山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

 ローマの信徒への手紙10章6~13節、17節
6)しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
7)また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。

8)では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
9)口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10)実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

11)聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
12)ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
13)「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。 
 
17)実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。


 パウロはユダヤ教の信仰が「神の御前に正しいことを行うことによって、自分が神の御前に義とされる」ものであり、それは結果として「神の義」を求めるものではなく、「自分の義(正しさ)」を求めるものであることを指摘します。

 それに対して、パウロは本当の意味で正しい信仰とは、そうした「人間の義」ではなく、まさに「神の義」によって実現するものであることを指摘します。そして、キリスト教会とは、まさにこの「神の義」によって成立する信仰共同体であることをパウロはこのところで言うのです。


 パウロはそうした正しい信仰を持つ者は「誰が天に上るか」「誰が底なしの淵に下るか」と、心の中で思ってはいけないと注意をしています。これはいったいどういう事でしょうか?

 ユダヤ教において神のみ前に義しくあるためには、常に律法の示す基準によって物事を考え、行動する必要がありました。そのため、自分自身の物事の考え方の基準は常に律法であったのです。

 ところが、そうした物事を基準として考え行動することは、当然、そうした自分の内なる律法の基準によって、自分自身を省みると同時に、他の人についてもそうした判断基準をもって接するようになります。

 すなわち、それは福音書に登場する律法学者のように、誰かの発言や行動を見て、それが罪であるのか、それとも神の御前において義しいのか、そうしたことを常に考えるような信仰となっていたのです。


 つまり、パウロが言おうとしている「誰が天に上るか」「誰が底なしの淵に下るか」とは、「誰が神の前に正しい」「誰が神の前に罪人であるか」ということを心の中に思ってはいけないということであり、それは、たとえばキリスト者がある人を見て、「彼はクリスチャンだから救われている」とか、「あの人はクリスチャンではないから、救われない」というような事を心に思ってはいけないということであるのです。

 たとえば、ユダヤ教において罪とは、「律法に違反する」ということをもって「罪」と定められます。それは言い方を変えれば、そうした「具体的な行動」が伴ってはじめて「罪」と定められるのです。つまり、「姦淫の罪」は、まさに「姦淫」という具体的な行動があってはじめて、「姦淫の罪」と定められるのであって、直接そうした行動がなく、ただ心の中で妄想することは、ユダヤ教においては罪とはされないのです。

 ところが、イエスさまのそうした信仰的な倫理基準はそうしたユダヤ教の律法がそうした具体的な出来事がなければ罪に該当しないのに対して、「心の中で思ってもだめ」という非常に厳しいものでもあったのです。

 マタイ5:28
 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

 つまり、パウロは、神の救いがまさに「信仰によって人を救う」ものである限り、信仰の力は、わたしたちキリスト者が他の人を裁くこと(つまり、人を裁ける存在は神しかないので)において、まさに自分自身に神の裁きを招くものとなることの注意喚起をしているのです。

 そして、そうした人間を罪から救い出す神の力は、いったいどこからくるのかと言えば、それはユダヤ人が信じるように、律法を人間が行うことによって実現するのではなく、あくまでもイエス・キリストを信じ・告白することをもって、すなわち信仰によって、神の力によって人は救われるのです。

 そして、キリスト者の救いがまさにそうした神の力である限りにおいて、その力の源はどこにあるかといえば、イエス・キリストを信じ告白することであり、それは具体的には、自分自身の罪の告白によって、イエス・キリストの御名によって実現するのです。



 すなわち、それは言い方を変えればキリスト教会のもっとも中心事項が何であるかをこの聖書箇所は示しています。

 それは、まさにイエス・キリストの救いが神の力であるからこそ、神の言葉を聞くことにその源泉があるのです。


 キリスト教会の礼拝とは、まさにわたしたちキリスト者もそうでない者も、礼拝を通じてわたしたちは神の言葉を聞き、そこにおいてイエス・キリストの御名によって自分自身の罪を告白し、悔い改めるのです。

 それが礼拝における中心的な事柄であり、まさにこの罪を告白することを通じてイエス・キリストを通じて与えられる罪の赦しの経験こそが、礼拝における喜びの源泉であるのです。


 わたしたちは、ただ感情的に、感覚的に、感動をすることが礼拝における喜びの源泉なのではありません。

 そうした、いわば一緒に歌い踊り、共通の高揚感を経験するのは、一種のシャーマニズムにおけるエクスタシー経験と同じです。

 そうしたものは、まさに聖書では出エジプト記32章に記される偶像崇拝と本質的には一緒です。

 出エジプト記32章17~19節
17)ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、
18)モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも/敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」
19)宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。
 
 礼拝は、それがまさに神の御前に出て神を拝する行為であるゆえに、わたしたちは自分自身が不完全な人間として神のみ前に出ることを意味します。それは、本質的には不可能な出来事であるのです。
 
 たとえば、強烈な太陽光線の前に黒い紙をおけばその熱によって紙は焼けてしまいます。

 罪人がなぜ神の御前に出ることができないのかといえば、まさにそういうイメージであるのです。当然、その紙が白く、強烈な太陽光線を反射するほどに綺麗なものであれば、紙は光を受けてなお焼けることはありません。

 それと同じで、本来、罪人が神の御前に出れば、その神の義しさのゆえに罪が焼かれてしまうわけです。しかし、イエス・キリストの御名によって罪を告白した者は、その罪を赦され、神のみ前に出ることのできる状態に変えられるのです。

 そして、そうしたイエス・キリストの執り成しがなければ、人間は神の御前に出ることは不可能であるのです。



 だからこそ、礼拝とは、まさにそれ自体が人間に対する神の救いを意味しており、そこにおいて神を礼拝するとは、自分自身の罪の告白をもってはじめて、正しく礼拝にあずかることができるのです。

 しかし、教会によっては、その「喜び」というのが、実に、人間的な、参加者の欲望を満たすためのものである時に、キリスト教会は間違った方向へと進んでいくわけです。


 それは、人間の栄光を求める礼拝であり、神を口実にして、実は自分たちが快いことが重要視されていたりするのです。


 多くキリスト教会を訪れる人は、何かしら自分の居場所を見出せない人であることがあります。

 そして、キリスト教会は、まさにそうしたこの世において居場所を見出せない人に対して、居場所を用意し与えることが、キリスト教会の宣教であるとする、そうした教会も少なくありません。

 礼拝や教会の奉仕を通じて、自分にやりがいを見出すことは、それ自体が間違っているわけではありませんが、それは実に注意が必要であるのです。わたしたちが、そうした注意を怠る時、わたしたちはまさに、自分の心地よさのゆえに、すなわち自分の腹(欲求)を神として、イエス・キリストの内にまさに自分が満たされていることを喜びとする、そうした方向に誘惑されてしまうことがあるのです。


 だからこそ、パウロは心の中で、誰が救われ、誰が滅びるのかというような事を考えてはいけないと注意を呼びかけているのです。

 わたしたちキリスト者は神を求める点において、何が神の御前に正しく、何が神の御前に間違っているかということを普通のこととして考えるようになります。それは決してすべてが間違っているわけではありませんが、そこには常に注意が必要なのです。


 クリスチャンが正しく、ノンクリスチャンが間違っている。教会でより献金をし、奉仕をしている人の方が偉い。教会の中に救いがあり、教会の外に救いはない、など。この世において、クリスチャンがまさに罪から救われたにも関わらず、隣人に対してそのように信仰的に裁き(心の中でそのように相手を見る)をすることによって、実は、自分自身をわたしたちは罪人に仕立て上げてしまうのです。

 その意味で、キリスト教会の中において、「正義」が叫ばれる時、そこには注意が必要です。

 
 キリスト者は「神の裁き」をもたらすために救われるのではなく、まさにイエス・キリストの福音を証しするために、キリスト者とされるのです。

 その意味で、わたしたちは、常に、まず心をイエス・キリストに向ける必要があるのです。

 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)


 あなたの行っている教会は、イエス・キリストを信じていますか? それとも、イエス・キリストのような何か別のものを信じていませんか?
 


 ローマの信徒への手紙9章19~33節
19)ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。

20)人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
21)焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。

22)神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
23)それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。

24)神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。

 
 パウロによれば、「神の救い」は、まずユダヤ人に対して律法を通じて明らかにされたが、結局のところ、ユダヤ人はそれを歓迎せず、今や、イエス・キリストの登場によって、「神の救い」は異邦人に対して示されたことをこれまでのところで説明します。

 そして、イエス・キリストによって救いが明らかにされたことは、同時に、二つの疑問を生み出しました。すなわち、1)イエス・キリスト以前の救いは無効となり、ユダヤ人は再び罪に定められることになったのか? すなわちイエス・キリストの救いによって異邦人に救いが開かれたことにより、ユダヤ人は再び神にその罪を責められるのか? 2)人の救いを決定付けるのが神であるなら、神の決定にいったい誰が逆らうことができるのだろうか? というものでした。

 神の御前におけるユダヤ人と異邦人とはいったい何者であるのか? 先にユダヤ人に対して救いが示されたのが神の御心であるのであれば、今やイエス・キリストによって異邦人に救いが示されたこともやはり神の御心である。

 すなわち、こうした神の救いの計画は、ユダヤ人と異邦人を比較してどちらが尊く、どちらが劣っているというようなことの目的のためではなく、神の御心はまさに人類全体を救済しようとする目的から、その救いは先にユダヤ人に示され、今や、異邦人に対しても示されたのであり、そのようにして救われる者が起こされるということは、まさに神が人類を憐れんでくださっていることの証拠であり、キリスト者とは、まさにそうした神の憐れみを人々に証明する器として立てられていることをパウロは言うのです。



 ローマの信徒への手紙9章30~33節
30)では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
31)しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
32)なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
33)「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

 しかし、そうなるとそこに疑問が起こります。
 すなわち、そもそも異邦人は「神の義」を求めていません。ところが、神の憐れみにより、イエス・キリストを通じて、信仰による「神の義」を得るようになったのです。ところが、ユダヤ人は神から与えられた律法を遵守することによって神の義をひたすら追い求めたのですが、結局のところ、本当の意味で神の義を得ることができませんでした。 そこで、なぜユダヤ人は神の義を得ることができなかったのでしょうか?

 その問いに対してパウロは、ユダヤ人は「信仰による救い」ではなく、あたかも「自分たちの行いによって、自分たちを救うことができる」と考えたからであり、それはまさにユダヤ人にとってはつまずきの石であり、妨げの岩であるが、しかし、それは信じる者は失望することがない。つまり、行いによって律法を全うしようとする者はイエス・キリストに躓き、しかし、イエス・キリストを信じる者は、その信仰によって救いに与ることができるのだというわけです。



 さて、このように見てきて、これがキリスト教会とどうかかわってくるかですが、パウロはキリスト教の救いがまさに信仰によるものであり、決して行いによるものでないことを力説します。

 そして、その信仰による救いですが、そこにおいてもうひとつ大切なのは、それがあくまでもわたしたち人間の素行や素質といったものではなく、あくまでも「神の憐れみ」によるものであることを力説します。

 それはすなわち、わたしたちの信仰とは、まさに神の憐れみという大きな力によって、そして、それはあくまでもイエス・キリストを信じる信仰によって実現するものであるということであるのです。


 ところが、キリスト教会では、「神が主導」と言いながら、わたしたち人間の努力として、人為的にキリスト者を増やそうとしていないでしょうか? あるいは、人為的にキリスト者を増やすために、さまざまな手段を用いていないでしょうか?

 そして、そうした人為的にキリスト者を増やすために、さまざまな手段を用いることを肯定するために、そこに何かしらの「キリスト教的思想」を展開・構築していないでしょうか?



 わたしたちがキリスト教を信じるのは、誰かをキリスト教徒にするためでしょうか?


 わたしたちは、神の憐れみによって、神に招かれ、イエス・キリストを通じた信仰告白をもって、キリスト者になるのです。

 そこにあって大切なのは、神の憐れみと神の招きであって、それは人為的にどうにかなるものではありません。

 宣教・伝道はキリスト教会において大変重要な事柄ですが、それがあまりにも突出する時に、あたかもユダヤ人が律法によって神の義を得ようとしたように、キリスト教会もそうした宗教的勧誘によって神の栄光を手にしようとする、そうした過ちを犯すようになるのです。

 宣教・伝道は、イエス・キリストの救いにあずかり、キリスト者に変えられた者が、まさに古いそれまでの生き方から、新しいイエス・キリストの命に生きるようになるそうした出来事であって、それ以上に何かを要求されるものではありません。



 ところが、キリスト教会がまさに自己目的化、あるいは牧師の野望?といった、教会員の欲望?など、さまざまな人間的な罪の誘惑によって、まさに「礼拝しているだけではダメだ。」というようなことが、キリスト教会の中において叫ばれるようになるのです。

 その教会の礼拝出席が増え、教会が大きくなるか、あるいは教会員が減って消滅するか、教会のその行く末を左右するのは、わたしは個人的には「神の御心である」と信じます。

 その意味で、わたしたちが求められているのは、まさにわたしたちがキリスト者として、神を礼拝することを人生の中心に置き、それぞれが置かれたところで信仰の生涯をきちんと歩むことであって、教会が大きくなる・小さくなるということは、信仰的にはまったく関係のない話ではないかと思うのです。

 世にあるキリスト教会は、多かれ少なかれ、自分たちの教会の規模を見て一喜一憂することが多いのではないかと思います。特に、ある程度の規模がある教会であれば、そんなに心配をしなくても良いとは思いますが、小さい教会は「大きくならねば」と思いわずらい、大きな教会は「さらに大きくなるためには」と思いわずらうことが多いように感じます。

 牧師の「牧師としての評価」を、一年間での受洗者数やその牧師の教会の規模によって評価し、評価されることが一般的になされる上で、そうしたこの世的な評価と無関係に、意識せずに牧会を行うことは、牧師にとってはなかなか大変なことでないかと思います。

 しかし、キリスト者はそのようなこの世的な評価を得るためにキリスト者になるわけではなく、そのためにキリスト者が起こされるわけでもありません。

 その意味で、教会が大きくなるのも、小さくなるのも「すべては神の御心である」として、牧師も信徒もあわてず騒がず、自分に与えられた信仰の生涯を全うすることこそ、わたしたちのキリスト者としての本分でないかと思うところです。

 最後に、イエスさまの語られた言葉を紹介します。

 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マタイ16:24)

 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:22)


 

 
 


 

 ローマの信徒への手紙8章1~10節
1)従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
2)キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
3)肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
4)それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
5)肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
6)肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
7)なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8)肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
9)神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10)キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。

 さて、パウロが教えるところのイエス・キリストの救いは、イエスを主と信じ、告白すること、すなわち、まさにわたしたちが、イエスの御前において自分自身の罪を告白する時に、わたしたちは主イエス・キリストがその告白されたわたしの罪を赦してくださるというその「罪の赦し」の関係において、すなわち、主イエス・キリストを信じる信仰によってわたしたちとイエス・キリストとが結ばれていると宣言します。

 それゆえ、当然、主イエス・キリストによって救われた者は、イエス・キリストとの関係性によって、その繋がりによって、その繋がりを拒否しない限りは決して罪に定められることがないと宣言します。


 本来、ユダヤ教において人が救われるためには、律法の完全な遵守が必要でありました。しかも、人間はそもそも神の御前において不完全であり、神の御前に全く罪を犯さないということは不可能でありました。それゆえ、そうしたわたしたちの不完全さ、すなわちパウロが言うところの「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」のゆえに、律法が実現できなかった人間の救いを、まさにイエスさまがその十字架とその十字架での死によって、すなわち「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」という事によって、わたしたちの罪は、イエス・キリストを信じる信仰によって赦されたのです。

 ところが、パウロの説明によれば人はイエス・キリストの救いの前後において、「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」とに分かれることを言っています。

 
 おそらく、わたしが個人的に感じているキリスト教会における問題の温床はひとつにはこうした点に由来するかと考えます。

 すなわち、パウロが言っていることからすれば、「イエス・キリストを信じて罪を赦された者は、以後、罪を犯すはずがない」というような理解です。

 その観点から言えば、まだ洗礼を受けていないクリスチャンでない人は「肉に従って歩む者」であって、当然、イエスさまを信じない、信仰告白をしないわけですから、そうした理屈から言えば「神に敵対する者」であって、罪人であるという事になります。

 ところが、ではキリスト教会を組織している教会員はすべてがキリスト者であり、当然イエス・キリストを信じているわけだから、キリスト教会の中では問題が一切起こらないのかというとそうではありません。

 事実、キリスト教会という組織の中で、しかも牧師や信徒によって様々な問題が起こっていることに対して、どのようにこのことを説明すれば良いのでしょうか?


 わたしたちは多くの教会において、「信仰」あるいは「イエス・キリストの救い」という事柄によって、人を「救われた人」と「救われていない人」という風に二分して考えます。

 たとえば牧師が、「伝道」(あるいは布教)を信徒に呼びかける事によって、当然、それは自動的に、人を「救われた人」と「救われていない人」とに区別することを、まさにキリスト教会が行っていることになります。

 キリスト教会は宗教団体であり、布教活動がその中心的な役割なので当然といえば当然なのですが、しかし、問題は、そのキリスト教会において認識されている「救われた」ということが何を意味しているかにあるのです。

 キリスト教における宣教、伝道は、客観的にいえば「教会員を増やそう」という活動です。

 これはよく言われる話ですが、「礼拝だけやっているだけではだめで、キリスト者は教会から出て行って宣教しなければならない。」ということがあります。


 すなわち、キリスト教会の中には、常に、「教会員を増やそう」というこの世的な教会の繁栄を目指す「肉の思い」と、「イエス・キリストの救いの喜びを多くの人に伝えたい」という「霊の思い」とが、実に渾然一体にまじりあった状況におかれる事が多々あるのです。

 当然、そうした教会においては、すべての人は「救われるべき人」であって、教会の中にいる信仰者である自分たちは「救われた人」であって、そこにはまさに「信仰」という基準によって人を理解する価値観に支配されてしまうのです。

 
 ところが、そうしたイエス・キリストの救いにあずかった人たちが形成するキリスト教会において、まさにニュースで紙面を賑わせるような事件が起こったりします。

 では、そうした今日のキリスト教会の中における問題を説明しきれないパウロの信仰は間違っているということなのでしょうか?

 
 先ほど、パウロの説明によれば人はイエス・キリストの救いの前後において、「肉に従って歩む者」と「霊に従って歩む者」との分けられるとしていました。

 問題は、今日のキリスト教会でいうところの「キリスト者になること」「洗礼を受けること」、あるいは「信仰者となって教会員になること」が、まさに「霊に従って歩む」という事と同じかといえば、そうではない点にあるのです。


 パウロの記述を見ればわかりますが、パウロは「クリスチャンになったら大丈夫だ」というようなことは言っていません。ところが、キリスト教会の中ではまさに「クリスチャンになったら大丈夫だ」というような事が言われるのです。

 すなわち、パウロの言う「肉に従って歩む人」「霊に従って歩む人」とは、共にキリスト者のことを言っているのです。

 つまり、人はたとえキリスト者になったとしても、そのイエス・キリストを信じる信仰により、すなわちその人とイエスさまとの関係性によって、キリスト者は「肉に従って歩む人」と「霊に従って歩む人」に分けられるということをパウロは言おうとしているのです。

 当然、そのような偽キリスト者はパウロが言っているように「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」と言っているように、その先にあるのは「肉の思いは死」という現実です。

 しかし、そうではなく、イエス・キリストの御前に自分の罪を告白するというイエスさまとの関係性の中に生きるのであれば、それは「神の霊があなたがたの内に宿っている」ということでありそのかぎりにおいて「あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」と、たとえ肉の思いを完全に取り去ることのできない弱いキリスト者であったとしても、まさにイエス・キリストの霊によって、わたしたちは生きることができ、それによって「命と平和」に至ることができるのです。
 


 キリスト教会が本当の意味においてキリスト教会となるためには、だからこそ、そこに集うキリスト者ひとりひとりのそうしたイエスさまとの密接な関係性が大切であることがわかります。それゆえに、そうした問題が起きるキリスト教会においては、まさにそうした信仰の面における欠如が、まさにそうした問題を引き起こすことの温床となるのです。


 ローマの信徒への手紙8章15~19節
15)あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
16)この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
17)もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。 
18)現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
19)被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。

 さて、パウロは、そうしたイエス・キリストとの正しい関係性により、それはまさにキリスト者の内にやどるイエス・キリストの霊により、わたしたちは、天の父を「アッバ、父よ」と呼ぶことが可能となるのです。

 それは、わたしたちがただ神を「父なる神」として信じることを意味するのではなく、むしろ、わたしたちキリスト者はわたしたちの内にその霊の働きにより、まさに父なる神の子どもとされていることをこのところで宣言するのです。
 それは、キリスト者にとって大いなる喜びであり、栄誉であるのです。


 ところがパウロの生きた時代はまさにキリスト者の受難の時代でありました。特に、使徒言行録を見るとわかりますが、使徒言行録8章1節に「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。」とあり、サウロ、すなわち若き日のパウロはまさにステファノのキリスト者としての殉教を知っていたのでした。

 パウロはそうした時代にキリスト者として生き、そして、そうしたキリスト教徒に対する迫害の中を生きました。

 そして、まさにまだ自分がサウロと名乗っていた時に、自分自身がキリスト者を迫害したように、今や、パウロは自分自身が迫害される側に立ち、そうしたキリスト教徒が蒙る悩みや苦しみについて、希望を与えようとするわけです。

 パウロはわたしたちキリスト者がこの世で受ける悩みや苦しみについて、それは来たるべき、わたしたちが神の真正な子どもとして受ける恵みや祝福について、それらはこの世的な悩み苦しみに比べるほどのできないほどの大きな喜びであることを言っています。



 ローマの信徒への手紙8章31~34節
31)では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。
32)わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。
33)だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。
34)だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。 

 ローマの信徒への手紙8章38~39節
38)わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
39)高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 


 そして、まさに、わたしたちがイエス・キリストの霊の助けにより、まさにわたしたちが「神の子ども」とされている事が、この世において意味する大切な希望をここで語ろうとしています。

 それは、すなわち、この世界が、まさに神によって創造されたものであるなら、当然、その神の独り子であるイエス・キリストのとりなしによって、わたしたちが「神の子」とされているのであれば、いったい誰がわたしたちに敵対することができるだろうかというのです。

 それはわたしたちがこの地上において、正しくイエス・キリストとの関係に生きる限り、まさにイエス・キリストこそが、神がわたしたちの味方であることを約束し、そうした神の力強い守りの中にあって、わたしたちを神から引き離し、滅ぼすことができる存在は何もないと宣言するのです。

 それはこの世に生きるキリスト者にとっての大きな慰めです。


 わたしたちはキリスト者として、この世において決して安楽な生活をするとは限りません。むしろ、キリスト教の信仰に入ったがゆえに、それまであまり気が付かなかったようなことに悩まされることも多いのです。

 その意味で、キリスト教信仰における救いとは、いわゆる「ご利益」のような、自分にとって都合の良いものではなく、むしろ、イエス・キリストと共にある生涯としての祝福である限り、この世においてわたしたちは様々な出来事を経験させられ、しかし、喜ぶべきは、それらの出来事はひとつとして無駄になることなく、「主と共に歩む人生」として、大いなる恵みと慰めに満ちた生涯となるのです。

  

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