡大がない、あるいは組織の弱体化が起これば、牧師は「信徒の献身が不十分である」「神のめぐみに対する感謝が足りない」というようなことを言うかもしれません。

 いつしか、教会は、そうした「願望・欲望」が牧師の人格から遊離して、教会の中の指導的な立場にある人たちを拘束し、洗脳するようになるでしょう。

 そうなると、それは「欲望・願望」が、教会という組織の中で肥大化していき、最終的には、「欲望・願望」によって、その教会全体が喰われてしまうことになるわけです。

 その場合、すべてがご破算になった時の牧師の答えはこうです。「信徒が勝手にやった。」
 信徒の答えはこうです。「牧師が命令したからそれに従っただけだ。」



 わたしたちは教会組織が罪に飲み込まれてしまう恐ろしさをあまりにも過小評価していないでしょうか。

 だからこそ、イエスさまは当時のエルサレム神殿を中心としたユダヤ教組織の持つ根源的な罪の問題について、エルサレム神殿とそうしたものが実現する間違った信仰について、福音書のなかでかなり厳しく批判しているのです。

 その意味で、教会は確かにこの世においてイエス・キリストのからだなる教会としてその役割を担っていますが、しかし、本質においては、常に教会がエルサレム神殿化してしまうことのないようにという、教会の自己絶対化という大きな誘惑に直面するのです。

 その意味で、規模が小さい教会はそうした誘惑に対して強いですが、教会の規模が大きくなればなるほど、そうしたこの世的なものとの戦いが激しく、そして大変になっていきます。

 特に、牧師も信徒も、自分たちの教会がどんどん大きくなることを願っているようですと、そうした誘惑に陥りやすく、そのようにして教会が実際に大きくなるのですが、世代を越えて教会としてやっていけるかどうかは、かなり不透明なところが多いようです。


 ローマの信徒への手紙2章2節-15節
2)神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。
3)このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。
4)あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
5)あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。
6)神はおのおのの行いに従ってお報いになります。
7)すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、
8)反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります。
9)すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、
10)すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。
神は人を分け隔てなさいません。
11)律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。
12)律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
13)たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
14)こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
15)そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。


 では、たとえば牧師が自分の欲望・願望をあたかも「神の御心である」と思い込んで、教会全体を巻き込みながらキリスト教の伝道を行うことは、その結果として、いくらかの人たちは教会で傷つき、信仰を捨て、教会から去って行ったとしても、その数に比べれば、その教会で洗礼を受けて信仰者になった人の数がはるかに上回るのであれば、人間は誰しも過ちは犯す存在なので、そうした牧師も教会も、神の御前に正しいとされるのでしょうか?

 決してそうではありません。

 パウロの言葉を借りれば、「あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」(ローマの信徒への手紙2:5~6節)ということです。


 ごく単純なことですが、この世でお金を儲ければ、お金持ちになれます。逆に、お金儲けをしなければ、お金持ちにはなりません。それは当然です。

 では、教会がこの世において行うことは、お金儲けでしょうか? 福音宣教でしょうか?

 それとも、「福音宣教=お金儲け」でしょうか?

 福音を宣教するとお金が儲かるのでしょうか?


 なぜ、教会は福音宣教を行うのでしょうか?
 あるいは、なぜ教会は信徒を増やさなければならないのでしょうか?


 おそらく、クリスチャンであればだれでも一度は考えるのではないかと思いますが、この世におけるキリスト教会は自己矛盾を内に秘めています。それは言い方を変えれば、「教会(あるいは教団)」という組織が本質的に持っている罪の部分です。

 これは加藤 隆氏がその著書で指摘していますが、キリスト教会は「福音」という「救い」によって、すべての人間を「救われる人」と「救いの必要な人(救われない人)」とに区別していると。たしかに、そうであるのです。



 では、パウロはこのところでどういっているのでしょうか?

 パウロはイエス・キリストの救いは完全であるけれども、しかし、それがわたしたちを自動的に天国まで連れて行ってくれるものではないことを、このところで説明しています。

 イエス・キリストの救いが実現してくれたものは、ユダヤ教の信仰における人と神との関係性の回復であって、それが回復してはじめて、わたしたち人間は神の御前に罪を自由に悔い改めるということが可能となったと理解しているのです。

 そして、問題は、その救いを受け入れた後に、それぞれの人間が、その生涯において犯すであろう罪について、あるいは発言や行動について、最終的に、「神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ローマ2:15)と言っているように、まさに「イエス・キリストによってすべての人が裁かれる日」に、そこではじめてすべてが明らかになるであろうというわけです。

 その意味で、イエス・キリストの救いは、そうしたイエス・キリストによる新しい人生の始まりを意味しており、当然、そうした新しい人生においてわたしたちがイエス・キリストによって与えられた命という恵みに対してどのように生きるか、人生をもって神に応答するかが問われているのです。

 つまり、その意味で、信仰は常に、神と個人との関係性が問題であって、教会という組織はそうした意味では本質的な問題とはならないのです。

 しかし、では、信仰が神と個人との関係性だというのであれば、教会はどうでもいいのかというと決してそうだとも言い切れません。なぜなら、わたしたちの信仰の原点として、そうしたキリスト教信仰を今日に伝える役割を教会が担ってきたからです。

 すなわち、キリスト教会が担っている大きな役割とは、すなわち教会が福音宣教の母体であると共に、それはまさに神を礼拝する礼拝をもって、わたしたちが礼拝を通じて、信仰生活をすることを通じて、世に証しすることによって福音宣教が実現するのです。

 その意味で福音宣教をけん引するのは、すなわち神さまであって、当然、教会は神さまに仕える、神さまの御言葉に聞き従うという具体的な行動、礼拝を通じてはじめて行われる神の御業であるのです。



 パウロは自分がこれから訪れようとするローマの教会の人たちに対して、「自分が行けばあなた方の教会は信徒も倍増し、献金も増えるであろう」とは決して言いません。むしろ、神の御前において、正しい信仰を保つことこそが大切であることを説明します。

 この世的な見せかけだけの発展・成長ではなく、信仰により、神の憐みと恵みによる真実の成長こそが、大事であることをパウロはここで示すのです。 
  

 

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