山陰からキリスト教・キリスト教会を考える


フィリピの信徒への手紙3章1~5節
1)では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。
2)あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3)彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
4)とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 


 フィリピの教会にパウロがこうした手紙を送った背景にあるのは、2節でパウロが「あの犬ども」と表現する、直接的にはユダヤ教における神の救いにあずかるための要件であった「割礼」(その他には食物規定)をキリスト教徒に対して要求する、エルサレム教会からの、あるいはユダヤ主義的なキリスト教会からの伝道者が各地にあった異邦人教会の人々に対してパウロの伝える信仰から離れるようにという要請でありました。

 それは、今日的にはもちろん、日本におけるキリスト教会の中で「割礼」を要求することはありません。だから、こうした「割礼」の問題は、今のわたしたちにとってみれば全く無関係のことだというのかというとそうではありません。

 ここでパウロが指摘する「割礼」が具体的に、直接的に今のキリスト教会において要求されることはありません。しかし、わたしたちの教会においては、パウロがそれに続けて説明しているように、「割礼」とは当時行われていたひとつの具体例であって、信仰的にこの「割礼」が意味するものが何かといえば、それは「肉に頼ろうとする」ことであり、パウロが「わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」ということが、すなわち「真の割礼を受けた者」を指すのであれば、当然、「偽りの割礼」、すなわち、「肉体への割礼を要求する信仰」とは、すなわち「神の霊によって礼拝することなく、キリスト・イエスを誇りとすることなく、肉体への割礼を要求する」ものであることがわかるのです。

 それは、言い方を変えれば、「礼拝をするけれども、それは神を礼拝するのではなく、イエス・キリストを救い主だとは言うけれども、この世的な人間の業によって救われようとうする信仰」というふうに表現できるのです。


 信仰者は神を信じ、神の救いによって生きます。

 誰もが、クリスチャン、キリスト教徒はそのようにして生きていると考えています。

 ところが、パウロの生きた時代のキリスト教会もそうですが、過去のキリスト教会の歴史においてもそうであり、そしてまた今日のキリスト教会においても、実は、教会はまさに肉の思いによって、すなわち信仰と人間の欲望とのせめぎ合いの中におかれているのです。



 なぜ、パウロの意に反して、当時の異邦人教会の人々は、ユダヤ主義的なキリスト教へと改宗してしまったのでしょうか? 彼らは、「割礼」を「イエス・キリストの十字架と復活」よりも信仰的に大事だと信じたのでしょうか?

 ここらへんの信仰者の考え方が見えてこないと、すなわち信仰の戦いにおいて最も重要な信仰の敵である罪が何であるのかが見えないと、キリスト教会は、まさに「カネのなるキリスト」を崇拝する教会へと、まさにこの世的繁栄を約束するサタンを礼拝する教会になってしまい、そうなってしまったことに気付かない、あるいは気付いていても、もう引き返すことができないという事になってしまうのです。

 繰り返しますが、それは「わたし永野や出雲教会が信仰的に安全だ」ということを言っているのではなく、わたしたちは常に、そうした信仰の戦いに直面して、この世で信仰者として生かされ、信仰者として生きているということなのです。それは誰もがそうであって、何時、どんなきっかけで信仰的にイエス・キリストから離れ去ってしまうか、わたしたちは常に、そのことを自問しながら、「神の御言葉に従う」という選択をし続けていかなければならないのです。



 さて、では、なぜ当時の異邦人教会において、ユダヤ主義的なキリスト教への改宗が進んだのでしょうか?
 
 それは決して、異邦人キリスト教会の人々が「パウロの教えが間違っている」と単純に信じたからではありません。


 それは当時の世界において、いうなればキリスト教会がキリスト教会として、ローマ帝国内において生き残りを賭けた決断を求められた時に、ひとつの踏み絵が提示された。それが「1民族1宗教」というローマ帝国の宗教政策であり、そこにおいて当時のキリスト教会は自分たちの信仰において決断をしなければならなかったという歴史的事実に基づいているのです。

 つまり、「キリスト教はキリスト教である」として、当時のローマ帝国内において、当時としては異端的宗教として生きるか、それとも、「キリスト教はユダヤ教という大きな枠の中のナザレのイエス派である」というこの世の権力者に対して妥協して生きるかという二者択一を迫られていたのです。

 そして、ペトロたち初代教会の弟子たちは、パウロたちのように、そうした時の権力者たちに逆らい、摘発され、その結果としてキリスト教会がなくなってしまうよりも、もともと自分たちはユダヤ人であるのだから、ユダヤ教の一派として、ローマ帝国の支配下においてユダヤ主義キリスト教の組織として、ローマ帝国の保護下に生き残るという選択肢の方が確実であり、もっとも現実的な選択肢であると判断したのです。

 すなわち、それは今日的に見ても、パウロの選択肢よりも、初代教会の弟子たちがとった選択肢の方が極めて妥当的な、現実的な選択肢であったと思われるのです。

 しかし、パウロはまさにキリスト教会はユダヤ教の教会ではなく、まさにキリスト教会であることによって、はじめて本当の意味でキリスト教会でありうると、そのことを強調するのです。


 つまり、こうしたことを見ると、パウロがフィリピの教会の人たちに対して手紙を送って訴えた「割礼」という信仰の問題は、ただそうした肉体に傷を付ける儀式だけが限定的に問題だとされているのではなく、むしろ、信仰共同体であるはずのキリスト教会が、いわば「教会の存続」という、本来は信仰において、聖霊の助けによって導かれるべき問題が、人間的、すなわち霊的な解決方法ではなく肉的方法を、神の栄光ではなく、まさに人間的打算によって自分たちの歩むべき道を歩んだという事が問題となっているのです。

 だからこそ、それは常に、「常識的判断」ではなく「信仰的判断」によって、すなわちキリスト教会は、教会の存続について、決してそれを常識的・打算的に判断するのではなく、礼拝において語られる神の言葉に聞き従うことによって、信仰によって判断することが必要であることを説明するのです。


 そして、パウロはそうしたキリスト者の歩みが、この世における教会が、地上において既に完成されたものではなく、 常にイエス・キリストの姿に倣いつつ、神の御国へと向かって歩むのもであるというわけです。

フィリピの信徒への手紙3章13~14節
13)兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
14)神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです
 
 キリスト者が、あるいは教会がこの世において目標として目指すべきものはいったい何でしょうか?

 パウロがこの言葉で示そうとするものは、たとえば、マタイによる福音書25章21節「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」というような、信仰者が地上での生涯を終えて、信仰の戦いを立派に戦い抜いたその結果、神さまからいただくことができる「慰めの言葉」と表現できるでしょうか。

 わたしたちの地上の喜びも、悲しみも、苦しみも、すべてはこの神さまがわたしに対して与えてくださるその「慰めの言葉」で十分なのです。神さまのこの「慰めの言葉」によって、わたしたちの命はまさにこれ以上ないほどの価値を与えられることになるからです。

 だからこそ、わたしたちキリスト者にとって教会にとって、目指すべきものは、まさにこの神さまから与えられる「慰めの言葉」であって、まさにこのためにキリスト者は、あるいは教会は地上においてイエス・キリストと共にある喜びを喜び、またイエス・キリストと共にある苦しみを苦しみ、この世に対してイエス・キリストの証人としての、あるいはイエス・キリストの教会としての歩みを全うするのです。


 
フィリピの信徒への手紙3章17~21節
17)兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
18)何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
19)彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
20)しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
21)キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

  世にあるキリスト教会が、まさにキリスト教会であるかどうか。その事はパウロの生きていた時代においても、大きな問題でした。パウロがまさにここで繰り返し訴えているように、「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」のです。

 それは、「ノンクリスチャンが多い」「未信者が多い」ということではありません。これまでの話が「教会の中」を問題としているように、当然、ここで言われている「キリストに敵対して歩んでいる者」とは、当時のキリスト者のことであり、当時の教会であるのです。 
 
  しかし、では、それは当時のキリスト者がそのように問題であって、現在のわたしたちはそうではないということが言えるかといえば、それは違います。


 まさに、今日において、キリスト教会でこの御言葉が読まれる時に、それは今日のわたしたちの問題なのです。

 今日のキリスト者にも、あるいは教会にも、そのようにしてキリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。


 それは、決して、「あそこの教会」ということではなく、まさに「わたしたちの教会はそうでないだろうか?」と、自問することが求められているということなのです。

 わたしたちの信仰は、イエス・キリストの救いを受け入れたからといってそれで完成したわけではありません。それは、これまでのところでパウロが言ってるとおりです。

 すなわち、わたしたちキリスト者の信仰は、地上において命ある限りにおいて未完成なのです。その信仰が完成するのは、まさに地上での信仰生活を全うして、神さまから「よくやった」との「慰めの言葉」をいただいてはじめて「完成」と呼べるのです。


フィリピの信徒への手紙4章4~7節
4)主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
5)あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
6)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7)そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

 「主において喜ぶ」とは、決して、「うれしいことで喜ぶ」と同じではありません。

 パウロがこの手紙を語っているその背景において、キリスト者は迫害を受けているからです。しかも、人々の前で自分の信仰を表明すれば、それはすなわち死刑を意味するやもしれません。

 彼ら、キリスト者の周りには迫害と困難が溢れているのです。つまり、彼らの目に映るのは決して喜びではないのです。むしろ、それよりも苦難・困難が多いことでしょう。

 しかし、パウロはそうした苦難・困難の中にあるキリスト者に対して、「主において常に喜びなさい」と勧めます。

 それは決して、やせ我慢や苦行のようなことを言っているのではありません。

 むしろ、パウロが勧めるのは、普段の生活における信仰生活の励行です。

 何か特別なことをしなさいというのではありません。


 キリスト者のこの世における戦いは、すなわち神の戦いなのです。

 そこで戦われるのは神ご自身であって、わたしたち人間は、その戦いの目撃者であり、また、勝利者である神さまを賛美し、褒め称えることです。

 出エジプト記14章14節
 「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」

  
 これはわたしが個人的に好きな御言葉でもありますが、キリスト教の伝道を例えるなら、すなわち「神が戦われる神の戦い」であるのです。

 神さまは福音宣教のためにわたしたち人間の力を借りようとしているのかといえばそうではありません。わたしの理解では、この世における福音宣教の御業は、あくまでも神の御業であって、わたしたちはそこで神さまの働きを助けるということはできないのです。

 むしろ、わたしたち人間が何かをすれば、いったい何が神の業であるのか、その判別ができなくなります。

 人間が何もしないのであれば、当然、そこで起こる出来事は、すべてが神さまの導きであるということが言えます。

 その意味で、キリスト者に求められるのはただ礼拝を守ることであって、そこにおいて一週間の信仰生活において行われた神の御業をおぼえ、神の御名を褒め称えるということだけであるのです。



 教会はなぜ大きくならなければならないのでしょうか?

 マタイによる福音書18章20節
 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

 新約聖書に見るこうした記述は当時のキリスト教会が小さい集団で構成されていたことを物語っていると、G・タイセンは説明しています。また、パウロがローマの信徒への手紙の最後で個人名を上げていますが、ひとつひとつ数えても30人程度です。


 「教会を大きくしたい」とは、いったい何のためでしょうか?

 おそらく、そこにどのような理由がきたとしても、それは「キリストに敵対する」ことになると思います。

 なぜなら、むしろ教会は「神の祝福によって、結果として大きくなるはず」であるからです。


 その意味で、「伝道・宣教の成功、あるいは失敗」は、礼拝出席数や献金額ではかれるものではありません。


 その昔、先輩牧師から、「教会は礼拝出席が80人を越えたら、株分けを考えるもの」と聞きました。

 すなわち、1教会の人数の限界は礼拝出席が80人であり、またそれは信徒数でいえば1教会150~60人程度であるのです。それは一人の牧師がすべての信徒を牧会できる限界だということでしょう。

 もちろん、それを越えて人数の多い教会もいくつもあります。

 教会が大きくなればなるほど、牧師と信徒との人間的つながりは希薄になってきます。それは大会社の社長と平社員とが、顔すら合わせることがないというのと同じです。むしろ、それよりも中小企業のように社長も平社員も一緒に仕事を頑張る方が人間関係としては良い関係が築けるのではないでしょうか?


 現在、出雲教会では家庭集会を一か所で行っていますが、そこに集まるのはわたしを含めて3人です。

 わたし以外のお二人は共に高齢のため、いつまでこうした個人宅での礼拝が続けられるかわかりません。

 しかし、それはわずか三人の集まりではありますが、決して大教会の礼拝に負けることのない、とても祝福された礼拝であるのです。

 なぜなら、そこには人間的に誇れるようなものは何もありません。集う人数にしても、そこでささげられる献金にしても、それはごくわずかです。

 ところが、そこにおいて互いに、礼拝において神の御言葉を聞き、真の信仰を互いに確かめ合うことができることは、他の何ものにも代えることができません。こうしたことは大教会では、まずできない経験です。なぜなら、そこには人為的なものが何もないからこそ、そこで経験するすべてのことが神の恵みとして理解できるのです。

 もちろん、大教会の礼拝でいただく喜びを、わたしたちは経験することはできませんが、しかし、だからと言ってそうした「大教会の礼拝に対して何か憧れるか?」と問われれば、「憧れるようなものは何もない」というところです。

 わたしたちキリスト者が求めるのは「教会」という器ではなく、「礼拝の中で語られる神の言葉」です。そして、その中で行われる聖餐の経験と、その後のちょっとしたお茶の時間という、例えるなら聖徒の交わりです。

 礼拝においてわたしたちが聞くのは「神の言葉」であって、礼拝の演出でも、会堂の広さでもありません。歌手や音楽家も、あるいは楽器すら必要ありません。そうした人為的な「感動」は、一時的な清涼剤としての効果はありますが、所詮アトラクションに過ぎない点において、信仰の本質においてはまったく無意味です。

 つまり、共に聖書を読み、共に祈り、共にさんびを神に対してささげ、共にパンを裂き、共に交わるという礼拝行為の本質は、教会の大小には関係がないのです。むしろ、大教会になることによって失われるものの方が多いかもしれません。

 わたしたちはそうして礼拝が終われば、三人でお茶を飲み、世間話をしますが、それはほんのささやかなものであって、大人数のパーティーではありません。しかし、そうした濃密なともいえる神の言葉と聖徒の交わりの時間は、いくら予算を計上したところで、お金で買うことはできません。後になって、悔やんだところでわたしたちは時間を巻き戻すことはできません。大教会でいくら献金が多いとは言っても、お金で時間は買えません。

 そして、三人だけの小さな礼拝、聖餐、そして聖徒の交わりに、わたしたちは礼拝を持つことのできる喜びと慰めを深く経験するのです。これこそが、まさに神さまを中心とした聖徒のまじわりであって、この経験こそが地上におけるわたしたちキリスト者の唯一の慰めではないでしょうか。

 わたしたちは、地上においては、まさに聖徒のまじわりによる慰めを、そして来る御国においては神の慈しみ深い慰めの言葉によって、キリスト者の命はまさに最高の栄誉を受けることになるのです。

 

 今回は、パウロの直筆であると言われるフィリピの信徒への手紙において、そこにみる教会のあるべき姿をみていきます。

 まず今回は1~2章をみます。

 さて、パウロは都合3回の伝道旅行を行いますが、その中でフィリピの教会について、パウロは他の教会と比較して非常に良い教会であることをその手紙の冒頭において伝えています。

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 パウロの宣教旅行について、上記の地図を参照していただければと思います。そしてパウロはこうした宣教旅行において牢獄に繋がれることを経験します。それはエフェソ、カイサリア、ローマであるのですが、今日的にはおよそ上記の地図でいういアジア州の「エフェソ」で投獄されており、そこからエーゲ海を隔てた場所にあるフィリピの教会の人たちに対して書き送った手紙であるのです。

 さて、上記の地図においてエフェソは「ヨハネの黙示録」に「アジア州の7つの教会」として登場するように、エフェソを含むこのアジア州はまさにパウロの宣教活動も虚しく、結果としてイエス・キリストの福音を受け入れた教会が、ユダヤ主義に基づく教会へと、福音を捨ててしまったのです。

 そうした背景には当時ローマ帝国が実施した、「1民族1宗教」という政策において、「キリスト教はどの民族の宗教でもない」ということが問題(ユダヤ人にはユダヤ教があるので)となり、そうした「1民族1宗教」に該当しない宗教は排斥を受けるようになったのです。
 そこで、当時のキリスト教会の指導者たちが考えたのは「危険を冒してキリスト教を信じ、ユダヤ教から独立するのではなく、ユダヤ教の中のイエス派としてユダヤ教の宗教祭儀を取り入れ(それまでそうしていたように)、キリスト教会ではなく、ユダヤ教の中のひとつの教会として、この世の権力に対して妥協していこう」ということであったのです。

 そこで、初代教会の指導的地位にあった人々、あるいはその直接的な弟子たちが、各地の異邦人教会を訪れては、「自分たちの信仰はイエス・キリストの福音も大切だが、それを大事にするあまり迫害を受けるよりは、自分たちはユダヤ主義に基づくキリスト教教会として、ローマ帝国の支配下において教会を維持していこう」ということを伝えたのです。

 当然、それは結果として、「イエス・キリストの救いが不完全である」という事を食物規定や割礼の施術といった行為を通じて証しているのと同じであり、それに対して、パウロは「 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。」(ローマ12:2)と勧めているとおりなのです。


 その意味で、昔も今も教会が、あるいはキリスト者が常に問われているのは「この世との妥協するのか?否か?」であります。そして、それは言い方を変えれば「イエス・キリストの福音を大切にするのか? それともこの世的な繁栄を大切にするのか?」ということになります。


 このことは教会にとって実に大切なことでり、パウロが口うるさく言うのはそれなりの理由があるからなのです。

 なぜ、教会は宣教を行うのでしょうか? 牧師はなぜ、信徒に対して伝道を命じるのでしょうか? あるいは教会における奉仕を命じるのでしょうか?

 わたしたちの教会は、この世において、その存在理由は非常にはっきりしています。

 それはわたしの理解で説明すれば「礼拝を通じて神の言葉を宣教すること」です。


 教会において牧師の語る言葉に注意して聞いてください。わたしも他人のことは言えませんが、教会において牧師が語る言葉には、当然ながら、その動機があります。その根拠がまさにイエス・キリストの福音に根ざすものであれば、それはまさにイエス・キリストの言葉として、神の言葉としてそれは尊重されるべきでしょう。

 ところが、そうではなく、むしろもっと人間的な牧師の個人的、あるいは教会という組織運営のため、いわゆる会社が業績を上げるためのもの。すなわち教会員をまさに教会というキリスト教販売所の従業員としてとらえ、従業員に対してそのノルマを課すという類のものになってはないでしょうか?

 フィリピの信徒への手紙ではありませんが、マタイによる福音書に以下の御言葉があります。

 マタイによる福音書4章8~11節
8)更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、
9)「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。
10)すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」
11)そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
 
 「偶像崇拝」「悪魔崇拝」とは、よほどオカルト風のおどろおどろしい、世間から隠れたところでひそかに行われているものだと多くの人は思うかもしれません。


 ところがこの世において、「偶像崇拝」「悪魔崇拝」に最も近いところに立たされているのが、キリスト教会なのです。

 多くの人は「キリスト教会」に対して、まさか教会が「偶像崇拝を行う教会である」とか、「悪魔を崇拝する教会である」とは思いません。 そうではなく、まさに「信仰的に清い人たちが通うところ」という認識をもって教会を遠巻きに、「自分には縁遠いところ」と思う方が多いのではないかと思います。

 ところが、そうした「信仰的に清いはず」の教会にひとたび入ってみれば、そこでは「信徒獲得」を目的とする「伝道」「宣教」が行われ、そうした「勧誘活動」のための「献金」と「奉仕」という名の「強制労働」が呼びかけられているわけです。しかも、そうした教会では、そうしたものが「正しい信仰である」と、むしろ、そうした事を行わないことを「信仰的に不真面目/不信仰である」「信仰熱心でない」「福音的でない」というような言葉をもって否定するわけです。

 そして、牧師はさらにそうした信徒が自分の考えていることに対して疑義をはさむことの無いように、「考えるな」ということを暗黙のうちに強要します。それは直接的間接的にいろいろな形を通じて、言葉で言われる場合もあれば、そうした「信仰熱心であること」を通じて、信徒の思考力を奪うわけです。そうしたやり方はいわゆるアメリカ海兵隊のブートキャンプのようなものかもしれません。思考力を奪い、飴と鞭を使い分けることによって、教官の意のままになる部下を作り上げるわけです。

 そして、そうしたことによって実現する教会とは一体どういう教会かと言えば、それはすなわち、キリスト教会に対してこの世的な繁栄をもたらす悪魔を崇拝する教会であるのです。しかも、教会の外部の人から見て、その外見は「キリスト教会」であるぶん悪質です。そこを正直に「わたしたちはこの世的な繁栄を追求する、悪魔崇拝の教会です」と、教会の看板に書いてくれれば良いですが、残念ながら教会が「悪魔教会」と看板に表示することはありません。

 しかし、福音書のイエスさまの言葉によって立つのであれば、当然、教会は貧しくて当たり前なのです。なぜなら、教会が求めるのは神の祝福であって、この世的な金銭や人間の力ではありません。ところが、キリスト教会において、牧師において、そうした悪魔のささやきに屈した牧師、あるいは悪魔のささやきに屈していることに気付かない牧師、自分が信じているものがイエス・キリストのかたちをした悪魔であることに気付かない牧師が存在するわけです。それは決して「わたしは大丈夫だ」ということではありません。

 牧師は常に、そうしたイエス・キリストの言葉に対して真摯に向き合うことが求められているのであって、わたしも何時、どういうきっかけでそうした悪魔崇拝牧師になるかもしれないと、常に注意していなければならないというわたしの牧師としての自覚なのです。

 自分が信じているものが本当にイエス・キリストであるのか? それともイエス・キリストの殻をかぶった悪魔であるのか、それを見分ける信仰の目が牧師には必要なのです。そして、そうした間違いを犯す牧師に対して、そうした間違いを遠慮なく指摘する信徒にも同様にそのことが求められるのです(プロテスタントでは万人祭司の信仰に立つので「聖職(者)」という概念がなく、牧師も信徒も役割の違いはあっても基本的には同じと理解します)。


 さて、だいぶフィリピの信徒への手紙から離れてしまいましたので話をもとにもどします。

 フィリピの信徒への手紙1章1~11節
1)キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者たちへ。

5)それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。

7)わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。

9)わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
10)本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
11)イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。

 パウロがフィリピの教会の信徒に対して記しているように、フィリピの教会にはすでに教会という組織が成立しており、そこにおいて監督者・奉仕者・聖徒(信徒)といったような教会の中における役割の違いがあることがわかります。

 そして、パウロはフィリピの教会がまさに教会であることのそのもっとも大切な事柄として、「最初の日から今日まで、福音にあずかっている」ということを上げて説明するのです。

 教会が教会であるために大切なことは何かと言えばそれはまさに週ごとに行われる「礼拝」において牧師を通じて「福音」が「語られ」、そして、「信徒」が「福音にあずかっている」ということなのです。


 パウロの生きていた時代において「信徒獲得」は主目的ではありませんでした。むしろ、それは神が祝福として教会に対して与えてくれるものであり、人間(牧師、あるいは信徒)が努力して獲得するものではないのです。

 教会が教会である、その第一条件は「福音の宣教と信徒が福音にあずかる」ということであって、当然、それは「礼拝」を通じて行われるものであるのです。

 ところが、ともすると教会は「礼拝をやっているだけではダメだ」ということを言うようになるわけです。


 聖書の中では神の祝福のひとつの表現方法として数量的に大きくなる表現をもって、神の祝福が大きいことを表現します。

 たとえば、以下の聖書箇所。

 使徒言行録2章40~41節
40)ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。
41)ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。
 
 ここにおいて、初代教会は1日で3,000人の信徒を獲得したことが書かれています。

 それは、今日的に言えば、「神の祝福があれば3,000人の信徒を獲得することができる」ということなのでしょうか? それとも「3,000人教会を達成すれば、その教会は信仰的に正しい教会である」ということなのでしょうか?

 もちろん、当時の初代教会において実数として3,000人の信徒が加わったとして理解することもかのうですが、むしろ、それは数の大きさをもって「神の祝福の大きさ」を示したものと理解するのが無難なのです。


 ところが、教会によっては、まさにこの「3,000人」ということを非常に重大なこととして、まさにそれが神の祝福を象徴する数字として、また、牧師に対して、神からの啓示としての「3,000人」という、そういう意味では実に誘惑であるのです。 


 パウロはそうした目先の事柄ではなく、週毎の礼拝において神の言葉が何であるかを正しく聞くことによって、信徒が物事を信仰的に正しく見抜くための物事を測る力を持つことを勧めているのです。

 そして、それは具体的には、この世的な悪魔の誘惑から自分の信仰を引き離すものであり、イエス・キリストの言葉に忠実にとどまる信仰の力であり、それは信徒に対して、知る力・見抜く力を養うものであり、それによって、何が信仰において大切なものであるのかをわきまえ、イエス・キリストの愛に根ざして信仰生活を送るようになるものであるのです。

 ところが、そうしたイエス・キリストの愛に根ざして生きるということは、必ずしも、良いことばかりが起こるという生活ではありません。むしろ、フィリピの教会の人たちが経験しているのは、パウロの逮捕やあるいはキリスト教徒に対する迫害、そして、教会に対してやってくるユダヤ教に改宗を求める動きであったのです。


 パウロは1章12節以下において、自分の人生がまさにイエス・キリストのものであることを証します。

 それはキリスト者にとって大変重要なことであり、また牧師にとって、実に基本的な事柄であります。

 パウロはそれを「わたしにとって、生きるとはキリストであり」と言っています。

 牧師はキリストに倣うものであって、当然、悪魔に倣うものではありません。しかし、そのごく当たり前のことが牧師には実に難しいものであるのです。それはわたし自身も常々感じるところですが、この世的な誘惑が常に付きまとうのです。

 そして、そうしたことの結論として、パウロは1章27節以下において次のように結論付けるのです。

 フィリピの信徒への手紙1章27~30節
27)ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
28)どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
29)つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
30)あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。
 
 当時の人たちもそうですが、イエス・キリストを信じる信仰において大いに困難を経験する場合あるのです。しかし、それは決して、この世的な繁栄を求めることにおける困難ではなく、むしろ、イエス・キリストを信じる信仰において当時の社会において正しく生きようとした人たちが経験した困難であるのです。

 わたしたちは神の御言葉に絶対的な価値観を置いて、その上に立った上で、この世の物事を知り、見て、そしてそこにおいてキリスト者として生きるわけです。

 当然、そこにおいては困難がつきものなのですが、むしろそうではなく、教会が悪魔崇拝に走るそのことによって、すなわち牧師から達成するべきノルマとして信徒に対して重荷が負わされるというそうした困難が起こるのです。

 それは本来、信徒が負う必要のない全く無意味な困難であるにも関わらず、牧師がそれを「まさに神のための苦しみである」と、「それは神からの恵みである」と、無茶な要求を突き付けることがあるのです。

 マタイによる福音書においてイエスさまが祭司長や律法学者たちに対して言われたことばがあります。

 「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」(マタイ23:4)

 わたしたちキリスト者にとって、この世における労苦が、まさに「神の栄光のため」であるなら、それを喜びとすることもできます。ところが、そうした労苦が「悪魔の栄光のため」であるならそれは耐え難い屈辱です。

 そして、まさにそうした耐え難い屈辱に耐えかねて自らの命を絶つ方が実際に存在するのです。わたしはそうした方を、自分のこれまでの人生において知っております。

 そういう意味で、わたしは常に自らがそうした悪魔になることの無いように、常に、自分の弱さと向き合いつつ、神の助けを求めているのです。しかし、そのように気をつけていても、あるいは自分の無意識やあるいは自分の知らないところで、そうしたものに巻き込まれ、また自分が気づかないうちにそうした存在になっているかもしれないという可能性は常にあるのです。

 わたしたちがこの世において生きている限りにおいて、そうした罪やあるいは悪魔の誘惑から自由になることはありません。むしろ、わたしの場合でいえば、「牧師である」という事において、他の方々よりもはるかに危険性が高いのです。そして、そのうえで教会において「成功」「勝利」といったことは常に注意が必要ということです。特にそれが人間の努力によって導かれるものである場合、それは「達成感」「充実感」というおまけつきであることが多いのです。そして、その誘惑する力は非常に強力なのです。



 フィリピの信徒への手紙2章3~4節
3)何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4)めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 パウロがそうしたフィリピの教会の信徒に求めるのは信仰における「謙遜」です。牧師も信徒も神と人との前に謙遜であることが大切であるのです。

 フィリピの信徒への手紙2章15~16節
15)そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
16)命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。 

 キリスト者にとって「清い者となる」ことは非常に基本的であり、重要です。パウロはそのようにしてい「神の子となる」ことをフィリピの教会の人たちに対して求めます。

 それは、具体的には日々聖書の御言葉に聞き、日ごとにイエス・キリストの御前に罪を告白し、悔い改めを行うという、そうした信仰生活であるのです。そして、キリスト者はそのようにして、この世において信仰者として、それぞれの生活を全うするのです。

 そして、牧師はそれを信徒に語る以前において、まず自身の生活において実践することが求められるのです。しかし、恥ずかしながら、わたしもそれが徹底できているかといえば、決して、徹底できておりません。

 その意味で、日々、神さまにそのことの助けを祈り求める、弱い者であるのです。

 牧師を「献身者」と言えば聞こえが良いですが、本当のところは社会不適格者であったわたしを神さまが信仰において牧師として救って下さったというだけなのです。その意味で、牧師として立てられていること以上の喜びは、わたしにはありません。

 話は変わりますが、わたしの好きなマタイ受難曲の中の一曲が65曲目の「Mache dich, mein Herze, rein,(わが心、清くあれ)」です(リンク先に歌詞も合わせて紹介されています)。
 
 http://pacem.web.fc2.com/youtube_bach/matthaus_2/64_dieskau.htm

 キリスト者の喜びは、まさにイエス・キリストによって罪から救われ、その命を与えられた事にあります。その喜びが本物であることがキリスト者にとって大切です。この喜びこそが、教会の喜びであり、わたしたちはそれによって、教会が本当の教会であるのか、それとも悪魔を崇拝しているような教会であるか、それを見分けることができるのです。


 

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)


 ガラテヤの信徒への手紙におけるパウロの最も大事な信仰告白は上記の御言葉にあるように「キリストの救いによって実現する自由(神との間における和解)」です。

 ところが、これは「自由」といっても「何もかもが許される自由」とは決定的に違います。パウロが指摘する「自由」とは、「罪の支配からの自由」であって、人間は生まれながら「罪の支配のもとに奴隷状態にある」という信仰的理解を前提とするのです。

 そして、イエス・キリストの救いが人間にもたらす「キリスト者の自由」とは、パウロのローマの信徒への手紙の言葉を借りれば、「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ローマの信徒への手紙6章16節)とあるとおりなのです。

 すなわち、言い方をかえれば、神は正しい方でありそれゆえ永遠の存在ですが、人間は不完全であり、その不完全のゆえに、すなわちキリスト教の信仰でいえば「罪」があるために永遠に生きることはできないのです。

 ところが、では人間から「罪」の部分だけを抽出して分離できるかというとそれは不可能なのです。

 なぜなら、たとえばわたしたち人間が生きるためには他の動植物を食べる行為を通じて、すなわち他の命の犠牲の上にあってはじめて生きることができるわけです。つまり、人間が生きるためには、そうした他の命を犠牲にする罪の行為が必然的に発生するのです。そのため、人間の命は常にそうした他の命の犠牲という罪と一緒であり、この関係を分離することはできないのです。
 そして、キリスト教では、人間の命と罪とが、あたかもコインの表と裏の関係にあるように、人間がこの世において人間として生きる限りにおいて、人間から罪の部分だけを取り除くことは不可能なのです。

 では、イエス・キリストの救いというのは、そうした罪の奴隷状態、言い換えれば呼吸や食事といった、人間の生理機能から自由にするとはどういう意味なのでしょうか?

 仮に、まさにこの「自由」がそうした生理的欲求からの解放であれば、まさに人間はイエス・キリストの救いによって飲み食いする必要はなく、また睡眠やあらゆる人間の活動を必要とせずに人間であることができるようになります。

  しかし、洗礼を受けてクリスチャンになったからと言って、その後、水や空気や一切の生理的欲求を必要とせずに生きることができるかといえば、それが可能なのはミイラか死体でしかありません。

 すなわち、イエス・キリストの救いとは、人間が何か不完全な状態から神に近い完全な状態になることを意味するのではなく(もし、そうであれば神は必要なくなります)、むしろ、それは「イエス・キリストがわたしたちと共にいてくださることによって実現する神との関係の回復 」として理解されているのです。そして、そうした地上においては復活の主イエス・キリストと共に歩む信仰の生涯、すなわち、わたしたちが主体的に救いの応答として、神の奴隷として生きることをもって、来たるべき天においては義、すなわち神さまの御前において主の永遠の平安に至ることができるとするわけです。

 ですから、パウロは信仰によって救われた人間は、神によって罪から救われたことに対する信仰的応答、すなわち信仰生活を以下のように生きるべきだと勧めています。

 ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節
2)ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。
3)割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。
4)律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
5)わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。
6)キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 

 当時のガラテヤ地方にあった異邦人教会に、エルサレムからユダヤ主義に基づくキリスト教の指導者がやってきて異邦人教会の人たちに対して、「イエスはメシアであるが、しかし、モーセによる十戒の遵守も必要である」と教えていました。そうしたエルサレムからの指導者たちが語る福音というのは、イエス・キリストをただ信じるだけではだめで、モーセの十戒も必要だと、具体的には「割礼を受けることも救いには必要だ」と教えたのでした。

 当然、パウロにとって、そうした「信仰において割礼の必要性がある」ということになると、「イエス・キリストの救いは不完全だ」ということになります。だからこそ、パウロはこのところで、イエス・キリストの救いの核心、すなわち福音とはまさに「人間は(割礼などの行いによらず)信仰によってのみ、(イエス・キリストの救いによって)神の御前に義(正しいもの)とされるのだ」ということを主張したのです。

 しかし、だからと言って、パウロはそのようにしてイエス・キリストを信じる信仰によって救われた人間が、自分の本能的欲求に従って生きればいいのだとは言わないのです。

 パウロは5節で、イエス・キリストの救いによって救われた者は、「義とされた者の希望が実現すること」を、「”霊”により」、「信仰に基づいて」、「切に待ち望んでいる」と説明するのです。

 じつに抽象的な表現なので分かりにくいですが、これは何を言っているのかといえば、次の6節に出てくる「愛の実践を伴う信仰」について、すなわち、イエス・キリストの救いによって救われた者、すなわちそのようにして義とされた者は、その心の内に「愛の実践」、すなわち「隣人に対して自分がイエス・キリストから受けた愛をもって接する生き方」(隣人愛の実践)へとその心が向かうようになり、その実現のために、キリスト者は聖霊の助けを求め、信仰に基づいて物事を判断し、神の助けによってそれが実現されるように祈りの内に待ち望むのだというわけです。

 長くなるのでまとめると、要はクリスチャンになった人は、その救われた喜びから、隣人愛の実践に生きるようになるのです。しかし、それは決して、人間的努力として行うのではなく、あくまでも祈りの内に、聖霊の助けによって、信仰によって実現するのだというのです。


 ガラテヤの信徒への手紙5章18~23節
18)しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19)肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
20)偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
21)ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。
22)これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、
23)柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
 
 ここも結構、有名な聖書箇所ですが、パウロはガラテヤ教会の人たちに対して、キリスト者には二種類いることを説明します。ひとつは「聖霊の導きに従っているキリスト者」であり、もうひとつは「それ以外のキリスト者」です。

 当然、パウロがキリスト者として求めるのは前者であり、それはイエス・キリストの霊である聖霊の導きに従っているキリスト者です。そして、そのようにして信仰生活を全うするキリスト者、あるいは教会こそが、まさにキリストの教会であって、そうでないものはキリストの教会ではないと、かなりキツイ言葉で「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。」と言っているとおりです。

 その意味で、わたしたちは自分の信仰について、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、主演、その他これに類するもの」がないかどうかを吟味する必要があるのです。そして、信仰生活における「聖霊の助け」とは、まさにこういったものを総称して「罪」を、聖書の御言葉を通じて教え諭してくれるのです。

 そして、キリスト者はひとりひとりがそうしたものに常に注意すると共に、次のことが実現するように神さまに祈り求めなければならないのです。それは「(キリストの)愛であり、(罪の赦しによる)喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といったものです。

 パウロは、信仰により、イエス・キリストの救いに与ったキリスト者は、そうした信仰生活へと導かれ、まさにそうした信仰者による信仰共同体としての教会を目指すことを教えたのです。


 そして、そうした背後にあるのは、当時のガラテヤ地方の教会が、信仰者の集まりであるにも関わらず、そうした間違った方向へと突き進んでいったということの反省にあるのです。

 ガラテヤの信徒への手紙6章1~2節
1)兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。
2)互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。

 キリスト者は決して清い存在ではなく、イエス・キリストの救いによって救われてなお罪人であるという本質からは逃れることができないのです。むしろ、キリスト者の聖性というものがあるのであれば、それはキリスト者自身の内から出てくるものではなく、その人と共に居ますイエス・キリストの聖性によるものなのです。

 だからこそ、わたしたちは常にイエス・キリストと共にあり、そこにおいて常に罪の告白・罪の悔い改めが必要であるのです。そして、そうした弱さを持つキリスト者が集まっている教会も、また、神の御前において完全ではないわけです。

 パウロは信仰者ひとりひとりが自分の罪に気を付けることは言うまでもなく、互いの罪についても気を配ることを言っています。そこにおいては同じ罪人として、まさに隣人の罪をも自分の罪と同じように考えて、罪の誘惑に陥ってしまうことのないようにしなさいと勧めるのです。そして、まさに教会は、そうした互いの罪を担い合うことを通じて、すなわち互いに重荷を担うことを通じて、「キリストの律法を全う」することになるというわけです。

 キリストの律法とはすなわち『律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。』(ガラテヤ5:14)とあるとおりです。


 ガラテヤの信徒への手紙6章7~9節
7)思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。
8)自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。
9)たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。

 イエス・キリストによって救われた人物が、信仰者となって、その後に犯す罪はイエス・キリストを信じる信仰によって自動的に赦されるのかというとそうではないことをパウロはここで言っています。

 「自分の蒔いたものを、また刈り取る」とは、すなわちたとえ信仰者であっても、罪を犯せば、その罪の責任を取らなければならないということです。

 すなわち「キリスト者になった」ということは、本当の意味での「救いの確約」ではないのです。

 イエス・キリストの救いはそれ自体で完璧なものですが、しかし、それは「永遠の命」に至るための「最初の一歩」なのです。イエス・キリストの救いが、まさにその人をその人の意志とは無関係に強制的に「永遠の命」を約束するものであれば、そこに「人間の意志」は必要ありません。

 一見すると、「神が人間を強制的に救う」ということは人間にとって非常に嬉しいことのように感じますが、実は、それは「人間を人間としない」ことでもあるのです。むしろ、それは「人間としての、人格を持った個としての存在の否定」であって、それは「完璧な救い」に見えますがそうではないのです。

 神さまは、人間をあくまでも一個の人間として、その存在を大切にされるからこそ「勝手に救わない」のです。

 それは一見すると「不親切」に感じますが、そうではありません。

 神さまはわたしたち人間に対して、わたしたちと同じ高さに下ってくださり、そして、わたしたちと対等の立場においてその救いを与えてくださったのです。

 それはわたしたちを一個の人間として大切にされる愛に基づくものであり、当然、信仰として、応答として、神さまの救いに応えることが期待されているのです。



 人に対して、なんでもかんでもやさしくすることが親切かというとそうではありません。わたしたちは悪を行おうと考えて悪を行うことは少ないですが、案外にも、善を行おうとして悪を行うことが多いのです。
 わたしが牧師になって経験した罪というのは、ほとんどがそうした「自分としては親切のつもり」が、結果として「相手の人格を否定している」というケースです。これはよほど注意していないと、うっかりするとよくやってしまう罪です。

 そういう意味で案外にも教会は、パウロが指摘するように、そうした罪の誘惑に多く曝されている場所でもあるのです。表向きは「親切」なので、本人はそれが悪であると気が付きません。しかも、それを無意識で行っていたりすることが多々あります。

 そうしたことが個人レベルで起こり、また教会レベルで起こるのです。

 キリスト者が立ち向かうべき相手は、まさにそうしたわたしたちの罪であり、当然、それは信仰により、聖霊の助けによらなければ決して立ち向かうことはできないのです。



 今日のキリスト教会において表向き「偶像礼拝」は存在しません。しかし、パウロが言う「偶像礼拝」は決して他の宗教の神像を礼拝することを意味しません。むしろ「伝道」「宣教」「福音」「救済」という言葉によって、個人の自己満足や組織の拡大など、それに類するさまざまなものが偶像としてキリスト教会の中で礼拝の対象となっているのです。

 ガラテヤ書において「律法」は「割礼」を意味していました。では、今日における「律法」とは何でしょうか?

 もちろん、教科書的には「律法主義」というような答えになるのでしょうが、わたしがこのガラテヤ書から読み取ることができるのは今日的「律法」とは「伝道」ということです。

 それは「伝道」そのものが否定されるのではありません。「伝道」が目的化され、教会員に対して伝道がノルマ化されることが、今日的な「偶像礼拝」なのです。それは表向き「悪でない」ことから、「正しいことだ」と無条件に考えてしまいやすいのです。

 キリスト者もまた教会も、常に、そうした何が罪であり、偶像礼拝であるのか、そのことに注意を払い、イエス・キリストに従い続けなければ、その先にあるのは身の破滅でしかないのです。
 

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