山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

 ローマの信徒への手紙7章5~6節
5)わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
6)しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。 


 ローマの信徒への手紙7章18~25節
18)わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
19)わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
20)もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
21)それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
22)「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
23)わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
24)わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
25)わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 


 キリスト教会において、「救い」とはすなわち「イエス・キリストによる罪の赦し」として理解されています。

 当然それは教会の中において、「救われた者」「まだ救われていない者」という価値観を与え、たとえばナザレン教会のような「聖霊のバプテスマ」といったようなことを信じている教会においては、さらに「救われた者」はさらに「聖霊のバプテスマを受けた人」「聖霊のバプテスマをまだ受けていない人」というような区別をもたらし、場合によっては、さらにその先に「聖霊のバプテスマを受けた証拠」として、異言・癒し・預言といった一種の聖霊体験を強調するキリスト教会もあります。

 これらの「聖霊のバプテスマ」「異言」「癒し」「預言」といった事柄については、聖書に書かれている事柄でもあるので、「そうした事はあり得ない」ということはしませんが、教会において問題となるのは、こうした事柄が、その教会の中において信徒間、あるいは求道者と信徒との間における支配・被支配の仕組みとして用いられることが、教会が注意しなければならないことです。

 いわゆる奇跡によってその人の生き方が変わることはあるでしょうが、問題は、こうした「異言」「癒し」「預言」などの事を「行う事ができた」という事が、信仰においてどれほどの意味があるのかというところです。

 ある教会では、まさにそうした奇跡を行うことができることを信仰のバロメーターのようにして捉え、たとえば「ある信徒が祈りによって病気を癒すことができる」というような場合に、その信徒は教会の中において、求道者よりも偉いのでしょうか? あるいは「癒しを行うことのできない他の信徒よりも信仰的に勝っている」という事になるのでしょうか?


 こうした「異言」「癒し」「預言」といったような聖霊の働きによる一種の霊的な能力を指して「(霊的)賜物」というふうにキリスト教会では言ったりします。

 しかし、キリスト教会でいうところのこうした「賜物」は、「その人の能力」ではなく、その人に対する神さまの憐みによる一種の贈り物と同じで、そうした現象の源は神さまであって、その人の能力としては理解しないのです。

 すなわち、くだけた言い方をすれば、それは「超能力」とは異なるのです。

 
  つまり、キリスト教の教会において、求道者も信徒も、そうしたことが可能である信徒も含めて、基本的にはみな同じ「罪人」なのです。


 先に書きましたが、「キリスト教の救いはイエス・キリストによる罪の赦し」であって、それは何か人間を本質的に造りかえるものかというとそうではありません。

 イエス・キリストの救いによって変化するのは人間ではなく、神さまとその人との関係性が変化するのです。

 その意味で、まだ信仰告白していない人であろうが、既に信仰を持つようになった人であろうが、キリスト教会の中において、そうした信仰による上下の区別のようなものはないのです。

 当然、それはプロテスタント教会がそうですが、牧師の信徒との関係も、ただ役割が異なるだけであって基本的には皆が一緒という理解に立つのです(「万人祭司」と言います)。



 ところが、中にはそうした事柄をもって教会の頂点に牧師が立ち、その中において信徒の階級制のようなものを形成し、信徒を自由にコントロールしようという教会も中にはあるのです。

 もちろん、それはキリスト教会の中における組織化であって、決してこうした組織化がすなわち悪なのではありません。 問題は、そうした組織化が教会全体のためではなく、何か別の目的のために利用されたりする場合に、それは問題となってくるのです。

 その意味で、信徒数が多い教会ほどこうした組織的な課題が大きくなることは想像に難くありません。

 教会が大きくなることは悪いことではありませんが、しかし、そこにはサタンの誘惑も強力になってくることを覚えておく必要があるのです。



 さて、パウロはそうしたキリスト者とは、ここで言っているように、その救いの前と後とにおいて、何か人間が新たに造りかえられるのかというと、たとえイエス・キリストを信じ、その罪の赦しに与ったとしても、決して人間が「聖なる存在に変わるわけではない」ということを明らかにしようとしています。

 その意味で、キリスト者とは「救われた罪人」であって、本質において、わたしたちが人間である限り、「罪人」であることから完全に自由になることはできないのです(もし、そうであれば聖霊もイエス・キリストも不要になるので)。

 だからこそ、求道者も信仰者も本質においては共に「罪人」であり、その違いは、イエス・キリストによって罪の赦しを得ているか、得ていないかというような、神さまとの関係性の違いしかないということなのです。


 そうなると、キリスト教会とは、そうした人たちが互いに集い、共に神を礼拝するところであり、キリスト教会における組織化は、まさにそうした「共に神を礼拝する」という目的を実現するための組織化であって、あるいは、そうした相互の交わりのための組織化であるべきであるという事が見えてくるかと思います。


 つまり、キリスト教会における組織化は「仕える」ための組織化であり、「誰かを仕えさせる」ための組織化ではないということです。

 当然、牧師は「信徒に仕えてもらう」ために存在するのではなく、「信徒に仕える」ために存在するのであって、それは基本的な事でありますが、案外にも、「牧師のワンマンのための信徒」というような理解でいる教会もあるんじゃないかなというところです。


 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」(マタイ23:11)

 別に牧師は偉いわけではないですが、牧師の本分は教会員に仕える事であり、教会員に仕えてもらうことではないということです。


 ローマの信徒への手紙6章1~2節
1)では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
2)決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 

  ローマの信徒への手紙6章8~13節
8)わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
9)そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
10)キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
11)このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
12)従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。
13)また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。 

 この世においてキリスト者として生きるとは一体どういう事であるか? また、この世におけるキリスト教会とはどのようなものであるのか?

 パウロは、イエス・キリストの救いによって罪を赦され、救われた人は、救われた者として神の御前に生きるようになるはずだという風に説明します。

 それはそれまでの生き方とは決定的に異なる生き方であり、イエス・キリストを信じ、その救いを受け入れることは、「罪に対する決別」と「神の御言葉に従って生きる」という、この二つのことがキリスト者において実現されていることが大切であると説明します。

 その意味で、「罪の赦し」とは一切の過去における罪であって、問題は、それが「自分が将来、犯すであろう罪までを含んでいない」という点にあります。

 すなわち、イエス・キリストによって罪を赦され、救われた人は、「将来にわたって罪を犯すことがない」のではなく、常にわたしたちと共にある神の言葉によって、自分の罪を示されることから、自分の罪を自由に告白し、悔い改めることが可能となり、結果として、罪から離れて生きることが可能となるということであるのです。

 そして、キリスト教会は、まさにそうした生き方を志す兄弟姉妹が共に集い、神を礼拝する場所であるわけです。



  ローマの信徒への手紙6章15~16節
15)では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
16)知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。 

 ローマの信徒への手紙6章22~23節
22)あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
23)罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
 
 その意味で、キリスト者とは「イエス・キリストを選択する者」ではなく、本質において「イエス・キリストによって選ばれた者」であるわけです。

 そして、そのことは当然、先の1~13節までのところからも分かるように、「選ばれた」とは言いますが、しかし、そこにおいて、自発的に信仰的な決断をすることが大切であり、「そのように神さまから期待されている」ということであるのです。

 ところが、キリスト教会は信仰者の集まりであると共に、同時に、それは罪に弱い人間の集まりでもあります。

 わたしたちが罪の支配から神の支配に移されているように、まさに罪から自由にされていることを十分に生かし切らない限り、わたしたちは1節にもあるように「罪にとどまろうとする」内なる力が働くのです。

 そうしたわたしたちを滅びへと導く罪の力がごく個人的なところで適正に処理されていれば良いですが、わたしたちの社会を見回すと分かるように、個人的な罪は個人に留まらずに、だんだんと共同体、すなわち教会を汚染するようになります。

 仮に、教会がそうした人間の罪によって支配されるようになってしまった場合、その行き着く先は破滅です。

 パウロは、罪が支払う報酬が死であり、しかし、罪から離れ、神の導きに生きる時に、その行きつく先は永遠の命であると説明するのです。

 すなわち、パウロに言わせれば、まさに人間も教会も、その信仰(生活)によって行きつく先は決まっているということを明言するわけです。


 わたしたちは本当の意味で、そうしたことを大事にしているかどうか? 案外にもサタンの誘惑するこの世的な繁栄を求めることが多いのではないか、そのように思うところです。
 

 ローマの信徒への手紙5章1~11節
1)このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、
2)このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。
3)そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
4)忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
5)希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

6)実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
7)正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
8)しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
9)それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
10)敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。
11)それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。

 キリスト教会における誇りであり、キリスト教会がキリスト教会であることの大切な点は、パウロがまさに1節で言っているように「神との間における平和」です。

  そして、キリスト教会はこの地上において、そうした「神との間における平和」、すなわち「神と人との和解」の上に成立する「人と人との和解」が、キリスト教会における大切な点となるわけです。

 それはキリスト教会とは、まさにイエス・キリストの救いに与る人が、互いに平等に、身分や性別、大人も子どもも等しく神を礼拝し賛美できるという自由が保障される信仰共同体であることを言っています。


 しかし、この世におけるキリスト教会は、ただそれだけの存在ではないことをパウロはその次において言っています。

  それは、3節の冒頭で言われているように「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」という、キリスト教会がこの世において「迫害・困難」に遭遇するものであることをパウロは肯定するのです。

 キリスト教国でない日本において、キリスト者が信仰的な少数者であることは、それだけ多くの人にとってキリスト教が信仰的に見て理解されにくい面があります。

 たとえば、多くの人のようにキリスト者は、神道や仏教などの慣習的な行事に対しては関わりを持たなかったり、教会によってはかなり強くそれを拒否することを信徒に教育するようなところもあるかと思うからです。そうした点を見て多くの人は「キリスト教は変わった宗教」というふうに思われることもあるのだろうと個人的にも感じます。


 ただし、わたしたちがこの世においてキリスト者であると証しすること、すなわち「日曜日の礼拝を(可能であれば)守る」というような、ごくキリスト者にとって当たり前の事柄を大切にすることは、それはキリスト者がキリスト者であることを自分自身に対して、またそうでない人たちに対するキリスト者としての生き方の提示であって、それはキリスト者にとって大切なことではありますが、しかし、あくまでもそれはわたしたちの信仰の一面に過ぎないということであるかと個人的に理解しています。

 むしろ、わたしたちがキリスト者として最も大切にしなければならないのは何かと言えば、わたしたちがイエス・キリストの罪の赦しによって、罪を赦された罪人としての自覚に立って、自分が置かれている場において隣人愛に生きるという点でないかと思います。

 個人的には、それがわたしたちキリスト者の信仰の一番の核であって、「日曜日に礼拝を守る」「お祈りをする」等々の信仰的行為は、その核の外側に位置する部分的な行為であるかと思うのです。

 そして、そうしたわたしたちキリスト者の信仰の核である「わたしはイエス・キリストによって救われた者である」という核心部分は、例えば、歴史的な「キリシタン弾圧」のような事でもない限り、現状の日本においてはそこまでの強烈な信仰的迫害は起こっていないのではないかと思います。


 むしろ、現状のキリスト教会においては、パウロのいう「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」という「苦難」が別の意味において理解され、牧師あるいは教会の指導者たちによって悪用されることが問題であると思います。

  すなわち、たとえば牧師が今よりももっと教会を大きくしたいという願望を持ち(その事をみんなの前に言うこともありますし、そうでない場合もあるでしょう。)、そのために教会員を自分の手足として使うために、そのための苦しみや困難が、まさにパウロの説明する「苦難」であると説明するのです。

 そして、そうしたやり方が定着してくると、今度は、そうした「苦しみ」や「困難」キリスト者の信仰の成長・信仰の成長に大切であるという風に教会の中が変質化してくることでしょう。

 そこでは自分から率先してそうした困難を引き受けるキリスト者が他の会員から賞賛を浴びるようになり、牧師もそうした人物を大事にするようになるわけです。


 個人的な感想を言えば、カルト化する教会は上記のような仕組みが教会の中に出来上がっている場合が多いのではないかと思います。より教会の中で奉仕する人が賞賛を受け、奉仕の少ない人は当然、その教会に居づらくなり教会を去っていくわけです。

 しかし、そうした教会を自由に去ることが選択できればまだいいですが、まさにそうした教会で信仰を持って救われた人は、なかなか自分が救われた教会に対して反旗を翻ることが困難であることが多いかと思います。

 これは旧約聖書の見方ですが、人間の罪、人間の悪意はそうした雪だるま式に悪くなっていくことが多々あります。そうした人間の罪や悪意の連鎖は一度それがシステムの中に組み込まれてしまうと、途中でそれを止めたりすることはできません。また、そうしたシステムの中に居る人が、そうした事に気づいたとしても、教会がそうした手法によって成長するようになると、「手遅れ」としか言いようがありません。

 まだ、教団教派に所属し、牧師の交代が起こる環境であれば、場合によっては牧師の交代によってその事にブレーキがかかる場合もありますが、およそそうした形で(急)成長する教会は単立教会であることがほとんどで、結局のところその牧師が辞めるか、あるいは牧師の代替わりによって指導力が弱くなったりして、教会も小さくなるのが関の山かと思います。


 ごく基本的なことですが、キリスト教会はあくまでもキリスト教会であることがその本質であり、それ以外ではありません。

 キリスト教会はその信仰において悪を選択することは多くありませんが、偽善を選択することは多々あります。
そして、そうした偽善がまさに「神の御心であり正義である」と勘違いした先に、先のようなキリスト教会の破滅が待っています。

 教会の破滅は、いわゆる人口減少のように徐々に起こってくるものではありません。そうではなく、むしろ絶頂の時に起こるのです。それは、牧師や指導者の悪が目に見える形で教会の中にあらわれるようになり、そうなるともう後に引き返すことは不可能です。

 当然、そうなる以前から、そうした教会には神さまからの罪の悔い改めの言葉が注がれていたと思いますが、牧師や教会の指導者たちがそうした神の言葉に耳をふさぎ、神の言葉に反逆するようになった時点で、教会の将来はほぼ確定する形になります。

 その意味で、特に牧師が、教会において誰よりもまず自分の罪を悔い改める者であることが大切です。イエス・キリストの救いが罪の告白にある限りにおいて、牧師が自分の罪の告白や悔い改めを疎かにすれば、その代償はその教会の破滅と同等であることを覚えておかないといけないのだと、そのことを自分自身もいつも忘れることのないようにしています。
 

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