コリントの信徒への手紙1 9章3~7節、23~27節
パウロは、自分自身の確信するところの信仰生活は、当時の初代エルサレム教会の人たちの信仰生活とは幾分かの違いがありました。
それは具体的には、他の十二使徒たちや主の兄弟ヤコブ(イエスさまの血縁上の兄弟)やケファ(シモン・ペトロ)たちが妻帯しているのに対してパウロは独身を貫こうとしていることや、独身生活を勧めていたこと。あるいは十二使徒たちは、他の信徒からの献金によって生活をしていたのに対して、パウロやバルナバ(パウロを指導した人物)たちは、むしろ自分たちで生活費を稼いでいたことがありました。
パウロはここで、十二使徒たちが妻帯しているような権利、あるいは、自分たちが信徒の献金によって生活を立てるという権利(実際、パウロたちは自分で生活費を稼いでいた)において、十二使徒たちとパウロとの間に、何か決定的な違いがあるだろうか、ということをコリントの教会の人たちに対して弁明しています。
そして、そうした権利については、十二使徒たちと同様、自分たちにも結婚する権利や信徒の献金によって生活する権利をパウロたちも当然の事として持っているのだということを言うのです。
しかし、ここで、復活のイエスさまによって使徒とされたパウロにとって、そうした権利を自分も持っているが、しかし、あえてわたしは「結婚すること」や「信徒の献金で生活を立てること」を、信仰的な決断によって「自分は行使しないのだ」ということをこのところで主張するのです。
パウロはこの24節において、「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」と語っています。
すなわち、イエス・キリストの御前において罪を告白し、洗礼を受けてキリスト者になったら、天国行が確定するのかと言えばそうではないことをパウロは言っているのです。
キリスト者は、一度、救いにあずかったのであれば、そこからが信仰生活のはじまりであって、それはまさに「賞を受けるまで」、すなわちわたしたちが地上での生涯を終えて天に凱旋するその時に、まさに天国の門を通過するまでは、キリスト者は決して罪の告白・罪の悔い改めを怠ってはならないというわけです。
その意味で、洗礼を受けてクリスチャンになることがわたしたちの目標ではないのです。
わたしたち人間の目標は、まさにわたしたちが地上における生涯を終えて天に凱旋する、その天国の門を通過するための地上の人生であり、そのための教会生活であるのです。
その意味で、教会生活も普段の信仰生活においても、弛まぬ罪の告白と罪の悔い改めが求められており、まさにパウロはそうした信仰生活をもってはじめて、天国の門を凱旋する可能性を手にすることができるのだということを言っているのです。
その意味で、わたしたちが礼拝を守るということは、まさに罪の告白と罪の悔い改めを行うということであり、罪の告白と罪の悔い改めが、礼拝において一人一人の内で行われるからこそ、その罪の赦しの喜びによって、わたしたちは主なる神を心から褒め称えることが可能になるのです。そして、そのように心から主を賛美することができるのです。
その意味で、礼拝の賛美は、まさに救われた喜びがその根源であって、音楽の発表会ではありません。また、宗教的カラオケでもありません。
そして、パウロは、まさに自分がそうしたことをコリントの教会の人たちに語る上で、自分自身がそうした信仰的な節制を行っていることを告白するのです。
なぜなら、パウロができないことをコリントの教会の人たちに命令しても、何の説得力もないからです。
それは、教会において牧師は、信徒の誰よりもそういう意味では、神の御前にへりくだり、神の御前において教会員の誰よりも聖書の御言葉に耳を傾け、イエス・キリストの言葉に聞き従い、そして自分自身の罪の告白をし、罪を悔い改める者でなければならないということであるのです。
口で言うだけで全く実践が伴わない牧師、すなわち神の御前において罪の告白と罪の悔い改めができない牧師は牧師失格ということです。
パウロは自分自身のことも含めて厳しく、「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 」と告白している通りです。
そういう意味では、まさに教会が教会であるためには、牧師が牧師として、神と人との前において正しく罪の告白と罪の悔い改めができているかが重要だということです。
コリントの信徒への手紙1 10章12節、14節、15節、31~33節
12)だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
31)だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
3)わたしを批判する人たちには、こう弁明します。
4)わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。
5)わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
6)あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。
7)そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。 23)福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
24)あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
25)競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
26)だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
27)むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 パウロは、自分自身の確信するところの信仰生活は、当時の初代エルサレム教会の人たちの信仰生活とは幾分かの違いがありました。
それは具体的には、他の十二使徒たちや主の兄弟ヤコブ(イエスさまの血縁上の兄弟)やケファ(シモン・ペトロ)たちが妻帯しているのに対してパウロは独身を貫こうとしていることや、独身生活を勧めていたこと。あるいは十二使徒たちは、他の信徒からの献金によって生活をしていたのに対して、パウロやバルナバ(パウロを指導した人物)たちは、むしろ自分たちで生活費を稼いでいたことがありました。
パウロはここで、十二使徒たちが妻帯しているような権利、あるいは、自分たちが信徒の献金によって生活を立てるという権利(実際、パウロたちは自分で生活費を稼いでいた)において、十二使徒たちとパウロとの間に、何か決定的な違いがあるだろうか、ということをコリントの教会の人たちに対して弁明しています。
そして、そうした権利については、十二使徒たちと同様、自分たちにも結婚する権利や信徒の献金によって生活する権利をパウロたちも当然の事として持っているのだということを言うのです。
しかし、ここで、復活のイエスさまによって使徒とされたパウロにとって、そうした権利を自分も持っているが、しかし、あえてわたしは「結婚すること」や「信徒の献金で生活を立てること」を、信仰的な決断によって「自分は行使しないのだ」ということをこのところで主張するのです。
パウロはこの24節において、「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。」と語っています。
すなわち、イエス・キリストの御前において罪を告白し、洗礼を受けてキリスト者になったら、天国行が確定するのかと言えばそうではないことをパウロは言っているのです。
キリスト者は、一度、救いにあずかったのであれば、そこからが信仰生活のはじまりであって、それはまさに「賞を受けるまで」、すなわちわたしたちが地上での生涯を終えて天に凱旋するその時に、まさに天国の門を通過するまでは、キリスト者は決して罪の告白・罪の悔い改めを怠ってはならないというわけです。
その意味で、洗礼を受けてクリスチャンになることがわたしたちの目標ではないのです。
わたしたち人間の目標は、まさにわたしたちが地上における生涯を終えて天に凱旋する、その天国の門を通過するための地上の人生であり、そのための教会生活であるのです。
その意味で、教会生活も普段の信仰生活においても、弛まぬ罪の告白と罪の悔い改めが求められており、まさにパウロはそうした信仰生活をもってはじめて、天国の門を凱旋する可能性を手にすることができるのだということを言っているのです。
その意味で、わたしたちが礼拝を守るということは、まさに罪の告白と罪の悔い改めを行うということであり、罪の告白と罪の悔い改めが、礼拝において一人一人の内で行われるからこそ、その罪の赦しの喜びによって、わたしたちは主なる神を心から褒め称えることが可能になるのです。そして、そのように心から主を賛美することができるのです。
その意味で、礼拝の賛美は、まさに救われた喜びがその根源であって、音楽の発表会ではありません。また、宗教的カラオケでもありません。
そして、パウロは、まさに自分がそうしたことをコリントの教会の人たちに語る上で、自分自身がそうした信仰的な節制を行っていることを告白するのです。
なぜなら、パウロができないことをコリントの教会の人たちに命令しても、何の説得力もないからです。
それは、教会において牧師は、信徒の誰よりもそういう意味では、神の御前にへりくだり、神の御前において教会員の誰よりも聖書の御言葉に耳を傾け、イエス・キリストの言葉に聞き従い、そして自分自身の罪の告白をし、罪を悔い改める者でなければならないということであるのです。
口で言うだけで全く実践が伴わない牧師、すなわち神の御前において罪の告白と罪の悔い改めができない牧師は牧師失格ということです。
パウロは自分自身のことも含めて厳しく、「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。 」と告白している通りです。
そういう意味では、まさに教会が教会であるためには、牧師が牧師として、神と人との前において正しく罪の告白と罪の悔い改めができているかが重要だということです。
コリントの信徒への手紙1 10章12節、14節、15節、31~33節
12)だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
14)わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。
15)わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。
31)だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
32)ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。
33)わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから。
パウロは「サタンの誘惑」というものは教会の外にもあるけれども、むしろ「教会の中」、また「クリスチャン同士の間」にも「サタンの誘惑」があるのだということを教えています。
それは「立っていると思う者」とあるように、すなわち、「自分は信仰によって救われている」というふうに考える信仰者の心の油断が、まさに危険であることを言っているのです。
信仰者でない者が信仰でつまづくことはなく、むしろ信仰者こそが信仰でつまづくのです。
そして、そうした教会の中において、あるいは教会員同士の間にあって注意すべきつまづきが、ここで言われている「偶像礼拝」なのです。
ここでいう「偶像」とは、いわゆる「木彫りの像」などではなく、むしろ教会においては「教会成長」や「献金倍増」、「信徒獲得」といったような、「この世的な繁栄を教会にもたらすもの」であったり、あるいはパウロがその次の節において指摘しているように、「クリスチャン一人一人の思考力を奪うもの」であったりするのです。
パウロは信仰とは、まさに聖書の御言葉に基づき、その御言葉を通じて示されるイエス・キリストの言葉に聞き従うことによって、わたしたちに与えられる「何が罪であるか」を見抜く思考力であることを言っています。
ところが、昨今のいろいろな教会の不祥事などを見ると共通して見えてくるのが、信徒に対する一種のマインドコントロールであって、それは第一義は「牧師の指導者としての罪を隠すため」であり、第二義は「教会の不祥事が問題となって、教会の不評をまねくことを隠すため」であるのです。
本来、キリスト教の救いが罪の告白と悔い改めであることから考えれば、そうした大きな不祥事になる前に、罪の告白と罪の悔い改めが教会の中で行われるので、たとえ間違いが起こったとしても大きな不祥事まで発展することは少ないのです。
むしろ、牧師も人間であり、教会員一人一人も皆等しく人間であるなら、教会の中にそうした間違いが常に起こることを想定して、いざそうした間違いが起こった場合には、教会の中で、速やかに罪の告白と罪の悔い改めがなされるなら、教会はまさにイエス・キリストの体なる教会として、常に神の御前に正しくあることができるのです。
ところが、多くの教会では、そうした罪の告白や罪の悔い改めが軽視され、むしろ人間的な、この世的な繁栄が求められることから、まさに「常勝思考」が教会の拠って立つ基本になってしまうのです。
そして、いったんそうした常勝思考の教会になってしまったら、教会の中での「失敗/敗北」は一切許されないことになるので、たとえそうした失敗が起こったとしても、「そうした事実はありませんでした」というような形に流れてしまうのです。
たとえ牧師の個人的な失敗であったとしても、しかし、そうしたことは牧師個人に留まりません。牧師が常に教会の看板である限りにおいて、牧師の失敗を教会(役員会など)が隠そうとする例は枚挙にいとまがありません。
そういう意味で、パウロはコリントの教会の人たちに対して、自分たちの喜びのためではなく、全ての人に対して、人を惑わすことのないように、すなわち、教会は常に、神とそうした多くの人たちの前において、自分たちの過ちを認め、過ちを悔い改めるという、神の御前における真実をもって歩むことが大切であることをパウロは言うのです。
教会がその地域に対してそうした責任ある態度を取り続けることが、教会がその地域に対して教会であるための必要条件であるのです。そして、一旦間違いが起こった場合には、社会的責任を取るという決断をも教会は覚悟しなければならないのです。
だからこそ、日々における例えどんなに小さな、軽微な罪であったとしても、その罪が告白され、罪の悔い改めがなされることが大切なのです。
そうした小さな罪に対して誠実に対応でない牧師や教会、あるいは信徒が、それよりも大きな罪に対して誠実な態度を取ることは不可能です。罪の告白と罪の悔い改めとは、まさに毎日の信仰生活によって養われる信仰の力なのです。私自身自戒しつつ。
パウロは「サタンの誘惑」というものは教会の外にもあるけれども、むしろ「教会の中」、また「クリスチャン同士の間」にも「サタンの誘惑」があるのだということを教えています。
それは「立っていると思う者」とあるように、すなわち、「自分は信仰によって救われている」というふうに考える信仰者の心の油断が、まさに危険であることを言っているのです。
信仰者でない者が信仰でつまづくことはなく、むしろ信仰者こそが信仰でつまづくのです。
そして、そうした教会の中において、あるいは教会員同士の間にあって注意すべきつまづきが、ここで言われている「偶像礼拝」なのです。
ここでいう「偶像」とは、いわゆる「木彫りの像」などではなく、むしろ教会においては「教会成長」や「献金倍増」、「信徒獲得」といったような、「この世的な繁栄を教会にもたらすもの」であったり、あるいはパウロがその次の節において指摘しているように、「クリスチャン一人一人の思考力を奪うもの」であったりするのです。
パウロは信仰とは、まさに聖書の御言葉に基づき、その御言葉を通じて示されるイエス・キリストの言葉に聞き従うことによって、わたしたちに与えられる「何が罪であるか」を見抜く思考力であることを言っています。
ところが、昨今のいろいろな教会の不祥事などを見ると共通して見えてくるのが、信徒に対する一種のマインドコントロールであって、それは第一義は「牧師の指導者としての罪を隠すため」であり、第二義は「教会の不祥事が問題となって、教会の不評をまねくことを隠すため」であるのです。
本来、キリスト教の救いが罪の告白と悔い改めであることから考えれば、そうした大きな不祥事になる前に、罪の告白と罪の悔い改めが教会の中で行われるので、たとえ間違いが起こったとしても大きな不祥事まで発展することは少ないのです。
むしろ、牧師も人間であり、教会員一人一人も皆等しく人間であるなら、教会の中にそうした間違いが常に起こることを想定して、いざそうした間違いが起こった場合には、教会の中で、速やかに罪の告白と罪の悔い改めがなされるなら、教会はまさにイエス・キリストの体なる教会として、常に神の御前に正しくあることができるのです。
ところが、多くの教会では、そうした罪の告白や罪の悔い改めが軽視され、むしろ人間的な、この世的な繁栄が求められることから、まさに「常勝思考」が教会の拠って立つ基本になってしまうのです。
そして、いったんそうした常勝思考の教会になってしまったら、教会の中での「失敗/敗北」は一切許されないことになるので、たとえそうした失敗が起こったとしても、「そうした事実はありませんでした」というような形に流れてしまうのです。
たとえ牧師の個人的な失敗であったとしても、しかし、そうしたことは牧師個人に留まりません。牧師が常に教会の看板である限りにおいて、牧師の失敗を教会(役員会など)が隠そうとする例は枚挙にいとまがありません。
そういう意味で、パウロはコリントの教会の人たちに対して、自分たちの喜びのためではなく、全ての人に対して、人を惑わすことのないように、すなわち、教会は常に、神とそうした多くの人たちの前において、自分たちの過ちを認め、過ちを悔い改めるという、神の御前における真実をもって歩むことが大切であることをパウロは言うのです。
教会がその地域に対してそうした責任ある態度を取り続けることが、教会がその地域に対して教会であるための必要条件であるのです。そして、一旦間違いが起こった場合には、社会的責任を取るという決断をも教会は覚悟しなければならないのです。
だからこそ、日々における例えどんなに小さな、軽微な罪であったとしても、その罪が告白され、罪の悔い改めがなされることが大切なのです。
そうした小さな罪に対して誠実に対応でない牧師や教会、あるいは信徒が、それよりも大きな罪に対して誠実な態度を取ることは不可能です。罪の告白と罪の悔い改めとは、まさに毎日の信仰生活によって養われる信仰の力なのです。私自身自戒しつつ。