山陰からキリスト教・キリスト教会を考える

コリントの信徒への手紙1 9章3~7節、23~27節
3)わたしを批判する人たちには、こう弁明します。
4)わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。
5)わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
6)あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。
7)そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。 

23)福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
24)あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
25)競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
26)だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
27)むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 


パウロは、自分自身の確信するところの信仰生活は、当時の初代エルサレム教会の人たちの信仰生活とは幾分かの違いがありました。

それは具体的には、他の十二使徒たちや主の兄弟ヤコブ(イエスさまの血縁上の兄弟)やケファ(シモン・ペトロ)たちが妻帯しているのに対してパウロは独身を貫こうとしていることや、独身生活を勧めていたこと。あるいは十二使徒たちは、他の信徒からの献金によって生活をしていたのに対して、パウロやバルナバ(パウロを指導した人物)たちは、むしろ自分たちで生活費を稼いでいたことがありました。

パウロはここで、十二使徒たちが妻帯しているような権利、あるいは、自分たちが信徒の献金によって生活を立てるという権利(実際、パウロたちは自分で生活費を稼いでいた)において、十二使徒たちとパウロとの間に、何か決定的な違いがあるだろうか、ということをコリントの教会の人たちに対して弁明しています。

そして、そうした権利については、十二使徒たちと同様、自分たちにも結婚する権利や信徒の献金によって生活する権利をパウロたちも当然の事として持っているのだということを言うのです。

しかし、ここで、復活のイエスさまによって使徒とされたパウロにとって、そうした権利を自分も持っているが、しかし、あえてわたしは「結婚すること」や「信徒の献金で生活を立てること」を、信仰的な決断によって「自分は行使しないのだ」ということをこのところで主張するのです。

パウロはこの24節において、「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」と語っています。

すなわち、イエス・キリストの御前において罪を告白し、洗礼を受けてキリスト者になったら、天国行が確定するのかと言えばそうではないことをパウロは言っているのです。


キリスト者は、一度、救いにあずかったのであれば、そこからが信仰生活のはじまりであって、それはまさに「賞を受けるまで」、すなわちわたしたちが地上での生涯を終えて天に凱旋するその時に、まさに天国の門を通過するまでは、キリスト者は決して罪の告白・罪の悔い改めを怠ってはならないというわけです。

その意味で、洗礼を受けてクリスチャンになることがわたしたちの目標ではないのです。


わたしたち人間の目標は、まさにわたしたちが地上における生涯を終えて天に凱旋する、その天国の門を通過するための地上の人生であり、そのための教会生活であるのです。

その意味で、教会生活も普段の信仰生活においても、弛まぬ罪の告白と罪の悔い改めが求められており、まさにパウロはそうした信仰生活をもってはじめて、天国の門を凱旋する可能性を手にすることができるのだということを言っているのです。

その意味で、わたしたちが礼拝を守るということは、まさに罪の告白と罪の悔い改めを行うということであり、罪の告白と罪の悔い改めが、礼拝において一人一人の内で行われるからこそ、その罪の赦しの喜びによって、わたしたちは主なる神を心から褒め称えることが可能になるのです。そして、そのように心から主を賛美することができるのです。

その意味で、礼拝の賛美は、まさに救われた喜びがその根源であって、音楽の発表会ではありません。また、宗教的カラオケでもありません。


そして、パウロは、まさに自分がそうしたことをコリントの教会の人たちに語る上で、自分自身がそうした信仰的な節制を行っていることを告白するのです。

なぜなら、パウロができないことをコリントの教会の人たちに命令しても、何の説得力もないからです。


それは、教会において牧師は、信徒の誰よりもそういう意味では、神の御前にへりくだり、神の御前において教会員の誰よりも聖書の御言葉に耳を傾け、イエス・キリストの言葉に聞き従い、そして自分自身の罪の告白をし、罪を悔い改める者でなければならないということであるのです。


口で言うだけで全く実践が伴わない牧師、すなわち神の御前において罪の告白と罪の悔い改めができない牧師は牧師失格ということです。

パウロは自分自身のことも含めて厳しく、「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 」と告白している通りです。

そういう意味では、まさに教会が教会であるためには、牧師が牧師として、神と人との前において正しく罪の告白と罪の悔い改めができているかが重要だということです。



コリントの信徒への手紙1 10章12節、14節、15節、31~33節
12)だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

14)わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
15)わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

31)だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
32)ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
33)わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。


パウロは「サタンの誘惑」というものは教会の外にもあるけれども、むしろ「教会の中」、また「クリスチャン同士の間」にも「サタンの誘惑」があるのだということを教えています。

それは「立っていると思う者」とあるように、すなわち、「自分は信仰によって救われている」というふうに考える信仰者の心の油断が、まさに危険であることを言っているのです。

信仰者でない者が信仰でつまづくことはなく、むしろ信仰者こそが信仰でつまづくのです。


そして、そうした教会の中において、あるいは教会員同士の間にあって注意すべきつまづきが、ここで言われている「偶像礼拝」なのです。

ここでいう「偶像」とは、いわゆる「木彫りの像」などではなく、むしろ教会においては「教会成長」や「献金倍増」、「信徒獲得」といったような、「この世的な繁栄を教会にもたらすもの」であったり、あるいはパウロがその次の節において指摘しているように、「クリスチャン一人一人の思考力を奪うもの」であったりするのです。

パウロは信仰とは、まさに聖書の御言葉に基づき、その御言葉を通じて示されるイエス・キリストの言葉に聞き従うことによって、わたしたちに与えられる「何が罪であるか」を見抜く思考力であることを言っています。

ところが、昨今のいろいろな教会の不祥事などを見ると共通して見えてくるのが、信徒に対する一種のマインドコントロールであって、それは第一義は「牧師の指導者としての罪を隠すため」であり、第二義は「教会の不祥事が問題となって、教会の不評をまねくことを隠すため」であるのです。

本来、キリスト教の救いが罪の告白と悔い改めであることから考えれば、そうした大きな不祥事になる前に、罪の告白と罪の悔い改めが教会の中で行われるので、たとえ間違いが起こったとしても大きな不祥事まで発展することは少ないのです。

むしろ、牧師も人間であり、教会員一人一人も皆等しく人間であるなら、教会の中にそうした間違いが常に起こることを想定して、いざそうした間違いが起こった場合には、教会の中で、速やかに罪の告白と罪の悔い改めがなされるなら、教会はまさにイエス・キリストの体なる教会として、常に神の御前に正しくあることができるのです。

ところが、多くの教会では、そうした罪の告白や罪の悔い改めが軽視され、むしろ人間的な、この世的な繁栄が求められることから、まさに「常勝思考」が教会の拠って立つ基本になってしまうのです。

そして、いったんそうした常勝思考の教会になってしまったら、教会の中での「失敗/敗北」は一切許されないことになるので、たとえそうした失敗が起こったとしても、「そうした事実はありませんでした」というような形に流れてしまうのです。

たとえ牧師の個人的な失敗であったとしても、しかし、そうしたことは牧師個人に留まりません。牧師が常に教会の看板である限りにおいて、牧師の失敗を教会(役員会など)が隠そうとする例は枚挙にいとまがありません。


そういう意味で、パウロはコリントの教会の人たちに対して、自分たちの喜びのためではなく、全ての人に対して、人を惑わすことのないように、すなわち、教会は常に、神とそうした多くの人たちの前において、自分たちの過ちを認め、過ちを悔い改めるという、神の御前における真実をもって歩むことが大切であることをパウロは言うのです。

教会がその地域に対してそうした責任ある態度を取り続けることが、教会がその地域に対して教会であるための必要条件であるのです。そして、一旦間違いが起こった場合には、社会的責任を取るという決断をも教会は覚悟しなければならないのです。

だからこそ、日々における例えどんなに小さな、軽微な罪であったとしても、その罪が告白され、罪の悔い改めがなされることが大切なのです。

そうした小さな罪に対して誠実に対応でない牧師や教会、あるいは信徒が、それよりも大きな罪に対して誠実な態度を取ることは不可能です。罪の告白と罪の悔い改めとは、まさに毎日の信仰生活によって養われる信仰の力なのです。私自身自戒しつつ。


 コリントの信徒への手紙1 7章1~2、17~19節
1)そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
2)しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。

17)おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
18)割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。
19)割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 

 コリントの信徒への手紙1 7章は全体的にはキリスト者が結婚する事に対して、それが信仰的に問題があるのかどうかという事について、コリントの教会の人たちが質問を送って、その質問に対する応答という形で記されています。

 まず、7章における全体的な説明をするのであれば、こうしたやり取りが始まる前において、パウロがコリントの教会の人たちに教えた事は、それこそ今日的にいえば修道者生活のように生涯独身を貫くような、禁欲的な生活であったのです。

 当時のギリシャ・ローマといった世界における性に関するモラルは、どちらかといえば非常にルーズであり、下手をすると「なんでもあり」の世界であり、当然のことのように妻以外にも愛人を持つことは社会人の嗜みのようなものとして理解されていたのです。

 そして、まさにそうしたことが一般常識である人たちに対して、「正しい信仰は生涯独身のような禁欲的な生活によって実現される」というような事を教えた事によって、当時のコリントの教会の人たちは大いに衝撃を受けたのです。

 パウロは1節において、そうした経緯があったことを「そちらから書いてよこしたことによれば」と、そうしたやり取りがあったことをほのめかしながら、以下に、キリスト教信仰に基づく人生観、および結婚観を提示するのです。

 あれこれと書かれていますが、それはすなわち今日的「一夫一婦制」であって、そのことは特に問題ではありません。

 結論から言えば、信仰者の信仰生活において大切なことは、「結婚」という信仰生活の具体的一面についてではなく、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、大切なのは神の掟を守ることです。」というところに集約されます。

 つまり、キリスト教会というものは、そうした信仰的な自覚をもった信仰者ひとりひとりによって形作られるところであり、そのように神の言葉であるイエス・キリストに従う一人一人の信仰者によって成り立つものであるということが重要なのです。

 そして、そうした教会を形成する信仰者ひとりひとりに求められているものがまず、上記の「おのおの主から分け与えられた分に応じ」ということで、それは救いにあずかる以前と以後とにおいて、その生活を劇的に変化させる必要はないということです。

 イエス・キリストの十字架と復活によって実現されたわたしたちの罪の赦しは、「罪を赦す」ということがその本質的な出来事であって、パウロはそこで具体的に「割礼を既に受けた者が割礼の痕を無くそうとしてはならない」と、自分自身の身体に刻まれている傷跡について、そうした痕をまた人為的に無くす必要はないことをここで教えています。

 すなわち今日のわたしたちで言えば、神の救いは、まさにわたしたちが今生かされている、わたしたち一人一人の日常生活の中において実現する神の救いであって、キリスト者になるということは、そうした日常生活から離れて禁欲的な集団生活を行うようなものではなく、むしろ、救われて後も、それまで普段の生活と同じように生活することを勧めているのです。

 しかし、大切なのはそうした普段の生活であっても、そこにおいてイエス・キリストの教えに反する、すなわち「意図的に罪を犯す」ことはダメであり、普段の生活においても、そうしたイエス・キリストの教えの実践が求められるのだ、それが具体的に示されているのが「神の掟を守ること」ということであるのです。

 では、ここで言われている「神の掟」とは何かと言えば、それは個人の生活においては信仰生活のことであり、また社会生活においては「イエス・キリストに従うこと」であり、たとえば具体的に例を上げれば「隣人愛の実践」ということになるのです。

 その意味で、コリントの教会の人たちにとってみれば、自分の周りはみんなが性的に放縦な生活をしている中にあって、自分だけはそうした他の人たちと同じ生き方をするのではなく、節度とモラルをもって生活することをパウロは教えたのです。

 しかし、パウロの本音としては、「キリスト者は生涯独身」ということが頭にあったのでしょう。

 パウロの同労者であるアキラとプリスキラはパウロと同様の信仰をもっていましたが二人は結婚していました。パウロが「生涯独身」を声高らかに言えば、アキラとプリスキラは別れなければならなくなります。その意味で、コリントの教会の信徒ですでに結婚した人たちが結婚を解消してまで「生涯独身」に拘ることは、信仰の本質的な問題ではないとパウロは見ているのです。



 コリントの信徒への手紙1 8章8~13節
8)わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
9)ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。

10)知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。
11)そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
12)このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
13)それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 パウロの生きていた時代、まだキリスト教はユダヤ教と完全に決別ができていたわけではなく、紀元70年ごろにエルサレムとエルサレム神殿がユダヤ戦争によって破壊されるまでは、エルサレム神殿に対する信仰とまた、そうしたユダヤ教律法の拘束力・信頼性というのは非常に高かったのです。

 そういう意味では、地方に暮らしていた離散のユダヤ人もそうした影響を受けており、まったくギリシャ・ローマ社会に生まれた者とによって形成されていたコリントの教会においては、いろいろとそういった面において信仰の上で大きな問題となていたのです。

 具体的には、異教祭儀に供えられた肉を食べることはキリスト教信仰においては罪を犯すことになるのではないかという事と、あるいは普段の社会生活の中において、そうした異教祭儀の肉をキリスト者として食べざるを得ない状況になった時に、キリスト者は信仰を理由にしてそれを断るのが正しいのか、というようなことがパウロに対して質問されていたのです。

 パウロは、この事柄について、偶像に供えられた肉を食べる事によって、わたしたちの信仰が何かしらの影響を受けることはないのだと説明し、そうしたキリスト者でありながら異教祭儀に加わることは信仰において禁止こそされないけれども、しかし、それがもし、キリスト者として他の信仰者をつまづかせるような事になるのであれば、わたしの個人的な判断としては、わたしは今後、そうした偶像に供えられた肉を食べることはしない(つまり、現在までその肉を食べているけれども、今後はそうしない)ことを伝えたのです。



 さて、今日、キリスト教会において、特別に、何か「信仰的に禁止される食物」があるかというとそれはありません。となると、この聖書箇所は、わたしたちには意味のない言葉のように思うかもしれませんが、そうではありません。

 わたしたちがキリスト者としてこの世において生活する限り、たとえば神社など、他宗教の祭儀との関わりが避けられない場合があります。たとえば、仏式のお葬式に出席するような場合がまさにそうした具体的な例となりますが、そうした他宗教の祭儀との関わりをキリスト者はどう理解し、行動すれば良いのか。

 パウロのこの8章の記述をみると、結論から言えば、「そうした他宗教の祭儀に参加する」という出来事がわたしたちの信仰に与える影響はない、という事です。

 ただし、パウロはそれに続けて、「しかし、キリスト者としてそうした宗教祭儀に参加する事によって、それが他の教会員に対して悪影響を及ぼすような場合は、そうした宗教祭儀に参加することは控えた方が良い。」ということになるかと思います。

 そうした信仰の考え方は、パウロはすでに5章10節「その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。と言っているとおりです。

 すなわち、わたしたちはこの世において、キリストの救いの証人としてこの世の中に生きることが求められているのであって、この世から隔絶したところで隠遁生活をするわけではないからです。


 しかし、キリスト者が注意しなければならないのは、そうした特殊な隠遁生活ではなく、キリスト者はそうしたこの世の罪の満ちた世界において、イエス・キリストの信仰によって、その福音の指し示す指針に基づいて発言・行動しなければならないという点です。

 キリスト教会はそういう意味では、他宗教との関わりこそ大きな問題とはなりませんが、キリスト教会が「この世的繁栄」に対して、そうした「人間的欲望を良しとしない」という決断をとることが大切なのです。

 教会もこの世の中において存在する限り、この世の経済から独立して存在することはできません。

 キリスト教会もやはり電気・ガス・水道といったライフラインを受けている関係において、教会の運営にはお金の問題が常に付きまといます。

 しかし、そこにおいて信仰とこの世的価値基準と二重の価値観を教会は混同しないようにしないといけません。

 なぜなら、教会運営においてこの二種の価値観が混同される時に教会は大きく過つからです。

 『イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。』(マルコによる福音書12章7節)

 イエスさまの言葉に上記のものがありますが、「皇帝のもの」、すなわちこの世に属するお金の類の話については、きちんとこの世に属する価値観において判断し、それを信仰的に考えて判断しない、というようなことです。

 たとえば、教会は献金収入がありますが、それをまさに「皆が神さまにささげたものだ」として、牧師が勝手に使っていいということにはなりません。

 「皇帝のものは皇帝に」とは、たとえば金銭管理についてはこの世の金銭管理のルールに従って、正しく会計を調べ報告し、教会でその使途について話し合われ、決断され、正しく運用されるということが守られなければならないということです。

 もちろん、イエスさまがそうした教会運営を念頭に話をすることはありませんから、それはわたし永野の個人的な解釈なのですが、特に小さい教会においては、牧師の財布と教会の会計とが一つであることもあるために、最初の内は予定外の出費などに牧師が自腹を切ったりすることもあるのです。

 ところが、教会の規模が大きくなってくるとそれではどこからどこまで教会の会計でどこからどこまでが牧師の家計なのか分からなくなってきます。そういう意味では、ある程度、額の小さいうちからでもそこらへんをきちんとしておくという習慣が教会には必要なのだと思います。


 しかし、教会がこの世において教会活動を続ける上で、やはりそうした教勢(教会の会員数の動態、教会の収入支出の動態)について、それが教会の中で議論されることもあり、「教会(礼拝人数)をもっと大きなものに!」「献金がもっと与えられるように!」というような声が上がってくるのです。

 しかし、教会に信徒が与えられることも、また教会に献金がささげられるのも「神さまもの」であるなら、それはまさに礼拝においてわたしたちの感謝として「神さまにお返しするもの」であって、教会がそうした「信徒獲得」「献金倍増」というようなことを目標とすべきではありません。

 それは、教会をあげて神さまに対して「あなたが下さっている恵みは少なく、もっと恵みを多くください」と要求しているのと同じであって、それがはたして信仰的に正しいかどうかと言えば、それは大きな疑問です。

 むしろ、パウロがコリントの信徒への手紙2で、『すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』(コリントの信徒への手紙2 12章9節)と言っているように、教会はむしろ、今与えられている恵みに感謝しつつ、それを大事にしながらこの世において教会運営を行うべきではないかというのが、わたしの個人的な感想です。


 上をみればきりがなく、欲望を抱けばきりがありません。そうした人間の欲望に対して、キリスト者は、決して流されてしまうことのないように、だからこそ、日ごろから自分自身の罪の告白によって、そうした人間の欲望に対して心を奪われてしまわないようにしなければならないのです。


コリントの信徒への手紙1 5章1~2節、9~13節
1)現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。
2)それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。

9)わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、
10)その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
11)わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
12)外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
13)外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」


  パウロは、この手紙に先だって、コリント教会に手紙を記していました。そこで、パウロは「みだらな者と交際してはいけない」ということを書いたようですが、コリントの教会の人たちはその手紙でいうところの「みだらな者」を「教会の外(普通の)のみだらな者」として、すなわち、キリスト者というのはそうした当時の多くの人たちと関係を断って、キリスト者は一般世間と隔絶した、ごく禁欲的な生活を守らなければならないというふうに受け取ったのです。

 そして、それは更に曲解されて、相手が同じキリスト者であれば相手は「みだらな者」ではないので、同じキリスト者間における交際は許されるのであり、たとえば血の繋がった親子の関係における自由恋愛は許されるのだというふうに理解されてしまったのです。

 それは言い方を変えれば、「相手が同じキリスト者であれば近親相姦も許される」というふうにコリントの教会の一部の人は考え、そしてまさにそのような事例が起こったのです。

 パウロはここで、そうしたコリント教会の人たちに対して、そうした理解は誤解であることを説明し、結論として、13節にあるように、「あなたがたがの中から悪い者を除き去りなさい。」と勧めるのです。

 なぜなら、キリスト者とは、イエス・キリストの御前において自分の罪を告白し、罪を悔い改める人物を言います。つまり、そうした人物が集まって神を礼拝するところがキリスト教会であるわけですから、当然、「悪を行うキリスト者」というのは、そうした理屈からすれば存在するはずがないのです。



 ところが現実問題として、教会の中では様々な人間の悪による事件が起こるわけです。

 人間は、イエス・キリストの救いによってその罪を贖われたとして、以後も、救われた罪人でしかありません。当然、キリスト者となった人物といえども罪からまったく自由であるわけではないのです。 しかし、わたしたちは「キリスト者は罪から自由になっている」と信じます。

 では、この「罪から自由」とは具体的にはどういう意味なのでしょうか?

 それは「キリスト者は罪から救われたので、もう罪を犯すことがない」ではなく、「たとえキリスト者であっても罪を犯すことがある。しかし、イエス・キリストが常に共に居てくださる恵みによって、わたしたちは何時でもイエス・キリストの御前に罪を告白することができ、罪を悔い改めて、罪から自由になることができる」ということであるのです。

 パウロは、ここで「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」(13節)と、かなり厳しい言葉で語っていますが、当然、それはパウロにとってみれば本意ではありません。

 本来、このような裁きとしての言葉は言いたくない。しかし、それを言わなければならないほどにコリント教会の直面している問題が深刻であることを示しているのです。


 教会は「誰が正しく」「誰が間違っている」ということを互いに裁き合う場所ではなく、教会がそうしたお互いの罪の裁き合いを行う場所でないとは正しいことです。

 しかし、それは「教会の中だから」「教会の中のルールは社会のルールとは違うのだ」と言って、教会の中で行われる信仰者の罪を全く不問にし、それをまったく水に流し、そうした問題を直視せずに、表面的に教会を維持しようということではないのです。

 パウロは「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」とは言いますが、それは当然、信仰によって実現されるべきものであり、意味としても「悪人の追い出し」ではなく、むしろ、「そうした人物が教会の中に居ない状態に、教会全体として罪の告白と悔い改めがなされるべきである」ことを、「悪い者を除き去りなさい」というように強調して表現しているのです。

 そうでなければ、キリスト教の教会は、そうした「自分たちに都合の悪い人間を切り捨てる」ことが教会の働きになってしまうからです。そうした、いわば「トカゲのしっぽ切り」のような行為によって教会の中が浄化されるかと言えば、当然、そのようなはずはないですし、また当然、パウロが一方でコリント信徒への手紙12章において「キリストの体」ということを大切な事として主張しているわけですから、パウロの本意が「教会を訴える人を追い出せ」というはずがないのです。

 だからこそ、パウロのこの厳しい言葉には、一人一人が自分の罪の重さを自覚し、互いに自分の罪を告白し、悔い改める。そうした事によって、一人一人が神の御前に罪を赦された者同士の交わりとして、互いに支え合い、教会を維持することをパウロは求めているのです。

 それは、「誰が悪い」という犯人を捜すことが目的なのではなく、いったい何が神の御前に間違っていたのか、その間違いを明らかにし、教会全体としてそのことの罪の悔い改めをすることが必要であることを促しているのです。

 当然、牧師はその矢面に立つ責任があるわけで、その意味で、牧師に「自分は教会の中の罪とは無関係」という事はあり得ないわけです。これはわたし自身、常に、注意するようにしています。



コリントの信徒への手紙6章1~11節
1)あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
2)あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。
3)わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
4)それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
5)あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。
6)兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。
7)そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。
8)それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。
9)正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、
10)泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
11)あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。


 教会の中で、信徒間で、あるいは信徒と牧師の間で問題が起こり、しかも、その問題をその教会の中で仲裁することができず、教会とは関係のない人に対して、その仲裁をお願いするということがコリントの教会で起こりました。

 パウロがここで問題にしているのは、そうした「キリスト者がこの世の裁判に問題の仲裁を求めること」が問題だというのではなく、そもそも、なぜ「そうした問題が教会の中で起こるのか」を問題にしているのです。


 キリスト教会において、イエス・キリストの救いがわたしたち人間の罪の赦しである限り、当然、教会の中には、そうした「人間の罪に対しての自浄作用」があるはずなのです。

 キリスト教の信仰は、言い換えるなら「自分の罪に対する自浄作用」なのです。



 ところが、パウロが指摘するのは、コリント教会の中で、言い換えるなら信徒(牧師)の罪が放置され、それが全く野放し状態になっている。当然、放置された罪はそのままであるはずがありませんから、どんどん雪だるまが転がって大きくなっていくように、教会内における人間の罪が肥大化し、一部の信徒だけではなく、教会全体を巻き込んで人間の罪の巣窟状態になったしまったのです。

 パウロはそうしたコリント教会の状況に対して、なぜ、キリスト者が集うキリストの教会が、本来であれば、イエス・キリストを信じる信仰によって、その自浄作用によって人間の罪からは遠く離れているはずであるのに、それがむしろ罪の巣窟状態になっているのかと、そのことを問題にしているのです。

 「兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」とは、すなわち、教会員の誰もが「罪を認識できない」か、あるいは「罪を認識しつつも黙認している」のどちらかであるということです。



 人間は神に近づけば近づくほど、自分の罪に対して敏感になります。 そのかわりに、人間は神から離れれば離れるほど、自分の罪を認識しなくなるのです。

 ところが、そうした神から遠く離れてしまったキリスト者は「自分の罪を自覚しない」ものですから、むしろ「自分は神に近い」と思い違いをするわけです。

 パウロはそうした「自分は罪を赦され、聖霊を受け、神に近いのだ」と自称するキリスト者に対して、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。」(9~10節)と言うわけです。

 信仰者は罪を犯さないのではなく、信仰者と言えども罪を犯すのです。

 だからこそ、信仰者は常に自分が神の御前に罪を犯していないか、聖書の御言葉を通じて、聖霊の助けを通じて示される自分の罪を聞くことを日課とし、日々、イエス・キリストの御前において自分の罪を告白し、罪を悔い改めを祈るのです。

 その意味で、人は洗礼を受け、キリスト者となったら、それであとは自動的に天国へ行けるわけではないのです。



===ご質問に対する応答===

Q:教会の中では「罪の赦し」が言われており、そうした教会の中で起こる問題を一般的な裁判に訴え出ることは信仰的に間違っているのか、そうしたことをするのはキリスト教においては不信仰なのか?


A:パウロは、そもそも「キリスト教会という仕組みは、その本質において罪に対する自浄作用がある」と見ています。

 一見すると、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」(7節)というパウロの言葉はこれを表面的に読めば確かに「キリスト者は損害を受けても、それを相手に訴え出ることをせずに損害を受けるままでいることが信仰的に正しいのだ/自分に対して犯された罪を赦すことが信仰的に正しいのだ」というふうに解釈できます。

 しかし、この部分をもう少し丁寧に読むのであれば、6章で言われている具体的な事例を説明するのであれば、まず、第一に教会の中で信徒間において搾取が行われたという出来事があったのです。

 そして、搾取に遭った人物は、教会の他の人たちに、この搾取の事を訴えたけれども誰もそれを真摯に受け止めてくれる人たちが居なかった。

 だからこそ、この搾取を受けた信仰者は、「教会に訴え出てもだめだ」と、この世的な裁判官?に対して教会の中で搾取が行われたことについて訴え出たということがあったことが推測できるのです。


 さて、このところでパウロが指摘するのは、そうした「この世的な裁判官に対して教会の中における搾取を訴え出ることが間違っている」ということではなく、むしろ、「信仰の事柄を、信仰を持っていない人に訴える出ることは間違っている。」という事なのです。

 それは誤解の無いように言えば、「信徒が信徒(牧師)の罪を裁判に訴えてはならない。」ということをパウロは言おうとしているのではありません。

 大事なのは、そもそも正しく信仰を持ったキリスト者が、救われた後に、そうした意図的に「搾取」をするなどということはあり得ないとパウロは確信しているのです。

 なぜなら、キリスト者とは、日々神の御前において罪を告白し、罪を悔い改めるという信仰生活を行うわけでありますから、たとえば意図せずに「搾取」をしてしまい、そうした事を他の人の言葉により、あるいは自分自身の自覚として知ったのであれば、当然その罪は告白され、悔い改められるはずであるからなのです。この時の罪の悔い改めにおいて、当然、「搾取」に対する謝罪・弁償が行われるであろうことは、そのことをわざわざ文字にして書かなくても、それが当然であるということが当時の人たちの信仰にあるわけです。

 当然、キリスト教会はまさにイエス・キリストを頭とした、キリストの体であり、パウロが「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(コリントの信徒への手紙1 12章26節)で語っているように、そうした「一つの部分の苦しみ」を、教会全体が共に苦しむということが必要であるわけです。

 それは、当然、「搾取した信仰者を罪人と断定して教会から排除する」ということではないのです。


 たとえば、「被害を受けた人物が加害者(の罪)を赦せば、教会は丸くおさまります。」とは、一見信仰的なようでまったく信仰的ではありません。 

 これは教会が全体として罪に対する認識を放棄して、罪の誘惑に教会を委ねたということになります。パウロが問題ありと指摘するコリントの教会の状況はまさにこうした状況であったのです。

 では、信仰的に正しくこのことに向き合うためには、コリントの教会はどうすればよかったのでしょうか?


 一つ目は、信徒ひとりひとりが自分の罪に対する責任をもっと自覚するということです。

 二つ目は、そのようにひとりひとりが注意していても、そうした罪が教会の中で発生する事があります。問題は、その時に、その事柄を、ただ加害者・被害者だけの問題として、教会はそれに関わらないとするのではなくて、教会全体として、その事柄について、一人一人が罪の告白をもって、イエス・キリストの御前において、教会全体としてその事が和解できるように計らうことが大事であるのです。

 ところが、コリントの教会はそうした「教会としての働き」が上手く機能しませんでした。

 コリントの教会はパウロが「それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。」と指摘しているように、むしろ、コリント教会は、その被害を受けた信徒に対して、「加害者側の肩を持ち、被害者を教会から追い出すようなことをした」わけです。

 つまり、ここで「不義」を行っている「あなたがた」というのは「教会(側)」を意味しており、そうすると、直前で言われている7節の「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」という言葉も、すなわちは「被害者」ではなく、「教会」に対して言われている言葉であるのです。
 
 パウロは、搾取した側である教会・信徒に対して色々と信仰的な注文を付けているのであって、決して、信徒としてこの世的な裁判官に訴え出た人を問題にしているのではないのです。

 それはパウロが5章のところで「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。」(12節)と言っていることからも明らかです。

 その意味で、パウロがここで告発しているのは、あくまでも教会であり、教会を構成する一人一人であり、それ以外の誰でもないということなのです。

 わたしたち人間は生きている限りにおいて「罪を全く犯しません」ということはありません。だからこそ、常に、イエス・キリストの言葉に聞き従うこと、すなわち聖書の御言葉を通じて自分の罪が示されたのであれば、イエス・キリストの御前において罪を告白し、罪を悔い改めることを通じてはじめて、わたしたちはキリストと共にあって清い生活を送ることが可能になるのです。

 教会はまさにそうしたキリスト者が主の御前において、共同体として罪の告白と罪の悔い改めを行うのです。それが、週ごとの礼拝の本質であって、「罪の告白と罪の悔い改めが欠如した礼拝」とは、単なる偶像崇拝に過ぎないということなのです。

===


  
   
コリントの信徒への手紙1 6章18~20節
18)みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
19)知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
20)あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

 イエス・キリストの救いによってわたしたちに与えられた命は、「わたしの命」ではなく、それは「イエスさまが与えてくださったイエスさまの命」であるのです。

 パウロはローマの信徒への手紙12章1節において「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマ12:1)と語っています。

 まさにそれと同じことをこのところで勧めています。

 キリスト者の証しとは、まさにわたしたち自身が、イエス・キリストによって罪を赦され、罪から救われるというその経験を積むこと、すなわちそうした信仰生活を行うことにあります。

 わたしたちは、「自分の罪を管理する責任」を神さまから委ねられたのであって、イエス・キリストの救いは、「わたしたちが(意図的に)罪を犯すことの許可証」ではないのです。


 わたしたちの身の回りでは、むしろ、イエス・キリストの救いをまさに「罪に対する万能薬」のようなものととらえ、あたかも「キリスト者は何をやっても許されるのだ」「キリストを信じる者が正義だ」というような、または「キリスト者は罪を犯しても、罪を告白すれば罪を赦される」というような話を耳にする機会があります。

 しかし、パウロが言っているのは、「人間の罪を最終的に裁くのは神であって、それはその時にならないとわからない。」ということです。

 すなわち、わたしたちが地上において言えることは、「かの日において、信仰者でありながら神によって滅ぼされることがないように、一日一日を大切に、神の御前に正しく生きましょう」ということだけです。

 パウロはそのことをこうした箇所において言っているのです。

このページのトップヘ